猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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国語の授業なんかいらない
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    昔「巨泉のこんなものいらない」という番組があった。
    日本の大橋巨泉と、アメリカのジャックという名の記者が衛星回線を通して対談するのだが、日本人の大橋巨泉は英語で喋って画面下には日本語のテロップ。逆にアメリカ人のジャックは日本語の吹き替えという方式だった。

    つまり日本人の大橋巨泉が「Hello, Jack」と英語を話し、アメリカ人のジャックが日本語で返答するという珍妙な対話がTVで繰り広げられていたのだ。
    要するに大橋巨泉が自分の英語力を披露したかったのだろう。

    さて今日は「国語の授業なんかいらない」という話である。

    中学校でもし1つ科目を削るならば、「国語」が最適ではないかと私はいつか書いた。最近は国語力向上が巷で大いに叫ばれているため、少々勇気のいる発言だったかもしれない


    繰り返すが最近の教育論では
    「小学校で英語だって? それより国語を何とかしようよ」
    「我々は日本人である。英語よりも日本語教育に力を注ぐべし」
    「国語教育はすべての学問の基本。国語教育を充実させよう」
    「国語力低下が著しい。国語の時間数を増やそう」
    「日本語の文をしっかり書けずに、何が英語か」
    という主張をよく耳にする。国語教育の充実が声高に叫ばれている。

    しかし、数学や理科は学校や塾で学ばないと力はつかないが、国語力は必ずしも学校の国語の授業で身に付くものではない。
    国語力は親や友人との会話、テレビの音声、読書や漫画、パソコンの画面、町にあふれる文字広告など、身の回りの森羅万象から吸収するものだ。

    日常生活の周辺にあふれる文字や音声から子供は自然に「国語」を学ぶ。
    言い換えると、数学が極度に非日常的な教科であるのと比べて、国語は日常的な教科であり、だからこそ国語力は日常生活で自然に身につく性格を持っている。

    たとえば、最近の中学生・高校生の文章能力は、10年前以前に比べて上昇している気がしないだろうか?
    インターネットとメールの普及が、若者が文章でコミュニケーションする能力を向上させている。事実、私が10代の頃と比べて、若者が文章を書く機会は格段に増えた。

    若者の文章力向上は「非日常的」な教室の作文教育がもたらしたものではない。メールとネットでのコミュニケーションが「日常的」になったことで、若者の文章力は向上したのだ。若者の文章力向上は、メールとインターネット普及の偶然の副産物である。
    学校の国語授業は、若者の文章力向上に何ら寄与していない。

    若者の文章力向上は、「日常」が「非日常」に勝利した一例である。
    ではなぜ国語の授業が必要なのか?
    どうして「日常的」な国語が、「非日常的」な学校の教室で教えられなければならないのか?
    | 国語力!作文力!読書力! | 20:35 | - | - | ↑PAGE TOP