猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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ロカビリー先生のブログ終了
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    ロカビリー先生が7月4日でブログを閉鎖される。唐突なニュースだ。とても残念だ。

    個人塾塾長の生きざまが、パソコンから飛び出すような激しい天才的筆致で、ガツンとオープンに書かれている。

    また、組織に属さず「個」として世に存在感を示すことがどういうものか体現した、貴重この上ないブログだった。過去形で書かなければならないことがつらい。

     

    ところで私は昨年の5月と11月に、福岡県にあるロカビリー先生の塾を訪問させていただいた。シャイで人に会いたがらない僕には珍しいことである。

    清潔感のある静寂な塾で、まるで宇宙船の内部にいるようだった。映画「2001年宇宙の旅」のように、塾内に微音でクラシックが流れ、まさにキューブリックが創造したような超集中空間設計である。

     

    ロカビリー先生の塾の、生徒たちの授業態度はもはや中学生ではなく、駿台予備学校の東大コースのような緊迫感があった。自分を高めたい、本気で勉強に励みたい中学生には、願ってもない環境である。

    しかし休憩時間になると、彼らは普通の人懐っこくて明るい中学生に戻る。駿台予備学校が一転して、町の普通の公立中学校の休憩時間に変わる。このギャップがいい。

    ロカビリー先生というマエストロの指揮のもと、中学生たちは自分の限度に迫り、限度を越えた能力を発揮している。「道場」という名にふさわしい空間だ。

     

    5月にロカビリー先生の塾を訪れた時の感想は以下の通り。妥協のない指導とはどういうものか、興味がある方はどうぞ。

     

    ロカビリー先生の塾を訪れる

    ロカビリー先生の塾を訪れる


    ロカビリー先生の塾を訪れる

    ロカビリー先生の塾を訪れる


    ロカビリー先生の塾を訪れる

     


    ところで、7月4日のブログ終了後、ロカビリー先生は長編記事を掲載されるという。記事の内容はよくわからないが、とても楽しみだ。センセーショナルな内容であることは想像できる。

     

    長編記事が1人でも多くの方の目に触れるよう、私も微力ながら協力したい。私にいったい何ができるか考えてみたが、この「猫ギターの教育論」のアクセス数を増やし、ロカビリー先生のブログに積極的にリンクを張れば、少しは貢献できるかもしれない。

     

    そのためには、最近更新が滞り、アクセス数が減ったブログの更新回数を増やし、積極的にアクセス数を伸ばさなければならない。

    7月4日以降の、ロカビリー先生の長編記事の「視聴率」をアップするため、最近Twitter中心だった生活を、ブログにシフトしようと考えている。精力的にブログを書いていきたい。

     

    | 他塾の尊敬する先生 | 16:42 | - | - | ↑PAGE TOP
    ロカビリー先生の塾を訪れる
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      ロカビリー先生は塾ブログ界(なんか気持ち悪い表現だが)で、村上春樹のポジションにいらっしゃる気がする。
      村上春樹は、文壇の粘着質な作家や批評家から、強い攻撃を受けている。村上春樹が文壇とあまりつきあいがないこと、そしてアメリカ文学の影響が強く、日本文学の主流と作風が違うことが理由だと考えられる。

      しかし、村上春樹が文壇から攻撃を受けている最大の原因は、村上春樹の本がノーベル文学賞候補と評価され、また読者から高く支持されていることだ。文壇の主流にいる黴臭い小説家ではなく、一般読者は村上春樹の清新な小説を求めている。

      塾ブログ界にヒエラルキーがもしあるなら、ロカビリー先生はデビューから一気にトップクラスの座についた。
      しかも、登場された時の新鮮さ、どんな話が飛び出すかわからないサプライズを、いまでもますますパワーを増大させながら持ち続けていらっしゃる。

      最初にロカビリー先生の文章に接した時、私自身の個人塾塾長としての生き方が精緻で濃厚な文章で描かれ、ガラス張りになった快楽を味わった。
      しかし口惜しいのは、私の気持ちを書いたのが私の文章ではなく、他人の文章だったことである。ロカビリー先生という代弁者の登場は、嬉しいけど口惜しく、口惜しいが嬉しい、複雑な気分をもたらした。

      ところで、ロカビリー先生のブログが扱う題材は、9割が自塾の話だ。先生は一途に深く深く、自塾での生徒とのやり取りを垂直に掘り下げられている。小津安二郎の映画のようにカメラを塾にドスンと据え、定点観測で生徒を見つめ続けている。
      私のようにカメラを頻繁に移動させ、話題があちこちに飛ばない。ロカビリー先生のカメラの被写体は、つねに自塾の生徒である。そして自塾の生徒と対峙する、ロカビリー先生自身の心理である。

      ロカビリー先生が、黙々と自塾のことを書き進めていくうちに、地下深く眠る金鉱を掘り当てる確率はますます高くなった気がする。「浅く広く」ではなく「深く狭く」掘り続けることが、オリジナリティの高い言葉を探り当てる実証である。この記事は中学生指導の本質を言い当てた、とてつもない文章である。

      また、ロカビリー先生のブログは、個人塾界という小さな世界を超え、不特定多数の読者から関心を持たれるブログである。
      個人塾のブログなんて、私みたいに本業を差し置いて政治や旅行や音楽の記事が多い色物を別として、個人塾関係者しか読んでいないのが実情であろう。

      しかし、ロカビリー先生のブログは、愚直な正攻法で個人塾の魅力を語る。それでも、いやそれ故に、広範な支持を集める。
      自分の職業や趣味を書いた文章なら、数え切れないほど存在する。しかし同じ職業や趣味の人にしか理解できない文章がいかに多いことか。同じ職業同じ趣味の人だけを対象にした文章は、閉鎖的で排他的な匂いを放つ。
      たとえば天体・盆栽・釣り・鉄道・クラシック音楽など、理解できない人にとっては圧倒的な壁がある。
      天体に興味が持てない人に熱く天体を語っても、聞く側は暑苦しい拷問にしか感じない。

      ところが、職業や趣味のことを一途に書いていても、同じ趣味を持つ人以外にも読まれている名著がある。
      たとえば開高健の「オーパ!」は釣りを趣味としない人間にでも楽しめるし、宮脇俊三の「時刻表2万キロ」は鉄道ファン以外の人が読んでも文章に没頭できる。「オーパ!」を読めば釣りキチに、「時刻表2万キロ」なら鉄ちゃんにしてしまう吸引力を持つ。

      ロカビリー先生のブログは一見辛口だけども、本質は開放的で寛容であり、「オーパ!」や「時刻表2万キロ」のように、個人塾に関心がない人でも、個人塾ファンにしてしまう魅力を放つ。個人塾の内部という、極めて限られた空間を描いていながら、個人塾の世界に興味がない人にでも「個人塾っていいな」と関心を呼び覚ます力がある。

      一般論だが良い文章は、「わからない」ことが書いてあっても、読者に「わかりたい」気持ちにさせる荒業が可能だ。
      そして「わからない」ことに対して「わかりたい」欲望を呼び覚ませる力は、教師として最も必要な力ではあるまいか。

      (つづく)



      ロカビリー先生の塾を訪れる

      ロカビリー先生の塾を訪れる

      ロカビリー先生の塾を訪れる

      ロカビリー先生の塾を訪れる


       

      | 他塾の尊敬する先生 | 15:42 | - | - | ↑PAGE TOP
      ロカビリー先生の塾を訪れる
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        ロカビリー先生の授業終了後、私はオープンスペースの講師机の椅子に、ひとり座っていた。授業が終わった子供達が廊下で話していた。

        私は子供達に声をかけてみたいなと思ったが、shyな性格なので遠慮して黙っていた。子供達が楽しそうなので仲間になりたかった。なんだか転校生になった気分だった。

        すると意外なことがおこった。
        中2のリスのように素直な目をした男の子が私の前のイスに腰掛け、「先生が行かれた海外の中で、一番面白かったのはどこですか」と訊ねてきた。

        それを機会に男の子達が私を囲んだ。みんな祝福されて生きてきた子供特有の、小学生の純粋さがたっぷり残ったスレてない真直ぐな子供達だった。

        今度は女の子が2人やってきた来て、「私がやってる部活当ててください」と尋ねてくれた。私はなぜか緊張してしまった。

        それから私は子供たちから社会地理の質問攻めにあった。質問攻撃に嬉しくなり、饒舌になってしまった。

        すると横で様子を伺っていた黒縁メガネで体操服の、「ハカセ君」のような味のある風貌の中3の男の子が私に質問を浴びせに来た。真面目そうな仏頂面をしているが、納得した回答に出会うと破顔一笑し、知的な笑顔を見せる。私は彼の笑顔を引き出そうと、頭をフル回転させてあれこれ語った。

        彼らは言葉が訛っている。九州の方言だ。イントネーションが武田鉄矢のクローン人間みたいだ。素朴な方言に包まれつつ、幸せな30分を過ごした。

        私は最初のうち一人ぼっちの孤独な転校生だったのだが、子供たちは私に対してやさしい好奇心を持ってくれ、1人また1人と友達ができた気持ちだった。ロカビリー塾の「仲間」になった気がした。

        ところで、子供相手に「仲間」などという感覚を持つのは、私には珍しい。どうしても自塾の生徒とは、大人と子供、先生と生徒の緊張関係が走る。
        自分の塾では、子供の成績を上げる「責任」がある。だから子供の世界とは厳しい一線を引かなければならない。でもロカビリー先生の塾生に対しては「責任」がない。だから素直に仲良くできる。

        こんな感覚ははじめてだった。いや、私が塾講師を始めた大学生時代の感覚とよく似ていた。「お兄ちゃん」として子供に溶け込み、子供と戯れていた、まだ子供から人気だけを得ることだけに意義を求めていた駆け出し講師だった気楽な時代を思い出した。

        ロカビリー先生の塾では、たまに家に遊びにやって来る「おじちゃん」として自然体で子供に臨むことができた。厳格で理不尽な「とうちゃん」として振る舞わなくてもいい。



        ところで、先生のブログに「質問の昇級」という記事がある。

        質問5級・・・わからなくても質問せず、動く蝋人形状態
        質問4級・・・何でも聞いてしまう
        質問3級・・・答え合わせをして間違いを直し、「先生、なぜここはこの答えになるのですか?」と聞いてくる

        みたいな感じで、質問1級まで続く。

        ならば、ロカビリー先生の塾の子供たちのように、初対面の得体の知れぬ塾講師に近づき、屈託もなく質問を浴びせるという行為は、もはや「級」の段階を超えた「質問の有段者」なのではないだろうか。

        (つづく)
        | 他塾の尊敬する先生 | 16:57 | - | - | ↑PAGE TOP
        カミエス先生の英語授業体験記
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          2年前、誕生ホヤホヤの「進学塾SORA」を訪問した時、カミエス先生の授業を拝見させていただいた。その時の感想を再録する。

          カミエス先生の授業を拝見した。

          日曜の昼、1時間半ぐらいの補習。中3関係代名詞の授業だった。中3の諸君は授業の日でもないのに、カミエス先生の呼びかけ1つで、休日を犠牲にして補習に来たらしい。受験生特有の緊張感が伝わる。

          先生の授業は、ありきたりな授業とはまるっきり違う。一見「自然体」の授業にも見えるのだが、そんな単純なものではない。

          教師という種族の99.9%は、日常生活を送っている時より、授業中の方がテンションが高まる。授業中は血圧も高いだろうし、動悸も高まり、発汗量も増える。

          とにかく授業になると、教師はハイテンションになり人格が変わるのが普通だ。役者にもロックシンガーにもそんな人が多い。

          たとえば俳優の山崎努は、いつもは極度にシャイな人で、楽屋では緊張して無言を通しているが、舞台に立つと感情の露出度をフルに上げて「リア王」を演じて感情を爆発させる。
          忌野清志郎もいつもは枯れた感じのオッサンだが、ステージでは気が狂い暴走する。
          教師も、講師室でのヒソヒソ声とはうって変わって、教室で生徒を前にすると声が10倍ぐらいに跳ね上がる人がいる。

          先生は違う。授業中に発する言葉の音量はふだんと変わらない。目立ちたがり屋が多い塾講師には珍しい。

          ただ、音量は変わらないが、発声の「深度」が深くなる。
          発する声は静かなのに、聴者を「シーン」とさせる磁力を発していらっしゃる。
          思わず手を膝の上に置いてしまう声であり、話し方なのだ。
          「ケレン味の強い講談師」ではなく「高僧の法話」、「ロックのライブ」ではなく「クラシックのコンサート」みたいな授業とでも言えばいいのか。

          「クラシックのコンサート」と言うと眠いイメージがあるかもしれないが、むしろ逆で、緊迫感で睡魔など付け入る隙はなく、生徒はみんなカミエス先生に催眠術にかけられた如く、授業を一言一句聞き逃すまいとしている。

          授業中、生徒が一番人の話を集中して聴く時間は、おそらく英語のリスニングの時じゃないかと思う。
          英語のリスニングCDが流れている時に、教室がざわつくことなど考えられない。ネイティブが話しているとき、どんな生徒も英語で語られる情報を聞き漏らすまいと恐るべき集中力を示す。
          何と、先生の授業はリスニングの時と同じくらいの緊張感があった。

          凄かったのは、先生が授業中、一度3分ぐらい席を外されたときの事である。
          私も生徒と同じく、後ろの席で先生の授業を聴いていたのだが、先生が教室を去りドアが閉まった瞬間、生徒達はなんと一斉に咳払いを始めたのである。
          クラシックのコンサートでは、交響曲の楽章と楽章の間に観客は咳払いをするのだが、先生の授業は、クラシックのコンサートと同じ種類の緊張感が漂っているのだ。

          さて、英語の先生なら理解していただけると思うが、関係代名詞という分野は文法用語のオンパレードである。
          経験不足の英語教師なら、関係代名詞の習い始めに、主格だ目的格だ先行詞だ接触節だ目的格の省略と、文法用語を羅列し説明が小難しい話になりがちで、生徒の頭を混乱させてしまう。

          しかしカミエス先生の関係代名詞の授業で、「先行詞」という文法用語がはじめて登場したのは、なんと授業開始後65分もたってからだった。
          私だったら授業開始3分で、安易に「先行詞」という言葉を使うだろう。

          たっぷり1時間、慣れない文法用語を使わない授業がひたすら続き、生徒達が関係代名詞の世界に慣れて初めて文法の専門用語がポンポン先生の口から飛び出してきた。
          先生の授業では、文法用語は生徒を煙に巻くためでなく、理解を深化させるために、満を持して登場するのである。文法用語が英語を不必要に難しくする悪しき障害ではなく、英語を構造的にスッキリ理解させてくれる便利な道具だということを再認識させていただいた。

          また先生の授業は、一般的でありきたりな教え方を懐疑し、教える順序を生徒にわかりやすいように再構築した授業だった。
          関係代名詞を主格→目的格ではなく、目的格→主格の順番で教えるという1点にしても、独創性の高さを感じた。

          さらにここが一番私が感銘を受けた点なのだが、カミエス先生の授業は、外見だけきらびやかな授業に対する、強いアンチテーゼになっているのである。

          予備校の人気講師の授業は「衝撃性」はあるが、生徒の成績を長期的継続的に伸ばす授業かといえば、必ずしもそうとは言えない。派手なケレンは短期間で飽きられる。
          授業は生徒に対して日常的、継続的に行われるものであり、カミエス先生の方向性はまさにその辺りにある。

          予備校の派手な講師の授業はフレンチや中華という特別な日のゴージャスな食べ物だが、先生の授業は「米の飯」を志向されているのだと、私は思った。
          米の飯は毎日食べても飽きない、しかも食べなければ日本人は生きてゆけない。

          カミエス先生の授業は、高い合格実績を上げる授業である。
          先生は難関高校に数多くの生徒を合格させてきた。実績で先生に適う人はそんなにいない。
          また、先生と生徒の人間関係は一過性のものではない。永続性の強いものだ。先生が教え子から慕われていることは、先生のブログからも強く窺い知れる。

          カミエス先生が教え子から慕われるのは、先生が生徒の合格、すなわち生徒の人生に対して強い「責任」を背負ってこられたからに他ならない。生徒は誰が自分を一番可愛がっているか、わかるものだ。
          生徒を合格させなければならないという「責任」を背負った授業が、私はどんなものか先生の授業から教わった。

          カミエス先生の授業を聴くと、関係代名詞という新しい知識が確実に定着する。 先生の授業で、関係代名詞という土台強固な新築の家が、脳内に確実に建った。
          知識を与え、思考方法を構築するのが授業で一番大事なことだ。先生の授業は授業の本質を踏み外さない、きわめて純度の高い授業だった。

          そう、カミエス先生の授業は純度が高い。濃度が高い。
          普通の講師の授業では、おそらく生徒は内容の50%も理解できずに帰るだろう。薄い授業は時間の無駄である。

          しかしカミエス先生の授業は、先生が語った内容が、97%は生徒の頭に入る授業である。先生の授業を聴いていたら、先生の知識が、そのまま生徒の頭に漏れなくダウンロードされる錯覚にとらわれる。



          以上が、正直な感想です。
          | 他塾の尊敬する先生 | 17:50 | - | - | ↑PAGE TOP
          カミエス先生のセミナー
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            カミエス先生が『塾講師セミナー』を6月14日に開かれるという。

            塾講師セミナー1
            塾講師セミナー2

            偏見かもしれないが、個人塾を対象にしたセミナーは非常に怪しい。個人塾は慢性的にピンチを抱えていて、しかも教室運営に教務に受験に経営に、塾長が自分で何もかもこなさなければならない。

            時には誰かに依存したくなる。ピンチを立て直す斬新なアイディアや、相談に乗ってくれる参謀的存在が欲しくなる。そんな個人塾の塾長の気持ちを見透かした、悪質で低質なセミナーが後を絶たない。

            もちろんセミナーは金額が高ければ高いほど怪しさは増す。しかも「特別価格で今回に限り値下げします」と宣伝されたら、怪しさはMAXに高まる。

            基本的に私は、塾講師がブログで商品を宣伝したり、お金を絡めることに抵抗を感じる。むかし私は、無断で塾ブログの一部を抜粋してアクセス数を稼ぎ、ちゃっかり自分の品物を売るニュースサイトの方法論に対して、強い口調で疑問を投げかけたことがあった。

            パソコンの画面の向こう側にいる人から「さあ、カネを吸い取るぞ」と邪悪な魂胆を持つ人はあとを絶たない。

            しかし、カミエス先生は正真正銘の本物だ。塾講師としてブレイクしたい方がいれば、是非ともセミナーを強くお薦めする。特にマンネリを感じる個人塾の経営者や、個人塾を開いて一旗上げようと考えている方は、カミエス先生との出会いで新しい地平に脱皮できると思う。

            たとえば、私は人づきあいが異常に悪い。アルカトラズ島みたいに孤立し、安易に他人を受け入れたりしない。
            そんな性格だから、私に広くて浅い人脈はない。そんなものは持つ気もない。しかし井伏鱒二の「山椒魚」みたいに深海の岩穴に閉じこもってばかりいたら進化はない。狭いけれど深く充実した人脈を作る努力ならしている。

            深い人脈を作るには一流の人とつき合うべきだ。賢明な読者の方にこんなことを今さら言うのは野暮だが、カミエス先生やロカビリー先生が、飛び切りの器量を持つ塾講師であることは文章でわかる。実際に会ったらもっとわかる。気難しく出不精の私が言うのだから間違いない。

            とにかく一流の人と実際に会って吸収するのは大事な作業だ。カミエス先生は大手塾と個人塾、2つのノウハウを高いレベルで兼ね備えていらっしゃる方だ。特に英語の教務面で力をつけたい講師の方は、技術を盗む絶好のチャンスだ。

            セミナーでは、カミエス先生のスキルをパクるだけでなく、スキルを生み出す発想のノウハウ、そしてカミエス先生の人間性を、まるごとパクってほしい。
            カミエス先生の名声と実績はリアルでもブログでも実証済みだし、大手塾の看板講師の座に甘んじることなく個人塾を開設し、大手塾の暴風の中で個人塾を張る人間の迫力を浴びていただきたい。

            セミナーの対象は、若い先生だけではない。ベテランの先生でも自己満足の授業に終始している人がいる。魅力に欠けた授業で無駄に年齢を重ね、過信が進化を蝕んでいる。
            ここは負の循環を絶ち切るため、授業を客観的に見つめ直すチャンスをカミエス先生が与えてくれたのだから、ベテランの先生も小さなプライドをかなぐり捨て、セミナーに参加し教えを請うたらどうか。自己満足で停滞した澱んだ精神に、ビシバシ竹刀を叩きつけてもらったらどうか。

            私もカミエス先生と4年間の付き合いになるが、これまでさまざまな形で鍛えていただいた。助けていただいた。
            私は人に頼らず、自分で何もかも解決しようとする男だ。心のどこかで自分は何でもできると思っている。だから個人塾の塾長なんてヤクザな仕事をやっている。

            しかし1年前、ある大事な教え子が大学受験でピンチになり、私に力が足りず上手に支えてやれなくて、気持ちがグジャグジャになり途方に暮れていたとき、恥を忍んで泣きながらカミエス先生に電話したこともある。

            若い先生には、是非ともカミエス先生の深い懐に飛び込んで、ぬくもりと刺激を受けていただきたいと思う。大袈裟なたとえで恐縮だが、幕末の志士にとって、旅とはイコール「人物」に会うことだった。奈良まで足を運んで、カミエス先生の謦咳に接してほしい。「人物」に出会う絶好のチャンスである。

            誰にも依存せず一本立ちし、自分の力とキャラで個人塾を張る強い目標や野心がある方、あるいは大手塾で圧倒的な授業力を身につけ指導的立場に這い上がりたい方にとって、2009年6月14日、奈良で過ごした1日は人生のターニングポイントになるであろう。
            | 他塾の尊敬する先生 | 19:24 | - | - | ↑PAGE TOP
            ロカビリー先生の塾を訪れる
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              私はロカビリー先生の生徒たちの前で、こう語った。

              「日本の医療制度では、どんな医者にかかっても診察代は同じです。20代の大学卒業したてのペイペイの医者も、ある分野の権威であるアメリカ帰りの40代の働き盛りの外科医も、手術費用は変わりません。

              塾の授業料も、個人塾ならどこもそんなに変わるわけではありません。ある塾が5教科1ヶ月6000円で、ある塾が30000円ということはない。

              しかし、塾の先生も医者と同じく、有能な人と無能な人がいます。ロカビリー先生はブログで、誰も書けない意見を発信していらっしゃり、全国の教育に携わる人が先生から学び刺激を受けています。私のように先生に惚れて、広島から福岡までやってきた教師もいます。

              ですから、皆さんは凄い先生に出会えて恵まれています。ただ、先生はふつうの教師より子供を叱る人だと思います。この中で先生に叱られたことがない人? (誰も手を上げない) でしょ? 

              でもね、先生は自分の教え方に自信があり、皆さんを可愛がり、皆さんに期待しているから叱るのです。先生に叱られると、皆さんはグイグイ自分が成長していく感触があるでしょう。だから叱られても先生に皆さんはついていく。先生も凄いが皆さんも凄い。どんなことがあっても先生に喰らい付いて下さい」

              挨拶終了後、私はロカビリー先生の授業を、壁を隔てて耳をすましながら、いつ先生が生徒を叱り飛ばすか固唾を呑んで聴いていた。生徒の皆さんには悪いが、ミーハーなジャーナリストみたいに、先生の塾で生徒が叱られる瞬間に立ち会いたかった。

              ところで「叱る」「怒鳴る」といえば黒澤明である。黒澤監督は癇症があり、撮影中にスタッフや俳優をこめかみに青筋を立てながら怒鳴り散らすことで有名である。

              私は黒澤明の「影武者」の撮影風景を撮ったNHK特集を見たことがあるのだが、黒澤監督は武田家臣団の姿をした俳優に、「君は下手なんだから、僕の言うとおりにやればいいんだ!」と、ヒステリックに激怒していた。
              サングラスにポロシャツ姿の監督が、時代劇の扮装をした俳優数人を直立不動にさせて怒鳴っていたのは凄い光景であった。

              ただ、黒澤監督の怒りが凄まじすぎて、俳優が映画の中でも萎縮していた。黒澤明ほどの巨匠は、存在しているだけでも威圧感があるのに、直接カミナリを落とされたら俳優はたまったものではない。残念ながら「影武者」や「乱」という黒澤監督の晩年の大型時代劇は、俳優の演技が不自然な動きになっている。

              逆に、ロカビリー先生の塾生は、萎縮どころではなかった。休憩時間に生徒が弾けていた。先生の塾では、アンコールを待ちわびるコンサートの聴衆のように、授業終了後も生徒が帰らない。生徒たちはとても居心地が良さそうだった。

              私は先生と生徒たちが、GWの課題について語り合うのを微笑ましく見ていた。

              (つづく)


              | 他塾の尊敬する先生 | 21:49 | - | - | ↑PAGE TOP
              ロカビリー先生の塾を訪れる
              0
                ロカビリー先生の塾は「凛」としていて、爽快な塾だった。清潔感があり、打ち立ての畳の匂いがしそうな錯覚を感じた。
                半紙のような純白でキリッとした静寂な空間に、ロカビリー先生の声が墨痕も鮮やかに雄渾に響いた。

                繰り返すがロカビリー先生の声は天性だ。くっきりした楷書体の声だ。

                演習中にはロカビリー先生の声が途切れる。無音状態になるか、と思いきや、室内に微かにモーツァルトが流れている。音量は控えられ、スピーカーの位置が絶妙なのか、天井からモーツァルトが降ってくるような按配だ。

                私はガラスを隔てた講師用の机から、先生の授業を聴いていた。先生の声は天然の拡声器のように通りがいいので、距離があっても強く響き渡る。
                ときおりチラッとガラス越しに授業風景を覗きに行く。授業の邪魔にならないよう、外部からガラス越しに授業が見える教室設計が効率的だ。

                自習室に中3の生徒たちが3人、三々五々やってきた。男の子2人に女の子1人。彼らは見知らぬ私の存在に少し驚いたあと、「こんばんは」と挨拶した。ものすごく躾のいい家庭の、純朴な息子さんと娘さんに挨拶された気分だ。

                塾の自習室に入ると、すぐにノートを広げて勉強し始めた。お互いに一言もしゃべらない。彼らは黙々と塾の参考書を使い、「理科・社会のまとめ」を始めた。中学生なのに学者のようなことをやっている。

                私は10分ほど、恥をしのんで中2の塾生たちの前でお話させていただいた。開放的で明るいクラスだ。聴く時と騒ぐ時のメリハリがある。また笑い声が大きい。ノリがいい。とにかく熱量が多いクラスだ。
                これだけコントラストの強い教室環境を整えることが、どれだけ大変なことか。先生の塾で授業すれば、誰もが名講師になれるような気がした。

                私は生徒たちに「ちょっと手を上げてごらん、教室の空気がなんだかひんやりしている気がしない? 凛としてるだろ? 勉強するのに快適な場だろ? 先生と君たちが作り出してるんだよ」と素直な感想を述べた。彼らは楽しそうに応えてくれた。

                そう、ロカビリー先生の塾は明るいのだ。
                先生のブログには、生徒を叱る話題が多いので、一糸乱れぬ軍隊のような塾を想像される方もいるかもしれない。

                もしかしたらロカビリー先生の塾では、先生の罵声をあびて、女の子達は「おしん」のように忍耐強く萎縮した子ばかりだと勘違いされるかもしれないが、それは大きな間違いである。

                とにかく生徒たちは明るい。中2なんて無愛想に振る舞うことに美意識を求める難しい年頃なのに、先生の塾は違った。思いっきりポジティブだ。

                (つづく)
                | 他塾の尊敬する先生 | 14:45 | - | - | ↑PAGE TOP
                ロカビリー先生の塾を訪れる
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                  1ヶ月ほど前、GLAYのギタリスト・TAKUROがトップランナーに出演していた。

                  GLAYはビッグネームになっても「人柄の良さ」が漂うバンドで、また作詞・作曲の大部分を担当するTAKUROが書く曲が好きで、「生きがい」「またここであいましょう」「Happiness」「Winter,again」なんか歌詞の隅々まで記憶するほど、iPodで聴きまくっている。

                  そんなGLAYの司令塔・TAKUROが珍しくテレビに出ていたので、少しばかり襟を正しながら見たのだが、TAKUROは紳士的で笑顔を絶やさず、話は論理的で聞き手のツボを外さない、知的で芯の強さを感じの人だった。

                  10年以上ロックの世界で一時代を築き、その栄光と同じ量の暗黒を覗いてきただろうに、それでもポジティブに真直ぐ対処してきた、ピュアな印象を受けた。

                  ピュアであり続けるには流されてはならない。流されないためには強くなければならない。強くなるには自信がなければならない。自信を持つには他人と何か違った、自分にしかない長所を自分で意識し、同時に長所が他人から評価される経験がなければならない。

                  自分にどれほどの力があるか確かめるためには、少しばかり道を外れてみればいい。世間のコースから離れて真空に放り出された時、凡百の人間は不安にかられたまま自信を失い市井に埋もれるが、ときにはアウトサイドに外れれば外れるほど、自分の奥底から力が湧いてくるのを感じ、他人からも「この人は強い」と賞賛され、依存されるタイプの人がいる。

                  ピュアな性格なんて、強さをバックグラウンドにしないと守れない。穢れた物を嫌い戦う、ある種の潔癖症じゃないと純情は守れない。GLAYのTAKUROは、まさにそんな人だと思った。

                  ロカビリー先生とお会いして、ほんの数週間前にテレビで見た、GLAYのTAKUROとシンクロした。

                  ロカビリー先生は痩身で黒いジャケットが似合う方だった。
                  声の通りが良く、声質の輪郭が明快で、塾講師としては天性の声をお持ちだ。この声をメロディーに乗せ歌われたら、さぞ凄いだろうなと感じた。

                  (つづく)
                  | 他塾の尊敬する先生 | 15:47 | - | - | ↑PAGE TOP
                  りょうさんと「生徒の涙」
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                    僕はりょうさんの文章が好きである。りょうさんは僕がYahoo掲示板に書いていた頃知り合った方で、打製石器以来、最高に進化したナイフのような切れ味のある文章に惚れてしまった。

                    りょうさんは東大を卒業し、ベーシストとして活躍され、いまは予備校の国語の先生をされている。

                    いつか、りょうさんのことをブログで紹介しようと思っていたのだが、りょうさんは人を畏怖させるところをお持ちなので、ピントのずれた紹介の仕方をしたら蹴散らされそうで、いままで私のブログの「links」の最上位に置いておきながら、本文ではまったく触れてはこなかった。

                    いかにも、りょうさんらしい投稿がこの「生徒の涙◆である。

                    僕はよく毒舌家と言われるけれど、僕の場合は舌だけに毒が含まれているわけで、りょうさんは内臓も筋肉も、全身すなわち毒である。
                    しかし、りょうさんが放つ毒の、何と心地よいことか。

                    この「生徒の涙◆も、とんでもない冷血人間の暴言に取れるし、受験生に対する最大級の叱咤激励にも見える。
                    一つの単純な解釈では収まりきれない、固い靴底で蹴飛ばされているような、また逆に汗が滲むぐらい強く抱擁されているような、読むものをぐいと立ち止まらせる強い言葉である。

                    僕もりょうさんの意見には全面賛成で、わざわざ塾講師が自塾の生徒に「受験勉強、応援してるぜ」と書くのは寒いし、そんなことは以心伝心「あうん」の呼吸で伝わる。
                    また真剣に勉強してない受験生が、不合格になった時だけ「悲劇のヒーロー」「悲劇のヒロイン」を演じるのは虫唾が走る。

                    あとおまけに言うと、誰でも入れる私立高校の推薦で、合格しましたと泣いて喜ぶのも痛い。喜ぶのは本人と家族だけだ。たった100円恵んでもらったぐらいで泣けるような感性が見苦しい。

                    生徒確保に悩む私立高校が、授業料目当てに誰でもいいから合格させるような制度から、いっそ「推薦」という名前を取り上げてほしい。
                    消化不良の高校受験なんて、人生の糧になりやしない。

                    「涙」にも重い涙があれば軽い涙もあるように、「合格」にも重い合格と軽い合格がある。 


                    | 他塾の尊敬する先生 | 16:00 | - | - | ↑PAGE TOP
                    「進学塾SORA」の若きスタッフ
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                      先日、奈良のkamiesu先生が、尾道のわが塾に来訪された。
                      「進学塾SORA」の社員である若きスタッフである、国語担当の男性P先生、数学担当の女性Q先生も、奈良から一緒に来て下さった。

                      都会の洗練された塾から、田舎の泥臭い塾に来られて、さぞculture shockを受けられたことであろう。

                      うちの大学生K君と5人で、狭い講師室でいろいろ話して、その後大阪への引越し準備で多忙なK君が家に帰り、あとの4人で尾道をぶらつき回った。

                      行った店は割烹の「青柳」、中華料理の「クラウン」、串揚げの「一口」で、尾道を知る人ならDeepな組み合わせだと、たちまちわかる店の選択だ。

                      「青柳」ではオコゼの唐揚げ、トリガイの酢の物、メバルの煮つけなど瀬戸内海を生簀にした魚料理を、「クラウン」では名古屋風手羽先や鶏レバーを使ったレバニラ、「一口」ではキスや貝柱やイワシの串揚げをご賞味いただいた。

                      「進学塾SORA」の数学を一気に仕切る女性のQ先生が、私の話を豆鉄砲を食らった鳩のように聞いていらっしゃったのが印象的だった。

                      国語担当の男性講師、P先生は28歳の方だが、年齢より若々しく(初対面の時、大学生かと思いました)目に光がある方で、声のエッジが立っていて、話し方が論理の塊で、素晴らしい授業をされる方だということは一目でわかった。

                      レーゼクライスのM尾さんご兄弟もそうなのだが、「こんな方が塾業界にいて下さるのか」と、なんだか私は嬉しくなってしまった。

                      P先生は身体から「熱さ」が滲み出た方だった。おそらく同種の「熱さ」を共有しているだろう私と同種のタイプな気がした。
                      (P先生は私を塾業界の異種、alienと思われたに違いないが(笑))

                      そういえば、稲盛和夫氏の「生き方」という本の一節に、「物事をなすには、自ら燃えることができる「自燃性」の人間でなくてはなりません」という言葉がある。
                      もちろん私は物事をなした偉大な人間ではないが、自分が「自燃性」の人間であることは自覚している。私の目には、P先生も「自燃性」であることは明らかだった。

                      稲盛氏は同著でこう続ける。
                      「周囲から何もいわれなくても、自らカッカと燃え上がる人間がいる一方で、まわりからエネルギーを与えられても、ニヒルというかクールというか、さめきった態度を崩さず、少しも燃え上がらない不燃性の人間もいます。能力はもっているのに、熱意や情意に乏しい人といってもいいでしょう。こういうタイプはせっかくの能力を活かせずに終わることが多いものです」

                      私はP先生と同じ28歳で、自分の「熱さ」を持て余し、大手塾の周囲の「冷たさ」との隔離に耐えかね塾を作った。不燃性の人間の集団に包まれると、熱い人間は気持ちが萎えてしまう。
                      P先生も28歳で、大手塾からkamiesu先生の「進学塾SORA」に移籍された。「進学塾SORA」のような熱い職場こそが、P先生にはふさわしいと思った。

                      P先生は、kamiesu先生から8年間薫陶を受けられたそうだが、強い力を周囲に与えるkamiesu先生の影響を受けながらも、kamiesu先生とは違う独自の熱を発しておられ、お互いに切磋琢磨できる、良き師弟関係であることは一目で感知できた。

                      とにかく、一流の人間には一流の若者がつく。そんな当たり前の事実を再認識した日だった。
                      | 他塾の尊敬する先生 | 16:42 | - | - | ↑PAGE TOP