猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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「叱るな、怒れ!」
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    教育書を読んでいると、子供に対して感情をぶつけて「怒る」ことはよくないから、理性的に諭すように「叱れ」と書いてある本が多い。
    これって、本当だろうか?
    私の経験則から言えば、感情を思い切りぶつけたほうが、問題の解決につながるケースのほうが多い。

    「怒る」が本音爆発なら、「叱る」は演技だ。
    子供は大人の演技を簡単に見抜く。教師が演じる下手な芝居を冷ややかに見つめる。

    たとえば、教育書に「子供を怒ってはいけません。叱りましょう」と書いてある。真面目な若い先生はこれを真に受け、実践しようとする。
    でも、真面目な若い先生は、「怒る」演技と「叱る」演技を使い分けることなんて、できるのだろうか?

    さらに教育書には、
    「子供を叱るときは理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせましょう。「怒り」の感情は生の姿で出してはいけません。理性をもって「叱る」演技をしましょう」
    と続けて書いてある。

    私は一応、学生時代に自主映画の俳優を経験したが、「理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせて叱る」などという器用な演技など絶対にできない。
    そんな数学的で精緻な演技ができるのは、若手俳優では蜷川幸雄の弟子の藤原竜也や長谷川博己など、一部の俳優だけである。
    真面目な若い先生に複雑な演技を求めてはならぬ。

    あと、よく教育書には
    「子供に注意するときは、『ほめる:叱る』の比は、9:1にしましょう。9ほめて1叱るのが、丁度いいバランスです」
    などと書いてある。
    それって、難しくないか?
    わざわざ「黒田君は今9回ほめました、次は1回叱る番です」と教師が数えるのか? 
    何故そんな面倒くさい演技をしなければならないのか?

    良いところが全然ない子供をほめるのは、ただの嘘つきである。
    子供の側からしても、根拠がないのに一方的にほめられたら屈辱だろうし、また嘘のほめ言葉で調子に乗ってもらったら困る。

    ほめたくないのに人をほめると、奇妙なことになる。
    たとえば、小学校の先生は子供に、終わりのHRで「みんな、友達の良い点を書きましょう」と紙を渡すことがある。
    先生が配った紙には、「黒田君、高橋君、嶋さん、新井さん」と名前が羅列してあり、渡された子供は、黒田君・・・頼りになる、高橋君・・・怒ると怖い、嶋さん・・・努力家、新井君・・・ひょうきん、とほめ言葉を書いてゆく。
    先生は紙を回収し、集計して子供に渡す。
    「勉強ができる」「話がおもしろい」「本読みがじょうず」「ドッジボールがうまい」と書かれた子は嬉しいだろう。

    でもほめる所があまり見つからなくて、「給食を食べるのがはやい」「消しゴムがカワイイ」「鼻にほくろがある」「学校のトイレによく行く」「家が金持ち」などと、無理して捻り出したようなビミョーなほめ言葉を羅列されたら、馬鹿にされてるように感じるだろう。
    だから、私は意識して子どもをほめない。心にもないほめ言葉をかけて、誤爆して傷つけたら子供がかわいそうだ。

    もし子供が、私からほめられたと感じたならば、それは私が子供の前で客観的な評価を口走っただけであって、演技してイヤイヤ無理してほめたわけではない。

    結論。
    ほめる所などないのに、子供をほめてはならない。
    白々しい演技のほめ言葉を、子供はあっさり見破る。
    また、ほめ言葉のインフレは良くない。
    なぜなら日常的にほめていたら、子供が本当にほめられるような事をした時、本心からほめることができないからだ。

    さて、教師は生徒に対して、自分に自信があったら怒れるはずである。
    たとえば授業中に生徒が話を聞いていない。そこで教師が「自分の話を聞いた方が、この子は得をして賢くなる。将来の糧になる」と圧倒的な自信があったなら、教師は「聞け!」と一喝できる。
    自分の話の中身に自信がないのに「聞け!」と怒鳴り上げることはできない。

    また教師は、子供を怒ってしまうと、子供に嫌われてしまうんじゃないかという怖れを抱く。
    たとえば、生徒とは今までうまくやってきた。仲がいい。でも生徒と馴れ合いの関係になっているのも事実だ。そんな生徒が今教師たる自分の前で甘え、怒らねばならぬ行動をしている。
    どうしよう、怒ったら嫌われる。
    「いい先生」でなくなってしまう。
    子供と自分の関係に、ひびが入るのではないか? 

    でも私なら、子供に嫌われてもいいじゃん、と思う。
    教師にとって、自分が好かれることと、生徒が立派な人間になることと、どっちが大事か?
    子供のことを本気で心配すれば、自分が嫌われるかどうかなんて些細な問題ではないか。
    自分の体面より生徒の将来が大事なら、子供が規範から外れ、怠惰な行為をしていた時、ガツンと言えばいいじゃないか。
    怒れないのは、生徒より自分の方がかわいいからである。「いい先生」なんて言われたら、教師としては敗北だ。

    生徒の方も、怒鳴られて「イヤな先生だな」と一時は思ったとしても、賢明な子なら、いずれは自分を誰が一番大事に思っているか、動物的本能でわかるはずである。
    子供は、誰についていったら自分が向上するか、得をするか絶対にわかるはずである。

    理性的に叱れ、感情的に怒るな、と言う。
    でも、「感情」という言葉は、「彼女の演奏には感情がこもっている」「彼の作文は感情性が豊かだ」という具合に使えば、プラスの意味になる。
    「感情性」はプラスの意味だが、「感情的」はマイナスの意味だ。だったら「感情性」をもって怒ればいいではないか。
    「感情」の「感」は「感じやすい」、「情」は「情け深い」という意味に他ならない。「感情的」になれるのは、感じやすく情け深い人間だからである。

    感情的になって、自分の思いを生徒にぶつけてもいいじゃないか。真に「感じやすく」「情け深い」人間は、激怒して錯乱しても、出てくる言葉は人の心を打つ。
    感情的になった人が吐く言葉はゲロのような暴言とは限らない。子供の感情を昂ぶらせる金言になることだってあるのだ。
    感情的に腹から声を出せ。「叱る」という小手先の声では、子供の心は動かせない。


    | 硬派な教育論 | 21:26 | - | - | ↑PAGE TOP
    子どもをほめる人は金目当て
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      役者に灰皿や台本投げた蜷川幸雄ではないが、人生を振り返った時、厳しい言葉をかけてくれた先生の方が、自分の糧になっていると感じる。
      嫌われることを厭わずに、自分の甘さを直言してくれた先生には、感謝してもしきれない。
      逆に、悪いことをしても見逃した先生は、子供の時は「ラッキー!」とありがたく思ったものだが、今考えると親身になってくれなかったか、叱る度胸がなかったか、トラブルになるのを面倒くさがったか、いずれにせよ記憶に薄い存在である。
      鈍感な子供の目は、やさしさの裏の無責任さに気づかず、厳しさの背後にある愛情にも気づかない。

      子供を叱らない親や教師は、どこか子供に遠慮しているのだろう。
      遠慮は罪である。
      ある時、吉永小百合が「よくない監督とはどんな人ですか」とたずねられて、「俳優に遠慮する人です」という趣旨の発言をしていたが、遠慮せずズケズケ物を言う監督の方が名監督で、逆に遠慮せずに言いたいことを心に溜める監督の作品の出来はあまり良くない、という意味であろう。

      嫌われることを厭わずに、スタッフや俳優に厳しい監督は、いい作品を作ることが何よりも優先する。未来に高い達成感を得るために、現在をある程度犠牲にするのだ。遠慮する監督にいい作品は作れないし、俳優の演技力も伸ばせない。
      同じように、子供を叱る教師は、子供の将来が何より大事で、また叱ったら子供が良い人生を送るという信念があるから、トラブルを恐れず叱るのである。

      教師が子供を叱るのは、ズバリ、子供に商品価値を与えるためだ。他人のために何かを生み出し、生み出した見返りとして収入を得る。そんな商品価値を持つ大人に育てるために、教師は本気になる。
      逆に、八方美人にほめ言葉をかける大人は要注意だ。
      たとえば、問題のある子にリップサービスをかける塾の講師は、子供が運んで来るお金が目当てな人が多い。悪いところを指摘し叱ったら、子供は塾をやめ儲けが減る。親がクレーマーとして乗り込む。だから腫れ物に触るように扱う。こういう塾は教育義務を果たしていない。

      叱るのは成長を期待するからであり、ほめて放任するのはカネ目当てである例として、出版の世界を挙げてみよう。
      出版には、自費出版と商業出版という、2つのシステムがある。
      自費出版は出版の費用を著者が持ち、宣伝活動も著者が行う。著者は出版のために200万円ぐらいの費用を出版社に支払う。本を出すにはコストがかかるから、コストを書き手が負担するシステムである。
      逆に商業出版は、出版の費用も宣伝活動も出版社が持ち、売り上げに応じて著者は印税を得る。われわれが買う本のほとんどは商業出版の本である。

      自費出版の場合は、著者が出版社に費用を支払うわけだから、本がつまらなくて売れなくても、出版社の経営は成り立つ。正直言って自費出版の本は、書き手のマスターベーションのようなものが大部分である。自費出版は本を書く人から集金し、書く人の自己満足を満たす倒錯した世界である。

      逆に商業出版は、本が面白くなくて売れなければ経営が成り立たない。本の商品価値を高めるために、編集者と著者が一体になって頑張らなければならない。
      要するに出版社の側から見て、自費出版の顧客は本を書く人であり、商業出版の顧客は本を読む人である。

      自費出版の出版社は、本を書きたいと思う人から、お金を引き出せるかが腕の見せ所であるから、「本を御社から出したいのですが」と原稿を持ってきた人の作品をほめまくる。
      「一気に読ませるプロ級の筆力。人生経験の重みを、軽やかな文体で描く奇跡。読者の脳に知識、心臓に活力、血液に熱気が残る、活字のマジックを感じる」
      といった感じの表面上のレトリックを駆使した文章でその気にして出版を勧め、うまくお金を引き出そうとする。間違っても批判して顧客の機嫌を損なう愚かなことはしない。

      逆に商業出版は、本を売らなければならないから、編集者は鬼のように書き手を鍛え、書き手も読者に作品を評価されたいから編集者の換言を素直に受け止め、作品の力を高め読者に支持されるため必死になる。
      むかし「ドラゴンボール」や「DRスランプ」を描いた鳥山明は、デビュー前に才能を認めた集英社の編集者から何度も書き直しを命じられ鍛えられたのは有名な話である。
      編集者と書き手が必死になると、表面上の社交辞令的なほめ言葉などプラスにはならないのだ。

      教育の世界も同じことである。
      甘い塾は子供の将来より親が持って来るお金が大切だから子供をほめ、厳しい塾は子供の将来が大事だから子供に厳しい。
      子供は時に怠け心が生まれる。そんな怠惰なバイ菌を、キリッとした叱り言葉の抗生物質で退治しなければならない。バイ菌だらけのまま、弱点だらけのまま社会に出れば、子供は痛い目に遭う。

      子供がどんなにアホでも親は過保護で甘やかし、学校教師は子供に遠慮し、塾講師は注意せず、入試は推薦でフリーパス、世間は無関心で何も言わない。
      その結果、就活で初めて子供は自分がアホなのに気づく。こんなのは「裸の王様」でなく「裸のお子様」の悲劇である。

      だから親は、叱ってくれる教師がいれば、「ハッピー!」と思って任せてしまえばいい。叱る教師に文句をつけても子供が損をするだけだ。
      子供が商品価値を持ち、ドラゴンボールをつかめる大人になるには、鳥山明のように叱られる時期が必要なのである。



       
      | 硬派な教育論 | 21:33 | - | - | ↑PAGE TOP
      だから私は数学ができない馬鹿になった
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        私は小学生のころ算数ができて、開成中学に合格した。

        逆に高校時代は数学が苦手で、私大文系に転進せざるをえなかった。

         

        どうして小学校の時、算数ができたか?

        塾のテキストだけをやっていたからだ。

        テキストを聖書のように信じた。

         

        1つのテキストを解き、わからない箇所は先生に執拗に質問した。復習反復し、解き方を身体レベルまで習得した。その頃は「数学は暗記教科」という言葉はなかったが、まさに数学は暗記だった。

        時間が余れば『最上級問題集』とか市販の問題集に手を出しはしたが、あくまでサブ的存在で、テキスト以外に目むくれなかった。

        「勉強法」に悩むことなど全くなくて、一意専心「テキストをやる」のが勉強法だった。

         

        私の塾はテストだけの塾で週1回。授業はテスト解説だけだった。だがテスト終了後に算数の質問教室があり、テキストの難問を授業形式で教えてくれた。参加は任意で残る生徒は少なかったが、私は毎週必ず残った。

        先生からは素直な子だと可愛がられ、熱心に教えてくれた。先生が熱心だったということは、私が熱心だったということだ。
        生徒に情熱があれば、先生も熱を上げる。

        猛勉強をしているように見えても、私は根性入れて勉強した記憶はなく、自然な形で長時間勉強していた気がする。つらいことはなかった。

         

        逆に、どうして高校時代、数学ができなかったか?

        簡単に言えば、勉強していなかったからだ。

        塾に通わなかったのが、いま考えれば致命的だ。

         

        進学校の数学の先生は、上位層に合わせているため、下位層への目配りが足りない。私は数学ができなかったし、そのうえ塾にも通っていなかった。生意気盛りのころで、塾という存在を敵視していた。おまけに学校にも批判的だったし、そんな高校生を大人がかわいがるわけがない。下から這い上がるには大人の愛情や贔屓が絶対に必要なのだ。

        教科書も学校のサブテキストも理解できなかった。勉強法の本ばかり書店で読んでいた。法ばかり説いて頭でっかちになった。
        勉強法本が勧める参考書を買ってみても「自分には合わない」と数ページで投げ出した。また別の勉強法本を読んだら別の参考書が勧めてある。それも買って、もちろん挫折した。

        おかげで私の本棚には、チャート式とか鉄則とか解法のエッセンスとか大学への数学とか、参考書の数だけは揃っていた。現在のように実況中継的な、話し言葉で書かれた参考書はなかった。

        一つのテキストを反復して成功した、小学生時代の成功体験はまったく踏襲されなかった。反対の勉強法で自滅した。

         

        数学力が中学生レベルしかないのに、赤チャートなんかやっていた。当然、わからない。
        理解できなければ思い切って戻れというアドバイスは、誰もしてくれなかった。

        だがもし当時の私が、数学苦手だったらわからない箇所まで戻れとアドバイスされても、耳を傾けなかったろう。「なんで俺様が中学校レベルからやらないとアカンのか」と反発したに決まっている。高校生という種族は、大人が思うより数倍プライドが高い。いまさら簡単なことはやりたくない。馬鹿にすんなと。

        それに数学で、教師にわからないところを聞いたら、人格批判されそうで嫌だった。もし教師に「どうしてわからないのか」と馬鹿にされたら、刺していたかもしれない。

         

        数学が苦手なら、解法を暗記する、テキストを繰り返す、わからない箇所は聞く、思い切って戻る、こういう当たり前のことが、私はできなかった。

        数学は結局、捨てざるを得なかった。数学を捨てたのではなく、数学に捨てられたのだ。

        「プライドの高いバカ」の末路である。

         

        | 硬派な教育論 | 16:13 | - | - | ↑PAGE TOP
        勉強はマラソンではなく短距離走だ
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          運動嫌いはマラソンが嫌いだ。

          運動嫌いの人に「マラソンと短距離走、どちらが嫌い?」とたずねたら、マラソンと答える人の方が絶対に多い。

          42.195km、東京から鎌倉、大阪から京都ほどの距離を走らなければならないと思うと嫌になる。東京マラソンなど、市民ランナーが走るイベントを見ても「どうして苦しい思いをして走るのだろう、この人たちは」と疑問しか感じない。

           

          勉強が苦手な人も、マラソン的なコツコツ勉強を嫌う。

          「勉強はマラソンと同じ」勉強法の本によく書いてあるが、勉強嫌いはマラソンと聞いただけでうんざりし、「勉強は自分と合わない」と決めつけてしまう。

           

          発想を転換しよう。マラソンを完走するのが難しくても、短距離走なら完走できるはずだ。100m走で途中リタイアする人は、マラソンに比べて圧倒的に少ない。コツコツ勉強するマラソン式勉強はやめて、たった数日、100mを全力疾走する勢いで、まわりが唖然とするほど猛勉強すればいい。

          三日坊主で続かないという人は、逆に言えば三日間くらいは勉強できると宣言しているに等しい。試しに三日間だけライザップのつもりで猛勉強すればいいのだ。

           

          思い立ったら休日を利用して、1日10時間勉強したい。勉強を勉強時間で換算するのはあまり意味がないことだが、勉強やり始めは時間数にこだわるのもいいだろう。

          マラソンみたいにゆっくりスタートするのではなく、100m競争みたいに最初から飛ばす。車のアクセルをかかとで思い切り踏み込む感じで、爆裂ダッシュをかける。

           

          怒涛の「短距離走勉強」のネタとして一番ふさわしいのは、英単語暗記だ。勉強の初心者が手の込んだ「複雑系」の題材を選んだら挫折する。語弊はあるが、ただ暗記するだけの直線一本の勉強、「単純系」の英単語暗記がいい。

           

          勉強嫌いな人でも、試験前の一夜漬けには一生懸命になる。紙の単語集の敷居が高いなら、スマホアプリ『ユメタン』や『ターゲット』を使って単語暗記をすれば、凄いタイムで100mを駆け抜けることができる。スマホは英単語で短距離走を駆け抜けるジェットエンジンだ。

          英単語暗記すれば長文が白内障手術のあとみたいにクリアに見える。達成した快感が、さらに勉強衝動を駆り立てる。

           

          短距離走の心構えで勉強すれば、俄然、集中力が増すのがわかるだろう。マラソンなら走行中に沿道の光景が目に入るが、短距離走は周囲が全く目に入らない。勉強の猛ダッシュは、頭がドーピングされたように勉強中毒になる。苦痛なのに快楽を覚え、知らぬ間にマラソンランナーのような長距離勉強が可能になる。

           

          しかもありがたいことに、勉強は100m走と違って疲れない。「勉強体力」は加速度的に向上する。陸上の短距離走は続けて走れば疲労困憊でタイムが落ちるが、勉強の短距離走は回数が増えれば増えるほど効率が上がる。走れば走るほどエネルギーが溜まる。そこが勉強と100m走の決定的に違うところだ。

          1時間かかった暗記が15分に、浅くしか理解できなかった内容がより深く、ふと時計を見上げたら3時間経っていたなんてことはざらである。

           

          京セラの名誉会長で、JALを再建した稲盛和夫氏は、「瞬間、瞬間を完全燃焼すること。その点の連鎖が未来につながる」と言っている。短距離走という「瞬間」の点が、長距離走の「連続」の線を作っているのだ。

          勉強を続ければ意識も高くなる。三日坊主のはずが10日、1か月と勉強が継続できる。

           

          突然の猛勉強ぶりを見て驚いた友人が、「お前、人が変わったように勉強しているなあ。マラソンランナーみたいだ」と聞いたら、「いや、僕は怠け者だから、マラソンランナーじゃなく、短距離走のつもりで勉強してるんだ」と答えてみよう。

          そうしたら友人から「お前、イチローみたいに哲学的なこと言うなあ。トップアスリートみたいだ」と尊敬の目で見られるだろう。

           

          | 硬派な教育論 | 19:42 | - | - | ↑PAGE TOP
          苦手分野一日一殺
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            猛勉強しないと合格しないのは当然。橋下徹は司法試験を受験したとき、眠くなると足を氷水に漬けて勉強したという。私の友人は小学生のころ、難関中学に行きたくて睡魔に負けそうになり、彫刻刀で左手薬指を刺したという。知力体力の成層圏を通過して限界を極めることで、学力はブレイクスルーするのだ。
            勉強法の本が売れているのは、楽して勉強しようと効率を求めるからだ。だが、最初から効率を求めるのは手抜きだ。効率は猛勉強の末に、非効率で泥臭い勉強をくぐり抜けた段階で、はじめて生まれる。
            最も愚かなのは、勉強の時間を時間ではかることだ。「勉強を10時間する」のは凄いことだが、大学受験生が勉強時間を自慢するのはやめたほうがいい。
            大人目線の言い方で恐縮だが、社会人になったら仕事時間が長いからといって評価されたりしない。締め切りに間に合わなかった作家が編集者に「1日15時間書いたのに・・・」という言い訳はできないし、製品を発注されて納期に間に合わなかった責任者が「うちの従業員は1日13時間働きました」と言っても聞き入れてはくれない。
            スポーツ選手は練習を10時間やったから年俸が高いのではなく、成績を残したから金銭的評価を得る。社会人にとって時間という「経過」を問われることはなく、頼まれた仕事をやり遂げた「結果」しか重要ではないのである。
            勉強時間を時間数で評価して、ただ勉強を「こなす」だけの自己満足では、力はつかない。勉強は万歩計のようにただ時間を重ねればいいわけではない。勉強は「こなす」のではなく「わかる」ためにやるのである。現在やっている勉強が本番の試験で使えるか、絶えず意識していなければ勉強ではない。
            勉強中はつねに「お前は理解してやってるか?」「本番で使える力がついているか?」「ただ流して時間稼ぎの勉強をしていないだろうな?」と自問自答しなければならない。
             
            ところで、苦手分野は誰にでもある。
            だが、いつまでも苦手苦手と言っているのは芸がない。試験が近づいているのに、いつまでも苦手を抱えているわけにはいかない。
            だったら、1日で一つの単元を猛勉強で極めてしまえばいいではないか。1日で苦手を克服する。1日で一つの単元を猛勉強で得意にする計画を立てる。
            朝7時には苦手だった単元が、夜11時には「わかる」ような作戦を練り実行する。
            苦手分野を一日で「殺す」のが「一日一殺」である。
            苦手分野の「一日一殺」勉強法で、数学の確率、古文の助動詞、化学のイオン化傾向、生物の遺伝、日本史なら江戸時代の文化史など、一日でできそうな単元を、きれいサッパリ潰す。
            猛勉強で一日一単元に絞り込めば、朝に理解できなかったことが、夜にはわかる強い充足感がある。苦手分野の「一日一殺」で、本番の試験でコケる危険性をはらむ懸案事項をクリアしていくのだ。
            みなさんは実は「一日一殺」を学校の定期試験で経験している。一夜漬けで教科書を何ページも頭に入れられるではないか。みなさんには定期試験の一夜漬けという成功体験がある。一夜漬けの集中力を「一日一殺」で発揮するのである。勉強は、一日何時間勉強したかなんて重要ではない。苦手をいくつ殺したかが大事なのだ。
            苦手分野を、一日少しずつ勉強しようと長期計画を立てても挫折する。苦手分野は青汁のように一気に飲み干すべきだ。

            なお塾生に「苦手分野は一日一殺です」と口で言ったら、一日一冊と勘違いしていた。「冊」でなく「殺」と言ったら胸をなでおろしていた。一日一殺より一日一冊の方が確かに怖い。

             

             white
            | 硬派な教育論 | 12:45 | - | - | ↑PAGE TOP
            ペーパーテストで人材を選ぶ理由
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              かつて日本陸軍では、陸軍大学卒業時のペーパーテストの点数が、その後の昇進に大きな影響を与えた。20代前半で最高の席次の者が、将来の大将。点数の低い者が陸軍大将に昇進するチャンスは、ほとんどなかったらしい。

              旧陸軍の人事で、ペーパーテストが滑稽なほど異常に重視されたことを、司馬遼太郎は珍しく強い口調で批判していた。
              ペーパーテストは秀才型の人材を選ぶのに適しているが、軍事作戦には天才型の才能が必要であり、受験秀才は記憶力に優れるあまり、過去の成功にこだわり過ぎ、新しい事態に対応する能力に欠ける、という趣旨だったと記憶している。
              天皇の神格化ではなく、ペーパーテストの神格化が国を滅ぼしたということなのか。私も司馬遼太郎の意見には、強く同意する。

              だが今のところ、ペーパーテストほど信頼性が強い試験方法がないのも事実だ。受験では最近面接や推薦が幅をきかせ始めたが、それでもペーパーテストが試験方法のメインの座を明け渡さないところを見ると、入学試験においてペーパーテストほど優れた試験方法は見当たらないのかもしれない。

              ペーパーテストは人間の粘り強さ・知力・忍耐力・継続力・事務処理能力・体制への従順さなどを、的確に判断する。

              それに、ふだん無口で目立たない人間でも、テストの点数でシッカリ自己主張ができるのが、ペーパーテストの面白さだ。
              極端に言えば、中学受験・高校受験・大学受験までは、声を一言も発せずに、黙って鉛筆を動かすだけで乗り切ることができる。

              もしペーパーテストが軽視され、選抜方法に面接や推薦が重視されたら、日本社会ではもっと自己主張が強い人間が評価される。
              たとえば日本の入学試験がディベートで行われるとしたら、アピール性はあるが、アクが強すぎ、しかも表面的で軽薄な、周囲の人間から敬遠されるような人間が増え、ギスギスした社会が生まれるだろう。

              ペーパーテストは派手さはないが落ち着いた人間にスポットライトを当てる。黙々とした静かな努力を、ペーパーテストはキチンと認めてくれる。
              「沈黙は金、雄弁は銀」の日本人の国民性に大きく合致する選抜方法なのかもしれない。


              つうか「雄弁が金」が国是のような、自己主張が強すぎる人間が大量にひしめく中国で、人材登用制度が「科挙」というペーパーテストだったのは面白い。中国の人材登用制度が面接という自己アピール合戦だったら、国内は混乱し『キングダム』状態になり、絶えず亡国の危機に瀕していただろう。

              日本でも中国でも、血の滲むような勉強の成果は少しずつだが確実に、堆積岩のように若者の頭の中で積み重なり、硬くてびくともしない学力の層を作り上げる。そんな学力の層の固さと厚さを試すのがペーパーテストに他ならない。
              ペーパーテストは受験者の脳に施す、ボウリング調査なのである。

              ただもちろん、ペーパーテストで試される能力は、代替可能な能力である。言葉は悪いが「誰でもいいから、能力がある人が欲しい」時にこそペーパーテストが試験方法として選ばれる。試験をする側と受ける側が顔を合わせる必要はないという事実が、ペーパーテストが代替可能の人材を求めている証拠であろう。

              唯一無二の個性を求める時、誰も取って代わる事ができない特別な力が必要な時、ペーパーテストは役に立たない。ペーパーテストの勝者は、相対的な勝者ではあるが、絶対的な勝者ではない。
              東大生はペーパーテストで選ぶことが可能だが、優れた政治家や小説家や芸術家や俳優やミュージシャンは、ペーパーテストで選ぶことはできない。

              生涯の伴侶を、ペーパーテストで選べますか?



               
              | 硬派な教育論 | 16:58 | - | - | ↑PAGE TOP
              試験に不合格になった時の母親の声がけNG集
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                子どもが不合格になった時の、声がけは難しい。
                神経質な神経戦になる。

                 

                受験に対して思い入れが強い親の場合は、一歩間違えるとこんな感情丸出しの言葉を子どもにかけてしまう可能性がある。

                 

                「どうして落ちたのよ? お母さんがっかり。葬式みたいだわ。外出するのが恥ずかしい。喪服着て歩こうかしら。私はね、あなたのためにパートで働いて、高い塾の月謝払ってきたのよ。食事だって気を配ったし。一番腹が立つのわね、ケンジ君が合格して、あなたが落ちたことよ。なんであなたが落ちるの。差別よ。試験に落ちるってこんなに悔しいものなのね。悔しくてめまいがしそう、吐き気がしそう、心臓が止まりそうよ。私のお腹から出た子が不合格だなんて信じられない。ねえ、私が悪いの? あなたが悪いの? 遺伝子の問題? 後天的努力の問題? 責任はだれ? ねえ、ちゃんと努力した? アタシの腐れ遺伝子がアンタを落としたのか、それともアンタの努力不足がアタシを地獄に落としたのか。ああ、ショック! ショック! ショック!」

                 

                子どもが試験に落ちた時、こんな風に、高畑淳子みたいなヒステリー状態になって感情全開の母親はまさかいないだろうが、受験熱が高すぎるあまり、内心では狂気錯乱している人もいるのだ。

                 

                多虐型もある。学校や塾の先生の非難を始める人だ。

                「絶対あんた合格してるわよ。担任が調査書に悪く書いたんでしょ。明日お母さん学校に訴えてくる。調査書の開示要求するわ。いままで調査書に悪く書かれちゃいけないから猫かぶって担任にゴマすってたけど、明日からは言いたいことは言う。女は化けるのよ。誰が遠慮するものか。学校もダメだけど、塾も塾よ。10月に国語の先生変わったでしょ。ベテランの中島先生がやめて、入社2年目の横河先生。あのひと無能よ。あんたのノートの板書見たけど、中島先生の板書はイラストとかあって楽しそうで、私でも力つきそうな気がしたけど、横河先生のは真面目なだけの授業って感じじゃない。頭がかたいわ。若手の経験不足講師が受験学年教えるんじゃないわよ。学校すんだら塾にも行くわ。トレンディエンジェルの斉藤さんみたいな教室長に文句つけてやる。「おたくの塾、システムがおかしいんじゃないですか? どうして中島先生やめたんですか?」って正論ぶつけてくるわ。あとあなたを落とした学校にも腹が立つ。だって試験の配点と採点基準がわからないじゃない。論述の採点なんてドンブリ勘定よ。配点と採点基準を公開してもらって、あんたの答案がどういう基準で採点されたのか教えてもらうわ。採点官の胸先三寸で、大事な入試を採点されちゃたまんないわよ。大相撲だってメジャーリーグだってビデオ判定あるでしょ。あなたが落ちたのは審判のミスよ。判定くつがえしてやるわ」

                 

                こんな、友近が狂った時のような、極端な母親は怖い。試験に関わる人間に対して、ことごとく敵意を燃やす。
                 

                以上2つの例、極端で現実感に乏しいデフォルメかもしれないが、子どもが不合格になった時、教育熱心な母親の心はパニックになる。
                まあいずれにせよ、試験に不合格になった時、親が饒舌になったり、逆に寡黙になったりする異常事態は子どもの心を折る。

                 

                高畑淳子や友近みたいな悪意全開の人は稀だが、善意で子どもを苦しめる母親もいる。
                子どもにとってグサグサくるのは、親が熱くてクサい言葉がけをすることだ。

                「お母さん、いつでもあなたの味方だからね」

                「あなたはね、本当は力があるのよ。お母さん信じてる」

                「運が悪かったのよ。これからの人生いいことあるわ」

                「若い時の苦労は買ってでもしろっていうじゃない。今回の不合格は、きっと肥やしになるわ」
                こういうのは、誰にでもあるのではなかろうか? 親は一世一代、渾身のキメ台詞をかけたつもりなのに、子どもの反応がイマイチだったり、ひどい時にはキレられたことはないだろうか。何が肥やしだ、クソババアがと。

                 

                親は熱いメッセージのつもりで言ってるのだが、子どもには暑苦しいばかり。暑苦しく芝居かかった紋切り型のセリフほど、子どもをイラつかせるものはない。
                大人が自分に酔って言ったセリフは、子どもには酔っ払いの戯言にしか聞こえない。

                 

                自然体が一番。だが自然体が難しい。


                 

                 

                | 硬派な教育論 | 14:46 | - | - | ↑PAGE TOP
                「朝型」と水商売
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                  勉強時間は朝型が理想的だ。だが朝型か夜型かは、家庭環境の要因が大きい。公務員やサラリーマン家庭なら自然に朝型の生活ができるが、夜勤の多い看護師や水商売の家庭では、夜型になりがちだ。

                   

                  たとえば母親が水商売で、帰宅が深夜のならどうするか

                  水商売の女性は、ママもホステスも、売り上げのために飲まなければならない。無理して「私たちもいただきます」と飲みたくない酒を流し込む。特に母子家庭で稼ぎが生活を左右する場合、命を張って売り上げを稼がなければならない。客の酒を飲めば飲むほど儲かるので、根性で飲み切る。店が終わったあとも、客と食事に行ったり、つきあいがあるだろう。

                   

                  店が終わり家に帰ると、泥酔して湯船の中で寝てしまう子どもは「お母さん死ぬんじゃないかって心配もするだろう

                  でもあまり酔ってない時は、勉強中の子供に「いっしょにラーメン食べましょ」って、サッポロ一番みそラーメン作

                  冷蔵庫のもやしと玉ねぎとキャベツ中華鍋で炒めて乗っけて。「蒙古タンメン中本風ね」と言って豆腐を入れる時もある。一味唐辛子を一瓶全部かけちゃう勢いで、真っ赤にして食べるわけ。あとバターをたっぷり。深夜の晩餐会。

                   

                  こんな生活だと、夜型にならざるを得ない。子どもは朝ご飯食べない。母はたいてい寝てるし。深夜のラーメンが朝ご飯みたいなものだ。夜型の環境は、子どもを深夜にしか勉強できない体質にする


                  でも夜の勉強、頭がトランス状態になって冴え起きていれば勉強が佳境を迎える瞬間があり、謎の集中力が芽生える。こんな時「寝ちゃったらもったいない」と思う。だから夜遅くまで勉強して、意識がなくなって気づいたら机の上にうつぶせになって寝ていることもある。夜型ってどこか、学者や小説家みたいでカッコいい気分にもなる

                  だけど、そんな生活が良くないことは、賢明な母親ならわかっている。
                   

                  そんな母親は、夜の仕事をしていても、朝は子どもより早く起きて、朝食と弁当を作っている。公務員やサラリーマンにとって朝型は自然体だが、生活が不規則な仕事を持つ母親には、朝型を維持することは毎日体力と気力を消耗するのだ。「夜型」という自らの生活リズムをぶち壊してまで、子どもの「朝型」を死守する。

                  看護師や水商売のようなハードな仕事で、朝型を維持しながら子どもを育てる愛情の力はすごい。
                  「朝型」の強さを本能で知っているのは、「夜型」の生活で働くお母さんなのかもしれない。

                   

                  | 硬派な教育論 | 15:55 | - | - | ↑PAGE TOP
                  一日何時間勉強すればいいか?
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                    「1日2時間勉強で、半年間で東大に」という、短時間の勉強で難関大学に合格可能だというふれ込みの本を数多く目にするが、現場の人間の目から見ればあまりにも嘘くさい。
                    難関大合格には長時間勉強が必要に決まっている。1日2時間で東大に行けると広言する塾講師がいたとするなら、それは塾講師でなく魔術師か詐欺師だ。
                     
                    それに、長時間勉強しても学力が上がるわけではない。勉強時間で勉強を測るのはナンセンス。「8時間勉強しなければならない」ではなく「気がつけば8時間勉強していた」という、勉強に熱中する状態を作りあげるのが先決だ。
                    勉強モードに入っていれば、8時間が1時間に感じる。「勉強時間の相対性理論」である。
                     
                    また、勉強の成果を時間で測るのは意味がない。結果が出ないビジネスマンが「私は12時間働きました」というのは言い訳にすぎず、手術を失敗した医者が「15時間もオペしたんです。努力を認めて下さい」といったら遺族の感情は大いに逆撫でされる。
                    勉強は、一日一定時間働けばいい労働ではない。理解し暗記して結果を出してナンボの世界である。
                     
                    勉強時間には、スキマ時間を取ることが大事だ。
                    成績が高い受験生は、勉強時間捻出がうまい。トイレや風呂や通学電車や休憩時間など、10分ぐらいのスキマ時間を見つけ出す。
                    スキマ時間の集中力は思いのほか高い。唐突な比喩で恐縮だが、勉強時間の捻出は、カニを食べるのに似ている。
                    足や身の大きな肉を頬張るのは、家や図書館の机に向かう時の勉強時間。スキマの勉強は、関節の細い肉をほじくり出している時間だ。カニの肉と格闘している時、人間の集中力はMAXに達する。お見合いや合コンにカニ料理店は絶対に避けた方がいいと言われる所以だ。
                    長時間勉強もいいが、糸屑のようなカニの身を取る執念深さで、スキマ時間を捻出しよう。スキマ時間での勉強は、「気分転換×集中力」の、とてつもない効果がある。
                     
                     
                     
                    | 硬派な教育論 | 17:49 | - | - | ↑PAGE TOP
                    繊細な子が進学校でドロップアウト
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                      繊細すぎると、進学校でつらい思いをする。
                      特に中高一貫生の、大人しいタイプの男の子は、ドロップアウトしやすい。
                      中学受験で、小学生の時にクラスメイトの数百倍勉強したが、難関中学に入れば勝手が違う。小学校ではクラスで一番だったのに、だが中学ではワンノブゼムである。
                      プライドが傷つく。小学生の時は黙っていても成績が良いことで敬意が払われたが、難関中学では埋もれる。
                      活発な子は部活や恋愛に活路を見出すけど、内省的な子は心理面と勉強面のダブルパンチで、学校に身の置き場がなくなる。気力が減退し、まわりからは燃え尽きたように見え、ひどい時には学校をやめてしまう。
                       
                      うちの塾OBにも、進学校をドロップアウトした子がいた。
                      彼はうちの塾で中学受験をして、遠方の難関中学に合格し、塾を小学校で卒業した、内気だが聡明な男の子で、風貌が大沢たかおに似ているので、ここではタカオ君という名前にしておこう。
                      彼が中学に入学した時には、順調な中高生活を送ることを、誰もが信じて疑わなかった。入学式の黒い詰襟姿が初々しく誇らしかった。
                       
                      だが、高1の時、お母さんから電話があった。タカオ君が高校を辞めたいといっているらしい。成績は落ちて不登校になり、家で本ばかり読んでいるという。
                      不登校の兆候は、高1の頃からあらわれた。
                      まずタカオ君は模試や定期試験の日に学校を休むようになった。それから普通の授業の日も欠席がちになった。彼はこの頃から「ゆとり教育は正しい」「偏差値で競争を煽るのは間違っている」と評論家のような口ぶりでつぶやき始めたという。
                       
                      家では父親が「お前には根性がない」と、タカオ君に対して大人の説得力ある口調で理詰めで注意するので、タカオ君は黙って反抗の意を示すので、家の中が緊迫状態でストレスに耐えられないという。
                      だから、お母さんは離島にいるおばあちゃんがタカオ君を引き取り、高校には行かず「晴耕雨読」のスタンスで、まずタカオ君の心を休め、大検目指す方法を考えているらしい。タカオ君自身もそれがいいと言う。
                       
                      私は島で塾をやっているが、実は本土とは橋で結ばれ、フェリーで5分しかかからない。大きなスーパーも、セブンイレブンもローソンもファミリーマートもある、比較的にぎやかな島である。
                      だがタカオ君のおばあちゃんの島は離島で、船の最終便が午後7時、人口は600人、店は雑貨屋と農協があるだけである。17歳の高校生というより、71歳の老人がリタイアして住むのが似合う島である。この島には、30年以上前に演歌のヒットを出した作曲家が、隠遁して印税生活を送っているという。
                      お母さんは、一人息子を高校も行かさず離島に住まわせる選択が間違っていないかどうか確かめるために、私に電話をかけてこられたのだ。
                       
                      私はお母さんの提案に、一も二もなく賛成した。
                      高校中退して、離島に隔離されれば、「ニート」「引きこもり」と人は揶揄するだろう。
                      明治大正時代には、当時の帝国主義的な風潮になじめず、仕事に就かず家でぶらぶらし、読書などをして過ごしている知識層の若者のことを「高等遊民」といった。
                       
                      夏目漱石が『それから』の主人公・代助が、高等遊民の典型とされる。一節を紹介しよう。
                      「君はどっかの学校へ行つてるんですか」
                      「もとは行きましたがな。今はやめちまいました」
                      「もと、何処へ行つたんです」
                      「何処つ方々行きました。然しどうも厭きつぽいもんだから」
                      「ぢき厭になるんですか」
                      「まあ、左様ですな」
                      (中略)
                      「それで、家にゐるときは、何をしてゐるんです」
                      「まあ、大抵寝てゐますな。でなければ散歩でもしますかな」
                      「ほかのものが、みんな稼いでるのに、君許り寝てゐるのは苦痛ぢやないですか」
                      「いえ、そうでもありませんな」
                      「家庭が余つ程円満なんですか」
                      「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
                      「だつて、御母さんや兄さんから云つたら、一日も早く君に独立して貰ひたいでせうがね」
                      「そうかも知れませんな」


                      代助は現在の視点から見れば、明らかに「ニート」「引きこもり」である。
                      だが私はここで「高等遊民」という言葉に、将来性がある若い人が読書をして知識を吸収する、将来に向けた涵養の時期というポジティブな意味をあえて与えてみた。
                      タカオ君は17歳で、離島でおばあちゃんといっしょに生活し「高等遊民」になった。私が彼に島に引きこもるのがベターという選択を支持したのは、彼の小学生時代の様子を見て、本が好きだという一点に賭けたからだ。
                      タカオ君が読書嫌いで、テレビやゲームに没頭するタイプなら、離島で高等遊民という方法は取れなかった。十中八九、怠惰なまま日常を過ごし、人生をスポイルすることになる絶望的な選択になるだろう。
                       
                      私はタカオ君を塾で引き取ることも当然考えた。だが、塾という環境は学校より競争社会である。
                      彼のような繊細な男が、若者の野心で煮えたぎる進学校や塾という競争社会に身を置くことは、トラの檻にリスを投げ込むようなものだ。それより離島で本に囲まれながら、学問の楽しさを本から吸収した方がいい。
                       
                      偏差値という数値は、闘争本能がある受験生には、アドレナリンが高まる数値である。偏差値が高ければ昂揚し、低ければ燃える。肉食系男子のための数値なのだ。
                      タカオ君のように、勉強を競走ととらえる「猛烈ビジネスマン型」ではなく、知的好奇心が赴くままに学ぶ「学者型」の子には、偏差値は自然な勉強意欲を萎えさせる数値である。競争社会や偏差値から離れることで、学問の本来の楽しさを知る。タカオ君はそういうタイプだとお母さんは判断したわけだ。親の本能は正しかった。
                      タカオ君は、離島で自学自習し、現役高校生より1年多くかかったものの、愛媛大学医学部に合格した。
                       
                      高2で学校をやめ、離島で過ごすというお母さんの奇抜な判断を、私がなぜ確信を持って賛成できたかと言えば、それは、私自身の経験が大きい。
                      私も開成高校という超進学校で、心を病んだ時期があった。勉強面と人格面ですごい同級生に囲まれ、劣等感に貫かれ無力感を感じ、勉強する意欲をまったく失った。勉強ができ精力的で、私が何もかも敵わないと感じた同級生は、現在衆議院議員をやっている。刺激的な環境に打ちのめされた私は、高2・高3と高校を休みがちになり、映画ばかり見て時を過ごした。
                       
                      大学受験に失敗した私は、1年間家に引きこもって、外界と遮断し宅浪して、早稲田をめざすことになった。国立大学を狙うには数学が必要だ、だが、数学の遅れは致命傷で自力では難しいと判断した。予備校に通って授業を受けるのが嫌で、参考書から学ぶ方が精神的にも楽だし、性に合っていると考えた。幸い私は現代文が得意で、読解力には自信があった。タカオ君も私と同じタイプと判断したのだ。
                      タカオ君は「高等遊民」から国立大医学部に合格した。でも、たぶんタカオ君は、「引きこもりから医学部に合格した」という、暑苦しいサクセススト―リーに、軽い嫌悪感を抱くだろう。
                       
                      内向的で読書好きな若者は、競争社会から隔離し、自分とだけ向き合うことで心の安定を取り戻し、勉強嫌いから抜け出すことができることもあるのだ。
                       
                       
                       
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