猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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授業破壊願望
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    授業という形態が、子供にものを教えるうえで果たして最上の方法なのか、私は常に疑い続けている。

    10年前、授業という形式への疑いが最も大きかったとき、塾で授業を全くしなかったことがある。今思うと短絡的だという謗りを免れないが、授業が子供の自主性を妨げる元凶だと考えた時期があったのだ。
    授業をやめてしまえば子供は戸惑う。戸惑うことが積極的な学習姿勢の習得につながるのではないか?
    子供の積極的な自主勉強は、授業という既成の枠を取り払った所から生まれるのではないか?

    たとえば中学生や高校生は、朝8時から夕方4時まで延々と授業を受けている。よく集中力が続くなと感心して聞くと、どうやら授業時間の半分以上は中学生なら友人と騒いだり、また高校生なら眠ったりぼっとしたり、内職したり漫画や本を読んだりしていると答える子が多い。ひどい授業になると、クラスの3分の2は眠っているらしい。
    子供を長時間拘束して、先生はつまらない授業を垂れ流す。それならば自習させて質問を受け付ける方式にするなり、或いは公文式のように習得度別のプリントを配って添削するなり、方法は多種多様なバリエーションで考えられるだろうと思う。
    なぜだか授業という形式に固執し安住し、授業という形式にとらわれている割には授業力の向上への工夫が見られない態度に対して、私は不可思議なものを感じていた。学校の先生は自分の授業で眠っている子供を目にしていながら、「授業」という形式を疑ったことはないのだろうか?

    ということで、我が塾では、授業という形式を実験的に破壊してみようか、そういう悪戯心が芽生えたのだ。
    授業をしないことに決めた私は、塾でどんな教科をやってもいいことにした。何も指示しないのだ。しかし皆、予想していた通りというか、自分の得意教科を中心に勉強する。
    「社会はもういいよ、お前できるんだから」「うん」しかし子供は30分後にはまた社会をやっている。
    悪いことに授業をやめて自主勉強を始めだしてから、子供は未習の新しい分野に手をつけようとはしない。
    たとえば電流、オームの法則。学校のカリキュラムではもうそろそろ登場するのに、どの子も怖がってオームの法則に積極的に手をつけようとしない。参考書や問題集に書かれている回路を見ただけで毛嫌いしてしまう。

    私は、未習の分野の征服には、自主勉強は極めて悪い学習方法だと気が付いた。子供にとってはじめて習う分野は、本による「目学問」より、講師が口で手取り足取り説明する「耳学問」が必要なのだ。
    試験前などの「まとめ」や「暗記」が必要な時期には自主勉強は極めて効率的だ。習った分野を自分で蒸し返し、記憶を定着させるには自主勉強は最高の手段だと思う。
    だけど、新しく習う分野は、講師が先頭に立って授業をして、講師が先頭に立って壁をぶち破ってやらなければ、ほとんどの子供は新分野を習得することができない。まだ習っていない分野を「予習」できる子は、一握りの人間だという事実に改めて気づいた。

    しかし、それでも私は自主学習にこだわった。私は子供にやるべき分野だけは指示するようにした
    「今日はオームの法則です。それ以外はやらないように」と指示する。
    そして、「わからないところは持って来なさい」と言うと、子供が持ってくる場所はほぼ同じ。同じ事を個人別に何度も紙に書いて説明する効率の悪さ。
    しかも勉強が苦手な子は、全く質問をしにこない。
    こちらから尋ねてみると、
    「わかる?」「わかる」
    「大丈夫?」「大丈夫」
    しかし全然大丈夫ではない。
    正直な子は、「オームの法則わかる?」「ぜんぜんわかりません」と言った。
    「わからない場所がわかる」ことが、学力がある特定のレベルに達した子にしかできない芸当であることを再認識した。

    さらに、授業をやらないと子供同士の競争心が薄れる。切磋琢磨できずに、刺激がない。おまけに授業がなければ塾が陰気になってしまい活気が薄れてしまう。
    子供の活発な発言や、講師が精一杯張り上げる声が消えてしまうことが、塾からいかに活力を奪ってしまうか。競りの掛け声のない魚市場のような陰陰滅滅たる塾は私の好みではない。 

    私は結局我慢しきれず、荒々しく教材を刷って、オームの法則の授業をやった。
    私が「たまには授業、やるか?」と誘うと、子供も待っていましたとばかり、「やろうやろう」と応える。そして私が、「じゃあ授業聞きたい人だけ、あっちの部屋に行こう」と誘うと、全員ついてきた。
    その授業の楽しかったこと。子供は文字通り身を乗り出して私の話を聞いていた。
    子供と会話のキャッチボールをしながら、子供の頭に電流の回路を論理的に構築してゆく快感。授業が持つ祝祭的な空間を久々に味わう喜び。
    この自然発生的な授業は、まるでサウナの後の焼けて乾いた喉に、冷たい生ビールをぶっかけるような快感を味わせてくれた。
    授業という形式が、いかに効率的で理にかなったものか、再認識したわけで、結局私の「授業をやらない」実験は1ヶ月で終った。

    授業は、講師という絶対的な存在を際立たせるものだ。講師が座っている子供を前にして「1人だけ立っている」ことの強い効果。
    私は授業を否定した、しかし授業に変わる新しい形式を作ることができなかった。そして授業という形式の素晴らしさを再認識した。この実験は、手垢の付いた授業というマンネリな形式を、新鮮なものへと変えた。


     
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