猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
kasami88★gmail.com
CALENDAR
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
猫ギター
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
生意気な生徒が先生になった時
0
    私が塾講師として、新人だった頃の経験を語らせてもらう。
    思い出すのも汚らわしいほど、大変だった。

    私は中学・高校時代、先生を厳しく批評するのが好きな、非常に生意気で大人ぶった生徒だった。
    「この人は凄い」と憧れた先生の授業は、一言一句聞き逃さなかった。ファンになって「どこまでもついていきます」という熱い気持で心が震えた。

    しかし「こいつは駄目だな」と私が勝手に評価した教師の授業は、寝たり読書の時間にあてたり、進級に必要な日数を満たすだけ出席して、あとはさぼって「ぴあ」を片手に、文芸座や並木座や大井武蔵野館といった映画館をハシゴした。

    とにかく私の心の中には、教師に対する確固とした評価基準があり、その基準は確かに青臭かったけども、青臭い分だけ誠実で排他的なものだった。
    自分は教師に対する審美眼があると思い込み、そんな審美眼に酔っていた。そして、授業が面白くない先生を「馬鹿教師」と決め付けていた。

    私は決してそんな気持ちを顔には出さない方だ。
    「お前の授業はつまらない。お前からは何も学ぶことはない」と本人の前で言う度胸もないし、非常識でもなかった。
    しかし有能な先生に対する尊敬と、無能な教師に対する軽蔑は、心の中に確固としてあった。おそらくどんな方でも多かれ少なかれ、学生時代にはそんな経験をお持ちだろう。でも私の場合その度合いが強かった。

    そんな偉そうな人間が教壇に立つとどうなるか。地獄の責め苦だ。教壇に立つ人に対して向けていた厳しい目が、攻守が変わって、今度は自分自身に向けられる。
    子供の純粋な目から、未熟で丸裸になった私の方向へ、鋭い批評の矢が放たれる。自分は「馬鹿教師」と思われている。そんな被害妄想に苦しんだ。教壇に立って始めて、大勢の子供を相手に授業することが、どれだけ大変で畏れ多いことか、身に沁みてわかった。

    講師歴が浅い人間にとって、授業時間は砂漠を逍遥するみたいに、永遠で長い時間に感じる。
    授業時間が50分ならTVドラマ1話分、90分なら短い映画1本分の長さ。
    そんな長い長い時間を、自分の話す言葉だけで埋めなければならない。途方にくれてしまう。

    徹夜で予習をしても上手く話せない。私はどもりで、話下手だ。私の目は黒板の方ばかり見て、生徒の方を向く余裕なんかない。
    沈黙を言葉で埋めようとしてもがき苦しむ。言葉は早口になってしどろもどろ。私の話す言葉は宙に舞うだけで、生徒には全く届いていない。教壇と生徒の間には厚い壁ができる。

    ノートを取らない中3の男の子の不気味な沈黙、中学校2年生の女の子の薄ら笑い、授業中サルの群れみたいに騒ぎ立てる中1クラス、「先生の授業つまんない。××先生のほうがいい。」と無邪気に寸鉄人を刺すような言葉を放つ小学6年生。解決策を見出せずに、おろおろする無能な自分。

    ああ、ひどい授業。自分が生徒だったら、自分の授業をどう批評するか。恐ろしくて思考停止になる。ついこの間まで、尾崎豊の「つまらない授業飛び出して、盗んだバイクで走り出す」みたいな歌詞に共感していた自分が、いつの間にかつまらない授業をやる側になってしまった運命の怖さ。今度はこっちが羞恥心からバイクで逃げだしたくなる。


     
    | よい授業とは? | 09:29 | - | - | ↑PAGE TOP
    授業破壊願望
    0
      授業という形態が、子供にものを教えるうえで果たして最上の方法なのか、私は常に疑い続けている。

      10年前、授業という形式への疑いが最も大きかったとき、塾で授業を全くしなかったことがある。今思うと短絡的だという謗りを免れないが、授業が子供の自主性を妨げる元凶だと考えた時期があったのだ。
      授業をやめてしまえば子供は戸惑う。戸惑うことが積極的な学習姿勢の習得につながるのではないか?
      子供の積極的な自主勉強は、授業という既成の枠を取り払った所から生まれるのではないか?

      たとえば中学生や高校生は、朝8時から夕方4時まで延々と授業を受けている。よく集中力が続くなと感心して聞くと、どうやら授業時間の半分以上は中学生なら友人と騒いだり、また高校生なら眠ったりぼっとしたり、内職したり漫画や本を読んだりしていると答える子が多い。ひどい授業になると、クラスの3分の2は眠っているらしい。
      子供を長時間拘束して、先生はつまらない授業を垂れ流す。それならば自習させて質問を受け付ける方式にするなり、或いは公文式のように習得度別のプリントを配って添削するなり、方法は多種多様なバリエーションで考えられるだろうと思う。
      なぜだか授業という形式に固執し安住し、授業という形式にとらわれている割には授業力の向上への工夫が見られない態度に対して、私は不可思議なものを感じていた。学校の先生は自分の授業で眠っている子供を目にしていながら、「授業」という形式を疑ったことはないのだろうか?

      ということで、我が塾では、授業という形式を実験的に破壊してみようか、そういう悪戯心が芽生えたのだ。
      授業をしないことに決めた私は、塾でどんな教科をやってもいいことにした。何も指示しないのだ。しかし皆、予想していた通りというか、自分の得意教科を中心に勉強する。
      「社会はもういいよ、お前できるんだから」「うん」しかし子供は30分後にはまた社会をやっている。
      悪いことに授業をやめて自主勉強を始めだしてから、子供は未習の新しい分野に手をつけようとはしない。
      たとえば電流、オームの法則。学校のカリキュラムではもうそろそろ登場するのに、どの子も怖がってオームの法則に積極的に手をつけようとしない。参考書や問題集に書かれている回路を見ただけで毛嫌いしてしまう。

      私は、未習の分野の征服には、自主勉強は極めて悪い学習方法だと気が付いた。子供にとってはじめて習う分野は、本による「目学問」より、講師が口で手取り足取り説明する「耳学問」が必要なのだ。
      試験前などの「まとめ」や「暗記」が必要な時期には自主勉強は極めて効率的だ。習った分野を自分で蒸し返し、記憶を定着させるには自主勉強は最高の手段だと思う。
      だけど、新しく習う分野は、講師が先頭に立って授業をして、講師が先頭に立って壁をぶち破ってやらなければ、ほとんどの子供は新分野を習得することができない。まだ習っていない分野を「予習」できる子は、一握りの人間だという事実に改めて気づいた。

      しかし、それでも私は自主学習にこだわった。私は子供にやるべき分野だけは指示するようにした
      「今日はオームの法則です。それ以外はやらないように」と指示する。
      そして、「わからないところは持って来なさい」と言うと、子供が持ってくる場所はほぼ同じ。同じ事を個人別に何度も紙に書いて説明する効率の悪さ。
      しかも勉強が苦手な子は、全く質問をしにこない。
      こちらから尋ねてみると、
      「わかる?」「わかる」
      「大丈夫?」「大丈夫」
      しかし全然大丈夫ではない。
      正直な子は、「オームの法則わかる?」「ぜんぜんわかりません」と言った。
      「わからない場所がわかる」ことが、学力がある特定のレベルに達した子にしかできない芸当であることを再認識した。

      さらに、授業をやらないと子供同士の競争心が薄れる。切磋琢磨できずに、刺激がない。おまけに授業がなければ塾が陰気になってしまい活気が薄れてしまう。
      子供の活発な発言や、講師が精一杯張り上げる声が消えてしまうことが、塾からいかに活力を奪ってしまうか。競りの掛け声のない魚市場のような陰陰滅滅たる塾は私の好みではない。 

      私は結局我慢しきれず、荒々しく教材を刷って、オームの法則の授業をやった。
      私が「たまには授業、やるか?」と誘うと、子供も待っていましたとばかり、「やろうやろう」と応える。そして私が、「じゃあ授業聞きたい人だけ、あっちの部屋に行こう」と誘うと、全員ついてきた。
      その授業の楽しかったこと。子供は文字通り身を乗り出して私の話を聞いていた。
      子供と会話のキャッチボールをしながら、子供の頭に電流の回路を論理的に構築してゆく快感。授業が持つ祝祭的な空間を久々に味わう喜び。
      この自然発生的な授業は、まるでサウナの後の焼けて乾いた喉に、冷たい生ビールをぶっかけるような快感を味わせてくれた。
      授業という形式が、いかに効率的で理にかなったものか、再認識したわけで、結局私の「授業をやらない」実験は1ヶ月で終った。

      授業は、講師という絶対的な存在を際立たせるものだ。講師が座っている子供を前にして「1人だけ立っている」ことの強い効果。
      私は授業を否定した、しかし授業に変わる新しい形式を作ることができなかった。そして授業という形式の素晴らしさを再認識した。この実験は、手垢の付いた授業というマンネリな形式を、新鮮なものへと変えた。


       
      | よい授業とは? | 20:27 | - | - | ↑PAGE TOP
      授業自慢と情報化社会
      0

        学力低下が叫ばれているが、大学高校中学問わず、難関校の入試問題は年を追うごとに難しくなっている。問題は難しくなっているのに、合格最低点があまり下がらない。

        「今年の○○大の問題は難しいぞ」と感じても、合格最低点はそんなに変わらなかったという経験は、大学受験を担当する先生方なら経験されたのではないか。

         

        これは授業技術の向上、参考書の充実、予備校・塾の競争激化など、さまざまな要因が挙げられるだろう。難関校を受験する生徒の「得点力」は、明らかに上がっている。おそらく18歳の僕がタイムスリップして2010年の早稲田大学の試験を受けたら、絶対に合格しない。

         

        学校や塾や予備校の授業技術はここ数年、飛躍的に上がっている。

        予備校や塾では授業をネット配信したりDVDで授業を公開している。日本全国の学校教師や塾講師は、全国のトップレベルの講義を目にするようになった。刺激を受けないわけがない。

        授業を受ける側の生徒も、衛星授業やDVDですごい授業を見て目が肥えているため、われわれ塾講師も、おいそれと下手な授業ができないプレッシャーがかかる。

         

        また参考書や問題集の充実度も高い。特に大学受験の参考書や問題集を見ると、「秘術」に近いものまで載っている。参考書や問題集の進化の度合いは激しく、評判のいい参考書を片っ端から買って研究し続けないと、塾講師は時代遅れの人になってしまう。 

        かつては狭い教室内の出来事だった授業が、ネットや衛星でここまで広く配信され、おまけに参考書が充実し「秘術」が惜しげもなく公開されると、もはや下手に授業やノウハウ自慢ができなくなった。


        授業というものは、ある程度信頼の置ける同業者に見てもらって、感想をいただけなければ、独りよがりになってしまう。
         

        特に個人塾の場合はそうだ。ネットやDVDの映像に商品価値があり、受験生の助けになっているカリスマ的な先生は別として、1人で塾をやっている個人塾講師が「私の授業は素晴らしい、皆の衆、ひれ伏せ!」と自己申告しても、なかなか信じてもらえない。

         

        授業というものは、最初のうちは恥ずかしくて公開しづらいと思う。個人塾の講師は自分の授業の「レベル」がわからない。主観的に授業に自信を持っていても、実は噴飯物という場合が多いような気がする。それを恐れて人目にさらすことに萎縮してしまう。

         

        授業を公開せずに「自分の授業力はすごいんだ」「俺の指導力はピカ一だ」と自慢し吹聴する個人塾の先生がいるとすれば、その人は福田康夫元首相並みに自分を客観視できる、本当に物凄い授業力の持ち主か、それとも単なるメタ認知の欠如かどちらかであろう。

         

        自慢が過剰になり、また他者攻撃の度合いが激しいと、周囲の期待値はいやおうなく高まり、天文学的に高いハードルを越えなければならない。そうならないうちに、積極的に評判の良いセミナーに参加するか、思いきってネットで動画を公開し、最初のうちは冷笑失笑嘲笑爆笑を受けるかもしれないが、謙虚な気持ちになって鍛えてもらえばいい。

         

        学校や塾の授業は、いまや情報化社会の洗礼を受けている。どんどん授業を公開して力をつけていけばいい。






        ★開成塾
        尾道市向島・「志」ある若者の「凛」とした学び場
















         

        | よい授業とは? | 22:25 | - | - | ↑PAGE TOP
        つまらない授業から逃げ出したい
        0
          私が塾講師として、新人だった頃の経験を語らせてもらう。
          思い出すのも汚らわしいほど、大変だった。

          私は中学・高校時代、先生を厳しく批評するのが好きな、非常に生意気で大人ぶった生徒だった。

          「この人は凄い」と憧れた先生の授業は、一言一句聞き逃さなかった。ファンになって「どこまでもついていきます」という熱い気持で心が震えた。

          しかし「こいつは駄目だな」と私が勝手に評価した教師の授業は、寝たり読書の時間にあてたり、進級に必要な日数を満たすだけ出席して、あとはさぼって「ぴあ」を片手に、文芸座や並木座や大井武蔵野館といった映画館をハシゴした。

          とにかく私の心の中には、教師に対する確固とした評価基準があり、その基準は確かに青臭かったけども、青臭い分だけ誠実で排他的なものだった。自分は教師に対する審美眼があると思い込み、そんな審美眼に酔っていた。そして、授業が面白くない先生を「馬鹿教師」と決め付けていた。

          私は決してそんな気持ちを顔には出さない方だ。
          「お前の授業はつまらない。お前からは何も学ぶことはない」と本人の前で言う度胸もないし、非常識でもなかった。
          しかし有能な先生に対する尊敬と、無能な教師に対する軽蔑は、心の中に確固としてあった。

          おそらくどんな方でも多かれ少なかれ、学生時代にはそんな経験をお持ちでしょう。でも私の場合その度合いが強かったような気がする。

          そんな偉そうな人間が教壇に立つとどうなるか。もはやそれは、地獄の責め苦だ。
          教壇に立つ人に対して向けていた厳しい目が、攻守が変わって、今度は自分自身に向けられる。

          子供の純粋な目から、未熟で丸裸になった私の方向へ、鋭い批評の矢が放たれる。自分は「馬鹿教師」と思われている。そんな被害妄想に苦しんだ。教壇に立って始めて、大勢の子供を相手に授業することが、どれだけ大変で畏れ多いことか、身に沁みてわかった。

          講師歴が浅い人間にとって、授業時間は砂漠を逍遥するみたいに、永遠で長い時間に感じる。
          授業時間が50分ならTVドラマ1話分、90分なら短い映画1本分の長さ。
          そんな長い長い時間を、自分の話す言葉だけで埋めなければならない。途方にくれてしまう。

          徹夜で予習をしても上手く話せない。私はどもりで、話下手だ。私の目は黒板の方ばかり見て、生徒の方を向く余裕なんかない。
          沈黙を言葉で埋めようとしてもがき苦しむ。言葉は早口になってしどろもどろ。私の話す言葉は宙に舞うだけで、生徒には全く届いていない。教壇と生徒の間には厚い壁ができる。

          ノートを取らない中3の男の子の不気味な沈黙、中学校2年生の女の子の薄ら笑い、授業中サルの群れみたいに騒ぎ立てる中1クラス、「先生の授業つまんない。××先生のほうがいい。」と無邪気に寸鉄人を刺すような言葉を放つ小学6年生。解決策を見出せずに、おろおろする無能な自分。

          ああ、ひどい授業。自分が生徒だったら、自分の授業をどう批評するか。恐ろしくて思考停止になる。

          ついこの間まで、尾崎豊の「つまらない授業飛び出して、盗んだバイクで走り出す」みたいな歌詞に共感していた生意気な生徒が、攻守交代、「つまらない授業しかできなくて、一刻も早く逃げ出したい」情けない講師に立場が変わってしまった運命の怖さ。




          関連記事

          比喩は教師の命
          http://usjuku.jugem.jp/?eid=821

          「恋ノチカラ」と大手塾独立
          http://usjuku.jugem.jp/?eid=236

          | よい授業とは? | 17:04 | - | - | ↑PAGE TOP
          笑い声は教室運営のバロメーター
          0

            教室運営が上手くいっているかどうか、そのバロメーターの1つは、生徒の「笑い声」である。

            やる気がある子が揃うクラスは、授業の雰囲気にメリハリがある。騒いでいい時は騒ぐ。しかし聞くときは、まるで英語のリスニングの時間のように、講師の話を聞き漏らすまいと猛烈な集中力で聞く。
            そして、講師がギャグを飛ばす時の「笑い声」が大きい。「静寂→大笑い→静寂→大笑い」という、メリハリのある授業サイクルが続く。

            真面目な子は、まるで「天地人」で妻夫木聡演じる直江兼続のように、真剣な顔と笑顔のコントラストが強い。真剣に聞いている時も顔が笑いの準備に満ちていて、逆に笑顔の時も真剣モードに素早く転換できるようスタンバイしている。
            また、ふだん仏頂面だけど、内にニュアンスを秘めた子は、要所要所で「ニヤッ」といい笑い顔をする。こちらも「天地人」で北村一輝演じる上杉景勝みたいに。

            こんな生徒がそろえば、講師も授業がやりやすい。アクセルにちょこんと足をかけただけで驚異的な加速を見せる、安定したドイツ車を運転するような感触だ。

            ところが、成績がパッとしないクラスは、そうではない。
            勉強が苦手な子は、オンとオフの使い分けができない。騒いでいい時か悪い時か「場」の雰囲気がつかめない。KYだらけで状況が察知できない。

            だから甘い先生の時は、教室がずっと騒がしいサル山状態のクラスになる。逆に先生が怖ければ、倦怠的な静寂が支配する死人の群れみたいなクラスになる。メリハリがない。

            勉強に対してやる気が無い子は、怖い先生に対して「面従腹背」の態度を取る。
            講師が独裁者のように全員を怒鳴り上げたら、生徒は亡者のように沈黙し、教室が革命前夜の独裁国家みたいに殺伐となる。
            講師がたまにギャグを飛ばしても、シラ〜として笑わない。表面上の服従、裏での嘲笑と反抗。一向に伸びない成績。

            また笑顔も中途半端だ。成績がイマイチ伸び悩む子は、笑顔が強張っている。100%の笑顔を見せない。「わかった!」という爆発力がない。
            騒がしいクラスは問題だが、静か過ぎるクラスはもっとタチが悪い。騒がしいクラスのエネルギーを静寂な授業に変換することは難しくないが、エネルギー量の少ない静かなクラスを「大笑い」に持ち込むことは難しい。

            授業中にメリハリがなければ、教室運営は失敗だ。講師がギャグを飛ばして、笑い声が大きくなったら教室運営は大成功だろう。



            ★開成塾
            尾道市向島・少数精鋭
            「二人三脚」を超えた「一心同体」の指導





            関連記事

            転落の塾遍歴

            話し下手ほど良い講師

            授業中の合いの手

            理想の国語教師(大学受験編)



            | よい授業とは? | 15:38 | - | - | ↑PAGE TOP
            指揮者と若い講師の授業
            0

              私はクラシック音楽が好きで、特にオーケストラとピアノ曲をよく聴くが、授業と指揮はよく似ていると思う。
              指揮者も教師も統率力が求められ、目の前のたくさんの人間を言葉や指揮棒でコントロールしなければならない。


              最近では古今東西の巨匠名匠の指揮姿がDVDで発売され、また深夜NHKの衛星放送でよく放映しているので見る機会が多いが、とにかく指揮者にもいろんなタイプがある。
              指揮者の動き1つとっても多様である。指揮者には動きが少ない人もいるし、逆に動きまくる人もいる。概して歳を取ると動きは少なくなるが、個人差があり一概には言えない。


              静の指揮者の代表がカラヤン。カラヤンは背筋を伸ばして、腕を前方にキョンシーみたいに伸ばして、目を閉じ瞑想しながら指揮をする。自分の指揮姿をいかに美しく見せるかに心を配った、ナルシスト的指揮姿である。


              1940年代から50年代にかけてウィーンで大人気だった老指揮者クナッパーツブッシュは、ワーグナーやブルックナーを好んで演奏し、遅いテンポで恰幅のよい雄大な演奏で人気を博したが、70代を過ぎた晩年は動作が緩慢と言っていいほど小さく、まるで巨象のようだった。オケの団員はこんな指揮でよく演奏できたなと不思議に思う。


              しかしクナッパーツブッシュが棒を10cmだけひょいと上げると、ウィーンフィルは深刻さと狂気に満ちたフォルティシモを奏で、オケが地響きを立てて咆哮する。偉大な老人の人格的威圧力にオケの団員がひれ伏しているのがよくわかる。クナッパーツブッシュは指揮棒ではなく、存在で楽員を動かしていたのだ。


              また晩年をイギリスの放送管弦楽団で過ごした巨匠クレンペラーは、70代80代の晩年、指揮棒をブルブル震わせながら指揮をした。そのブルブルが高度なタクトの技術なのか、それとも単なるボケ老人の身体の震えなのかはわからないが、とにかくクレンペラーの音楽は愛想はないけれど、威厳に満ちていて素晴らしい。


              逆に動きまくる指揮者ならバーンスタイン。
              バーンスタインは「ウェスト・サイド・ストーリー」の作曲者としても知られる、陽気で気さくなアメリカ人だ。長い間ニューヨーク=フィルの常任指揮者で、晩年はウィーンに招かれた。
              若い頃のバーンスタインは、指揮台でダイナミックに飛び上がった。クナッパーツブッシュが一曲で消費するエネルギーを1とすると、バーンスタインは100万という感じで、それはそれはよく動く激しい熱血指揮者だった。


              ただバーンスタインは酒と煙草が何よりも好きで寿命を縮めてしまい、惜しまれて72歳で死んだ。政治家と指揮者は長命な職業だから、72歳というのは指揮者としては早死にである。
              晩年のバーンスタインは病に冒され痛々しかった。若い頃動きが激しかった分、晩年のヨボヨボの指揮姿はみすぼらしく可哀想に見えた。ベルリンの壁が崩壊したとき、記念にベートーヴェンの第9を指揮したのはバーンスタインだが、バーンスタインはその時死病に冒されていたので、晴れがましい舞台の音楽も老化し弛緩していた。
              クナッパーツブッシュやクレンペラーが老化を逆に武器にして死ぬまで充実した音楽を奏でたのと逆に、バーンスタインは肉体の衰えがそのまま音楽の衰えにつながった。


              さて、指揮者が動きまくれば、オーケストラのテンポが快速になるとは限らない。オケのテンポを上げるためには、指揮者の動きは最小限でなければならないのだ。テンポの速い難所に差し掛かったとき、奏者は楽器にかかりきりになり、指揮者の姿など眺めている場合ではないのだ。


              たとえば、筋肉質で早くスッキリしたテンポで人気を博したシカゴ交響楽団のライナーは、曲がテンポの速い難所に差し掛かると、目の動きだけで指揮したというし、また先日惜しまれて亡くなった日本で一番人気のあった指揮者カルロス=クライバーは、ヴァイオリン奏者が鬼の形相をしながら一生懸命速弾きしているのを横目で見ながら、黙ってニヤニヤ笑いながら突っ立ているだけだった。


              ところで、そんな風に指揮者がオケをしっかり統率できればいいが、そうでないケースにもお目にかかる。
              可哀想なのは、指揮者が熱く激しく指揮しているのに、オーケストラがシラけて、やる気のない音しか出していない場合である。


              指揮者が長髪を振り乱し、汗を流しワイシャツを湿らせ、タキシードを皺だらけにして、指揮棒を上下左右に激しく動かし、顔の面相を若き日の高嶋政伸みたいに大袈裟に変化させながら熱演しているのに、オーケストラはやる気のない、ルーティンワーク丸出しの演奏をする。
              熱い指揮者と冷たい奏者。とにかく指揮者の熱量がオケの団員に全く伝わっていなくて、指揮者が阿呆なピエロのようだ。


              塾の授業にもこういうケースはよくある。講師は熱いのに生徒はさめている。若くてやる気はあるが、そのやる気が空回りしている塾講師の授業がそうだ。


              若い先生が熱く大きな声で喋っても、生徒はざわついて講師の言うことに集中していない。生徒を静かにさせようとして、声をさらに大きく張り上げ「静かにしろ〜」「だまれ〜」とわめいても一向に効き目がない。
              若い先生はまだ授業に慣れていなくて、自分の立ち姿を客観的に眺める余裕がないから、こんな悪循環に陥るのだ。


              しかしこんな状況は、少し工夫すれば、たちどころに消えてしまう。
              まず、生徒から見た自分の姿がどう映っているか想像力を働かせること。また教室にカメラがあると想定し、そのカメラが自分をどう捉えているか考えを巡らす。


              力をこめて一生懸命しゃべっても授業が上手くいかない講師の多くは、おそらく目が生徒の方向ではなく、黒板かテキストばかり見つめていたり、あるいは目を宙に漂わせながら授業をしているんだと思う。目はしっかりと生徒1人1人に向けることが大切だ。


              また、しゃべる時にしっかりと間を取ること。講師になりたての頃は沈黙するのが怖い。人前で話した経験のある方にはわかっていただけると思うが、充分に間を取って話すことは、想像以上に度胸が必要なことなのだ。


              緊張すると目の前の空間を言葉で埋めないければならない強迫観念にとらわれ、ついつい早口になり、まるで読点のない文章みたいに言葉が数珠つなぎになって、聞き手に刺激を与えない話し方になる。


              そんな時に真似するといいのが、小泉元首相の話し方である。小泉氏は断片的に言葉を連ね、不自然一歩手前のギリギリのラインまで間を取る。
              話に間があくと聞き手は「次にどんな言葉が飛び出してくるのだろう」と耳をついつい傾けてしまう。小泉首相の話には中身がないと非難を受けつつも、彼の発する言葉に魅力が備わっているのは、あの不自然ギリギリの間を取った話し方にある。


              それから生徒が騒がしい時、声を張り上げても静かにはならない。出席簿を教壇に叩きつけながら「だまれ〜」と怒鳴るのは最大の愚策である。
              生徒が静かにならない時は、逆に思い切って声を落とせばいい。これも間を取るのと同じくらい勇気の必要な作戦だが、人はバカみたいなデカイ声は平気で聞き流すが、ヒソヒソ話には強い好奇心を示す。授業中声を落として、そんな人間の心理を巧みに利用してやるのだ。


              ベテラン講師は、講義中に余裕綽々と間を取り、間を取っている時に生徒の顔をじっと覗き込み、自分に意識が集中しているのをしっかり確かめながら話を進める。大事なポイントを伝えるときは意味深に声の音量を下げる。
              「言葉を削り、声の音量を下げ、間を取る」のが授業の極意だ。


              まあ、上手な授業をするためには、緊張感を少しでもなくすことが一番大事だ。自然体でリラックスして話せる心の強さを作り上げ、現場で数多くの授業をこなして慣れることが肝心だ。
              授業初心者のうちは誰もが緊張する。私も講師を始めたばかりのころは、父親の金正日が腕を組んで見守る中で、息子の金正雲を授業するような緊張をいつも感じていた。


               

              | よい授業とは? | 16:49 | - | - | ↑PAGE TOP
              話し下手ほど良い講師
              0
                村上春樹の「1Q84」の男主人公・天吾は予備校講師だが、その人物紹介に次のような記述がある。

                「天吾自身が驚いたことに、彼には話術の才が具わっていた。説明も上手だったし、声もよくとおったし、冗談を言って教室をわかせることもできた。教師の仕事に就くまで、自分ではずっと話し下手だと思っていた。今でも誰かと面と向かって話をしていると、緊張して言葉がうまく出てこないことがある。少人数のグループに入ると、もっぱら聞き役にまわった。しかし教壇に立ち、不特定多数の人々を前にすると、頭がすっと晴れ渡った状態になり、いくらでも気軽に話し続けられた。人間というものはよくわからないものだ、と天吾はあらためて思った。」

                僕もどちらかと言えば、少人数のグループで話す時は聞き役が多い。というか、聞き役のポジションが居心地がいい。僕が話の中心になることはあまりない。
                また、自分から話題を振ることも少ない。話のテーマは相手に任せる。相手の話題が私の知らない世界でも、なんとか理解しながら話に寄り添うのが性に合っているし大好きだ。
                だから自分の分野に関する話題については、あまりグループの会話では語らない。相手が楽しんでくれているか気をつかうからだ。

                僕が興味を持つ事柄については、敢えて5分以上は話さないことにしている。ある程度しゃべったら、相手の話題に意図的に換える。
                たとえば僕は黒澤明に関してなら10時間は語れるだろうが、もし相手が黒澤に関する話に退屈していたら、相手に苦痛を与えてしまう。

                少人数のグループでよくしゃべり、自分に話術があると思っている人の半分は、ただのおしゃべりの垂れ流しで、相手が辟易しているのに気づかない無神経な人である。年齢や会社内でのポジションが上だとか、声がでかいとか、とにかく話の内容以外の要因で、相手はあなたの話を聞いているわけである。そんな迷惑な行為はしたくない。

                ところで僕は高校生の頃まで、壇上に立ち、人前で話すことは超人のやることだと思っていた。人の心をプロテクトする役割を果たす、大事な羞恥心がごっそり抜け落ちた人間だとみなしていた。
                ところが、講師になりたての授業に慣れない時期を過ぎたら、少人数のグループで話すより、授業で大勢の子供を相手に話す方が、シャイな僕にははるかに楽だと気がついた。 

                少人数の語らいは、双方向的なコミュニケーションである。集団でやる「なわとび」のように、どのタイミングで話しかけたらいいか迷ってしまう。出しゃばらず、かといって沈黙で相手の気分を害してはならず、対話というものは難しい。
                しかし授業は一方的に語っていればよく、相手への気づかいは少人数のグループで話す時の10分の1ぐらいに減る。授業に慣れてくると、授業中は他人を相手にして話すのではなく、大きな塊に向かってしゃべっているような錯覚に陥る。

                さらに、その段階を突き抜けると、声を張り上げて授業しているにもかかわらず、自分自身を相手に独り言をつぶやいている境地に達する。
                話し手の講師が独り言のつもりで授業をしているわけだから、授業を聞く側の生徒に「猫ギター先生の授業は独り言みたい」と悪く評価されても仕方がないのだろうけど、逆に僕が独り言の自己対話のような境地になればなるほど、ジャズのアドリブのような気分で、語り口が論理的になり、斬新な発想が飛び出し、生徒の食いつきも心なしか良くなっている気がする。

                授業で話に乗ってくると、村上春樹の言うように頭がクリアに冴え渡り、自分の世界にのめり込む、いい意味で無神経な態度で授業ができる。僕は本来話し下手なのに、脳内麻薬のおかげで話し好きの堂々とした講師に見せかけることができる。

                とにかくシャイで話すのが苦手だと自己分析している人でも立派に授業ができるわけで、むしろ話し下手ほど良い講師になれる素質を秘めているのではあるまいか。





                ★開成塾
                尾道市向島の「秘密勉強基地」





                関連項目
                 
                授業時間は短く濃く
                授業と古典落語
                比喩は教師の命
                | よい授業とは? | 18:00 | - | - | ↑PAGE TOP
                授業時間は短く濃く
                0
                  音楽でもスポーツでも、練習は短時間で濃いものが望ましい。
                  塾の講師は、教える時間が短く限られているので、密度の濃い授業をすることに慣れている。

                  たとえば中学校では、1週間の授業時間が30時間もある。これに対して塾は5時間ぐらいしかない。
                  しかも私の塾では、私が授業している時間が半分、生徒に演習をさせている時間が半分、演習量が多いせいで、私が生徒に向かって語る時間はますます限られる。正味の授業時間は1週間に2時間強ぐらいだろうか?

                  演習時間が長いことには賛否両論あろうが、たとえば中学校の部活で、野球部の顧問が練習時間中ずっと「俺が守備の手本を示してやる」と自分だけ練習して、部員がただそれを眺めているだけの練習法は考えられるだろうか? そんなシュールな練習はない。部員がノックを受けて、実際に身体を動かしてこそ練習は成り立つ。

                  生徒の意識が高い大学受験予備校はともかく、教師が解法を黒板に解くだけで、生徒がずっと傍観者の座に置かれた授業はあり得ない。特に数学はそうである。授業は生徒に問題を解かしてナンボだと私は思う。

                  とにかく塾稼業は、時間との戦いである。

                  普通なら教えるのに30分かかるところを5分で教える。そんな意識だけは常に持っている。 塾講師の教え方が曲がりなりにも鍛えられるのは、タイトな時間と常に戦っていることが、一つの要因であろう。

                  バンドの練習でも、スタジオを借りる時間は限られる。
                  スタジオ代はバカにならない。ピロ君は私に「練習に遅れてくる奴は腹が立ちますよね」とよく言ってくるが、私はピロ君の気持ちが痛いほどわかる。
                  授業もバンドの練習もそうだが、せっかく捻出した貴重な時間を無駄にする無神経な奴には怒りを覚える。

                  短時間の授業や練習は焦る。焦る気持ちこそ集中力につながる。限られた凝縮した時間を有効に使ってこそ、授業もバンドもスポーツも技量が上がる。私の生徒には、ウィスキーを一気飲みするような、濃縮した時間を過ごしてほしい。
                  | よい授業とは? | 11:04 | - | - | ↑PAGE TOP
                  授業と古典落語
                  0
                    ところで教師という職業は、同じことを何度も話さなければならない、テープレコーダーみたいな職業だ。マンモス中学校・高等学校の先生なんか、1学年8学級あったら、8回も同じことをしゃべるのだろうか。飽き性の人だったら、とうてい勤まらない仕事である。

                    そういう意味で、教師は古典落語家に似ている。古典落語が得意な落語家は、同じ話を何百回も繰り返す。繰り返すことで名人と呼ばれる。

                    あの立川談志も古典落語の名人である。談志はいかにも飽きっぽく、退屈が嫌いな男に見える。つまらないことがあったら「オレは帰るぜ」と真っ先に立ち去ってしまいそうだ。古典落語の稽古で、同じネタを繰り返すことなど、苦手中の苦手なようなイメージがある。

                    ところが談志は同じ落語を何回も飽きずに反復し練習する。客も談志の名人芸に酔う。談志のように、同じ話の繰り返しを最も厭いそうな男が、誰よりもしつこく1つのネタを極め、スペシャリストになる。矛盾しているようで、実は矛盾していない。

                    ある落語家が「談志は一つの落語を100回稽古する才能に恵まれた」と評したらしい。また名著「赤めだか」で有名になった弟子の立川談春が、師匠の談志を「100回話せば、100回問題点を見つけられる」人だと述べていた。
                    談志自身は「完成したと思う気持ちが怖い」と、放埓なイメージとは懸け離れた、名人だからこそ言える台詞を吐いていた。

                    授業のうまい教師は談志のように「100回話せば、100回問題点を見つけられる」人で、授業をするたびに強く反省し、改善点を探り当て、次の授業ではよりグレードアップした授業ができる、そんな人なのだろう。

                    教師でも、ただ漫然と同じ話を繰り返しテープレコーダーに甘んじるか、談志のように執念深く話を掘り下げて名人になるか、意識一つで天と地の開きができる。

                    落語家や教師が同じ話を繰り返す「退屈」に刺激を与えるのは、聞き手の存在だ。落語家や教師が成長するためには、落語家は客、教師は生徒の反応に敏感になることだ。聞き手の砥石で磨かれながら、期待を満たし、なおかつエネルギーを吸い取りながら、語り手は成長する。

                    そして、談志に勝るとも劣らないプロ意識を、
                    この文章から私は強烈に感じたのである。




                    ★開成塾・中学受験
                    尾道市向島・定員5名・少数精鋭





                    | よい授業とは? | 22:59 | - | - | ↑PAGE TOP
                    比喩は教師の命
                    0
                      私はブログの文章に比喩を多用している。しかも意識的に少々下世話な比喩を使っている。

                      比喩を使うと、文章が格段に読みやすくなる。モノクロの活字の羅列の中で、比喩の部分だけカラーになったみたいだ。的確な比喩が文章内に散りばめられていると、文章がカラフルな2色刷りになった気になる。

                      また、比喩は使いすぎるとしつこくなるが、ピタリ決まると格好良い殺し文句になり、バラバラで混沌としたまとまりのない文章が俄然引き締まってくる。
                      どんなに難解な話題でも、比喩があればとっつきやすくなる。これは子供を教えるときにも言えると思う。

                      優れた塾講師の文章を読むと、比喩を上手に使っている。難しい事柄を比喩の一撃で、子供の地平まで撃ち落として理解させるわけだ。

                      人気のある政治家も比喩の使い方が巧みだ。、かつて田中真紀子も石原慎太郎も、演説の中で暴言的な比喩をかまして国民的人気を勝ち得た。彼らのレトリックの能力が「わかりやすく面白い」政治につながった。
                      土井たか子や不破哲三に柔軟なレトリックの才能があれば、社民党も共産党もあんなに議席を減らさなかっただろう。

                      しかし、巧み過ぎる比喩は効果が大きすぎて、聞き手の思考を停止させ、判断を鈍らせる可能性がある。面白い比喩は、聞き手を笑わせ、脳内に暴力的に入り込む。比喩は「刷り込み」にはもってこいの手段だ。

                      ただ、昔から教育者は比喩が好きだ。福沢諭吉の文章が、当時の思想家の文章の中で飛び抜けて面白いのは、巧みな比喩で読者を一撃のうちに仕留めているからに他ならない。

                      福沢諭吉は、『福沢文集』でこう述べている。

                      「子を学校に入るる者の内心を探リてその真実を丸出しにすれば、自分にて子供を教育しこれに注意するは面倒なりというに過ぎず。一月七、八円の学費を給し既に学校に入るれば、これを放ちて棄てたるが如く、その子の何を学ぶを知らず、その行状のいかなるを知らず。餅は餅屋、酒は酒屋の例を引き、病気に医者あり、教育に教師ありとて、七、八円の金を以て父母の代人を買入れ、己が荷物を人に負わせて、本人は得々として無上の安楽世界なるが如し。(中略)学校はあたかも不要の子供を投棄する場所の如し。あるいは口調をよくして『学校はいらぬ子供のすてどころ』といわばなお面白からん。」

                      「無上の安楽世界」とか、「学校はいらぬ子供のすてどころ」とか、毒舌的な比喩で読者に二の句をつけさせない。
                      こんな文章を読むと、福沢諭吉はまるで「明治時代のビートたけし」だ。毒舌使いは、時代のオピニオンリーダーになる資格があるだろうか。
                      | よい授業とは? | 22:55 | - | - | ↑PAGE TOP