猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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高1・高2で読むべき本(3)
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    吉村 昭
    ¥ 724
    Amazonランキング: 127223位

    面白い映画には、筋がワンフレーズで紹介できるものが多い。
    『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、高校生が過去にタイムスリップし若い頃の父母の運命を変える話、『七人の侍』はサムライが野武士から農民を守る話、『ダイ・ハード』は高層ビルがテロリストに占拠され警官が一人で戦う話、『転校生』は高校生の男女の身体が入れ替わる話とか、シンプルな筋立てが観客の好奇心をそそる。

    新潮文庫のロングセラーである吉村昭の小説も、筋が簡単に紹介できて、面白い。
    『破獄』は4回脱獄に成功した超人的な昭和の脱獄王の話、『羆嵐』は村人が熊につぎつぎ食べられる話、『漂流』は江戸時代黒潮に流され火山島に流されアホウドリを撲殺し生きながらえた男の話、『長英逃亡』は整形手術をしてまで幕吏から身を隠す高野長英の話など、ストーリーがワンフレーズで紹介できる。
    『破獄』と『羆嵐』と『漂流』をまとめて映画化すれば、刑務所に入れられるわ、脱獄できたのに熊に食べられるわ、熊の胃袋から脱出し船に乗ったら漂流するわで、ハリウッドアクション映画の原作として面白い。

    吉村昭の最高傑作は『戦艦武蔵』である。武蔵建設のドキュメンタリーだが、感情を廃した冷静な語り口で客観の極み。右寄りの人は高い技術力を賞賛する国家高揚の小説と捉え、左側には無駄な戦艦に巨額の費用をかけた、戦略の愚かさを嘆いた小説に読める、イデオロギーを超えた能面のような作品。
    また『零式戦闘機』はゼロ戦を作った科学者の話で、宮崎駿『風立ちぬ』で戦闘機に興味を持った人には読んでほしい。
    『戦艦武蔵』『零式戦闘機』など文系人間のファンタジックで無理な要求を、理系人間が現実化していく話にも受け取れる。「世界一の軍艦・戦闘機を作れ」という軍幹部の要求に技術者たちは応えた。機械に疎い人間が、エンジニアを疑似体験できる作品である。

    吉村昭の作品で、面白いのは初期だ。老境に達してからの『桜田門外の変』『生麦事件』あたりは、小説というより史料を読んでいるようで正直つらかった。失礼な言い方だが、取材内容をそのまま書き連ねたようで、物語として凝縮されていなかった。

    吉村昭の硬質な小説を、もうすこし読みやすく、現代風エンターテーメントにしたのが百田尚樹である。
    私が数年前から高1生に薦めていた本が『永遠の0』。当時はまだこんな有名な本ではなかった。太平洋戦争の専門書はあふれているが、読み甲斐がある通史物語は案外少ない。この本を渡せば「先生、いい本を知ってますね」と鼻が高かった。Twitterで『永遠の0』を絶賛したら、百田さん本人からリプライが来たのには驚いたけど。

    百田尚樹は『ボックス!』もいい。boxには動詞で『ボクシングをする』という意味がある。高校ボクシング部の話で、入部した「負け知らず」な天才と「負けず嫌い」な努力家の友情と対戦。物語の筋が期待を裏切らず展開する。上下2日で読める。部活生にはぜひ。

    最近文庫化された『海賊とよばれた男』出光石油の創始者の話、社員が総がかりで真っ黒な石油タンクの中を、石油の匂いで気絶しかかる状況で掃除する重労働、今なら文字通り『ブラック企業』。でも『あんな環境で働きたい』と読者を熱くさせる魅力がある。映画化すればエネルギッシュな主人公・出光佐三は誰が演じるのか。

    吉村昭と百田尚樹の本から、昭和のエネルギーを浴びたい。
    | 読み応えのある本 | 12:29 | - | - | ↑PAGE TOP
    高1・高2で読むべき本(2)
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      小説をいくつかお勧めしたい。ちょっと古いものから。

      まず新田次郎『孤高の人』。登山小説。
      私は新田次郎を大味な小説家だと誤解して未読だった。映画「八甲田山」が凡庸だったので、原作者にも偏見を持っていた。新田次郎は「藤原正彦の父」という存在でしかなかった。
      だが『孤高の人』は本当に素晴らしい。主人公の登山家・加藤文太郎は「孤高」というより「偏屈」。だが愛すべき偏屈。
      上司に食事を奢られても自分で払い、思いがうまく伝えられず冷笑する癖があり、それが不気味に見え敵を作り、ザックに石を詰めて出勤し、夜は山中泊の訓練のため庭で寝て「孤高」というより超努力家の「変人」だった。どこか巨人の桑田を彷彿させる。

      井上靖はここ十数年、昔ほど読まれていない気がする。私に子供がいたら食卓や居間に何気なく、小学生なら『しろばんば』中学生は『夏草冬濤』高校生は『北の海』を置いておく。
      井上靖『夏草冬濤』は、親元を離れ一人暮らしする少年が、旧制中学の自由な校風に染まり、魅力的な悪友の影響を受け「文学少年」になる話。主人公が自殺するヘッセ『車輪の下』がネガなら、この作品はポジ。中2〜高2ぐらいの賢い男の子が感化されそな本。
      『北の海』は『夏草冬濤』の続編で、中学時代遊びまくった主人公が浪人するが、四高柔道部の寝技で勝つ「練習量がすべてを決定する柔道」に強い魅力を感じ、自由奔放な「文学少年」からストイックな「体育会青年」に変貌する話。私にもし息子がいたら、こんな青春時代を送ってほしい。

      井上靖は歴史小説も面白い。司馬遼太郎に比べ短く、代表作である『天平の甍』も『敦煌』も『風林火山』も薄めの文庫本一冊に収まっている。井上靖は文章がうまく、純文学と大衆文学の中間あたりのスルスル読める文体でありながら作品が短い。『風林火山』なんか司馬遼太郎なら文庫本7〜8冊ぐらいのボリュームで書きそうなところを、薄い文庫本たった1冊。超長編が合う文体の人なのに作品が短いから、いい意味で欲求不満になる。
      『氷壁』は登山小説で、井上靖の代表作の一つだが、恋愛観が古めかしく冗長を否めない。登山小説なら先に挙げた『孤高の人』や、横山秀夫『クライマーズ・ハイ』、そして何といっても夢枕獏
      『神々の山嶺』がいい。

      短編小説も気軽に読んでみよう。
      学校で暇をもてあましたり、授業がつまらない時、国語の教科書をめくれば、気の利いた短編が出ている。そんな短編をつまみ読みすれば、妙に記憶に残る。文庫本で10ページぐらいの短編を、サザエさんやドラえもんの一話分を見るようなサラッとした気分で読みたい。
      短編なら織田作之助『夫婦善哉』。ちょいと古めかしい文体だが、10行ばかし我慢して読むと意識は戦前の大阪へ。出てくる食べ物がおいしそう。ダメ男とダメ女って今は「ぼっち」を気取っているけど、昔はダメ人間同士寄り添うものだったのね。寄り添う男女がいとおしい。著作権切れてるからネットで読める。→
      こちら

      江戸川乱歩はグロい。『芋虫』は戦争で両手両足聴覚味覚を失い、視覚と触覚のみ無事な芋虫のような傷痍軍人の夫を虐げて快感を得る女の話。夫は何をされてもまるで芋虫のように無抵抗。目まで潰される。妻を寺島しのぶが演じた映画「キャタピラー」の原作か。
      乱歩の『芋虫』は四肢を失う軍人の話だから、当時は反戦を謳ったプロレタリア文学扱いされたそうだけど、違う。乱歩は左翼じゃなく、ただ悪趣味なだけ。
      プロレタリア文学でグロいといえば、葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』。超短編なので5分で読める。本当に短い文章だが、衝撃で頭の中に感想が駆けめぐる。これ読んで何も感想が浮かばないことはあり得ない。
      こういう短いけど、アルコールならアブサンのようにアルコール度数が高い作品は、読書感想文にはもってこいである。→
      こちら

       
      | 読み応えのある本 | 20:42 | - | - | ↑PAGE TOP
      高1・高2が読むべき本(1)
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        小学生・中学生・大学生に勧める本についてはよく語られる。
        だが「高校生にオススメの1冊」みたいな企画は少ない。高校1年生・2年生が読めそうな本を紹介していきたい。

        面白い本の条件を挙げてみよう。

        |も知らないことがネタ
        読みやすい文章
        3慮任箸靴神こΥ
        っ者の際立ったキャラ
        イ気蟲い覆ぅ罅璽皀△函∧絃呂里箸辰弔やすさ

        外務省のラスプーチン・佐藤優の著作は、これらすべてを満たしている。
        佐藤優の本では、鈴木宗男事件の内幕と、国策捜査で逮捕時の検察とのやり取りを書いた処女作『国家の罠』がいい。同志社大学神学部卒業、ノンキャリアながら北方領土交渉の最前線に立った外交官である。ロシア語やチェコ語に堪能で、チェコの神学の研究者でもある。
        有能さが小渕・橋本・森の各首相からも認められ、外務省の「最高実力者」だった鈴木宗男の懐刀だった。だが小泉純一郎政権誕生で、鈴木宗男失脚に連座し検察に逮捕された。

        佐藤優登場以前は、検察の特捜部に捜査された人間は100%「悪」だという強い風潮があった。検察は絶対間違ったことはしない。検察が捜査した人間はマスコミも世間も「悪」とみなした。田中角栄が良い例である。検察は権力と正義の両方を兼ね備えた最強の機関で、世論は正義の味方である検察を後押しした。
        だが佐藤優の『国家の罠』では、検察の一連の動きが、時の政局と絡む「国策捜査」であると断定し、文筆一本で検察の裏事情を暴き立て、読者と世論を味方につけていった。検察が「正義」でなく「悪」と見なされるようになったのは、佐藤氏の功績が大きい。

        国家を敵に回した圧倒的不利な状態から、冷静沈着に戦い、感情を廃しているのに熱量が高い文章で「私は悪くない」と主張する文章は壮絶だ。誰もが佐藤優は大悪人だと思わせる絶望的な状況から、世論を納得させる文章力がいかなるものか、高校生には感得してほしい。
        佐藤氏の著作は、国家の中枢にいて裏を知り尽くした、極めて高い文章力がある人物が、失脚して野に放たれるという奇跡が生んだ作品だ。


         
        | 読み応えのある本 | 18:48 | - | - | ↑PAGE TOP
        石原慎太郎・幻の廃刊本「スパルタ教育」
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          書店やネットには教育論があふれている。しかし教育心理学に基づいた「子供に優しい」ものが大半を占める。子供に対して下から目線で、封建的な上から目線の教育論は少ない。

          しかし、飲み屋で語られている「本音」の教育論は、かなり荒っぽいものである。たとえば「子供は少々殴ってもいい」「いじめられっ子より、いじめっ子に育てたいね」「うちは子供と酒を飲んでるぜ」といった、良心的な教育評論家に聞かせたら卒倒しそうな「本音」が酒の席では語られる。

           

          そんな教育に対する「本音」が、過激な扇情的な文章で、ズバリ書かれているベストセラーがある。1969年に出版された、石原慎太郎の「スパルタ教育」である。

          石原慎太郎は「太陽の季節」「NOと言える日本」「弟」と10年に1回は爆発的ベストセラーを出す作家であるが、「スパルタ教育」もその一つで、出版当時は70万部のベストセラーになった。

           

          しかし「スパルタ教育」は、2012年現在、廃刊のままである。なぜならここで書かれている教育論はあまりにも封建的・男尊女卑的で、現在の風潮から見れば非難を浴びることが必至だからである。

          だから、この「スパルタ教育」は稀少本であり、amazonでも高値で取引されている。

          とにかくこの本は、言葉の暴走族・石原慎太郎らしい過激さが詰まっている教育論である。まさに「THE 石原慎太郎」の教育論である。

           

          「スパルタ教育」は100の見出しから成り立っている。見出しには興味深いものが多い。

           

          10.父親は子どもを抱いてはならない

          15.親と子の食べものを平等にしない

          18.死者を、早いうちに子どもを見せろ

          20.不具者を指さしたら、なぐれ

          27.犯罪は、許せないが、仕方のないことだということを教えよ

          31.暴力の尊厳を教えよ

          39.子どもに酒を禁じるな

          42.浪費こそ最大の貯金であることを教えよ

          54.父に対するウラミを持たせろ

          50.友だちが一人もいないことをほめてやれ

          55.子どもの部屋は、足の踏み場がなくても整理するな

          56.親孝行する時間があるなら、自分のことをしろと教えよ

          57.子どもに塗り絵を与えるな

          61.親は、自分のいちばん軽蔑する人間の話をしろ

          75.よその子にケガをさせても、親があやまりにいくな

          81.先生をむやみに敬わせるな

          92.ボールを受けるときは、目を開かせろ

          100.父親は夭折することが理想である

           

          どの見出しも、「どんなことが書かれているのだろう」と、興味を引いてしまう。

           

          では「スパルタ教育」の内容を、一部抜粋しよう。

          まずは現代の目から見ても、まっとうな意見と思われるものから。

           

          17.子どもの可能性を信じるな

          世の親で、子どもに大きな期待をかけないものはない。しかしまた、子どもの可能性を信じすぎると、年経て親の味わう幻滅は大きくなり、その幻滅が親子の間によけいな亀裂を生じさせることにもなる。とくに世の父親というものは、男の子に関しては、母親にくらべて、大きな期待をかけ、彼自身が、その一生をかけて実現することができなかったことを、子どもに託す。(中略)

           いくばくかの可能性があっても、親が過剰な期待をすることで、子どもはむしろその可能性を殺されることがある。親はそれを知るべきである。

           

          46.子どもの不良性の芽をつむな 
           子どもに不良性があるということと、子どもが不良であるということとは、まったく違う。それを見きわめるのが親の義務であり、子どものほんとうの理解につながる。 (中略)

           子どもの不良性は、単に、それが反道徳ということで終わることもあるが、しかし同時に道徳をこえた既成の秩序、既成の価値への反逆をはぐくみ、従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事を、将来子どもがするための素地にもなる。 (中略) 
           子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれらを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない。 

           

          53.遊びを親が与えるな
           最近、子供のためのオモチャが、さまざまに粋を凝らし、数多く作り出され、親も半分見栄で、それを争って子供に買い与えるが、オモチャの複雑な機能を考えれば考えれるほど、子どもたちの遊戯の本能にマッチしないものが多いのに驚かされる。
           だから、子どもはすぐにその遊びを軽蔑してほうり出す。どんな精巧なオモチャ、たとえば本物の電話まがいのインターホーンだとか、トランシーバーだとかよりも、なんとなくカッコのいい一本の棒のほうが、子どもにとって、どれだけ遊戯の創造力を刺激し、彼らが単純なその素材をもとに、巧緻をきわめた複雑な遊びを考え出すかを親は知るべきである。(中略)
            最近つぎつぎにつくり出される手のこんだオモチャを見ると、それが子どものためよりも、むしろ子どもより創造力の劣るおとなのためのものでしかないという気がしてならない。
           子どもたちの遊びに、親が唯一与えるべきものは、ただ、時間と空間だけである。

           

          次に紹介するのは、男尊女卑的に解釈されそうなもの。  

          フェミニストがアレルギー反応を起こしそうな文章である。

           

          42.男の子に家事に参加させて、小さい人間にするな

           わたくしはかねてから、最大の親孝行は親に迷惑をかけることである、と信じているが、家事に関して親の負担にならぬ子どもなど、かわいいものではない。 (中略)

           ふつうの勤め人の家庭で、親が子どもに前掛けさせ、子どもを家事に精通した、家事のペットに仕立てることは、たぶんに親の趣味的なものであって、子どもを小さく育てることになりかねない。親と同じみそ汁を作り、同じオムレツを作り、同じ世才しか持たぬ子どもほど、意味のないものはない。

           もし子どもの手をどうしても借りなければ家事がまかなえないならば、それは親が家事に関しての能力がないのだといわざるをえない。


           

          11、父親は、子どものまえでも母親を叱ること

           ある場合、たとえ父親がいささかまちがっていても、子どものまえでは、その非を正しいものとして強引に通すくらいの力がなくてはならないと、少なくともわたくしは思う。

           たしかに人間対人間として、父親と母親は平等であるが、力ということからすれば、父親は母親より強いものでなくてはならず、父権は母権よりも、大きいものでなくてはならぬ。わたくしは父権と母権が均衡した家庭というものを理想とは考えない。いわば命令系統の一本化といえるし、父親と母親の子どもに対する愛情の形の違いから、そうすべきであるともいえる。

           


           次は、石原慎太郎が都知事のころ、アニメ・漫画のキャラクターを「非実在青少年」
          として不健全の基準に含める東京都の青少年育成条例改正案を出し、「日本の表現が窮屈になる」といった懸念が出て議論をよんだが、石原氏が40年の間に正反対の考え方に変わってしまったと、矛盾が指摘されそうな文章。

           

          25.本を、読んでよいものとわるいものに分けるな 
           活字というものは、そこに書かれた事物以外の想像力というものを人間に培ってくれる力を持っている。だから子どもがどんな本を読んでいようと、親は気にする必要はない。 (中略)
           
           確かに、その人間の生涯的な事業のきっかけが、なににあるかを知るものは神のみである。それゆえにも、人間の想像をこえた啓示のきっかけを埋蔵している本を、親がそのわずかな人生経験で、いい本、悪い本と分けて与えるのは、人間として僭越というものではないか。
           
           想像力というものは、現実にないものを考える力であって、そうした作業が、いったい現実にどんなささやかなものを触媒として行なわれるかは、だれにも想像がつかない。であるがゆえに、人間の想像力を培う糧である読書を、なにをもってよしとし、なにをもって悪とするかほど、根拠のないものはない。そのよしあしに、親が陳腐で通俗的な道徳をもちこむほど、子どもの大きな将来性をスポイルすることはない。 

           
           
          次は、まさに石原慎太郎らしい「直角・上から目線」な、封建的で好戦的な文章。

           

          14.他人の子どもでも叱れ

           わたくしはかつて自分の町で車を運転していたといに、いきなりノーブレーキで路地から自転車でとび出してきた子どもを、間一髪、はねそうになった。子どもは夢中でとび出してきたが、急ブレーキをかけて止まる自動車を見て、自分の過失に気がつき驚いた。

           わたくしはそのとき、すぐにその子を追いかけて引き止め、車からおりて、その子どもを叱責したが、子どもが知らん顔をして逃げようとするので、えりがみを引き止めてなぐった。そして、言ってわかる年ごろだったので、その子どもに、自分だけの道路でないことを大声で言いきかせた。ちょうどそのとき、気配に気がついて、その近くの魚屋で買物をしていた母親が驚いてとんできたので、わたくしは見知らぬ親子を並べて叱りとばした。

           

          34.いじめっ子に育てよ

           人生はしょせん戦いである。そして、その戦いはどんなに幼くても、子どもの時代から始まっている。ならば、子どもといえども、その戦いに勝たなくてはならぬ。

           子どもの世界に、いじめっ子といじめられっ子があるならば、わが子を遠い将来、人生に勝ちをおさめる一人前以上の人間に仕立てるためには、まずいじめっ子になれと教えるべきである。(中略)

           わたしは自分の好みとしても、自分の子どもがだれかにいじめられるよりは、だれかをいじめるほうを好む。そしてまた同時に、いじめっ子である自分の座が、ある場合、自分より強い相手によって、容易にくつがえされうることを教え、自戒させている。(中略)

           男は世に出た戦場で、絶対に勝たなくてはならぬ。そのための有形無形の準備を、子どものときから築いていくことが、どうしてまちがいであろうか。

            

          60.子どもに、戦争は悪いことだと教えるな

           わたくしは戦争を罪悪だとは思わない。戦争を罪悪とし、平和を美徳とする価値観は、戦後急速にできあがったものでしかなく、わずか数十年前には、ドイツの歴史学者トライチュケとか、カントのような哲学者は、民族戦争を最高の美徳であると説いていたし、またそうした哲学、歴史学が、いまなお崇高な人間の心の財産に数えられている。(中略)

          坂本竜馬の手紙のなかに「世界の人民いかにせばみな殺しにならんと工夫すべし。胸中にその勢いあれば、天下に振うものなり。」という恐ろしい一節があるが、これは、単純明快に争いごとというものが、人間にいかに勢いを与え、知恵を与えるかということを証している。

          戦争の本質がなんであり、平和の本質がなんであるかもわからぬうちに、子どもにむかって、やたらに戦争を罪悪と教え、平和を美徳と教えることに、わたくしは疑問を感じる。

           
           
           
          最後に、石原慎太郎の小説家としてのアナーキーな感性を見せつける「トンデモ本」と解釈されてもおかしくはない箇所。

           

          45.一人しか子どもをつくらないなら、子どもをつくるな

           一人っ子の家庭が非常にふえている。わたくしは、子どもを一人しかつくらないなら、むしろ、まったくつくらないほうが、なにより子どものためによいと思う。

           画一化された生活様式のなかで、各家庭に自動車一台、子ども一人というのは、子どもそのものの意味が、親にとって自動車なみの、せいぜいペットの意味しか持たないような気がしてならない。もちろん、親は一人っ子であるがゆえに、いっそう愛情を感じているのではあろうが、しかし、子に対する愛情を、ほんとうに子どものためになる形で注ごうとするならば、一人っ子になんとしても、きょうだいを与えなくてはならない。(中略)

          親が、子どもにきょうだいを与えぬことは、一人も子どもをつくらないと同じほどの、人間としての怠慢、義務不履行といえる。(中略)

          きょうだいというものは、親が決して与えることができぬものを、互いに与え合うということを、親は知らなくてはならない。

           

          32.母親は、子どものオチンチンの成長を讃えよ

           男の子どもたちがだんだん成長し、思春期にかかり、性器が幼年から少年、少年から青年に形を変えてくると、おおかたの母親は、わたくしの家もそうだが、妙にテレ、気持ち悪がって、父親にもたれて、そのテレくささをごまかそうとするが、これは意味のない羞恥でしかない。

           自分の生んだ子どもが、たとえ性が異なろうと、成熟していく過程を、母親もまたその手で、たくましさを増していく子どもの部分に触れて確かめ、その成長を讃えてやるべきである。


           

          「スパルタ教育」は、体制主義者なのか無政府主義者なのか、封建的家父長なのか反抗的青少年なのかわからない石原慎太郎の体臭がプンプンする本で、石原好きにはたまらない本だが、石原嫌いは直ちに白ポストに入れたくなるような、石原慎太郎の「原液」が詰まった本である。

          ところで、古典には「暴言」が多い。現在の書き手なら「弱者」に対する遠慮で躊躇して書けないことまで大胆に言い放つ。いまの書き手は、書いちゃいけない一定の境界線があり、なかなかそこを踏み越えられない。古典は自己規制枠が無い。自由奔放に言葉が踊り、読者を想定しない才能の自慰行為が素晴らしい。
          古典を読んでいると、あまりの大胆な物言いに2秒ぐらい「はっ」となる瞬間があり、その後大笑いしてしまうような、心地良い場面に出くわす。それは和洋中いずれの古典にもいえることで、マキャベリの「君主論」なんぞは権力者の大暴言集で、共感するかしないかは別として読んで爽快である。
          「スパルタ教育」にも、賛否両論、いや否定的意見の方が多いことは確かだが、禁断の古典本を読んでいるような罪悪感と刺激がある。


          なお「スパルタ教育」の裏表紙には、三島由紀夫が推薦文を書いている。昭和44年。三島が自決する一年前のことである。
           
          三島由紀夫の推薦文の後半を抜粋する。

           若者たちもまた、心の奥底で「強く美しい父」を求めながら、反抗している。大学教授たちは大半「強く醜き父」だから軽蔑されるのである。石原氏はその点、父親を説き、強い男らしい子を育てる教育を説くのに最適任の人である。太陽族の先祖のように言われながら、氏がじつはよき家庭人であることはきこえている。スパルタは戦士を育てることを家庭教育の主眼とした男性的国家であった。

          | 読み応えのある本 | 15:54 | - | - | ↑PAGE TOP
          宮台真司「日本の難点」
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            ここ数日、今まで積極的に読んでいなかった著者の本を、片っ端から読んでいる。「新しい、未開の著者」の書物を読むのは、評判がいい有名店なのに、まだ機会がなくて一度も訪れたことのない店の暖簾をくぐる緊張感がある。
             

            いま僕が積極的に読んでいる書き手とは
             

            坂口安吾
            宮台真司

             

            この2人 である。
             

            坂口安吾はとりあえず置くとして、宮台真司が出版したはじめての新書「日本の難点」には感動した。特に職業柄、第二章「教育をどうするのか−若者論・教育論」には己の感性を鞭打つ言葉が多く、繰り返し読んでいる。
             

            宮台真司は、おそらく日本で一番有名な社会学者で、類まれな頭脳からあふれる奔放な物言いに、何かと敵が多い人だ。僕はそんなイメージから、読まず嫌いになっていた。
             

            また、某サイトのある書き手が宮台かぶれで、この方の文章が失礼ながら理屈だけで面白くない。しかもどこか高踏的で、砂浜でみんなが海水浴を楽しんでいるのに一人だけタキシード姿で現われ、「僕は知的だろ? 君たちとは違うんだ」みたいな、60年代的知性を振りかざすアナクロで嫌味な部分と、場違いな滑稽さが兼ねそなわっていて、宮台真司氏もそんな人だと思っていた。
             

            そんなわけで僕は宮台真司に偏見を持っていて、「知情意」のうち「知」の部分だけが突出した、理屈を捏ね回す嫌味な人物だという先入観にとらわれ、読まず嫌いになっていたのだが、読んでみると感激した。
            確かに「知」が表面的に突出しているのは認めざるを得ないが、宮台真司はイメージに反して、熱い「情」「意」が瞬間的にほとばしる人ではないか。

             

            宮台かぶれの某氏の文章が、スープを取った後の出しガラとすれば、宮台氏本人の文章は豊かなコクのあるスープだ。
            表層をなぞっただけのフォロワーに偏見を持たされ、あやうく宮台真司を読まずに終わるところだった。

             

            さて、「いじめは本当に決してなくせないのか」の部分で、宮台氏は「いじめ」への処方箋を、こう論じている。ここで僕の目を引いたのは「スゴイ奴」という言葉である。どんな人間を宮台真司は「スゴイ奴」と呼ぶのだろうか?
             

            ---------------------------------
            心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです。「いじめたらいじめられる」なんていう理屈で説得できると思うのはバカげています。世の中、弱い者いじめだらけだし、それで得をしている大人がたくさんいるのですから。

             

            そうじゃない。「いじめはしちゃいけないに決まってるだろ」と言う人がどれだけ「感染」を引き起こせるかです。スゴイ奴に接触し、「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」できるような機会を、どれだけ体験できるか。それだけが本質で、理屈は全て後からついてくるものです。
             

            想像してほしい。利己的な奴が本当にスゴイ奴だなんてあり得るでしょうか。「感染」を引き起こせるでしょうか。あり得ない。周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさないのです。
             

            人間は、なぜか、利他的な人間の「本気」に「感染」します。それにつけても、最近の子どもたちは、「本気」で話されたことを「本気」で聞く経験、あるいはそれをベースにして自ら「本気」で話した経験を、どれだけ持っているでしょうか。それこそが「感染」の土台であるのに。
            -----------------------------------

             

            「本当にスゴイ奴は利他的で、人間は利他的な人間の「本気」に「感染」する」という箇所に、涙が出そうになった。
             

            ちなみに宮台氏は「スゴイ奴」の反対に位置する人間を、「セコイ奴」「浅ましい奴」と呼んでいる。
             

            「日本の難点」から、引用を続けよう。
             

            -----------------------------------
            不思議なことに、我々は自己中心的な人間を「本当にスゴイ奴だ!」と思うことはありません。(中略)「本当にスゴイ奴」とそうでない奴の違いは、プラトンの言葉で言えば、ミメーシス(感染的模倣)を生じさせるかどうかで分かるのです。ミメーシスというのは、真似しようと思って真似るのではなく、気がついたときには真似てしまうようなものです。(中略)

             

            誰もが認めるスゴイ奴は「本当にスゴイ奴」を探し求めるのではないかと思います。エゴイスティックな奴とは「こうすれば得になるとか損になる」とか「手段」の合理性を考える類の浅ましい輩ですから、どう考えてもこういう輩は「感染的模倣」の対象にはなりません。
             

            「感染的模倣」の対象になる人間とは、端的な「衝動」に突き動かされている人間です。むろん食欲や性欲なども端的な「衝動」を与えます。でも「感染的模倣」をもたらすのは「ありそうもない衝動」「不思議な動機づけ」に突き動かされた人間だけです。たぶん宗教の開祖も多くの場合そうした人間だったでしょう。
             

            「本当にスゴイ奴」を探し求めるとは、「ありそうもない衝動」に突き動かされる人間を、”思わず”「感染的模倣」をすることを通じて、自分自身が「ありそうもない衝動」に突き動かされる存在になっていくこと、というふうに思います。
            --------------------------------------

             

            引用が長くて恐縮だが、五臓六腑に染み渡る文章である。
             

            さらに宮台氏は、シュタイナー教育を、こういった理由で肯定する。
             

            --------------------------------------
            早期教育と呼ばれているものの大半は有効ではないと思います。真の早期教育があるとすれば、僕は「目から鱗」がキーワードだと思います。「目から鱗が落ちた」「聞くと見るとは大違い」「世評の大半は勘違い」という経験を、どれだけさせてあげられるか、です。(中略)

             

            シュタイナーの教育実践は、我々の感情の幅や感覚の幅を自明のものとしないで、広く深く拡大するべく、なるたけ感情的・感覚的に幅広い体験をさせていくことを目的としたものです。(中略)
             

            「目から鱗」こそがキーワードだと述べたことも、それに関係します。ただし、単に知的な「目から鱗」よりも、それを手段とする感情的・感覚的な「目から鱗」こそが大切だと思います。知的な幅と違い、感情的・感覚的な幅は、成人後は簡単に変えられないからです。
             

            感情や感覚の幅が広い人間であるほど、他人が置かれている状況や、それが彼や彼女に与える影響を理解できます。それが理解できる人は、他人を幸せにできるし、他人を幸せにすることを通じて自分も幸せになることができます。感情や感覚の幅の狭い人間には、それがすごく難しくなります。
            ----------------------------------------

             

            利他的な「スゴイ奴」こそが強い感染力を他人に与え、「スゴイ奴」を育てるには子供の頃から意識して感情的・感覚的な幅を広げる教育を施さなければならない。なるほど、心にストンと落ちた。

            | 読み応えのある本 | 18:28 | - | - | ↑PAGE TOP
            村上春樹のチープな性描写
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              村上春樹の「1Q84」、主人公が予備校講師で小説家志望だから、僕の境遇とほぼ同じだ。強く感情移入しながら読んでいる。


              でもね、文句もある。


              「天吾(主人公)はいつもどおり週に三日予備校で数学の授業をし、それ以外の日々は机に向かって長編小説を書き進め、金曜日にはアパートを訪ねてくるガールフレンド(=人妻)と濃密な昼下がりのセックスをした」
              という箇所。


              金曜日に人妻と濃密な昼下がりのセックス?

              してねえよそんなの!


              突然、感情移入の世界から醒めちゃったじゃないか!


              しかも
              「彼女はまた性的なパートナーとして文句のつけようがなかった。そして天吾に多くを要求しなかった。週に一度三時間か四時間をともに過ごし、念入りなセックスをすること。できれば二度すること。ほかの女性には近づかないこと。天吾に求められているのは基本的にはそれだけだ」


              「彼に要求されているのはふたつだけだった。ペニスを硬くしておくことと、射精のタイミングを間違えないことだ。「まだだめよ。もう少し我慢して」と言われれば、全力を尽くして我慢した。「さあ今よ。ほら、早く来て」と耳元で囁かれると、その地点で的確に、できるだけ激しく射精した。そうすれば彼女は天吾をほめてくれた」


              と続く。


              ふざけやがって春樹!


              「1Q84」は教え子たちにも勧めて読ませたいけど、「先生はこんな小説が好きなのですか?」「いつも読書は大事だ、本を読めと偉そうに言ってる先生は、ふだんこんなものを読んでいるのですか」と思われたらイヤだ。軽蔑されそう。


              村上春樹って、アメリカかぶれのドロンパみたいな作家で、日本的湿っぽさは稀薄だと言われているが、セックス描写は思いっきりグロい。


              文体が爽快だから多くの人が騙されているが、この性描写を関西弁で書いたら、もうグログロネチネチの権化だろう。


              「1Q84」ではさらに、主人公の女性がホテルのバーでハゲた中年男をナンパして、おちんちんを「ふうん、じゃあ、ひとつ見せてもらいましょうか」という箇所があるが、絶対に変だ。

              というか、村上春樹の性描写はチープだ。絶対にわざとやっているのだろうが、格調を捨て日常に寄りかかっている。


              とにかくセックスを書かせると、村上春樹は日本伝統のあられもない性描写の正統的継承者だ。谷崎潤一郎や三島由紀夫や大江健三郎あたりの変態性を引き継いでいる。


              でもグロい性描写で有名な日本人作家は、どういうわけか海外で評価されやすい。外国人はそんなところが好きなのかも。


              おそらく外国語に翻訳すれば、どんな作家も、文体なんて同じになってしまうのだろう。文体の繊細さなんてわかりっこない。外国語では太宰治も志賀直哉も、村上春樹も村上龍もみな同じ文体だ。



              関連項目

              村上春樹「1Q84」
              村上春樹は青少年には危険思想












              | 読み応えのある本 | 00:38 | - | - | ↑PAGE TOP
              ハルキに夢中(ハルヒじゃねえぞ)
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                村上春樹「1Q84」を読んでいる。

                読んだ感触は「ダンス・ダンス・ダンス」とどこか似ている。30代の孤高の男性に、10代の問題を抱えた女の子のコンビという、登場人物の設定が同じだからだろうか。

                「ダンス・ダンス・ダンス」は「ノルウェイの森」の直後に発売された。「ノルウェイの森」は万人に受けられられた小説だが、「ダンス・ダンス・ダンス」は奇妙な登場人物が多いし、現実世界より少し風景が歪み、「ノルウェイの森」で得た読者を、どこか排除するような小説だった。

                私が最初に読んだ村上春樹の本は「ノルウェイの森」だが、幸いなことに「ダンス・ダンス・ダンス」の世界も大好きになり、排除されずに踏み止まったので、過去にさかのぼって「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と読み進めることができた。

                ところで村上春樹の小説は、登場人物も背景も、現実世界と少しだけ歪んでいる。現実と虚構の中間地点をさまよっている。
                絵画ならセザンヌに似ている。正確な描写のように見せかけながら、構図がどこかずれている。人工的な意図した構図の中で、どこか規格から外れた人物が動き回る。


                ただ、構図はピカソのように飛躍したりはしない。リアルな現実と7度ぐらい空間が歪んだ微妙なラインにとどまる。だから写実的な小説として読むと変化球だし、ファンタジーとして読めば現実が降りかかる。
                今回の小説で言えば、「1Q84」という「9」ではなく「Q」を使ったタイトルに、微妙かつ絶妙な歪みが象徴されている。


                そして村上春樹の小説は構図が歪んでいて、一歩間違えれば難解な世界なのに読みやすい。物語のスピード設定が絶妙なのが一因だろう。
                読者は自分の心臓の鼓動、血の循環の速度と同じスピードで読み進めることができる。推進力は意図的に抑えられ、速すぎず遅すぎず独特のペースで読める。


                たとえば、推理小説のように謎解きがメインになると、読者の読むペースは必然的に速くなる。早く結末を知りたいから焦って読み方が雑になる。
                重罪を犯した被告人が、死刑か無期懲役か判決内容が早く知りたいから判決文を上の空で聞いてしまうように、推理小説はストーリーを読み飛ばしがちになり、頭にグリップしない。


                「1Q84」にも推理小説的な要素を持ち、あれこれ謎が散りばめられている。しかし基本的に村上春樹の小説は、推理小説のように謎解きや結末を知りたくて、焦ってページをめくるタイプの小説ではない。終始一貫'Walk don't run.'のペースで読み進めることが可能だ。


                物語の「未来」を一刻も早く知りたいけど、「現在進行形」で繰り広げられる場面の充実が、読むスピードを抑える。
                メトロノームのように正確に設定された速度が、ファンタジー一歩手前まで踏み込んだ、とっつきにくい微妙に歪んだ世界を描きながらも、村上春樹の物語に安定感をもたらし、適温な物語世界にずっと浸っていたいと読者に感じさせるのである。


                ところで、村上春樹は60歳、もはや老作家の年齢である。私にとって村上春樹は永遠の38歳で、海岸で短パン姿で猫と戯れながらビールを飲んでいるイメージが抜けない。


                60歳といえば谷崎潤一郎が「細雪」、川端康成が「古都」を書いた年齢だ。志賀直哉は大家として悠々自適の余生を送っていた。ちなみに森鴎外が死んだのは60歳である。
                もちろん芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫や石川啄木には「60歳」という年齢の経験はなく、天寿を全うした感のある夏目漱石も49歳で死んでいる。


                「1Q84」は若々しい小説である。60歳の小説家が書いたとは思えない。村上春樹嫌いの人にとって「1Q84」は、最近のキムタクのドラマみたいな「若作り」の小説なのかもしれないが、60歳でこんなに年齢不肖な若々しい小説を書けるのは、すごい筆力である。



                村上春樹関連項目

                村上春樹「1Q84」
                村上春樹「エルサレム賞」スピーチ
                村上春樹は青少年には危険思想
                村上春樹から受験生へ励ましの言葉
                罵倒した生徒に逆ギレされた教師

                | 読み応えのある本 | 19:10 | - | - | ↑PAGE TOP
                村上春樹「1Q84」
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                  村上春樹の新刊が出た。「1Q84」

                  私は「ダンス・ダンス・ダンス」以来、村上春樹の新刊は発売日に速攻で買っている。大学生の時、映画研究会でいっしょだった友人の小池君に「ノルウエイの森」を薦められて以来、なくてはならない作家になった。


                  ただ今回の「1Q84」、買ったのはいいが読むのがもったいない。読んでしまえば、2〜3年新刊が出るのを待たなければならない。村上春樹の未読の新刊が部屋に積んであるという幸せに、少しでも長く浸っていたい。


                  読むのがもったいないから「1Q84」は陳列したまま、前作「海辺のカフカ」を読み返している。できることなら記憶を全部失って、村上春樹と司馬遼太郎の本を未読の新刊として、新鮮な気持ちで読めたらいいのにと思う。


                  村上春樹の小説には、読者の方にはおわかりだろうが「わかる系」と「わからん系」に分類される。リアリズムを追求した「わかる系」と、得体の知れない登場人物とぶっ飛んだストーリーの「わからん系」の2種類だ。


                  「ノルウェイの森」や「国境の南、太陽の西」や「スプートニクの恋人」が「わかる系」とすると、「ねじまき鳥クロニクル」や「神の子どもたちはみな踊る」は「わからん系」だ。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」は「わかる系」と「わからん系」が章ごとに交互に現われる。


                  私はある人に「村上春樹を読んでみたい」と言われ、「ねじまき鳥クロニクル」がいいよと文庫本を進呈したのだが、その後「面白かった?」と尋ねると、「う、うん。まあね」とものすごく微妙な顔をされ、話を逸らされてしまった。


                  「ねじまき鳥クロニクル」は筋も奇妙だし、人間を生きたまま皮を剥ぐグロの極致のようなシーンもある。ストーリーが難解で、残虐シーンだけリアルに浮いた小説を薦められ、私の人格が疑われたかもしれない。無難に「ノルウェイの森」でも薦めて置けばよかったと後悔した。


                  新刊「1Q84」はザッと見たところ「わかる系」なので、スラスラ読めそうで、せっかくの村上春樹の新刊を短時間で読んでしまってはもったいないから、なおさら読む踏ん切りがつかない。


                  旅先で突然、村上春樹が読みたくなる事がある。そんな時は書店やBOOK OFFで、何度も読み返したはずなのに春樹の文庫本を買う。「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」あたりは何冊買ったことか。ちょっとした依存症である。


                  ところで「1Q84」のストーリー。小説の主人公は予備校講師で、芥川賞を狙っているという。まるで誰かさんみたいだ。
                  村上春樹の小説の主人公は「個人主義者」のレッテルを貼られやすい男が多く、私は彼らのライフスタイルや人との距離感に強く共感し「似た境遇」を感じていたが、主人公が予備校講師とは、まるで「同じ境遇」ではないか。


                  パラッ、パラッとページをランダムにめくってみると、「ヤナーチェクのシンフォニエッタ」「職業的小説家」「サハリン島」「中央線新宿駅の立川方面行きプラットフォーム」「蜘蛛巣城」「チェーホフの短編小説」「反社会的な危険なカルト」という興味深い名詞が散見される。

                  読むのが楽しみだ。

                  | 読み応えのある本 | 19:53 | - | - | ↑PAGE TOP
                  藤原正彦・仕事をなしとげる三つの要素
                  0
                    僕の好きなエッセイスト、つうか数学者の藤原正彦は、「数学者の休憩時間」や「文藝春秋5月号」に、仕事をなしとげるのに大切な要素は三つあると書いていた。

                    以下要約

                    ---------------------------------------------

                    1つ目は野心です。
                    未開の領域に挑むには相当の野心を必要とします。どんなに優秀な研究者でも、何かをしてやろうという気持ちなしにアイディアがわくことがありません。
                    「野心」を辞書で引いたら「身分不相応な望み」と書いてありました。身分相応な望みだけでは発展が望めません。野心があってこそ困難な研究に乗り出すことができるのです。

                    2つ目は執着心です。
                    数学者の中には十年間一つの問題に取り組みやっと組む伏せた人もいます。 未解決問題の解決は容易でなく、だからこそ未解決で残っています。それを攻め落とすには、かなり執拗な攻撃が必要です。
                    時には数年にわたって考え続けなければならない。少なくともこだわり続けないといけない。

                    3つ目にして最も大切なのが、楽観的であることです。
                    悲観的な人は、一生悲観しているだけで人生が終わってしまいます。自分の能力などに自己嫌疑心が強い人は、物事にぶち当たる前にエネルギーをすり減らしてしまいます。
                    また、世界には極端に頭の良い人間がうようよいます。その人たちと命がけで競うわけですが、とかく劣等感のとりこになります。一週間うなって、やっと解けた問題が、ヒョイと一分間で解かれてしまったり、苦心惨憺のすえ証明した定理が、既に世界のだれかが、よりエレガントな形で発表されてしまっていたりします。こんな時には、かなり楽観的でないと再起できません。
                    ポール・コーエンというフィールズ賞受賞の数学者がスタンフォード大学にいました。私もよく知っている彼は、どんな問題を見ても第一声は「オー!イッツ・ソー・イージー」。大抵は解けないのですが(笑)、いかに天才コーエンといえども、見たことのない問題を前にすれば一瞬怯むのです。そこで「こりゃ簡単だ」と自分に気合を入れて問題に立ち向かうのでしょう。
                    自分を客観的に見たら人間というものは生きていけません。おめでたくてよい。主観的でいいのです。楽観的でないと脳が全開しない。それに楽観的でなければ、挫折した時に立ち直ることもできません。
                    --------------------------------------------

                    野心とは身分不相応な望み、成功で最も大事なのは楽観的であること、楽観的でないと脳は全開しない、かあ。カッコイイ。


                    | 読み応えのある本 | 14:47 | - | - | ↑PAGE TOP
                    村上春樹「エルサレム賞」スピーチ
                    0
                      村上春樹が「エルサレム賞」を受賞し、エルサレムでスピーチを行った。ガザ地区を攻撃中のイスラエルで、こんな肝の据わった発言をした村上春樹に賞賛の声が上がっている。

                      スピーチは長いものだが、肝になる箇所がこの部分だ。

                      Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.

                      「高く強固な壁と、壁にぶつかって割れる卵の間において、僕はいかなる場合でも卵の味方になります。はい。たとえ壁がどんなに正しかろうと、卵がどれほど間違っていようと、私は卵の味方です」


                      言葉に尽くせないほど感動した。ブルブルと身体が震えた。弱い卵でも、強い壁に向かって、自爆的行動を取らざるを得ない場合がある。そんな修羅場を作らざるを得なかった政治の過ち。切実な比喩で政治の過ちを非難し嘆き、正しかろうが間違っていようが、弱い者に味方するスタンスを終始一貫崩さない小説家。

                      続けよう。

                      Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

                      「なぜか。僕たちはみな壊れやすい殻の中に唯一無二の魂を持ち、1人1人が高い壁に立ち向かう卵なのです。その壁とは、人には適していないことに人をむりやり強制させるシステムのことです」


                      We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.

                      「僕たちはみな人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。誰もが壁に対して希望を持てません:壁は高すぎ、暗すぎ、冷たすぎます。壁と戦うには、暖かみや強さを得るため、心を結びつけていなければならないのです。僕たちは、自分たちが作り出したシステムに、コントロールされるままであってはなりません。システムを作り出したのは、僕達に他ならないのですから」


                      私の教育スタンスは、子供を「強い人間」に育てることであった。
                      個人が卵ではなく爆弾になり、高く堅牢な壁を破壊し、旧牢なシステムを打破することを願った。はかない卵の殻を、鍛えて鉄に変化させることを願った。

                      もう1つの願いは、子供を固い壁の内部に押し込み、壁の中で生きるよう仕向けることだった。とにかくアウトサイダーにせよインサイダーにせよ、「強い人間」になって欲しかった。

                      でも内田樹氏が述べているように、人間の存在が本源的に弱いものなら、「強い人間」とは存在しないのだろうか。人間に「強い」という形容詞を冠してはダメなのだろうか。

                      明日、高2諸君にこの英文を訳してもらおう。とにかく久々に、臓腑にしみる文章にめぐり会えた。
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