猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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中学校の職場体験は過激に
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    地元の駅へ電車に乗りに行ったら、いつもなら改札口の駅員は年配の方が多いのに、その日に限って駅員が若い。駅の雰囲気が違う。
    駅員たちは若いうえに初々しい。童顔というか紅顔というか、駅員の制服が板についていない。

    しかも改札口に立っている若い駅員のうちの1人は、どこかで見た顔だ。誰だ?
    よく見ると、うちの塾生、中2のM君だった。意外なところで会ってビックリした。

    M君は学校の職場体験で、駅員をやっていたのだ。私が無言で笑いかけると、M君も照れて笑顔を返した。M君は韓流スターのような清潔感のあるイケメンなので、制服姿がよく似合った。

    着始めの制服は、人間を初々しく見せる。黄色いランドセルを背負った小学1年生、真新しく身体にフィットしていないブカブカの学ランかセーラー服かブレザーを着た中学1年生、私服で学校に通うのが初体験の大学1年生、安物だが清潔感あるスーツに身を包んだ新入社員、看護着を身に付けた少女のような看護婦さん・・・

    逆に、デカイ身体でランドセル背負った小学6年生、学ランの尻の部分がテカった高校3年生、薄ひげを生やした大学4年生はオッサンくさい。

    江戸時代以前の日本では、子どもは労働力だった。みんな働いていた。江戸時代の子どもは、武士階級はともかく、農民も商人も工人も、みな6歳7歳から貴重な労働力の一員だった。
    しかし、明治になって学校ができて、子どもは10歳〜11歳になるまで働かなくていいことになった。その後、義務教育の年齢はどんどん上がり、働き始めなければならない年齢は上がっていった。
    毎日が職場の渦中にいる江戸時代の子どもから見れば、職場体験などというものは、到底理解できないだろう。毎日が死活に関わる職場体験だからだ。

    ところで、職場体験には、広島菜を漬ける仕事、スーパーのレジ、観光客へのビラ配りなど、いろんな種類の仕事がある。職場体験の感想を聞くと、みな結構楽しそうである。
    ただ、どうせ職場体験をやるなら、もっと刺激的な体験を子どもにして欲しい。職業の良い面だけでなく、同時に悪い面とか、仕事の苦しみを経験すべきだ。

     

    スーパー銭湯の職員はどうだろうか?

    刺青を入れた客が来る。店長から追い出し係を命じられる。
    風呂で気持ちよさそうに湯を浴びている刺青客に、

    「刺青のお客様はご遠慮いただいています」

    「なんな、このガキは、わしが出にゃあいかんのか」

    「他のお客様の迷惑になっておりますので」

    「迷惑ゆうて、わしゃあ大人しゅう風呂入ってるだけじゃが。なんなあこのクソガキ」

    「規則です。直ちに出て下さい」

    と、堂々と言えるだろうか?

    学校の先生もいい。
    言う事聞かないガキ相手に授業をし、テストを作り採点し、部活の顧問になって夜遅くまで残業し、親からのクレームを受け、不登校の子の家を訪問し、組合活動の人間関係で揉まれ・・・・・子供は教師の苦労の一端が理解できるだろう。

    飛びきり責任の重い、緊急性の高い仕事を、中学生にいきなり任せるのもいい。
    たとえば寿司屋。職場体験に行ったら、親方がいきなりどこかへ消えてしまう。
    カウンターには口うるさそうなオッサンの客が10人くらい、「早く握ってくれ」とばかりに、エサを待つツバメの雛のように待っている。ネタ箱には、鯵とかサヨリとかイカとか赤貝が、さばかれもせず海から引き上げたままの姿で丸ままドスンと置いてある。さばき方がわからない。どうしよう。中学生は途方にくれる。

    パイロットはどうか? 機長と副機長はパラシュートで機外へ逃げ出し、乗客500名の運命が一手に任される。うまく着陸しなければ乗客の命も自分の命も失われる。操縦桿を持つ手が震える。

    救急病棟はもっと大変だ。緊迫性が異様に高い。
    中学生は突如、交通事故で瀕死の患者の執刀医を任せられ、薬品と内臓の匂いが漂う戦場みたいな手術室でメスを握らされ、横では「私の夫を助けてください、お願いします」と患者の奥さんが狂乱し、「脈拍落ちています」と看護婦が金切り声を出し、心臓を手づかみにしながらマッサージをし・・・・修羅場だ。

    職場体験でとんでもない重責を負わされたら、中学生の職業観・人生観は変わるだろう。
    以上の例は超極端だが、学力と知識と経験がないと、仕事ができないという厳然たる事実を、是非職場体験で子供に知ってもらいたい。ふだんの勉強の大切さも、わかろうというものだ。




     

    | 軟派な教育論 | 19:02 | - | - | ↑PAGE TOP
    中1の乱れた性生活
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      親は子供を信じすぎてはならない。裏で子供はどんな悪さをしているかわからない。
      特に、
      /討留守がち
      ⊃討厳しい
      子供が優柔不断でおとなしい

      の三条件が揃うと危ない。

      たとえば・・・
      うちの塾生の友人の啓介君は中学一年生。一人っ子。気は優しいが優柔不断な性格。お父さんが単身赴任、お母さんが看護師である。お母さんは夜勤で家を留守にすることが多い。
      夜勤の日は、夜、家には大人が誰もいないので、啓介君の家はクラスメイトのたまり場になっている。厳しいお母さんの目を盗んで、深夜までクラスメイトとゲームをしている。ポテトチップスやお菓子が散らばり放題。啓介君の部屋は遊び場になっている。

      啓介君も最初のうちは、お母さんに叱られるからクラスメイトが家に来るのを嫌がったが、気が弱いのでNOとは言えず、そのうち友人と夜テレビを見たりゲームをするのが楽しくなって、自分から友人を誘うようになった。看護師のお母さんのシフト表をのぞいて、夜勤の日がわかると友人たちにGOサインを出した。

      小学生の頃は孤独であまり友達がいなかった啓介君だが、中学校になってから友人と部屋で夜遊びできて、毎日が修学旅行のようで楽しくて仕方ないのだ。
      中学生はなかなか外で夜遊びできない。コンビニでたむろしてたら補導。啓介君の家は大人の目がないので好き勝手に遊べる、夜のレジャーランドにはピッタリの場所だ。

      看護師のお母さんは、この事実を全く知らない。病院で老人相手に格闘している時も、啓介君が家で真面目に過ごしていると信じ切っている。
      謹厳実直な厳しい親や教師の前では、子供は猫をかぶり悪い面を見せない。だから子供が裏で悪いことをしていても、親や教師は気づかない。厳しい親や教師は子供の裏の面に対して「情報弱者」になりやすい。

      遊びはだんだんエスカレートした。啓介君たちはゲームだけでは飽き足らなくなった。
      彼らが見つけた新しい遊びとは、アダルトビデオ鑑賞である。
      夜遊びを始めた頃は「となりのトトロ」とか「アバター」といった、ふつうのDVDを見ていたのだが、そのうち部活の中3の先輩が家にやって来るようになった。そして、「俺の家庭教師の大学生の先生が、これ面白いぞと貸してくれた」とAVを流し始めたのだ。
      ちょっと前まではランドセル背負っていた啓介君は興奮した。いっしょに見るDVDは「アナと雪の女王」から「アナルと雪の女王」に変わった。啓介君と友人たちは、最初はキャッキャッ騒ぎながら笑って見ていたが、40インチの液晶大画面に映るDVDの画像が佳境に入ってからは、部屋はピンと張り詰めた静寂な空気になり、中1の男の子たちは誰もが、真剣な目で映像を眺めていた。

      そのうち男子だけでなく、女子たちを一緒にAV鑑賞会に加えることになった。
      女子たちが啓介君の部屋にやって来た。女の子たちもビデオ鑑賞会に参加し、AVで勃起した男子の「もっこり」した部分を、ズボンの上からキャーキャー言って触った。
      啓介君は最初、股間を撫でる女の子の手の感触を「くすぐったい」としか表現できなかったが、そのうち「気持ちいい」という言い方のほうが、正しい気がするようになった。
      男の子は仕返しに、女の子の乳を揉んでやった。最初は指でツンツン胸をつつく程度だったのだが、調子に乗りはじめた男の子たちは、女の子の背後に回って、両手でシッカリ揉むようになった。
      リアル厨房の「乱交パーティー」が、密室で行われているのだ。

      お母さんが看護師で「夜の天使」として働いている間、子供は「夜のハーレム」に耽っている。



       
      | 軟派な教育論 | 19:44 | - | - | ↑PAGE TOP
      授業中笑わない子は成績が伸びない
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        授業中の雑談は大切だ。特に社会や理科は、授業内容を踏まえた雑談やウンチクを語ることで、授業に厚みができる。雑談にこそ授業のエッセンスが詰まっている。教科書やテキストの内容が骨ならば、雑談は肉である。

        また、授業に笑いは不可欠だ。私は授業中、10分に1回は生徒を笑わせるように心がけている。雑談やウンチクや笑いこそが、私の授業の柱である。

        勉強ができる子、知的好奇心がある子は、授業中、講師のギャグで大いに笑う。真剣に聞くところは聞くし、笑うところは笑う。授業態度にメリハリがついていて、授業中吸い付くように講師の顔を見ている。

        そして、どんなに講師のギャグがつまらなくても、雑談が面白くなくても、「ここは講師が生徒に笑いを求めている箇所だ」と察知すると、きちんと笑ってくれる。笑いの沸点の低い観客のおかげで、講師が売れっ子コメディアンになったように錯覚させてくれ、軽快に授業ができる。ありがたい。

        しかし、笑いの渦からはみ出して、笑わない子もいる。

        まず、中2くらいの反抗期の男の子。彼らは笑いの沸点が高い。なかなか笑ってくれない。斜に構えて、「ふん、くだらねえ」みたいな態度で授業に臨んでいる。ちょっとやそっとのギャグじゃあ絶対に笑わない。

        私は彼に笑わせるために、ギャグのレベルと精度を思いっきり上げる。授業は彼と私の勝負になる。私が笑わせたら私の勝ち、彼が笑わなかったら彼の勝ち。結局最後は私の勝ちになることが多い。彼が私のギャグで相好を崩した瞬間は、とっても嬉しい。勝ったぜ。

        しかし、私が苦労しても、頑なに笑わない女の子がいた。彼女は鉄面皮で、どんなギャグを飛ばしても笑わない。生来笑顔という装置が組み込まれていないが如く笑わない。まるで中世ヨーロッパの修道女みたいに禁欲的な雰囲気を持つ。笑うことは厳しい戒律に背くのだろうか。こんな無表情な子は徹底して伸びない。

        ところで、生徒が笑わないからといって、講師は生徒を叱り飛ばすことができない。授業中生徒が騒いでいたら注意することができるし、ノートに落書きでもしていたら怒鳴り上げれば解決する。
        しかし、生徒がギャグで笑わないからといって叱るのは、あまりに野暮だ。お笑い芸人が、客が笑わないからといって「笑え」と強制するのは己の芸の未熟さを棚に上げた恥ずべき行為だし、ミュージシャンが客のノリが悪いからといって、客を叱り飛ばすのも格好悪い。
        笑わない客に対して「客のレベルが低い」と言えるのは、北野武と松本人志と島田紳助と太田光ぐらいだし、ライブでノリの悪い客に対して、「お前ら、もっと楽しめよ!」と客を叱り飛ばしてサマになるのは、泉谷しげると布袋だけだ。

        とにかく、講師が生徒に向かって、ギャグで笑わないからといって「笑え」と怒鳴るのは、ものすごくみっともない。笑いの多い子の方が成績が伸びることを、熟練の講師なら体感しているのに、「笑え」とは死んでも言えない。

        生徒の側に立って考えてみよう。もし授業中、講師がつまらない親父ギャグを飛ばして、あまりのつまらなさに笑わず無表情でシカトしてたら、いきなり講師が逆ギレして、「お前、笑え!」と怒鳴りだしたら、生徒の側から見ればどうしようもない馬鹿講師である。

        挙句の果てに講師が「お前が笑わないのは成績が悪いからだ。笑う奴の方が成績が伸びる」なんて傲慢な台詞を吐いたら、生徒の心は一生その講師から離れる。



         
        | 軟派な教育論 | 13:13 | - | - | ↑PAGE TOP
        生徒の記憶力は信頼してはならない
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          教師は、生徒を絶対に信用してはならぬ。
          といっても、生徒が教師を裏切るとか、生徒に対して常に疑心暗鬼を持ち続けろとか、そんな深い陰険な意味ではなくて、生徒の記憶力を信用してはならぬ、という意味である。

          たとえば授業がとってもうまくいく。
          教師も生徒も「いい授業だった」と充実感を抱き、教師は満足して頭から湯気が出そうになり、生徒は素晴らしいミュージシャンのライブを聞いた後のような高揚感に包まれる。

          しかしせっかくの授業内容を、生徒は1週間後には少し忘れている。
          1ヵ月後には完全に忘れている。
          1年後には記憶の彼方だ。

          教師はせっかく生徒の頭にインプットした知識を、定着させる作業を怠ってはならない。
          たった1回教えただけでは、知識はタンポポの綿帽子みたいに四散してしまう。
          1週間後には復習を、1ヵ月後にはさらに復習をと、同じ単元を3〜4回反復しなければならない。

          もちろん塾では学校より先取り学習しているわけだから、2〜3ヵ月後には塾でやったことが学校の授業で繰り返し教えられるし、また塾でも春夏冬の講習会で復習の機会がある。

          ただ、教える側が、教えたことは生徒は忘れるものだという意識を常に持っているだけで、生徒の学力の伸び方は相当に違ってくる。
          復習のやり方は、宿題でもいいし、テストでもいいし、授業の最初の10分ぐらい使ってダイジェストで教えてもいい。

          とにかく反復が大事。
          料理人の腕が素人を凌駕しているのは、毎日毎日繰り返し厨房で料理しているからである。
          ベテラン教師の知識が圧倒で、教え方が上手いのは、毎年毎年同じ単元を子供に教え続けているからである。
          料理人も教師にも言えることは、反復こそがスーパープロフェッショナルへの王道、ということである。
          人間の記憶力は信用してはならない。



           
          | 軟派な教育論 | 16:35 | - | - | ↑PAGE TOP
          部活に先生が燃える理由
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            部活は子供にとって楽しいものだ。

            勉強より部活のほうが、子供には遥かに青春を感じる瞬間だと思う。

             

            勉強は孤独な個人技だ。しかし部活には友達との連帯感がある。

            チームとしての連帯感は人を陶酔させる。

            「スクール・ウォーズ」「飛び出せ!青春!」など部活ドラマも、松村雄基や石橋正次が演じる個人技に走る不良がチームメイトとの連帯感に目覚め、君も今日からは僕らの仲間と温かく迎えられ、集団技の虜になるという筋書きになっている。

             

            また黒澤明の「七人の侍」では、宮口精二演じる孤高の剣豪ですら、チームを組んで野武士から農民を守る任務を楽しんでいた。チームのために自分の力が役立つことを肌で実感する生き甲斐を、宮口精二は恥じらいの笑顔で表現していた。観客ですら「七人の侍」を見て、侍と農民といっしょに戦っているような、強い連帯感を抱く。日本映画の最高傑作と呼ばれる映画は、連帯感の素晴らしさを謳った映画なのだ。

            とにかく、集団技で闘う連帯感が、子供を部活漬けにするのである。

             

            学校の先生にも、子供以上に部活熱心な人がいる。

            授業よりも部活に燃える先生もいる。子供との連帯感から部活に生き甲斐を見出す。その心理は痛いほどよくわかる。

             

            教育に携わる者が一番燃えるのは、同じ価値観を持ち、同じ目標に向かって頑張る集団を教える時だ。教師がベスト・パフォーマンスを演じるのは、考え方が同じ素直な子供たちと、ゴールに向かって突き進む時なのである。

             

            先生にとっても、部活は授業より青春なのだ。

            部活は、みずから野球をやりたい、テニスをやりたいという意思を持ってやってくる子が集まり、しかも大会という共通の目標がある。先生のモチベーションは自然に高まる。部活で命より熱い夢を抱きしめて走る子供を見て、先生は胸を熱くする。

             

            逆に授業は、勉強ができる子と苦手な子の差が激しい玉石混交の異質空間である。すべての子に対して平等性を保たなければならない。能力差のある子、目的意識が違う子に、アウト・オブ・コントロールな状態で平等性を保つことが、どれだけ気遣いが必要であることか。カオスの中で心を病む先生もいる。

             

            ところが部活は、部活は退部も自由であるから風通しがいい。教師の側からすれば、自分と相性の合った子だけを集めることも可能である。部活は気心の知れた先生と子供だけの純粋な世界、「プチ王国」「ユートピア」になる。お互いに嫌い合う先生と生徒が、無理して一緒になる必要はない。

             

            生徒の側から見ても、部活を変えることで、より自分に向いている競技を選び、鬱陶しい人間関係をリセットすることもできる。好きな人と好きなことができる。

            学校には、どんな問題児でも受け入れてくれる部活の一つや二つはあるはずだ。
            たとえばある学校のレスリング部は、他の部活をやめた部員に広く門戸を開くことで有名である。「部活の問題児」の駆け込み寺になっている。
            相撲部で顧問を殴った北尾君も、柔道部の封建的な部風に馴染めなかった石井君も、野球部で身体が大きすぎて活躍できなかった馬場君も、友達の秘密を暴露していじめにあった中牧君も、みんなレスリング部に移籍し活躍している。

             

            とにかく、学校の先生にとって、部活の顧問が精鋭軍団の指揮官なら、クラス担任は誰も言うことを聞かないカオスの民主党代表みたいなものである。どちらの方が精神的苦痛かは言うまでもない。

            私が学校の先生なら、授業より部活に命をかける。

            頭の中で「HERO」を流しながら。

            | 軟派な教育論 | 13:28 | - | - | ↑PAGE TOP
            DQNネームをつける親
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              仕事の合間に軽い気持ちで、イタズラ心もあって、教え子たちの名前をネットで姓名判断してみた。
              塾生OB含め50人ぐらいの名前を調べてみた。
              そうしたら、ほとんどの子の名前が素晴らしい結果になった。それを見ると
              「協調性と積極性のある人柄が大物として人望を集める」
              「富栄名声を得て、家庭的・社会的にも恵まれる」
              「実業家などいずれの社会でも頭角を現し、おごることなく安泰」
              「困難にも挫けない辛抱強さが天与」
              「打てば響く頭脳を持ち不屈の忍耐力を持つ」
              「内心強固だが外面温和な人柄で、運気盛んなり」
              「晩年発展し長寿をまっとうする」
              誰もが最強の名前だ。

              逆に私の名前は、悲惨なくらい運気がない。
              姓名判断のコメントを見ると
              「薄幸挫折で、意志薄弱で無気力に拘わらず、妄想的に向上心ばかり強い」
              「人との対立を起こす神経質で疑い深いタイプ」
              「自己防衛的な性格で言動に爽快さがなく、執着心が強く片意地」
              「怒気を含むこともある空虚な暗い気性」
              「家庭的にも孤立、親族の縁も薄く、離別したり苦労の多い凶運」
              「言葉に皮肉が出やすく、自己過信になると偏屈な面が出て、人と対立」
              「急禍急変の災厄あり。没落変転する暗示あり」
              ひどく悪い結果に驚いた。直ちに改名しろと脅迫されているようだ。悪運漂う不吉な名前で、40年間も無謀に生きてきたのだ。たかだか占いではあるが、少なからず落ち込んでしまった。
               
              ただ、教え子たちの姓名判断の結果が良いのは、お父さんお母さんが姓名判断を基にして名前をつけているのが原因なのだろう。
              最近は子供の名前をつける時、ほとんどの親は姓名判断を参考にする。また姓名判断の専門家に名付け親になってもらった子もいるのだろう。
              私の名前は、明らかに姓名判断の手が加えられていない。

              子供の名前は一生ものだから大事だ。姓名判断にこだわるのも、親の愛と魂が込もっている証拠だろう。
              親は子供の名前をつける時、一世一代のコピーライターになる。

              ただ最近、DQNネームとかキラキラネームと呼ばれる、外来語を無理やり漢字にしたり、暴走族やアニメやゲームのキャラを使ったり、大胆不敵な当て字にする子供の名前が流行っている。
              例をあげれば、火星を「まあず」、騎士を「ないと」、光宙を「ぴかちゅう」と読ませたりする名前である。一世一代のコピーライターの大暴走である。

              親にとって子供は唯一無二だから、他の子とは違った名前をつけたい気持ちはわかるが、DQNネームはつけられた子供本人には不便である。ワープロで簡単に変換できないし、学校でもネタにされる。
              親からもらった大事な名前だからと、子供が誇りに思えるようになればいいが、珍名のせいであれこれネタにされて、うっとうしい気持ちになるのは確かだろう。
              DQNネームでいちばん困るのは、たとえば光宙君が大人になって犯罪をおかした時である。窃盗くらいの軽犯罪で「ピカチュウが泥棒!」と朝のワイドショーで報道され、殺人事件並みの大報道で揶揄されてしまう。

              もっと面倒なのは、男か女かわからない名前である。「優」とか「薫」とか「瞳」は男女の区別がつかない。黒木瞳と山口瞳では180度キャラが違う。
              私の名前も未央(みおう)というが、44歳の中年男なのに、誰が見ても女性の名前である。
              面倒なのは電話の本人確認で、必ずオペレーターから「ご本人様ですか?」と尋ねられる。 ムッとして本人だと言うと「失礼いたしました」とオペレーターの方がすまなそうに言う。
              ある時なんかは、私が女性だと完全に思い込んだブライダル業から「あなたの花嫁姿を演出します」と婚礼衣装のDMが送られてきた。44歳のオッさんの花嫁姿をどう演出してくれるのか楽しみだ。


               
              | 軟派な教育論 | 12:16 | - | - | ↑PAGE TOP
              個別指導と英会話とハゲと「恥」
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                個別指導が、なぜ、はやるか?
                それは、学ぶことを「恥」だと思っている人間のニーズを上手くつかんだからだろうと、私は考える。

                劣等感を持つ人間は、学ぶ姿を見られるのを恥ずかしがるし、競争を嫌悪する。集団塾に通うと、学校以上の競争を強いられる。ある程度の規模の塾なら学力別クラス分けがあるし、模試の順位もシビアに出る。

                「恥」を気にする親、プライドにこだわる親は、集団塾に子供を通わせない。集団塾じゃなくて個別指導塾だったら、競争にさらされることなく、恥をかくことなく、コソコソ秘密裏に塾通いをさせることができるのではないか。そんな心理が個別塾を流行らせたのではないだろうか?
                個別に限らず、塾に行くことを「恥」だと感じている人は案外多いのかもしれない。

                そういえば、大人が通う英会話教室も、個別が主流を占めている。
                自分のことを例にあげて恐縮だが、私はあまり英会話が得意ではない。英会話のできる人にコンプレックスを抱いている。劣等感がある。もし私が英会話を上達させるために英会話学校に通うとすると、たぶん、集団指導より個別指導を選ぶだろう。

                私より英会話が上手な人間と一緒のクラスだと、どうしても威圧され気が引けてしまう。流暢に英会話ができる人間が、ネイティブの講師と私を差し置いて授業中jokeを交わしていたりすると、私の劣等感はmaxに達するだろう。

                英会話が上手な人の姿を見たくない、競争なく自分のペースでやりたい、わからないところは「誰にも見られずに」質問したい。とにかく、恥をかく状況には絶対に遭遇したくない。だからもし英会話を習うなら、私は集団より個別を選ぶ。

                恥ずかしい姿を大勢の前でさらしたくない気持ちは、どんなことにも当てはまる。

                たとえばカツラ。

                薄毛の人がカツラをかぶることを決意し、不退転の決意ではじめてアデランスやアートネーチャーの門をくぐるとしよう。
                そんな時、薄毛の相談がスタッフとの個別対応ではなく、集団でカツラの説明会を聞かされる状況だったらどんな気分だろうか。

                指定された時間にカツラメーカーを訪ね、「どうぞこちらへ」と受付の女性に案内されたら、なんと薄毛の人が20人30人も大きな会議室に集められている。前後左右みんなハゲ。どいつもこいつもみんなハゲ。ハゲさん大集合。しかも自分もそんなハゲの1人。

                こんなハゲをさらし者にする無神経なカツラメーカーに客は集まらぬ。カツラの相談は個室で個別対応と相場が決まっている。カツラメーカーこそ医者や弁護士なみに秘匿義務が遵守されなければならない、顧客名簿が漏洩する事態にでもなったら、人権侵害で大騒ぎになる業界なのに。

                 

                 

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                学歴社会はなくならない
                http://usjuku.jugem.jp/?eid=477

                 

                | 軟派な教育論 | 21:50 | - | - | ↑PAGE TOP
                民主主義、一番偉いのは俺
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                  女子高校生に痴漢をはたらいた「ミラーマン」植草一秀氏の実刑判決が確定した。懲役4ヶ月。
                  「とくダネ」のコメンテーターをやっていた時には、植草氏には別に不潔な印象はなかったのだが・・・とにかく早稲田の恥である。

                  話は変わって、最近言論人の間で、民主主義についての懐疑をよく目にするのだが、民主主義は、やはり国家統治の上で最高の形態だという気持ちを、私は強く持っている。
                  太平洋戦争時の日本の軍部独裁、冷戦時代の共産国のプロレタリア独裁、現在の北朝鮮の金正日独裁、そんな住みにくい世の中は後免蒙る。
                  民主主義は衆愚政治だと一面では言われるが、1人の愚人の独裁、あるいは特定の官僚臭のする愚人グループによる権力の寡占よりは遙かに良い。

                  たとえば植草一秀氏が江戸時代の殿様だったらどうか。
                  彼は己の趣味を満足させるために、城の奥に全面鏡張りの部屋でも作るのだろうか?
                  直方体の部屋の六面がすべて、「燃えよドラゴン」のラストの格闘シーンみたいなガラス張りで、鏡の部屋で殿様は好みの女性を街でチョイスし、狼藉の限りを尽くす。
                  植草氏は民主主義国家の一大学教授だから手鏡程度のアイテムで済むが、封建社会の殿様だったらガラス張りの「ミラールーム」である。

                  民主主義国家だったら、警察は植草氏を逮捕し痛い目に合わせる「正義の味方」だが、封建社会では「ミラーハウス」に連れ込まれた女性達が逃亡しないように監視する役割を果たす「悪の味方」になる。
                  また民主主義国家なら、破廉恥事件を起こして社会的に葬られるのは加害者だが、特権階級が支配する政治制度の下では、支配者に翻弄された被害者はなす術がない。

                  ところで、民主主義嫌いの西部邁氏は、若い時学生運動の指導者だったが、自分たちの運動に民衆が無関心だった痛い経験から、彼の敵意は国家権力から民衆へ向かい、民主主義を批判するようになった。
                  だからと言ってはなんだが、民主主義を疑ってかかる人には、少し疑ってかかる方がいい。民主主義とは国民は国家の主人であると政治形態であり、民主主義批判は、われわれを国家の主人の座から引きずりおろすことである。

                  公民の授業でも、国民主権や民主主義を習う時に、「国民」とは誰なのか、「民主」とはどういうことなのか、わかっていない子が多い。

                  私は授業で国民主権や民主主義を扱う時、生徒にこう教えている。

                  私「日本で一番えらいのは誰かな?」

                  徒A「天皇」

                  私「大日本帝国憲法にはそう書いてあった。しかも神様だった。でも今は違う」

                  生徒B「総理大臣」

                  私「う〜ん」

                  生徒C「イチロー」

                  私「微妙だなあ、俺の答え言おうか?」

                  生徒たち、黙って私の答えを待つ

                  私「日本で一番えらいのは・・・・・・俺だ」

                  徒D「はあ?」

                  私「憲法に、そう書いてある」

                  生徒たち「????」

                  私「だって俺って、日本国民だろ。日本国憲法には、国民主権、民主主義が謳われているね。だから俺が一番偉い。俺が主権者だ。俺が日本の主人だ!」

                  生徒A「じゃあ先生、俺らも一番偉いってわけね」

                  「その通り。まだ君らには選挙権ないけど、20歳からは日本で一番偉い人になる。一枚の投票用紙こそが、俺たちが一番偉い証さ」

                  「首相もイチローも日本で一番偉い人だ。ただそれは総理大臣だからではなく、凄い野球選手だからではなく、日本国民の一人だからだ」

                  「しかも憲法には、公務員を選んで辞めさせるのは、国民の権利だとちゃんと書いてあるし、また公務員は国民全体の「奉仕者」なんだ。俺たちは市役所の役人や、警察や、自衛隊員や、国会議員のご主人様なんだよ」 

                  「でも、もしたった一票の力だけでは、「俺は偉いんだ」と自信を持って言えなけりゃ、議員に立候補して政治家になるもよし、市民運動するもよし、マスコミに就職するもよし、官僚になるもよし、とにかく言葉の力で他の国民の支持を得て、他人の一票を少しでも多くかき集める努力をすればいいのだ」

                  「「国が悪いよね」と思えは俺たち国民が悪いんだし、「政治家が悪いよね」と感じたなら選んだ我々に責任があるの。ついでに言うと首相が「バカ首相」なら俺ら国民が「バカ国民」です」

                  「麻生首相は、俺たちが民主的な選挙という手続きを経て、責任もって選んだ人だ。彼は俺たちの代わりに政治やっている人なの。せっかく我々が選んだ人なんだから、ある程度政治家に政治は任せろ。でもね、政治家に対して「これはおかしいな」と思ったら、引きずりおろして、他の人を選べばいい」

                  「とにかく民主主義なんだから、もっと俺らは威張ろうぜ。でも威張ったぶん責任は取ろう。選挙に行って、国民に対して責任もてる人を政治家に選ぼう」


                  最後に、国民が政治家を選ぶ基準を2つ。

                  2番目に大事な基準は「国民を豊かにする人」
                  不況を巻き起こす貧乏神みたいな政治家はだめ。

                  そして1番大事なのは「国民の命を守る人」
                  政治家の最大絶対条件です。

                  | 軟派な教育論 | 13:28 | - | - | ↑PAGE TOP
                  「先生、黒板が見えません!」
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                    私は板書があまり好きではない。字も下手だし、絵はグロ絵しか描けない
                    だから板書には熱心ではない。

                    せっかくの授業時間は、板書を写すことに専念させるより、知識や思考回路を叩き込みたい。
                    ためになる話をガンガンして、子供の豆腐のように固体化した脳味噌を熱で豆乳のように溶かし、思いっきりシェイクし攪拌したい。

                    ところで、講師が授業中一生懸命板書していると、講師の身体が長時間、黒板を塞いでしまう時がある。生徒は講師の身体が邪魔になって板書が見えない。

                    そんな時、「先生、黒板が見えません」と、いち早く抗議する子がよくいる。
                    小5・小6あたりの女の子に多い。私はそれを許せない。この種の軽々しい積極性を、私は激しく嫌う。

                    まず、「先生見えません」と言う子は、大人をなめている。
                    板書中の講師に向かって、「私のために、そこをどけ!」と傲慢な抗議をしているのと同じことだ。エゴイスト&ジコチュー丸出しである。

                    「見えません」ならまだいいが、「見えん」と言い放つ子がいたりする。
                    私は馴れ馴れしいタメ口を、子供だろうが大人だろうが激しく嫌う。何様かお前は。もしそんなことをしたら、顔が蒼ざめるまで怒鳴り上げ、教室から退場させる。

                    あと、「先生見えません」と言う子は、待つことを知らない。
                    講師が板書中に黒板の前に立ちはだかっているからといって、永遠に黒板の前にいるわけではない。いずれは黒板の前から去る。ちょっとくらい待てないのか。忍耐力の無さが透けて見える。

                    生徒も悪いが、「先生板書が見えません」と生徒に抗議される講師の側はもっと悪い。もっと余裕を持って授業をしようぜ。

                    特に私はデブなので、「見えません」と言われないよう細心の注意をしている。
                    生徒の側からいえば、ホンジャマカの石塚みたいなデブ講師が、白いワイシャツに汗を滲ませ、黒板の前に立ちはだかって一生懸命板書する姿は醜いし、デブの身体で文字を隠されたらイライラする。

                    私は生徒が板書しやすいように、身体を黒板から少し離したり、或いはくねらしたりして書く。それから30秒に1回くらい黒板から身を離す。


                    そして肝心なことは、生徒が板書をただ黙々と写しているだけの、退屈で非生産的な時間を授業で作ることは、極力避けなければならない、ということだ。数学の証明問題あたりは仕方ないのだが・・・

                    先生が書いて生徒が写す。そんな静寂な時間は授業時間の無駄である。

                    | 軟派な教育論 | 23:13 | - | - | ↑PAGE TOP
                    男女の反抗期の決定的な違い
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                      親は子供の反抗期に対してどんな気持ちがするのだろう。素直だった子が反抗期になって人格が変わってしまえば、親のショックは結構大きいに違いない。

                      反抗期前はニコニコ顔(o^−^o)して学校や塾であったことを事細かに笑顔で話してくれた子が、反抗期になると仏頂面(-_-#)で無口に黙々と飯を食っている。話しかけても「べつに」「ふ〜ん」とかわされて会話が成り立たない。

                      あまり干渉しようものなら、10年前までママのおっぱいを可愛くチュパチュパ吸っていたのと同じ口から、「うっせえ」とか「くそババア」という強烈な言葉が飛び出してくる。私が親なら絶対に心が乱れる。

                      親や教師は反抗期の子供を見て、これは正常な成長のプロセスだと頭ではわかっていても、反抗期なんかにならないでもっと勉強に力を入れてくれたら成績がグンと伸びるのに、みんな反抗期なんだからアンタだけでも勉強すれば大分違うわよと思うのも無理はない。反抗期は親の目から見たら勉強の妨げになる無駄な時期に思えてしまう。
                      特に受験と反抗期が重なると、「あんた反抗期なんかやっている場合じゃないでしょ」と声を荒げたくなってしまうお母さんの気持ちは痛いほどわかる。

                      ただ、親の側から見ると子供は「反抗期」「生意気盛り」かもしれないが、逆に子供の側からいえば親は「過干渉期」とか「ヒステリー盛り」に見えるだろう。とにかく子供にしてみれば、暖かく居心地の良かった親の存在が、思春期になると暑苦しくウザいものに変化する。

                      残酷な話だが反抗期を境にして、男の子にとって母親は最愛の人ではなくなる。ノンビリした親子愛から刺激的な異性の愛に目覚め、親の存在が脇に追いやられてしまう。もし生涯にわたって親が最愛の人であり続ければ、男の子は母親をさしのいて他の女と結婚はできないし、親は子と別居して介護を他人に任せたり、老人ホームに行く必要はなくなる。
                      子は親を忘れるが、逆に親にとって子供は永遠に最愛の存在だからスレ違いが起こる。親はその冷厳たる事実を自分で納得させるのに時間がかかる。親離れより子離れが大変だというのはそういうことなのだろうか。

                      私も教師になりたての頃は反抗期の子にどう対処していいかわからず、スズメバチの巣に突撃するみたいに反抗期の子に立ち向かって行ったが、今はもう歳で体力気力のいることはできない。
                      また私は今では強面で鳴らしているので、私に対して反抗する素振りを見せる子はいない。反抗がひどくても私の前でだけネコみたいに従順になる子が多い。それはそれで結構さびしいものである。

                      反抗期のキツイ男の子は純真で、大人の愛をたっぷり受けて育った可愛げがある子が多い。というのは子供が親に思いっきり反抗できるのは、どんなに反抗しても親の愛は絶対に変わらないという確信があるからである。
                      また、男の子の場合疾風怒涛の時期が過ぎたあと、台風一過の青空のように精神的に安定した立派な青年になる。だから男の子の反抗期に関しては、私は36になってやっと静観できるようになった。


                      男の子はいい。問題は女の子である。
                      女の子は反抗期になったら、「あっち」の世界に入り込んで戻ってこない子が多い。男の子は雨降って地固まるケースが多いが、女の子は一生雨降りみたいになってしまう。反抗期が過ぎても、もう勉強の世界には帰ってこない。

                      よく考えたら中学校まで男子と女子の成績はそんなに変わりはしない。高校生になってから男子の成績が急速に伸び、大学受験になると難関大学ほど男所帯になる。女の子の反抗期思春期が、勉強に関してのみ言えば修復不可能なケースがいかに多いか、教師をしていたら実感する。

                      特に中学時代真面目で勉強一筋だった女の子に「間違い」は起こりやすい。

                      私は塾へフェリーで通っているが、或る日私の席の真正面に化粧の濃い女子高生が座った。その化粧の濃さが尋常ではなかった。仮装大会みたいだった。
                      アイシャドウは真っ黒で瞼の上に広く塗られており、目の上にくまができたように見えた。白粉は能面みたいに分厚く、アイシャドウの濃さが強烈なためオタフクというより般若に近い。もちろん唇は口紅で赤く厚く塗られ、昔ジャック=レモンが出ていたアメリカ映画で見たパリの売春婦みたいだ。というか口紅を塗ったカリメロといったほうが近いかもしれない。とにかく化粧の厚さのせいで顔の原型をとどめていない。

                      私はその女子高校生に因縁をつけられるのが嫌だから目を伏せ視線を膝の上の文藝春秋に向けた。ところがしばらくするとその厚化粧女が「せんせい〜」と大きな声でわめいた。私はこんな化粧の濃い高校生をどんな馬鹿教師が育てたのか好奇心で一目確認したくて目を上げた。しかし彼女の目は私の方向を向いていた。どうやらその馬鹿教師とは私のことらしい。

                      おろおろする私を笑顔で見据えて厚化粧女は「先生、私誰かわかる?」と聞いてきた。私は能面の鑑定士のように化粧の中から過去の教え子の面影を探した。
                      そうそう、よく見たら去年卒業した巻畑洋子さんだ。

                      巻畑さんは中3まで塾で一番勉強ができた女の子である。中3までは定期試験では常に主要5教科500点満点中480点は取っていたし、1回450点台だったときには悔しくて涙目になったこともある。
                      また友人の女の子が踝までしか長さがないスニーカーソックスを履いているのを見て「あの子不良かもしれない」と真顔で言っていた。

                      そんな真面目な子が1年たったら昭和40年代の化け物女性歌手を髣髴とさせる厚化粧をしている。しかもよく見れば眉毛が糸みたいに細い。眉毛を細くすると大抵の人間は人相が悪くなる。顔がわからなかったのはどうやら厚化粧より細い眉毛によるところが大きい。

                      私は「おう、巻畑か」と言うと、巻畑は「そう、よくわかったね。先生、私変わった?」と聞いてきた。
                      私は陰では般若とかカリメロとか散々悪口を言う男だが、女性に対して面と向かって「お前化粧が濃い、メチャクチャ変」と言えるほどデリカシーは欠如していないし、またそんな勇気もない。だから私はオドオドしながら、「す、すこし変わったね・・・」と言うに留めておいた。緊張した。

                      中学時代に真面目なお勉強娘だった女の子の厚化粧はよくあるケースだ。思い出すだけでも5人は知っている。
                      女の子でも小学校高学年ぐらいから炭火のようにじわじわと異性に目覚め、幼少の頃からおませな子と呼ばれてきた子は、年少の頃からファッション雑誌とかを読み慣れていて、高校生になって化粧デビューを果たしても、化粧や服装の趣味の良し悪しがわかっているため、化粧はバランスがよく上手い。

                      しかし中学まで勉強一本やりで、入試が終わり安心したのか高校に入って青いガスの炎のように突然ボッと色気づいた子は、中学までは勉強ばかりしていて化粧や服装の趣味の良し悪しがあんまりわかっていないから、ただひたすら歌舞伎役者みたいに化粧を塗りたくり滑稽な顔になってしまう傾向がある。
                      家でも勉強机よりも化粧台に座る時間が長くなり、シャープペンをリップスティックに持ち替え、学業成績は底が抜けたように落ち、中学校の成績からは想像もできないような大学へ進学する。

                      化粧だけならまだいい。女の子の中には高校生になってから窯変して面変わりしちゃう子もいる。高校1年生・2年生ぐらいが境目だろうか、童臭を残した紅い頬をした清純な少女から、目のキツいヤンキー系の尖った顔に変身するのだ。オタクのアイドルからヤンキーのマドンナへ、中年男女から「こんな子が娘に欲しい」と熱望されそうな優しい雰囲気から、「この娘の親の顔が見てみたい」という醜悪な顔にガラリと変貌する。言葉づかいもまるっきり変わる。

                      女の子の反抗期は、ただ事ではないのである。

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