難関中学に入学した子にとって、中学校最初の中間試験が、この先勉強面でうまくいくか、落ちこぼれてしまうか、分岐点になる気がする。
難関中学の定期試験は、非常に勉強がやりにくい。どうやったらいい点が取れるのかわからない。とにかく勉強のやり方がわからない。「のれんに腕押し」のような感覚だ。
定期試験の勉強がやりにくい第1の原因は、難関中学に入学した子が、進学塾のカッチリした勉強のやり方に慣れているからだろう。
進学塾ではテキストもカリキュラムも「カチッ」としている。綿密にシステム化されている。テキストとカリキュラムは密接に連動していて、カリキュラム表を見ればテスト範囲は一目瞭然だ。
試験範囲も「算国理社すべてテキスト第2分冊第7回」という具合に明確で、試験勉強がしやすい。
また塾のテスト問題も何百人何千人が同時に受験する問題であるから、必然的に最大公約数的な問題になり、難問ではあるがクセが極力排除された、出題者の体臭がしない問題になる。だからテキストを勉強すればするほど、正比例してテストの点数は上がる。
これにひきかえ、中学校の定期試験は範囲も曖昧で、各教科の統一感もなく、問題も各先生の体臭がプンプンするローカルなもので、子供は戸惑う。
そして、学校の定期試験で子供が一番困惑するのは、進学塾の試験範囲が「テキスト」中心であるのに対して、中学校の試験では先生の板書を写した「ノート」が出題のメインを占めることだ。
進学塾のテキストは問題形式になっているものが主で、問題を解いていれば自然にテストで点を取れるようになっている。勉強が非常にやりやすい。
逆に板書ノートはテスト勉強が非常にやりにくい。ノートからどのような問題形式で出題されるか、慣れないうちは非常に戸惑う。
困ったことに、難関中学の先生は学究肌の先生が多く、教える内容も出題方式も独特だ。先生の「体臭」に慣れなければならない。
おまけに板書をしない先生もいる。中学入りたての子にとっては、内容が独特でしかも板書をしない先生のテストに向けて、何を勉強すればいいのか途方に暮れてしまう。中学校1年生に「ノート術」を教えてくれる人は少ない。大学の試験勉強と同じ勉強法が、中1の段階で求められる。
要するに進学塾のテストは相撲のようなルールがわかりやすい「単純系」で、中学校の定期試験はルールが難しい野球やアメフトのような「複雑系」だと言えるのかもしれない。
それでも、多くの難関中学では、テストの席次がシビアに出る。
難関中学に合格した子は、小学生の時に学校のテストを意識したことは、ほとんどなかったに違いない。勉強しなくても満点が取れた。小学校でテスト順位を発表することはあまりないが、学校のクラスの誰もがNO.1と認める学力を持っていただろう。
しかし難関中学のテストは、そんな簡単にはいかない。難関中学で1番を取るのは1人。当然あとの子は1番になれない。
難関中学の中1たちは、クラス順位を異常に気にする。小学校でダントツで一番だった子が、クラス50人中37番なんて結果が返却されたら、大いに傷つく。屈辱を感じる。
難関中学最初の中間試験は、自分の学力が意外と振るわない現実をグサリと突きつけ、強いショックを子供に与える。
難関中学で定期試験の順位は、子供の世界で一種の「ヒエラルキー」になる。
偏差値やクラス順位はもちろん変動可能な数値であり、方向性を間違えず努力精進すれば上昇する数値なのだが、最初の試験で衝撃を受けて、その衝撃が無力感につながると、子供は偏差値やクラス順位をインドのカースト制度のような、固定した数値として捉えてしまいがちになる。
俺はクラスで37位の男、私は偏差値43の人間と自己既定してしまう。
自分をヒレラルキー下位の人間と規定することは、最初のうちは痛恨の極みでショックが大きいが、低い成績にいったん慣れてしまうと、同時にそこが安住の地になってしまう。
「俺はバカだ」といったん開き直ってしまうと「低いポジションの方が居心地がいいや」という退廃的な気分になる。
努力して好成績をめざす過程で傷つくより、低い位置に安住している方が楽であることに気付く。また大学入試は6年後という遥か先だから、現実から思い切って目を背けることが可能だ。「俺はバカだ」と言い放つことは、快楽であり現実逃避である。
とにかく、難関中学に通いだした中1の子は、人生最大の疾風怒濤の時期を迎えている。中学受験も大事だが、入学後の中1初期は人生最大の転機と呼んでいいくらい、とてつもなく大事な時期である。
自由な校風の学校は危険だ。塾に通って確かなレールに乗ったほうが、成績面では安全だ。