2007.10.04 Thursday
むかし、学校は楽しかった
私の塾は瀬戸内海の島にあるが、島にはお年寄りが多い。
昼間のバスは病院や買い物に行く老人だらけだ。
島の海岸をドライブしていると「日本一の長寿の島」という標識まである。
小学校5年生の子がお葬式で塾を休んだ。「どなたが亡くなられたの?」と聞くと「ひいおばあちゃん」だと言う。「何歳だったの?」と質問すると「93歳」と答える。
島民の平均年齢は、50歳を明らかに越えていると思う。
塾に子供を送り迎えしてくれる、おじいちゃんおばあちゃんも多い。塾の保護者懇談に、おじいちゃんおばあちゃんも、よくいらっしゃる。
そんな塾生のおじいちゃんおばあちゃんと話をしてみると、私のことを「先生、先生」と過分に持ち上げて下さる。
懇談の席で、わざわざ来て頂いたおばあちゃんに私があれこれ述べると、
「先生、孫がいつもお世話になっております。ふつつかな孫で申し訳ございませんねえ。甘やかして育ったものですから。先生、今後とも孫を厳しく叱ってやって下さい、あと先生、これ召し上がってつかあさい」
と、まるで私のことを「先生様」とでも呼びそうな勢いで、家の畑で取れたみかんを渡して下さる。心から恐縮してしまう。
とにかく、戦前の教育を受けた方から見れば、先生は「偉い人」なのだろう。年配の方と話していると、私のような人間でも、先生という名の権威の鎧を身につけた、身分不相応なくらい偉い人になったような錯覚に陥る。
ところで昔の学校は、今とは比較にならないくらい子供にとって面白く刺激的な場所だった。先生も今の10倍偉い人だった。
先生は師範学校という格好いい名前の学校を出た人で、背広を着てネクタイを締め、ハイカラで格好良かった。
当時は学校教育を受けた人が少なかったため、先生の相対的評価は高かった。
先生は近所のオッサンやオニイチャンとは明らかに違い、知的で清新な雰囲気を漂わせていて、しかも物識りで何を質問してもキチンと答えてくれた。
狭い地域社会の中で農作業を手伝ったり、山で薪を拾ったりして日常生活を過ごしていた子供たちにとって、学校の先生は広い世界の匂いを伝える神様のような存在だった。
また昔は、本やテレビやゲームみたいに、子供を長時間集中させてくれる刺激的なモノはなかった。
だから、子供は学校で先生の話を聞くだけで楽しかった。授業で椅子に座り教科書を開き、算数の問題を解き、国語の文章を読むだけで子供の心は躍った。
昔の子供にとって、算数はテレビゲームに、国語は映画やテレビドラマに、音楽はCDでJ−POPを聴くことに相当するのだろうか。
学校の教科書は、今でこそ授業中にしか開かれず、ふだんは子供に見向きもされない月夜のボタンのような可哀想な本になり、学校の机に夜中淋しく置き去りにされがちであるが、昔は子供を未知の世界に連れ去ってくれる、大事な大事な宝物だった。
小学校の校舎にも、子供は圧倒された。
明治維新後学制が敷かれ、小学校4年間が義務教育になり、各地に小学校が建設された。
初期の小学校は寺を借りた仮普請だったが、そのうち大きな木造2階建の校舎が建てられ、小学校の校舎は町や村で一番立派な建物の1つになった。
西洋風の斬新なデザインの巨大な建物に、朝の登校時間なると子供たちが楽しそうに吸い込まれていった。
子供にとって立派な小学校の校舎は、ディズニーランドのシンデレラ城よりも輝かしく荘厳だった。
学校には田んぼや畑を潰した広大な運動場があり、子供たちは運動場で思う存分走り回った。
山や川や畦道で遊ぶのに慣れていた子供たちは、土のグラウンドの永遠の広さに心と体が躍った。
運動場の片隅には鉄棒やジャングルジムやシーソーや滑り台という名の、魅力的な遊び道具が現われた。
最初のうちは遊び方がわからない子供たちは、口を開け茫然と真新しいジャングルジムやシーソーを眺めていたが、これらが自分たち子供のために作られたものだと知るやいなや、子猫のようにはしゃぎ回った。
文房具も寺子屋で使っていた筆と墨と硯ではなく、画期的な筆記用具、鉛筆と消しゴムが登場した。
わざわざ水を汲んで墨をする必要がない、ナイフで削ると芯がだんだんトガってゆくのがカッコイイ鉛筆を、子供は大切に使った。
鉛筆で書いた文字を消しゴムでこすると、文字がキレイに消えてゆく。子供にとって消しゴムは魔法のアイテムだった。
鉛筆の削りカスや消しゴムの消しカスすら、子供には宝物のように見えた。
先生の筆記用具は、チョークという白い棒だった。先生は教室の前に鎮座している黒板というデカイ板に、白く鮮やかに文字を書く。
先生が書いた文字を、鉛筆で写すと気分がワクワクした。「勉強してるんだ!」という充実感が子供を包んだ。
家の仕事で忙殺されていた子供は、学校という「遊び場」が大好きになった。学校から楽しそうに帰ってくる子供の姿を見て、親は「学校行くのは時間の無駄だ、働け!」と子供に言うが、子供は親を無視して次の日もまた楽しそうに学校へ行った。
しかしそんな学校に懐疑的だった親たちも、運動会や学芸会で学校の楽しさに目覚めた。
学校の運動会や学芸会は、子供だけでなく大人の楽しみでもあった。
暑さが薄らぐ彼岸過ぎの9月下旬から10月にかけ、日曜日に運動会は開催された。地域の人たちはお祭り感覚で運動会をエンジョイした。
運動会では子供が競技を楽しむ。大人も玉入れや綱引きに参加して童心に帰る。昼休みは子供と一緒にお弁当を食べる。
まだ旅行とかドライブを楽しむことができなかった庶民にとって、子供の運動会は最大級の娯楽だったのだ。
さらに学校は、子供の立身出世への階段という側面を持っていた。「末は博士か大臣か」という言葉が戦前流行したが、博士や大臣になる入り口は学校に他ならなかった。
学校で勉強すれば、農業や漁業という自然に左右されやすい仕事から脱却し、安定した俸給生活を送ることができた。
勉強は泥にまみれた生活から脱却する一本の頼みの綱だった。
江戸時代なら一生農村で暮らさなければならなかった才能が、学校のおかげで世に出ることができた。
子供たちは素直に「坂の上の雲」を信じたのである。
ただ、子供は立身出世の野心から学校に行ったわけではない。単に楽しかったから学校が好きだったのだ。
よく田舎のおじいさんが、「オレは貧乏だったから、上の学校へ通わせてもらえなかった。今の子供が羨ましい」とつぶやくのを耳にするが、彼らにとって、貧乏で学費が払えず立身出世を諦めざるを得なかった慙愧の念より、12〜13歳で楽しい学校から離れて働かされた悔しさの方が強いのかもしれない。
幼くして学校から離れることは、遊園地にたった1時間いただけで、親に「もう帰りましょうね」と冷たく告げられる子供のような、断腸の思いだったろう。
おじいさんは小学校を卒業したらすぐ働いて、凛々しい制服を着こなして中学校へ通う同級生の姿を横目に胸を痛めた。
学校へ行けば、過去の子供時代にもっと楽しい思いができたし、現在の境遇ももっと違ったものになっていただろうに、そんな憧憬の念を抱くのかもしれない。
とにかく昔の先生は威厳があって物知りで、学校は新鮮で楽しくて、しかも将来の夢を叶えてくれる素晴らしい場所だった。
もし、私の塾の生徒のおばあちゃんが、私の塾を昔の学校のイメージで見て下さっているのなら、それはとても嬉しいことだ。
昼間のバスは病院や買い物に行く老人だらけだ。
島の海岸をドライブしていると「日本一の長寿の島」という標識まである。
小学校5年生の子がお葬式で塾を休んだ。「どなたが亡くなられたの?」と聞くと「ひいおばあちゃん」だと言う。「何歳だったの?」と質問すると「93歳」と答える。
島民の平均年齢は、50歳を明らかに越えていると思う。
塾に子供を送り迎えしてくれる、おじいちゃんおばあちゃんも多い。塾の保護者懇談に、おじいちゃんおばあちゃんも、よくいらっしゃる。
そんな塾生のおじいちゃんおばあちゃんと話をしてみると、私のことを「先生、先生」と過分に持ち上げて下さる。
懇談の席で、わざわざ来て頂いたおばあちゃんに私があれこれ述べると、
「先生、孫がいつもお世話になっております。ふつつかな孫で申し訳ございませんねえ。甘やかして育ったものですから。先生、今後とも孫を厳しく叱ってやって下さい、あと先生、これ召し上がってつかあさい」
と、まるで私のことを「先生様」とでも呼びそうな勢いで、家の畑で取れたみかんを渡して下さる。心から恐縮してしまう。
とにかく、戦前の教育を受けた方から見れば、先生は「偉い人」なのだろう。年配の方と話していると、私のような人間でも、先生という名の権威の鎧を身につけた、身分不相応なくらい偉い人になったような錯覚に陥る。
ところで昔の学校は、今とは比較にならないくらい子供にとって面白く刺激的な場所だった。先生も今の10倍偉い人だった。
先生は師範学校という格好いい名前の学校を出た人で、背広を着てネクタイを締め、ハイカラで格好良かった。
当時は学校教育を受けた人が少なかったため、先生の相対的評価は高かった。
先生は近所のオッサンやオニイチャンとは明らかに違い、知的で清新な雰囲気を漂わせていて、しかも物識りで何を質問してもキチンと答えてくれた。
狭い地域社会の中で農作業を手伝ったり、山で薪を拾ったりして日常生活を過ごしていた子供たちにとって、学校の先生は広い世界の匂いを伝える神様のような存在だった。
また昔は、本やテレビやゲームみたいに、子供を長時間集中させてくれる刺激的なモノはなかった。
だから、子供は学校で先生の話を聞くだけで楽しかった。授業で椅子に座り教科書を開き、算数の問題を解き、国語の文章を読むだけで子供の心は躍った。
昔の子供にとって、算数はテレビゲームに、国語は映画やテレビドラマに、音楽はCDでJ−POPを聴くことに相当するのだろうか。
学校の教科書は、今でこそ授業中にしか開かれず、ふだんは子供に見向きもされない月夜のボタンのような可哀想な本になり、学校の机に夜中淋しく置き去りにされがちであるが、昔は子供を未知の世界に連れ去ってくれる、大事な大事な宝物だった。
小学校の校舎にも、子供は圧倒された。
明治維新後学制が敷かれ、小学校4年間が義務教育になり、各地に小学校が建設された。
初期の小学校は寺を借りた仮普請だったが、そのうち大きな木造2階建の校舎が建てられ、小学校の校舎は町や村で一番立派な建物の1つになった。
西洋風の斬新なデザインの巨大な建物に、朝の登校時間なると子供たちが楽しそうに吸い込まれていった。
子供にとって立派な小学校の校舎は、ディズニーランドのシンデレラ城よりも輝かしく荘厳だった。
学校には田んぼや畑を潰した広大な運動場があり、子供たちは運動場で思う存分走り回った。
山や川や畦道で遊ぶのに慣れていた子供たちは、土のグラウンドの永遠の広さに心と体が躍った。
運動場の片隅には鉄棒やジャングルジムやシーソーや滑り台という名の、魅力的な遊び道具が現われた。
最初のうちは遊び方がわからない子供たちは、口を開け茫然と真新しいジャングルジムやシーソーを眺めていたが、これらが自分たち子供のために作られたものだと知るやいなや、子猫のようにはしゃぎ回った。
文房具も寺子屋で使っていた筆と墨と硯ではなく、画期的な筆記用具、鉛筆と消しゴムが登場した。
わざわざ水を汲んで墨をする必要がない、ナイフで削ると芯がだんだんトガってゆくのがカッコイイ鉛筆を、子供は大切に使った。
鉛筆で書いた文字を消しゴムでこすると、文字がキレイに消えてゆく。子供にとって消しゴムは魔法のアイテムだった。
鉛筆の削りカスや消しゴムの消しカスすら、子供には宝物のように見えた。
先生の筆記用具は、チョークという白い棒だった。先生は教室の前に鎮座している黒板というデカイ板に、白く鮮やかに文字を書く。
先生が書いた文字を、鉛筆で写すと気分がワクワクした。「勉強してるんだ!」という充実感が子供を包んだ。
家の仕事で忙殺されていた子供は、学校という「遊び場」が大好きになった。学校から楽しそうに帰ってくる子供の姿を見て、親は「学校行くのは時間の無駄だ、働け!」と子供に言うが、子供は親を無視して次の日もまた楽しそうに学校へ行った。
しかしそんな学校に懐疑的だった親たちも、運動会や学芸会で学校の楽しさに目覚めた。
学校の運動会や学芸会は、子供だけでなく大人の楽しみでもあった。
暑さが薄らぐ彼岸過ぎの9月下旬から10月にかけ、日曜日に運動会は開催された。地域の人たちはお祭り感覚で運動会をエンジョイした。
運動会では子供が競技を楽しむ。大人も玉入れや綱引きに参加して童心に帰る。昼休みは子供と一緒にお弁当を食べる。
まだ旅行とかドライブを楽しむことができなかった庶民にとって、子供の運動会は最大級の娯楽だったのだ。
さらに学校は、子供の立身出世への階段という側面を持っていた。「末は博士か大臣か」という言葉が戦前流行したが、博士や大臣になる入り口は学校に他ならなかった。
学校で勉強すれば、農業や漁業という自然に左右されやすい仕事から脱却し、安定した俸給生活を送ることができた。
勉強は泥にまみれた生活から脱却する一本の頼みの綱だった。
江戸時代なら一生農村で暮らさなければならなかった才能が、学校のおかげで世に出ることができた。
子供たちは素直に「坂の上の雲」を信じたのである。
ただ、子供は立身出世の野心から学校に行ったわけではない。単に楽しかったから学校が好きだったのだ。
よく田舎のおじいさんが、「オレは貧乏だったから、上の学校へ通わせてもらえなかった。今の子供が羨ましい」とつぶやくのを耳にするが、彼らにとって、貧乏で学費が払えず立身出世を諦めざるを得なかった慙愧の念より、12〜13歳で楽しい学校から離れて働かされた悔しさの方が強いのかもしれない。
幼くして学校から離れることは、遊園地にたった1時間いただけで、親に「もう帰りましょうね」と冷たく告げられる子供のような、断腸の思いだったろう。
おじいさんは小学校を卒業したらすぐ働いて、凛々しい制服を着こなして中学校へ通う同級生の姿を横目に胸を痛めた。
学校へ行けば、過去の子供時代にもっと楽しい思いができたし、現在の境遇ももっと違ったものになっていただろうに、そんな憧憬の念を抱くのかもしれない。
とにかく昔の先生は威厳があって物知りで、学校は新鮮で楽しくて、しかも将来の夢を叶えてくれる素晴らしい場所だった。
もし、私の塾の生徒のおばあちゃんが、私の塾を昔の学校のイメージで見て下さっているのなら、それはとても嬉しいことだ。