私はブログを開始する時、書評をたくさん書こうと思った。書評だけでブログを埋め尽くしてもいいとも考えた。
ところが書評は難しい。
書評を名乗るからには、書評を読んだ人が「この本読んでみようかな」と思うものが書きたい。書評は釣り餌のようなもので、いかに読者という魚を釣るか、書く人の文章力が試される。
面白い書評を書いて、自分が出会った素晴らしい本の読者を増やしたい、本から得た快楽を1人でも多くの人に分かち合いたい、という願望がある。
しかし時には逆転現象で、評論の方が実際の本よりも面白いケースがよくある。
ジャズ評論家に寺島靖国さんという方がいるが、この人がCDを紹介する文章は自由闊達で面白い。CD評を読めばたちまち紹介されたジャズのCDを買いたくなる。
ところが評論に釣られて購入して聴くと、寺島さんの文章ほど演奏が良くないことが多い。
「辛口でもなく甘口でもない、ほどよい旨口ジャズに仕上がった演奏」と絶妙な文章で評されていたCDを買ってみると、イマイチ胸がときめかない。
そんな場合は、ゴージャスな評論という釣り餌に騙されたような気になる。
また他人を作品を通して自分を語る行為、すなわち評論なのに自己の思いの吐露になってしまうのも考え物だ。
小林秀雄なんか、本居宣長もランボーもゴッホにせよ、誰を題材にしても結局小林秀雄自身を語ってしまう。彼の場合一流の小説家や芸術家に負けない才気があるので面白いからいいのだが、素人が一流の作品と格闘して中途半端に自己を語った文章はやりきれない。
かといって自己を語らず視点が客観的すぎて、ただ粗筋のような文章を羅列するのもつまらない。
文庫本の裏表紙には必ず本の内容の要約が編集者の手によって250字くらいで書かれているが、そんな文庫本の裏表紙的な書評も、わざわざブログに書くに値しない。
もうすでに私が書評する本を読んだ人相手なら楽しく書ける。共通の知人の話で盛り上がるようなものだ。ただ、まだ本を読んでない人に対して、本を紹介する文章は難しい。相手がその本に対して無関心な状態から語らなければならないから、興味を持ってもらうのに骨が折れる。
結局書評は書く側のスタンスが決まらず、キーを叩く手が止まったままで、書評はなかなか書けずにいる。
さて、この書評を書く際の難渋さは、小学生時代の読書感想文を書く時の苦しみによく似ている。書評も読書感想文も言い方は違うが同じことだ。
私は読書感想文が嫌いだった。書評を書く時には、小学生の時読書感想文が書けなかった軽いトラウマを思い出してしまう。
読書感想文の課題を出されて、原稿用紙2枚ならまだ何とかなるが、原稿用紙5枚書けと言われたら、砂漠で地平線に浮かぶ蜃気楼を見る時の様に途方に暮れた。
原稿用紙5枚ともなると、もはや粗筋をなぞるしか紙を埋める術がない。本当に感動した本を読むと、言葉は短く単純になるものだ。
かつて小泉首相が貴乃花が怪我を押して優勝した時「感動した」と一言述べて、首相は文弱だのワンフレーズでしか感想が言えない男だの非難されたが、「感動した」と一言しか語れなかった首相の心理はよくわかる。ましてや小学生が、感動した本について原稿用紙5枚書くのは難しい。
そういえば中学1年生の時、国語の先生から夏休みに3冊本を読めと言われた。井上靖「夏草冬濤」、山口瞳「けっぱり先生」、そして「サローヤン短編集」だった。
夏休みが終わって最初の国語の時間、先生から読書感想文を書けというお達しがあるものと想像していたら、国語の先生は「3冊の中でどれが面白かったか多数決を取るね」と、多数決を取っただけで読書感想文を書くことを要求しなかった。何て粋な先生だろうと私は思った。
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