猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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私のブログの書き方
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    偏見かもしれないが、主婦の方のブログに面白いものは非常に少ない。ブログは主婦の方にとって、井戸端会議ツールなのだろう。

     

    ブログではないが、うちの母親も75歳の老主婦だが、私には興味のない話ばかりしてくる。

    「スーパーで、下着が安かったから2つ買ってきたの」
    「お友達の吉田さんと、水曜日島根県の有福温泉に行くの」
    「山内惠介そんなに歌は上手じゃないけど、顔がハンサムで一生懸命歌うから好き」
    「きょう村岡さんから、こんなにたくさんお花もらったの。きれいだから床の間に飾っておくわね」
    「このお皿素敵でしょ。ちょっと高かったのよ。刺身がおいしそうに見えるでしょ?」

    塾から疲れて帰って、この手の話につき合うのは忍耐力がいる。私にはババアの下着も山内惠介も全く興味がない。

     

    もしこんなうちの母親がブログを始めたら、目も当てられないほどつまらないブログになるだろう。

    主婦の方のブログは、他人が興味あるかないか選別することなしに、思ったことを垂れ流して書いてしまう。誰もが山内惠介に興味があるわけではないのだ。

     

    ところで、私自身がブログを書くとき留意している点は4つある。

    第1は接続詞の使い方。文章を一気に読者の方に見ていただくには、接続詞を操りパラグラフを繋ぎあわさなければならない。接続詞という連結器が故障すれば、文章はバラバラになってしまう。

     

    良い文章は、読者を文章の世界に沈没させる。読者は文字を意識せず、ブログの筆者が創作した空想世界に誘われる。だからこそ、接続詞を1つ間違えでもしたら、読者をわれに返らせてしまう。そうなったら負けだ。

    文章は川のように流れていなければならない。接続詞を間違えればダムのように文章の流れをせき止めてしまう。

     

    ときどき、わざと接続詞を使わないで、文章をギクシャクさせる「破調」の手法を使うこともあるが、基本的に接続詞には神経質になる。一度書いた文章を推敲するときも、最後までこだわるのが接続詞である。 

    自分の文章がもし試験の問題文に使われたとして、出題者が私の文章で接続詞の問題を作ったとしてもきっちり対応できるように、慎重に接続詞を選ばなければならない。

     

    第2は読点の打ち方。読点の打ち方が、文章を書く上で一番難しい。

    実は私は、自分の文章が上手く書けているかどうか、読点の数で自己判断している。

    気力体力がみなぎり、集中して書いている時は読点が少ない。文章の肺活量が多く、3〜4行を読点なしに息つぎなしに書けてしまう。読点が少ない文章には、勢いよく噴出したマグマのような、ハラハラした躍動感がある。 

    お恥ずかしい話だが、他人を攻撃する時の文章が、最も読点が少ない息が長い文章になる。怒りと興奮で一気呵成に文章が仕上がる。そんな攻撃的な気分の時は、蛇のように長い言葉の羅列を、敵の口に食らわすような快感を覚える。最高に論理的な文章は、感情的な時こそ書けるのだ。
     

    逆に身体がだるくキーを打つ手が止まり、脳味噌が枯れている時は必然的に読点が多くなる。読点が多いとき、文章を書くことがしんどいなと意識する。点だらけの文章は、書き手の疲労を物語っている。 

    ただし、読点が多い文章は、決して悪い文ではない。むしろ読者の心をつかむには、読点を多くした方が良い場合がある。

    読者を説得するための文章、読者の心に私の考えをストンと落とし込みたい時には、読点を意図して多くする。

    読点が多いブツブツした断続的な文章からは「詩的」な余韻が生まれ、ふだん無口な人が心を振り絞って語るみたいな朴訥さが伝わる。
     

    読点が少ないと能弁に、読点が多いと訥弁に、緩急をうまく織りまぜると文章に説得力が生まれる。読点の使い方で、文章に「動と静」のメリハリがつくのだ。

    第3は、「200字に1度、面白いことを書く」ということだ。

    これは映画監督兼エッセイストだった、故伊丹十三が残してくれた教訓であり、伊丹は「映画もエッセイもぼんやりしてたら観客や読者が逃げる。だから映画なら3分に1回、エッセイなら200字に1回は刺激を与えないとダメだ」みたいなことを書いていた。

     

    ブログの文章は私の場合原稿用紙3枚ぐらい、字数にすると1200字ぐらいだろうか。ということは1つのブログで6回は気の利いたことを書かねばならぬということになる。

    「面白いこと」とはもちろんギャグではなく(ギャグもあるが)、意外な情報や事実とか、比喩や修辞、また話の意外な展開の仕方も「面白いこと」の範疇に入る。

    私の場合は文中にわざと「唐突に現われる意外な人名・固有名詞」を出す。くどくて下品な手法だが、これも一種の芸風だと思って頻繁に使っている。

     

    ブログの1日分の日記は、小説に比べて非常に短い。だから「刺激的」に書くことが求められ、同時に「刺激的」に書くことが許される。

    ブログはフラッシュのように、一瞬にして読者に刺激を与えなければならない。だから過剰さこそがブログの命になる。だから、どぎつい唐突な修辞法は大きな効果をもたらす。
    もちろん刺激が強すぎて、読者を我に返らせてはならない。文章の流れを阻まないように、比喩や修辞は繊細に使わなければならない。あくまで文章の流れが主で、面白くするための比喩や修辞は従である。
    村上春樹も初期の『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』では比喩がふんだんにちりばめられていたが、最近の作品では比喩が減っている。比喩の感性で読者を刺激するより、ストーリーの流れを重視する路線に切り替えたからだろう。

    というわけで、私は大学受験の「小論文の書き方」とは逆の方法で、生徒に教える正統的な論文の書き方とは別のやり方でブログを書いている。

     

    第4は「主婦のブログになるな」という戒めである。

    私は私小説があまり好きではない。よほど才能がある人でなければ私小説は許されない。第三者にものを伝えるには、「自分の書くことなんかつまらない」という前提が必要だ。相手にどう見せるか、その気遣いがなければよいブログは書けない。
    思ったことをそのまま書いてもダメなのだ。

     

    たとえば映画で雨をそのままカメラで撮っても、雨粒はクッキリ写らない。スタッフが上から大量の水を撒いて、光を当ててはじめてフィルムに雨粒が刻まれる。黒澤明のモノクロ映画『羅生門』では冒頭のシーンは豪雨で始まるが、この豪雨が異常に迫力があるのは、消防車から大量にまかれる水に墨汁を混ぜたからだ。

    雨粒をそのまま映してもフィルムに写らないように、自分の経験をそのまま語っても面白くない。文章には「墨汁」を仕込むことが必要なのである。

     

    以心伝心の「あうん」では絶対に伝わらない。第三者に言葉を伝える時は、最大限の気配りが必要なのである。純文学の路線を進むならそれも許せるが。

     

    以上、私がブログを書く時に気をつかっていることである。

     

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