猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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英語の猛勉強を課す理由
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    中2・中1は1月、英語の猛勉強をした。

    ウイニングという分厚いテキストを、3週間でほぼ1冊終わらせた。

    パワハラ塾、ブラック塾長と、子供の人権110番に通報されてもいいほどの量である。

    しかも答え合わせは全部私がやり、ミスをしたら厳しく叱る。執拗に質問も浴びせる。緊張感で手を抜けない環境を君たちは耐えた。

    努力の甲斐があって、、模試では全国平均が60点台前半のところ、塾生の平均は90点近くもある。

     

    2月の学校の定期試験をはさみ、3月、またまた英語の膨大な課題である。

    一難去ってまた一難、今度のテキストは発展新演習。かなり難しいテキストだ。

    難しいテキストなのに、塾がコロナウイルスで休みなので、家で自分でこなさなければならない。塾の凛とした環境を、家庭で再現する必要があるのである。

     

    ではなぜ、英語の猛勉強をやるのか?

    なぜこんなに量が多いのか?

     

    言語を習得するには、とにかく量が大切だからだ。

    数学は必ずしも勉強量が得点に結びつかないが、英語は確実に勉強量と点数が比例する。英語は努力家が勝つ科目だ。

     

    語学は量をこなすと、自然と間違った文に「違和感」をおぼえるようになる。文法的に間違った文を察知する鋭敏なセンサーが発達するのだ。

     

    たとえば君たちは、下の英文が間違いだと一発で見抜くだろう。

    He work hard.

    I playing tennis in the park.

    These cats is cute.

    Ton can swims well.

    He is a English teacher.

    変な文だと素早く察知できるのは、猛勉強の成果である。英語に触れた時間が長いから、センサーが研ぎ澄まされたのだ。

    三単現のsの抜け、aとanの使い分けなど、たった小さな一語で英文はおかしくなる。

    日本語でも同じことだ。君たちは日本語ネイティブだから、瞬時に違和感に気づく。

     

    ユウト君がチキンを食べた

    ユウト君をチキンが食べた

     

    ハルト君は慶応大学を目指す

    ハルト君を慶応大学が目指す

     

    助詞を入れ替えるだけで、意味が180度変わってくるのがわかるだろう。

     

    言語は繊細なもので、繊細さを身に付けるには、言葉に触れる回数を増やす、すなわち勉強量をこなすことしかない。

    部活でも単純な基礎訓練を反復すれば上達することを、君たちは身体レベルでわかってるはずだ。

    勉強量を増やし反復することが、学問の王道なのだ。

     

     

     

    ところで、猛勉強なんて時代遅れと思う人もいるかもしれない。まわりの中学生は君たちほど勉強していない。

    だが猛勉強は「世界基準」である。日本の中学生の勉強は、特に周囲のアジア諸国に比べ、甘いと言わざるをえない。

     

    少し大きな話をすると、日本は世界から遅れをとり,特にアジア諸国に追いつき追い越されている。

    日本は物価が安い。西洋は高い。アジア諸国も昔は安かったのに、今は高い。

     

    私はよくアジアを旅行するが、最初に韓国に行った30年前、韓国は日本に比べ貧しい国だという印象を受けた。

    町はキムチのニンニク臭く、歩道は舗装されず靴は汚れ、タクシーに乗ると車の性能が悪く道路の振動を腰にダイレクトに感じた。

    トイレに紙を流すと下水管が細いから逆流し、歯磨き粉は香水みたいな変な味で、駅は古くて薄暗く、軍人が多く、地下鉄の車内には物乞いがウヨウヨしていた。

     

    でも物価は安かった。冷麺は300円、焼肉は腹いっぱい食べて800円もしなかった。高速バスの料金は日本の7分の1くらい。初めて韓国へ行った大学生時代の私は大食漢のデブだったが、食べても食べてもお金が減らなかった。

     

    時は流れ、韓国は物価が高い。コンビニでコカ・コーラの500mlペットボトルを買うと200円はする。冷麺もソウルでは1000円以上。日本より安いと感じるのは交通料金だけといっていい。

    アジアは物価が高くなり、日本はデフレで安いまま。だからインバウンドで中国韓国香港台湾タイあたりから、日本に観光客が来るのだ。

    かつて日本人がアジアに旅行すると物価が安いから貴族気分になったものだが、現在はアジア人が日本で爆買いする。

     

    日本がアジアに追いつき追い越されそうになっているのは、パワーの差、ズバリ言うと、勉強量の差だと、私は考える。

    現在のアジア諸国の子供は教育に熱い。日本は豊かになり子供はハングリー精神を失い、アジアの国は貧困から抜け出そうと目が輝いている。そもそも日本には人より抜きんでて勉強すると恥ずかしいという謎の価値観がある。

    (ここ十数年間の韓国は日本より悲惨な部分があるんで、その話は授業で)

     

    韓国の中学生は学校に弁当を2つ持っていく。昼と夜の二食分で、夜は塾に深夜まで通う。夜のソウルの街は繁華街が深夜までにぎわっているが、午前0時近いのに塾帰りの中高生がショッピングセンターでたむろしている。

    台湾は高層アパートが多く、子供に勉強部屋を与えられず住環境が悪いので、レンタル自習室というのがあり、深夜2時3時まで生徒が勉強している。

     

    アジアの塾では、生徒を厳しく叱る。攻撃的な韓国語中国語の怒声が教室で響く。いい加減な態度を許さない。韓国も台湾も小国だ。子供の学力を伸ばさなければ国が滅びてしまう。そんな緊張感が教育現場の末端にも浸透している。

    韓国も台湾も、科挙の伝統が現在に根付いているのだ。

     

    私は日常の息抜きに韓国や台湾に行くが、塾の多さと子供の熱気に、逆に刺激をもらって帰ってくる。うちの塾も負けるもんか鍛えてやると、「燃える男」になる。通塾日数や宿題が増えて迷惑するのは君たちだけども。

     

    日本の塾では、子供にやめられるのが怖いから言いたいことを言わない先生が増えている。大手塾のマニュアルには「生徒絶対叱るな」とある。パワハラ塾長の私なら一発でクビにされる。

     

    だが、君たちにはポテンシャルがある。ポテンシャルは刺激ある環境でなければ伸びない。記憶力がいい十代前半のうちに、英語を鍛えて記憶しておくべきことを記憶しておけば、高2ぐらいで世間が見え勉強の大事さが分かった時、「あの時もっとやっておけばよかった」と悔しくて天を仰ぐこともない。

     

    そして君たちの中には、中学校でトップクラスの成績を収める子もいる。

    だが井の中の蛙ではダメだ。「地元じゃ負け知らず」のレベルで満足していてはならない。

    英語は世界中で通用する。英語を学ぶのは、「世界基準」の言語を学び、君たちの魅力を世界中にアピールするためだ。

    また日本では古くさい猛勉強も「世界基準」である。いま君たちが格闘している英語の膨大な宿題は、言葉も精神も「世界基準」に引き上げる、小さな一歩だ。

     

    君たちは一生懸命が好きではないか。

    塾には「ONE PIECE」「MALOR」「僕らのヒーローアカデミア」「鬼滅の刃」「宇宙兄弟」「BLUE GIANT」「キングダム」などの根性系の漫画が置いてあるが、登場人物たちは、とんでもない試練に翻弄され、知恵と勇気で乗り越えていく。(「こち亀」は別)

    そんな姿に君たちは何かしら心を打たれ、食い入るように読んでいるではないか。君たちも漫画の登場人物のように、一生懸命勉強頑張ってるではないか。

    一生懸命は人の心を打つ。

    | 塾の様子ガラス張り | 16:13 | - | - | ↑PAGE TOP
    話しかけるなオーラ
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      自習室で勉強するのは偉い。

      だが自習室は「甘え」である。

       

      同級生たちが試験勉強を友達の家でやると言ってゲームしながらいい加減にやってる間、君たちは厳しい環境を選び、「トイレに行っていいですか」とすら口に出せないほどの自習室で、長時間集中して勉強する。こんな光景を見た人なら、誰もが真面目な中学生だと感心するだろう。

       

      ただ、勉強は本来、一人で孤独に行う作業である。

      テレビやゲームやマンガなどの誘惑に打ち勝ち、己の意志で無菌状態を保つのが、本来の勉強姿である。

      自習室でしかまじめに勉強できないのは、まわりの環境に流されているからにすぎない。怖い人の前では真面目で、解放されると怠惰になる。二面性のある人間は卑怯者である。

       

      もしかして諸君は、US塾の自習室のような、ノイズキャンセラーが装備されているような静粛な環境だから集中して勉強できるのであって、もしも図書館の騒々しい高校生の中に紛れ込んだとしたら、怠惰に流されてしまうのではないか?

      どんな悪環境でも意識高く毅然と勉強できるか?

       

      今後、コロナウイルスの影響で、塾は10日ほど集団授業ができない。中学校もない。原始時代の子供のように自由だ。日本全国の中学生は、遊びまくっているだろう。

      こんな時こそ、家庭学習が大事だ。家でカッコいい姿をお父さんお母さんに見せるべきだ。勉強や読書に思いっきり精を出してほしい。ストイックなサムライになった覚悟で、一人で孤高の勉強をすれば、化ける。

       

      一人で勉強する際、真剣勝負の空気、別の言い方をすれば「話しかけるなオーラ」を放て。

      本気で集中すれば、凛とした「話しかけるなオーラ」が漂う。勉強中、家族に怖いと思わせるくらいでなければダメだ。「俺に話しかけたらケガするぜ」と人格的迫力を醸し出すレベルまで集中しろ。

      「話しかけるなオーラ」を放出するには、一日に課題をどれだけやるかノルマを決める。決めたら一意専心、集中してやり遂げる。時間と範囲に縛りをかけよ。焦れば集中力は自然に高まる。塾の自習室と同じレベル、いやそれ以上の強い緊張感を全身にみなぎらせよ。

       

      君たちには、塾内に生きた手本がある。

      中1生の中には、私が個別で教えている高1のシンタと、同じ部屋で自習した経験がある子もいると思う。シンタには合格体験記も語ってもらった。優秀な外科医のような理知的な語り方が印象に残ったと思う。彼は進学校でトップクラスの成績の男である。

      シンタは紳士的な物腰の高校生だが、勉強中は「話しかけるなオーラ」を振りまく。彼が勉強すると緊迫感が部屋中に広がる。目はカミソリのように鋭い。人を殺めた後のような顔つきでテキストをにらみつけている。

      中1諸君は、図書館で集団でつるむ高校生とはまるで違う人格的迫力をシンタから感じたはずだ。

      シンタが途中で自習室から去ったあと、中1諸君はシンタの呪縛から解放され、いっせいにため息を漏らした。緊張感が一気にほぐれた。

      シンタには自分が熱心に勉強するだけでなく、後輩を勉強に集中させる磁場を発生させる。

       

      中学生諸君へ。

      難しい要求かもしれないが、シンタのような、まわりに緊迫感どころか、威圧感すら与える勉強姿勢を、家の勉強部屋で見せつけてほしい。自分が一生懸命勉強するだけでなく、まわりを感化させるカッコいい若者になってほしい。

      そして、君たちの中にも、たかだか13歳14歳にして、超一流の勉強姿勢の萌芽を感じさせてくれる子もいる。

       

      コロナウイルスで塾の集団授業が休みになったのは、君たちが「個」を磨くチャンスだ。

      一人で勉強できるのか、大量の学校と塾の宿題を計画性持って進められるか、まわりの誘惑に立ち向かえるか、勉強時間とそうでない時のオンとオフを明確に区切れるか。今回の安倍首相の決断は、空気に流されない「個」を鍛える、神が与えた貴重な時間だ。

       

      君たちそれぞれが孤独な家庭学習で「個」を極め、こんど塾に集まった時には、意識の高い「話しかけるなオーラ」の集合体のような、粛然とした雰囲気を出してほしい。

      競争意識が高い「個」が相互に刺激し、全員が自習室を引っ張るリーダーになり、互いを高め合うチームワークを期待する。

      依存体質で流され見かけだけ静かな自習室と、「個」が競争し合う自習室では、同じ静かさでも天と地ほど違う。

       

      勉強しないのは三流。

      まわりの空気に合わせて勉強するのは二流。

      どんな環境でも勉強できるのが一流。

      まわりを勉強する気にさせるのが超一流。

       

       

       

      (次回は3月7日(土)午後9時更新予定)

      | 塾の様子ガラス張り | 19:12 | - | - | ↑PAGE TOP
      「トイレ行っていいですか?」
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        ※US塾の中学生諸君へ

        コロナウィルスの影響で授業ができないため、いつもは授業中に語るモチベーショントークを、ブログの場をかりて書く。

         

         

        君たちUS塾の中学生は、学校の定期試験前には塾でカンヅメになり、中学校の課題をこなすために猛勉強する。週に6日、時には10日連続で勉強する。

        時間も長いが集中力も高いレベルに達してきた。中1の初期や、塾に初めて来た子の中には私語をする子もいたが、雰囲気にのまれ、勉強中はいっさい言葉を発しない。

         

        自習の時トイレに行きたくなったらどうするか?

        わざわざ先生に断って「トイレに行っていいですか」と声をかけるべきか、それとも黙って行くべきか。

        ふつうの塾なら「トイレ行っていいですか」と先生に声をかけるのが常識とされている。

        だけど君たちは「トイレに行っていいですか」という何気ない一言が、他の人の勉強の邪魔になることを空気で悟り、黙ってそっとトイレに行く。誰も自習中に「トイレに行っていいですか」と声を出したりしない。

         

        君たちが「トイレに行っていいですか」とわざわざ断るクセを捨てたのは、「トイレに行っていいですか」と声を発すると、友達の勉強妨害になることが、理解できるようになったからだ。

         

        逆の立場で考えてみよう。君たちが熱心に勉強してる時に、不意に誰かが「トイレに行っていいですか」と声を上げたらどうか。「せっかく集中してたのに邪魔しやがって」と軽く憤慨するのではないか。憤慨できるのは、集中して勉強できるようになった証拠である。

         

        勉強は睡眠と同じで、没頭している時に妨げられるのが最もつらい。

        シーンと静まった自習室の「トイレ行っていいですか」の無神経な一言は、午前3時、熟睡している友達の顔に氷水をバケツでかけるのと同じ行為である。

        だいたい「トイレ行っていいですか」とわざわざ声をかける人は、私が「ダメです」と言うとでも思ってるのだろうか。

         

        それはともかく、トイレの行き方一つにしても、静寂を保つために君たち塾生は気をつかっている。君たちは友達の邪魔にならぬよう、忍者のように気配を隠しトイレに行っている。現代の中学生でこれだけ高い自習環境を協力して作り上げた君達は素晴らしいと思う。

         

        うちの塾ではときどき、近くの図書館に散歩がてら行く習慣があるが、図書館の自習室で近所の高校生たちが自習しているのを見たことがあるだろう。

        だが、そこに緊張感はない。

        高校生たちは勉強中も席を立つ人が多く、友達どうし教え合ってるようで、話で盛り上がる。あれは自習室ではなく「夜のたまり場」である。笑顔と私語が飛び交う喧噪空間で、勉強の成績など上がるべくもない。

        図書館でチャラチャラ自習してる高校生より、君たちの方が何倍も立派だ。

         

        君たちは定期試験で5教科の目標点を設定して、それに向かって勉強している。トイレの行き方ひとつにも最大限気をつかい、静粛な環境を死守している。

        おそらく君たちが塾を卒業し高校生になったら、まわりの環境は「甘い」と感じるに違いない。そこで君たちが甘い環境に同化するか、それともUS塾で身に付けた厳しい勉強姿勢を孤軍奮闘で守るか、それは君たちにかかっている。

         

         

        (次回は3月5日(木)午後8時半更新予定)

        | 塾の様子ガラス張り | 18:42 | - | - | ↑PAGE TOP
        大手塾の講師は独立して個人塾を作れ
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          私は昔、大手塾の時間講師をしていたが、雇われ講師の私は、常にクビを恐れながら仕事をしていた。「この人に独立されたら、塾の(教室の)屋台骨が揺らぐ」と経営者が認識している人ではないと、簡単に塾を解雇させられる気がした。

          時間講師は旬を過ぎたら、使い捨てられるのがオチだ。時間講師はパートの人間のように、取っ替えひっかえが可能だ。低賃金を当てにするという意味で、本質的に大手塾業界は、ファーストフードやコンビニと似ている。
          また年齢を食った時間講師は、よほどのキャリアでないと煙たがられる。老いた風俗嬢のように使い物にならない中年講師が、自分には教務能力があるかけがえのない存在だと、悲しい自惚れを続けていることがある。経営者はそんな講師のクビをいち切ってやろうか、タイミングを見計らい手ぐすね引いている。
          塾講師が待遇について文句をいえば、解雇の対象になる。うるさい奴は切る。力のない高給取りは切る。少々力があって生意気な中年講師よりも、授業力に問題があっても従順で大人しい大学生のほうが経営者からは都合がいい。

          経営者なり教室長を脅かすのなら少々の力ではだめだ。圧倒的な力がほしい。「力」とは、具体的には、生徒や保護者の窓口に時間講師がなることだ。保護者の方が、塾に相談事で電話をかけてこられる時、「××先生いらっしゃいますか」と言わせる信頼力だ。
          当然クラス担任だったら相談事の指名がかかる。しかしクラス担任でなくても父母や生徒が相談事を抱えているとき、「××先生がいい」と指名される力がほしい。教室長すら飛び越えて指名される力が。雇われ講師はクビにされないためには、父母や生徒からの信頼が必要だ。
          もし塾をやめたら、大手塾の一教室の屋台骨が揺らぐ、そんな「危ない」講師にならなければならない。しかし時間講師が保護者の方と密接な関係を築くことを恐れるため、老獪な経営者や教室長は、講師の配置変えを頻繁に行う。私が大手塾を飛び出した最大の理由はこれだ。私は自分が見込んだ教え子たちと離れたくなかった。

          私も大手塾にいた時は、時間講師としての自分の微妙な立場は認識していたし、解雇させられないように努力してきた。また解雇とかそういう消極的な意識ではなく、この教室を「自分の王国」に仕立て上げようと、ある時期から積極的に目論んでいた。
          自分はたかが時間講師だから、トップには絶対立てない。教室長にはなれない。しかし最高実力者にはなれる。
          「将軍」は社員と時間講師の身分の違いでなる事はかなわずとも、「執権」にはなれる。自分が力を持つことによって、生徒のためになるのなら、本来人前に出る事が大嫌いな私でも、自分を強く押し出さなければならない。そんな気概をもって仕事をしていた。心は批判精神ではちきれていた。

          私は結局28歳で独立した。しかし独立の意志は、塾を辞める2ヶ月前まで、全くなかった。独立なんて大それたこと、思いつきもしなかった。カネもなかった。1万円しか貯金がなかった。親戚友人から100万借りて塾を開いた。黒板を買い机を買いエアコンを取り付け税務署に行き、1週間で開業した。まさか自分が個人塾をやるなどとは考えていなかった。計画性などまるでない。

          ただ私の場合、独立して成功だったと思う。自分が48歳で雇われ講師でいる姿など、今となっては想像できない。
          独立するには、人生をダイブする度胸が必要だ。大手塾に監禁され、やりたいことが宇宙のように広がっている時間講師は、独立する気概を見せていいと思う。
          塾は講師対子供、個人対個人の関係で成り立っている。塾の企業は中間搾取的な性格を帯びている。だから個人でも塾はできる。大手塾は一種の「集客装置」なのだ。
          講師の純粋に子供を思う気持ちとか、予習に賭ける勤勉さとか、それらは結局塾経営者の懐に、カネの形になって飛び込んでゆく。そんな経営者の老獪さに、独立で対抗しなければならない。

          有能な大手塾の時間講師は、自分の憤りが公憤なのか私憤なのか冷静に吟味して、もしそれが公憤ならば決断すべきだ。独立する時は、会社側も自分も胃に血が滴るような神経戦になるが、失敗したら切腹すればいい。
          生徒が20人いて、自分の家で塾を開けば、サラリーマンの初任給くらいの収入は得ることができるのだ。どんどん独立してほしい。
          個人塾を作るのは簡単だ。家の玄関に「●●塾」と紙でも貼っておけばいい。その瞬間、あなたは個人塾塾長だ。いや看板すらいらない。あなたがいま「私は個人塾講師だ」と思った瞬間、個人塾を作っていることになる。参入がこれほど楽な仕事があろうか?

          ただし独立すれば、批判の対象になる上司はいない。やる気のある時間講師は、自分とそりの合わない上司への批判精神がモチベーションになっていることがある。絶対に認めたくないだろうが、嫌いな上司に依存しているのだ。独立すれば意外にも、攻める側から守る側になることは、心に留めておきたい。


           
          | 塾の様子ガラス張り | 18:44 | - | - | ↑PAGE TOP
          私の退塾勧告
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            「塾をやめてください」
            私は塾講師として2度、親に退塾を告げたことがある。
            1回目は、素行不良の女子中学生に対してだった。夏休みに髪を金髪に染めてきたので、「その髪型では塾に入れない」と叱って帰したところ、親からすぐ電話があり、「塾はうちの子の個性を尊重してくれないんですか」とクレームがあり、では退塾してください、わかりましたということになった。どの塾でもよくある退塾のケースだ。

            これから語る2回目のケースは、珍しい。
            私が退塾を勧めたのは小学5年生の男の子だった。鹿児島ラサール志望の、頭が切れ難問をスラスラ解く「天才」だった。彼のノートの文字は、数年前に話題になった「東大生のノート」のような丁寧なものでなく、「ガリレオ博士」が解決法を閃いた時に、床や窓ガラスに書き殴る乱雑な走り書きだった。頭の回転が速いから自然と文字を書くのが速くなり、正解率は極めて高かった。天才音楽家モーツァルトの自筆楽譜は汚いので有名だが、彼のノートも解読不能だった。

            うちは小さな塾で、生徒との距離が「親未満、教師以上」と言ってもいいほど密接だ。だからこそ、私は彼の人生を親の立場で考えた。寝汗をかくような斑紋の結果、才能を生かすには個人塾より大手塾の方がベターという結論に達したのだ。
            中学受験で、灘や開成やラサールをめざす「できる子」が難関校をめざすなら、大手塾を選んだ方がいいと私は思う。決して中小規模の塾の講師の力量が劣っているからではない。日本には「知る人ぞ知る」小さな塾があり、塾長は自分の名前を背負って立っていて、子どもへの愛情が教え方の研鑽につながり、力量はずば抜けている。有能な零細塾の先生が、自分の全知全能を賭けて、執念込めて少人数の子供を引き上げるケースが、一番合格可能性が高い。ボクシングで無名のジムが世界チャンピオンを育てるように。私にも彼をラサール合格に導く自信はあった。

            では、なぜ私は断腸の思いをしてまで、大手への転塾を勧めたか。それは、大手塾の方が刺激ある友人ライバルに出会えるからだ。特に小学校5年生・6年生くらいの男の子には、自分よりできる友人やライバルの存在が、子供に負けん気を起こさせ、「やる気スイッチ」を押すのだ。
            難関中学を狙う子は、小学校ではたいてい1番である。個人塾でもトップクラスだ。しかし大手塾に通うと、たいてい自分より凄い奴がいる。模試の順位表が学力を残酷に教えてくれる。冷酷な数字の羅列によって天狗の鼻が折られてしまう。
            闘争心が強い子どもは、いまいち実態がつかめない偏差値より、順位の方が気になる。そして、自分より上にいる同級生の顔、特に成績表の1番上にドドンと鎮座している奴の顔を見たいと思う。凄い奴とは、絶対に「生」で会わなければならない。目でそいつの姿をしかと見届けなければならない。そして同じ部屋で、同じ授業を受け、同じ空気を吸わなければならない。
            たとえば、子供が小学校5年生からはじめて大手塾に通い始める。はじめてのテストの順位表が配られる。順位表を見る。1位に滝重暢之という名前がある。苗字はタキシゲと読むのだろう。暢之はいったいどう読むのか?賢そうな名前だなあ。自分はまず名前で負けている。どうやらそいつは、同じ校舎にいるらしい。 

            滝重が教室にいた。顔を見る。猫背の少年だったら裕仁天皇のような神々しさ、髪ボサボサの奇怪な目をした落ち着かない少年だったらアインシュタインの独創性、小柄でちょこまかした笑顔の良い少年だったら太閤秀吉の機知、頭のでかい巨漢だったら西郷隆盛の貫禄。どんな容貌であれ、容貌に意味を探る。容姿や体格や髪型や語り口調と彼の頭脳の関連性を探る。しかし、こちらが勝手に神格化偶像化しているのとは裏腹に、塾で1番の滝重くんは普通の子供みたいに誰かとしゃべっている。あいつ、しゃべるんだ。笑うんだ。彼の子供らしさに拍子抜けし、安心する。塾内に「天才」がいると、教室が静かな闘争の場と化す。

            だが、中学受験塾で難関中学を目指す小学生が最も意識するのは、実は成績が1番の奴ではない。意識するのは最初だけである。勉強が死ぬほどできる人間に対しては差を痛切に感じ、時がたつにつれ神棚に飾ってあるご本尊のように意識しなくなる。成績が1番の奴は取って代わる対象にはなり得ない。
            男の子は小5くらいから、身体が子どもの匂いから、男の汗臭いにおいに変わる。声変わりもする。男として闘争本能が芽生えてくる時期だそんな中学受験を戦う子が強く意識するのは、成績が同じぐらいの身近なライバルだ。こいつにだけは負けたくないという同級生が現れる。塾では気楽に口のきける仲のいい友達もできるが、心の中で1番強く意識している奴とは、気軽におしゃべりなんかできない。口をきかなければならない状況になっても、会話は気まずくぎこちない。無言で切磋琢磨しながら競争する。

            受験が終わり、2人とも志望校に合格する。お互いの能力を認め合っていたライバルと、同じ中学校に通う。緊張が解け、どちらともなく声をかけ合う。「合格したの?」「そうだよ」「よかったな」「そっちこそ」。受験時代の苦労話や、親のこと、兄弟のこと、趣味のことなど、堰を切ったように語り合う。 2人は中学で親友になる。現役ボクサー時代には意識過剰のあまり親密に話すことなんか考えられなかったジョーと力石が、天国で深い付き合える無二の親友になるようなものだ。
            中学受験で子供にかかる負荷は、大人の予想以上に大きい。子供は平然と勉強しているようでも、内心は不安に満ちている。同じ苦労を背負いながら、ライバルとして頑張ってきた。誰よりも自分の苦労をわかってくれ、誰よりも自分を認め挑戦してくれた中学受験塾でのライバルが、戦いすんで仲良くなるのは当然だ。こうして、小学生の時はライバル意識を燃やして、ろくに口もきかなかった塾のクラスメイト同士が、同じ中学校に合格したら進学先の中学校で無二の親友になる。

            塾で出会い、中学で親友になった者は戦友であり、中学・高校・大学と進んでも仲がいい。大人になっても、友人がそれぞれ企業や官庁に就職する。医師や弁護士になるかもしれない。嫌な言い方かもしれないが、小学生のうちからエリート人脈を築き上げることができるのだ。
            年端の行かない小学生時代に、苦労を共にした戦友。学閥ならぬ「塾閥」である。これこそ大手塾の強みである。私がラサールをめざす生徒に、塾をやめてもらったのは、塾内にライバルがいないからだった。切磋琢磨する友達がいる環境に、何としても置いてやりたかったのだ。大手塾で、強い友情を育んでほしかった。

            転塾の話を切り出したとき、大胆な決断にお母さんは驚いていらっしゃったが、理路整然と事情を話すと納得してくれた。子どもにもきちんと「君は大手塾の方があっている。もっと広い環境に飛び出せ」と、泣きながら話した。
            正直、塾としては彼が中学受験すれば、複数校受験して合格実績は出せ、塾の名声を上げる広告塔になれる。あと1年間、いっしょに受験を戦える。でも「親未満、子供以上」のスタンスから、私は経営を捨てた。かわいがっている子も捨てた。


            実は、子どもが塾に合っているかどうか、一番わかっているのは塾の先生である。

            塾は競争が激しいから、競争相手の動向に神経質になるため、自塾とライバル塾の個性や力量を正確に把握している。学力面でも性格面でも自塾との相性が微妙な子どもがいれば、ライバル塾に転塾した方が伸びるのではないかと、塾の先生は考えているものなのだ。


            だが実際には、よほどの問題児でない限り塾をやめさせたりしない。成績が良く高いレベルの環境で刺激を受けた方がいいと判断した子どもも、逆に学力が低く集団塾では伸びず個別指導や家庭教師に鞍替えした方がいいと判断した子どもも、塾で飼い殺す。

             

            私が退塾を勧めた子は、結局ラ・サールに不合格になった。

            大学は国立大学が不合格になり、東京の中堅私立に入ったそうだ。

            私が彼を手離した決断は、間違っていた。

            痛恨のミスだった。

            この経験以後、才能がある子は、徹底して私が育てるスタンスに変えた。

             

            | 塾の様子ガラス張り | 13:32 | - | - | ↑PAGE TOP
            講師1:生徒2の個別指導
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              いったい、先生1・生徒2の、1対2の個別指導というのはどうなのだろうか。
              講師も生徒も、やりにくくないか。

              たとえば、1人は勉強ができる素直で真面目な子、1人は勉強が苦手な子、それに講師3人の小さな空間。
              生徒がのび太と出木杉君の個別指導。
              勉強ができない子の側に立ってみれば、非常に好ましくない、居心地の悪い環境に違いない。

              彼は学校では「お客さん」だ。勉強は全くわからず、1日中ヘブライ語を聞いているのと同じような、退屈極まりない時間を過ごしている。
              それと同時に彼は、勉強ができる子の姿を目にしながら、能力的に越えることのできない壁を常に感じている。
              勉強ができる子の存在は、自分の劣等感をかき立てる不愉快な存在でしかない。

              だからこそ個別塾に通い始めた。心機一転個別塾では居心地のいいマイペースな環境が与えられると思ったら、隣には自分よりもずっと勉強のできる子が立ちはだかっている。
              学校と同じ状況だ。
              しかも、学校だったら自分と同じ「お客さん」は数多くいるが、塾では自分ひとり。逃げ場がない。常に隣の優秀な子と比較されている

              そんな状況で講師はどうすればいいのだ?

              講師が本能に忠実だったら、素直な優秀な子に愛着がわいて、言葉に棘がある勉強嫌いな子を知らず知らずのうちに遠ざけてしまうに違いない。
              教師と優秀な子の間は密接になり、勉強が苦手な子は疎外感を抱く。
              まるで小出監督と高橋尚子の密接な師弟愛の中に割り込む、しがないマラソンランナーみたいな気分になるだろう。

              逆に、勉強ができる子の側から考えてみると、立場が逆になる。
              巷で塾が流行るのは、優秀な子はより優秀にしたいという、親の願いが強いからに他ならない。
              だからこそ、勉強ができる子の父母の方は、勉強が苦手な子と同じ環境で学ぶことに抵抗を持つ方が多い。

              学校ではそんな環境に対して当然ながら文句が言えない。しかし塾では勉強が苦手な子と隔絶された環境で勉強して欲しい。
              特に集団塾じゃなく個別塾を選んでいる優秀な子の親は、なおさら自分の子供を「特別扱い」して欲しい願望があるだろう。勉強ができない子を近づけるなんてとんでもない。

              1対2対応の個別指導で、勉強ができる子とできない子を同室にすることは良い対応とは言えないし、やむを得ずそうなった場合は、講師や個別指導塾の室長は、トラブルが起きないように神経を尖らせておくべきだろう。

               
              | 塾の様子ガラス張り | 16:13 | - | - | ↑PAGE TOP
              夏期講習会の継続率
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                夏期講習会もようやく終わり。夏講は塾業界で禄を食む人間が1年で2番目につらい時期である(1番は当然冬講から受験にかけての時期)
                夏講の最後の日にはテストをする塾が多いのだが、夏講最後のテスト結果は講師にとって結構気になるもので、夏に子供がどれだけ学力が伸びたか格好の指標になる。夏講の努力の汗がどれだけ実になったか、講師としての能力を試されている気になる。

                私が大手塾の時間講師だった時、私がいた分教室の時間講師たちは、他教室とのテストの平均点競争に異常に燃えていた。特に私は。
                夏講の最終日、まとめテストが終わる。生徒の答案を集めて、講師室では夜遅くまで採点が続く。
                採点しながら講師たちは口々に、
                「おっ、吉田の数学上がったなあ」
                「丸山の社会アカンわ、点が落ちとる」
                「あれほど言ったのに、百済と新羅の位置が逆になってる。なんじゃい」
                「隆弘のバカ、 y=5x+6 を y=5+6 なんて下らんミスしとる」
                と自分自身に向けてなのか、それとも他の講師に向けてなのかわからない叫びをあげながら、活気ある採点風景が続く。
                採点が終わり、点数を集計し平均点を出す。事務のお姉さんがパソコンに点数を入力する。

                翌日には県内各教室の各教科・全教科の平均点がファックスで送られてくる。
                他の教室の平均点を見ながら、時間講師たちは一喜一憂する。
                「うちは数学は新潟県内トップ。よっしゃあ! 新潟中央校よりうちの方が高いぞ」
                「柏崎校の社会は異様に点数が高いな、生徒に答え教えとるんとちゃうか?」
                「長岡校の国語の平均点は高い。長岡校には藤森先生がいるからなあ。さすが。今度は勝つぞ!」
                時間講師たちは、まるで高校野球の監督やコーチみたいに、自分の教室の生徒の平均点を上げることに全力を傾けたものだ。
                またそんな教室間のライバル意識が、進学実績のが上がることにつながったのである。

                ところが、正社員である教室長は、他教室との平均点比較なんか全く気にしない。彼らが気にする唯一の数値は、夏講から通常ゼミへの「継続率」なのである。
                継続率というのは、塾に夏期講習会だけ申し込んだ子供のうち、何人が9月からも続けて塾に来るのか、その割合を示す数値である。
                たとえば夏講に中3生が30人申し込んだとする。そのうち9月から引き続き21人塾に来るとすれば、継続率は70%ということになる。
                つまり、夏講で塾の指導方針を見てから引き続き入塾するか決めようとする人や、夏講だけしか塾に通うつもりがなかった人を、いかに9月以降塾に引き止めることができたかが、継続率という数値の高低に表れる。

                継続率とは大手塾の社員に課せられた「ノルマ」である。夏講が成功か不成功かは、会社にとっては生徒の成績の伸びではなく、継続率によって判断される。教室長は継続率が悪いと会議で上から叱られるので気が抜けない。継続率には出世がかかっているのだ。

                夏講も中盤に差し掛かると、講師室に夏講参加者の名前が張られる。そして9月から継続することが決まると、名前の横に文房具屋で買ってきた赤いシールが張られ、まるで選挙の時の政党本部みたいな状況になる。
                そして夏講後半の講師ミーティングは、継続率のことばかりが話題になる。

                教室長は、
                「講師のみなさん、朝の授業の20分ぐらい前に教室に入って、夏講だけ来るつもりの子に、それとなく継続するか聞いてくれませんか」
                「中3進学クラスの石丸彰洋じゃけど、9月から来るか直接聞いて欲しいんよ」
                「中2基礎クラスの村尾康子と田上泉と安浦綾香と篠田奈津子の4人は友達じゃけえ、4人全員来るか全員来ないかどちらかなんよ。4人来たら大きいで。山野さん(講師の名前)、この子らの親に電話入れてプッシュしてみて下さい」
                と、講師に対して継続率アップのための指示にあれこれ忙しい。

                正直言って継続率が上がっても、時間講師に直接メリットがあるわけではない。
                継続して生徒数が増えても講師の給料が上がるわけでもない。得するのは会社だけである。継続率は会社のメリットにはなるが講師のメリットにはならない。継続率という数値に関して、会社と講師の利害関係はかなりずれる。

                というわけだから、継続率に一生懸命にならざるをえない教室長に時間講師が従うかどうかは、教室長の人柄に左右されるところが大きい。
                時間講師を評価してくれる教室長だったら、彼を男にするために時間講師は一丸となって協力する。継続率を下げて教室長が左遷されて去ってしまったら仕事がやりにくいし、また良い教室長が指揮する教室は、何事にも積極志向でどんなことでも誠心誠意全力になって取り組む環境ができているので、継続率の上昇に何の疑問も挟まずに素直に会社の方針に従う。
                壁の名簿に赤いシールが張られるたびに、社員も講師も喜んで自発的に拍手をする。

                しかし教室長に人望がなかったら、まさに面従腹背の世界である。時間講師は嫌いな教室長の出世のためにわざわざ継続率を上げてやる必要などない。時間講師たちは「何で俺があの教室長のために営業をせなあかんの?」と投げやりになるし、むしろ継続率を下げて教室長が上司から叱られるのはいい気味で、責任を取らされてどこか他の教室に飛ばされてしまえばいいと心の底では思っている。

                そんな人望のない教室長のために継続率を上げようとする時間講師がいるとすれば、それは根が本当に素直で誠実な人か、あるいは親に積極的に電話をかけて自分のファンにして、いつか教室長の寝首をかいて独立して塾を作ってやろうという魂胆のある人のどちらかである。

                たいていの講師は、「この子には来て欲しい」と思う子は熱心に誘うが(つうか、塾に馴染んだ子は講師側が誘わなくても勝手に阿吽の呼吸で継続するのであるが)、そうじゃないと熱心に誘ったりはしない。
                塾に来て欲しくない向学心の薄い子に対して、継続率アップのため心ならずも「ねえ、9月からも続けて塾に来ない?」と誘って、「え〜、あたしもう来ないよ〜」なんて生意気に振られてしまったら腹立たしいことこの上ない。だからそんな奴に対して賢明な時間講師は声をかけない。

                そんな真面目にやっている子に悪影響を与える態度も学力もメチャクチャな子供に対しても、商売気と出世欲が露骨な人望のない教室長は熱心に継続するよう誘う。

                教室長「ねえ。9月からも来なさいやあ。成績伸びるでえ」
                子供 「遊びたいから来ないもん」
                教室長「そんなこと言わんで、来いやあ。来てくれよお」
                子供 「行ってあげたいけど、だめ」

                やる気も可愛げもない生意気なガキに対して、猫なで声で継続を迫る教室長のアホな会話を聞いているとやりきれない。

                しかし時間講師から個人塾の塾長に転進した今では、継続率も塾を維持していく上で大事な数値だということが身にしみてわかる。かといって時間講師時代のような、¥こだわりも決して疎かにしてはならない。
                個人塾の経営者は、金にうるさい経営者と、学力向上にシビアな講師が合体していなくてはならないのだ。


                 
                | 塾の様子ガラス張り | 17:54 | - | - | ↑PAGE TOP
                塾OBが書いたチラシの文章
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                  塾の広告を作るため、塾OBに原稿を依頼したら、素晴らしい出来の原稿が返ってきた。広告の文章が書けずに悩んでいたので、嬉しい限りだ。うちの塾の広告は文字数が多く、ほぼ100%私の文章で埋まっていたが、今回は90%が塾OBの文章である。全文紹介したい。
                   
                  ■就活力を受験勉強で鍛える
                  (大阪大・大学院2年・北高・アンパンマン君)
                  就職活動時期は大変だった。どの企業も私を評価してくれ、なかなか落ちないのだ。二次三次最終と面接が延々と続く。私は研究室に所属しているが、面接続きで自分の実験もできず、3月中旬から4月終わりまで、ほぼ毎日どこかで就職活動があった。
                  結局第一志望の企業から内定をもらい就職活動を終えた。本当に就職氷河期と揶揄されるような時代なのか? 同じ研究室の同期は何社も受け、落ち、そしてまた志望する企業を探す作業に戻る。精神的にヤケになる者も出てきた。私との違いは何なのか?
                  企業は受験者の【個性】を見る。この【個性】とは、先天的なものでなく、後天的に鍛えて身につける、行く手に立ちはだかる困難な課題を解決する力だ。課題への取り組み方は個人で異なる。時間も違えば、方法も結果も十人十色だ。【個性】は、子供の頃から自分の課題に真摯に向き合い、解決する経験を積まなければ身に付けられない。
                  私は【個性】をUS塾で確立した。US塾では、課題を解決するのに制約はない。苦手分野の国語は毎日模試をした。問題は全て塾長が揃えてくれた。点数が凹んだら直ちに作戦会議だ。
                  受験勉強で、知識が足りない時は知力を振り絞って理解に努め、気力に欠けていると認識したら精神を昂らせ、状況に応じて課題に取り組み、成績を伸ばしていった私にとって、面接は自慢大会だった。面接官は私の受験時代の苦労や経験を、重箱の隅をつつくように聞いてくれ、私が答えると感心し聞き入って下さった。実際それで面接は簡単に合格できた。私は受験勉強で、他人が到底手の出せない力で真正面から課題を解決してきたのだ。鍛え抜いた【個性】が他人に負けるはずがない。
                  US塾での受験の熱い経験は、本気を飛躍させ、想像できない域まで到達させる。就職活動で己の人生を堂々とアピールできる濃い経験をし【個性】を磨き抜きたい人はUS塾に集え。
                   
                  ■いざという時、支えてくれる人がいる
                  (大阪大・大学院2年・北高・アンパンマン君)
                  僕は自習室で、気づけば4時間ぶっ続けで勉強やってるなんて日常茶飯事でした。厚さ7センチぐらいある化学の参考書を3日かけてやったりしました。
                  でも本番、2次試験で大きなミスをしました。2次試験が終わった後、塾に行き勉強しようと思ったのですが、なぜかパソコンの画面に向かい、2時間ぐらいボーッとしてました。目がうつろでした。先生曰く、本気で死ぬんじゃないかという顔をしていたそうです。
                  頭では勉強しないといけないと思っていましたが、どうしてもできませんでした。もう無理だって思いました。自習室に毎日通っていた僕が、塾を数日休みました。その間、何をしていたのか記憶にありません。 
                  塾に行き、先生と今後を話し合いました。ほんとに泣きそうになりながら話をしました。泣いていたのは、僕だけじゃないって気づいた瞬間でした。 僕自身、あのときほっておかれてたら、どうなっていたかはわかりません。とにかく言えることは、支えられないとだめなときに、しっかり支えてくれた人が先生でした。大学受験の全てをやってもらったといっても過言ではなかったです。
                   
                  ■日本史が大好きな人の勉強法
                  (同志社大1年・東高・マサキ君)
                  僕は日本史が大好きです。勉強しなくてもセンターなら8割は取れる自信はありました。また、日本史の好奇心が強すぎるため先生から「日本史は勉強するな!」と厳命されたほどです。毎週欠かさずに見る大河ドラマが僕の原動力です。知識を頭に叩き込むのではなく、知識の方から頭に飛び込んでくるのです。
                  日本史は、あるコツさえ押さえて観れば点数はガンガンあがります。そのコツとは自分でNHKのプロデューサーになったつもりで大河ドラマを創るのです。キャストは自分で自由に決めます。秀吉は竹中直人、家康は西田敏行、みたいな具合です。そのドラマの再生が試験中にできるようになれば、定期テストやセンター試験では7割から8割の点数は何もしなくても取れます。
                  しかし、関関同立や早慶は一筋縄ではいけません。受かるためには難関大学の問題でしかお目にかかることのできない人物をドラマのキャストに加えなければなりません。これが一番面白い作業です。8歳で死んだ7代将軍・徳川家継が鈴木福くん、絶世の美女と言われた額田女王は綾瀬はるか、悲劇の宮さま有栖川宮熾仁親王は佐藤健、阿部定が壇蜜といった具合です。頭の中に壮大な大河ドラマを作り上げることで僕はセンター試験9割、難関大学合格を勝ち取りました。
                   
                  ■日本史が大嫌いな人の勉強法
                  (立命館大1年・北高・スグル君)
                  僕は日本史が大嫌いです。夏までセンター模試で30点台連発。そんな僕が85点をなぜ本番で出せたのか。まぐれではない。きつい努力をしたからだ。
                  日本史が好きな奴は、大河ドラマ」を見て流れがつかめていればできると、僕には全く理解できないことを言っていたが、僕がやったことは、「日本史書き込み教科書」だけである。穴埋めをし、テストを繰り返す。ただこれだけ。最初は全く穴が埋まらない。用語集を使って見直しをし、暗記するまで解き直す。  
                  これを氷河期から小泉純一郎まで繰り返す。単純かつ地味な作業でボリュームたっぷり。毎日毎日、暇さえあれば書き込み教科書をやり続けた。焦るし飽きる。できるようになっている実感も湧かないし、ほんの少ししか点数も上がらない。精神的にピークに追い込まれ「つらい」という言葉をよくSNSに投稿をした。やりきれば点数が上がると信じて気が狂うようにやりまくった。 でも、書き込み教科書のおかげで流れが理解でき、本番では、単語も何度も書いたことがあるものばかりで焦ることもなかった。
                  書き込み教科書を書き込みまくった原動力は、日本史オタクで大河ドラマを見れば点が上がるなんて言っている奴らへのジェラシーと、強い向上心があったからだ。
                   
                  ■東高から、難関大に合格したい「サムライ」
                  (同志社大1年・東高・マサキ君)
                  東高で、去年の入試で同志社に合格したのはたった二人です。全校生徒の1%にも満たない確率に滑り込むために、僕の送った高3の一年間は過酷なものでした。朝一番に学校に登校して勉強、学校の授業が終わるとすぐに塾。休日は1日中塾で勉強。そんな生徒は東高では絶滅危惧種です。
                  僕の勉強方法は東高生から見れば異質でした。まわりの友人が生ぬるいテキストをだるそうに解くのを尻目に、机に積み上げた分厚い赤本と格闘し、同志社の英語の過去問を50年分は解きました。たしかに東高では良い先生や友達に恵まれ、素晴らしい高校生活を送りました。
                  ただ、受験に本気の生徒を守ってくれません。受験のプレッシャーに加えて周りからの冷ややかな目線、中途半端な空気、残念ながら受験生が勉強に集中できる環境でありません。将来スポーツ界を発展させる夢を持ち、難関大学に合格したいと僕にとって、US塾は第2の家でした。
                  いま僕は、同志社大学でカンボジアの子供たちのためにサッカーグラウンドを作るサークルに入り、現地へ行ったり、休日は神戸元町駅前で募金をしたりしています。
                   
                  ■英語を絶対得意にしたい「将来の国際人」
                  (同志社大3年・東高・福ちゃん)
                  僕は、高3最後の英語の偏差値が42だった。同志社なんて夢のまた夢、もちろん現役で行きたい大学に受かるはずもなく不合格。US塾で浪人をする事にした。英語ができないだけではなく、激しい苦手意識があった。そんな僕が一年後、英語で勝負が決まる同志社大学に合格した勉強法は、しつこい「復習」である。受験生なら誰もが「暗記→テスト→復習」の流れで皆勉強していると思う。基本中の基本だ。
                  だが、果たしてどれくらいの人が復習しているだろうか。復習をやっていない人がざらだ。英語は単語も文法も構文も1秒で思い浮かぶくらいにならないと、試験では使えない。「ああ、またこれか」と思えたら勝ちだ。そうなるには徹底的に定期的に復習を繰り返す事だ。僕には記憶力がないかもしれないが、でも復習を繰り返す精神力は誰にも負けなかった。僕は間違いなく復習で同志社大学の合格を勝ち取った。徹底的な「復習」で「復讐」を果たしたのだ。
                  いま僕は大学で、発展途上国に家を建てるボランティアのサークルでリーダーを務め、長期休暇になるとスリランカやフィリピンで汗を流している。浪人時代にしつこい復習で身につけた英語力を生かしながら。
                   
                  ■読書・映画に親しみ、国語力+人生勉強
                  (岡山大1年・北高・コウタロウ君)
                  先生は塾の壁をべったりと埋め尽くす本の中から選りすぐりの本を、生徒に「この本持って帰り」と渡すこともあれば、授業の時間を削ってまで映画を見せることもある。言語センスの向上やリフレッシュ効果、ひいては国語力向上を見込んでのことだと考えられがちだ。もちろんそういった効果があるのは事実だ。
                  しかし、今考えると生徒の目標形成に即して、長期的なビジョンに基づいて本も映画も選ばれていることが分かる。選ばれた本はレべル・興味ともに生徒に合致している。例えば、僕は弁護士になりたいという夢がある。NYの弁護士ジョン・グリシャムが書いた本はリアルな弁護士の仕事を、映画“12人の怒れる男”は陪審制度の内容を教えてくれた。
                  先生は早稲田大学映画研究会に所属していた経歴を持ち、本や映画には非常に精通しておられ、大量のストックが体にしみ込んでいる。高校受験もしくは大学受験にとどまるのではなく、生徒の人生にまで向き合うのがUS塾の大きな特徴だ。
                   
                  ■北高で運動部と勉強を両立「体育会系」
                  (岡山大1年・北高・コウタロウ君)
                  僕は北高のサッカー部に所属していた。当時サッカー部といえば毎朝7:30から朝掃除があり、電車通学だった僕は6:00に起床、7時間授業を受け、放課後部活をした後は疲れてぐったりしていた。
                  そんな状況でも、US塾に行くと集中して勉強出来た。学習時間が厳密に管理され、一分一秒を無駄にしないものだったからだ。生徒が眠たくならないように音読を挟んだり教科を変えたりするタイミング、2度目3度目の復習のタイミングが先生の頭の中には全てインプットされている。
                  だから一秒でも遅刻すればスカイツリーが真っ二つに裂けるくらいの雷が落ちる。それくらい魂を込めてスケジュールが組んである。学校から直接塾に行き、決められた時間きっちり勉強して、家に帰って寝る。この生活リズムが勉強の効果も部活の充実度合いも高めた。僕はUS塾の徹底的なスケジュール管理によって高校生活の文武両道に成功した。
                  ハードな文武両道生活で得たものは、周囲からの尊敬の眼差しである。高校でサッカー部と勉強の両立を果たした僕は、大学ではアメフト部に入部し、高校時代の文武両道を継続して、難関の英国留学を勝ち取った。
                   
                  ■D・E判定でも、難関校をめざす「野心家」
                  (岡山大1年・北高・コウタロウ君)
                  僕が声を大にして伝えたいのは、模試は受験者に普遍性を求めるが、入試問題は特異性を求めるということだ。僕は現役で一橋大学を受験した。実を言うと模試ではD判定とE判定しかとれなかった。判定だけを判断基準にすると、誰が考えても出願は諦めるのが妥当なレベル。
                  だが出願する時、先生にも僕にも一橋を諦めるという選択肢は無かった。それは、赤本・青本が手あかで黒ずむほど過去問に徹底的に取り組んできたからだ。世界史に限れば、一橋大学は一問一答の単純な暗記で通用するものではなく、大問3つ全てが熟考を要する400字以内の論述だ。膨大な過去問を分析しなければ的外れの勉強になってしまう。
                  しかし、先生の非凡な分析力、的確な対策、どんな敏腕予備校講師でも思いつかないアイデア溢れる勉強法によって、ピンポイントかつ濃密な勉強をしてきたという自負があった。僕はひたすら絶対的に信頼できる先生の戦術を全うすることに専念した。そして、センター試験で大幅に目標点を下回った僕でも1000点満点の合格最低点まで19点に迫った。地方公立高校生が超難関大の壁を突破するにはUS塾で過去問と格闘するしかない。
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                  笑わない子供
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                    目が死んで、無表情な子の学力を伸ばすのは難しい。悪い言い方かもしれないが、目が牛や馬みたいで、顔の皮膚が金属でできている子に対して、教える側はどうすればいいか悩む。

                     

                    逆に、勉強が得意な子は眼が光っている。しかも授業中、眼の位置が高性能のレーダーみたいに的確に動く。黒板を見てほしい時は黒板をにらみ、テキストを読むべき時はテキストに目を落とす。教師の顔を見てほしいときは教師の顔をじっと見る。
                    表情の反応も良く、笑う時は笑い、真剣に聞くときは顔を紅潮させる。とにかく、授業のホットな核心部から絶対に目がぶれないのである。

                    オーケストラにたとえれば、指揮者の指示通り演奏する団員みたいだ。そんな子を相手にすると、教師は自分が大指揮者になったような気分になる。

                     

                    しかし、そうでない子も存在する。

                    夏から入塾した中1の男の子P君の例を紹介しよう。

                     

                    最初の授業で気づいたのだが、P君の笑顔は薄かった。無反応な笑い方をするのである。

                    勉強は講義や書物から、どれだけ知識や考え方を吸収するかで出来不出来が決まる。汚い例で恐縮であるが、脳をバキュームカーとするなら、吸引能力は笑った時にこそ最大限に発揮される。笑う時にはinputoutputが高い次元で行われる。

                    笑顔は知的好奇心のバロメーターである。爆笑する時バロメーターは振り切れる。P君の場合、ほとんどバロメーターが触れていない。知識を吸い取ることに楽しさを感じていないようなのである。

                     

                    たとえば英語の時間、私は中1の授業で「take」の覚え方を教えた。「takeは持っていく、連れていくと暗記しよう。ていく、ていく、もっていく、つれていく」

                    どうしようもない語呂合わせに他の子は笑っていたが、彼は表情一つ変えない。3日たってP君にtakeの意味はと尋ねたら、案の定、全く覚えていない。

                     

                    今度は社会の時間。アメリカの地理で、ヒューストンは宇宙科学工業が盛んという話題になった。私は「ロケットはヒューと上がって、ストンと落ちる。だからヒューストンはロケットで宇宙産業」と教えた。P君はかすかな笑みを漏らしていた。「今度はいけるかな」と思ったが私の考えは甘く、3日後に「宇宙産業がさかんなアメリカの都市は?」と質問しても答えられなかった。

                     

                    ユーモアのある語呂合わせは、記憶に便利である。下らないと言われようが、単語や用語をダジャレで覚えると効果が大きい。古文単語集「ゴロゴ」はエグさ一歩手前のユニークなイラストと、強引な力技のダジャレで、大学受験生に人気が高い。

                    ダジャレは単語暗記の武器である。デーブ・スペクターがあれほど日本語に堪能なのは、日本語の単語をダジャレを駆使して暗記した結果ではないかと私は考えている。デーブ・スペクターのダジャレは彼の猛烈な日本語学習の副産物なのだ。

                     

                    教師が生徒にダジャレを言って、俺のダジャレを笑え、ダジャレの内容を記憶しろとは暴君みたいで言えやしないのだが、笑いへの反応の薄さは、知識を吸引するパワーの弱さを物語っていることは間違いない。

                     

                    もう一人。

                    入塾面接で高2の女の子Qさんが来た。公立2番手高で成績は全教科最下位に近い。私は入塾をお断りしようとしたが、本人は介護の仕事に就きたいという夢があり、表情は薄いが悪い子でなさそうなので、お引き受けした。

                     

                    ところが、学校の教科書を見ると真っ白。勉強の跡が全く見受けられない。これは一から築き上げなければならない。勉強のやり方を懇切丁寧に教えた。

                    私は単語帳作りを指示した。A5版のノートの真ん中に線を引き、単語を左に日本語を右に書く習慣を身につけさせようとした。だが、2週間ぐらいチェックしていないと、たちまち単語帳作りをやめてしまう。悪気はない。だが、どこか感情の襞に薄さを感じるのだ。

                     

                    単語帳だけではない。

                    私は速読英単語を和訳してもらう時、左側の日本語にハガキを乗せ、目玉クリップで挟むよう指示している。高校の参考書・問題集は分厚いものが多く、開いて机に置いていたら閉じてしまうので、生徒からは目玉クリップは「合理的な方法ですね」と評判がいい。

                    しかしQさんは、目玉クリップの方法を教えた最初の日は使っていたが、次の授業は目玉クリップを使わなかった。目玉クリップを家に忘れたのではない。ちゃんと机に置いてあるのに使わないで、自己流でバタバタやっている。悪気があるわけではない。目玉クリップを合理的な勉強法だと感知する感性が薄いのだ。

                     

                    Qさんは私が指示したやり方を、ことごとく無視する。

                    勉強のやり方が、悪い方に自己流になる。自己流になっていく過程には、大人に対する敬意に欠けた態度と、怠惰な根性と、物事を重く受け止めない心、感情の熱さ、そんな要素が複雑に噛み合っている。

                     

                    Qさんは授業の喰いつきも悪い。私は理科社会の授業では、ポイントを語る「真面目」な部分と、雑談や豆知識を語る「脱線」部分の、複線を意識して授業をしている。授業は真面目だけだと眠くなるし、脱線だけだとおふざけになる。真面目:脱線を7:3ぐらいの割合で意識しながら授業をしているが、他の子が脱線部分に熱く食いつくのに対して、Qさんは脱線部分になると下を向いて、なぜか寂しそうな表情になって聞いていない。

                    教師の方ならわかると思うが、勉強が得意な子ほど雑談になると目を輝かせる。実に下らないことに興味を燃やしたりする。

                    しかしQさんは違う。「真面目」な部分では義務的に真面目なふりして聞いているが、「脱線」部分ではスイッチがOFFになってしまうのである。人の話を聞くのが苦手なタイプらしい。

                     

                    それから、Qさんの高2クラスで「アメトーーク」の「勉強しかしてこなかった芸人」の回を見せた。この回は「アメトーーク」の中でも名作で、勉強の意識を笑いながら高めるのに効果的だと考えたからである。他の子はロザンの宇治原凄みに感動し、オリラジの中田の狂気に爆笑していたが、Qさんだけはテレビに集中できず、笑顔もなく呆然と画面を眺め、時々「早く終らないかな」という表情で目をそらしていた。

                     

                    こういった子の成績を伸ばす処方箋をお持ちの方がいたら教えて欲しい。


                    逆に、真面目な子の例。
                    イギリス・ケント大学に留学中(2014年9月現在)の
                    コウタロウが高3の時作った単語帳。
                    彼は記憶しておくべき大事な単語を、端正な字で書き写している。
                    日本語を書いていないのは、日本語に頼らずプレッシャーを自ら与えて記憶するためである。
                    彼はこれら難単語の意味をスラスラと私の前で言って見せた。
                    イギリスでも、何気ない日常会話で、この単語帳は役に立っているのだろか。


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                    ガラス張りの授業
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                    私は塾講師だが、休みの日に国内旅行して、夜ぶらぶら散歩をするのが楽しみである。

                    そんな時、知らない土地の見知らぬ塾に生徒の自転車が並び、教室に明かりがついていると、思わずのぞき込む。同業者がどんな授業をしているのか気になるし、教室の空気にも触れてみたい。
                    旅先ではリラックスして、しばし仕事のことは忘れようと意識しているのだが、他の塾を見ると仕事のことを思い出さずにはいられない。

                     

                    ある時、人口百万規模の北国の町を散歩していたら、大通りに面して大手塾のビルがあり、階の教室がガラス張りで、授業の様子が丸見えになっていた。

                    塾側としては「こんな素晴らしい授業をしています」というショーウィンドウとして、教室を誰にでも見えるように、ガラス張りにしているのだろう。

                    ガラスの向こう側の教室は、蛍光灯が煌々と照っていて、30代後半ぐらいの男性講師が、中2の生徒15人くらいを相手に、英語・助動詞の授業をやっていた。

                     

                    その授業はひどかった。

                    ガラス張り教室の音は全く聞こえないのだが、黒板の方向だけを見て淡々と授業を進める講師を無視して、教室は無法地帯と化していた。消しゴムを投げ合う子はいるし、一人黙々とマンガを読む子もいるし、立ち上がって友人と談笑する子もいる。しかもそんな子供たちを講師は一向に注意しない。それどころか生徒の側を振り向きもしない。

                     

                    しかもその日は助動詞mustの授業だった。講師は淡々とmust=have toという公式と例文を黒板に書いていたが、生徒の誰一人として講師の授業に注意を払うものはいなかった。

                    中学校の英語を教える方はおわかりだと思うが、mustは助動詞の中でも難解で理解しづらい。生徒の泣き所であり、同時に講師の腕の見せ所でもある。そんな大事なところの授業が無法地帯と化していた。

                    私は別に大した講師ではないが、一応、生徒の顔を黒板に向けさせるくらいのことはできる。教室に入り込んで、代わりに授業をやりたい心境になった。

                     

                    塾側としては「こんな素晴らしい授業をしています」というアピールをして生徒の集客をめざしていたのだろうが、無秩序な授業風景を見て、生徒をこの教室に通わせたいという親はいないだろう。こんなものを見せつけられたら、集団授業の信用はガタ落ちで、個別指導や家庭教師の方がいいと親は考えるに決まっている。

                     

                    授業というものは基本的に、講師が話し、生徒が聞くというシステムが基本である。饒舌で論理的に授業を組み立てる講師、講師の話を一言も漏らさぬ心意気で集中する生徒という姿が理想である。この授業は、講師も生徒もお互いを意識せず、別の世界で棲み分けている。

                    授業を静かに聞くという文化は、日本から消え失せたのだろうか。むかしアメリカの学校は授業形式でなく、座を囲んで先生と生徒が思い思いに話し合う「民主的」なものだという話を聞いたことがあるが、それが単に馬鹿製造工場にすぎないことがわからないのだろうか。

                     

                     

                     

                     

                     

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