猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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学歴社会はなくならない
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    学歴社会が日本では消えつつあると耳にする機会が多い。確かにそうかもしれぬ。
    韓国の受験戦争の熱狂ぶりを見ていると、「昔の日本もそうだったな。韓国もそこまで頑張らなくてもよかろうに」と隣国の受験に対する熱さに唖然とする。
    たしかに資源がなく面積が狭い小国の痛々しさが、韓国の受験戦争の熱狂に滲み出ているのは理解できるが、どこか不健全な異常性を感じてしまう。熱狂に異常性を感じるということは、私のどこかが冷めているからなのだろう。

    かつての日本もバブル期をピークに受験が大衆化し、誰も彼もが受験に邁進していた。受験熱もどんどん下がってきたような気がする。

    しかし私の塾の周辺はそんな風潮どこ吹く風で、相変わらず受験戦争は熱を帯びている。
    ただ、私も20代の頃は桶狭間の織田信長のように先頭に立ち闇雲に受験に立ち向かっていたけれど、最近は受験を俯瞰視しているというか、少し離れた距離から「山は動かぬぞ」と冷静になれるようになってきた。

    私は故あって、受験前に落ち着いて振舞えるように自己改造してきたのだ。昔のように「○○君が落ちたら、オレは死ぬ」なんていった悲壮感を表に出さないように努めてきた。そのため、ここ2〜3年「最近の先生は大人しくなった」「物足りない」と保護者の方やOBによく言われる。

    かつての私が目を血走らせ髪を振り乱しながら信者を引きずりまわす学歴教の狂的伝道者なら、今では柔和な表情をたたえた優しい神父さんである。
    しかし、子供を洗脳して学歴社会の渦中に放り込んでいることには変わりがない。今の方が一見柔和な分子供には逃げ道がなく、タチが悪いのかもしれない。
    私の態度は洗練されてきたが、熱意は若い頃より強くなっている。

    ところで、学歴社会が無くなるかと聞かれたら、私は絶対になくならないと思う。それは「高学歴者の青春の怨念」が日本社会には存在するからだ。

    高学歴を得た人間には、同世代の若者よりも、自分は若い時代に努力し苦労してきたと考えている人間が多い。
    他の奴らが小学中学高校時代に女やスポーツや音楽や映画や煙草やゲームに没頭してパラダイスを貪っていた時に、俺たちは家でシコシコ勉強してきた、親の言いなりになり、偏差値で自分の無力さを思いっきり突きつけられ、神経をすり減らすストレスに絶えず遭遇し、それでも前向きに頑張ってきた、そんな風に自分の青春時代を「暗黒」と捉えることが、「暗黒」な青春を送っていない同世代の低学歴層に対する差別意識と軽蔑感を助長する。

    若い時代に遊びまくり、好きなことを楽しんできた人間には、高学歴の自分と同じポジジョンには絶対について欲しくない。若い時の努力でやっと勝ち得た「階級」に、遊び人のキリギリスどもには無神経に立ち入ってもらいたくない。それが高学歴者の本音だろう。就職試験とはそんな高学歴者の排他性が露骨に表れる場である。

    しかし、高学歴の人間が、自分は人一倍努力している人間だと自己規定するのは少々事実と反するだろう。確かに学歴の高い人間は、机の前に座って勉強してきた時間は長い。

    ただ彼らが勉強する努力が継続できたのは、人より忍耐強かったわけではなく、人より記憶力や理解力が優れていたからに他ならない。勉強ができない子にとって3時間勉強することは富士山に登るぐらいの苦痛だが、できる子にとっては近所の山に登るくらいの負担しかない。天賦の才能が継続的な努力を可能にしたのだ。

    ところが大部分の高学歴の者は、「お前はもともと頭がよかったから難関大学に合格できたんだ」と言われるより、「雨の日も風の日もお前は人一倍努力した」と見なされた方が嬉しい。才能よりも努力が評価された方が気持ちがいい。
    だから高学歴の者は自分の高学歴を才能ではなく努力が成し得た物だと「勘違い」し、自分を天才ではなく努力家だとみなし、そんな「勘違い」が学歴の低い人に対して努力不足の自堕落な人間というレッテルを貼ることにつながる。

    学歴にしかすがれない奴は弱い奴なのかもしれぬ。
    確かに学歴は、才能異能を持たない人間が真面目さと忍耐力で勝負するよすがである。

    将棋の米長邦雄は「兄は才能が無いから東大に入ったが、私は才能があったから将士になった」という意味のことをかつて話していたが、こんな格好いいことを豪語できる米長氏みたいな才能を持つ人は超少数派で、世の中には学歴を勲章にしなければ生きてゆけない弱者の方が多い。

    ところが、強者よりも弱者の方が世の中には圧倒的に多い。膨大な数の高学歴の「弱者」が官僚や一流企業の経営者になって、「学閥」という徒党を組み日本社会を牛耳っている。弱者の群れはイナゴの大群のように強大になっている。

    あと、いい大人が年を経ても学歴に拘るのは心が狭いからなのかもしれない。しかし心が狭い人間ほど執着力が強く陰湿になる。能力のある学歴の無い人は、学歴を持つ人たちの静かなジェラシーの亡霊に包まれ、静かに葬り去られる。
    高学歴の人達で成り立っている組織の中に、低学歴の者が入り込もうとする時、高学歴の者は露骨に足を引っ張るのではなく、「ここはお前の来るところじゃない」と笑いながら拒絶する。

    とにかく、高学歴の人間が自分の学歴を否定し、低学歴で若い時分に「遊んできた」人間が自分と同等に扱われることは、少年青年期の苦闘を否定することである。高い学歴で勝ち得た社会的ポジションを捨て去ることはできるわけがない。勉強しなかった奴は俺の前に跪け、というわけだ。
    学歴に固執する人達が日本の官僚や一流企業にひしめいている以上、学歴社会がリセットされ、別の価値観がのさばることは、今のところ強い外圧以外には考えられない。

    では、私の立場はどうなのか。私は塾稼業を10数年やってきて、子供の学歴を少しでも高くする手助けをしてきた。
    子供の力を伸ばすには刺激のある空間が必要だ。時には厳しく子供に当たらなければならない。私の一見理不尽な怒りに腹を立てた子もいるだろう。

    しかし聡明な子は私の怒気と辛辣を含んだ言葉を愛情と解釈してくれた。学歴をゲットするために私と子供との壮絶とは言わないまでも、本気でぶつかり合う戦いがあった。
    だから今学歴社会が消え去ってしまうことは、私と子供の長い間の苦闘を踏みにじるものである。子供が必死で勝ち得た既得権をリセットすることは私には許せない。
    学歴社会を死守したいという気持ちが、私の心の中に強く横たわっている。
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