猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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「叱るな、怒れ!」
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    教育書を読んでいると、子供に対して感情をぶつけて「怒る」ことはよくないから、理性的に諭すように「叱れ」と書いてある本が多い。
    これって、本当だろうか?
    私の経験則から言えば、感情を思い切りぶつけたほうが、問題の解決につながるケースのほうが多い。

    「怒る」が本音爆発なら、「叱る」は演技だ。
    子供は大人の演技を簡単に見抜く。教師が演じる下手な芝居を冷ややかに見つめる。

    たとえば、教育書に「子供を怒ってはいけません。叱りましょう」と書いてある。真面目な若い先生はこれを真に受け、実践しようとする。
    でも、真面目な若い先生は、「怒る」演技と「叱る」演技を使い分けることなんて、できるのだろうか?

    さらに教育書には、
    「子供を叱るときは理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせましょう。「怒り」の感情は生の姿で出してはいけません。理性をもって「叱る」演技をしましょう」
    と続けて書いてある。

    私は一応、学生時代に自主映画の俳優を経験したが、「理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせて叱る」などという器用な演技など絶対にできない。
    そんな数学的で精緻な演技ができるのは、若手俳優では蜷川幸雄の弟子の藤原竜也や長谷川博己など、一部の俳優だけである。
    真面目な若い先生に複雑な演技を求めてはならぬ。

    あと、よく教育書には
    「子供に注意するときは、『ほめる:叱る』の比は、9:1にしましょう。9ほめて1叱るのが、丁度いいバランスです」
    などと書いてある。
    それって、難しくないか?
    わざわざ「黒田君は今9回ほめました、次は1回叱る番です」と教師が数えるのか? 
    何故そんな面倒くさい演技をしなければならないのか?

    良いところが全然ない子供をほめるのは、ただの嘘つきである。
    子供の側からしても、根拠がないのに一方的にほめられたら屈辱だろうし、また嘘のほめ言葉で調子に乗ってもらったら困る。

    ほめたくないのに人をほめると、奇妙なことになる。
    たとえば、小学校の先生は子供に、終わりのHRで「みんな、友達の良い点を書きましょう」と紙を渡すことがある。
    先生が配った紙には、「黒田君、高橋君、嶋さん、新井さん」と名前が羅列してあり、渡された子供は、黒田君・・・頼りになる、高橋君・・・怒ると怖い、嶋さん・・・努力家、新井君・・・ひょうきん、とほめ言葉を書いてゆく。
    先生は紙を回収し、集計して子供に渡す。
    「勉強ができる」「話がおもしろい」「本読みがじょうず」「ドッジボールがうまい」と書かれた子は嬉しいだろう。

    でもほめる所があまり見つからなくて、「給食を食べるのがはやい」「消しゴムがカワイイ」「鼻にほくろがある」「学校のトイレによく行く」「家が金持ち」などと、無理して捻り出したようなビミョーなほめ言葉を羅列されたら、馬鹿にされてるように感じるだろう。
    だから、私は意識して子どもをほめない。心にもないほめ言葉をかけて、誤爆して傷つけたら子供がかわいそうだ。

    もし子供が、私からほめられたと感じたならば、それは私が子供の前で客観的な評価を口走っただけであって、演技してイヤイヤ無理してほめたわけではない。

    結論。
    ほめる所などないのに、子供をほめてはならない。
    白々しい演技のほめ言葉を、子供はあっさり見破る。
    また、ほめ言葉のインフレは良くない。
    なぜなら日常的にほめていたら、子供が本当にほめられるような事をした時、本心からほめることができないからだ。

    さて、教師は生徒に対して、自分に自信があったら怒れるはずである。
    たとえば授業中に生徒が話を聞いていない。そこで教師が「自分の話を聞いた方が、この子は得をして賢くなる。将来の糧になる」と圧倒的な自信があったなら、教師は「聞け!」と一喝できる。
    自分の話の中身に自信がないのに「聞け!」と怒鳴り上げることはできない。

    また教師は、子供を怒ってしまうと、子供に嫌われてしまうんじゃないかという怖れを抱く。
    たとえば、生徒とは今までうまくやってきた。仲がいい。でも生徒と馴れ合いの関係になっているのも事実だ。そんな生徒が今教師たる自分の前で甘え、怒らねばならぬ行動をしている。
    どうしよう、怒ったら嫌われる。
    「いい先生」でなくなってしまう。
    子供と自分の関係に、ひびが入るのではないか? 

    でも私なら、子供に嫌われてもいいじゃん、と思う。
    教師にとって、自分が好かれることと、生徒が立派な人間になることと、どっちが大事か?
    子供のことを本気で心配すれば、自分が嫌われるかどうかなんて些細な問題ではないか。
    自分の体面より生徒の将来が大事なら、子供が規範から外れ、怠惰な行為をしていた時、ガツンと言えばいいじゃないか。
    怒れないのは、生徒より自分の方がかわいいからである。「いい先生」なんて言われたら、教師としては敗北だ。

    生徒の方も、怒鳴られて「イヤな先生だな」と一時は思ったとしても、賢明な子なら、いずれは自分を誰が一番大事に思っているか、動物的本能でわかるはずである。
    子供は、誰についていったら自分が向上するか、得をするか絶対にわかるはずである。

    理性的に叱れ、感情的に怒るな、と言う。
    でも、「感情」という言葉は、「彼女の演奏には感情がこもっている」「彼の作文は感情性が豊かだ」という具合に使えば、プラスの意味になる。
    「感情性」はプラスの意味だが、「感情的」はマイナスの意味だ。だったら「感情性」をもって怒ればいいではないか。
    「感情」の「感」は「感じやすい」、「情」は「情け深い」という意味に他ならない。「感情的」になれるのは、感じやすく情け深い人間だからである。

    感情的になって、自分の思いを生徒にぶつけてもいいじゃないか。真に「感じやすく」「情け深い」人間は、激怒して錯乱しても、出てくる言葉は人の心を打つ。
    感情的になった人が吐く言葉はゲロのような暴言とは限らない。子供の感情を昂ぶらせる金言になることだってあるのだ。
    感情的に腹から声を出せ。「叱る」という小手先の声では、子供の心は動かせない。


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