2008.05.08 Thursday
「読書嫌い」は「人嫌い」
読書好きの人間は、内向的で人嫌いなイメージがある。
人づきあいを遮断して書斎に引きこもり、本に熱中する陰気なヤツだと思われがちだ。
まあ私なんかその典型だが、ただ「読書好きは人嫌い」と短絡的にイメージされるのは違う気がする。
読書好きの人間は、動的で外面的な話し言葉ではなく、静的で内面的な書き言葉への嗜好性が強いだけであって、決して「人嫌い」ではない。
本は広い意味で「人」である。というか「人」そのものである。もっと言えば「人」の中核=コアである。
本には筆者の渾身の力が込められている。本1冊書くのには膨大な時間がかかる。また出版に際しては、神経が磨り減るような煩雑さと、巨大なパワーが必要だ。
本は筆者が、自分の一番良い部分、一番深い部分を全知全能を賭けてアピールした媒体に他ならない。
筆者は、話し言葉で表現するには躊躇するような深い内面を文字にぶつける。筆者は本を書くことによって、自らの裸身をさらす。
攻守ところを変え、読者の側から見れば、読書とは筆者が内面をさらけ出す真剣勝負に立ち会うことでもある。
そんな、1人の人間が思い切って世に問うた、暑苦しいまでの自己主張の塊を、好んで積極的に読み耽る読書家が、どうして「人嫌い」であろうか。
そういえば小林秀雄は「読書について」で、作家の全集を読むことを薦めたあとで、こう語っている。
僕は理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。
読者は本を通じて、筆者のコアな部分と接する。それを小林秀雄は、読者と筆者が「手を握る」行為であると表現している。
とするなら、読書家とはラブラブのカップルみたいに、本の筆者とルンルン手を握るのを好む人間ということになり、そんな密接な人間関係を求める人を「人嫌い」呼ばわりするのは語弊がある。
読書好きな人は「人嫌い」どころか、むしろ人恋しいから、日常の人間関係では収まらないディープな人間関係を求めているから、本を読むのである。
逆説的に言えば、読書嫌いの人こそ「人嫌い」と言えないだろうか。
本屋には何冊もの本が並んでいる。本とは「人」に他ならない。しかし本嫌いの人は、本にあまり興味を示さない。
読書嫌いの人は、「人」に対して不感症か、暑苦しいディープな人間関係を忌避するか、あるいは読書に慣れていないで、読書を通じた人間同士のまぐわいの快楽を知らない人なのかもしれない。
いずれにせよ、読書を避け、古今東西の名著をシカトするのは、もったいない。
女性の生肌に接すると、女性の何たるかがある程度理解できたような気になるが、それと同じように読書の深みにはまると、人間の見方が大きく変革したような気分になる。
人づきあいを遮断して書斎に引きこもり、本に熱中する陰気なヤツだと思われがちだ。
まあ私なんかその典型だが、ただ「読書好きは人嫌い」と短絡的にイメージされるのは違う気がする。
読書好きの人間は、動的で外面的な話し言葉ではなく、静的で内面的な書き言葉への嗜好性が強いだけであって、決して「人嫌い」ではない。
本は広い意味で「人」である。というか「人」そのものである。もっと言えば「人」の中核=コアである。
本には筆者の渾身の力が込められている。本1冊書くのには膨大な時間がかかる。また出版に際しては、神経が磨り減るような煩雑さと、巨大なパワーが必要だ。
本は筆者が、自分の一番良い部分、一番深い部分を全知全能を賭けてアピールした媒体に他ならない。
筆者は、話し言葉で表現するには躊躇するような深い内面を文字にぶつける。筆者は本を書くことによって、自らの裸身をさらす。
攻守ところを変え、読者の側から見れば、読書とは筆者が内面をさらけ出す真剣勝負に立ち会うことでもある。
そんな、1人の人間が思い切って世に問うた、暑苦しいまでの自己主張の塊を、好んで積極的に読み耽る読書家が、どうして「人嫌い」であろうか。
そういえば小林秀雄は「読書について」で、作家の全集を読むことを薦めたあとで、こう語っている。
僕は理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。
読者は本を通じて、筆者のコアな部分と接する。それを小林秀雄は、読者と筆者が「手を握る」行為であると表現している。
とするなら、読書家とはラブラブのカップルみたいに、本の筆者とルンルン手を握るのを好む人間ということになり、そんな密接な人間関係を求める人を「人嫌い」呼ばわりするのは語弊がある。
読書好きな人は「人嫌い」どころか、むしろ人恋しいから、日常の人間関係では収まらないディープな人間関係を求めているから、本を読むのである。
逆説的に言えば、読書嫌いの人こそ「人嫌い」と言えないだろうか。
本屋には何冊もの本が並んでいる。本とは「人」に他ならない。しかし本嫌いの人は、本にあまり興味を示さない。
読書嫌いの人は、「人」に対して不感症か、暑苦しいディープな人間関係を忌避するか、あるいは読書に慣れていないで、読書を通じた人間同士のまぐわいの快楽を知らない人なのかもしれない。
いずれにせよ、読書を避け、古今東西の名著をシカトするのは、もったいない。
女性の生肌に接すると、女性の何たるかがある程度理解できたような気になるが、それと同じように読書の深みにはまると、人間の見方が大きく変革したような気分になる。