2007.03.17 Saturday
「真の国語力」ってあるの?
私が中1の時、「国語」の英訳が"Japanese" だと聞き、「え、これでいいの?」と驚いた記憶がある。
英語習いたての中学生のくせに、生意気にも「国語」に対応するにふさわしい、もっと重厚な訳語が用意されていると考えたのである。「英語」ならEnglishでいいが、「国語」の英訳がJapaneseじゃあ拍子抜けしてしまう。Japaneseは「国語」ではなく「日本語」じゃないかと、漠然とした違和感を持った。
「国語」という言葉には、桐箱に入れて神棚に置いてあるような、深い意味を奥底に秘めた語感がある。
でもJapaneseを「日本語」と訳してしまえば、世界に数千ある言語の1つにすぎなくなり、神秘性が消失する。
柔道を"judo"、武士を"samurai"、寿司を"sushi"としか表現できないように、「国語」は英訳しても"kokugo"としか表記できない、日本固有の単語のようなイメージが強かった。
そんな「国語」という言葉の持つ根拠のない神秘性と、「真の国語力」という言葉が発生する事情には、共通点があるのだろうか。
たとえば国語のテストで50点しか得点できなかった生徒が、90点の生徒に向かって「オレは点数取れないけど、真の国語力があるからね」と、うそぶく事を許容する土壌はあるのかもしれない。
国語50点の生徒は読書好きで、家には子どもの頃から集めた蔵書がたくさんある。そんな蔵書をバックボーンに「オレには真の国語力がある」と開き直られたら、「国語」という言葉が持つ意味のない神秘性に呪縛された人の中には、思わず納得してしまう人もいるだろう。
しかし数学で50点の生徒が90点の生徒に「オレには真の数学力がある」と言ったら、確実に笑い者になる。誰の耳にも言い訳にしか聞こえない。
「真の数学力」という言葉は滑稽極まりないが、逆に「真の国語力」には何かしら意味を感じてしまうのは、数学力が容易に数値化でき、得点が絶対的な判断基準を示すのに反して、国語力を判断するには数値以外の基準が存在するという幻想があるからに他ならない。
では「真の国語力」は、本当に幻想なのか?
英語習いたての中学生のくせに、生意気にも「国語」に対応するにふさわしい、もっと重厚な訳語が用意されていると考えたのである。「英語」ならEnglishでいいが、「国語」の英訳がJapaneseじゃあ拍子抜けしてしまう。Japaneseは「国語」ではなく「日本語」じゃないかと、漠然とした違和感を持った。
「国語」という言葉には、桐箱に入れて神棚に置いてあるような、深い意味を奥底に秘めた語感がある。
でもJapaneseを「日本語」と訳してしまえば、世界に数千ある言語の1つにすぎなくなり、神秘性が消失する。
柔道を"judo"、武士を"samurai"、寿司を"sushi"としか表現できないように、「国語」は英訳しても"kokugo"としか表記できない、日本固有の単語のようなイメージが強かった。
そんな「国語」という言葉の持つ根拠のない神秘性と、「真の国語力」という言葉が発生する事情には、共通点があるのだろうか。
たとえば国語のテストで50点しか得点できなかった生徒が、90点の生徒に向かって「オレは点数取れないけど、真の国語力があるからね」と、うそぶく事を許容する土壌はあるのかもしれない。
国語50点の生徒は読書好きで、家には子どもの頃から集めた蔵書がたくさんある。そんな蔵書をバックボーンに「オレには真の国語力がある」と開き直られたら、「国語」という言葉が持つ意味のない神秘性に呪縛された人の中には、思わず納得してしまう人もいるだろう。
しかし数学で50点の生徒が90点の生徒に「オレには真の数学力がある」と言ったら、確実に笑い者になる。誰の耳にも言い訳にしか聞こえない。
「真の数学力」という言葉は滑稽極まりないが、逆に「真の国語力」には何かしら意味を感じてしまうのは、数学力が容易に数値化でき、得点が絶対的な判断基準を示すのに反して、国語力を判断するには数値以外の基準が存在するという幻想があるからに他ならない。
では「真の国語力」は、本当に幻想なのか?