私はクラシック音楽が好きで、特にオーケストラとピアノ曲をよく聴くが、授業と指揮はよく似ていると思う。
指揮者も教師も統率力が求められ、目の前のたくさんの人間を言葉や指揮棒でコントロールしなければならない。
最近では古今東西の巨匠名匠の指揮姿がDVDで発売され、また深夜NHKの衛星放送でよく放映しているので見る機会が多いが、とにかく指揮者にもいろんなタイプがある。
指揮者の動き1つとっても多様である。指揮者には動きが少ない人もいるし、逆に動きまくる人もいる。概して歳を取ると動きは少なくなるが、個人差があり一概には言えない。
静の指揮者の代表がカラヤン。カラヤンは背筋を伸ばして、腕を前方にキョンシーみたいに伸ばして、目を閉じ瞑想しながら指揮をする。自分の指揮姿をいかに美しく見せるかに心を配った、ナルシスト的指揮姿である。
1940年代から50年代にかけてウィーンで大人気だった老指揮者クナッパーツブッシュは、ワーグナーやブルックナーを好んで演奏し、遅いテンポで恰幅のよい雄大な演奏で人気を博したが、70代を過ぎた晩年は動作が緩慢と言っていいほど小さく、まるで巨象のようだった。オケの団員はこんな指揮でよく演奏できたなと不思議に思う。
しかしクナッパーツブッシュが棒を10cmだけひょいと上げると、ウィーンフィルは深刻さと狂気に満ちたフォルティシモを奏で、オケが地響きを立てて咆哮する。偉大な老人の人格的威圧力にオケの団員がひれ伏しているのがよくわかる。クナッパーツブッシュは指揮棒ではなく、存在で楽員を動かしていたのだ。
また晩年をイギリスの放送管弦楽団で過ごした巨匠クレンペラーは、70代80代の晩年、指揮棒をブルブル震わせながら指揮をした。そのブルブルが高度なタクトの技術なのか、それとも単なるボケ老人の身体の震えなのかはわからないが、とにかくクレンペラーの音楽は愛想はないけれど、威厳に満ちていて素晴らしい。
逆に動きまくる指揮者ならバーンスタイン。
バーンスタインは「ウェスト・サイド・ストーリー」の作曲者としても知られる、陽気で気さくなアメリカ人だ。長い間ニューヨーク=フィルの常任指揮者で、晩年はウィーンに招かれた。
若い頃のバーンスタインは、指揮台でダイナミックに飛び上がった。クナッパーツブッシュが一曲で消費するエネルギーを1とすると、バーンスタインは100万という感じで、それはそれはよく動く激しい熱血指揮者だった。
ただバーンスタインは酒と煙草が何よりも好きで寿命を縮めてしまい、惜しまれて72歳で死んだ。政治家と指揮者は長命な職業だから、72歳というのは指揮者としては早死にである。
晩年のバーンスタインは病に冒され痛々しかった。若い頃動きが激しかった分、晩年のヨボヨボの指揮姿はみすぼらしく可哀想に見えた。ベルリンの壁が崩壊したとき、記念にベートーヴェンの第9を指揮したのはバーンスタインだが、バーンスタインはその時死病に冒されていたので、晴れがましい舞台の音楽も老化し弛緩していた。
クナッパーツブッシュやクレンペラーが老化を逆に武器にして死ぬまで充実した音楽を奏でたのと逆に、バーンスタインは肉体の衰えがそのまま音楽の衰えにつながった。
さて、指揮者が動きまくれば、オーケストラのテンポが快速になるとは限らない。オケのテンポを上げるためには、指揮者の動きは最小限でなければならないのだ。テンポの速い難所に差し掛かったとき、奏者は楽器にかかりきりになり、指揮者の姿など眺めている場合ではないのだ。
たとえば、筋肉質で早くスッキリしたテンポで人気を博したシカゴ交響楽団のライナーは、曲がテンポの速い難所に差し掛かると、目の動きだけで指揮したというし、また先日惜しまれて亡くなった日本で一番人気のあった指揮者カルロス=クライバーは、ヴァイオリン奏者が鬼の形相をしながら一生懸命速弾きしているのを横目で見ながら、黙ってニヤニヤ笑いながら突っ立ているだけだった。
ところで、そんな風に指揮者がオケをしっかり統率できればいいが、そうでないケースにもお目にかかる。
可哀想なのは、指揮者が熱く激しく指揮しているのに、オーケストラがシラけて、やる気のない音しか出していない場合である。
指揮者が長髪を振り乱し、汗を流しワイシャツを湿らせ、タキシードを皺だらけにして、指揮棒を上下左右に激しく動かし、顔の面相を若き日の高嶋政伸みたいに大袈裟に変化させながら熱演しているのに、オーケストラはやる気のない、ルーティンワーク丸出しの演奏をする。
熱い指揮者と冷たい奏者。とにかく指揮者の熱量がオケの団員に全く伝わっていなくて、指揮者が阿呆なピエロのようだ。
塾の授業にもこういうケースはよくある。講師は熱いのに生徒はさめている。若くてやる気はあるが、そのやる気が空回りしている塾講師の授業がそうだ。
若い先生が熱く大きな声で喋っても、生徒はざわついて講師の言うことに集中していない。生徒を静かにさせようとして、声をさらに大きく張り上げ「静かにしろ〜」「だまれ〜」とわめいても一向に効き目がない。
若い先生はまだ授業に慣れていなくて、自分の立ち姿を客観的に眺める余裕がないから、こんな悪循環に陥るのだ。
しかしこんな状況は、少し工夫すれば、たちどころに消えてしまう。
まず、生徒から見た自分の姿がどう映っているか想像力を働かせること。また教室にカメラがあると想定し、そのカメラが自分をどう捉えているか考えを巡らす。
力をこめて一生懸命しゃべっても授業が上手くいかない講師の多くは、おそらく目が生徒の方向ではなく、黒板かテキストばかり見つめていたり、あるいは目を宙に漂わせながら授業をしているんだと思う。目はしっかりと生徒1人1人に向けることが大切だ。
また、しゃべる時にしっかりと間を取ること。講師になりたての頃は沈黙するのが怖い。人前で話した経験のある方にはわかっていただけると思うが、充分に間を取って話すことは、想像以上に度胸が必要なことなのだ。
緊張すると目の前の空間を言葉で埋めないければならない強迫観念にとらわれ、ついつい早口になり、まるで読点のない文章みたいに言葉が数珠つなぎになって、聞き手に刺激を与えない話し方になる。
そんな時に真似するといいのが、小泉元首相の話し方である。小泉氏は断片的に言葉を連ね、不自然一歩手前のギリギリのラインまで間を取る。
話に間があくと聞き手は「次にどんな言葉が飛び出してくるのだろう」と耳をついつい傾けてしまう。小泉首相の話には中身がないと非難を受けつつも、彼の発する言葉に魅力が備わっているのは、あの不自然ギリギリの間を取った話し方にある。
それから生徒が騒がしい時、声を張り上げても静かにはならない。出席簿を教壇に叩きつけながら「だまれ〜」と怒鳴るのは最大の愚策である。
生徒が静かにならない時は、逆に思い切って声を落とせばいい。これも間を取るのと同じくらい勇気の必要な作戦だが、人はバカみたいなデカイ声は平気で聞き流すが、ヒソヒソ話には強い好奇心を示す。授業中声を落として、そんな人間の心理を巧みに利用してやるのだ。
ベテラン講師は、講義中に余裕綽々と間を取り、間を取っている時に生徒の顔をじっと覗き込み、自分に意識が集中しているのをしっかり確かめながら話を進める。大事なポイントを伝えるときは意味深に声の音量を下げる。
「言葉を削り、声の音量を下げ、間を取る」のが授業の極意だ。
まあ、上手な授業をするためには、緊張感を少しでもなくすことが一番大事だ。自然体でリラックスして話せる心の強さを作り上げ、現場で数多くの授業をこなして慣れることが肝心だ。
授業初心者のうちは誰もが緊張する。私も講師を始めたばかりのころは、父親の金正日が腕を組んで見守る中で、息子の金正雲を授業するような緊張をいつも感じていた。