猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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現代文苦手な人の短期間逆転法
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    現代文ができない時、どうするか?

    どうしようもなければ、個別マンツーマンで、現代文を教えてくれる先生を探せばいい。正直それしかない。

     

    数学が苦手なら、個別指導や家庭教師は最高の方法だが、現代文を上げるのも自力では難しい。現代文が苦手な人は現代文の参考書を読む読解力がない。数学と同じように、現代文も個別や家庭教師と親和性が高い教科だ。

    現代文をライザップ形式で鍛えるシステムがあればいいのに、と思う。

     

    現代文が苦手な人は、集団授業を聞くのも下手だ。

    集団授業で、うまい予備校の先生は「わかる」段階までは引き上げてくれる。だが実際「できる」レベルに達するには訓練がいる。わかってもできるようにならないのが現代文。

    だから個別や家庭教師で、選択肢も記述も一問一問、先生の前で解き、なぜその解答なのか、いちいち丁寧に説明してもらう必要がある。

    数学と同じだ。

     

    そして論述問題を書き、添削。来る日も来る日も添削。

    論述は型を身につけなければならない。言語体系を身につけるには、強い「師匠と弟子」の関係を結べば手っ取り早い。

    言葉こそ伝承だ。落語や漫才など言葉で生活する芸人が、師弟関係にうるさいのはそういう背景がある。新聞社でもデスクは若い記者に何度も書き換えを命じて鍛えていく。

    論述はマンツーマンでどんどん間違えて恥をかけばいい。恥をかいた回数が現代文力につながる。

    現代文で必要なのは、inputだけでなくoutputだ。

     

    もちろんoutputするためには、inputしなければならない。

    inputで大事なのは、もちろん語彙である。「語彙こそはすべて」である。

    ゲームが怖いのはそこで、小学生のころから本もマンガも読まずテレビも見ない生活をしていたら、語彙が抜け落ちてしまう。ゲームは語彙を砂漠化する。

    語彙が貧弱だと、種子を蒔いていない植木鉢のようで、学力の芽は絶対に生えてこない。

     

    語彙をつけるには、本格的な読書から始める必要はない。ライトノベルでも百田尚樹でも東野圭吾でも、本を開いたら読者をつかんで離さない作家の本から始めればいい。直木賞作家の代表作とか、本屋大賞受賞作とか、数冊読んでみて気に入った作家の作品を読み込めばいい。

    間違っても『東大生に薦める本』で推薦されているような本を選んではいけない。それはもう少し段階を経ての話だ。気取る必要など全くない。

     

    現代文が得意な人は、たいてい小学校中学校から本を手放さない。彼らは最初から高尚な本を読んでいたわけではない、娯楽作品で語彙を知らず知らずのうちに埋め込んでいる。何よりも彼らは本が楽しいものだと知っている。

     

    入試の現代文の文章は、読書体験が豊富で、語彙のストックが増えて、はじめて理解できる難解なものだ。語彙がなければマンツーマン個別授業でも家庭教師でもどうしようもない。

    十冊、エンターテイメント小説のジェットコースターに乗れば、視界が開ける。

     

    | 国語力!作文力!読書力! | 18:31 | - | - | ↑PAGE TOP
    国語力がありそな有名人、なさそな有名人
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      国語力をつけるには、「文章の聞き上手」になることである。
      文章と読み手の感性がグリップした時、本との最高の出会いが生まれる。

      ところで、私が「この人、国語力あるな」と感じる有名人は、美智子皇后である。
      美智子皇后は、どんな人の話も、強い共感を持ちながら、笑顔でうなずきながら聞く。手に膝を置きながら、身体を聞き手の真正面に据えて、全身で聞く。

      話し手の側から見れば、最高の聞き手である。美智子皇后の笑顔に向かって語れば、何を話しても涙が出そうなくらい的確な答えが返ってきて、自分がものすごい話し上手に感じてしまうだろう。(その前に緊張して何も話せないかもしれないが)

      皇后陛下はは本でも、心の中で丁寧にうなずきながら、几帳面かつ深く読んでいるに違いない。

      また美智子皇后の文章は素晴らしい。

      「生まれて以来、人は自分と周囲の間に、一つ一つ橋をかけ、人とも、物ともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果たさなかったり、時として橋をかける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく、内にも向かい、自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ、本当の自分を発見し、自己の確立をうながしていくように思います」

      尖らない知性と、温和な精神とが、嘘偽りなく文字に刻まれている。
      正直言って、怪しい宗教人の文章と紙一重なのだが、美智子皇后の笑顔を想像しながら読むと、説得力を極めた名文になる。
      国語力をつけるという作業は、一種の人格改造であり、普通のオバサンを美智子皇后に変える作業なのかもしれない。


      逆に、圧倒的に自己主張が強い人には、国語力を期待してはならない。自己主張が激しい人は、自分のことしか語らない。人の話を聞かない。どんな文章も、どんな話も、自分の解釈でねじ曲げてしまう。それはそれでまた大きな魅力になることがある。

      たとえば矢沢永吉。国語力がいかにもなさそうではないか。

      永ちゃんにインタビューすると
      記者「今回のアルバムは、どんな感じですか?」
      矢沢「矢沢は自分のこと、メチャクチャ好きだしね」
      記者「いつまでもお若いですね」
      矢沢「そこに、アンタがいるから歌うんだ」
      記者「矢沢さんにとってビートルズとは?」
      矢沢「そこんとこヨロシク」
      記者「ツアーの抱負は?」
      矢沢「♪ルイジアナ、テネシー、シカゴ はるかロス・アンジェルスまで〜」

      トンチンカンな会話で埋めつくされ、その後は記者に口を挟ませぬ独演会のオンパレード。人の話より自分の話が好き。会話のキャッチボールでなく、一方的なフリーバッティングに近い。現代文が苦手な子は多かれ少なかれ、テキストの内容を無視したり、あるいは自分の解釈にゆがめてしまう。

      まあでも永ちゃんの話は、独善的スレスレのアクの強さが魅力だ。人の話を無言で聴き、ただ黙ってうなずいている「聞き上手」の矢沢永吉なんて気持ち悪い。


       
      | 国語力!作文力!読書力! | 16:38 | - | - | ↑PAGE TOP
      読書をしても現代文が上がらないのはなぜ?
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        読書好きなのに現代文の点数が低い人は多い。だけど、それは読みやすい本しか読んでいないからだと思う。
         
        ベストセラーやミステリーやライトノベル、どれにマンガは、難解な箇所を極力減らして書かれている。意味不明な箇所が続けば読者は本を置くから、作者も編集者もわかりにくい箇所には神経質なのだ。
        読者にスラッと読ませることを目的にした書物では、難しい部分があったら負けだ。読者が座礁しないように、細心の注意が払われる。
         
        読者にスラスラ読ませる目的の本が、国語の入試問題に使われ、傍線を引かれて「わかりやすく説明せよ」などとやられるのは屈辱以外の何物でもない。わかりやすく説明せよと指示されるのは、表現が難しくこなれていないからだ。もっと読者の胸にストンと落ちるようにわかりやすく書けと言われているのと同じことだ。
         
        逆に、入試問題に出題される評論や純文学は読み飛ばしができず、難解で意味がわからない箇所には決まって傍線が引かれ、わかりやすくする作業は読者に委ねられている。読みながら立ち止まることは要求される。
        だから、ページをめくる手が止まらない読みやすい文章にばかり触れていても、現代文の得点力はいつまでたっても上がらない。
         
        速読を自慢する人がいるが、たいていは速読できるように筆者や出版社が気をつかって書いた本を読んでいるから速読できるわけである。速読自慢の大部分は、「俺はラーメンを早く食べれるぜ」と自慢しているのと同じことだ。ラーメンは本来、速く食べるようにできている食べ物だからである。
         
        不思議なことに、読書嫌いでも現代文が得意な人がいる。それは難しい箇所に出くわしたら、飛ばさずに、真摯に向き合うクセがついているからだと思う。
        現代文の力をつけるには、消費者としての流す読書ではなく、主体性をもって筆者と対峙する姿勢が必要なのだ。
         
        ただ、快楽目的の読書でも、語彙は増える。現代文は語彙のストックで決まる。どんなに解法を学んでも、語彙の壁に阻まれただ読解はできない。
        読書するアドバンテージは、何よりも語彙力である。
        読書で蓄えた語彙力の下地に、きちんとした読解法で理論武装すれば、「わかる奴だけ読め」という態度の難解な入試問題にも慣れ、現代文の点数は上がる。
        読みやすい文章ばかりに触れていても、語彙は増える。現代文が苦手でもブレイクは速い。逆に活字に触れる機会が少なければ、ボキャブラリーでつまずく。
         
        快楽の読書は、無駄ではない。



         
        | 国語力!作文力!読書力! | 20:16 | - | - | ↑PAGE TOP
        毒舌小論文作文指導
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          私は小論文や作文の添削が大好きで、結構塾では作文の時間を取っている。おかげでうちの塾では論文重視の大学受験、高校受験の推薦入試は強い。

          作文指導中に生徒の文章を見ると、頭の中から口汚い罵倒の言葉がバンバン出てくる。

          「ねえ、それ書いてて面白い? オレは読んでてちっとも面白くないよ」

          「15年生きてて、これしか書けないの? つまらん人生だねえ」

          「語尾が「のだ」「のだ」の連発。しつこい。キミはバカボンのパパか」

          「文章の構成メチャクチャ。流れが気持ち悪い。象の頭に牛の身体に蛇の尻尾がついたような文章だな」

          「段落変えすぎ。何で400字の原稿用紙に、形式段落が11個もあるの?
          君は西村京太郎か? 赤川次郎か? 段落多過ぎると文章が薄くなるぞ」

          「ねえ、試験官は100枚も200枚も論文読むんだよ。100枚も200枚も読んだらウンザリするだろ。お前の文章もそんなウンザリの1枚。試験官に「お〜、これはモノが違うネェ」と目覚めさせる文章書いてみろよ」

          「いい子ぶるな。面白くない。もっと裸になって書け」

          「これは逆に裸になりすぎ。抑えろ。型に個性を無理して押し込めろ」

          「君の作文何枚も見てるけど、マンネリ。読んでて「またか〜」と思ってしまう。視点を変えろ。視座を据え直せ」

          「文章が平坦すぎ。これじゃあ読み流されてしまう。ドカンと一発比喩をかませ。読者にパンチを喰らわせろ。ただ、比喩は使うとくどくなる。一発、極めつけのヤツをかませ」

          「文章は書き出しが命。書き出しがつまらなかったら誰も読まないぜ。文章はスタートダッシュが肝心」

          「面白い文章だ。小説化の素質がある。ただ個性が強すぎ。ユニークすぎて変人オーラが出ている。15歳の無垢な少年少女に成りすまして書け。一応公機関に提出する文章なんだから、アクを抜け」

          「抽象論ばかりの文章はつまらない。もっと具体的に、自分の体験を入れろ。自分は面白い体験しているとアピールしろ」

          「文章がガキ。高等学校には精神年齢が小学生のヤツはいらねえよ」

          「ナルシストの典型。鏡を見つめてウットリみたいな文章書くな」

          「ケータイ小説の読みすぎ。小論文とは方向性が違う」

          「語彙が少ない。古めかしい言い方すると「ボキャ貧」です。難しい言葉を使うとカッコいいという美意識を持て」

          「『環境問題は大切です』『高齢化問題は僕たちの力で解決しなければならない』なんて偉そうに書いてるけど、ホントにそう思ってるの? 嘘くさいぞ。この作文からは全然伝わってこない。ふだん無関心なことを、さも自分の悩み事みたいに書くとボロが出るぜ」

          こんな罵声語を、オブラートで十重二十重にくるんで、作文指導をする。



          ただ、生徒の文章力を伸ばすのは、もちろんほめるのが一番。
          よい文章だったら多少大袈裟にほめまくる。
          「よく書けたねえ」と大笑いして、「よし、またいい文章書いてやる」と、やる気にさせる。
          文章は、おだてられて上手くなるのだ。




          ★開成塾・高校受験
          尾道市向島・北高・東高をめざす塾




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          | 国語力!作文力!読書力! | 21:23 | - | - | ↑PAGE TOP
          国語力「促成栽培」
          0
            高3は、国語力の「促成栽培」に挑んでいる。
            6月末までに、全員センターで140点。評論・小説・古文・漢文が平均して各35点。要するに7割が絶対目標。

            6月30日(火)にテストを実施する。

            センターの過去問は2年分やって、いまは凍結中。過去問は最後の3ヶ月のために温存しておく。やり過ぎたら直前に解く問題がなくなる。

            授業では、河合塾の実戦問題集「黒本」を1冊6月終了までに済ます。各自では代ゼミの実戦問題集「白本」をやってもらう。
            解説のいいZ会の「緑本」と、問題が難解な駿台の「青本」も、夏以降のために温存する。

            とにかく現代文は、野球のバッティングと同じで、フォームが固まれば勝ちだ。私は選手のフリーバッティングを見守る、バッティングコーチのような心境だ。

            現代文が苦手な子はバットが波打っている。速球にバットが遅れ変化球に対応できない。どんどん言葉を選びながら矯正していく。

            国語の得点力は、バッティングと違って、一度フォームが固まったら崩れない。フォームを固めてしまえば、いちおう安定した得点力が望める。

            かつて野球の神様川上哲治は「ボールが止まって見える」との格言を残したが、センター国語も同じで、正しい訓練を続けていると、正解の選択肢だけが「キラキラッ」と黄金のように光る瞬間がある。この境地に達したら勝ちだ。

            国語の得点力の伸びは、単なる知識の獲得だけではなく、人格の成長という要素があるので、「促成栽培」は困難を極めるが、いつまでもグダグダ「国語が苦手」な状況を引き伸ばすのは良くない。

            「国語力アップ」は本来長期目標であり、これを短期目標にするのは無理があるかもしれないが、不退転の決意でやり遂げたい。




            ★開成塾・大学受験
            尾道市向島の塾・現代文のフォームを固める





            | 国語力!作文力!読書力! | 17:55 | - | - | ↑PAGE TOP
            映画で「超弩級の国語力」をもくろむ
            0
              映画館は観客を狭い空間に閉じ込め、目に映像を、耳に音響を暴力的に与える洗脳空間である。強烈な映画を見た後の虚脱感は、観客にとって一種の愉悦である。

              映画の力はすごい。良質の映画やドラマは、短時間で子供の情の強さ深さを育み、エネルギー量を飛躍的に高めると、私は固く信じている。良い映画は「人の気持ちがわかる人間」、冷めた環境の中でも自分を見失わず「熱を失わない人間」を生み出す。

              だからこそ、塾でいろいろな名作を生徒に見せたい。1ヶ月に1本は映画やドラマを見て、いろいろと議論したい。
              私は大学生時代に映画を創作していた。大学時代は映画と政治のことばかり考えていた。映画の知識については、塾講師の中でも比較的豊富な方だと思う。

              私が映画について授業であれこれ語ることは、子供に「超弩級の国語力」を身につける、大きな助けになると最近確信するようになった。

              これまで私は授業中に、映画についてあまり語ってこなかった。でも今後は封印を解きたい。意外にも生徒たちは、すごい名画の存在を知らない。たとえば中学生高校生の時分に「ニューシネマパラダイス」を見るか見ないかによって、その後の人生の豊かさは、些細だが確実に変わってくるような気がする。

              ところで中2諸君に、日本のテレビドラマ史上最高傑作であると私が信じて疑わない某ドラマを見たかと尋ねてみたら、なんと誰も見たことがないという。たった10年前のドラマなのに、もう過去のドラマになってしまったのか。

              私は10回以上繰り返しなめるように見た。好きで好きで仕方がないドラマだ。人物のキャラの立ち方は半端ではなく、脚本はいつでも機知に富んでいて、音楽は煽情的で、移転前のフジテレビの新社屋を使ったセットはピカピカだ。

              何が凄いかと言えば、このドラマは真面目と笑いの比率が最高である。ユニークな台詞で爆笑を誘ったら、シリアスな場面で胸を締め付ける。
              ドラマの基調は自然体で、むしろ軽い。しかしドラマが進行するにつれ、空気が重くなっていく。笑いとシリアス、おちゃらけと真剣さ、軽さと重さ。1話の中に複雑なカオスが入り混じっていて、そこに企画者の鋭利な知性を意識させる。

              僭越ながら、私の授業もブログも、このドラマを手本にしている。軽さと重さ、ユニークさと真剣さ、柔軟さと頑固さ、難渋さとわかりやすさ、二律背反する要素を同時に一つの授業とブログに混ぜるよう、私はいつも意識している。ボーリング玉を投げたと思ったら次はピンポン玉を投げ、真顔と笑顔を交互に混ぜ、言葉がヒートアップしすぎたら思い切って冷ます。

              とにかく、私がこのドラマで得たものは大きい。特にブログのスタンスにおいては、ものすごい影響を受けている。このドラマに関しては、また長々と語る機会があるだろう。中2の生徒諸君には、このドラマの第1話と第3話を見てもらった。「この映画・ドラマいいよ」と紹介するだけでもいいのだが、なかなかそれだけでは見てくれない。

              「踊る大捜査線」のおかげで、ドラマで楽しみながら国語の潜在能力を上げる、よい機会になったと思う。


              | 国語力!作文力!読書力! | 18:11 | - | - | ↑PAGE TOP
              読書をすれば国語力は上がるか?
              0
                ズバリ、無理です。

                読書は好きだが国語の点数が上がらないといった、読書量と国語の成績が比例しない子供がいる。そんな子供は、やさしい簡単な本しか読んでいない場合が多い。

                その子の読解力レベルを10とすると、難易度が7以下の本しか読んでいない。
                自分の読解力よりレベルが高い本は、どうしても活字を意識してしまうので、難しくて敬遠してしまう。
                それじゃあ漫画を読んでいるのと変わらない。読書が読解力を伸ばすという方はいても、漫画が読解力を伸ばすというのは聞いたことがない。
                (もちろん知的好奇心の糸口として漫画はこの上ないツールだけど)

                しかし入試問題は、中学入試なら小6、高校入試なら中3、大学入試なら高3といった年齢相応より背伸びした、歯ごたえのある難しい文章が出題されるわけだ。自分のレベルが10なら、12ぐらいの文章が出る。

                普段簡単なものばかり読んでいた子は、入試問題の難文には対応しきれない。
                バッティングピッチャーの緩い球ばかり打つ練習しかしていない野球選手が、実戦で剛速球や癖のある変化球を打てないのと同じことだ。

                「うちの子は読書好きなのに国語の点数が上がらない」という事態は、こんなことが原因なのだ。

                読解力は、自分よりほんの少し高いレベルの文章を、塾というソフトな「強制力」のもとでの、的確な指導の下でないと到底身につかない。塾での国語の授業は、読解力アップのための最高の環境である。

                大人の世界でも難しい文章は敬遠される風潮が強くなっている。

                戦前の旧制高校の学生みたいに、見栄を張って哲学書を紐解くといった、難しい文章を読むことが格好良いという風潮は廃れてきている。
                むしろ最近では、難しい文章は悪文として斬って捨てられる傾向がある。大江健三郎や埴谷雄高の価値は大幅下落し、村上春樹や宮本輝のように読者の頭にすっと入り込む文体の作家が評価されている。

                実は私も難しい本を最近敬遠しがちなのだ。自分のお気に入りの作家の本や、好きなジャンルの文章ばかり読んでしまう。今の私は放っておいたら、村上春樹や西村京太郎ばかり読んでしまう。

                大人でもバランスの良い読書は難しい、ましてや子供では無理というものだ。





                ★開成塾
                尾道市向島・しまなみ海道の知的空間






                | 国語力!作文力!読書力! | 15:48 | - | - | ↑PAGE TOP
                国語・難しすぎる接続詞の問題
                0
                  (   )に当てはまる選択肢を、次のア〜エから選びなさい。

                  ( 1 )マンピーのGスポット
                  Gスポット Gスポット
                  真夜中の森を抜けて 辿れば自由の道
                  ( 2 )マンピーのGスポット
                  Gスポット Gスポット
                  たとえ君がつれなくても 永遠の 夏のメロディ

                  ( 3 )マンピーはJuke Box
                  Juke Box Juke Box
                  湖に赤いバラを捧げた憂いの旅
                  ( 4 )マンピーはJuke Box
                  Juke Box Juke Box
                  君と濡れた貝を拾う 灼熱の恋のメロディ

                  ア・あれは イ・それが ウ・やがて エ・だから

                  桑田氏の歌詞は解読不能
                  | 国語力!作文力!読書力! | 20:09 | - | - | ↑PAGE TOP
                  速読って必要なの?
                  0
                    私は本を読むのが遅い。コミック本でも1冊40分ぐらい、西村京太郎の十津川警部モノのような、軽く読める本でも2時間はかかってしまう。

                    75歳で作家デビューした注目の歴史作家、加藤廣「秀吉の伽」を読んだ。「本能寺の変の主犯は秀吉」というストーリーの、ハードカバー2冊の重厚な歴史ミステリーだが、読了するのに丸4日かかった。

                    それにしても本屋に行けば、膨大な数の本があって圧倒される。時々「これを全部読まなければ」と、いらぬ強迫観念に襲われる。
                    だから、もっと速く本を読めたらいいのに、と思う。今のスピードの3倍で読めれば、3倍の量の本が読めることになる。

                    司馬遼太郎は新しい作品に取り掛かるとき、神田神保町の馴染みの古本屋に史料になる本の収集を頼み、それを何百万単位で購入し、物凄いスピードで読破し頭に叩き込んだという。そんな話を聞くと、速読に憧れる。

                    しかし、世に出ている速読術には「文庫本を5分で読める」などとオカルト的な怪しいものが多いので、絶対に影響を受けないことにしている。

                    ところで、本の種類によって読む速度が変わるのは当然だろう。平易な文章で書かれた本は速読が可能だとしても、難解な本は速読が難しい。
                    ラーメンなら1杯5分で食える。しかし丼いっぱいのイカの塩辛を5分で食べれるだろうか?

                    たとえば、

                    神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動となんら関係もないように感ぜられるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。さきにいったように、我々の欲望は大いなる統一を求むより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というのも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。しかるに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するののではない。更に進んで一層大いなる統一を求めねばならぬ。我々の大いなる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むようになる。我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である

                    という、西田幾多郎渾身の作の、難解な哲学書を速読できるだろうか?

                    ある種の教養人には可能だろうが、私には無理だ。というかこの手の文に速読の必要性を私は感じない。難解な本は、極端に言えば筆者が書くスピードと同じ速さで読まなければならない場合だってある。外国語の文章を読むときに至っては、ネイティブの筆者が書く速さより、読む速さのほうが遅いことおもあり得るのだ。
                    新聞やビジネス書のような、情報を取り入れる文章は速く読めるに越したことはないが、小説や思想系の文章に対して、ことさらに速読を強調するのは、文書に対する冒涜のような気がする。
                    本にはそれぞれ、読むスピードの適正速度がある。

                    あと、オリジナリティに溢れた名著は、読み流しを絶対に許さない。
                    ときおり文面を追いながら、著述に圧倒され、しばし感心し読むのを中断してしまうことがある。

                    本の中に素晴らしいフレーズがあった時は、本を開いたまま机に置き、文章の鮮やかな切り口と心地よい毒の刺激が、読者である私の体を循環するまでしばし待つ。
                    作者の意見が憑依して自分の意見になるまで、脳の中を整理する時間を名著は与えてくれる。

                    とにかく、私は気の合う作者の本を、少量じっくり読めればいいと思っている。世の中に人間は数多くいるけれど、真の友人になれる人間は少ない。
                    熟読に値する「好きな作家」が30人ぐらいいればいい。あとは適当に「速読」でお付き合いする。そんなスタンスで私は読書している。
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                    国語は「話し上手」より「聞き上手」
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                      私は中学3年から高校時代にかけて、勉強を全くしなかった。高校時代は学校へ行かず、昼は映画館、夜は球場でカープの応援、という生活だった。東京で相撲がある時は、土俵から遠い椅子席で相撲を見ていた。千代の富士の全盛期だった。
                      まとまった金が入ると旅に出た。とにかく、俺は映画監督になるのだから、学校の勉強など糞食らえ! というスタンスだった。

                      浪人中の7月から、さすがに現実逃避に飽きたのと、映画監督になるには大学生になるのが手っ取り早いという打算的な考えもあり、勉強を始めた。

                      勉強を始めた直後、7月か8月かに、おそるおそる河合塾の全統模試を受けた。それまで私は学校の実力テストとか、予備校の模試とかある日は、学校を休んでいたので、生涯初の大学受験関係の模試受験だった。

                      数学や理科を今から1から始めるのは難しいと考え、私立文系で攻めた。受験科目は英語・国語・日本史。
                      模試受験は怖かった。はじめて大学受験という現実に向き合うのだ。中2の頃から勉強というものを一切していない。どんな結果が出るのか。

                      まるで3〜4年もの間、冷蔵庫に放り込まれ置き去りにされた生卵の殻を割るような恐怖だった。どれだけ自分の学力は腐っているのだろうか?

                      結果は・・・

                      英語は偏差値55くらいだった。目標大学の偏差値が70を超えていたので、赤信号が灯ってはいたのだが、英語に関しては偏差値35くらいは覚悟していたので、思ったよりずっと良かった、というのが正直な感想だった。偏差値マイナス15くらいなら、何とか駆け上がってみせるぜ、という根拠の無い自信もあった。

                      日本史は偏差値73。学校の勉強も受験勉強も全くしなかったが、ふだんから私は陰気くさい戦記物や戦国物の本を貪り読んでいたし、戦国時代や幕末や昭和初期を舞台にしたシナリオを書いていた。シナリオを書くために小難しい史料にも接していた。だから試験問題はクイズみたいで簡単だった。

                      問題は国語だった。

                      模試を受ける前、国語には自信があった。金が無いときは映画館に行かずに、図書館に篭って蓮實重彦の映画評や、柄谷行人の文学評論を読んでいた。難しい文章の読解には自信があった。また勉強していなくても、国語はできるという幻想に縛られてもいた。

                      しかし、返却された国語の偏差値は48だった。特に現代文が悪かった。絶望的に。
                      模試の結果が悪かった理由を、予備校の人気講師が書いた本を参考にしながら、自分なりに分析してみた。

                      分析してわかったのだが、私には悪い癖があった。評論でも随筆でも、自分の方向にねじ曲げて読む癖だ。
                      脳内にテキストを取り込むとき、テキストの内容をそのまま受け入れればいいのに、私の脳内には妙な酵素があって、その酵素がテキストの内容を、筆者の考えとは似ても似つかぬ、自分独自の方向に変質させるのだ。

                      だから、記述問題は大の苦手だった。記述問題になると、私は解答用紙に自分の意見をぶちまけた。当然不正解になる。模範解答を見ると、私の主観的で虚飾に満ちた「作文」と違って、面白くも無い無味乾燥な文章だ。私の文章のほうが面白い。模範解答を読むたびに私は「こんなんでいいの?」と納得がいかなかった。

                      しかし国語は「自分の言いたいこと」を主張する科目ではない。「相手の言いたいこと」を読み込む科目だ。表現力より読解力が求められる。そんな初歩的なことにも気づかなかった。

                      カウンセリングで、カウンセラーは患者さんから相談を受けたとき、自分の意見を述べてはならないそうだ。患者さんの台詞をカウンセラーが繰り返すのが、一番良い対処法らしい。

                      「わたし毎日深夜2時ごろ、死んだ父親の幻覚を見るんですよ」
                      「深夜2時ごろ、亡くなったお父さんの姿をご覧になるのですね?」
                      「ええ」
                      という具合に。

                      国語という科目も同じ。筆者の書いた内容の奴隷にならなければ、国語の問題は解けない。国語の問題に接するとき、われわれは「話し上手」ではなく、「聞き上手」にならねばならないのだ。


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