猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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高校受験「2か月で大逆転する方法」
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    「高校受験・2か月で大逆転する方法」というタイトル、自分で書いておきながら極めてあざとく、怪しい勉強法本によくあるパターンで、私のスタンスとは逆行したタイトルである。

    良心的な塾の先生から、お叱りを受けても仕方ない。

     

    私は現実主義者で、本来なら、直前の大逆転など難しいと考えている。いままで遊んでおきながら、最後だけ勉強して合格するのは虫が良すぎる、甘い、とすら思っている。

    よく中3の冬休みに「いまからでも間に合う!」とチラシで宣伝している塾があるが、数か月で大逆転できるのはレアケースである。

    ましてや内申点が低く絶望的だと合格はほぼ困難である。本番の試験を競泳にたとえると、内申点が低い受験生は、背中に20圓留瑤里もりを背負って泳ぐくらいのハンディがある。

    公立高校受験は内申点がつきまとう。高校受験より大学受験の方が「奇跡」がおきやすいのは、大学の一般入試は内申点が不要で、本番一発で判断されるからである。

    高校受験は、たった2か月で間に合わないと考えるのが、常識的な判断だ。

     

    まともな責任感が強い塾では、高校受験わずか2か月前に、中3生を受け入れたりはしない。塾側では昔から自分を信じて通ってくれる塾生の結果で頭がいっぱいで、新人の面倒を見ている余裕なんかない。

    いままで遊んできた子がガチガチの進学塾に入れば、学力意識ともに決定的な差があり、正直、塾側としたら足手まといで、新しく入塾した子の側からしても、ついていけなくて居場所がない。

    塾で長年がんばってきた子は、もともと勉強意識が高く潜在能力がある子が多い。才能あるキリギリスがアリのように勉強してきた。そんな厳粛な場へ直前に遊び人が駆け込んできても場違いで勝負にならないのである。

     

    ただ、夏休み以降に成績が伸びて、ギリギリの段階で志望校のレベルを上げる決意をした中3生なら、話は別である。模試の偏差値が2か月で60から65に伸びた、いままでの志望校の合格偏差値は62。ならば偏差値68の地域最難関高校をめざしたくなった。こういう場合なら、勢いを最終2か月で加速させることが可能だ。たった2か月で偏差値を5も上げた昇り調子の受験生なら「いまからでも間に合う!」可能性はあるのである。

     

    また、公立高校は各都道府県で難易度が違う。それぞれに地域事情がある。私の塾がある広島県の公立は、他の都道府県の公立と比べて合格は難しくない。愛知県や福岡県や神奈川県のような偏差値70近い難関公立高校は、広島県にはない。基町や尾道北でも偏差値60はいかない。難関公立でも定員割れの高校があるくらいである。

    だから内申点さえ足を引っ張っていなければ、やり方次第では「いける」可能性があるのだ。内申点が少々悪くても、逆転の余地はある。

     

    さて、これから広島県の、偏差値55くらいの公立高校合格に向け、大逆転するには何をどのように勉強をすればいいのか考察する。高校受験の突貫工事をどうすればいいか?

     

    ■数学は関数に絞る

    試験に出る確率が高い分野を重点的にやり、そうでないものはやらない徹底的な割り切りが、直前には大事だ。

    ただ、理科社会はヤマを張りにくい。各分野まんべんなく出題されるので、「ここが出る!」と直前に断定するのは避けたい。出そうな分野をチョイスして重点的にやるより、すべての分野をくまなく押さえておきたい。ルーレットの一点賭けは怖いのである。

    よく大手塾が「予想問題的中」とあるのは、中学3年間の膨大な量のテキストやテストを配布していれば何かが当たるわけで、ノストラダムスの大予言みたいなものであてにはならない。

     

    しかし、数学は予測が立てやすい。

    広島県の数学は、関数が大きな配点を占める。配点の3分の1は関数だ。関数が出ない年はない。これは全国的傾向でもある。というか、関数抜きでは数学の問題が作れないのである。

    関数はいったんコツを知ったらコンスタントな得点源になる。逆に、図形は難問にぶつかったら解法がひらめかずお手上げだし、証明問題は配点が少ないので労力の割には得点に結びつかない。2か月というタイムリミットを考えれば、一番出題され、慣れたら確実に点が取れる関数に勉強の比重をおくのは必然といえよう。

     

    関数が苦手な受験生はまず、塾のテキストや学校の教科書を復習するべきだ。新しいテキストに手を出してはならない。直前に浮気は禁物だ。

    一度やった教科書やテキストには、どれだけ過去に授業を受けたとき真剣に聞かなかったとしても、記憶の残滓くらいは残っている。教科書やテキストを引っ張り出して復習するのが最優先だ。新しいテキストは一番風呂のように体になじまない。

    あと一次関数・二次関数だけでなく、中1で習った反比例を忘れてはならない。反比例は意外にウイークポイントで、双曲線のグラフに苦手意識を持っている受験生は多い。反比例は死角になりやすいので気を配りたい。

    また、関数の難問には相似が絡む。グラフ内の面積比を求める問題は相似の知識が必要だ。関数と相似を同時並行で基礎を押さえるべきだ。

     

    基礎力がついたと判断したら、過去問に徹底的に当たる。広島県の過去問だけでなく、旺文社の「全国高校入試問題正解・数学」を買い、関数の問題に片端から当たってみる。

    ここで注意してほしいのは、絶対に過去問は新しい方がいい。古くさい市販の問題集は使ってはならない。強い効果があるのは過去3年の新しい過去問に限る。

    野菜と同じで過去問は新鮮なほどおいしく、ウサギの飼育小屋に散らばるキャベツの屑のような古い問題を解いても効果は薄い。関数は絶対出題される分野だが、絶対出題されるからこそ出題者は頭を使い、入試問題は年々進化している。新しい過去問を解けば、既存の問題とは思ってもいない角度から突いてくるのがわかる。古い過去問は結構あちこちで使い回しされていて、惰性で解けてしまうのだ。

    本番の入試問題はパリパリの新作である。どんなアプローチで問われても対応できるよう、新作慣れする目的で新しい過去問を解きまくるのだ。

     

    関数を勉強すると意外な副作用がある。それは、頭の中が整理整頓されることだ。関数とは段取りの学問で、一つ一つ適切な段取りを重ねていけば解ける。これは数学の他の分野、また他教科にも波及する。関数が高校受験で配点が高いのは、高校側が整理整頓された論理的な思考ができる受験生を入学させたいという意思の表れでもある。

     

    とにかく、出ても配点が少ない分野に時間をかける、無駄な勉強は絶対避けたい。

    広島県では二次方程式の文章題は配点が少なく、三平方の定理を使う空間図形は出ない。確実に出題され配点が高く、また得点が安定しやすい関数に時間をかけるのが直前の鉄則である。

     

    ■社会は過去問の解答を暗記

    直前になると社会の一問一答集が売れるそうだが、公立高校狙うのに一問一答暗記するのは、まったくばかげた勉強法である。

    また図書館で、直前にノートを綺麗にまとめる受験生を見かけるが、これは完全に無駄な勉強だ。ノートまとめは平時には効果的だが、戦時にやることではない。ノートまとめなんかしていたら時間との闘いの敗者になる。

     

    広島県の公立高校の社会の解答を見てほしい。

     

    IMG_4237.jpg

     

    記述式の、まとまった文章を書かせる問題がほとんどではないか。用語を問う問題は少ない。用語集暗記が時間の無駄であることは一目瞭然だ。

     

    社会は暗記教科と言われ、直前でも対策が立てられると思われている。他教科に比べ、直前で追い込みやすいのは確かだ。

    「暗記教科」という言葉には、暗記ならできるという、暗記を甘く見る意識が底にある。複雑なことを理解するよりも、暗記の方が楽だという意識が横たわっている。ということなら社会科は、「楽な」暗記に徹する方が、直前の正しい勉強法なのではないか。

     

    私も社会は暗記で点が伸びると考えている。ただし断片的な用語を暗記しても意味はない。記述問題の解答文を丸暗記するのだ。

    各都道府県の記述問題の解答文暗記、これが直前に最も効果がある勉強法だ。

     

    使用するのは旺文社の「全国高校入試問題正解・社会」。最新版だけだと足りないので、過去3年分はほしい。

    まず記述式の問題だけピックアップする。記述式の問題は自分で解かない。量をこなすのが目的なので、自分で頭をひねって書く時間はない。問題読んで解答のイメージを浮かべたら、すぐ正解を見る。47都道府県すべての記述式問題に目を通すのだ。正解を読みながら解答文のインプットを心掛け、頭に入りきれないものは書いて覚える。一言一句丸暗記する緻密さはいらない。雑でいい。

     

    記憶作業を続けるうちに、どの都道府県も出題されるトピックが似通っていることに気づく。同じような問題が全国の公立高校で出題されている。

    さらに社会は、表やグラフを読み取る問題が非常に多い。読み取り問題ではあらかじめ暗記した知識はいらない。表やグラフを見た素直な感想を、簡潔な文章を書けばいい。「〜が増えれば〜が減った」「〜が上がれば〜が下がった」と対比で書けば綺麗な答案が書ける。

     

    記述式の正解暗記は付け焼刃のように見えるが、邪道ではない。

    記述問題は出題者が教科書から選び抜いた、中学生に一番学んでもらいたい最重要事項エッセンスだ。教科書だけ満遍なく読んでも、初心者にはどこがコアなのかわからない。教科書の記述のどこが重要で、どこが重要でないか区別できない。公立高校社会の入試問題は、ゴマのエッセンスを小さな錠剤に詰めた、セサミンのようなものだ。

     

    記述式の問題に接していくうちに、中3生は社会科の本質を知るようになる。高校では用語を丸暗記しかできない受験生はいらない。社会の構成の因果関係をストーリーとして知る、言い換えれば高校の先生と現代の社会を取り巻く問題点について語れる高校生がほしいのだ。記述問題の丸暗記は単なる暗記ではない。社会科という中学校の教科を、生きた社会に昇華させるための、質の高い読書である。

     

    よく「本番に強い」という言葉が使われる。本番に強い受験生は、過去問に多く接し、過去問のコアな部分を感じ取る感性がある受験生である。枝葉末節は大胆に捨て、幹の部分だけおさえる。社会で直前に記述式だけにこだわる勉強は、まさに社会科の心臓をわしづかみにする勉強法である。

    この勉強法は、理科でも通用する。また英語の自由英作文でも、全国都道府県の模範解答を暗記すれば、英文の型を身につけることができる。

     

    ■英語・マンツーマンで英文和訳

    断言する。英語は一人では這い上がれない。英語の力を入試に耐えるまで底上げするには、マンツーマンで鍛えなければならない。集団塾のワンオブゼムで伸びるわけがない。

    説教口調で申し訳ないが、英語が苦手なのは「素直じゃなくて、だらしない」からである。英語は指導者の言葉を信じ、言語体系を脳に埋め込む素直な頭脳を持ち、毎日淡々と勉強時間を取らねば上達しない。英語は頭脳のキレより継続力がモノをいう科目である。

    英語学習は筋トレに似ている。英語を2か月で志望校の合格レベルまで伸ばすのは、絞ればへそから白いラードが出てきそうな太った腹を、腹筋が割れた筋骨隆々とした身体に変えることである。

     

    英語を短期間で上げるには、厳しい指導者と1対1で対峙し、「素直じゃなくて、だらしない」自分を変える覚悟がいる。私はマンツーマンで、英文読解を一文ずつ丁寧に訳させる方法を取ってきた。

    この動詞は過去形か過去分詞形か、この~ingは現在分詞か動名詞か、この不定詞の用法は名詞的か形容詞的か副詞的か、この代名詞itやthemは何を指すか、このthatは関係詞か接続詞か代名詞か、細かいことを一つ一つ尋ね、理解が浅い文法事項はその都度解説する。

    また、知らない単語が出てきたらすぐ意味を教えるのではなく、意味が閃くまで追い詰める。こんな相撲のぶつかり稽古みたいな逃げ場がない勉強を長時間続けてこそ、英語に開眼するのである。

     

    私は英語がピンチか、あるいはより高いレベルまで短期で伸ばす必要性に迫られた時には、男の子は頭を坊主にさせ鍛えている。覚悟を形で示させる。受験まで1日5~6時間ぶっ続けで英文解釈。英文を一文ずつ訳させる地味な作業。頭を丸めて英文を暗唱する姿はまるで修行僧だ。

    時代錯誤かもしれないが、耐えながら勉強し結果が出た時の自己肯定感は半端じゃなく、自信がなかった「僕でいいのかな」という弱気な顔つきが「俺がいなくちゃだめだ」という自信に満ちたものになる。英語力に加え人格力が加わり、打たれ強さも鍛えられる。逆境から這い上がれば、同年代の若者に比べて強く凛々しくなり、厳しく鍛えられた子は各方面で活躍している。

    試験直前の逆境を利用して私は、英語力だけでなく、時代を超越した普遍的な人格力を上げようと企んでいるのである。

     

    直前で追い上げるには、勉強中毒にならなければならない。concentrateどころではなくaddictするレベル、たとえば高校駅伝の強豪校・佐久長聖は全寮制で、漫画も携帯もテレビも禁止で、唯一の娯楽が陸上雑誌だという。陸上雑誌で全国のライバルの記録を見て、闘志を奮い立たせているのだ。記録を伸ばすことだけに集中し、邪念を振り払わないと奇跡は起こらない。

     

    直前の追い上げで忘れてならないのは、自分だけが頑張っているわけではないということだ。良心的な塾では朝から晩まで勉強会をやり、1月2月に合宿をやる塾もある。生半可なことでは追い越せない。勉強は自分との戦いだというが、直前の3か月は他の受験生との競争になる。自分だけではなく、ライバルに勝たねばならない。

    また、志望校合格が99%絶対に大丈夫と太鼓判を押されている受験生ほど焦る。もし落ちたらどうしよう、不安で一心不乱に勉強する。なぜかトップクラスの子は、直前に脅迫観念が取りつきやすいのだ。強者が焦っているのに、弱者がのんびり構えていたらダメなのである。

     

    ----------------------

    最後は精神論のようになってしまったが、直前2か月で大逆転したいのなら、過去問と相談しながら、無駄な勉強はしないこと、本質を突くこと、そして勉強中毒になることである。

    直前だからこそ邪道は通用しない。正攻法あるのみである。

     

     

    | 硬派な教育論 | 17:23 | - | - | ↑PAGE TOP
    内申点に物申す
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      公立高校の一般入試は、中33学期の学科試験と、中学校の先生が高校に送る内申点のドッキング判定で合否が決定する。一発勝負と日常の蓄積、両方の要素が試される。

       

      各都道府県で差はあるが、学科試験と内申点の比率はほぼ1対1で、また内申点の内訳は各学校や先生の方針で幅があるが、平均すると定期試験の点数が6割、授業態度や提出物が4割くらいである。

      ということは、授業態度や提出物などの平常点が、高校合格に必要な点数の4分の1弱を占めることになる。これは大きい。

       

      平常点を加味した判定方法は、不公平といえば不公平である。

      授業態度の良否判断は正直、学校の先生の主観が大きい。入試はスポーツのようにフェアな競争であるべきで、ここに特定個人の主観が入れば不公平だ。

      学区の先生には好き嫌いの激しい人もいて、好意を持つ子には点が甘く、生意気な子には点が辛い。上沼恵美子が担当の先生だったら怖い。平常点の重視は、学校の先生が子供の生殺与奪の権を握っているみたいで、良い気はしない。

       

      塾側の本音を言わせてもらえば、定期試験で高得点取っているのに、通知表の評価が低ければ腹が立つ。

      中間期末テストでは各教科90点前後を取っているのに、学校の先生から受けが悪く、5段階で4とか3とかつけられている子がいると、どうしたものかと思う。悪い評価をした学校の先生、テストでいい点取るのに詰めが甘い生徒、うまく指導できない塾講師の自分の三方に対して腹が立つ。

       

      また評価は秘密のベールに包まれていて、どうして中間期末試験が良いのに、通知表がパッとしないのか担任に保護者が尋ねてみても、「総合的判断」と言い訳されると二の句がつけられずお手上げなのである。

      提出物を出していない、授業態度が悪いとかの理由で3とか4をつけられると、中堅校はともかく難関校合格には大きく足を引っ張られ、内申点で涙を呑むケースも多い。

       

      内申点から平常点を抜き、いや内申点すらなくして、大学受験みたいに学科試験一本勝負にした方が基準がわかりやすく、フェアだ。

      スポーツの大会で、ふだんの練習態度が悪いからと減点されることなど、ありえない。公立高校入試は、そんなあり得ない評価が横行している。

       

      だけど、ここ10年くらいで、私の考えは大きく変わった。

      私も30代までは内申点廃止派だった。内申点は、指導力が欠如した学校の先生が、子供を縛るシステムだと考えていた。

      だが40歳超えてから、あることに気づいた。

      内申点が良い子は、就職試験に強いのだ。

      テストの点数は良くても、生意気な口をたたいたり、斜に構えていたり、発言にどこかイラっとした部分があったり、コミュ障の子は、総じて就職試験で高く評価されていない。

       

      逆に中学時代、努力しても中間期末であまり点数が取れない。無器用だが可愛げがあり、提出物も丁寧にこなす。誰からも愛され、私から見ても「この子には絶対、世間から評価される人生を送ってほしい」と祈りたくなる子、そんな子は、通知表で本来の点数より12点加算され、就活では大企業の内定を稼ぎまくる。テストの点だけでない「総合的評価」が、就活に直結する。そんなケースを長年塾講師をやっていて幾度となく経験していると、内申点の奥深さを感じるのである。

      内申点をないがしろにしてはならないのだ。

       

      塾ではテストの点数だけでなく、生活態度の改善も求められている。知育だけでなく徳育の領域まで指導しなければ、偏った人間が生まれてしまう。

      内申点を上げることは徳育、言葉を変えるなら「嫌な人との付き合い方」を学ぶことである。

      特に提出物を出さない子は、大人をなめている。内申点では提出物が最重要視される。提出物を遅れて出し、ましてや出さないと評価は大幅に下がる。

      提出物を出さない、またいい加減にこなすことは、先生に対する人格批判ととらえられても仕方がない。社会に出て上司に与えられた課題をサボれば、何らかのペナルティがあるのが必然だ。

       

      おまけに学校の先生の中には、塾を嫌う人もいる。勉強は塾でやっているからと学校の授業の態度が悪く、学校の提出物はないがしろにする子に対しては、怨念が通知表に反映する。特に相対評価で、真面目に提出物を出す子に甘くなり、雑な子の点数が低くなるのは自然な感情である。学校の先生は、提出物を出さない子を、自分に対して誠意がないと判断するのである。この判断は正しい。

      だから塾では、提出物の指導が絶対に欠かせない。提出物は指導の生命線である。

       

      だが、十代の反抗心が強い若者にとって、内申点は邪悪なものである。

      私が中学生なら、私に悪く通知表で評価した学校の先生に対して、こう強く反発する。

       

      「どうしてアンタに俺の評価ができるのか、徳がない奴に徳育する資格があるのか。提出物なんて勉強の経過を見る代物で、テストの点数という結果だけで評価してほしい。真面目ぶって結果出さない奴より、結果出す人間の方が、実は真面目ってことじゃないか。

      内申点って、弱い大人が子供を支配する凶器だ。人格的魅力で引き付けるんじゃなくて、内申点で縛りつけることしかできない馬鹿な大人たち。そんなくだらない大人から良い子扱いされると反吐が出る。

      俺の実力を大学受験で見せたい。大学受験こそ、大人に媚びない実力主義のフェアな世界さ。学校教師が俺を認めないなら、凄い大学入って認めさせてやる。お前は俺を評価しなかったけど大学は俺を評価した、俺に対する低評価を後悔させてやる。ほえづらかくなよ」

       

      若者の中には、学校の支配から卒業するのに、盗んだバイクで走り出すような馬鹿な真似はせず、狂気のように勉強して知識を身につけ、大学に入り早く自由になりたいと、大人に対する敵対心をパワーを勉強に向ける者だっているのだ。

       

      だが、50代の中年男性の老婆心から言わせてもらえば、「知」だけで世の中を渡るのはリスクが大きい。特に成績トップクラスの公立中学生は、すごい同級生が身近にいないから、お山の大将になりがちだ。

      難関中学にはとんでもない化け物がいる。漱石は「知に働けば角が立つ」と言ったが、小5で英検2級とり、あるいは中3で中国語の読み書きができる難関中学の天才に対して「知で戦えば殺される」のである。「知」による実力だけで戦うのは、あまりにも無防備だ。

       

      「知」の実力がものをいう、お笑い芸人の世界ですら、芸の凄さに加え「好き嫌い」が人気を左右している。

      内申点が良さそうな芸人の代表がサンドウィッチマンで、内申点がいかにも低そうなのが品川祐である。

      品川祐は頭が切れる人で、アドリブ力がすごい。だが、話が他の芸人に対して高圧的な面があり、また嘘か本当かは知らないが、若手時代に番組のADに偉そうにしていたそうで、ADがディレクターやプロデューサーに出世した現在、「品川だけは使わない」と過去を根に持っているから仕事が来ないと、品川自身が自虐的に話していた。品川は私の好きな芸人だが、知性を露出させて損をしている。

       

      逆にサンドウィッチマンは好感度NO1芸人で、伊達と富沢は売れてからも仲良く、敵を作らない芸風に人柄がにじみ出て、また東北被災地への援助など、いかにも「内申点が良さそうな」活動を続けている。

      M-1グランプリの審査員だったサンドウィッチマンの富沢は、審査に人間味を重視していた。漫才には演者の人間性がにじみでていなければダメだと。

      富沢の審査コメントには、人間性を向上させてきた、サンドウィッチマンの「したたかさ」を語っている。

      富沢は高校時代内申点が良いどころか、ツッパリだった。だが30代前半まで売れなくて、その時の苦労が才気だけでは勝てない、勝つには人間性で勝負するしかないという結論に至ったのだと私は推測する。芸のキレと人間性の二刀流でないとブレイクしない。サンドウイッチマンのスタンスは、若い時から才能だけで売れた芸人とは一線を画す。

       

      私も塾講師として、教え子の内申点が低ければ、好感度を上げれば生き方が楽になるし、同時に好感度を上げる知恵を与え、嫌な先生がいれば反抗するのではなく、逆に先生を手玉に取る「したかかさ」を身につけてほしいと考えている。

      また天性の可愛げに自信がなければ、世の中を渡る武器として、律義さを定着させるのが大事だ。律儀な人間になるためには、提出物をきちんと出すこと。提出物の指導は律儀な人間を育てる第一歩である。

      信長みたいなエキセントリックな人材は天性だが、家康のような律儀で堪える人材は教育の力で生み出せる。教え子を好感度が高い人材に育てたい。決して「おしゃべりクソ野郎」とは世間に呼ばせたくないのである。

      好感度でワースト1位でも、圧倒的実力でお笑い界に君臨する、天才・松本人志をめざしてはならない。

       

       

       

       

       

       

      | 硬派な教育論 | 19:38 | - | - | ↑PAGE TOP
      将来勉強が伸びる子の見分け方
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        広島カープは貧乏球団と呼ばれる。

        親会社を持たないカープは、他球団のように資金を親会社に補填してもらえない。資金力がないため、逆指名時代は有名な新人が取れず、また現在でもFAで他球団の力のある選手が獲得できず、逆にFAで生え抜きのスター選手がライバル球団に移籍してしまう。

        そんな資金力で圧倒的に不利な状態なカープがセリーグで3連覇を成し遂げたのは、無名の新人を見抜くスカウトの力と猛練習である。

        スカウトは無名で、まだ身体が細いが才能が眠っている高校生や大学生を、鵜の目鷹の目で全国駆けずり回って探す。その様子がNHK「プロフェッショナル」で紹介された。噂で良い選手がいると聞くとすぐに駆け付け、プロのレベルにまで育つ才能があるか選手を観察する。そして惚れた選手に出会うと何度でも通う。スカウトに熱愛されて獲得した選手の一人に、あの黒田博樹もいる。

         

        将来伸びる選手か見分けるポイントは、技術的な面のほかに、厳しい練習に耐える体力と精神力。また一流に育つ選手は持って生まれたオーラがあるという。黒田は大学時代から後姿がカッコ良かったらしい。

        ジャニーズでも、社長のジャニー喜多川は、10代の男の子を見て、将来スターになるか判断する目を持つ。ジャニー氏は、若い男の子が持つフェロモンを的確に見抜く感性があるのだ。その感性で郷ひろみ・田原俊彦・本木雅弘・東山紀之・諸星克己・木村拓哉・亀梨和也・櫻井翔・岡田准一などスターを発掘してきた。

         

        勉強の才能があり、将来難関大学に入りそうな子も、長年塾講師を続けた人間なら、中1段階で1週間も観察していればわかる。中学から本格的に塾通いを始める中学1年生は、中学受験経験者に比べて不器用な面はあるが、将来有望な原石が眠っている。ほんの些細なしぐさや行動で、将来をある程度予言することが可能だ。

        私は講師生活30年、多くの塾生に接し、どんな子が伸びるかこの目で見てきた。まだ海のものとも山のものともわからぬ中1時代、勉強で成功してきた子がどんなサインを発していたか、どんなタイプの子が伸びてきたか紹介しよう。

         

        ■授業終了後も、納得するまで勉強続ける子

        授業では解説のあとに演習、つまり生徒に問題を解かせる。答え合わせも各自で行う。演習して答え合わせをする過程で、「わかる」から「できる」段階へ知識が身体化する大事な作業だ。

        そして授業後の演習、または試験直前の勉強会の終了時に、私が「今日は終わりです」と告げる。そこで「やっと終わった」とばかり、一目散にカバンに教材ノート筆記用具をしまう子は、まず成績が伸びない。

        終了の合図とともに勉強を終える子は、ただ勉強を機械的にこなす「やらされる」勉強しかしていない。学力を伸ばすために勉強をしてない。ただ義務でやっているだけ。授業終了合図後の一瞬で、悲しいかな意識の低さを暴露してしまう。

         

        逆に、きりがいいところまで終わらせ、答え合わせをしてから帰る子は十中八九伸びる。終了の合図後もキリがいいまでやり遂げる子は、「できる」レベルに達するために勉強している。勉強とは力をつけるためにやるものだという、勉強の目的を見失っていない。

        この授業終了合図後のささいな一瞬で、子供の将来が読めてしまうのだ。相撲も勉強も土俵際が大事。土俵際で粘る子は関取をめざせる。

         

        ■雑談に食いつく子

        落語家や講談師の本音を聞くと、やはり笑わない客は嫌いらしい。寄席常連の中年男性が、値踏みするように仏頂面で腕組みして聞く姿を高座から眺めていると、演者はかなり気になるという。時にはその客を笑わせようと勝負を仕掛けることもあるらしい。

        授業もそうで、笑わない子を苦手にする塾講師は多い。私もそうで、笑わない子に対して、あれこれ思うところはある。若い先生は特に、笑わず表情が硬い子がいると、授業がうまくいかなかったと落ち込みやすい。

         

        塾では講義にアクセントをつけ、面白い話で生きた教養を深めるため雑談をする。入試直前の切羽詰まった時期を除き、雑談のない授業はしない。まくらやくすぐりのない落語が若い人に敬遠されるように、雑談は授業を構成する大きな要素だ。

        雑談といっても、本筋とは付かず離れずの雑談が多い。難関大学の入試問題を見ると、知的好奇心を試す問題がほとんどで、教科書の本筋だけ学んでいても解けない。雑談は教科書テキストの内容から脇道に逸らすのではなく、深化させるためにするのである。もちろん雑談のために読書は欠かせない。雑談は難関大学の入試に対応できる知的好奇心を鍛えるための、私なりの企みなのである。

        教科書の骨に、雑談で肉付けをしなければ授業は成り立たない。根性論で骨だけ食べさせる授業は面白くも何ともない。

         

        勉強が伸びる子は、雑談に食いつく。笑う。雑談を楽しめるのは知的好奇心が強い証拠だ。時にはチコちゃんみたいな鋭い質問も浴びせてくる。答えられない時もある。そんな時は知ったかぶりせず、「ボーっと生きてんじゃねえよ」と内心の声におびえながらネットで調べる。質問で講師を困らせるのも伸びる子の特徴だ。

         

        伸びる子は勉強時間以外の日常生活からも、さまざまなことを吸収する。24時間アンテナを張っている。ユーミンではないが「目に映るすべてのことがメッセージ」なのである。

        逆に勉強が伸びない子の中には、雑談になると興味を失う子がいる。聞くアンテナがオフオードになる子がいるのだ。お前の雑談がつまらないからだと言われたらそれまでだが、雑談中に笑わず仏頂面している子で、国公立や難関私立大学に合格した子は極めて少ない。

        勉強の世界で「笑う門には福来る」は真実だ。

         

        ■説教を真正面から聞く子

        1対1で説教するとき、私は子供を真正面に座らせ、病院の診察室みたいに対面する。

        勉強の成績が上がる子は、説教したら背筋を伸ばして聴く。顔は紅潮し身体は硬直し、手のひらは膝の上にのせて、100%聞き逃すまいとする。私の言葉が佳境に入れば、熟した果実から果汁が滴るように、眼からは涙が流れ落ちる。

        逆に伸びない子は斜に構える。体がゆがみ真正面から聞いていない。話の区切りで席を立つ素振りを見せる。被害者意識が抜けない。叱られ慣れていないか、講師と生徒の間の人間関係ができていないか、どちらかであろう。

        とにかく、性格が素直かどうかは、説教という極限状態でこそ判別できる。

         

        勉強は、真っ白なキャンパスのような心構えの子が伸びる。特に語学は「どうか僕のキャンパスに先生の好きな絵を描いてください」という、丸投げ精神が必要なのだ。

        逆にキャンパスが我流の変な絵で埋め尽くされている子、反抗と懐疑と頑固で埋め尽くされている子は、人間的魅力や押しの強さはあるが、成績の伸びという観点からすれば不利である。

        勉強が伸びるには、素直さが絶対条件である。

         

        ■気が弱いビビり屋

        素直とは、気が弱いということである。

        素直さは、子供が怖い大人から身を守る盾である。

        たとえば成績を伸ばすには、宿題を必ずこなし、小テストで良い点を取り続けなければならない。日常の小さな伸びが大輪の花を咲かせる。

        宿題をコンスタントに続ける動機には、「やってなければ怒られる」という理由があるのは否定できない。宿題やらなければ恐ろしい目にあう、そんな恐怖心が強いほど、勉強時間が増え学力がつく。神経が太い子よりビビリ屋の方が、コンスタントな勉強に対するインセンティブが強い。

         

        これは、たとえば物書きが締め切りを怖がるのと同じ心理だ。物書きには締め切りに遅れたら業界に干されるのではないかという潜在的恐怖がある。締め切りに追われるうちに書く量が増え、筆力も上がる。

        締め切りなんて遅れても構わない、宿題なんかやらなくてもいい、そんな図太い神経の子は豪放磊落で面白いが、成績の伸びという点に関しては後れを取らざるを得ない。

         

        真面目で素直な子は、基本的に気が弱い。気が弱いと危機察知能力が高くなる。他人が叱られていても自分が叱られたように感じ、他人の愚かな言動を他山の石とする。どうやったら叱られないか、怒りの照準が自分に向かわないように気をつかう。官僚は勉強ができる子の集まりで、危機察知能力が高い。だから強者の意向を忖度する能力に長けている。

         

        気が弱い素直な子は、先生に対して真面目な子を演じる。不真面目な面を見せて、ありのままの自分を覗かれるのを極度に恐れる。

        だが、真面目な子を一生懸命演じることで、学力は伸びるのは事実だ。教える講師の側も、特に怖い先生と呼ばれる人は、子供が精いっぱい真面目にふるまっている健気な努力はわかっている。そこで講師は子供に同情して「もっとありのままの自分を見せてごらん」と歩み寄ってはいけない。生徒が講師の前で、いつも月の表面のように真面目な面だけを見せられる距離感が必要なのだ。

        真面目な子は先生に認めてもらいたい、また見捨ててほしくないという潜在的恐怖がある。先生の側も悪に徹して、子供の恐怖心を利用し、真面目な子を演じさせ続ける。

        賛否両論あろうが、怖い先生と、気が弱い真面目な子は、成績が上がる最高のコンビだ。

         

        ■数学の問題で粘る子

        わからない箇所は、小まめに質問するのが一般的な勉強法だ。それについては誰も文句がない。

        だが、講師とコミュニケーションを取りたいがため、また自分で解くのがめんどうくさいために質問に来る生徒もいる。自習室の質問魔は熱心に見えるが、70%くらいの子は講師依存症である。自習室は甘えん坊の巣窟になる危険がある。

         

        伸びる才能がある子は、何とかして自力で問題を解こうとする。執念深い。

        こちらから「教えようか?」と尋ねても。「いや、解けそうです」と拒否する。時間切れで解説を始めようとすると残念そうな顔をする。数学の問題に対する探究心旺盛で負けず嫌い。根底には自分なら解けるという自信がある。

        もちろん手っ取り早く解答解説を読めば効率は良い。賢い子は受験が近くなれば解けない問題を無理して自力で解こうとせず、解説を読んで解き方をインプットする要領を覚える。目先の征服欲より本番で合格点取るための勉強法にシフトする。

        だが初期段階では、テストの駆け引きを知るより先に、自力でガムシャラに解く姿勢を大切にしたい。集中力というより没頭力と呼んだ方が的確な力。密度の濃い長時間勉強は、没頭力があってはじめて可能なのだ。数学で粘る子は天賦の没頭力がある。

         

        数学の難問を自力で解く姿は、厚い壁を自力で破ろうとする勇者だ。負けることもある。だが時には苦労の末に解ける。私がマルをする。巨人の原監督ならグータッチするところだが、私も生徒も顔色を変えない。だが、お互い心の中で「やりました」「よくやった」と叫んでいる。自力で解く子はこうして一皮むけ、パワーアップしていく。

         

        ■結論から先に話す子

        たとえば子供に「明日の文化祭何やるの?」と尋ねる。

        ここで「え〜と中森君と藤沢君が出て、未来の重田君に会いに行って、僕は小道具係で、核戦争が起きて、2年生は合唱で〜え〜と〜」と延々と話すのは失格である。

        中森君とか藤沢君とか重田君は彼にとっては友達かもしれないが、私はそんな子知らない。無名の人間の話をされてもわからない。また小道具係というワードから芝居だということは理解できるが、彼から芝居という言葉は一言も発せられていない。話が冗長でストップかけないと永遠に続きそうである。

        この子をこのまま放っておけば、小論文で出題者の要求にこたえる文章書かずに、ただ自分の思いをズラズラ書き殴る最低の答案を書きそうである。

        「明日の文化祭何やるの?」と聞かれたら、「現在の中学生が30年後にトリップした劇をやります」と簡潔に答えるのが正しい。概要を10秒以内で簡潔にこたえられる子、結論を先に言える子は、まず間違いない。

         

        余談だが、他人が興味ないことを延々と書いたり話したりするのは罪である。

        たとえば食べログでレストランを検索していたら、レビューで文頭から「今日は仲間のキク兄とツーリング、で、途中でトシオと合流してサウナ、サウナでスッキリの後は釣り、おっきなメバルが釣れた。釣果上々! それからトシオの奥さんの誕生日プレゼントを物色。な〜ににしよっかな・・・」と個人的日記みたいなのが20行くらい続いてからやっと店の紹介。こんなのは最低だ。

        食べログの読者は食レポを求めているのであって、あんたの日常生活など興味はない。自分自身のことなど他人にはどうでもいいという視点が、決定的に欠けている。

        勉強ができる子は、他人に発していい情報と、どうでもいい情報が頭の中で整理できている。自分の脳内世界を簡潔に取捨選択して相手に伝えるのが知性だ。

         

        ■新聞・ニュースに関心がある子

        日常の中で、小学生にとって身近な大人の文章は新聞である。新聞は小学生を読書対象にしてはいないが、子供の時に背伸びして新聞を読む経験は貴重だ。

        子供は新聞を最初から最後まで読みつくすわけではない。スポーツとか大事件とか、興味がある記事しか読まない。だが興味があることなら、難しい文章で書かれていても意味が分かってしまうものなのである。新聞は中学高校に進んでから、社会科のみならず国語の力を伸ばす基礎体力をつけるアイテムである。スマホを子供に与えるなら、新聞を定期購読し居間に置いておく方がベターだと、私は信じて疑わない。私が時事関係の雑談をしたとき、反応がある子は将来有望だ。

         

        新聞やニュースに興味がないということは、人間に興味がないということである。人間が活躍し、人間が殺し殺され、人間が抑圧され抑圧し、人間が不幸になり幸福になり、人間界の森羅万象を知らせてくれるのが新聞やニュースである。勉強で国語や社会は「人間」を学ぶ教科である。人間に興味がない子は、文科系の科目は壊滅である。

        テレビニュースでドナルド・トランプの顔や演説を見て、もし何も感じなかったら悪質な不感症である。

        新聞はオワコンだと言われるが、新聞を読まない子の方がオワコンである。

         

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        以上、プロ野球のスカウト気分で、将来伸びそうな子が出すシグナルを羅列したが、運命論者のように「この子は伸びないタイプ」と決めつけるのは良くない。

        いま現在では伸びる兆候は見られないけれど、子供は化ける。諦めかけた子が突然変異することは教育の場では日常茶飯事なのだ。

         

        ただ伸びる子に共通して言えることは、愚直なことである。

        カープの新井選手だって、プロ入りした時は、技術は三流、体力は超一流のウドの大木と言われた。だがまわりに愛され、愚直に猛練習したからレジェンドになった。

        子供は指導者が見捨てた瞬間、成長が止まる。

        そして才能の芽を見つけたら、最大限に伸ばすのが塾の役割である。

         

         

         

         

         

         

        | 硬派な教育論 | 18:02 | - | - | ↑PAGE TOP
        子供にズルをさせない方法
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          落語の世界でいま、一番格が高い噺家と言われているのが、柳家小三治だろう。年齢は78歳、存命中唯一の落語家の人間国宝である。小三治が寄席に出演する日は超満員で立ち見が出る。

          小三治の実演に接すると、難しい顔で面白いことを語り、客を爆笑させる。また話の途中、不自然なほど間をあけ、茶をすすりながら沈黙する。沈黙の間、客は小三治が次に何を話すか、固唾を飲んで待つ。観客を吸い付ける引力は比類ない。まくらで話す内容は他愛ないものでも、老成した含蓄があり、笑うと三歳児のような愛嬌がある。老成と邪気を備えた素敵なおじいさんだ。志ん朝・談志という巨星亡き後、落語界を支えてきた貫禄は比類ない。

           

          だが、一つ引っかかることがあって、小三治が先日、朝日新聞のインタビューにこたえていたのだが、そこで「私は勉強嫌いで、学生時代にカンニングをした」と過去を語っていた。私はそれに少々違和感をもった。カンニングは他人の努力を、ただ首を動かすだけで盗み見る行為だ。私は小三治を尊敬しているが、昔のワル自慢をして読者に媚びているようで、軽く残念な気分になった。

          私は塾の先生で、子供の不正が学力を高めないガン細胞だと知り抜いているから、狭量になっているのかもしれないが。

           

          勉強ができる子はズルをしない。真正面から勉強と戦い手を抜かない。不正することなど考えも及ばない。だから社会から評価され、大人から気に入られ信頼される。まっすぐ生きていると学力は自然に上がり、性格の良さにも磨きがかかる。成績向上は人間性の向上に比例すると、私は信じている。

          だが逆に、ズルをする子もいる。カンニングもひどいが、試験前の勉強で、提出物の解答を丸写しにする子を、悲しいけど時々発見するのだ。

          別冊の解答を丸写しして赤マルをする。提出物の教材は不自然に全部正解。狡猾な子は難しそうな問題だけは空欄を作ったりわざと誤答をしたりで、いかにも真面目にやりましたとばかりに偽装工作する。学校の先生は気づいているのかは知らないが、「よくできました」と花マルのハンコを押している。

           

          提出物の不正をする子は、解答写しが常態化している。試験勉強は解答写すだけだから試験勉強は速攻で終わり、試験期間中もテレビやゲームで過ごす。試験期間は余暇になる。

          保護者の方も、子供が試験期間中に余裕かまして遊んでいたら、ズルをしていると疑った方がいい。学校の定期試験の提出物は真面目にやっていたら結構時間がかかるものであり、また提出物をこなしてきちんと暗記していたら一定以上の点数は取れるものであり、試験期間中暇そうで、しかもテストの点数が低い子は、高い確率で提出物を写している。

           

          だが、家庭では親は注意できない。親子関係にひびが入る。一世一代の勇気を出して子供に「試験勉強真面目にしてるの? 宿題の答え写してるんじゃないよ?」と問ったとしても、「そんなことしねえよ」で会話は終わる。また写そうが写すまいが俺の勝手だろうと逆ギレされる可能性もある。

          塾では私が監視の目を光らせているから、提出物丸写しの子はいないと言いたいところだが、まれに塾の新入生で提出物を写す子を見かける。

           

          私の対処法は何か?

          現行犯で発見するか、証拠を積み上げ自白させることである。

          人情家の塾講師ではなく、冷徹な東京地検特捜部の気構えで、悪事を暴きたてる。

           

          たとえば。

          試験前の勉強会、塾生は提出物を丁寧にこなしている。だが、提出物を丸写ししている子がいると察したら、しばらく放置して泳がす。私が見ている時は写さないが、目を離したら安心して写し始める。私はわざと長時間教室を離れる。その間は写し放題だ。

          しばらくして私が教室に入ったら、教材を隠す不自然な行為をする。やってた教材をカバンにしまうか、右腕で抱え込む。裏と表を使い分けているのは行動で明白。だが、それでは証拠が弱い。状況証拠は揃っているが、決定的な証拠が欲しい。

           

          ああ、私はこれから、証拠を積み上げ、この子を激しく怒らねばならない。胸が昂ぶり心拍数が上がる。私の葛藤を全く察知しないで、提出物写しの容疑がある子は、真面目な子の仮面をかぶり、無邪気に勉強している。

          これから悲劇を迎える子供の顔が、映画『太陽がいっぱい』のラストシーンのアラン・ドロンのように見える。

           

          行動開始。

          私は数学の提出物を「ちょっと貸して」と取り上げる。私はこの子の学力を把握している。どの問題でつまずくかは察知できる。だが、見るとすべてが正解の赤マル。すべて正解のはずは絶対にない。

          おまけに途中の計算式は書いていない。「クロ」と判断した私は提出物をコピーし、修正液で解答の部分を丁寧に消す。部屋に修正液のシンナーのにおいが漂う。提出物を取り上げられた子供は、私の一連の行動を緊張して見守る。もうこの時点で「ばれたか」と観念しているだろう。

          修正液を乾かしたB5判のコピーを、もう一度コピーする。提出物は問題だけ残して、解答はきれいに白紙になっている。

          「もう一回、これ解いてみて」

          私は堺雅人のような笑顔で言う。子供の顔は引きつる。だが解き始める。私は横に椅子を置き、じっと眺めている。提出物のコピーに計算式を書く。前半の簡単な問題は正解する。難問に差し掛かる。手が止まる。全身がフリーズする。

           

          私は搦手からたずねる。「最初にやった提出物、どうして計算式書かなかったの? どうして解答しか書かないの?」

          生徒はつばを飲み込み「計算は別の紙に書いています」と、どもりつつこたえる。ポリグラフなしでも、動揺しているのが肉眼でわかる。

          私はさらに、真面目な子の仮面を、生皮を剥ぐようにビリビリ引きちぎる。

          「じゃあ計算やった紙見せて」

          「いま、ありません・・・」

          「でもこの提出物、30分前にやってたでしょ? 提出物やったあと、君は教室の外に出てないよね? カバンの中にあるの?」

          「いえ、ないです」

          「じゃあ、ゴミ箱にあるはずだ」

          私は部屋のゴミ箱の中身を床にぶちまける。中身はティッシュと紙くずとジュースのペットボトル。

          「計算用紙、ないなあ」

          ティッシュと紙くずを11枚丹念に調べ上げる。教室で勉強している他の子は黙っているが、私が濡れてカピカピになったティッシュを広げる「狂気」の行為に、固唾を飲んでいるのがわかる。

          「計算用紙、いくら探してもないぞ。もう一つ質問していいかな? どうして自分一人でやるときには別の紙に計算して、俺の前では直接プリントに計算するわけ?」

          「・・・」

          「なあ、答え見て写しただろ?」

          「・・・」

          「正直に言いなさい。証拠はそろっているよ」

          「う、うつしました」

          外堀を完全に埋められ、生徒は自白する。その目は遠山金四郎の桜吹雪が目に飛び込んだ罪人のように見開き、身体は感電したように凍り付いている。

          私は追い打ちをかけ、雷を落とす・・・

           

          不正を暴くためのショック療法だが、効果は強い。

          子供というものは、間違った道に走りやすい。放任して自然に治る間違いもあるが、大人が厳しく断ち切らねば矯正できない間違いもある。カンニングとか提出物写しは後者だと私は判断した。不正を見かけた大人が責任を放棄し、自然に治るだろう、誰か他の大人が注意してくれるだろうとスルーするのは許されないことで、誰かが嫌われ役に徹して、不正の芽を根こそぎ引き抜く必要がある。警察まがいのやり方は良策でないかもしれないが、私は無策より愚策を選ぶ。

           

          カンニングや提出物を写す子は、周囲の大人の期待が高く、いい子の仮面をかぶらねば評価されない不安を抱えている子が多い。

          大人が子供のあるべき姿、理想の姿を規定し、子供に私の理想まで駆け上がってきなさいと、心理的プレッシャーをかける。子供は大人の理想ラインに達するには、実力不足だと感じている。現実の実力と理想の実力を埋めるには、不正しか方法がないのである。結果を重視するあまり経過を評価しない大人の態度が、子供を不正に駆り立てるのだ。

          柳家小三治もお父さんが厳格な小学校の校長で、小三治は5人の子供の中で唯一の男の子、100点満点で95点取っても叱られたらしい。その反発で勉強嫌いになりドロップアウトし落語家になったといわれる。カンニングは厳格な父親に認知されたい気持ち、それに恐怖と反発が混ざったからやったのだろう。

           

          不正を見破る電撃的ショック療法のあとは、フォローがいる。塾は北町奉行所や東京地検ではない。教育機関だ。フォローがなければ、不正はさらに巧妙になり、マフィアのように地下化する。

          悪事が見つかった子に対しては、結果で評価しない、経過をほめる。不自然にマルが揃ったイミテーションの提出物より、間違いだらけで赤の書き込みが多いノートを評価する。間違いは宝だと美意識を変える。提出物は全部間違ってもいいからガチンコでやれと、思考の転換を促す。無骨でも不正をせずにまっすぐ取り組んでいたら、芝居かかったくらい称賛する。結果より経過が大事だと「洗脳」するのだ。

          子供の側にしても、以前のような身の丈に合わない理想に届かないと評価されない飢餓感とは決別でき、少しの努力で評価されるのだから気を良くする。表情が明るくなる。地道な経過の積み重ねで、大きな結果を手に入れる道筋が立てられるのだ。

           

          さらに言うと、不正をする子は潜在的にプライドが高い。現在に自分に満足しないから、理想の自分を追い求める。プライドがなければ不正はしない。提出物なんて空白のまま出す。歪んだプライドを正しい向上心へと、ベクトルを変えてあげなければならない。

           

          私も実は、小学生の時に不正を行った経験がある。

          4の時、そろばん教室での出来事だ。

          初老の女性のそろばんの先生が、「1ばっかりの競争」という競技を教室の生徒にやらせた。1分間の制限時間に。そろばんで1をどんどん足していき、数を競うのだ。数は自己申告。子供の競争心を煽る競技だった。負けられなかった。

          スタートの声とともに、親指で1を積み上げていく。集中力はマックスに達する。1分後「やめ」の合図があった。私が積み上げた数は375。これでは1番になれないかもしれない。そこで魔が差した。私の親指は百の位に1を加えた。475

          375475に増やした。明らかな不正だ。

          しかしその瞬間を、そろばんの先生に見られていた。

          先生は一言「そんなことしちゃあだめ」。

          神に誓って言うが私は過去に不正はしていない。たった一度の不正を先生に見咎められた。皆既日食のような奇跡だ。私が不正を叱った生徒の場合は証拠を積み上げ追い詰めたが、私の場合は完全に現行犯だった。犯罪なら令状なしで逮捕のケースだ。

           

          先生はそれから私に、不正については何も言わなかった。不正する前と同じように接してくれた。この事件で、私には不正は誰かが見ているという畏怖が植え付けられた。

          先生はまだご存命で、うちの近所に住んでいらっしゃるが、お会いしても顔をそむけてしまう。私が不正をした過去を知っている唯一の人、何だか私の本質を見透かされているようで怖いのだ。

          私も小三治師匠と同じように、過去の不正を告白してしまった。小三治師匠を非難できない。

           

          繰り返すが、不正は成績向上の足枷であり、また今後の人生や生活、あらゆることに波及する。

          成功体験はのちの人生に影響する。中学高校で不正を大人が見過ごしていたら、不正が成功体験になり、いずれは人生に影を落とす出来事に遭遇するだろう。

          逆にコツコツと努力を積み上げ結果で得た成功体験は快感だし自信がつく。

          不正を見つけたら電撃的に断ち切るべきだ。

           


           

           

          | 硬派な教育論 | 15:24 | - | - | ↑PAGE TOP
          中1のおかしな勉強法
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            ■中学生、定期試験前は塾でカンヅメ

             

            うちの塾では、中学校の定期試験前、勉強会をやる。

            勉強会といえばソフトな語感で聞こえはいいが、要するに塾にカンヅメでハードな試験勉強。試験前、週5回は塾に来てもらい、土日は1日8時間ほど「監禁」する。

            というのも、中学校の提出物は膨大で、締め切りに間に合わなかったり、字が雑だったりしたら内申点に響き、また正しいやり方で勉強しないとテストの点数が取れないからだ。また家はテレビやゲームなど誘惑が多く、幼い兄弟の相手で集中力が続かない子もいる。私の目の前で提出物をこなしてもらわないと、安心できないのだ。

            試験前の勉強会は、生徒同士の切磋琢磨の場である。

             

            保護者の方はよく「子供が勉強のやり方がわからないと言っています」という。だけど中学校では勉強は教えるが、勉強のやり方を教えないから、勉強法がわからなくて当然なのだ。中学校では試験前にはテストの範囲を書いたプリントを配るだけで、試験勉強は子供の自主性に任せている学校が多い。プリントには「しっかり復習しよう」「1日4時間は勉強しよう」と抽象的スローガンは書かれているが、具体的指示は少ない。「勉強のやり方」が我流に放任されている。

            たとえば部活では、子供たちは顧問の先生の前で練習し、顧問の先生が具体的指示を出す。練習を生徒に任せっぱなしの部活では強くならない。

            だから塾で、定期試験前に塾でカンヅメにして、私の目の前で勉強させ、やり方を懇切丁寧に教えなければならないのだ。

             

            しかし、4~5年前、ある中学1年生の子のお母さんから、1学期の中間試験前に、「試験前に塾に来なければならないのでしょうか? 家で勉強させたいのですが」という軽いクレームがあった。

            塾でのカンヅメ=強制というイメージがあったのかどうか、もっと自由でのびのびさせたい、ということなのだろうか?

            私は反論した。定期試験勉強は塾でやって下さいと。中1、しかも勉強方法が定まらない最初の中間テスト前に家で勝手に勉強させるのは極めて危険である。

             

            まず中1は「試験前には勉強する」という習慣がない。小学生で学校のテスト前に勉強した経験がある子は少ない。 

            中1には、テスト前にはテスト勉強するという、当然のことから教えなければならない。塾に通ってない子の中には、悪気なく無勉強で試験を受けてしまう子も多いのだ。

            「試験前には試験勉強する」という初歩の初歩から塾では教えなければならない。

             

            さて勉強会で、中1・1学期中間試験前、塾で子供に試験勉強をさせてみる。つい数か月前まで小学生だった子は、理にかなわないおかしな勉強法をする。今からいくつか紹介しよう。

             

            ■教科書丸写し

             

            間違った勉強で最も多いのが、教科書丸写しである。

            試験勉強しなさいと曖昧に指示すると、半分くらいの子は、坊さんの写経みたいに教科書を丸写ししている。女の子はきれいに色ペンを使い分けて丁寧に写す。こんなのは勉強ではなくデザイナーの仕事である。

            教科書丸写しは小学生時代の悪癖だ。典型的な例が漢字練習で、書いて書いて書きまくることが勉強法だと信じて疑わないし、また先生もそれを推奨してきた。教科書をただ写す手作業を勉強と勘違いする土壌は、小学校の漢字練習にある。

            「きれいな丁寧な字を何度も書く=先生にほめられる」という小学校時代の成功体験が中学生を束縛するから、ただ書くだけ写すだけの悪癖を踏襲してしまう。だから私が「教科書丸写しはやめなさい」と指示すると、いままでほめられてきた勉強が否定され、子供は意外そうな顔をするのだ。

            特に勉強が苦手な子は頭を使う勉強を嫌う。頭を使うより手を使う単純作業に逃げる。

             

            驚いたのは、ただの教科書写しではなく、数学の問題文を丸写しした子がいたことだ。

            数学の教科書に書いてある、「A,B,C,Dの4人でゲームをしたら、4人の得点の合計は5点であった。Aが11点で、B,C,Dの得点が同じであった。Bの得点を求めよ。」という問題文をノートに写している。しかも何度も。これには驚愕した。

            問題文を丸写しとは、なんという非生産的な時間だろうか。奴隷のように退屈な時間だと思うのだが、それを本人の意志でやっている。丸写ししている時、生徒の頭は完全に思考停止している。

            で、この勉強法をしていたのは、皮肉にも「家で勉強させたいのですが」と言ってきた保護者の子供だったのである。

             

            ■詰め込み暗記ができない

             

            詰め込み教育は批判されるが、実は、小学校では用語を詰め込む経験は少ない。暗記に力を入れている小学校は意外に少数派だ。小学校では読んだり書いたりして、自然に記憶させる方法をとっている。小学校の授業で暗記特訓する光景はあまり想像できない。

            根を詰めて暗記する経験が少ないのは、勉強が苦手な子だけではない。難関中学を受験する学力の高い子もそうだ。彼らは小学校の知識くらい、気合を入れなくても自然に記憶できる。

            だが、中学生以上になると、暗記には一種の気合根性がいる。中学高校と進むにつれ、暗記する単語用語が増えるが、記憶力は落ちる。どんな記憶力のいい子でも、自然に記憶できるわけではなくなる。

             

            暗記には気合といえば大げさだが、「さあ覚えるぞ」という念力のようなものがいるのだ。暗記は自然にできるものではない。暗記する意識が必要だ。中学校になりたての子にはそれがわからない。

            中1生の大部分は、詰め込み暗記未経験者なのだ。

            だからこそ、試験勉強中にわれわれ塾講師が、英単語や歴史用語や世界の国名などの暗記テストを頻繁行うことによって、書くだけじゃ意味ないよ、暗記するには一種の気合がいるものだよと尻を押し、さらに暗記するコツを教えることで、「詰め込み初体験」をつつがなく通過させねばならないのである。

             

            ■雑すぎる計算

             

            中学になりたての子は勉強法が雑である。勉強法を習得させるのは、子供の粗忽さとの戦いだ。

            英語はピリオドを抜かす、文頭を大文字で書かない、複数形と三単現のsを抜かす、homeworkをhome workと分けて書く、次から次へと現れるミスを指摘し、根気良く直す作業が必要である。

             

            中学生の粗忽さは、とくに数学の計算で顕著だ。まず計算が汚い。板書は濃い楷書体で写すのに、計算だけ薄い草書体。筆算の桁が揃ってなくて、サイケデリックなアートのように歪んでいる。

            また、計算が苦手な子は、まわりくどい非効率的な計算をする。たとえば、山手線で2分しかかからない東京から有楽町へ行くのに、秋葉原・上野・池袋・新宿・渋谷・品川と遠回りする非効率な計算をする。

            山手線だったら内回り外回り乗り間違えても目的地に着くが、他の鉄道だったらそうはいかない。東京駅で東海道新幹線と東北新幹線乗り間違えたら、博多に行くつもりが新函館北斗に飛ばされてしまう。

             

            下の計算は、中学生が間違う典型的な例だ。

            左のように、無理して暗算でやるからミスしてしまう。だが、右のように分母を添えるとミスの確率は格段に下がる。計算が苦手な子ほど途中の式を省き頭の中でやる。無理な暗算は暗愚への道だ。

            また分母を添えろと指示した瞬間は書く。だが目を離すと暗算に戻り再びミスをする。

            小姑のように口うるさく、粘り強く執念深く指摘し続けなければ治らない。塾講師はミスを減らすため、嫌われ者に徹すべき場面である。

             

            ■小学校内容が根本的にわかっていない

             

            だが、これくらいのミスなら傷は浅い。根気よく矯正すれば治る。

            だが、こういうミスはどうだろうか?

            まるっきり分数のたし算をわかっていない。ケアレスミスの範疇を超えている。傷が深い。分数を根本からわかっていない。口の悪い指導者だったら「小学生の時、何をしていたんだ」と悪態の一つもつきたくなる。

            こういう致命的な間違いを見つけた場合、一刻も早く小学校の内容を復習する必要がある。これは絶対に自学自習では不可能だ。プロの診断とサポートが必要な局面だ。

             

            余談だが、公文が強いのは、学力別プリントを与えることで復習が可能なことである。子供の学力にあった勉強ができる。学力と一致しない勉強は、サイズの違う靴を履いているみたいで違和感がある。公文の長所は、復習をシステム化しているところだ。

            ただ一つ問題なのは、理解力が足りない子は、もう一度機械的に反復しても理解するとは限らない、ということだ。

            たとえば、中1が小5の分数の約分ができない時、復習しても理解できない子がいるのも事実である。小5から中1に身体的に成長したからといって、頭脳的に成長したとは限らない。こんな時こそ、理解させるのに講師のワザがいる。正攻法でダメなら別のやり方を試す。試行錯誤は一対一の師弟関係だからできる。教育がAI化、システム化できず、人肌のぬくもりが最終手段にならざるをえないのは、この辺に理由があるのだ。

             

            ■答え合わせが甘い

             

            学校の提出物は、答え合わせし、間違えた箇所を暗記して本番に備えるのが勉強方法の鉄則である。

            だが勉強に慣れない中1は、答え合わせをしても正解を機械的に赤で書き込むだけで、そもそも答え合わせをしない子もいる。これでは勉強しない方が良い。

            間違えた問題は「宝物」であり、間違いをブラックリスト化し、リストを粛々と記憶に残す作業が試験勉強だ。間違った場所を深刻に受け止め、2度と同じ間違いを犯さないよう緊張感を自分に課し続けることで、高得点への道は開ける。完璧主義でかつ悲観主義、間違いに神経質になる子ほど成績は高い。

             

            勉強は常に、試験本番を想定したものでなければならない。本番でミスしないための試験勉強だ。だが、中1になりたての子は、中間期末試験の経験がないため、本番の試験の感触がわからない。だから試験勉強にも甘さが出る。本番で痛い目に合ってはじめて、浅い勉強では点が取れないことに気づくのだ。

            だが塾側としては1学期中間試験でよいスタートダッシュを切らせたい。失敗してから学べと悠長なことは言えない。だから最初から口うるさくなる。

            対策方法として、過保護かもしれないが、勉強方法の下手な子は、最初は講師が手取り足取りで答え合わせをする必要がある。いちいち間違った問題を暗記させてテストをする。自力でできるまで他力で勉強パターンを、まずは二人三脚で覚えてもらうのだ。この過程が自分一人でできるまで執拗に手ほどきをする。

             

            答え合わせに関して困ったことが一つあって、それは、生徒に解答を渡さない学校の先生がいることだ。おそらく子供が安易に解答を見て、中には解答を丸写しする子がいるから防止策というのはわかるのだが、解答がないのに勉強しても仕方ないと思う。

            真剣に勉強する子、知的好奇心が高い子は、解答を直ちに見て正解かどうか確かめたい欲求が強い。テレビのクイズ番組で、司会者が解答を教えてくれないまま番組終了したら視聴者はフラストレーションをためるだろう。解答を渡さない先生は、子供の健全な好奇心に蓋をし、答え合わせをせず勉強をやりっ放しにする悪癖を助長している。

             

            ■過剰すぎる徹底反復

             

            勉強が苦手な子は、簡単な問題を過度に反復する悪癖がある。わかりきった計算問題を十数回も繰り返す。極端な話、1+1ばかり繰り返しても力はつかない。

            ピーマンやニンジンが嫌いな子供が手を付けないように、難しい問題を避ける。頭を使う局面を極力逃げる。

            陰山英男氏が提唱する徹底反復は大事である。子供が勉強を理解できないのは反復が足りないから、繰り返せば無意識に問題が解けるレベルまで達するという考え方は正しい。

            だが、ものには限度がある。

            中学校の定期試験の数学の比率を、訓練で解ける基礎的な問題が60%、文章題など応用問題が40%としよう。ということは、基礎的な問題ばかり反復していてもMAX6割しか取れない。100点満点のテストなのに、60点しか狙わないことになる。

             

            ここでまた余談だが、公文の怖さは徹底反復にある。計算を反復し計算が得意になり、学年レベルを超え、中1なのに高校レベルに達する子もいる。本人も周囲も、

            だが、それで数学ができると勘違いしてしまいがちなのだ。で、中3の入試前に過去問を解いて、応用問題ができない事態に遭遇する。

            高校の微分積分の計算だけなら、中1でもコツを教えれば解ける。だが生徒を不合格にしようと悪意を秘めた入試問題は、計算技術だけ発達した子には解けない。図形や関数や方程式や場合の数は別の種類の「頭の良さ」がなければ解けない。計算力とは別次元の力なのだ。高校レベルの計算ができるから数学ができると勘違いし、対策が遅れるがちになるのが公文の欠点である。

             

            ■勉強のやり方をすぐに忘れる

             

            さあ、勉強会で過保護のように勉強のやり方を直す。うまくいった。だが、しばらく放っておくと、目を離したすきに勉強のやり方が元に戻っているのである。教科書写し、雑な計算、とっくに理解している問題の機械的反復、せっかく教えた勉強法が身につかず、元に戻っている

            そういう時には、さらに繰り返し教えなければならない。何度も繰り返すうちに語気は強くなる。声を荒げることもある。忘れやすい子には忍耐力も必要だが、強い言葉で刺激を与えることも必要なのである。

             

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            以上、中1のおかしな勉強法を紹介した。中1になりたての試験勉強会がどれだけ大切で大変かおわかりいただけたかと思う。

            ただ、読んだ方は一つの疑問があるだろう。なぜ、最初に正しい勉強法を指示しないのか、指示しておけば、おかしな勉強法をすることもないのではないかと。

            だが、正しい勉強法のルールは数百以上あるし、最初にズラズラ紹介しても六法全書を記憶させられるみたいで、かえって子供は大混乱する。

            また子供は、塾講師歴30年の私でも想定外な間違いを犯す。

            だから、俳優の演技にダメ出しする映画監督のように、子供の勉強方法をいちいち「違うだろ」と否定する方法をとるのが最善の方法である。教える側、教えられる側、双方に根気がいる作業である。

             

            勉強法は、野球でいえばピッチャーやバッターのフォームに似ている。良いフォームだとキレのある球が投げられ、鋭い打球が飛ぶ。コーチの仕事は選手のフォームの矯正にかかっていると言っていい。

            だが最後までフォームの矯正ができず、プロ野球を去る選手はあとをたたない。同じように正しい勉強法を知らずに勉強の道からドロップアウトする子は多い。勉強法の習得は、子供が最初に手をつけねばならないことである、

            勉強法とは型を作ること、一種の芸事である。芸事は執拗でないと上達しない。

             

            試験前の勉強会こそ、「勉強のやり方がわからない」子供を救う絶好の場なのである。

             

             

             

             

            | 硬派な教育論 | 20:48 | - | - | ↑PAGE TOP
            社会は「点」でなく「線」で学べ
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              社会が直前追い込み可能な科目だと考える人は、さすがに少なくなった。入試問題を作る学校側もさるもの、用語丸暗記で解ける問題は少ない。入試は一問一答クイズ大会ではない。入試は暗記の多寡が合否を左右する状況ではない。

               

              「アメリカ南部の農業は何ですか?」「綿花です」「ピンポーン、合格です」の時代ではないのだ。

              大事なのは用語丸暗記ではなく、用語の背景にあるストーリーを把握することだ。松本清張ではないが「点」でなく「線」で学ぶ。蜘蛛の巣のように知識と知識を結ぶイメージを頭に張り巡らせているかで学力が判断される。

               

              中学校の定期試験なら「アメリカ南部の農業は何?」「綿花」でよい成績が取れる。定期試験は暗記努力がそのまま身になるテストだ。

              だが、生徒を落とす目的で作られた入試問題はそんなわけにはいかない。

              見逃されがちな点であるが、最低減の知識として「綿花」が何に使われるか知っておかねばならない。今の子は日常生活と学校で習うことが結びつかない。数学の証明問題のように、綿花という言葉の「定義」は最低限おさえておかねばならない。

               

              綿花がシャツやパンツや靴下の原料であり、おそらく自分の体の90%が綿花で包まれていることを意外に知らない子が多いのだ。綿花はともかく生糸や羊毛に至ればさらに知らない。羊毛がセーターの材料なのは直感的にわかるとして、背広が羊毛で作られていることを知っている中学生は少数ではないか?

               

              綿花が生糸や羊毛に比べどれだけ生活必需品としての価値が高いか。綿花は安価で水で選択しても傷まない。いまでも洗濯機に無神経に入れておけば勝手に洗ってくれる。クリーニングに神経質な生糸や羊毛と比べどんなに便利か。汗の吸収性もいいし、そこに綿花が普及した理由がある。

              また日本では江戸時代に綿花生産に干鰯(干したイワシ)を使っていた。アメリカでは鶏糞を使う場合が多いが、綿花は干鰯と相性が良い。綿花という一つのキーワードでも、地理から歴史へつながるのである。

              もっと言うなら金属の「すず」なんか、どういう用途で使われているか、日常のどこに存在するのか、社会の先生はですら知らない人は意外と多いのではないだろうか?

               

              そんなこんなで、綿花とは何かときちんと定義したうえで、綿花はどんな地域で栽培されているか、栽培の気候条件は何か、綿花を材料とする綿製品の生産が盛んな国はどこか、綿花について日常生活と絡めながら、「点」の知識が「線」につなげるのが、本来の社会の勉強である。

               

              社会で直前に追い上げようと思って一問一答の問題集を暗記するが、なかなか入試問題の過去問の点に結びつかないのは、入試問題が「点」より「線」を問うているからである。

              かつて、流れを説明する「線」を問う問題は、難関中学の入試問題、とくに麻布や武蔵あたりの専売特許だったが、現在では公立高校の入試にまでトレンドが及んできている。

              一問一答の問題はコンピューターでも作れる。しかし思考力を試す問題は、選ばれた先生が頭をひねって考え出した作品である。その作品に太刀打ちするのに「社会は直前で間に合う」という態度がいかに怖いか認識してほしい。

               

               

              ではなぜ社会の入試問題が「点」から「線」へ変質をとげたのか?

              高校側が暗記力自慢の子が必要ないと判断したのは大きい。中学時代に意味も分からず用語だけ詰め込んで入学した子は高い確率で大学受験失敗するので、思考力がある子を取りたい思惑が見える。

              大学側も塾予備校で詰め込んだブロイラーはいらないと、思考力が欠如した悪貨を駆逐したい、そしてそんな要望は国家政策にまで波及し、マークシートのセンター試験が改革されるに至った。

               

              だが「点」から「線」に変化した一番大きいのは「点」しか詰め込んでいない人材が、社会の邪魔者になるということである。

              たとえば、営業は買いたくない相手を説得する仕事である。説得するには「ストーリー」が必要だ。「わが社の新製品は最新鋭の××プロセッサーを使っています」と固有名詞告げただけで相手の購買欲はピクリとも動かない。「点」で人の心は動かない。既存の製品とどう違うか、顧客にとってどう役に立つか、ストーリーを語ることで商談が成り立つ。中高生のうちから事象に対してストーリーを語る思考力をつけることが、社会人としての訓練につながるのである。

               

              社会という教科は「社会」という名前であるから、日常社会と乖離してはならない。小中高生のうちから用語暗記中心の日常生活と隔たれた勉強は社会ではない。社会科は社会であり、社会人としての礎を築く教科である。

              とにかく「アメリカ南部の農業は何か?」「綿花です」という無口な態度ではだめで、饒舌な関西人のように綿花について長々と語れるのが社会科の力、社会人の力である。「点」から「線」への問題傾向変化は、社会科教育の進化である。

              | 硬派な教育論 | 18:45 | - | - | ↑PAGE TOP
              「叱るな、怒れ!」
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                教育書を読んでいると、子供に対して感情をぶつけて「怒る」ことはよくないから、理性的に諭すように「叱れ」と書いてある本が多い。
                これって、本当だろうか?
                私の経験則から言えば、感情を思い切りぶつけたほうが、問題の解決につながるケースのほうが多い。

                「怒る」が本音爆発なら、「叱る」は演技だ。
                子供は大人の演技を簡単に見抜く。教師が演じる下手な芝居を冷ややかに見つめる。

                たとえば、教育書に「子供を怒ってはいけません。叱りましょう」と書いてある。真面目な若い先生はこれを真に受け、実践しようとする。
                でも、真面目な若い先生は、「怒る」演技と「叱る」演技を使い分けることなんて、できるのだろうか?

                さらに教育書には、
                「子供を叱るときは理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせましょう。「怒り」の感情は生の姿で出してはいけません。理性をもって「叱る」演技をしましょう」
                と続けて書いてある。

                私は一応、学生時代に自主映画の俳優を経験したが、「理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせて叱る」などという器用な演技など絶対にできない。
                そんな数学的で精緻な演技ができるのは、若手俳優では蜷川幸雄の弟子の藤原竜也や長谷川博己など、一部の俳優だけである。
                真面目な若い先生に複雑な演技を求めてはならぬ。

                あと、よく教育書には
                「子供に注意するときは、『ほめる:叱る』の比は、9:1にしましょう。9ほめて1叱るのが、丁度いいバランスです」
                などと書いてある。
                それって、難しくないか?
                わざわざ「黒田君は今9回ほめました、次は1回叱る番です」と教師が数えるのか? 
                何故そんな面倒くさい演技をしなければならないのか?

                良いところが全然ない子供をほめるのは、ただの嘘つきである。
                子供の側からしても、根拠がないのに一方的にほめられたら屈辱だろうし、また嘘のほめ言葉で調子に乗ってもらったら困る。

                ほめたくないのに人をほめると、奇妙なことになる。
                たとえば、小学校の先生は子供に、終わりのHRで「みんな、友達の良い点を書きましょう」と紙を渡すことがある。
                先生が配った紙には、「黒田君、高橋君、嶋さん、新井さん」と名前が羅列してあり、渡された子供は、黒田君・・・頼りになる、高橋君・・・怒ると怖い、嶋さん・・・努力家、新井君・・・ひょうきん、とほめ言葉を書いてゆく。
                先生は紙を回収し、集計して子供に渡す。
                「勉強ができる」「話がおもしろい」「本読みがじょうず」「ドッジボールがうまい」と書かれた子は嬉しいだろう。

                でもほめる所があまり見つからなくて、「給食を食べるのがはやい」「消しゴムがカワイイ」「鼻にほくろがある」「学校のトイレによく行く」「家が金持ち」などと、無理して捻り出したようなビミョーなほめ言葉を羅列されたら、馬鹿にされてるように感じるだろう。
                だから、私は意識して子どもをほめない。心にもないほめ言葉をかけて、誤爆して傷つけたら子供がかわいそうだ。

                もし子供が、私からほめられたと感じたならば、それは私が子供の前で客観的な評価を口走っただけであって、演技してイヤイヤ無理してほめたわけではない。

                結論。
                ほめる所などないのに、子供をほめてはならない。
                白々しい演技のほめ言葉を、子供はあっさり見破る。
                また、ほめ言葉のインフレは良くない。
                なぜなら日常的にほめていたら、子供が本当にほめられるような事をした時、本心からほめることができないからだ。

                さて、教師は生徒に対して、自分に自信があったら怒れるはずである。
                たとえば授業中に生徒が話を聞いていない。そこで教師が「自分の話を聞いた方が、この子は得をして賢くなる。将来の糧になる」と圧倒的な自信があったなら、教師は「聞け!」と一喝できる。
                自分の話の中身に自信がないのに「聞け!」と怒鳴り上げることはできない。

                また教師は、子供を怒ってしまうと、子供に嫌われてしまうんじゃないかという怖れを抱く。
                たとえば、生徒とは今までうまくやってきた。仲がいい。でも生徒と馴れ合いの関係になっているのも事実だ。そんな生徒が今教師たる自分の前で甘え、怒らねばならぬ行動をしている。
                どうしよう、怒ったら嫌われる。
                「いい先生」でなくなってしまう。
                子供と自分の関係に、ひびが入るのではないか? 

                でも私なら、子供に嫌われてもいいじゃん、と思う。
                教師にとって、自分が好かれることと、生徒が立派な人間になることと、どっちが大事か?
                子供のことを本気で心配すれば、自分が嫌われるかどうかなんて些細な問題ではないか。
                自分の体面より生徒の将来が大事なら、子供が規範から外れ、怠惰な行為をしていた時、ガツンと言えばいいじゃないか。
                怒れないのは、生徒より自分の方がかわいいからである。「いい先生」なんて言われたら、教師としては敗北だ。

                生徒の方も、怒鳴られて「イヤな先生だな」と一時は思ったとしても、賢明な子なら、いずれは自分を誰が一番大事に思っているか、動物的本能でわかるはずである。
                子供は、誰についていったら自分が向上するか、得をするか絶対にわかるはずである。

                理性的に叱れ、感情的に怒るな、と言う。
                でも、「感情」という言葉は、「彼女の演奏には感情がこもっている」「彼の作文は感情性が豊かだ」という具合に使えば、プラスの意味になる。
                「感情性」はプラスの意味だが、「感情的」はマイナスの意味だ。だったら「感情性」をもって怒ればいいではないか。
                「感情」の「感」は「感じやすい」、「情」は「情け深い」という意味に他ならない。「感情的」になれるのは、感じやすく情け深い人間だからである。

                感情的になって、自分の思いを生徒にぶつけてもいいじゃないか。真に「感じやすく」「情け深い」人間は、激怒して錯乱しても、出てくる言葉は人の心を打つ。
                感情的になった人が吐く言葉はゲロのような暴言とは限らない。子供の感情を昂ぶらせる金言になることだってあるのだ。
                感情的に腹から声を出せ。「叱る」という小手先の声では、子供の心は動かせない。


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                子どもをほめる人は金目当て
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                  役者に灰皿や台本投げた蜷川幸雄ではないが、人生を振り返った時、厳しい言葉をかけてくれた先生の方が、自分の糧になっていると感じる。
                  嫌われることを厭わずに、自分の甘さを直言してくれた先生には、感謝してもしきれない。
                  逆に、悪いことをしても見逃した先生は、子供の時は「ラッキー!」とありがたく思ったものだが、今考えると親身になってくれなかったか、叱る度胸がなかったか、トラブルになるのを面倒くさがったか、いずれにせよ記憶に薄い存在である。
                  鈍感な子供の目は、やさしさの裏の無責任さに気づかず、厳しさの背後にある愛情にも気づかない。

                  子供を叱らない親や教師は、どこか子供に遠慮しているのだろう。
                  遠慮は罪である。
                  ある時、吉永小百合が「よくない監督とはどんな人ですか」とたずねられて、「俳優に遠慮する人です」という趣旨の発言をしていたが、遠慮せずズケズケ物を言う監督の方が名監督で、逆に遠慮せずに言いたいことを心に溜める監督の作品の出来はあまり良くない、という意味であろう。

                  嫌われることを厭わずに、スタッフや俳優に厳しい監督は、いい作品を作ることが何よりも優先する。未来に高い達成感を得るために、現在をある程度犠牲にするのだ。遠慮する監督にいい作品は作れないし、俳優の演技力も伸ばせない。
                  同じように、子供を叱る教師は、子供の将来が何より大事で、また叱ったら子供が良い人生を送るという信念があるから、トラブルを恐れず叱るのである。

                  教師が子供を叱るのは、ズバリ、子供に商品価値を与えるためだ。他人のために何かを生み出し、生み出した見返りとして収入を得る。そんな商品価値を持つ大人に育てるために、教師は本気になる。
                  逆に、八方美人にほめ言葉をかける大人は要注意だ。
                  たとえば、問題のある子にリップサービスをかける塾の講師は、子供が運んで来るお金が目当てな人が多い。悪いところを指摘し叱ったら、子供は塾をやめ儲けが減る。親がクレーマーとして乗り込む。だから腫れ物に触るように扱う。こういう塾は教育義務を果たしていない。

                  叱るのは成長を期待するからであり、ほめて放任するのはカネ目当てである例として、出版の世界を挙げてみよう。
                  出版には、自費出版と商業出版という、2つのシステムがある。
                  自費出版は出版の費用を著者が持ち、宣伝活動も著者が行う。著者は出版のために200万円ぐらいの費用を出版社に支払う。本を出すにはコストがかかるから、コストを書き手が負担するシステムである。
                  逆に商業出版は、出版の費用も宣伝活動も出版社が持ち、売り上げに応じて著者は印税を得る。われわれが買う本のほとんどは商業出版の本である。

                  自費出版の場合は、著者が出版社に費用を支払うわけだから、本がつまらなくて売れなくても、出版社の経営は成り立つ。正直言って自費出版の本は、書き手のマスターベーションのようなものが大部分である。自費出版は本を書く人から集金し、書く人の自己満足を満たす倒錯した世界である。

                  逆に商業出版は、本が面白くなくて売れなければ経営が成り立たない。本の商品価値を高めるために、編集者と著者が一体になって頑張らなければならない。
                  要するに出版社の側から見て、自費出版の顧客は本を書く人であり、商業出版の顧客は本を読む人である。

                  自費出版の出版社は、本を書きたいと思う人から、お金を引き出せるかが腕の見せ所であるから、「本を御社から出したいのですが」と原稿を持ってきた人の作品をほめまくる。
                  「一気に読ませるプロ級の筆力。人生経験の重みを、軽やかな文体で描く奇跡。読者の脳に知識、心臓に活力、血液に熱気が残る、活字のマジックを感じる」
                  といった感じの表面上のレトリックを駆使した文章でその気にして出版を勧め、うまくお金を引き出そうとする。間違っても批判して顧客の機嫌を損なう愚かなことはしない。

                  逆に商業出版は、本を売らなければならないから、編集者は鬼のように書き手を鍛え、書き手も読者に作品を評価されたいから編集者の換言を素直に受け止め、作品の力を高め読者に支持されるため必死になる。
                  むかし「ドラゴンボール」や「DRスランプ」を描いた鳥山明は、デビュー前に才能を認めた集英社の編集者から何度も書き直しを命じられ鍛えられたのは有名な話である。
                  編集者と書き手が必死になると、表面上の社交辞令的なほめ言葉などプラスにはならないのだ。

                  教育の世界も同じことである。
                  甘い塾は子供の将来より親が持って来るお金が大切だから子供をほめ、厳しい塾は子供の将来が大事だから子供に厳しい。
                  子供は時に怠け心が生まれる。そんな怠惰なバイ菌を、キリッとした叱り言葉の抗生物質で退治しなければならない。バイ菌だらけのまま、弱点だらけのまま社会に出れば、子供は痛い目に遭う。

                  子供がどんなにアホでも親は過保護で甘やかし、学校教師は子供に遠慮し、塾講師は注意せず、入試は推薦でフリーパス、世間は無関心で何も言わない。
                  その結果、就活で初めて子供は自分がアホなのに気づく。こんなのは「裸の王様」でなく「裸のお子様」の悲劇である。

                  だから親は、叱ってくれる教師がいれば、「ハッピー!」と思って任せてしまえばいい。叱る教師に文句をつけても子供が損をするだけだ。
                  子供が商品価値を持ち、ドラゴンボールをつかめる大人になるには、鳥山明のように叱られる時期が必要なのである。



                   
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                  だから私は数学ができない馬鹿になった
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                    私は小学生のころ算数ができて、開成中学に合格した。

                    逆に高校時代は数学が苦手で、私大文系に転進せざるをえなかった。

                     

                    どうして小学校の時、算数ができたか?

                    塾のテキストだけをやっていたからだ。

                    テキストを聖書のように信じた。

                     

                    1つのテキストを解き、わからない箇所は先生に執拗に質問した。復習反復し、解き方を身体レベルまで習得した。その頃は「数学は暗記教科」という言葉はなかったが、まさに数学は暗記だった。

                    時間が余れば『最上級問題集』とか市販の問題集に手を出しはしたが、あくまでサブ的存在で、テキスト以外に目むくれなかった。

                    「勉強法」に悩むことなど全くなくて、一意専心「テキストをやる」のが勉強法だった。

                     

                    私の塾はテストだけの塾で週1回。授業はテスト解説だけだった。だがテスト終了後に算数の質問教室があり、テキストの難問を授業形式で教えてくれた。参加は任意で残る生徒は少なかったが、私は毎週必ず残った。

                    先生からは素直な子だと可愛がられ、熱心に教えてくれた。先生が熱心だったということは、私が熱心だったということだ。
                    生徒に情熱があれば、先生も熱を上げる。

                    猛勉強をしているように見えても、私は根性入れて勉強した記憶はなく、自然な形で長時間勉強していた気がする。つらいことはなかった。

                     

                    逆に、どうして高校時代、数学ができなかったか?

                    簡単に言えば、勉強していなかったからだ。

                    塾に通わなかったのが、いま考えれば致命的だ。

                     

                    進学校の数学の先生は、上位層に合わせているため、下位層への目配りが足りない。私は数学ができなかったし、そのうえ塾にも通っていなかった。生意気盛りのころで、塾という存在を敵視していた。おまけに学校にも批判的だったし、そんな高校生を大人がかわいがるわけがない。下から這い上がるには大人の愛情や贔屓が絶対に必要なのだ。

                    教科書も学校のサブテキストも理解できなかった。勉強法の本ばかり書店で読んでいた。法ばかり説いて頭でっかちになった。
                    勉強法本が勧める参考書を買ってみても「自分には合わない」と数ページで投げ出した。また別の勉強法本を読んだら別の参考書が勧めてある。それも買って、もちろん挫折した。

                    おかげで私の本棚には、チャート式とか鉄則とか解法のエッセンスとか大学への数学とか、参考書の数だけは揃っていた。現在のように実況中継的な、話し言葉で書かれた参考書はなかった。

                    一つのテキストを反復して成功した、小学生時代の成功体験はまったく踏襲されなかった。反対の勉強法で自滅した。

                     

                    数学力が中学生レベルしかないのに、赤チャートなんかやっていた。当然、わからない。
                    理解できなければ思い切って戻れというアドバイスは、誰もしてくれなかった。

                    だがもし当時の私が、数学苦手だったらわからない箇所まで戻れとアドバイスされても、耳を傾けなかったろう。「なんで俺様が中学校レベルからやらないとアカンのか」と反発したに決まっている。高校生という種族は、大人が思うより数倍プライドが高い。いまさら簡単なことはやりたくない。馬鹿にすんなと。

                    それに数学で、教師にわからないところを聞いたら、人格批判されそうで嫌だった。もし教師に「どうしてわからないのか」と馬鹿にされたら、刺していたかもしれない。

                     

                    数学が苦手なら、解法を暗記する、テキストを繰り返す、わからない箇所は聞く、思い切って戻る、こういう当たり前のことが、私はできなかった。

                    数学は結局、捨てざるを得なかった。数学を捨てたのではなく、数学に捨てられたのだ。

                    「プライドの高いバカ」の末路である。

                     

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                    勉強はマラソンではなく短距離走だ
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                      運動嫌いはマラソンが嫌いだ。

                      運動嫌いの人に「マラソンと短距離走、どちらが嫌い?」とたずねたら、マラソンと答える人の方が絶対に多い。

                      42.195km、東京から鎌倉、大阪から京都ほどの距離を走らなければならないと思うと嫌になる。東京マラソンなど、市民ランナーが走るイベントを見ても「どうして苦しい思いをして走るのだろう、この人たちは」と疑問しか感じない。

                       

                      勉強が苦手な人も、マラソン的なコツコツ勉強を嫌う。

                      「勉強はマラソンと同じ」勉強法の本によく書いてあるが、勉強嫌いはマラソンと聞いただけでうんざりし、「勉強は自分と合わない」と決めつけてしまう。

                       

                      発想を転換しよう。マラソンを完走するのが難しくても、短距離走なら完走できるはずだ。100m走で途中リタイアする人は、マラソンに比べて圧倒的に少ない。コツコツ勉強するマラソン式勉強はやめて、たった数日、100mを全力疾走する勢いで、まわりが唖然とするほど猛勉強すればいい。

                      三日坊主で続かないという人は、逆に言えば三日間くらいは勉強できると宣言しているに等しい。試しに三日間だけライザップのつもりで猛勉強すればいいのだ。

                       

                      思い立ったら休日を利用して、1日10時間勉強したい。勉強を勉強時間で換算するのはあまり意味がないことだが、勉強やり始めは時間数にこだわるのもいいだろう。

                      マラソンみたいにゆっくりスタートするのではなく、100m競争みたいに最初から飛ばす。車のアクセルをかかとで思い切り踏み込む感じで、爆裂ダッシュをかける。

                       

                      怒涛の「短距離走勉強」のネタとして一番ふさわしいのは、英単語暗記だ。勉強の初心者が手の込んだ「複雑系」の題材を選んだら挫折する。語弊はあるが、ただ暗記するだけの直線一本の勉強、「単純系」の英単語暗記がいい。

                       

                      勉強嫌いな人でも、試験前の一夜漬けには一生懸命になる。紙の単語集の敷居が高いなら、スマホアプリ『ユメタン』や『ターゲット』を使って単語暗記をすれば、凄いタイムで100mを駆け抜けることができる。スマホは英単語で短距離走を駆け抜けるジェットエンジンだ。

                      英単語暗記すれば長文が白内障手術のあとみたいにクリアに見える。達成した快感が、さらに勉強衝動を駆り立てる。

                       

                      短距離走の心構えで勉強すれば、俄然、集中力が増すのがわかるだろう。マラソンなら走行中に沿道の光景が目に入るが、短距離走は周囲が全く目に入らない。勉強の猛ダッシュは、頭がドーピングされたように勉強中毒になる。苦痛なのに快楽を覚え、知らぬ間にマラソンランナーのような長距離勉強が可能になる。

                       

                      しかもありがたいことに、勉強は100m走と違って疲れない。「勉強体力」は加速度的に向上する。陸上の短距離走は続けて走れば疲労困憊でタイムが落ちるが、勉強の短距離走は回数が増えれば増えるほど効率が上がる。走れば走るほどエネルギーが溜まる。そこが勉強と100m走の決定的に違うところだ。

                      1時間かかった暗記が15分に、浅くしか理解できなかった内容がより深く、ふと時計を見上げたら3時間経っていたなんてことはざらである。

                       

                      京セラの名誉会長で、JALを再建した稲盛和夫氏は、「瞬間、瞬間を完全燃焼すること。その点の連鎖が未来につながる」と言っている。短距離走という「瞬間」の点が、長距離走の「連続」の線を作っているのだ。

                      勉強を続ければ意識も高くなる。三日坊主のはずが10日、1か月と勉強が継続できる。

                       

                      突然の猛勉強ぶりを見て驚いた友人が、「お前、人が変わったように勉強しているなあ。マラソンランナーみたいだ」と聞いたら、「いや、僕は怠け者だから、マラソンランナーじゃなく、短距離走のつもりで勉強してるんだ」と答えてみよう。

                      そうしたら友人から「お前、イチローみたいに哲学的なこと言うなあ。トップアスリートみたいだ」と尊敬の目で見られるだろう。

                       

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