猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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石原慎太郎・幻の廃刊本「スパルタ教育」
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    書店やネットには教育論があふれている。しかし教育心理学に基づいた「子供に優しい」ものが大半を占める。子供に対して下から目線で、封建的な上から目線の教育論は少ない。

    しかし、飲み屋で語られている「本音」の教育論は、かなり荒っぽいものである。たとえば「子供は少々殴ってもいい」「いじめられっ子より、いじめっ子に育てたいね」「うちは子供と酒を飲んでるぜ」といった、良心的な教育評論家に聞かせたら卒倒しそうな「本音」が酒の席では語られる。

     

    そんな教育に対する「本音」が、過激な扇情的な文章で、ズバリ書かれているベストセラーがある。1969年に出版された、石原慎太郎の「スパルタ教育」である。

    石原慎太郎は「太陽の季節」「NOと言える日本」「弟」と10年に1回は爆発的ベストセラーを出す作家であるが、「スパルタ教育」もその一つで、出版当時は70万部のベストセラーになった。

     

    しかし「スパルタ教育」は、2012年現在、廃刊のままである。なぜならここで書かれている教育論はあまりにも封建的・男尊女卑的で、現在の風潮から見れば非難を浴びることが必至だからである。

    だから、この「スパルタ教育」は稀少本であり、amazonでも高値で取引されている。

    とにかくこの本は、言葉の暴走族・石原慎太郎らしい過激さが詰まっている教育論である。まさに「THE 石原慎太郎」の教育論である。

     

    「スパルタ教育」は100の見出しから成り立っている。見出しには興味深いものが多い。

     

    10.父親は子どもを抱いてはならない

    15.親と子の食べものを平等にしない

    18.死者を、早いうちに子どもを見せろ

    20.不具者を指さしたら、なぐれ

    27.犯罪は、許せないが、仕方のないことだということを教えよ

    31.暴力の尊厳を教えよ

    39.子どもに酒を禁じるな

    42.浪費こそ最大の貯金であることを教えよ

    54.父に対するウラミを持たせろ

    50.友だちが一人もいないことをほめてやれ

    55.子どもの部屋は、足の踏み場がなくても整理するな

    56.親孝行する時間があるなら、自分のことをしろと教えよ

    57.子どもに塗り絵を与えるな

    61.親は、自分のいちばん軽蔑する人間の話をしろ

    75.よその子にケガをさせても、親があやまりにいくな

    81.先生をむやみに敬わせるな

    92.ボールを受けるときは、目を開かせろ

    100.父親は夭折することが理想である

     

    どの見出しも、「どんなことが書かれているのだろう」と、興味を引いてしまう。

     

    では「スパルタ教育」の内容を、一部抜粋しよう。

    まずは現代の目から見ても、まっとうな意見と思われるものから。

     

    17.子どもの可能性を信じるな

    世の親で、子どもに大きな期待をかけないものはない。しかしまた、子どもの可能性を信じすぎると、年経て親の味わう幻滅は大きくなり、その幻滅が親子の間によけいな亀裂を生じさせることにもなる。とくに世の父親というものは、男の子に関しては、母親にくらべて、大きな期待をかけ、彼自身が、その一生をかけて実現することができなかったことを、子どもに託す。(中略)

     いくばくかの可能性があっても、親が過剰な期待をすることで、子どもはむしろその可能性を殺されることがある。親はそれを知るべきである。

     

    46.子どもの不良性の芽をつむな 
     子どもに不良性があるということと、子どもが不良であるということとは、まったく違う。それを見きわめるのが親の義務であり、子どものほんとうの理解につながる。 (中略)

     子どもの不良性は、単に、それが反道徳ということで終わることもあるが、しかし同時に道徳をこえた既成の秩序、既成の価値への反逆をはぐくみ、従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事を、将来子どもがするための素地にもなる。 (中略) 
     子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれらを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない。 

     

    53.遊びを親が与えるな
     最近、子供のためのオモチャが、さまざまに粋を凝らし、数多く作り出され、親も半分見栄で、それを争って子供に買い与えるが、オモチャの複雑な機能を考えれば考えれるほど、子どもたちの遊戯の本能にマッチしないものが多いのに驚かされる。
     だから、子どもはすぐにその遊びを軽蔑してほうり出す。どんな精巧なオモチャ、たとえば本物の電話まがいのインターホーンだとか、トランシーバーだとかよりも、なんとなくカッコのいい一本の棒のほうが、子どもにとって、どれだけ遊戯の創造力を刺激し、彼らが単純なその素材をもとに、巧緻をきわめた複雑な遊びを考え出すかを親は知るべきである。(中略)
      最近つぎつぎにつくり出される手のこんだオモチャを見ると、それが子どものためよりも、むしろ子どもより創造力の劣るおとなのためのものでしかないという気がしてならない。
     子どもたちの遊びに、親が唯一与えるべきものは、ただ、時間と空間だけである。

     

    次に紹介するのは、男尊女卑的に解釈されそうなもの。  

    フェミニストがアレルギー反応を起こしそうな文章である。

     

    42.男の子に家事に参加させて、小さい人間にするな

     わたくしはかねてから、最大の親孝行は親に迷惑をかけることである、と信じているが、家事に関して親の負担にならぬ子どもなど、かわいいものではない。 (中略)

     ふつうの勤め人の家庭で、親が子どもに前掛けさせ、子どもを家事に精通した、家事のペットに仕立てることは、たぶんに親の趣味的なものであって、子どもを小さく育てることになりかねない。親と同じみそ汁を作り、同じオムレツを作り、同じ世才しか持たぬ子どもほど、意味のないものはない。

     もし子どもの手をどうしても借りなければ家事がまかなえないならば、それは親が家事に関しての能力がないのだといわざるをえない。


     

    11、父親は、子どものまえでも母親を叱ること

     ある場合、たとえ父親がいささかまちがっていても、子どものまえでは、その非を正しいものとして強引に通すくらいの力がなくてはならないと、少なくともわたくしは思う。

     たしかに人間対人間として、父親と母親は平等であるが、力ということからすれば、父親は母親より強いものでなくてはならず、父権は母権よりも、大きいものでなくてはならぬ。わたくしは父権と母権が均衡した家庭というものを理想とは考えない。いわば命令系統の一本化といえるし、父親と母親の子どもに対する愛情の形の違いから、そうすべきであるともいえる。

     


     次は、石原慎太郎が都知事のころ、アニメ・漫画のキャラクターを「非実在青少年」
    として不健全の基準に含める東京都の青少年育成条例改正案を出し、「日本の表現が窮屈になる」といった懸念が出て議論をよんだが、石原氏が40年の間に正反対の考え方に変わってしまったと、矛盾が指摘されそうな文章。

     

    25.本を、読んでよいものとわるいものに分けるな 
     活字というものは、そこに書かれた事物以外の想像力というものを人間に培ってくれる力を持っている。だから子どもがどんな本を読んでいようと、親は気にする必要はない。 (中略)
     
     確かに、その人間の生涯的な事業のきっかけが、なににあるかを知るものは神のみである。それゆえにも、人間の想像をこえた啓示のきっかけを埋蔵している本を、親がそのわずかな人生経験で、いい本、悪い本と分けて与えるのは、人間として僭越というものではないか。
     
     想像力というものは、現実にないものを考える力であって、そうした作業が、いったい現実にどんなささやかなものを触媒として行なわれるかは、だれにも想像がつかない。であるがゆえに、人間の想像力を培う糧である読書を、なにをもってよしとし、なにをもって悪とするかほど、根拠のないものはない。そのよしあしに、親が陳腐で通俗的な道徳をもちこむほど、子どもの大きな将来性をスポイルすることはない。 

     
     
    次は、まさに石原慎太郎らしい「直角・上から目線」な、封建的で好戦的な文章。

     

    14.他人の子どもでも叱れ

     わたくしはかつて自分の町で車を運転していたといに、いきなりノーブレーキで路地から自転車でとび出してきた子どもを、間一髪、はねそうになった。子どもは夢中でとび出してきたが、急ブレーキをかけて止まる自動車を見て、自分の過失に気がつき驚いた。

     わたくしはそのとき、すぐにその子を追いかけて引き止め、車からおりて、その子どもを叱責したが、子どもが知らん顔をして逃げようとするので、えりがみを引き止めてなぐった。そして、言ってわかる年ごろだったので、その子どもに、自分だけの道路でないことを大声で言いきかせた。ちょうどそのとき、気配に気がついて、その近くの魚屋で買物をしていた母親が驚いてとんできたので、わたくしは見知らぬ親子を並べて叱りとばした。

     

    34.いじめっ子に育てよ

     人生はしょせん戦いである。そして、その戦いはどんなに幼くても、子どもの時代から始まっている。ならば、子どもといえども、その戦いに勝たなくてはならぬ。

     子どもの世界に、いじめっ子といじめられっ子があるならば、わが子を遠い将来、人生に勝ちをおさめる一人前以上の人間に仕立てるためには、まずいじめっ子になれと教えるべきである。(中略)

     わたしは自分の好みとしても、自分の子どもがだれかにいじめられるよりは、だれかをいじめるほうを好む。そしてまた同時に、いじめっ子である自分の座が、ある場合、自分より強い相手によって、容易にくつがえされうることを教え、自戒させている。(中略)

     男は世に出た戦場で、絶対に勝たなくてはならぬ。そのための有形無形の準備を、子どものときから築いていくことが、どうしてまちがいであろうか。

      

    60.子どもに、戦争は悪いことだと教えるな

     わたくしは戦争を罪悪だとは思わない。戦争を罪悪とし、平和を美徳とする価値観は、戦後急速にできあがったものでしかなく、わずか数十年前には、ドイツの歴史学者トライチュケとか、カントのような哲学者は、民族戦争を最高の美徳であると説いていたし、またそうした哲学、歴史学が、いまなお崇高な人間の心の財産に数えられている。(中略)

    坂本竜馬の手紙のなかに「世界の人民いかにせばみな殺しにならんと工夫すべし。胸中にその勢いあれば、天下に振うものなり。」という恐ろしい一節があるが、これは、単純明快に争いごとというものが、人間にいかに勢いを与え、知恵を与えるかということを証している。

    戦争の本質がなんであり、平和の本質がなんであるかもわからぬうちに、子どもにむかって、やたらに戦争を罪悪と教え、平和を美徳と教えることに、わたくしは疑問を感じる。

     
     
     
    最後に、石原慎太郎の小説家としてのアナーキーな感性を見せつける「トンデモ本」と解釈されてもおかしくはない箇所。

     

    45.一人しか子どもをつくらないなら、子どもをつくるな

     一人っ子の家庭が非常にふえている。わたくしは、子どもを一人しかつくらないなら、むしろ、まったくつくらないほうが、なにより子どものためによいと思う。

     画一化された生活様式のなかで、各家庭に自動車一台、子ども一人というのは、子どもそのものの意味が、親にとって自動車なみの、せいぜいペットの意味しか持たないような気がしてならない。もちろん、親は一人っ子であるがゆえに、いっそう愛情を感じているのではあろうが、しかし、子に対する愛情を、ほんとうに子どものためになる形で注ごうとするならば、一人っ子になんとしても、きょうだいを与えなくてはならない。(中略)

    親が、子どもにきょうだいを与えぬことは、一人も子どもをつくらないと同じほどの、人間としての怠慢、義務不履行といえる。(中略)

    きょうだいというものは、親が決して与えることができぬものを、互いに与え合うということを、親は知らなくてはならない。

     

    32.母親は、子どものオチンチンの成長を讃えよ

     男の子どもたちがだんだん成長し、思春期にかかり、性器が幼年から少年、少年から青年に形を変えてくると、おおかたの母親は、わたくしの家もそうだが、妙にテレ、気持ち悪がって、父親にもたれて、そのテレくささをごまかそうとするが、これは意味のない羞恥でしかない。

     自分の生んだ子どもが、たとえ性が異なろうと、成熟していく過程を、母親もまたその手で、たくましさを増していく子どもの部分に触れて確かめ、その成長を讃えてやるべきである。


     

    「スパルタ教育」は、体制主義者なのか無政府主義者なのか、封建的家父長なのか反抗的青少年なのかわからない石原慎太郎の体臭がプンプンする本で、石原好きにはたまらない本だが、石原嫌いは直ちに白ポストに入れたくなるような、石原慎太郎の「原液」が詰まった本である。

    ところで、古典には「暴言」が多い。現在の書き手なら「弱者」に対する遠慮で躊躇して書けないことまで大胆に言い放つ。いまの書き手は、書いちゃいけない一定の境界線があり、なかなかそこを踏み越えられない。古典は自己規制枠が無い。自由奔放に言葉が踊り、読者を想定しない才能の自慰行為が素晴らしい。
    古典を読んでいると、あまりの大胆な物言いに2秒ぐらい「はっ」となる瞬間があり、その後大笑いしてしまうような、心地良い場面に出くわす。それは和洋中いずれの古典にもいえることで、マキャベリの「君主論」なんぞは権力者の大暴言集で、共感するかしないかは別として読んで爽快である。
    「スパルタ教育」にも、賛否両論、いや否定的意見の方が多いことは確かだが、禁断の古典本を読んでいるような罪悪感と刺激がある。


    なお「スパルタ教育」の裏表紙には、三島由紀夫が推薦文を書いている。昭和44年。三島が自決する一年前のことである。
     
    三島由紀夫の推薦文の後半を抜粋する。

     若者たちもまた、心の奥底で「強く美しい父」を求めながら、反抗している。大学教授たちは大半「強く醜き父」だから軽蔑されるのである。石原氏はその点、父親を説き、強い男らしい子を育てる教育を説くのに最適任の人である。太陽族の先祖のように言われながら、氏がじつはよき家庭人であることはきこえている。スパルタは戦士を育てることを家庭教育の主眼とした男性的国家であった。

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