2022年3月10日。
京大工学部情報学科の合格発表の日。
発表時間は正午。受験生本人がスマホで合否を確認するシステムだ。
結果がわかりしだい、シンタから電話連絡がくる手はずになっていた。
合格発表数日前から、私は緊張で頭がおかしくなりそうだった。
身体の平衡感覚がなくなり、講堂がギクシャクし、自分の身体が自分のものでないような気分だった。
シンタは本番で、数学を6問中5問、完全に解いた。十分合格ラインだ。
ただ、5完したといっても、何が起こるかわからない。解答欄を間違えて書いているかもしれない。本番ができたものだから、気持ちは守りに入り、合格発表はかえって緊張する。
私の悲観主義は最悪の事態への想像力をマックスにまで高めた。
塾講師の仕事で、合格発表ほど嫌な日はない。合格発表の恐怖を少しでも軽減しようと、余裕で合格できるように成績を伸ばそうと知恵を傾けてきたが、本番のできが良かったことでかえって緊迫感は増した。
私とシンタには逃げ道がない。
狂ったように受験に打ち込んでいると周囲に公言してきた。
また、学歴なんかどうでもいいとか、偏差値なんか意味がないとか、逃げ道はいっさい封じた。保険はいっさい掛けていない。
京大現役合格あるのみという、唯一無二の価値観で突っ走ってきた。
呼吸が整わない。動機が収まらない。心拍数は上がる一方だ。
私でもこんなに緊張しているのに、シンタの重荷はどれほどのものか。
私が難関大学受験という修羅の道に誘わなければ、こんな息苦しい思いをさせることはなかったのに。
シンタには「普通の京大生になるな」と言い続けてきたが、この期に及んでは、合格最低点でもいいから受かってほしかった。
シンタには7年間、勉強の大事さを説いてきた。彼も私を信じて、必死に頑張ってきた。
シンタは私の戦略に忠実に従ってくれた。
小6からいっしょに勉強し、高1からの猛勉強、高3で丸坊主、共通テストすら捨てさせた。
シンタが不合格になったら、私はどう彼に詫びればいいのだろう。
どう責任を取ればいいのだろう。
私はシンタに「俺に任せろ、絶対に合格させる」と言った。
もし不合格になったら、私は嘘つきだ。
私は試験数カ月前、シンタに「お前がもし不合格だったら、不合格のマイナスをすべてプラスに変えるような言葉を、お前にかける。失敗してもポジティブになれる言葉で、精一杯励ます」と豪語した。
だが、そんな言葉など浮かぶはずなどない。
シンタが不合格だったら、二重の意味で嘘つきになる。
3月10日合格発表の朝、私は落ち着きを失い、塾で黙って座ってられなくなった。
サッカー元日本代表監督のオシム氏は、PK戦のときはグラウンドを正視できず、監督室に逃げていたという。私にもオシム氏の気持ちがわかった。
結果を知りたくない、聞きたくない、結果を知るのが怖い。
いてもたっていられず、塾を出て、電車とバスを乗り継いで鞆の浦へ行った。
鞆の浦は観光地で、かつて坂本龍馬の「いろは丸」が停泊し、宮崎駿の「崖の下のポニョ」の舞台になったと言われる地域である。
海の近くにいたら、少しは心が安静に保てると考えたからだ。
鞆の浦でバスを降りて、私は古い民家が立ち並ぶ区域を抜け、人気のない海岸まで歩いた。
あまり人里離れた場所に行くと電波が届かないので、神経質に電波を確認した。
海岸でそわそわしながら、正午になるのを待った。
正午。合格発表の時間だ。
シンタはスマホで合否を確認しているころだ。
12時2分。シンタはもう結果を多分知っている。
12時3分、12時4分、私のiPhoneは無言のままだ。
電波はしっかり届いている。連絡が来ない。
12時10分になっても連絡がない。
電波のアンテナは立っているが、実は電波が届いていないのだろうか?
私は確認のため時報の117番に電話した。
きちんと時報が鳴っていた。電波は届いている。
時報なんか聞かずとも、シンタに直接私の方から連絡すればいいのに、勇気がなかった。
シンタはたぶん、不合格なのだ。
いまお父さんお母さんと、家族会議の真っただ中だ。
家族でシンタを慰めている。シンタは私に結果を知らせたくても、連絡する手が重いのだろう。
シンタが不合格になったと知れば、私が落胆することは、シンタは理解している。
だが、シンタは不合格でも、すぐに連絡するタイプの男だ。
不合格になっても、毅然と「不合格でした」と連絡してくる人間だ。
では、なんで連絡がないんだ。
シンタはいつでも時間厳守だった。
塾でも授業時間に自転車を飛ばして定時に来る。京大合格発表という肝心な日に、時間を守らないなんてありえない。
いや、シンタは合格しているのかもしれない。
シンタは合格を知ったあと、お父さんお母さんと喜びを分かち合い、親戚に連絡し、高校の先生、数学の塾の先生に連絡している。
そのあとが私だ。
実は、シンタは私に一番に合格連絡をしてくれると自惚れていた。
私はシンタにとって絶対的な存在だと、どこかで思っていたのだ。
しかしそれは私の傲慢だ。私はシンタの栄光を助けた、ワンオブゼムにしかすぎない。
ただの縁の下の力持ちなのだ。
だが、縁の下の力持ちでいい。連絡が十番目でも百番目でもいい、絶対に合格してほしい。
もう、どうにでもなれ。
頭の中がゴチャゴチャになりながら、シンタからの連絡を待った。
12時13分、ついに私のiPhoneが震えた。
私の手も震えた。
電話を取った、シンタの声だった。
「京大の情報、合格しました!」
「おめでとう!よかったな!」
不合格だったら、どんな言葉をかけようと頭が逡巡していただろうが、合格した時の言葉はシンプルだった。
シンタは続けた。
「先生はいまどこにいらっしゃるのですか? 塾に来たんですけど、いらっしゃらなくて」
シンタは合格発表の後、自転車を思いっきり飛ばして、私の塾に来ていたのだ。
合格発表から13分も遅く連絡してきたのは、私に電話ではなく、直接会って合格を伝えるため、自転車を猛スピードで走らせてきたからだった。
いつものように、家から塾へ商店街を抜けて。
シンタはスマホで合否を確認したらすぐに家を飛び出し、私に京大生になった姿を見せようと、まっすぐに駆けてきたのだ。
「合格でも不合格でも、電話ではなく、先生に直接会ってお伝えしようと、最初から決めていました。」
シンタはサプライズを仕掛けてきた。私はシンタが直接合格を知らせに来るだなんて、想像すらしていなかった。
シンタは切れ長の目の、理知的な理系男子のような顔をして、まるで倉本聰のドラマに出てくる少年みたいな、純朴で熱い行動をした。
「先生はいまどこにいらっしゃるのですか?」
「塾にいるのが怖くて、鞆の浦に逃げてるんだよ。」
そのあと、シンタといろいろ話をした。
電話の最後に、私は聞いた。
「うれしいだろ?」
「うれしいです!」
私がシンタを厳しい大学受験の世界に引きずりこんだのも、この最高の一瞬を味合わせたかったからだ。合格の瞬間、一生長持ちする自信が備わる。
シンタの暗黒の青春時代は、最後に、輝かしい結果で終わった。
電話を切った。
切った瞬間私は、「よっしゃあ!」と叫んだ。
幸い、そこは誰もいない海岸だったので、遠慮なく大声で叫ぶことができた。
おめでとう、シンタ。
(つづく)
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シンタは幼い時からピアノを習っている。
ピアノは普通、小学生か遅くても中学生になったらやめると相場が決まっているが、シンタは高校生になってもピアノを続けていた。
小学校から高校まで、シンタは学校で式や発表会があると、決まってピアノを弾く作業に駆り出された。だから、シンタと同じ学校で面識のない子にも、シンタは「ピアノの人」として有名である。
高2の12月、シンタが通うピアノ教室の発表会があるので、向島の近代的なホールに見に行った。
シンタの発表会に参加する他の奏者は、小学生の女の子がほとんどで、女の子たちはドレスを着飾っていた。シンタだけ学生服姿の高校生男子で、思いっきり浮いていた。
シンタはベートーヴェンのピアノソナタ「テンペスト」の第三楽章を弾いた。
むかし大映ドラマ『赤い激流』で水谷豊が「毎朝ピアノコンクール」の決勝で弾いていた曲だ。
シンタは繊細な指使いで弾ききった。彼はこんなにピアノがうまいのか。
あれだけ狂ったように受験勉強していながら、裏ではピアノの練習も欠かしていない。かなりハードな練習をしないと、あれだけのピアノは弾けない。
勉強もピアノも一切手を抜かないシンタ。ピアノの演奏にシンタの継続性の凄みがにじみ出ていた。
二曲目は、モーツァルトのピアノ連弾曲を、若い女性の先生といっしょに軽快に弾いていた。
ピアノ教室の他の子どもたち、そしてその保護者の方々が、シンタのピアノに聴き入っていた。
ピアノを続けていると、こんなにうまくなれるんだよという、見本のショーケースみたいだった。シンタは塾でもピアノ教室でも、まわりの生徒たちのよい手本になっている。
あるピアノ教室の生徒の保護者の方から、シンタは「東京芸大をめざせばいいのに」と言われたという。
シンタは髪を少し伸ばし長髪気味だったので、雰囲気がほんの少しだけ、昔のドラマ『ロングバケーション』の木村拓哉みたいだった。
彼は大学に入って、女性をピアノの腕で口説くのだろうか。
シンタは「ピアノの王子」の空気を醸し出していた。
■受験一年前から頭を坊主に
ピアノ発表会から1ヶ月後、高2の1月、共通テストまで1年。
いよいよシンタも受験生である。
気分一新、私はシンタに頭を坊主にしろと命じた。
しかも1年間ずっと丸坊主。まるで昭和のスパルタ塾「入江塾」みたいである。
ブラック塾とかパワハラ塾長とか言われても、返す言葉がない。
高1の9月にシンタを誘う時に、「高3になったら気合で頭を坊主にしろ」と言った。
坊主で、シンタの本気度を試した。
シンタは即座に「やります」とうなずいた。
塾に復帰したら坊主頭にしなければならないのに、シンタは塾に帰ってきた。
この男には強い覚悟がある。
私の出身校である開成高校は、高3の5月の運動会が終わると、負けたチームの高3は頭を五厘刈りにする。ここから開成高校は受験モードに突入するのだ。
シンタにも開成に負けない意気を見せてほしかった。
またアメフトの強豪校関西学院大学は五厘刈りだし、バレエやバスケの強豪校は坊主だ。
私は、将来楽しみな若者は、若い時に厳しい修業の時期が必要だと考える、古い思想の持ち主である。
青春時代の一時期、見た目は気にせず修業して、長い人生へのエネルギーをため、まわりに何を言われても、我が道を進む強さを鍛えることが必要だと、私は考えている。
変なプライドを捨て、受験に青春をつぎ込む。坊主という髪型は、ストイックなシンタこそ、ふさわしいと考えた。
私は「時代に合った教育」という言葉が嫌いである。
今では学校も塾も、クレームや苦情に神経質になり、厳しさを前面に出すことが少ない。
生徒はお客さんで、まるで江戸時代の凡庸な殿様お嬢さまを育てるようなやり方が横行している。
現代日本の「時代に合った教育」とは、弱い人間を作る教育である。
だからシンタには時代に逆行して、「強い男」になってほしいし、彼にはその素養が十分にある。
坊主は前時代的で批判され、最近は野球部も坊主ではない。
だがシンタには古めかしい、クラシックな良さがある。彼は昭和を超え、明治の男のような空気を醸し出している。どんな時代にも生き残るのは、古典的なシンタのような男だ。
あえて頭を丸めることで、シンタの古典的な良さを引き出したい。時代に逆行すると見せかけながら、時代を切り開く男に育って欲しかった。
また、大学受験は、本番一年前から状況が変化する。
高1・高2までの模試は、地方の課題が多い進学校の子が結構上位を占めている。
しかし高3になると、中学受験以来五年間遊んでいた、中間一貫校の才能ある子が本気になり追い上げてくる。彼らは数学の図形や文章題、国語の読解力を中学受験で鍛えられているからポテンシャルが高い。
シンタは高1からスタートダッシュをかましている。だが、ここで油断しては貯金は底をつき、負けてしまう可能性がある。
京大には北野高校や東大寺高校や洛南高校など、京阪神の精鋭が挑む。彼らが本気を出してくる。彼らに負けさせないため、気を緩めず再び引き締めるため頭を丸めた。
シンタは本能的にわかっている。たかが断髪だが、髪を切る強い覚悟が、さらに「高み」につながることを。
結局のところ、私がシンタに「坊主にしろ」と命じたのは、言いかえれば
「俺が合格させるから、頭丸めてついてこい!」
という強く熱いメッセージである。
男気の世界なのだ。
だが正直、坊主はきつい。
芸能界を見ても、十代の男の子が「カッコいい」と思う坊主のタレントは少ない。
クロちゃん、バイきんぐ小峠、千鳥大悟、ハライチ澤部、あばれる君、U字工事の益子、鬼越トマホーク坂井、ハナコの岡部、くっきー、モグライダーともしげ、コットンのきょん、どぶろっく江口、ハリウッドザコシショウ、それにナダルなど、個性派キワモノ芸人どころか、嫌われ芸人すらいる。
シンタも心の中で、坊主には強い葛藤があるに違いない。
でも新年1月1日、シンタの頭を私が容赦なくバリカンで刈った。
長さは五厘。一番短い坊主である。
中途半端は嫌なので、一番短くした。
シンタには坊主の経験はなく、バリカンすら使ったことがなかった。
たった5分でシンタの長い髪はなくなり、頭は地肌が見え真っ白になった。
頭を刈る方も狂っているが、刈られる方も狂っている。
一瞬のうちに「ピアノの王子」が「永平寺の禅僧」に変身した。
シンタは勉強ができる。高校や普通の塾だったら、「できる子」として大事に扱われ、神棚に置かれるだろう。優等生だとちやほやされるだろう。
でもうちの塾では、厳しく鍛えられ、頭を坊主にまで刈られている。「できる子」に対する扱いではない。
そんな冷たい仕打ちにシンタは耐えた。
高校では、友人からいじられれるだろう。頭を触られまくるだろう。
でもクラスメイトの10人に1人の勉強意識が高い子は、シンタに敬意を抱くと思う。
受験勉強にここまでやる奴がいるのかと。自分も負けていられないと闘志に火が付くに決まっている。
シンタの坊主頭はライバルの意識を高め、クラス全体の意識が高まることで、シンタの意識はさらに高まる。私はそれを狙った。
その後、1か月ごとに散髪した。高3の1年間、シンタはずっと坊主頭だった。
頭を刈る時はシンタに「この頭で戦ってこい」「お前はすごい男だな」「誰にも負けんじゃねえぞ」などと言葉をかけた。
シンタはいつも、神妙な面持ちで刈られていた。
シンタが坊主頭になった姿を見て、塾は空気が凍った。
シンタは後輩たちから、真面目な先輩だと一目置かれている。そんな先輩の髪がない。
シンタは若き高僧のような威圧感があった。シンタが勉強していると、大伽藍の禅寺のような静粛が広がった。
坊主なんて自分にはできない。やりすぎだ。恥ずかしい。そう考える子は塾を去る。
でも去る子ほどまともなのだ。
でも私はシンタの坊主頭に感化され、「俺も受験生になったら死ぬ気で猛勉強してやる!」と、野心をむき出しにする「狂気」のある子に塾に残ってほしいのだ。
私は、「こいつは根性ある」と見込んだ後輩の塾生を、シンタの隣か真正面で勉強させた。
本気の大学受験勉強とはこういうものだと、強い残像として目に焼き付くだろう。
シンタの存在で「凛」とした空気の純度が100%になった。
坊主にして、駿台模試の成績も上がった。
坊主前の高2・10月の駿台模試では、
英語64.9・数学62.3・国語49.5・総合61.9
だったが、坊主にして一カ月たった1月の駿台模試では
英語72.1・数学63.2・国語62.7・総合69.9
まで上がった。
判定も京大情報C判定からA判定、髪を切った執念が実った。
シンタは性格面でも変わった。
坊主頭になって、おとなしく育ちのいいお坊ちゃまから、旧制高校のバンカラな生徒のような、大胆な面を見せるようになった。
高校の学園祭では、『ドラゴン桜』の桜木を演じた。
シンタは坊主なのでamazonでカツラを買い、熱演したそうだ。
そして劇の最後にはカツラを放り投げて、丸坊主頭をさらしたという。
観客は大喝采。
売れてない頃の綾小路きみまろが漫談中に、「今日は暑いですねえ」とカツラを外したという。きみまろに負けない身を捨てたエンターテイメントだ。
シンタは「まじめくん」の殻から抜け、豪放磊落で質実剛健な、面白い男に変身した。
■シンタの猛勉強をネットで公開した理由
シンタが坊主にして猛勉強する姿を、私はtwitterで公開した。
普通はこんなことしない。
ネット社会で、賛否両論が沸き起こる行為である。
だが私は、シンタの猛勉強の足跡を世間に広め、いろんな人に評価してもらいかった。
よく、経過と結果、どちらが大事かという議論になる。
私は結果を重視する。経過を評価してくれとは、甘えだと思う。
経過とは所詮、結果が出ない人間の言い訳ではないか。
しかしシンタの京大に向けて勉強する経過は格が違った。
気難しく、他人のことなど無関心な私の心を震わせ、驚嘆するくらい本気なのだ。
これは世間に広くアピールしなければならない、そう思った。
シンタが京大合格したら、京大生という固定した結果が残る。
だが、私はシンタの勉強の経過が、不合格になることで雲霧解消し、消えてしまうのが嫌だった。
シンタの猛勉強の経過を、現在進行形で形にして残したかった。
「シンタ君京大合格!」という結果だけでシンタを語られたくない。
シンタに限って経過は結果よりはるかに価値があるものだった。
だから私はシンタの経過を文章に固定し、twitterに日記のように記した。
また、、シンタの坊主頭の勉強姿をネットで公開したのは、シンタに重圧を与えるためだ。
重圧を与え、強い男にするためだ。
シンタが坊主で京大めざして頑張っているとネットで書けば、シンタが合格するかしないか、読者は興味をもって注視するだろう。
そういう意味では、シンタは小室圭さんと同じ立場だった。
坊主にしてまで不合格になったら、恥ずかしい。シンタに重圧がかかる。
でも私は、シンタが将来大きな仕事を任され、周囲の眼からプレッシャーを与えられた時の予行演習を、高校生のうちに経験させたい意図があった。
シンタは将来、万人監視の重圧の中、有言実行できる強い男になるだろう。
観客席で傍観する人間ではなくプレイヤーに、行動せず批判する人間ではなく、行動して批判される男になるだろう。
その日のための訓練を、高校時代にさせたかった。
■私の「狂気」を上回ったシンタ
私がシンタと大学受験の勉強を始める前、私の執念が、シンタを潰してしまうことを恐れた。
大学受験において、親や先生が、当の本人より受験に熱中してはならない。
だが、シンタの京大合格への執念は、私の執念を上回っていた。
大学受験の指導において、これまで私は桶狭間の時の織田信長のように、先頭に立って馬を走らせてきた。
しかし後ろを見ると、誰もついてこないケースが多かった。
私の狂気が、受験生を上回っていたのだ。
シンタはどうか?
私についてきているのか?
馬上から後ろを振り向いて、確かめた。
シンタの姿はなかった。
ところが、前を見ると、シンタは私の遥か先を走っていた。
私の本気より、シンタの本気が勝っていた。
私はシンタに負けた。
シンタは京大に向けて、狂ったように勉強していた。
シンタは休憩時間が異常に短い。
2時間ぐらいぶっ通しで勉強したあと「休憩しようよ」と声をかけると、シンタは水筒からお茶を飲む。
シンタの休憩は、たったそれだけ。お茶を飲んだらすぐ勉強開始。
まるで、走行中のマラソン選手が給水所で水を飲む姿と同じだった。
またシンタには感情の揺れがない。
いつも同じペースを崩さず勉強する。
静粛に、座禅を組む時のような平常心で勉強している。
サボっている瞬間がいっさいない。
私はシンタがあくびをするのを見たことがない。
おまけに、シンタから「頑張ります」という言葉は、いっさい聞いたことがない。
シンタは「頑張ります」なんて言わない。
言わなくとも、いつも頑張っている。
顔に「頑張っています」と書いてある。
シンタは言葉でなく実践の男だ。
「頑張ります」なんて馬鹿でも怠け者でも言える。生徒の表面的な嘘くさい言葉には騙されず、生徒を行動でしか評価しない私が、シンタを気に入るのは当然だ。
ある日、いつものようにシンタの頭をバリカンで刈っていた。
しかし、バリカンの刃がシンタの頭皮のニキビに当たり、少しだけ血がにじみ出た。
私は「大丈夫か?」と聞いた。
シンタは「大丈夫です」と、そのまま勉強を続けた。
高校生の男の子は髪型を気にする年ごろだ。しかしシンタは剃られた白い頭に、血をにじませたまま、数学と格闘していた。
シンタは十七歳の、普通の高校生ではなかった。
私はシンタが京大に不合格になったら、腹を切らねばならないと思った。
(つづく)
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シンタは商店街の端から端まで、相変わらず自転車を猛スピードで飛ばしてやってきた。
シンタは高校生になっても、小学生から同じ自転車に乗っていた。
賢い子はモノを大事に使う。
ただ、自転車はシンタの長身には小さすぎて前傾姿勢になり、しかもシンタの自転車をこぐスピードが異常に速いので、商店街を競輪選手が突っ走るような状態になり、とても目立っていた。
シンタが通う高校は、真面目な子が揃う。制服が濃い紺色で、着ると誰もが生徒会の風紀委員に見える。シンタはその中でも極めつけに真面目な男だ。
シンタは真面目で物静かな風貌でありながら、暴走族のようなスピードで自転車を走らせる。そのアンバランスが面白かった。
ところで、私は悲観主義である。怖がりである。
シンタが不合格になった時のことを何度も考えた。
シンタが不合格になったらどうしよう?
不合格になる要素は何だろう?
数学で大きなミスをすることと、英作文ではないか?
京大の英作文はご存じの通り難しい。
英作文がネックになるのではないか?
危機感が募った。
京大英作文は、こんな問題だ。
2012 ?(1)
人間の性格は見かけよりも複雑なので、相手のことが完全に分かることなどあるはずがない。とは言うものの、初対面の人物とほんの少し言葉を交わしただけで、その人とまるで何十年も前からつきあいがあったかのような錯覚に陥ることがある。こうしたある種の誤解が、時として長い友情のきっかけになったりもする。
2013 ?(2)
南半球を旅行していた時に、見慣れない星々が奇妙な形を夜空に描いているのを目にした。こうした星座のなかには、航海に必要な器具や熱帯に住む動物の名前が付けられたものがある。星座の名前に由来について、私には正確な知識がないが、何百年か前の船乗りたちが何を大切にし、何に驚いていたのか、その一端がうかがわれる。
京大は、「彼女は疲れすぎていて食べられない」みたいな、瞬時に英作文できるような、頭を使わない問題は絶対に出ない。
最新鋭の自動翻訳機でも珍妙な訳しかできない難問である。
京大の英作文は、のんびり高3の夏から始めたら、追いつけない可能性がある。
ましてや共通テストの後、たった1カ月で対策できるほど甘くない。
高1から英作文慣れしていないと書けない問題だ。
英作文こそフライング気味で取りかかって、長期作戦で教えなければならない。
ただ、中3から高校文法を習っているシンタでも、いきなり京大英作文の過去問を解くのは困難だ。
英文和訳は過去問から入るトップダウンの頂上作戦を取ったが、英作文は基礎から積み上げるボトムアップ方式で攻略する策を採用した。
高3になると数学理科に比重を置かねばならない。高2のうちに英語はめどを立てておきたかった。
■英作文は「竹岡教」を信仰
最初の一冊には、竹岡広信の『ドラゴンイングリッシュ』を使った。
竹岡氏はNHK「プロフェッショナル」に登場し、漫画『ドラゴン桜』のモデルになった人である。
竹岡氏の本は読みやすい。文章がいい。
良い参考書の作者は、決まって名文家である。
文体が堅苦しくなく、かといって実況中継系の本にありがちな気色悪い「おじさん構文」ではなく、知的でくだけた文章である。
『ドラゴンイングリッシュ』は、「そそる」英作文の例文が100個集められている。
固い日本語をいかに柔らかく、簡単な単語を使った表現にするかに、気が配られている。
たとえば、
「不老不死は人間の夢である」を、
“People wish they could live forever and never get older.”
とか訳しているのを見たら、知的な受験生は「カッコいい」と感じるだろう。
英作文のダンディズムは、中学で習うような単語をできるだけ使って、漢語の多い硬い表現ができるかにある。『ドラゴンイングリッシュ』は英作文のダンディズムを啓蒙してくれる本だ。
焼肉屋での最初のタン塩が、胃を活性化させ食欲を増強させるように、『ドラゴンイングリッシュ』の例文は知的好奇心を喚起し、英作文の勉強の起爆剤になる。
英文解釈の要所が『ポレポレ』に詰まっているように、『ドラゴンイングリッシュ』は英作文を書く作法が凝縮されている。
シンタには『ドラゴンイングリッシュ』を熟読してもらい、例文を繰り返し暗記させた。
『ドラゴンイングリッシュ』を一通り終わらせたあと、分厚い『竹岡広信の英作文』に移った。
この本、量がすごい。これをやったら英作文は大丈夫だという安心感がある。
『ドラゴンイングリッシュ』から『竹岡広信の英作文』のラインで、京大英作文は、駿台予備学校で京大クラスの講座がある、竹岡広信氏に任せてしまう作戦だ。
竹岡氏は高い指導力で生徒から信頼され、一部からは「竹岡教」と呼ばれるが、シンタも英作文というジャンルにおいては、竹岡教の信者になった。
だが時には「竹岡教」から離脱して、Z会の『必修編 英作文のトレーニング』を一通りやって、そのあと大矢復氏の「大矢教」に宗旨を変え、『大矢の英作文実況中継』や『英作文ハイパートレーニング 和文英訳編』をつまんだ。たまには異教徒になるのも大事である。
複数の英作文を用いて基礎を固めながら、京大英作文の過去問に備えた。
■過去問〜英作文だけでなく安全策で穴埋めも
シンタが高2になったころから、満を持して京大英作文の過去問をはじめた。
やり方は、
英作文を辞書なしでシンタが解く。
添削する。
解答を見る。
というありきたりの手順である。
しかし私は「解答を見る」段階にこだわった。
解答は赤本(教学社)、青本(駿台予備学校)、金本(小倉弘の『京大入試に学ぶ 英文和訳の技術』)の3冊を見比べた。
京大の英作文は難解で、当然のことながら3冊とも解答が違う。
ある本が模範解答として挙げた表現を、他の本はNGな言い方だと、逆のことが書いてある。
3冊見比べて、比較対照するのは結構楽しい。
英作文過去問の解答は、一人の先生の解答だけに頼っていないで、セカンドオピニオン、サードオピニオンが大事だと思う。
しかし、ただ見比べるだけではいけない。
解答を眺めるだけでは流し読みになる危険性があり、かといって解答を丸暗記するのは時間がかかって非効率だ。
解答にじっくり取り組み、頭に刻むため、赤本の解答をシンタに見せたあと、青本と金本の模範解答から、私が穴埋めプリントを作って、シンタに埋めてもらった。
穴埋めにすると、クイズみたいで刺激になる。
穴埋めで、英作文の一つの日本語フレーズに対応して、いろんな英語表現があることを知れば、表現のバリエーションが豊かになる。
非常に丁寧に教えたので、京大英作文は一問につき、約2時間かかった。
英作文模範解答穴埋めプリントは、過去問だけでなく、『竹岡広信の英作文』や『英作文のトレーニング』でも作った。
模範解答穴埋めは、英作文の初心者にとって、自転車の補助輪のような役割をする。
「解答見といてね〜」と無責任に放置しても力はつかない。
英作文模範解答穴埋め作戦は、われながら成功したと思う。
■英作文を磨く決定的な凄い本
さて、ここで英作文がさらに正確に書ける本を紹介する。
学参界の究極の英作文本だ。
「金本」と同じ、小倉弘著『例解 和文英訳教本 文法矯正編』である。
この本は、本当に素晴らしかった。
英作文の勉強をやってると、「なぜ? どうしてこうなるの?」と疑問の連続になる。
どうしてこういう表現が正しいのか、納得できない場面に出くわす。
たいていの参考書は説明が足りないので「こういうものなのね」と機械的に暗記するしかない。
もっと奥まで突っ込んで説明してほしいとイライラする。
英作文について、隔靴掻痒、痒い所に手が届く参考書が、この『例解 和文英訳教本 文法矯正編』という赤い表紙の本である。
たとえば本書は、こんな疑問に答えてくれる。
「There is構文はなぜ存在するのか?」
「なぜput it onの語順になるのか?」
「太陽・月・海・風にはなぜtheがつくのか?」
「When節は文末か文頭か?」
「go to schoolはなぜ無冠詞か?」
「なぜI don’t think that SVなのか?」
「主語にWeよりYouが好まれるのはなぜ?」
といった英作文を勉強していて浮かぶ素朴な疑問を、鮮やかに説明してくれる。
特に、旧情報と新情報をこれだけ詳しく書いた本は、高校岳さんの世界ではあまりお目にかからない。
私見だが、この『例解 和文英訳教本 文法矯正編』は、英作文学習の最初に使うより、ある程度英作文に慣れてから使った方がいい。
英作文の上級者の方が、目からうろこの落ち具合が大きく、この本の価値がわかるのだ。
たとえば、カルロス=クライバーという指揮者がいた。
彼は気難しく、レパートリーが狭く、残されたレコードも少なく、コンサートもたまにしかやらず、しかもキャンセル魔だが、演奏会はもう素晴らしく、残されたレコードは神がかり的で、カリスマ性の権化のような人である。
クラシック界の大スターだった。
ただクライバーの演奏は、クラシックに慣れていない人が聞いても素晴らしいが、ある程度年季の入ったファンの方が価値がわかる。
他の指揮者と違いテンポに微妙に前のめり感があり、高揚感と疾走感と躍動感がすごい。
クライバーの後で他の指揮者を聞くと、どこか鈍重に感じてしまうのだ。
『例解 和文英訳教本 文法矯正編』も、英作文学習の最後の締めで使うと、ありがたみがわかる。
この本は英作文のルールブックのようなもので、この本の読まないと、間違った英文を間違いだと気づかないまま我流の英作文になり、高得点を取れない可能性がある。
読了したあと「いままで僕が書いた英作文はアバウトすぎた」と後悔させる。
シンタも「この本いいですね」とつぶやいていた。
自分が勧めた本が教え子にほめられると、嬉しいものである。
シンタの英作文の力は、高2の終わりにはもう、合格ラインに近づいていた。
高3での駿台京大模試、河合塾の京大オープンでは、英語は和訳も英作文を高い点数を取り続けた。
小学生時代は中学受験をせず、また中学生時代は高校受験を無視して英語を先取りするという、いわゆる「できる子」がたどるコースとは別の独自の道を進むことで、京大入試への盤石な英語力が鍛え上げられたのである。
小中学校の英語先取りを土台にして、高校になったら日曜日潰して猛勉強し、1年間のアドバンテージを作り上げた。
シンタとは、マンツーマンで英語国語の添削をしまくった。
便箋と200字詰めの原稿用紙が、またたくまに消費された。
シンタが解く。添削する。延々とそれの繰り返し。
Z会の100倍以上の量で、郵送でタイムラグがあるZ会と違って、瞬時に添削した。
書けば書くほど、シンタは京大に近づいていった。
(つづく)
]]>京大入試は英単語暗記合戦の一面がある。
語彙力こそが合否を決める。
英単語では、誰にも負けさせたくない。
シンタは中3から『システム英単語』を使用した。
高校になって楽になるよう、中高一貫難関校よりも英単語を大量に暗記したかった。
シンタは中3終了までに、『シス単』のStage3、共通テストで必要最低限の範囲プラスαまで暗記していた。理論上は中3で、単語力では共通テストがかろうじて解けるラインまで達していた。
シンタが通う高校では『ターゲット』を使っていた。
私は『ターゲット』が嫌いで、単語単体だけだと暗記してもあまり意味ないし、例文は暗記用には長すぎる。
「帯に長したすきに短し」の単語集だ。
昔からある単語集なので、高校の先生が自分が使っていたからという」理由だけで、惰性で使っている感じがする。
その点『シス単』のフレーズは、
”beg him to come back”
くらいの長さで覚えやすく、語法もまとめて暗記できる。駿台予備学校の叡智を尽くした名作である。使わない手はない。
また、最後のStage5の「多義語のBrush Up」は名作で、おなじみの単語の意外な意味が掲載されている。
’the opening address’ が「開会の演説」という意味があるなんて、他の単語集には載っていない。
受験生が英語の勉強を進めれば進めるほど、Stage5の有難みがわかる。難関校の長文には、Stage5の単語が頻出しまくっている。
ただし、addressという単語の原義は「まっすぐに向ける」という意味だが、『シス単』にはこういった単語の根本の意味があまり書かれていないので。単語の原義を私が添えながら暗記を進めていった。
うちの塾ではずっと『シス単』を使用していて、高校の単語集には合わせていない。
シンタも、塾では『シス単』、高校では『ターゲット』の2冊持ちになり負担がかかっただろうが、単語集2冊同時並行で進と、暗記が深まり都合がいい。
シンタは高1終了までに『シス単』は一通り暗記した。
京大の過去問を最初にやっていたからこそ、シンタは単語暗記がゴールに向けての、大事な勉強だということを深く理解していた。
■『DUO』を全文丸暗記
だが、『シス単』だけでは足りない気がした。
だから、シンタには『シス単』以上の無理難題を要求した。
『DUO』の丸暗記である。
『DUO』とは大学受験用と言うより、どちらかといえばTOEIC寄りの教材で、時事英語から男女の痴話喧嘩まで、硬軟織り交ぜて560個の例文が載っている。
たとえば、
121.皿洗いとか洗濯とか、そういうことにはもううんざり!
I’m tired of doing the dishes, doing the laundry, and so on!
279.昨年と比べて、売上の数字だけを見れば事業は上向いている。しかしながら、利益はまだ全く出ていない。
Compared to the previous year, business is looking up in terms of sales. However, we haven’t ,ade any profit yet.
529. リサ、ニックとうまくやってる?」「時々、離婚を考えることがあるわ。」「冗談だろ!」
“Lisa, are you getting along with Nick?” “Once in a while, I think of divorcing him.” “You must be kidding!”
これらの例文を1カ月で暗記しろと命じた。
問題形式は穴埋めにした。
それでも560個の例文暗記は大変だ。
ところで、実は7月下旬にシンタといっしょに勉強しようと誓い合ったが、実際に始めたのは9月15日だった。
私は目を患っていて、手術をしなければならなかった。
目を完全に治し、身体のメンテナンスをしてから、シンタの指導にあたろうと考えていた。
目の病気は複数にわたっていた。
まず糖尿病からくる網膜症。
網膜症とは、網膜に張り付いている毛細血管が、糖尿で血液が濃くなるために破裂出血し、血液が目に流れ込み、黒い粉が飛び散ったように視界を邪魔する病気である。
放置しておいたら失明する。映画館のスクリーンが真っ黒になって、映像が映らない状態になるのだ。
拡張を続け網膜を破壊する血管を、レーザー光線で焼く手術が必要だった。
私の左目は水に黒い炭の粉が飛び散ったような状態で濁り、仕事に支障を来していた。
同時に、私は緑内障にもかかっていた。
緑内障とは眼圧が高くなり視野が狭くなる病気で、いったん狭くなり始めると二度と元には戻らない。
目薬で治る病気ではあるが、私の緑内障は進行が早く手術が必要だった。
おまけに、私は白内障でもあった。白内障で視界が曇りガラス越しのようになって、一刻も早くクリアな状態に戻したかった。
私の目は網膜症で黒く霞み、緑内障で視野は狭まり、白内障で視界が悪い。黒だ緑だ白だと疾患の三重苦だった。おまけに近眼と老眼。日常生活が不便だった。
これらの手術を一挙に済まそうといいうことで、JA尾道総合病院に手術入院した。
手術は1時間ほどで終わったが、これが全身麻酔ではなく、局部麻酔なのである。
局部麻酔なので痛みはないが、針のような器具が目を突き刺し、黒い影が私の目の中を動いているのがわかる。身体は動かしてはならない。
手術中は夢うつつ状態で、気持ちいいのか悪いのかよくわからない状態で、あまり人には薦められない手術だったが成功した。
目を一週間ぐらい、パソコンもスマホも触らず休めたあと、Twitterでアカウントを作り、シンタに見せるため、『DUO』に登場する単語の語呂や語源を頻繁に流した。過酷な暗記の後方支援のためである。
私の「絶対京大に合格させてやる」という熱意をシンタに見せたかった。
■『DUO』を暗記させた理由
『DUO』を560個全部短期間で暗記させるのは、正直、無茶振りである。
シンタ以外にはこんな課題絶対に出さないが、シンタがいかに根性ある男といっても、これはひどい。
だがシンタには、絶対に暗記を完遂してもらいたかった。
『DUO』を暗記させた理由の第一は、英語先取りの貯金が尽きるのを恐れたからだ。
シンタは中学で高校内容を先取りしてきた。『シス単』も暗記し、同級生より1年のアドバンテージがある。
しかし、シンタの同級生の高1は今、単語暗記に必死になっている。
シンタは賢明な男だから油断はしないだろうが、それでもライバルたちに単語で追いつかれる可能性がある。
シンタは単語のストックを、ライバルとの差を維持し、さらに拡大するため、もっと増やす時期に来ていた。
だから『DUO』丸暗記という強硬手段に出たのだ。
第二は、シンタの英語勉強法を根本から変えたかったからだ。
シンタは頭のいい男だ。だから中学や高校1年ぐらいまでの英語は、特に苦労しなくても、大雑把なやり方で成績は上がる。正直、才能だけでやってきた。私もうるさく注意はしなかった。
しかし、敵は強大な京大の二次試験だ。
シンタは理系の論理的な頭脳を持っていて、英文解釈の構成は見抜くのがうまい。
しかし単語暗記はまた別の話で、シンタのさらなる英語力増強には、単語を丁寧に覚えこむ、まるで英語だけが得意な几帳面な女の子のような勉強が必要だった。
単語を暗記し、熟語を意識し、文法を把握する。これらの一連の流れを泥臭く進めることが大事である。
よく理系の高校生の中には、数学の偏差値は75あるけど、英語が55とか、数英の格差が大きい子がいる。こういうタイプは例外なく、英語の勉強法が雑だ。
シンタは河合塾全統模試で、数学も英語も偏差値は70台後半を出していたが、それでも単語を軽視して、英語の成績が下がるのを恐れた。
『DUO』 の単語は雑に暗記できるものではない。
細かくひとつひとつ丁寧に、意味を把握しながら暗記しないと覚えられない。
大量の例文暗記は機械的丸暗記を許さず、理屈を嚙み締めながら暗記しないと達成できない性質のものだ。
むかし、アニメ『一休さん』で、一休さんと屈強の男が対立して、大量の米からのりを作る競争をするという回があった。
屈強の男は、大きな杵で餅つきのように、パワフルに怪力全開で米を潰していく。
逆に一休さんは、米を一粒一粒丁寧に、時間をかけて潰していく。観客は一休さんがのんびりと米を一つ一つ潰していく姿を見て「大丈夫なのか?」とイライラする。
しかし、最後に綺麗なのりを完成させたのは、一休さんの方だった。
シンタには一休さんのように、丁寧に単語暗記して欲しかったのである
。屈強の男のように雑に暗記していては、『DUO』は頭に入らない。
シンタには暗記の極意を知ってもらいたかったのである。
第三の理由は、リミッターを超えさせるためだ。
勉強は強制か自主的かが、よく議論になるが、私は初期のうちは強制がいいと考えている。
地方の競争が緩い高校生は、まわりが勉強しないので、少し勉強しただけで、自分は突出した勉強時間を取っていると錯覚してしまう。
彼らの自主性とは、生ぬるいものである。自分は勉強しまくっているつもりでありながら、都会の進学校に比べて速度は遅く、勉強量は少なく、また勉強法が我流で効率が極めて悪い。
地方の高校生が全国レベルをめざすには、客観的に見れる指導者が必要なのだ。
たとえばトップアスリートはコーチをつける。それはコーチの強制力を、アスリートが求めているからだ。
自分だけでは厳しくできない。厳しい人の胸にあえて飛び込むことで、リミッターを外し、自分が思ってもみなかった量や質のトレーニングが可能になる。
また、カープの新井監督は、ルーキー時代は身体が大きいだけの、箸にも棒にもかからない選手だった。
しかし、カープ首脳陣が強制する、胃から汗をかくような猛練習をこなし、一流選手になった。
新井監督も、若い時の「やらされる」練習には感謝していると回顧していた。
壁を破るには他者からの圧力がある強制力が必要で、強制力の洗礼を浴びた後の自主性は、かなりレベルの高いものになる。
リミッターを知らない自己満足の「自主性」とは格が違う。
シンタは強制されることでリミッターを外し、潜在能力をフルに発揮できる精神力があると見込んでいた。
シンタには「普通の京大生」にはなるなと、絶えず口にしてきた。
シンタは、ただ頭がいいだけの、脳の機能が他より先天的に優れているだけの男ではない。
一つの目標に向かってストイックに鍛錬し、努力根性で周囲に威圧感を与える。静寂な剣豪のような、すごい男になる男だ。
シンタは物静かな男だが、後輩からも「シンタ先輩は圧があります」と言われる。シンタに勉強を教えてもらう時の後輩は、緊張して唇が震えている。
厳しい修行を経験した人間は強いオーラを放つ。シンタには場を圧倒する男になる素質があった。
■『DUO』テスト当日
シンタが『DUO』のテストをする日が近づいてきた。
シンタに暗記を指示して1か月半、ほぼ顔を合わせることはなかった。
私は緊張した。
もしシンタが暗記していなかったら、怒らなければならない。
それも激しく。
シンタと私が京大に向け勉強を開始する初日である。私が甘い顔を見せたら、いい加減な2年半を送らねばならない。最初が肝心だ。
私はシンタを絶対京大に合格させるため、遠慮はできなかった。遠慮はシンタの人生を狂わせる。
宿題は、うちの塾では絶対である。
やらない、遅れるという選択肢はない
私はただテキストをこなすだけの宿題は出さない。手を抜こうと思えばできるからだ。
私が出す宿題はつねに暗記テスト、ガチンコで覚えなければならないハードなものである。
暗記テストには再テストはない。againはなくthe endである。
宿題は緊張をはらむ。
宿題は出される方も叱られるから緊張し、宿題を出す方も叱らなければならないから緊張する。叱られる方も叱る方もピリピリしている。こんな緊張関係が、私と塾生の間には横たわっている。
シンタが現れた。
顔色は変わっていない。シンタはいつも冷静だ。
テストに自信があるのかないのか、顔だけでは判別できなかった。
シンタがテストをやり遂げたら興奮して「ようやった!」と叫びそうだった。
だがやっていなければ・・・
『DUO』の10問テストを配った。8問正解で合格だ。
シンタは穴を埋め始めた。
しばらくたって、シンタは私に答案を出した。
採点した。
シンタは暗記できていなかった。
10点中、たった1点だった。
私は瞬時にシンタを怒鳴りつけた。
何を言ったか記憶していないが、私は普段標準語だが、激怒すると広島弁になる。
おまけに声が高くなる。
「おみゃあ! 何しょうんならあ! 1か月半どうしようたんなあ!」
「よくもまあ、こんなもん、ワシの前で出しよったなあ。どうしてくれるんじゃ!」
とでも言ったのだろうか。
塾の狭い和室が、安土城天守閣で織田信長が狂乱激怒しているようなカオスな状態になった。
紳士であるシンタを、初めて頭ごなしに怒った瞬間だった。
シンタは、これだけの男なのか。
私の熱意が通じていなかったのか。
しかし、冷静に考えたら、『DUO』を一冊丸暗記することは無理なのだ。
シンタは課題が多い高校に通っているし、ピアノも続けている。
私の課題が無茶苦茶なのだ。
私の怒りが理不尽なのだ。
シンタは私の期待に精一杯応えようとしたが、できなかったのだ。
シンタは私の怒りを、背筋を伸ばし、微動だにせず受けていた。
潔い物腰だった。
シンタはテストの点が悪かったら、私が爆発することを知っている。
でも、シンタは逃げなかった。
堂々と1点を取った。
普通の高校生だったら、テスト前に「忙しくてできませんでした」と、言い訳の1つもするだろう。減らしてくれと交渉もするだろう。
叱られたあと、言い訳を並べるだろう。
「今日は頭が痛くて休みます」と仮病を使う子もいるだろうし、もしかしたら「無理です」と塾をやめる子も出てくる。
でもシンタは言い訳を一切せず、真正面から私と対峙した。
できなかった時のシンタの態度で、私の彼への評価はさらに上がった。
私はシンタに尋ねた。
「お前、やる気あるのか?」
シンタは潤んだような、そのくせ涙は絶対に落とさない強い目で私をみつめて、
「あります!」
ときっぱり答えた。
シンタが、『DUO』を暗記したのは、その3ヶ月後である。
私はそれからシンタに時折、べらぼうな宿題を出した。
でも、シンタは2度と失敗はしなかった。
どんな課題も、完全にこなしてきた。
高2の12月には、黄チャートを?Aと?Bの2冊分、1か月でこなせという猛勉強も課したが、完璧にやった。
シンタは『DUO』の一件以来、明らかにリミッターを超えた。
(つづく)
]]>
シンタと京大に向けて勉強を始めた。
シンタと私が最初に取り掛かったのは、京大の過去問である。
まだ高1の9月である。世間の常識では早すぎる。
もちろん高1時点のシンタの学力では解けない。
正直、無茶苦茶である。
しかしシンタは辞書も引かず、ヒントも出さず、真正面から日本一難しい京大の和訳に挑んだ。
頂上作戦だ。
京大の問題は、ご存じのように英文和訳と英作文だけのシンプルな構成だ。
最近では英文和訳に下線部の説明問題、英作文には自由英作文や会話文補充問題も出るが、メインは下線部和訳と英作文である。
京大和訳は旧制高校入試にタイムスリップしたような問題で、かつ、日本一難しいと言われる。
構文は煩雑で、内容は難解。おまけに、日本語に訳してみても、その日本語自体が難しい。
京大の和訳を解いたあと他大学の問題を解くと、単純すぎて「なんだこんなもんか」と思ってしまう。
シンタは果敢に京大過去問を攻めた。
受験勉強を過去問から始める方法は、かつてベストセラーになった、野口悠紀雄『超勉強法』のパラシュート勉強法を参考にしたものだ。
パラシュート勉強法とは、最初から難しい課題(ゴール)に取り組む勉強法で、頂上に立ってまわりを俯瞰することで、ゴールに達するために必要な勉強は何か、無駄な勉強鵜は何かを知る、効率的な勉強法である。
時間がない、無駄な勉強を省く、そのための過去問から始めるのだ。
一歩一歩下から積み上げていく勉強法では、どこに向かって勉強しているのか迷う。
無駄な作業に無駄な時間をかけてしまう。
逆にパラシュート勉強法は敵の強さを知ることで、現時点での自分の足りなさを知り、同時に敵の攻略法を知る。方向性に迷わない。
高1から京大の過去問をやれば、文章の複雑さ、国語力の大事さ、単語力の大切さ、そして発想力類推力が求められていることに誰よりも早く気づける。
過去問は高3の夏からでいいとよく言われるが、絶対勝つには思い切ったフライングが大事である。シンタは普通の京大受験生より約二年早く過去問を解いた。それだけでも大きなアドバンテージだ。
しかし、シンタが高1の段階で過去問に触れられたのは、中学で高校の文法単語をある程度終えていたからだ。
私はシンタの中学時代、高校受験はまったく眼中になく、合格するのは当然と考えていて、大学受験のことばかり頭にあった。
だから広島県の公立高校が、一定以上の学力がある子が絶対合格できる状況を利用し、英語を高校内容まで突っ込んでぶっ飛ばした。
よく、中3の高校受験終了後、合格発表から入学式までの期間が重要だといわれる。
誰もが高校受験が終わってほっとして遊んでいる時期(中3の3月)に高校内容に踏み込んでおけば、高校でロケットスタートを切れるのだと。
しかしシンタはその上を行った。
中3に進級した時点から飛ばし、高校英語を勉強してきたのだ。
高1の秋にはもう、京大の問題がどれだけ難しいか、体感できる英語力はつけていた。高校受験を捨ててまで英語を進めた、用意周到な準備が功を奏した。
京大過去問を3年分やれば、シンタも京大和訳の傾向が理解できただろう。
次は、京大への和訳力を鍛える、精読力をつける参考書の出番だ。
■『ポレポレ』&『英文読解の透視図』
私は、参考書の選択は保守的である。
前例踏襲、昔から評判の良い物しか使わない。
新刊でよいものがあっても使わない。私は本質的には参考書に関しては目移りしやすいタイプなので、あれこれ目移りする。だから書店の参考書売り場には、たまにしか足を踏み入れない。
あの本もいい、この本もいいと参考書をドッサリ買ってきて、あれもやれ、これもやれと勧められたら、生徒が迷惑だ。
一冊これと決めたら信じ込み、冒険はしない。
だからこそ、安定と信頼の『ポレポレ』に頼った。
『ポレポレ』は、難関大学志望者なら、誰もが持っている超人気本である。
売れるのは理由がある。中身が素晴らしいからだ。
英文を難しくする三大要素は「倒置・挿入・省略」である。この3つの難所を『ポレポレ』は鮮やかに切りさばく。
『ポレポレ』のタイトルは、正式には『英文解釈プロセス50』というが、タイトル通り英文読解の必要十分なプロセスを、わずか50の例文に詰め込んだものである。
難関大学で受験生を困らせる英文解釈の難所を、たった50の例文に過不足なく詰められたものだ。その構成の妙に感動する。
作者の西きょうじの頭には、あらかじめ構成があって、構成のストーリーのままに適材適所の例文を置いた、天才の若書きだ。
シンタには『ポレポレ』の例文だけをコピーしたものを便箋に貼って和訳させた。
単語の注釈も一切与えず、構文も単語も自ら閃かねばならない。
シンタは難しい顔をしながら、オランダの原書を訳す杉田玄白みたいに『ポレポレ』と格闘していた。
私は教えたがりだが、教えたいのを我慢してシンタが意味を閃くのを待った。
『ポレポレ』を授業に使った先生ならわかるが、説明が楽しいのである。
ポレポレは、たった一言二言のヒントで、全容が一瞬でわかるような例文が選ばれている。
鍵をカチッと一瞬開くだけで、構成がたちどころに見える。
教える側が「これはね、倒置なんだよね」とドヤ顔で説明すれば、生徒も「そういうことか」と、新しい地に触れた喜びと悔しさが入り混じったいい顔をする。
『ポレポレ』は良書中の良書である。
『ポレポレ』を一通りすませたら反復する。勉強系YouTuberの中には、ポレポレを毎日300回繰り返したという人もいたが、強烈な反復に耐えうる本である。
次は河合塾の先生が書いた『英文読解の透視図』を使った。
『ポレポレ』と『透視図』のラインは、京大への王道である。
『ポレポレ』で英文解釈のやり方を学び、『透視図』は実践的演習問題の位置づけで使った。
ただし、安全策もとった。
『ポレポレ』と『透視図』だけでは難しすぎる。
同時並行して、桐原書店の『入門英文解釈の技術70』『基礎英文解釈の技術100』も使った。
難易度は簡単な順に、
『入門英文解釈の技術70』<『基礎英文解釈の技術100』<『ポレポレ』=『透視図』
であろうか。
『ポレポレ』や『透視図』ばかりでは、基礎が抜けてしまう可能性があった。
私は難解な本を使う時には、安全策で同時並行して基礎的な本を使う。
『入門英文解釈の技術70』『基礎英文解釈の技術100』には単語の注釈がついているが、『ポレポレ』と同じように、無視して英文だけを便箋に貼り付けて訳させた。
『基礎英文解釈の技術100』は模試の前、「英文解釈特訓」と称して土日の2日間、例題だけ100問、超短期間で全部終わらせてしまった。
シンタとはこういう爆発的な集中特訓をよくやった。
■『速読英単語』は塾の教科書
「短文精読」は『ポレポレ』と『透視図』にまかせ、「長文多読」も同時並行で進めていかねばならない。
英語力は長文多読と短文精読、英文法と英作文と整序問題、音読とシャドーイングとリスニングなど、さまざまなジャンルを同時並行で進めていかねば伸びないと、私は考えている。複合的に伸ばしていくのだ。
「短文精読」と「長文多読」とどちらが英語力伸びるかという議論があるが、私とシンタは欲張って両方に力を入れた。
私の「長文多読」の英語指導の根幹をなし、英文解釈の「教科書」的な役割を果たしたのは『速読英単語』シリーズである。
使ったのは
『速読英単語・中学編』
『速読英単語・入門編』
『速読英単語・必修編』
『速読英単語・上級編』
『速読英熟語』
『リンガメタリカ』
『速読速聴英単語・Daily1500』
『速読速聴英単語・Advanced1100』
である。
これら『速単シリーズ』はターゲットやシス単のような純粋な「単語集」ではない。
大学入試の必修語が長文にちりばめられていて、長文の中で英単語を暗記しようという企画のもとに作られていて、「単語集」としては使いにくい。
しかし見開きで、左に英文、右に日本語が書かれていて、英文を大量に読むための最適の本である。高校も『速単シリーズ』を教科書に採択してほしいぐらいである。
国語力を伸ばすのは読書力と言われるが、『速単シリーズ』は英語の読書に欠かせない。
私は『速単シリーズ』を、右の日本文をハガキで隠して、一文ずつ口頭で訳させた。
野球の猛ノックに似ている。
できうる限り順繰りに訳してもらう。関係代名詞も後置修飾も後ろから訳させない。読解スピードを上げるためだ。
そして、文法事項の細かい質問攻めをする。
主語と動詞は何か、このthatは接続詞か関係詞か代名詞か、この不定詞はどんな用法か、このreadingは現在分詞か動名詞か、現在分詞なら後置修飾か前置詞の目的語か分詞構文か進行形か動詞+目的語+~ingの形なのか、このandは何と何を結ぶのかなど、シンタを攻めていった。
また未知の単語があれば、「クイズミリオネア」のファイナルアンサーの時のみのもんたみたいな怖い顔で「類推しろ」と睨めつけた。無茶振りである。
完全に類推できないのなら、せめてプラスの意味かマイナスの意味か判別せよと指示した。
本番より怖い緊張ムードが続いた。
マンツーマンでこんな作業を続けると、べらぼうに和訳力がつく。時には6時間ぶっ通しでノックを続けた。
この『速単シリーズ』和訳の勉強法の何が素晴らしいかって、生徒の英語力の成長ぶりが、ダイレクトに体感できることだ。
力がつけばつくほど訳がスムースになる。ギクシャクした状態が続けば反復し、スムースに行きすぎたらハードルを上げる。シンタの成長に合わせて、融通無碍に『速単シリーズ』を進めた。
『速単シリーズ』は問題形式ではないので、実は自学自習の挫折率が高い参考書なのだが、マンツーマンには強大な効果を発揮するのだ。
シンタは『速単シリーズ』を、『中学編』は中3の1学期、『必修編』を中3の夏休み、『必修編』を中3の2学期から3学期にかけてやった。
高校生になってから『必修編』を再度やりこみ、さらに『上級編』『リンガメタリカ』を高2までに終わらせた。
速単も『上級編』『リンガメタリカ』になると単語も構文も難解で、京大の入試問題と同じレベルに近づいてくる。東大や京大や早稲田や慶応の入試問題レベルの英文が並ぶ。ここまでくると「長文多読」ではなく「長文精読」の領域に入る。シンタは真面目に取り組み続けていた。
『上級編』『リンガメタリカ』を反復しつつ、時には思い切って『必修編』を超スピードで反復しながら、高3からは『速読速聴英単語』をはじめた。
このZ会の『速読速聴英単語』は『速単シリーズ』と同じ、左に英文、右に日本文のレイアウトだが、大学入試ではなく、むしろTOEICやTOEFL用の教材だ。
『Daily』はくだけた会話文が多く、京大で新傾向として出題されている会話文対策で使った。
また『Advanced』は英検1級レベルの英文で、単語が容赦なく難しく、京大の問題を簡単に見せるための錯覚を起こさせるために利用した。
『Daily』も『Advanced』も半分ぐらいしかできなかったけど、単語のストックが大幅に増えた。
『ポレポレ』『透視図』『速単シリーズ』を英文解釈の核に据えながら、適宜、京大の過去問に触れた。
英文解釈本を地道にやっていると、最初は手も足も出なかった京大の過去問が、少しずつ少しずつ解けるようになっていった。
最初はびくともしなかった重量上げのバーベルが、高3の最後には堂々と持ち上げられるようになったのである。
繰り返すが、最初に過去問をやっておけば、日々の勉強は過去問を「倒す」ための勉強になり、徐々に力がついて、過去問を屈服させる達成感を味わえ、モチベーションが上がる。
勉強というものは、目標を決めて努力して、小さな成果を積み上げることで、充実感に変わっていくのだ。
シンタは結局、英文和訳の過去問を1991年まで30年分、それから駿台や河合塾の京大実戦模試を古いものまでAmazonで取り寄せて解いたため、約45年分は解いたことになる。
この過去問をやりまくった努力が、京大の和訳の力を上げるだけでなく、シンタを高3の2月、意外なところで救うことになる。
(つづく)
]]>7月、久しぶりにシンタに直接会った。
3か月ぶりだった。
場所は塾ではなく、駅前のチェーンの個室居酒屋を選んだ。
私は生徒に大事な話をする時は、重々しい空間を作るため、わざと場を変え空気を変える。
3か月ぶりのシンタは背が伸び、シュッとした松下洸平みたいな若者になっていた。
シンタは私に礼を尽くして、学生服姿でやってきた。ストイックさに磨きがかかっていた。
私も塾ではどうでもいい普段着だが、その日は背広を着てシンタに向き合った。
シンタを塾に戻すには、厳しい、捨てるような言葉をかけるのが一番だと判断した。
シンタはおとなしい顔をして意志が強い。向上心がある。引き寄せるには強い言葉が効果的だと考えた。
むかし、江夏豊が阪神にドラフト一位で指名された時、江夏は阪神ではなく大学へ行きたかったのだが、江夏の才能に惚れた当時の佐川スカウトが、入団してほしくて江夏にこんな言葉をかけた。
「オレは君なんか、たいした投手だと思っていない。だから本気で入団の交渉をするつもりはない。球団がドラフト会議で君を指名して、オレに入団交渉してこいと言うから来ているだけだ。阪神に入りたくなかったらこの話は断ってもいいんだぜ。」
頭にきた江夏は契約書にサインしたという。なかなかの高等戦術だ。
私もシンタにきつい言葉をかけ、負けん気を煽りに煽った。
「君は地元じゃ負け知らずだが、全国的に見たらまだまだ。思い上がるな。」
「地方進学校の高校生は、高2までは課題が多いからアドバンテージは取れる。だが高3になると都会の進学校の奴らが本気を出す。勝てるか?」
「君は数学は大丈夫だ。だが他教科、英語と国語と理科と社会はまだまだだ。相当の努力がいるぞ」
シンタは真っ直ぐに私を見て、私の話を聞いていた。私の言葉が強くシンタに浸透していくのがわかった。
現代の子に厳しい言葉をかけ負けん気を煽るのは、逆効果とされている。しかしシンタは高度経済成長期のようなタフなハングリー精神がある若者だ。だからシンタの心を揺さぶるには、この方法がベストだと判断した。
シンタは志望校を「京大工学部情報学科です」と、私にキッパリ告げた。
凛々しい顔をしていた。
東大へ行く力を持ちながら、あえて京大へ行くのがカッコいいんだと言っていた。また、東大は進振りがあり理科?類に合格しても情報学科へ行けるとは限らない、京大なら直接情報学科をめざせるのだという。
志望校が京大で安心した。これが阪大とか九大なら「君は京大に合格できる。高いところをめざせ」と説得しなければならなかったが、それも必要なくなった。
その日は2時間ぐらい身辺状況について話したあと別れた。
結局、本格的に一緒に勉強しようとは言い出せなかった。恥ずかしかった。
なんだか「一緒に漫才コンビを組まないか?」と意中の相方候補に告げたいけど告げられない、無名のお笑い芸人の心境だった。シンタの人生を左右することに、この期に及んでまで躊躇し煩悶した。
数日後、とうとう私はメールで、「俺といっしょに勉強しないか?」と誘った。
シンタからすぐに「ぜひお願いします」と返答があった。
シンタは京大をガチでめざす、「暗黒の高校時代」を送る決意をしたのだ。
シンタは数学の塾に通っていた。高2で高校全内容を終わらせる塾なので、数学に関しては安心してお任せできる。数学音痴の私では何もできないので、数学の専門家に任せるのが一番だ。
私とシンタが個別で勉強する時間は、最初は日曜日、夜6時から10時までの4時間だけだったが、そのうち午後2時から午後10時の8時間、そして土曜日や平日の放課後まで拘束時間が増えた。
勉強時間が増殖していった。
試験休みや祝日など学校が休みの日があれば、直ちに補習を組んだ。ほぼ高校3年間、暇なときはずっと一緒に勉強していたのである。
シンタには「絶対に俺を信じてくれ」と言った。シンタも「わかりました」と即答した。
そして覚悟を試すため、高3になったら頭を坊主にして気合を入れろと命じた。シンタは何の躊躇もなく笑顔で「やります」と答えた。
■地方から京大合格への戦略〜過去問中心主義
シンタ京大合格への戦略、骨組みを作った。
高校とは別の、シンタだけの「学習指導要領」がいる。京大合格には勉強構成を骨組みから変えていかないと、合格にはたどり着けない。
シンタの高校は国公立の進学率が高いが、メインは広大・岡大など地方国立大学で、東大京大は合わせて数人、旧帝大や神戸大が十数人と、必ずしも多くはない。
授業は共通テストでの高得点を目標に行われ、二次対策はサブ的なものになっている。ボリュームゾーンは九大あたりにある。カリキュラム的には、少数派である京大志望者には合わせることができていないのだ。
(しかし実際にはシンタの学年では、高3で難関クラスが設けられ、英数は難関大学を照準にしてかなりレベルの高い授業をやったようだ。特に英語は高嶋ちさ子にの厳しい先生がいらっしゃって鍛えられたという。これは助かった)
とにかく、京大志望のシンタだけのオリジナルの骨組みを組まなければならない。京大には独自の勉強法が必要なのだ。
私の戦略の根本はこうである。
?過去問中心主義
?英語と国語は、高2で京大二次レベルに上げる
?物理化学はスタディサプリで先取り
?高3・1学期から二次数学の勉強に集中
?高2・2学期から理科で追い込み
まず、過去問は絶対的バイブルである。
シンタがやるすべての大学受験勉強は、過去問からの逆算だ。
受験が情報合戦で、大手塾が有利で中小塾が不利と言われているが、過去問という最大の情報は平等に公開されている。中小塾でも情報弱者にはならない。試されるのはこちらの解釈能力だ。
過去問中心主義の高校は進学実績がいい。
たとえば東大合格者数一位の開成高校では、無意識のうちに授業が東大の過去問に寄り添っている。
開成では生徒の7割が東大をめざす。目標が同じなので、東大だけに合わせた勉強ができるのだ。
優秀な生徒が一つの目標に向かって勉強することは、大きすぎるアドバンテージだ。
開成高校では東大合格のために「書く力」にこだわる。
東大の二次試験で必要なのは「表現力」だ。書く力だ。
英語でも国語でも数学でも社会でも、二次試験では文章や数式を書きまくらねばならない。記号の選択肢ではない。採点官の東大教授の眼鏡にかなうスッキリ論理的な文章や数式を書かねばならない。文書力が合否を決める。
開成では教室の四面のうち三面が黒板で、黒板がコの字型に教室を囲んでいる。
数学の演習授業は生徒が黒板に解答を書き、先生が添削するという方法を取る。英作文も同様に添削される。
開成の生徒は自分の答案を常に人前にさらされ、先生にジャッジされる経験をしているのだ。
他の生徒も友人の答案と自分のを比較対照できる。
毎日書きまくることで論述に慣れ、添削の繰り返しで精度が上がる。ふだんの授業形式が、東大の過去問に準拠しているのだ。
共通テストが終わったあと、付け焼刃で二次対策する高校とは格段の環境の差がある。
京大をめざすシンタにも大量の過去問に触れさせ、論述問題を書かせ、私が添削しまくらねばならない。
マンツーマンで過去問を3年間続けることで、圧倒的な差をつける作戦だ。
私は100円ショップで縦書きと横書きの便箋を大量に買い込み、さらにamazonで200字詰めの原稿用紙を買った。シンタは高校3年間ずっと、過去問で便箋と原稿用紙を埋め続けたのである。作家と編集者のような作業だった。
■京大工学部の配点に配慮
過去問とともに、学部の科目別得点配分も重要だ。得点配分を見れば、どんな学生を求めているのかわかる。
京大工学部の配点は
●共通テスト 英語50(読解40・リスニング10)
国語50・社会(シンタは地理)100
計200
●二次試験 英語200・国語100・数学250
理科250(物理125・化学125)
計800
総計1000
数学の配点が高い。
国語や英語は理系では差がつかない。しかし数学は強烈に差がつく。京大の数学は6問だが、六問完答から0点まで差が開く。数学を制する者が京大理系を制するのだ。
京大の配点で驚くのは、共通テストの数学理科がカウントされないという点だ。京大合格には共通テストの数学と理科は全く必要ない。京大は共通テストを信じていない。
だからシンタの共通テスト対策は、配点が100点と高い地理だけやることにした。
私は京大の二次対策を、高1から始めること決めた。
京大の過去問に完全に準拠するカリキュラムを組んだ。すべての道は過去問に通じる。共通テスト対策は高校がやってくれる。とにかく京大の過去問に特化した。
京大の入試問題は素晴らしい。
英語は言語を高度に扱う力を求めている。英文和訳は単語熟語語法が難しく、真面目に勉強を積み重ねた学生を求めてはいるが、それだけではない。見たこともない単語が出てきて、類推力がないと解けない。努力と才能、愚直さと閃きの両方を、高いレベルで求めている。
京大の問題との格闘は、学問に向いた若者が青春を費やすのにふさわしいものだ。解けば解くほど知性が磨かれる。共通テストの勉強ばかりして小器用になるより、腰を据えて京大の問題に向き合った方が、どれだけ面白いか。
敵が強いとやる気が出る。われわれは英語の問題を7割解ける力をつければいいのだ。
■物理化学の進度の決定的遅さ
困ったのは、シンタが通う高校の物理化学の進度が遅いことだ。決定的に遅い。
私立高校なら、高2までに物理化学のカリキュラムが終わり、高3な入試問題を解く余裕がある。
しかし公立高校は学習指導要綱の縛りで、カリキュラムを変えるわけにはいかない。
この「物理化学進度問題」が、私立と公立で難関大学進学実績の差の、決定的理由になっている。
シンタの場合、物理は高3の9月、科学は高3の11月に全カリキュラムが終わった。高校の進度に合わせていたら、京大入試に追いつけなかった。
物理化学は、高校の進度とは別の、京大入試に向けたカリキュラムを組まねばならない。フライング気味の進度を取らねば手遅れになってしまう。
私が理系の塾講師なら、物理化学を高2までに終わらせることができるが、残念ながら私は物理化学音痴で、その力がない。だから英語国語を高2までで完全に仕上げ、高3になったら英国にあまり時間を取らないようにする方法を取った。
物理化学は高1高2のうちにスタディサプリで軽く先取りしておいて、高3夏休み以降、物理化学でスパートする時間を確保する戦法だ。
■高校の膨大な課題との闘い
シンタは、高校の膨大な課題と、闘わなければならなかった。
シンタの高校は課題が過大で、自分でオリジナルの勉強をやりたい高校生には、正直課題が邪魔になり、有難迷惑なのが正直なところだ。
こうした高校の課題の悪いところは、学校用教材を使うことで、解答解説が薄い。課題で自学自習を求めていながら、自学自習するには解説が少なすぎるのだ。
まだ市販の解説が丁寧な参考書問題集を使ってくれれば有難いのだが、諸事情でそうもいかないのだろう。
それから肝心かなめの暗記課題がおろそかだ。
たとえば古文は共通テストで古文は大事な科目だが、古文単語は300個ぐらい1週間で暗記できるにもかかわらず、そういう大事な課題が出ない。かと思えば、漢検準一級レベルの超絶難しい、大学受験とは関係なさそうな漢字暗記を強制される。高校が出す課題は、どこかずれていた。
しかし、シンタに愚痴は言わせなかった。
シンタも愚痴を言うような男ではない。
たとえば和田秀樹なら、学校の課題は無視して、授業中内職してでも、自分だけの勉強をやれと本に書くのだろうが、私は、シンタには学校の課題もきちんとやらせた。
シンタには、学校の先生から課題をやらない「外様」扱いではなくて、課題もきちんとやる「譜代」として扱ってほしかったのである。
シンタは将来社会人になって、無駄に敵を作らないための処世術だった。
理想だが、あらゆることを全力投球でやる男になって欲しかった。
シンタが京大合格した時、誰からも祝福される男になれよと。そのためには手抜きはできなかった。
高校から出る過大な課題は、塾で圧倒的な力をつけ、猛スピードでこなすよう指示した。
シンタは英語に関しては、中学で高校内容の単語文法は終わらせてある。
広島県の高校受験が緩いのに便乗して、高校受験勉強をほとんどやらず、高校英語を先取りしてきたのが功を奏した。
シンタにとって高校の英語課題は、最初のうちはただ手を動かすだけの代物だったのである。
高校の定期試験の扱いはどうしたか?
私は高校の定期試験勉強で、京大過去問の勉強が滞るのを嫌った。
シンタは推薦入学を目指すわけではないから、定期試験の成績に神経質になることはない。
だけど高校の定期試験は、基礎力をつけるのに絶好の機会である。こちらも課題と同じで手を抜くわけにはいかない。特に英語・数学・古文・物理・化学という受験に必要な最重要科目には力を入れるよう言った。
しかし、私と一緒に勉強する日曜日は学校の定期試験対策は無視して、京大の過去問とそれに準じる勉強をやり続けた。定期試験勉強期間は、シンタにとって手ごろな内容なので、逆に学力が落ちる気がした。常に過去問レベルの問題を解くことで、頭をフル回転させ、ホットな状態にしたかったのである。
シンタは日曜日、同級生たちが遊んでいる間私に「監禁」され、勉強を続けた。
地方の進学校のトップレベルの生徒はふつう、先生からは「あの子は言うことなし」と神棚に置かれるように、勉強面も生活面も本人任せにされる。注意されることはない。
しかしシンタは、英文和訳や英作文や国語論述の答案を書くたびに、私にシビアなチェックを受けた。
時にはシンタが想定もしていないことで厳しく叱られた。
「できる子」に対する扱いではない。
おまけに、塾の勉強も学校の勉強も、すべて完璧にやるという、スーパーマンになることを求められた。真面目さの殻から抜け出すことを許されない圧力がかけられた。
しかしシンタはあえて、つらい「暗黒の高校生活」を選んだ。
(つづく)
]]>元気でやってるだろうか。
シンタが去ってみると、彼の凄さを改めて感じた。
彼の勉強姿は、やることなすこと、感心のしっぱなしだった。
シンタは勉強の取り掛かりが早い。塾に着くと速攻で教材を広げ、勉強を始める。
勉強が苦手な子は、塾に来てから勉強を始めるまでの時間が、一昔前のWindowsパソコンの立ち上がりのように遅い。しかしシンタは、最新鋭のMacbookみたいに、開けた瞬間起動する。スピード感が圧倒的だった。
またシンタの礼儀作法は完璧だった。
目上の人には必ず敬語を使い、お母さんは「母」、おばあさんは「祖母」と呼び、士大夫のように立ち振る舞いにそつがなかった。
シンタのお父さんお母さんは、シンタを自分がかわいがるだけでなく、まわりの大人からもかわいがられるよう、厳しくしつけていらっしゃる。
そんなシンタを私は再び塾に迎え入れ、高校部を再開するかどうか迷っていた。
迷った理由は、正直言うと病気ではない。
シンタを大学受験で「私が」不合格にするのが怖かったからだ。
シンタと私は高校受験では成功した。シンタにとって私は成功に導いてくれた「いい先生」であるはずだ。このまま離れた状態だと、良い記憶しか残らない。いい思い出はそのまま温存したかった。
でも、私と大学受験を戦って、不合格にしてしまったらどうか。
不合格になった塾生と、不合格にした塾講師は、微妙な関係になる。
私は、これぞと見込んだ子が不合格になれば、再起不可能なほど落ち込む。せっかく私についてきてくれたのに合格させてあげられなかった罪悪感は死ぬまで残る。
対して、不合格だった子も、私に対するすまなさと、同時にどうして合格させてくれなかったのだという責めが両立する、アンビバレントな感情を抱くだろう。
現実問題として、大学受験で成功した塾OBとは大人になっても親交はあるが、不合格にしてしまった塾OBとは、気まずさや感情のしこりが残る。
私はシンタに対して、強い敬意を持っている。心の底では共に戦いたい。
でも、私はかつて大事な生徒を難関大学に不合格にさせてしまった過去があり、大学受験に対して臆病になっていた。
それに、私は大学受験に「狂う」のだ。
私は大学受験を、人生を決定する重要な岐路だと考えている。大学受験は真剣勝負だ。だから狂う。
狂うと高校生に勉強を強要する。特に東大や京大に合格するには、大量の勉強時間が必要だ。シンタを絶対に不合格にさせたくない。不合格になった時の恐怖で震える。だから勉強させる。土日はない。大学受験に没入すると、日曜休むと怖くなる。シンタを土日に呼び、彼は休みがなくなるだろう。シンタは高校3年間、勉強まみれの「暗黒の青春時代」を送らなければならない。シンタを私の「狂気」に引きずりこむことには躊躇があった。
私は、期待し見込んだ塾生には厳しくなる。
私はシンタを叱るのがイヤだった。
中学まで私はシンタを叱ったことがなかった。しかし高校は違う。
東大か京大を共にめざす師弟が、なあなあの緩い関係になれるわけがない。時には厳しく叱る局面が出てくる。本気になれば人間どうし感情がぶつかり合うのは必然だ。
私は難関大学を目標にする子がいると、梶原一騎の作品、『巨人の星』の星一徹、『あしたのジョー』の丹下段平みたいな指導者になる。精神論根性論が先立ち、教育熱のボルテージが上がる。高度経済成長期の1970年代前半でも古臭い過激な子供の育て方が、令和の若者に通用するはずもない。
私の要求の高さに、シンタに反抗心が生まれても不思議ではない。上をめざすと、互いに価値観の違いが生まれる。私とシンタは、仲の悪い漫才コンビみたいな関係になってしまう可能性があった。
私は愛情が強い。この愛情は平等で微温的な「ビジネス生徒愛」ではない。もっと重く強く狭いもので、中森明菜の歌唱のように、揺れ動く危なげな愛情だ。おまけに、いい加減な人間に対しては、愛情などまったく感じない、きわめて差別的なものだ。
それに、私の愛情は、怒りや激情に変わりやすい性質のものである。いい加減なことをしていたら、強い怒りを浴びせられる。立川談志のように気難しく、大島渚のように直情的な怒りが炸裂する。情の化け物のような私のそばにいたら、シンタがかわいそうだ。
おまけに私は冷酷だ。
難関大学合格に足りないものがあれば、勉強面と生活面の両方で、微妙なことでも鋭く指摘する冷酷さ、残酷さがある。容赦はしない。
たとえば高校生を一対一で説教する時、ほぼ誰もが私の前で全身を硬直させる。そして生徒が「先生はこういうだろうな」と想定する以外の、思いもつかぬ鋭い言葉を放つ。私の一言で、生徒は神経締めにあった魚のようにピクッと動く。そんな緊張感が3年間も続くのだ。
その上さらに、私の病気である。
腎臓の病気が、シンタの指導に支障を来したりはしないか?
病気が原因で、教える体力気力が弱まるということではない。
むしろ逆で、病気が進行すればするほど、私の「狂気」、言い換えればシンタを合格させたい欲が加速する。この世の名残に絶対にシンタを合格させたい。
志村喬が演じた、ガンで余命半年を告げられ最後の仕事に幽鬼のように没頭する黒澤明監督「生きる」の主人公みたいになる。
子供が大学受験に成功するには、指導者や両親のやる気が、子供自身のやる気を絶対に上回ってはいけない。あくまで塾の先生は、受験生を見守る立場でなければならない。私が病で病的に燃えて、シンタが引いてしまうことは避けねばならない。
私が桶狭間の時の織田信長のように、先頭切って馬を走らせたのはいいが、シンタはあきれてリタイアしついてこない場合もありえた。
繰り返すが、シンタの高校生活を受験勉強一本に黒く塗りつぶすのが耐え難いし、ましてや不合格にしてしまえばどうすればいいのだ?
受験に一生懸命になればなるほど、不合格のショックは大きくなる。
たとえば、時速20?の自転車が壁にぶつかってもケガ程度ですむが、時速800?の飛行機が墜落すれば大惨事になる。受験勉強も全力でやる人間の方が、不合格のダメージは大きい
あれこれ考えた末、私はシンタと大学受験を共に戦うことを諦めた。
大学受験は人生を決める。生半可な覚悟では手を出してはならない。私に人の一生を決める力があるか? しかもシンタのような稀代の若者を教える資格があるか? 何度も問い続けた。
しかしある日のこと、病院のベッドで横たわっていると、夢うつつの状態で、シンタが京大に合格する夢を見た(なぜか京大だった)。
京大の合格発表時間から1分もかからないうちに、私のiPhoneにシンタから電話があった。
「先生、京大合格しました!」
シンタは絶対に声を張り上げない、冷静な話し方をする男だが、その時は声にふだんの1.2倍ぐらいの微かな高揚感があった。
私は「おめでとう!」と言いながら、目から涙があふれていた。鼻から鼻水が垂れていた。うれしすぎる。武者震いで歯がガタガタ鳴っていた。
夢が覚めた。
が、夢は覚めても興奮は冷めてはいなかった。夢が私の心の奥底の正直な気持ちを引き出してくれた。私はシンタを鍛えに鍛えまくって、絶対に京大に合格させたい。夢が私の覚悟を決めさせた。
私が塾講師の職を選んだのは、大学生講師の時、教え子が合格するのが嬉しかったからだ。真面目で一生懸命頑張っている子供と受験を戦い、一緒に喜ぶ。こんな楽しい仕事を大学卒業した後、やめてしまうのが惜しかった。塾講師以外の仕事が霞んで見えた。
シンタとともに大勝負をして勝ちたい、一緒に泣きたい。熱い気持ちに突き動かされた。
しかし、私はまたまた躊躇した。
熱や愛情だけで京大合格させられるのか?
ライバルとする相手は東進であり駿台であり河合塾であり鉄緑会である。地方零細塾の塾長にしかすぎない私に、シンタを京大に合格させることが可能だろうか?
かつて私は高校部をやっていて、塾生は少数精鋭で難関大学に合格してきた。各学年の人数は絞ってきた。名だたる都会の塾と張り合うには、少人数にして手厚く教えなければ勝てない。
だが、どれだけ気を配っても、大学受験で手痛い失敗もしてきた。またまた失敗してしまうのか?
私はシンタの京大への道を、執念深くシミュレーションした。病院のベッドで横たわりながら、戦術と戦略を立てた。目標は京大現役合格、3年間でやるべきことの大枠を立て、同時にどんな参考書問題集をどの時期にやるべきか、詳細な計画を練った。
私は4年間シンタに勉強を教えてきて、シンタの強味も弱点も知り尽くしていた。弱点になるであろう英語と国語と社会は日曜潰してマンツーマンで3年間やろう。3年間あれば京大には絶対に届く。
私は最後に確信した。私はシンタを京大に合格させられる。
シンタとは価値観が同じだった。言葉は数多く交わさないが、お互いに理解し合ってるのはわかった。
彼は理知的な風貌をしながら、心の底は精神論根性論の要素があった。現代の子でも厳しい環境を求めている子はいる。シンタはまさにそれだった。
つい最近、イチローがこう言っていた。
「厳しくしてほしいのに、してくれないからつまらないと思っている子も、中にはいると思う。一番弱いところに合わせるっていうのが今の風潮としてあるでしょ? 一番できない子に合わせる、それじゃあダメでしょ。大人がケガしたくないからっていうのが多くのところで見られる、そんな印象です」
シンタは「厳しくしてほしい」向上心の強い男だ。シンタは私のやり方に合っている。
当然、私もケガする覚悟など完全にできている。私はシンタが合格するためなら悪にでもなれる。
私はシンタと京大をめざす決意をした。
たしかに、死ぬほど勉強して不合格になったら、飛行機が墜落した時ぐらいショックを受ける。
でも逆に、合格したらどれほど嬉しいだろうか。
さて、大事な問題が残っていた。
肝心のシンタが塾に戻ってきてくれるかどうかである。
私は一度シンタを手放した人間である。私がいくら熱意を持っていても、シンタに振られたらこの話はおしまいである。
シンタは私に人生を預けてくれるのか?
私はシンタにメールを書いた。
挑発的な内容だった。
「いまのままでは、お前はダメだ」と。
(つづく)
]]>
糖尿病の壊疽である。
痛みと腫れを最初に感じた時、私は勝手に軽症だと判断し、放置していた。しかし左足が異常に腫れ、強い痛みが続いた。しかしバカなことに半年間我慢し、病院には行かなかった。私は極度の病院嫌いだった。病院に行って面倒くさいことになるのがイヤだった。
そのうち、タオルを噛んで叫ぶくらいの強い痛みが襲った。さすがに我慢の限界を超え、タクシーで病院へ行った。
内科の先生は私の足を見るなり、震えた声で「これは死にますよ」と言った。先生は職業としての医師の冷静さを失っていた。目が真剣だった。ただならぬ事態になった。
足の痛みは、糖尿病で足が腐っているのが原因らしい。私は自分が糖尿であることをはじめて知った。うちの家系は母方も父方も糖尿が多いのに迂闊だった。私は酒もタバコもやらないので、自分は絶対に糖尿にはかからないだろうと自惚れていた。
糖尿になると血がドロドロになり、全身に血液が行き渡りにくくなる。だから、血液を送るポンプの心臓から一番距離が遠い足に新鮮な血が届かなくなり、腐敗したのだ。
直ちに皮膚科で緊急手術をした。皮膚科の先生も私の患部を見て唖然としていた。左足の一部は完全に腐っていて、足から滲み出る液体からは死臭がした。縦約8?、横5cm、深さが2?もある巨大な膿をくり抜いた。とりあえずの応急処置だ。
手術のあと、私の左足には穴があいた。穴は理科室の標本みたいな色をしていた。左足は包帯でぐるぐる巻きにされ、そのまま私は入院した。いつ退院できるかわからなかったし、ここで一生を終えるかもわからず、不安になった。塾生にはとりあえず、塾を一週間休むと電話連絡した。
それから左足切断か否かの、せめぎ合いが続いた。
腐敗箇所を取って陥没した足が炎症を起こしていた。炎症のせいで血糖値が下がらなかった。血糖値は500まで上がった。
血糖値が上がると血液の循環が悪くなり、足に新鮮な血液が供給されず、腐敗はどんどん進んでいく。腐敗が進むと左足切断である。演歌歌手の村田英雄が晩年、私と同じ病気で足を切断して、車いす姿でテレビに出ていたのを思い出した。
さらに悪いことに、下手すると体も腐敗して死に至る。炎症を抑える点滴を打ちながら、腐敗を防止する治療が続いた。
しかし残酷にも、私の足はどんどん腐り続いた。新しく腐敗した箇所は一日に一回、麻酔なしで削られた。これが凄まじく痛い。私の足が大きなサラミソーセージのようになり、腐った部分をメスで削っているような感じだった。肉は腐ってるのに神経はしっかり通っている。
時代劇で、蘭学の医者が麻酔なしで患者を手術するシーンを見たことがある。患者が暴れないよう手足を布で縛って柱にくくりつけ、大人数で身体を押さえ、額の汗をぬぐい取る。患者は痛みで叫んでいる。私が足の肉を削られる痛みはそれほどの痛みだった。
病状は一進一退が続き、5日間の攻防のあと腐敗はおさまり、左足切断は免れた。
皮膚科の先生の手厚い治療のおかげである。
3ヶ月後、足の空洞にはスポンジのようなものを入れ、その上に自分の左太ももから移植した皮膚をかぶせた。いまでも私の左足はケロイドのようになっている。
私が入院している時期、塾は休まざるをえなかった。うちの塾はワンオペで講師は私しかいない。勉強が心配な塾生は病院に呼んで、ベッドで説教した。生徒にはほぼ毎日病棟の待合室から電話をかけ、やることを指示した。
いつまでも休んではいられないので、手術から2週間たって、夜間、塾のある時間だけタクシーで病院から塾へ通った。先生からは反対されたが何とか許可を得た。
私は松葉杖姿で授業をした。壮絶感があった。うちの塾生は集中力の高い子たちだが、この時の集中力はすさまじかった。病院から抜け出してまで私が必死で授業をやっていることは、聡明な彼らにはわかっている。私は時に、松葉杖でホワイトボードをたたきながら授業をした。演技がかっているが、私は病気を、塾の緊張感をさらに高めることに利用した。
左足はとりあえず落ち着いた。しかし、私は腎臓も壊れていた。腎不全になった。
腎臓の疾患はサイレントキラーだ。足の疾患がわかった時、私の腎臓はもはや機能不全で、まもなく人工透析が近づいていることを示していた。
糖尿病は万病のもとと言われる。糖尿になると動脈硬化で脳や心臓に負担を与え、神経障害になり、目や歯も影響を受け、腎臓の機能が低下する。足すら切断せざるをえなくなる。まさに糖尿病は疾患のデパートで、私の場合どんな疾患にもかかる可能性があり、総合病院でお世話にならなくてすむのは産婦人科と小児科だけである。
足の病気のあと3年間は節制して、透析する時期を遅らせた。透析は日常生活の自由を奪う。週3日4時間ずつ病院に通わなければならないからだ。
しかし、とうとう数値が限界を超えた。
腎不全の自覚症状が出始めた。腎臓が弱り、排出の機能が衰えているのがわかった。腎臓が機能しないと、水分と毒素が体の外に出ない。塩分が少し多いものを食べると身体が重くなり、水分を排出できないため大量の寝汗をかくようになった。
人工透析とは、機能を失った腎臓に代わって、排出の役割を果たす装置であり、日本では約30万の人が透析治療を受けている。腕に針を刺し、週3日・1日4時間から5時間血液をろ過して、透析治療をする。
透析を始めるにあたって、まずシャントの手術を行う。人間の手首は、静脈が表面に、動脈が骨に近い部分にある。透析は動脈に針を刺し透析機械に流し、浄化された血液を静脈に戻す治療だ。動脈が腕の奥深い骨の部分にあると針が刺せない。
そこで動脈を手術で手首の表面に移し、シャントを作る。私の手首の表面は太くて青黒い動脈が流れ、触ると高圧電流が流れているようにドクドクする。手首の表面を無防備に流れる動脈のせいで、私は重い物を持てない。動脈を傷つけたり重量で圧迫したりすると血液が噴き出し、命にかかわるからだ。
塾生に「触ってみろ」と触らせたら、「わっ」と叫び一瞬で怖くて手を引っ込める。中2理科の「腎臓と排出」で人工透析の話をすると、塾生は思いっきり食いつく。まさに生きた教材だ。
人工透析は、以前は死亡率が高かった。透析始めてから2〜3年で死亡するケースが大多数だったという。機械が未発達なので、毒素とともに健康維持に必要な部分も血液から取り出していたらしいのだ。かつて透析は一種の末期医療だった。
現在は透析の技術も進歩し、透析患者の存命率は高くなっているが、やはり透析患者の死亡率は高い。病床からはどんどん患者が消えていくし、野球のドカベンの香川伸行も人工透析を受けて早死にした。
また透析患者は感染症にきわめて弱い。コロナにかかったら私は健常者の数倍高い確率で死ぬ。
そして、私は透析しなければ、早くて2週間で死ぬらしい。心不全による呼吸困難や、尿毒症による神経障害が起こり、命が絶たれる。
腎不全は命に関わる病気なので、患者には障害者手帳が交付される。透析患者になって、日本の社会保障の手厚さがわかった。透析患者の私には、月30万以上の医療費がかかっている。
しかし私が払う費用は月400円だ。しかも特別なものを除いて、どんな手術を受けても医療費は1回200円。またJRやバスの乗車券は半額(特急券は半額にはならない)、市バスに至っては無料、また観光施設も半額が多く、姫路城のように無料のところもある。また介添人1名まで無料や半額だ。実に手厚い。
おまけに障害年金も支払われる。私は月に7万円もらっている。国民年金を払っていてよかったと思った。この7万は授業料を相場より安くすることで還元している。誰が若い時に、自分が生涯を持つ身になろうと考えるだろうか?
尾道で水害があり、水道が止まった時も、水は最優先でうちの病院へ運ばれた、透析には大量の水が必要なのだ。東日本大震災の時の透析患者の苦難が想像できる。
このあたりの話も、中3公民の「社会保障」のところで触れている。
透析中は実に退屈である。
なにしろ4時間ベッドに寝たきりだ。うちの病院はスマホ禁止、しかも読書は左腕が透析の針、右腕は血圧計で拘束されているため事実上できない。
テレビはあるが、NHKの衛星放送を病院が契約していなくて、スクランブルがかかり大谷翔平の試合が見れない。だから八時台は「羽鳥慎一のモーニングショー」か「ラヴィット」を見ている。朝病院につきベッドで横たわり、子供なら泣きわめきそうな太い針を看護師が刺す時、玉川徹が画面越しで吠えていたのだ。
十時台からは衛星放送の2時間ドラマ再放送か「大下容子のワイドスクランブル」を見ている。
2時間ドラマでは渡瀬恒彦や小林稔持やや榎木孝明や船越英一郎や真野あずさや片平なぎさをローテーションで見ている。寺田農や尾美としのりや高橋かおりが劇中に登場したら80%の確率で犯人であることも分かった。
また、時には4時間ずっと考え事をしている時もある。
透析をはじめて日常生活も変わった。透析後は時間が拘束されるので、本やブログを書く時間がなくなった。透析前は本を執筆したりブログで長文を書いたりしていたが、授業準備やスキルアップのための勉強で時間が取れず、外に向けてのアウトプットは断念せざるを得なくなった。限られた時間は塾生のためだけに使った。
また透析後2時間は、頭痛と極度の疲労感に悩まされている。透析患者は尿が出ない。出たとしても少ない。だから水分が体に溜まる。私の場合2日で4Lだ。それを透析で一気に抜く。2lのペットボトル2本分の水分が抜かれると、当然疲労感がある。私の場合は、水泳で長時間泳いだ後と同じタイプの疲労感だ。だが、なぜか生徒の前に出ると、疲労感がピタリとやむ。
時間が拘束される以外は、私はほぼ、健常者と同じ生活をしている、だが、透析をやっていたら、大規模な塾はできない。
塾は絶対に続けたかった。他の職業への転身など全く考えなかった。私は、真面目で向上心ある塾生が成長し成功するに立ち会うのが生き甲斐だ。この年齢で、しかも疾患持ち。どんな企業からも粗大ゴミ扱いされる。「生涯塾講師」と言えば格好いいが、実際は「障害塾講師」だ。
熟考の末、塾の縮小を決意した。
まず、塾の教室を小さくした。病気前は、比較的広い貸しビルのテナントを借り、手広く塾をやっていたが、身体の負担を減らすため古い木造建築の自宅を改装し、こじんまりした塾に変えた。
さらに、高校部を廃止することにした。高校部はストレスが溜まる。小中学部ならやっていけると判断した。
広島県の公立高校入試は、他の都道府県と比べて合格しやすく、試験直前に切ったハッタのピンチは少ない。これに対して大学受験は「命」をかけた戦いである。身体的には大丈夫だが、精神的に高校部はもたないと思った。高校部の募集はストップし、残っている塾生の面倒だけはしっかり見て、高校部はフェードアウトしていった。
いま考えると私は、楽な道を選んでしまったのだ。
私は高校生に厳しい。
たとえば偏差値が70の九州大学志望の子がいるとする。しかしその子の偏差値が55しかない。偏差値15の差を埋めるためには、猛勉強をしなければならない。
だが、他塾の中には「何とかなるさ」という態度で接し、厳しいことも言わず、そのままダラダラ塾に在籍させて、案の定共通テストで失敗し、2ランク3ランク下の大学にしか合格できない。それでも「君よく頑張ったよ」「合格は先生のおかげです」と慰め合う。
私はそういう生温さが大嫌いだった。
仮にも九大に合格したければ、それ相応の努力しなければ合格しない。偏差値を15上げるには、起きている時間全部勉強する気概がいる。私は意識が甘い子には本気で向き合い、メチャクチャ発破をかけた。妥協はしない。そうすると「先生にはついていけない」「先生の高い要求にこたえられない」と塾を辞める子が出てきた。
「高い志望校に到達するには、それ相応の努力をせよ」という正論が頑固さと受け取られた。仕方のないことではあるが、何で大きな可能性があるのに、才能を無駄にするのかと忸怩たる思いが残った。
こんな私の強引なやり方では、残った子が少なくなる。でも、塾に残った子は私の要求に必死に食らいついてきた子ばかりだ。当然強い愛情が芽生える。偏愛と言っていい。また塾生たちも、私が表面上は厳しくしていても実は溺愛されていることを、よくわかっていた。強すぎる絆で結び付いていた。絆が強いからこそ、絶対に合格させてやらなければならない。プレッシャーで私のストレスは溜まった。
こんな私だから、高校生の模試の結果に神経質になった。
結果が悪いと胃が固まって石になる。食べ物を全く受け付けない。自分の指導の至らなさで、自虐の塊になった。私のせいで塾生を私が不幸にしたんだと。また、私がこれほど不安に駆られているのに、当の本人がのんびりしていると、さらに食欲が減退した。
血圧も高騰した。ひどい時には血圧が250まで上がった。情熱型の指導者は、血圧との戦いだ。星野仙一が阪神の監督をやめる時、ストレスで血圧が190まで上がって、ドクターストップがかかったという。私の血圧は星野仙一より高かったのだ。
逆に、塾生の模試の結果が良いと、食欲がわく。食べるもの何でもおいしい。食べられない時期の大反動がくる。ある時は暴食、またある時は絶食という不健康極まりない食事サイクルが蓄積して、私の足は腐り、腎臓の機能が止まった。
高校生と勉強することは私の生き甲斐だった。塾生とともに第一線で勝負している充実感があった。人生を預かっている責任感が快感だった。だが同時に、明らかに強いストレスになっていた。表面上は何ともなくとも、血圧と血糖値が私がいかに重圧に耐えているかを示していた。
だから泣く泣く高校部をやめた。塾から中学生が卒業する時、「私がもし健康だったら高3まで教えられたのに・・・」とつらい思いを毎年した。
こういうわけで、修羅場の大学受験をやめ、小中学生だけの、のんびりした塾へ移行していった。
そんな時期に私の前に現れたのが、小6のシンタだったのである。
(続く)
]]>建物も小綺麗なビルではなく、尾道の古い木造建築でやっている。「家塾」といえば聞こえはいいが、見栄えはあまり良い方ではない。場末のボクシングジムのような環境である。
しかし、建物は四流、生徒は一流だ。「厳しい」という評判の塾の門を敢えて叩いた、向学心のある十代の若者が、将来ひとかどの人物になることをめざして、真剣に学んでいる。
これから語る長い記事は、小6から高3までわが塾に通い、京大工学部に現役合格したシンタという若者の、努力の軌跡である。
真面目とか根性とか、いまでは前時代の遺物のように扱われている。だが、大人が真面目でひたむきな若者に肩入れしたがるのは、昔も今も変わらない。
私はシンタの、現実離れした真面目さ、大人の知恵をまるごと吸収しようとする素直さ、そして強い意志を内に秘めた上昇志向に心を打たれ、絶対にこの男を京大生にしようと、真剣に教えてきた。
京大合格という高い目標をめざす若者の熱情は、大人を動かすチカラがあるという事実を、この記事で知っていただくことを願う。
シンタは小6の11月に入塾した。
お母さんと面接に来た時、私はシンタを一発で気に入った。色白で眼光に知性がある。インテリ特有のメヂカラがある。見るからに賢そうな男の子で、緊張して顔が少し赤くなっているのにも好感を持った。しっかりしているのに、子供らしい。
シンタは見た目通り、学力が高かった。彼は尾道の土堂小学校、陰山英男氏が校長を務めた教育水準が高い小学校の生徒だ。基礎学力はしっかりしている。
しかも彼は学習塾に通った経験がなかった。中学受験はしないという。首都圏関西圏なら、彼ほどの男ならSAPIXや浜学園に通っているはずだ。手つかずの才能を、私が教えることができる。心が弾むと同時に、宝物を預かったみたいで武者震いした。
彼の頭脳は、作物がまだ植えられていない肥沃な土地だった。小学校の先生とお父さんお母さんが、丹念に開墾した土地だ。そして種を蒔くのは私の仕事。種子を一粒落とすやいなや、ジャックと豆の木のように茎がぐんぐん伸びていきそうだった。のびしろしかない。
シンタは、自転車で塾に通った。
尾道は山が海まで迫り、ウナギの寝床のような細長い平地に、長い長いアーケード商店街がある。室町時代からの古い港町で、神戸や長崎や小樽に似ているが。規模はずっと小さい。
シンタは商店街の西の端から、東の端のアーケードが切れ、さらに少し離れた場所にある私の塾へ、自転車で往復する。
塾が始まるのは19時15分。彼は必ず19時12分から13分、ピタリとギリギリに塾に到着した。時間管理が正確な男だ。彼は7年半塾に通い続けたが、遅刻することも、早く来すぎることも一切なかった。何もかもピタリ正確だった。
私は彼のお父さんお母さんが、個人塾に、そしてこの私に、シンタを預けて下った意味を考えた。
うちの塾は昔気質で、塾長に一癖も二癖もあると毀誉褒貶はげしい塾だ。いい加減な子には「ブラック塾」「パワハラ塾長」と言われても仕方ないくらい厳しく冷たく接する。
だが、向学心ある真面目な子には誠心誠意尽くす。シンタのお父さんお母さんも、私のそういう点を見込んで入塾させて下さったのではないか。クセは強く劇薬だが、真面目なシンタと私なら、相性がいいのではないかと。
また、シンタのお父さんお母さんは、大手塾の画一的な教育はさせたくない。大勢の中の一人ではなく、小規模で個人塾で丹精込めて育てられることを望まれたのではないか。江戸時代の武家が、武士道を学ばせるため厳しい師範のいる道場に子弟を通わせたように。
彼は首都圏・関西圏の難関中学にいても遜色ない力を持つ男の子だ。どんな無能な教師でも伸ばすことができる。だが、せっかく個人塾でお預かりした以上、誰にもできぬ成果を出さねばならない。
私は、シンタの力を最大限に発揮させる戦略を練った。
彼は算数ができた。典型的な理系の頭脳だ。小さい頃からパズルを解くのが好きだという。将来は明らかに将来難関大学を狙える。おそらく医学部か工学部か理学部だろう。
だが、シンタは中学受験の複雑な算数を解いた経験がない。難関大学理系数学では、中学受験で難しい算数を経験した子が有利だ。中学入学までの4か月、やるなら中学受験算数だ。
私は一般的カリキュラムを無視して、図形・割合・速度・数の性質など、シンタが将来中学受験経験者に負けないように、中学受験算数をやらせた。いわば「擬似中学受験」だ。算数以外は一切やらせなかった。難関大学受験への布石を打った。
中学生になったシンタ、学業成績はきわめて順調だった。
定期試験では、5教科450〜480点ぐらいをコンスタントに取った。学校のテストだけでなく模試でも高い偏差値を出していた。
シンタは自分の成績だけでなく、間接的に、他の塾生たちの成績も上げた。
塾では定期試験前、勉強会と称して7〜8時間塾にカンヅメにする。シンタは塾で拘束しなくても、家で自主的にできる男だ。だが私は他の子と同じように塾で勉強させた。
その理由は、彼が勉強すると、まわりに凛とした空気を醸し出すからだ。彼の集中力が教室に波及した。シンタという生きた手本がいたから、まわりの子が覚醒した。
またシンタは、いい意味での臆病さを持っている。勉強ができる子、いわゆる秀才は、シンタに限らず臆病さがある。官僚がその典型で、怖い政治家の心理を忖度できる、感度が高いアンテナを持っている。秀才は先生の意図を忖度できるから、学力が高まるのだ。
私は怒りをストレートに表現する怖いタイプの塾講師だ。だけど、現在の塾は、叱ると退塾が相次ぎ経営の差しさわりがあるため、ある大手塾のマニュアルには、生徒を絶対に怒ってはならないと書いてあるという。もし私がその大手塾の講師になったら、たった10分でクビだ。
シンタは小中学生の間の3年半、一度も私に怒られたことがない。彼は私が怒るツボを知り尽くし、忖度し、避けるのがうまい、他の子を叱っていても自分が叱られたものだと解釈し、ますます真面目さに磨きをかけてきた。叱られた当人が無神経に同じ過ちを繰り返すのとは対照的だ。
また私が彼を叱れないのは、シンタには、どこか高貴なバリアがあるからだ。シンタはアジアの英明な君主、たとえば昭和天皇やタイのプミポン国王の幼少時のような、知性が醸し出す侵しがたい威厳がある。
それに加え、彼は負けず嫌いだ。
シンタは幼少の頃からピアノを続けているが、一年ごとに開催されるピアノの大会のHPを見ると、シンタは一年ごとに成績を上げている。自分より上のライバルがいると、次の年には追い抜いている。骨の髄から負けず嫌いなのだ。
また、たとえばある時、私がシンタに「定期試験、中学校で1番取れた?」と聞くと、「今回は2番でした」とこたえた。「今回は」の「は」に、彼の負けん気が現れていた。色白の端正な顔立ちなのに、オスの闘争本能を持ち合わせていた。
負けず嫌いの子は、勉強方法を間違えない。勉強は高い得点を取るためという目標が明確なのだ。だから点数に直結しない無駄で非効率な勉強をしない。
目標がぼやけている子は、答を写したり、教科書を丸写ししたり、得点に結びつかない勉強を平気でする。時間をつぶすだけの勉強法をとる子は、高得点を取ろうとする野心が欠如している。
そう、シンタの勉強法に無駄がないのは、彼がピアニストであることが大きいと分析する。
ピアノのミスは、残酷にも即座に音でわかる。ピアニストは「1日怠ければ自分にわかる、2日怠ければ批評家にわかる、3日怠ければ聴衆にわかる」という厳しい世界に生きている。
ピアノの先生から新しい曲の課題を出される、難曲にチャレンジし、ミスしないために練習をし、微調整をし、納得する音が出るまで練習を繰り返す。ピアノの練習はtrial & errorの反復だ。
ピアノ上達のノウハウが、勉強で生きた。ピアノのミスを即座に直す習性が、勉強でミスを瞬殺することに結びついたのだ。
同時にピアノは脳の力を上げる効用があるらしい。東大合格者数一位の開成高校では、中学の3年間、音楽の時間にピアノを弾くという。右手と左手が別の動きをするピアノの練習で、学力が高まっていくのだという。シンタにピアノを習わせたお母さんは慧眼である。
さて、シンタの志望校は、尾道北高だ。
ここで広島県の公立高校入試状況を説明すると、広島県の公立高校は他都道府県に比べ合格しやすい。県が重点的に力を入れている県立広島高校という特殊な高校を除き、尾道北や福山誠之館のような最難関高校でも偏差値50台後半で合格できる。偏差値が70前後なければ最難関校に入れない他都道府県と状況が違う。中学受験が盛んな土地柄で、優秀な子が六年一貫中高に流れてしまうのだ。
正直、広島県の公立高校受験は牧歌的だ。とくに広島県東部は際立った私立高校もなく、偏差値75の超難関校である広島大学附属福山高校はあるが、狭き門だ。附属福山高校から公立最難関高の尾道北まで、偏差値にして20近く差がある。
ということは、広島県東部の勉強が得意な中学生は、附属福山高校を目標にしなければ、偏差値55の尾道北や福山誠之館を目標にするしかない。中学校のクラスの上位1〜3番の生徒にとって、公立高校受験は刺激がないのである。
シンタは成績的にも素質的にも、附属福山高校に合格する力は持っている。だが尾道から福山は遠く、尾道北高は家の近所なので、通学時間を考慮して尾道北高を選んだ。私も賛成だった。
また附属福山高校は自由な校風で生徒を縛り付けず、逆に尾道北高は課題が多く厳しい。入学してからの安定性では尾道北高に軍配が上がる。シンタの生真面目な性格は、尾道北高に合っていると判断した。
尾道北高はシンタにとって、絶対合格できるラインにある。彼の偏差値は70前後、偏差値55の尾道北は絶対安全圏だ。
シンタの公立高校受験を衆議院総選挙にたとえれば、自民党の大物政治家、たとえば安倍晋三や麻生太郎や石破茂が、小選挙区で絶対的に強いのと同じことだった。
高校受験が無風状態だと、潜在能力が生かしきれない。一流アスリートの卵に対して、学校の体育の授業で我慢しろと言っているようなものだ。才能には負荷をかけないと「もったいない」と思った。
そこで私は、中3夏休みから、シンタに高校英語を先取りさせた。
彼の高校受験が無風状態なのを利用して、中3終了時にセンター試験で6割取れるくらいのラインまで、文法・単語・読解の三位一体で力を伸ばそうと考えた。
広島県の公立高校入試が緩いのを逆手にとり、高校英語を先取りし、フライングする作戦だった。
読解は『速読英単語・入門編』『速読英単語・必修編』、単語は『システム英単語』を使用した。彼は数学ができるので、文章構造の把握は抜群だった。主語と動詞が離れていても、複雑な挿入や倒置があっても、少しの訓練で見抜けた。
だが英単語は苦しんだ。「解釈は成り易く、単語は成り難し」だ。膨大で難解な高校英単語に、さすがのシンタも四苦八苦していた。
私は英単語を語源・語呂を駆使して説明した。執拗に反復もした。シンタは英単語のストックを確実に増やし、『システム英単語』の1章・2章・5章までほぼ完璧に暗記することができた。
シンタは予想通り、尾道北高に合格した。推薦だった。
シンタは誰よりも早く、2月初旬に高校受験から解放された。だが、シンタは勉強の手を緩めなかった。ここがシンタの凄いところだ。
普通の中学生は、高校受験合格から入学までは、受験で燃え尽き遊ぶ時期である。この時期に勉強したら差をつけられるのはわかっているが、過酷な高校受験の後で、さらに勉強を続けることは、現実的には難しい。
先生の側としても勉強してほしいのは山々だが、強制的具体的指示までには至らない。「受験のあとなのにかわいそう」と甘くなってしまう。
しかしシンタは高校受験が終わっても、ハードな勉強を当然のように受け入れた。土日は1日6時間塾で拘束し、家でも暗記するようシンタに命じた。極端な話、シンタは高校合格前よりも後の方が勉強していた。シンタは自分の目標が高校受験ではなく、大学受験であることを熟知していた。シンタは高校合格直後、英語をひたすら猛勉強した。
だから、シンタは京大に合格したんだ。
そして、シンタと別れの日が近づいてきた。
実は、私は病を抱え、高校部の募集はストップしていた。中学生はなんとか教えられるが、人生が懸かる高校生は難しい。彼が小6で塾に来た時、彼の先生でいられるのは中学3年の終わりまでだと諦めていた。 私の身体では高校生を教えることができない。もし私が健康なら、シンタを手放すわけがない。無念だった。教えたくても教えられないのが、どれだけつらいことか。
中学3年の後半から、しばしば授業後にシンタを呼んで、大学受験の話をした。「シンタ、ちょっとこい」と言って、膝詰め談判をした。
彼は難関大学をめざす力がある。難関大学合格への心構え、勉強のやり方、具体的にどんな本がいいか、高校3年の夏ごろの模試にはどう対策すればいいか、根幹も細部も教え込んだ。高校生になって教えられない分、いま凝縮して言っておかなければならないのだ。私は遺言のつもりで語った。シンタは体を硬直させて聞いていた。私の身体からは、おそらく殺気が出ていたに違いない。
私は正直、シンタと大学受験をいっしょに戦いたかった。
大人は依存してくる子供より、自立している子供の方を評価する。シンタは自主性があり、自分が今何をやるべきか判断できる男だ。お互いに敬意を持ち合っている師弟がともに戦えば、良い結果が出る確率は上がるかもしれない。
だが、ついにシンタと別れる日がきた。
最後の授業、3月16日、ラフではあるが『速読英単語・必修編』を完走した。『システム英単語』も暗記した。挫折率が高いこれらの本をやり遂げ、しかも中学生のうちに終わらせたことは、大きな自信につながるだろう。これでなんとか素晴らしい高校デビューが飾れる。
次の日、シンタとお母さんが私のもとに挨拶に来られた。通夜のようだった。なんだか私とシンタの全十回の連続ドラマが、三回ぐらいで打ち切りになったような気がした。私は終始暗い顔をしていたようだ。シンタものちにこの時「先生に捨てられた」と、お母さんに語ったそうである。
ここで終わってしまうのか。
シンタは塾を卒業した。
(続く)
]]>
中学部の目標は、「尾道北高・東高・福山誠之館・附属福山」に合格させることです。
高い才能を持つ子の学力をさらに伸ばし、隠れた才能を発掘し、人生を変えてみせます。
将来、ひとかどの人間になりたい、自分を高めたい、向学心と知的好奇心がある子には、最高の居場所だと自負しています。
たとえるなら、広島カープのような塾で、一生懸命勉強して這い上がろうという子が多いです。塾生はたいてい根性型です。
「夏の特訓」では、短期間で勉強に対する意識を上げ、カルチャーショックを与え、勉強の楽しさと厳しさを同時に教え、他の塾ではできない、勉強を通した人間力の形成を行います。
そして成績を「爆伸び」させ、イマイチ伸びなかった子供の学力を「魔改造」したいと考えています。
日程は以下の通りです。
中3
●費用
32,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/20(水)・22(金)・26(火)・29(金)
◇14:30〜17:30
8/1(月)・2(火)・3(水)・4(木)・7(日)・8(月)
9(火)・10(水)・18(木)・19(金)・22(月)・23(火)
◇19:15〜21:45
8/26(金)・30(火)
中2
●費用
24,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/18(月)・21(木)・25(月)・26(火)・28(木)
8/1(月)・2(火)・4(木)・8(月)・9(火)
20(土)・22(月)・23(火)・25(木)・29(月)・30(火)
中1
●費用
24,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/20(水)・27(水)
◇16:30〜19:00
7/23(土)・30(土)・8/2(火) ・3(水)・4(木)・9(火)・10(水)
18(木)・20(土)・23(火)・27(土)
小6(中学受験はめざしません)
●費用
21,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇17:30〜19:00
7/18(月)・20(水)・22(金)・25(月)・27(水)・29(金)
8/1(月)・3(水)・8(月)・10(水)・19(金)・22(月)・24(水)
26(金)・29(月)・31(水)
お申込み、お問い合わせは
kasami88@gmail.com
まで、よろしくお願いいたします。
]]>主な動機は、大学で行える研究の内容が自分の将来やりたい事と一致していたからです。
長いようで短くもある高校3年間の受験期を乗り越えるにあたって何よりも重要なのは、志望校を早く決定し、それを貫き通すということです。
1年生の僕にとって京大の情報学科は手が届かないような高みにある大学でした。
それでも情熱と夢はふんだんにあり、この気持ちを3年間持ち続け、そこに向かってひたすら進むことが何よりも大切なことです。
その気持ちをずっと支えて下さったのが笠見先生です。
先生が僕のことを最後まで信じて下さったおかげで、苦しい時でも迷いなくずっと京大だけを目指して進むことができたと思っています。
先生と僕の3年間の軌跡を書いていきます。
僕はこの受験勉強の中で、大きく3つの失敗をしました。
第一の失敗は、1年生の夏のことです。
先生との受験勉強が7月にスタートした直後、「まずは英語を固めよう」ということで、夏休みの間に「DUO」と「システム英単語」の例文を全て覚えてくるように言われました。
先生としては、ここでスタートダッシュを決め、英語で圧倒的なアドバンテージを得る予定でしたが、夏休み後に行った例文のテストで僕は惨憺たる点数をとってしまいます。大げさではなく0点に近いものでした。
夏休み中、先生に対し、自信に溢れた大言壮語を散々吐いておきながらのこの結果であり、当然ながらもの凄くお叱りを受けました。
中学までやってきた暗記の仕方では詰めが甘く、大学受験では到底通用しないと思い知らされます。
何度も何度も紙に書いて覚える、といった泥臭い勉強法の大切さを学んだ事は収穫でしたが、英語のスタートダッシュは確実に遅れました。
第二の失敗は、1年生の3月から2年生の6月にかけてのコロナによる休校期間中でした。
僕はこの間、数学の黄チャートの習った範囲を3周ぐらいして基礎を定着させる、という作戦をとりました。
基礎を固めることは、受験においてとても大切ですが、京大を受ける上でこの勉強法は不十分でした。
京大数学では、誘導形式の問題が少なく、難問へのアプローチ、発想力が問われます。
僕はここで、基礎をやるだけでなく、休校中の大量にある時間を使って、難問をたくさん解くべきだったのです。
追い込みの時期になってくると、一問を数時間かけて解く、ということは難しくなります。時間のありあまるこの時期に、基礎の定着という守りに入って、難問をガツガツ解く、という攻めた勉強法をしなかったのは、怠惰でした。
第三の失敗は理科です。
地方の高校から難関校を目指す際に、理科が最大のネックになります。
中高一貫校の生徒は、高校2年生までに理科の全カリキュラムを終わらせ、高校3年生の間は問題演習ができます。
僕の場合、理科のカリキュラムが終わるのが3年生の秋頃だったため、その時点でそもそもハンデを背負っているようなものなのです。
僕はその事実を先生に聞いて、知っていたにも関わらず、学校の進度に合わせて悠長に基礎固めをしていました。
本気で中高一貫校の生徒と戦うなら、「スタディサプリ」などの映像授業でも使って、積極的に先取りすれば良かったのです。
このしわ寄せが、3年生になって過去問に取り組むタイミングが遅くなるというところに来てしまいます。
難関大学を受けるという人は、特に3つ目の理科の事例は反面教師にして欲しいと思います。
次に各科目の勉強法について書きます。
〈国語〉
1年生の9月から京大の過去問を解いていました。
京大の国語は、とにかく大量に記述させる問題なので、その長い文章を読みやすくまとめる力が必要となります。
文章力、記述力は自分で書いて添削を受けなければ成長しません。
学校で課題として出される国語の問題集もありましたが、記述量は30字程度で、京大の問題に十分な文章力の養成は見込めませんでした。
また、よく読書が効果的、と言われますが、僕は読書量が不足しており、読書時間が十分にとれない状況にありました。
そこで先生は、僕に「得点奪取・現代文」「現代文のアクセス」「現代文の開発講座」などの問題集を渡し「この問題の本文をじっくり読んで咀嚼して読書に変えろ。そうすれば短時間で濃い読書になる。」ということをおっしゃいました。
この勉強法と、文章を書いて添削してもらうことで、少しずつ記述力がついていきました。
〈数学〉
?A?Bについては、2年生ぐらいから京大の過去問を解いていました。
数?は、基礎内容が難しいので、3年生の始めぐらいまで基礎を固め、その後過去問に入りました。
過去問を解く際に「世界一わかりやすい京大数学」という本に沿って進めていきました。
この本は、どのようなアプローチでその解法にたどり着いたのか、という過程を詳しく、受験生目線で解説している、京大受験生のバイブルのような本です。
また、「京大数学プレミアム」という本にもとてもお世話になりました。
1900年代の古い京大数学の問題を主に集めた本で、青本、赤本にも載っていない年代の難問を経験でき、これによって「世界一わかりやすい京大数学」+αの力がつきました。
さらに、3年生の秋、合否を分けたと断言できる勉強法を先生が提案して下さいました。
その内容は単純なもので、一日に最低3問以上数学の過去問を解いて、紙に記録する、というものです。
数学は一日でもやらないと勘が鈍り、鉛のような頭になってしまい解法が閃きづらくなります。
僕の受ける学部では、数学が最も差のつく科目だったので、この勉強法によって本番直前まで頭の冴えを維持し続けることが出来たこと、そして誰よりも大量に過去問を解いた、という自信を持てたことは本番の結果にも大きく影響したと思います。
〈英語〉
国語と同様1年生の9月から過去問を始めました。
京大の特徴として、とても複雑な構文の和訳が求められます。
「ポレポレ」「英文解釈の透視図」の2冊をリピートすることにより、英文解釈はほぼ敵なし状態まで仕上げました。
また、「速読英単語上級編」「リンガメタリカ」などの難しい文章を読む訓練を積み、単語力と未知語の類推力を同時に養っていきました。
長文読解で最も苦しんだのは、「内容説明」でした。
英文和訳は早めに仕上がり、最終的には学校の先生にも太鼓判を押してもらえるぐらいになりましたが、「内容説明」は最後まで不安定でした。
直前に、京大模試の過去問の内容説明問題を笠見先生とノックのように解きまくり、本番までには完成させました。
英作文は「ドラゴン・イングリッシュ」「竹岡の英作文」「英作文のトレーニング必修編」「例解・和文英訳読本・文法矯正編」の4冊の本を復習しながら終わらせ、とにかく数をこなし、経験を積むと同時に英訳のストックを増やしていきました。
早めに英作文に取りかかったからこそ、大量の問題に当たることができました。
そして、英語と国語で大切なのは、1、2年生のうちに志望校の過去問で合格点がとれるぐらい完成させておくことです。
数学・理科に専念するためにも、英語と国語を安定させることが重要です。
〈物理・化学〉
進研模試の理科の点数が伸び悩み、8割の壁がなかなか越えられない状況が続きました。
まずは、3年生の秋ごろ、物理を打開するために「物理のエッセンス」で基礎を固め直し、「名問の森」で発展問題を大量に解くよう先生に勧められました。
それまで、他の問題集を何周かやっていてこの時期に問題集を変える、というのはリスキーな選択だったと思います。
しかし、これによって模試の点数が安定し始めました。
自分の演習量不足が解消された故か、それとも新しく使った問題集がうまくはまったのかは分かりませんが、作戦は成功だったのです。
化学もこの成功体験をもとに、学校で全カリキュラムが終わった11月頃「化学の新演習」を新しく始めました。
全てを解いて復習する時間は無かったため、それまで使っていた問題集で難問が不足していた平衡分野の補強と、習って間もなかった有機化学の演習を行いました。
有機分野の構造決定は元々自分が好きだった上に大量の演習をしたことで、超得意分野となり、入試本番でも得点源となりました。
京大の理科は全てを時間内に解けるようには作られていないので、自分の得意分野を作り、そこで確実に点を稼ぐほうが、点数も伸びるし心にも余裕が出ると感じました。
〈京大模試〉
京大模試は当然、他のどの模試よりも大切です。
通常の模試は、大学固有の問題とは毛並みが全く違うので、判定は正直そこまで当てになりません。
実際に僕の判定も、京大模試とその他の模試で大きく異なっています。
また、京大模試は慣れない環境で受験し、実際の入試さながらの緊張感の中受けられるので、1つの大きな目標として、また自分がこれまでやってきた勉強が正しい方向に進んでいたかを確かめる目的でも効果的に活用できます。
全国の京大を目指すライバルと競い合って刺激を受ける又とない機会です。
〈本番直前期〉
笠見先生の作戦により、配点の低い共通テストは地理以外を捨てて、家や塾ではほとんど対策を行いませんでした。
その分浮いた時間を二次の対策、特に数学と理科の過去問に充てていました。
結果、共通テストはこけてしまい、8割ありませんでしたが、二次対策はずっとやってきており、自信があったので、京大に出願しました。
また、私立大学の受験の重要さも痛感しました。
僕は慶應義塾大学に合格することができ、強力な後ろ盾を得た気分でした。
国公立入試の前に入試の緊張感に慣れておくというだけでなく、「落ちたら浪人かもしれない」という選択肢が消えたことは本番のメンタルに大きな影響を与えました。
本来かなり緊張していたはずの本番で、ある程度リラックスして実力を出せたのは、これまでやってきたことに対する自信と慶應の後ろ盾のおかげでした。
最後に笠見先生について。
僕はUS塾に小学6年生の頃から通いました。
当時US塾は先生の体調もあり大学受験をやっていなかったので、僕は高校入学後、塾を去りました。
しかし、高1の7月、先生から一緒に大学受験を戦おうとお誘いいただきました。
大げさに思われるかもしれませんが、この瞬間、僕の未来は変わりました。
笠見先生の力なしでは、僕の京大合格はあり得ませんでした。
そして、先生は身体に大きな病気を複数患っておられ、週に何度も病院に行って透析を受け、闘病しながら塾をやって下さいました。
本当に執念の如き熱意で、休日も返上して僕と一緒に本気で戦って下さいました。
さらに、笠見先生に教えていただいたことは、勉学に限りません。
熱のこもった文章を書くこと、目上の人に対して受け身ではなく、積極的なコミュニケーションをとることを何度も厳しく指導していただきました。
先生は何度も「お前を普通の京大生にしたくない」とおっしゃっていました。
この指導は僕が大学生、大人になってからのことも考えてのことでした。
まだまだ未熟ですが、このことは今後の人生で必ず僕を助けてくれるはずです。
これ程熱く、卒業後まで真摯に考えて下さる先生はどこを探しても見つからないと思います。
世界最高の塾講師だと僕は信じています。
大学受験をする人は、入試直前に「これだけ勉強して落ちるならもうしょうがない」、入試後には「これ以上の答案は書けない」と思えるぐらいまで努力して下さい。
一世一代の勝負に悔いを残さないように。
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私は5年前まで高校部をやっていましたが、一時中断しました。
大学受験は子供の人生を預かるものであり、精神的にきつく、肉体的にもほころびが見え始め、体を壊したためです。
野球の星野仙一監督は阪神時代、チームは優勝したのに監督を辞任しました。血圧が180を超えドクターストップがかかったからだそうです。対して、私の血圧は当時240。星野監督の遥か上をいくものでした。大学受験生を本気で率いていくのは、命がけです。
昔の高校部は外部から募集せず、ほぼ小中学生のころから教えてきた子どもたちだけを相手にした、ごく少人数のものでした。数人の高校生と、強く濃厚な師弟関係を結び、手塩にかけて鍛えてきました。長い年月、私がずっと教えきた子ばかりですから、不合格になれば私の全責任です。プレッシャーは相当なものでした。
しかし、おかげさまで東大・京大・一橋大・九州大・広島大・岡山大・愛媛大・埼玉大・早稲田大・慶応大・上智大・同志社大・立命館大・関西学院大・中央大・明治大・立教大など、小さな塾にしては自慢にしていいほどの合格実績を上げてきました。うちの塾は大手塾でなく小さな個人塾ですが、場末のボクシングジムが強いボクサーを出す気概で、教え子たちは、私の厳しい要求に耐え、よくがんばってきました。
誰もが同じ学力を持っているわけではありません。得意教科と苦手教科も人さまざまで、志望校もそれぞれ違います。でも彼らはみんな泥臭い努力をし、就職活動でもよい結果をもたらしました。
私にとって大事な高校部をやめる決断をしたのは断腸の思いでしたが、その後私の体調も快方に向かい、中学で塾を卒業する一部の子とも意気投合し、「高校になっても一緒にやろうか」ということになり、自然発生的に高校部を再開しました。
私が高校部を再開した最大の理由は、中学を卒業した塾OBの高校生たちの成績が、いろいろ噂を聞くに、あまり上がらなかったからです。正直、私より怖い先生は、周辺にはあまりいません。高校生になって甘い環境(世間一般で言えば普通の環境ですが)に慣れ、厳しさから解放され、家でゲームやYouTubeにはまり、そのうち勉強する気になっても時すでに遅く、もはや授業についていけない、そんなケースを数多く耳にしました。ゲームやYouTubeにはまってしまえば、せっかくの青春時代が台無しです。僭越ながら、私が高校生を教えるに耐えうる健康体だったら、ずっと一緒に頑張って来たのにと、忸怩たる思いでした。
また、北高の進学実績も大きく落ちているのも、再開の理由です。前年度北高は、旧帝大の合格者数はわずか3名でした。
高校生たちは、口では東大京大早稲田慶応、阪大九大神戸大、広大岡大と勇ましい目標を立てていても、相応の勉強量をこなしていません。意識も甘い。
特に難関大学は全国レベルの戦いです。ライバルは灘や開成にいるのです。都会の才能ある同級生と渡り合っていくには、意識の高さと勉強の質量、自信と負けず嫌いの性格、そしてこれが一番大事なのですが、「勉強を楽しむこと」が必要なのです。
地方では、勉強ができる子に対して、先生たちも「あの子は放任していても大丈夫」と満足して、厳しい言葉をかけたりはしません。神棚に置かれてしまっています。現状に満足し、お山の大将になり、才能をフルに生かせません。勉強が得意な子に対して「もっと這い上がってこい。君の力はこんなもんじゃないぞ」と、私みたいに刺激を与える人はいません。
地方の子は、都会の子にはない素朴さがあります。誰からも可愛がられる性格を持っている。これに学力が加われば、ハイパーな若者になれるのです。
いずれにせよ、大学受験勉強は、高校受験のように最後の3か月でスパートをかけ、追い越せるような甘いものではありません。「勉強界の大谷将平」くらいのポテンシャルがあれば別ですが、高校受験の成功体験を大学受験に持ち込めば、ひどい目にあいます。
私は高校生に対して、物分かりいい大人を演じたりはしません。ある時は厳しく、ある時は熱く励まし、10年後に「もっと勉強しておくべきだった」と後悔させないよう、強い視線で見守っていきます。
才能を生殺しにしないために。
■勉強はフライング
高校で成績を上げるには、スタートダッシュしかありません。学力が劇的に上がるのは、中学1年と、高校1年の入学前後と言われています。誰も勉強していない時期に抜け駆けしないと、学力の伸びは限定的になってしまいます。
特に英語のスタートダッシュが肝心です。
英語は、高1の最初、いや中3の3月からスタートダッシュをかまします。
「百ます計算」の陰山英男氏は小学生に、各学年の最初にその学年で習う漢字をすべて暗記させるそうです。小6で習う漢字を4月のうちに暗記したら、その後の勉強は楽になります。教科書の文章も、漢字を知っているからスラスラ読めるでしょう。最初に漢字丸暗記という負荷をかければ、あとは「国語を楽しむ」ことができます。
英語も同じです。
私は高校3年間の基本単語、共通テストで必要な最低限を、高1の1学期ですべて暗記してもらいます。すでに高校受験が終わった塾生は、合格発表直後に高校英単語を暗記し始め、高校で必要な単語の3分の2は、すでに暗記し終えました。まだ高校受験が終わっていない子も、合格の余韻に浸っている場合ではなく、高校受験終了次第ただちに暗記を開始し、順次追いついてもらいます。
「高1で高校英単語前倒しで暗記するなんて早すぎる」と思われるでしょうが、林修氏も「勉強にフライングはない」と言っていました。また陰山英男氏の漢字同様、英単語を暗記してしまえば、英文読解が楽です。一文にわからない単語が3つも4つもあるような難しい英文を、辞書を引きながら和訳する作業は苦しく、知らず知らずのうちに英語嫌いになります。
わからない単語だらけの英文を読むことは、砂利だらけの米の飯を食べるのと同じくらい不快です。
「英語を楽しむ」には、高校英語最初の3か月の、苦しい暗記が必要です。嫌なことは先にすましておきたいものです。暗記してしまえば、英文が読める、高校の単語テストで苦しまないといった、甘い果実が待っています。
■高1高2の勉強は ONとOFFの区別を
高校生で大切なのは、勉強と部活の両立です。
勉強すべき時と、部活に熱中すべき時の、メリハリが大事です。
高1高2のうちは、部活に燃えてほしいと思います。部活のいいところは、努力と結果の因果関係を肌で学べるところです。技術向上のために、作戦を考えトライアルする。試行錯誤の中で、最大の結果を得る方法論を見つけ出す。成功と失敗の絶え間ない繰り返しの中で、頭脳と身体の両方が鍛えられる。この経験は、勉強にも仕事にも生かせます。
高1高2の勉強面で重要なのは、「断続的な猛勉強」です。
高1高2のメインは「模試」です。正直、定期試験より模試の方が大事です。ベネッセや河合塾や駿台が実施している模試は、全国での順位と偏差値、それに志望大学の合格可能性がA判定からE判定まで出てきます。自分の学力がどれくらいのレベルにあるか、数値で一目瞭然です。
定期試験の範囲は学校で習った範囲なので、暗記したことが素直にそのまま出ます。範囲も狭い。
逆に、模試は範囲が広く、問題が難しく意地悪で、しかも「頭の良さ」を試す問題が出ます。
定期試験がバッティングセンターの棒球なら、模試はカープの栗林のフォーク、ジャイアンツ菅野のスライダー、オリックス山本由伸のカーブです。
US塾では定期試験対策に加え、模試対策も行います。模試はほぼ2カ月に1回、土曜日に高校で行われ、その10日前から模試を入試に見立てて対策します。
たとえば高2夏の模試なら、試験範囲は高1の最初から高2の1学期までの15カ月分と、かなりの量です。無対策で模試に臨むのは危険すぎます。
模試という「疑似入学試験」に本気で立ち向かうことで、入試に強い学力とメンタルを鍛えます。高1高2のうちは、OFFは青春を思いっきり謳歌してもらいたい、しかし模試や定期試験前のONの時期には、猛勉強してもらいます。
■高3では周囲がドン引きする猛勉強
高3の最初に決めた志望校、1年後に合格する可能性は何%だと思われるでしょうか?
ある統計によると16%だそうです。
6人に5人が第一志望に合格できない、高校受験に比べ、大学受験の厳しさがおわかりになるでしょう。
公立高校生の模試での順位は、高3になるとガタリと落ちます。理由は浪人生が同じ土俵で戦うようになること、そして中高一貫の難関高校の生徒がやる気を出し始めるからです。 広島県東部でいえば、附属福山高校の生徒が、成績を爆上げさせます。
六年一貫校の生徒は、中学受験で勝ち抜いてきた、算数数学の力がある子が揃っています。彼らは高校受験がないので、中3から高1の間は遊んでいます。
しかし高3になれば高校のクラスの空気が自主的に「戦う集団」になり、目の色が変わり猛追してきます。結果、大学合格者数は、難関高校の独占になるのが、お決まりのパターンです。
数学には一種の才能が必要なのは事実です。特に最近の入試は、理数系を強化し日本の国際的地位を高めたい国策からでしょうか、大学受験も高校受験も数学の難化が激しく、「天才」でなければ高得点が取れない傾向があります。大学共通テストの数学では、数学の才能がある生徒とそうでない生徒の格差が大いに広がり、パニック状態になりました。
だからこそ努力が裏切らない、苦労がそのまま得点につながる英語を味方につけなければなりません。「天才の数学、努力の英語」と言われています。英語の先取り学習、フライングが必要なのは自明の理です。
危機感を煽るようで恐縮ですが、六年間一貫の難関高校と同じリングで戦うには、高3になったら起きている時間すべて勉強するくらいの「狂気」が必要です。「狂」という言葉は誤解されやすいですが、もともとは「自分以上の力を振り絞って出す」という健全な意味です。
意識が高い塾生の中には、高3になると髪は勉強の邪魔だ、気合を入れたいと、頭を坊主にして頑張る子もいます。
繰り返しますが、入学試験数カ月前になってやる気になっても完全に遅いのです。
高1高2のうちは、勉強頑張る子に対して「そこまで勉強頑張らなくても」と冷ややかに見ていた高校生でも、試験数カ月前だけは「狂気」に陥るでしょう。しかしそれでは、高1の最初から将来を見据えてきた高校生に、勝てるわけがありません。精強なロシア軍に素手で戦いを挑むようなものです。
■過去問は楽しい!
しかし歴代の塾OBたちは、なぜかこんな受験勉強を口をそろえて「楽しかった」と言います。それはおそらく高3後期から「過去問」を中心に勉強するからだと分析します。
「過去問」は高校生を燃やします。
過去問のいいところは「スコア」が出ることです。人間は結果が数値化されるものに興奮を覚えます。過去問を解くことは、子供のゲーム、大人のゴルフに似ています。スコアに一喜一憂します。
いざマークシートの過去問をやってみる、最初のうちはスコアが低く、たとえば100点満点中43点しか取れない。悔しい。原因を探る、苦手分野を洗い直す、同じタイプの問題が出たら解けるよう執拗に見直しをする。成果を試すため、はやく次の過去問がやりたい・・・
こういうトライアル&エラーを繰り返すことで、高3生は本番に強い力をつけていきます。部活と同じで、努力と結果の因果関係を肌で学べ、学力向上のために試行錯誤し、結果を追求する楽しみがあります。
とにかく、高3になると、『黒子のバスケ』のZONEに入っているように見えるほど、猛勉強します。まるでゲーム感覚、ゴルフ感覚のように楽しいものです。
高3がもし一日14時間勉強していたら、まわりは苦しんでいるように見えますが、過去問でスコアを上げることに燃えている本人からすれば、14時間ゲームしているのと同じことです。
現在高3にシンタ君という京大志望の北高生がいますが、彼は京大の数学を過去30年分やり、しかもそれに加えて予備校模試の過去問を12年分終わらせ、もう解く問題がなくやり尽くし、同じ問題を反復しています。物静かな男ですが、猛勉強している彼には、まわりも引きずりこんで勉強させる、人格的圧力、威厳が漂っています。
現中3の塾生たちも実は、高校受験に向け広島県の公立高校の問題を、いま、大学受験と同じ感覚で解いています。私がすべて採点し、論述問題をシビアに採点し、結果を数値化し反省点を洗い出し、苦手分野を消していく。この一連の作業で土日が丸ごと潰れてしまいますが、ただ教材を解くだけ、ただ暗記するだけの単調な勉強より、健全な射幸心が刺激され、体感時間は短いはずです。
勉強というものは中途半端にやれば苦痛ですが、本気で挑めば快感です。
■論述力・文章力にこだわる
過去問はマークシートだけではありません。国公立大学の二次試験は論述問題です。
国公立二次試験は、文章力が問われます。大学受験の文型科目は、いわば文章力勝負です。
英語と国語は記述問題で、生徒自身では正確な採点はできません。US塾では論述問題を高1の夏ぐらいから実際に書いてもらい、私がすべて採点します。師匠と弟子の間の書簡のやり取りみたいな感じです。
高3の2次試験直前になって、英作文や現代文論述の添削をやり始めても遅いです。文章力は一朝一夕に身につくものではありませんし、大学の論述は、採点する英語ネイティブや大学教授の目にかなうものでなければならないのでハードルは高いのです。文章を書きなれた受験生と、そうでない受験生を、プロは一瞬で見抜きます。
私が中学生のうちから、塾生にメールで文章を書いて添削するのも、すべて大学受験の二次試験のためです。あれは大学受験論述問題の「早期教育」です。
またふつうの塾は、講義が中心、つまりインプットがメインになります。しかしUS塾ではインプットにプラスして、アウトプットを重視します。アウトプットとはすなわち、塾生自身が問題を解くこと、頭を使うこと、そして文章を書くことです。
一方的な講義だけでは、限界があります。
旧日本海軍・連合艦隊司令長官・山本五十六は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と言葉を残しましたが、「やってみせ、言って聞かせて」だけではダメで、「させてみせ、ほめてやらねば」子供は伸びないのです。
論述こそ、究極の「させてみせ」、実践的なアウトプットです。
■私は大学受験の「プロデューサー」
私は英語・国語・社会を教えます。数学・理科はタッチしません。私は私立文系大学の出身であり、数学理科は大学受験の科目になかったため、高校数学は教えるのを遠慮し、専門家に任せるのがベターだと判断しています。数学塾は別にお探しください。時間はこちらが合わせます。
私は文系科目だけを教えますが、 英語だけ伸びればいいという、そんな考えには立ちません。全教科に目配りします。苦手科目の苦手分野があれば映像授業を見せたり、本の紹介をしたりで、徹底して気を配ります。
全教科を上げるということは、「人格力」を上げることにもつながります。勉強に対する意識の高さ、若者らしい青春の燃える意気、将来ひとかどの人間になってやろうという野心、そして自分の力で誰かを救えるという自負心、これらの全人格力すべてが、勉強の結果に反映します。
私は塾生を「勉強だけの人間」にはしたくはありません。誰からも慕われ頼られる人間にしたい。ですから小手先の勉強だけ教えるという姑息なことはしたくないのです。学力が人格を高め、人格が学力を上げる。学力と人格は相関関係にあります。
とにかく高校部では、教科は英国社しか教えませんが、全科目に目を行き届ける「プロデューサー」的存在、さらにいえば、塾生が十代の若い殿様で、私が教育係の五十代の家老みたいな、参謀的存在だと思っていただければいいでしょう。
音楽の世界で、才能あるミュージシャンに寄り添う、ミスチルの桜井和寿を引き上げたプロデューサー小林武史的な、塾生の才能をどの方向性に向かわせたらいいのか絶えず考えるスタンスに立ちたいと考えています。
■受験生の「メンタリスト」
何よりも気を配らねばならないのは、受験生のメンタルです。
塾講師の価値は、生徒が不合格になった時の声掛けにあります。大学受験への第一志望の合格率は16%とお伝えしました。この確率を少しでも上げることが私の仕事ですが、残念ながら当然不合格もあり得ます。不合格になった子を前にして、ロシアのトゥトべリーゼコーチのような、ワリエワ選手が失敗した後に「どうして流したの」と冷たい言葉をかけたりできるわけがありません。
受験勉強は、本気でやればやるほど、精神的にきついものです。がんばっても成績が伸びない時のつらさは地獄です。そして、一生懸命勉強すればそれに比例して、不合格になった時の衝撃は大きいものです。ジェット機が墜落した時の衝撃が大きいように。
しかし、大学受験で万が一失敗した時、失敗を糧にできるような、むしろ失敗した時こそ新たな生きる力が湧いてくるような言葉をかけることが、私の最大の使命です。人生の岐路に立った時、私の言葉を塾生が素直に聞き入れてくるような、強い人間関係を構築していきたいと思います。言うは易し行うは難し、理想的過ぎて、大変難しいことではありますが。
■なぜ、大学受験を死ぬ気でやるのか?
本気で勉強して不合格になれば、精神的にダメージを食らいます。
しかし逆に言えば、合格した時の喜びは、本当に、筆舌に尽くしがたいものです。
合格発表で自分の番号を見た瞬間、頭がスパークします。
オリンピックで金メダルを取った瞬間、プロ野球の優勝チームの胴上げの瞬間、無名の漫才師がM―!グランプリで優勝した時の瞬間、そんな喜びの瞬間が、他の誰かではない、自分自身の身体を突き抜けるのです。どんなに嬉しいことでしょう。他の子が遊んでいる時に勉強を続けてきたつらさが、合格発表の一瞬で報われます。
合格したら、とてつもなく大きな自信になります。苦労して物事を成し遂げたとき、困難なことでも自分ならやり遂げることができるんだと、強い自信がみなぎります。そして、自信がある人に人はなびきます。受験勉強の成功が自信につながり、自信が他人を魅きつけるパワーをもたらすのです。
加えて、私は塾生に、他人から批判される人間になって欲しいと思います。他人から批判されるということは、自分から何かアクションを起こし、物事を進めていく行動力と気概があるからです。批判する人間ではなく批判される人間に、傍観者ではなくプレーヤーになってほしいです。
そんな強い人間になるための礎を、大学受験を真剣に取り組むことで、私の塾生たちには身につけてほしいと考えています。
塾生たちを、高校部における真剣勝負の勉強を通して、誰よりも凄い人間にしてみせます。
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