2022年3月10日。
京大工学部情報学科の合格発表の日。
発表時間は正午。受験生本人がスマホで合否を確認するシステムだ。
結果がわかりしだい、シンタから電話連絡がくる手はずになっていた。
合格発表数日前から、私は緊張で頭がおかしくなりそうだった。
身体の平衡感覚がなくなり、講堂がギクシャクし、自分の身体が自分のものでないような気分だった。
シンタは本番で、数学を6問中5問、完全に解いた。十分合格ラインだ。
ただ、5完したといっても、何が起こるかわからない。解答欄を間違えて書いているかもしれない。本番ができたものだから、気持ちは守りに入り、合格発表はかえって緊張する。
私の悲観主義は最悪の事態への想像力をマックスにまで高めた。
塾講師の仕事で、合格発表ほど嫌な日はない。合格発表の恐怖を少しでも軽減しようと、余裕で合格できるように成績を伸ばそうと知恵を傾けてきたが、本番のできが良かったことでかえって緊迫感は増した。
私とシンタには逃げ道がない。
狂ったように受験に打ち込んでいると周囲に公言してきた。
また、学歴なんかどうでもいいとか、偏差値なんか意味がないとか、逃げ道はいっさい封じた。保険はいっさい掛けていない。
京大現役合格あるのみという、唯一無二の価値観で突っ走ってきた。
呼吸が整わない。動機が収まらない。心拍数は上がる一方だ。
私でもこんなに緊張しているのに、シンタの重荷はどれほどのものか。
私が難関大学受験という修羅の道に誘わなければ、こんな息苦しい思いをさせることはなかったのに。
シンタには「普通の京大生になるな」と言い続けてきたが、この期に及んでは、合格最低点でもいいから受かってほしかった。
シンタには7年間、勉強の大事さを説いてきた。彼も私を信じて、必死に頑張ってきた。
シンタは私の戦略に忠実に従ってくれた。
小6からいっしょに勉強し、高1からの猛勉強、高3で丸坊主、共通テストすら捨てさせた。
シンタが不合格になったら、私はどう彼に詫びればいいのだろう。
どう責任を取ればいいのだろう。
私はシンタに「俺に任せろ、絶対に合格させる」と言った。
もし不合格になったら、私は嘘つきだ。
私は試験数カ月前、シンタに「お前がもし不合格だったら、不合格のマイナスをすべてプラスに変えるような言葉を、お前にかける。失敗してもポジティブになれる言葉で、精一杯励ます」と豪語した。
だが、そんな言葉など浮かぶはずなどない。
シンタが不合格だったら、二重の意味で嘘つきになる。
3月10日合格発表の朝、私は落ち着きを失い、塾で黙って座ってられなくなった。
サッカー元日本代表監督のオシム氏は、PK戦のときはグラウンドを正視できず、監督室に逃げていたという。私にもオシム氏の気持ちがわかった。
結果を知りたくない、聞きたくない、結果を知るのが怖い。
いてもたっていられず、塾を出て、電車とバスを乗り継いで鞆の浦へ行った。
鞆の浦は観光地で、かつて坂本龍馬の「いろは丸」が停泊し、宮崎駿の「崖の下のポニョ」の舞台になったと言われる地域である。
海の近くにいたら、少しは心が安静に保てると考えたからだ。
鞆の浦でバスを降りて、私は古い民家が立ち並ぶ区域を抜け、人気のない海岸まで歩いた。
あまり人里離れた場所に行くと電波が届かないので、神経質に電波を確認した。
海岸でそわそわしながら、正午になるのを待った。
正午。合格発表の時間だ。
シンタはスマホで合否を確認しているころだ。
12時2分。シンタはもう結果を多分知っている。
12時3分、12時4分、私のiPhoneは無言のままだ。
電波はしっかり届いている。連絡が来ない。
12時10分になっても連絡がない。
電波のアンテナは立っているが、実は電波が届いていないのだろうか?
私は確認のため時報の117番に電話した。
きちんと時報が鳴っていた。電波は届いている。
時報なんか聞かずとも、シンタに直接私の方から連絡すればいいのに、勇気がなかった。
シンタはたぶん、不合格なのだ。
いまお父さんお母さんと、家族会議の真っただ中だ。
家族でシンタを慰めている。シンタは私に結果を知らせたくても、連絡する手が重いのだろう。
シンタが不合格になったと知れば、私が落胆することは、シンタは理解している。
だが、シンタは不合格でも、すぐに連絡するタイプの男だ。
不合格になっても、毅然と「不合格でした」と連絡してくる人間だ。
では、なんで連絡がないんだ。
シンタはいつでも時間厳守だった。
塾でも授業時間に自転車を飛ばして定時に来る。京大合格発表という肝心な日に、時間を守らないなんてありえない。
いや、シンタは合格しているのかもしれない。
シンタは合格を知ったあと、お父さんお母さんと喜びを分かち合い、親戚に連絡し、高校の先生、数学の塾の先生に連絡している。
そのあとが私だ。
実は、シンタは私に一番に合格連絡をしてくれると自惚れていた。
私はシンタにとって絶対的な存在だと、どこかで思っていたのだ。
しかしそれは私の傲慢だ。私はシンタの栄光を助けた、ワンオブゼムにしかすぎない。
ただの縁の下の力持ちなのだ。
だが、縁の下の力持ちでいい。連絡が十番目でも百番目でもいい、絶対に合格してほしい。
もう、どうにでもなれ。
頭の中がゴチャゴチャになりながら、シンタからの連絡を待った。
12時13分、ついに私のiPhoneが震えた。
私の手も震えた。
電話を取った、シンタの声だった。
「京大の情報、合格しました!」
「おめでとう!よかったな!」
不合格だったら、どんな言葉をかけようと頭が逡巡していただろうが、合格した時の言葉はシンプルだった。
シンタは続けた。
「先生はいまどこにいらっしゃるのですか? 塾に来たんですけど、いらっしゃらなくて」
シンタは合格発表の後、自転車を思いっきり飛ばして、私の塾に来ていたのだ。
合格発表から13分も遅く連絡してきたのは、私に電話ではなく、直接会って合格を伝えるため、自転車を猛スピードで走らせてきたからだった。
いつものように、家から塾へ商店街を抜けて。
シンタはスマホで合否を確認したらすぐに家を飛び出し、私に京大生になった姿を見せようと、まっすぐに駆けてきたのだ。
「合格でも不合格でも、電話ではなく、先生に直接会ってお伝えしようと、最初から決めていました。」
シンタはサプライズを仕掛けてきた。私はシンタが直接合格を知らせに来るだなんて、想像すらしていなかった。
シンタは切れ長の目の、理知的な理系男子のような顔をして、まるで倉本聰のドラマに出てくる少年みたいな、純朴で熱い行動をした。
「先生はいまどこにいらっしゃるのですか?」
「塾にいるのが怖くて、鞆の浦に逃げてるんだよ。」
そのあと、シンタといろいろ話をした。
電話の最後に、私は聞いた。
「うれしいだろ?」
「うれしいです!」
私がシンタを厳しい大学受験の世界に引きずりこんだのも、この最高の一瞬を味合わせたかったからだ。合格の瞬間、一生長持ちする自信が備わる。
シンタの暗黒の青春時代は、最後に、輝かしい結果で終わった。
電話を切った。
切った瞬間私は、「よっしゃあ!」と叫んだ。
幸い、そこは誰もいない海岸だったので、遠慮なく大声で叫ぶことができた。
おめでとう、シンタ。
(つづく)
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シンタは幼い時からピアノを習っている。
ピアノは普通、小学生か遅くても中学生になったらやめると相場が決まっているが、シンタは高校生になってもピアノを続けていた。
小学校から高校まで、シンタは学校で式や発表会があると、決まってピアノを弾く作業に駆り出された。だから、シンタと同じ学校で面識のない子にも、シンタは「ピアノの人」として有名である。
高2の12月、シンタが通うピアノ教室の発表会があるので、向島の近代的なホールに見に行った。
シンタの発表会に参加する他の奏者は、小学生の女の子がほとんどで、女の子たちはドレスを着飾っていた。シンタだけ学生服姿の高校生男子で、思いっきり浮いていた。
シンタはベートーヴェンのピアノソナタ「テンペスト」の第三楽章を弾いた。
むかし大映ドラマ『赤い激流』で水谷豊が「毎朝ピアノコンクール」の決勝で弾いていた曲だ。
シンタは繊細な指使いで弾ききった。彼はこんなにピアノがうまいのか。
あれだけ狂ったように受験勉強していながら、裏ではピアノの練習も欠かしていない。かなりハードな練習をしないと、あれだけのピアノは弾けない。
勉強もピアノも一切手を抜かないシンタ。ピアノの演奏にシンタの継続性の凄みがにじみ出ていた。
二曲目は、モーツァルトのピアノ連弾曲を、若い女性の先生といっしょに軽快に弾いていた。
ピアノ教室の他の子どもたち、そしてその保護者の方々が、シンタのピアノに聴き入っていた。
ピアノを続けていると、こんなにうまくなれるんだよという、見本のショーケースみたいだった。シンタは塾でもピアノ教室でも、まわりの生徒たちのよい手本になっている。
あるピアノ教室の生徒の保護者の方から、シンタは「東京芸大をめざせばいいのに」と言われたという。
シンタは髪を少し伸ばし長髪気味だったので、雰囲気がほんの少しだけ、昔のドラマ『ロングバケーション』の木村拓哉みたいだった。
彼は大学に入って、女性をピアノの腕で口説くのだろうか。
シンタは「ピアノの王子」の空気を醸し出していた。
■受験一年前から頭を坊主に
ピアノ発表会から1ヶ月後、高2の1月、共通テストまで1年。
いよいよシンタも受験生である。
気分一新、私はシンタに頭を坊主にしろと命じた。
しかも1年間ずっと丸坊主。まるで昭和のスパルタ塾「入江塾」みたいである。
ブラック塾とかパワハラ塾長とか言われても、返す言葉がない。
高1の9月にシンタを誘う時に、「高3になったら気合で頭を坊主にしろ」と言った。
坊主で、シンタの本気度を試した。
シンタは即座に「やります」とうなずいた。
塾に復帰したら坊主頭にしなければならないのに、シンタは塾に帰ってきた。
この男には強い覚悟がある。
私の出身校である開成高校は、高3の5月の運動会が終わると、負けたチームの高3は頭を五厘刈りにする。ここから開成高校は受験モードに突入するのだ。
シンタにも開成に負けない意気を見せてほしかった。
またアメフトの強豪校関西学院大学は五厘刈りだし、バレエやバスケの強豪校は坊主だ。
私は、将来楽しみな若者は、若い時に厳しい修業の時期が必要だと考える、古い思想の持ち主である。
青春時代の一時期、見た目は気にせず修業して、長い人生へのエネルギーをため、まわりに何を言われても、我が道を進む強さを鍛えることが必要だと、私は考えている。
変なプライドを捨て、受験に青春をつぎ込む。坊主という髪型は、ストイックなシンタこそ、ふさわしいと考えた。
私は「時代に合った教育」という言葉が嫌いである。
今では学校も塾も、クレームや苦情に神経質になり、厳しさを前面に出すことが少ない。
生徒はお客さんで、まるで江戸時代の凡庸な殿様お嬢さまを育てるようなやり方が横行している。
現代日本の「時代に合った教育」とは、弱い人間を作る教育である。
だからシンタには時代に逆行して、「強い男」になってほしいし、彼にはその素養が十分にある。
坊主は前時代的で批判され、最近は野球部も坊主ではない。
だがシンタには古めかしい、クラシックな良さがある。彼は昭和を超え、明治の男のような空気を醸し出している。どんな時代にも生き残るのは、古典的なシンタのような男だ。
あえて頭を丸めることで、シンタの古典的な良さを引き出したい。時代に逆行すると見せかけながら、時代を切り開く男に育って欲しかった。
また、大学受験は、本番一年前から状況が変化する。
高1・高2までの模試は、地方の課題が多い進学校の子が結構上位を占めている。
しかし高3になると、中学受験以来五年間遊んでいた、中間一貫校の才能ある子が本気になり追い上げてくる。彼らは数学の図形や文章題、国語の読解力を中学受験で鍛えられているからポテンシャルが高い。
シンタは高1からスタートダッシュをかましている。だが、ここで油断しては貯金は底をつき、負けてしまう可能性がある。
京大には北野高校や東大寺高校や洛南高校など、京阪神の精鋭が挑む。彼らが本気を出してくる。彼らに負けさせないため、気を緩めず再び引き締めるため頭を丸めた。
シンタは本能的にわかっている。たかが断髪だが、髪を切る強い覚悟が、さらに「高み」につながることを。
結局のところ、私がシンタに「坊主にしろ」と命じたのは、言いかえれば
「俺が合格させるから、頭丸めてついてこい!」
という強く熱いメッセージである。
男気の世界なのだ。
だが正直、坊主はきつい。
芸能界を見ても、十代の男の子が「カッコいい」と思う坊主のタレントは少ない。
クロちゃん、バイきんぐ小峠、千鳥大悟、ハライチ澤部、あばれる君、U字工事の益子、鬼越トマホーク坂井、ハナコの岡部、くっきー、モグライダーともしげ、コットンのきょん、どぶろっく江口、ハリウッドザコシショウ、それにナダルなど、個性派キワモノ芸人どころか、嫌われ芸人すらいる。
シンタも心の中で、坊主には強い葛藤があるに違いない。
でも新年1月1日、シンタの頭を私が容赦なくバリカンで刈った。
長さは五厘。一番短い坊主である。
中途半端は嫌なので、一番短くした。
シンタには坊主の経験はなく、バリカンすら使ったことがなかった。
たった5分でシンタの長い髪はなくなり、頭は地肌が見え真っ白になった。
頭を刈る方も狂っているが、刈られる方も狂っている。
一瞬のうちに「ピアノの王子」が「永平寺の禅僧」に変身した。
シンタは勉強ができる。高校や普通の塾だったら、「できる子」として大事に扱われ、神棚に置かれるだろう。優等生だとちやほやされるだろう。
でもうちの塾では、厳しく鍛えられ、頭を坊主にまで刈られている。「できる子」に対する扱いではない。
そんな冷たい仕打ちにシンタは耐えた。
高校では、友人からいじられれるだろう。頭を触られまくるだろう。
でもクラスメイトの10人に1人の勉強意識が高い子は、シンタに敬意を抱くと思う。
受験勉強にここまでやる奴がいるのかと。自分も負けていられないと闘志に火が付くに決まっている。
シンタの坊主頭はライバルの意識を高め、クラス全体の意識が高まることで、シンタの意識はさらに高まる。私はそれを狙った。
その後、1か月ごとに散髪した。高3の1年間、シンタはずっと坊主頭だった。
頭を刈る時はシンタに「この頭で戦ってこい」「お前はすごい男だな」「誰にも負けんじゃねえぞ」などと言葉をかけた。
シンタはいつも、神妙な面持ちで刈られていた。
シンタが坊主頭になった姿を見て、塾は空気が凍った。
シンタは後輩たちから、真面目な先輩だと一目置かれている。そんな先輩の髪がない。
シンタは若き高僧のような威圧感があった。シンタが勉強していると、大伽藍の禅寺のような静粛が広がった。
坊主なんて自分にはできない。やりすぎだ。恥ずかしい。そう考える子は塾を去る。
でも去る子ほどまともなのだ。
でも私はシンタの坊主頭に感化され、「俺も受験生になったら死ぬ気で猛勉強してやる!」と、野心をむき出しにする「狂気」のある子に塾に残ってほしいのだ。
私は、「こいつは根性ある」と見込んだ後輩の塾生を、シンタの隣か真正面で勉強させた。
本気の大学受験勉強とはこういうものだと、強い残像として目に焼き付くだろう。
シンタの存在で「凛」とした空気の純度が100%になった。
坊主にして、駿台模試の成績も上がった。
坊主前の高2・10月の駿台模試では、
英語64.9・数学62.3・国語49.5・総合61.9
だったが、坊主にして一カ月たった1月の駿台模試では
英語72.1・数学63.2・国語62.7・総合69.9
まで上がった。
判定も京大情報C判定からA判定、髪を切った執念が実った。
シンタは性格面でも変わった。
坊主頭になって、おとなしく育ちのいいお坊ちゃまから、旧制高校のバンカラな生徒のような、大胆な面を見せるようになった。
高校の学園祭では、『ドラゴン桜』の桜木を演じた。
シンタは坊主なのでamazonでカツラを買い、熱演したそうだ。
そして劇の最後にはカツラを放り投げて、丸坊主頭をさらしたという。
観客は大喝采。
売れてない頃の綾小路きみまろが漫談中に、「今日は暑いですねえ」とカツラを外したという。きみまろに負けない身を捨てたエンターテイメントだ。
シンタは「まじめくん」の殻から抜け、豪放磊落で質実剛健な、面白い男に変身した。
■シンタの猛勉強をネットで公開した理由
シンタが坊主にして猛勉強する姿を、私はtwitterで公開した。
普通はこんなことしない。
ネット社会で、賛否両論が沸き起こる行為である。
だが私は、シンタの猛勉強の足跡を世間に広め、いろんな人に評価してもらいかった。
よく、経過と結果、どちらが大事かという議論になる。
私は結果を重視する。経過を評価してくれとは、甘えだと思う。
経過とは所詮、結果が出ない人間の言い訳ではないか。
しかしシンタの京大に向けて勉強する経過は格が違った。
気難しく、他人のことなど無関心な私の心を震わせ、驚嘆するくらい本気なのだ。
これは世間に広くアピールしなければならない、そう思った。
シンタが京大合格したら、京大生という固定した結果が残る。
だが、私はシンタの勉強の経過が、不合格になることで雲霧解消し、消えてしまうのが嫌だった。
シンタの猛勉強の経過を、現在進行形で形にして残したかった。
「シンタ君京大合格!」という結果だけでシンタを語られたくない。
シンタに限って経過は結果よりはるかに価値があるものだった。
だから私はシンタの経過を文章に固定し、twitterに日記のように記した。
また、、シンタの坊主頭の勉強姿をネットで公開したのは、シンタに重圧を与えるためだ。
重圧を与え、強い男にするためだ。
シンタが坊主で京大めざして頑張っているとネットで書けば、シンタが合格するかしないか、読者は興味をもって注視するだろう。
そういう意味では、シンタは小室圭さんと同じ立場だった。
坊主にしてまで不合格になったら、恥ずかしい。シンタに重圧がかかる。
でも私は、シンタが将来大きな仕事を任され、周囲の眼からプレッシャーを与えられた時の予行演習を、高校生のうちに経験させたい意図があった。
シンタは将来、万人監視の重圧の中、有言実行できる強い男になるだろう。
観客席で傍観する人間ではなくプレイヤーに、行動せず批判する人間ではなく、行動して批判される男になるだろう。
その日のための訓練を、高校時代にさせたかった。
■私の「狂気」を上回ったシンタ
私がシンタと大学受験の勉強を始める前、私の執念が、シンタを潰してしまうことを恐れた。
大学受験において、親や先生が、当の本人より受験に熱中してはならない。
だが、シンタの京大合格への執念は、私の執念を上回っていた。
大学受験の指導において、これまで私は桶狭間の時の織田信長のように、先頭に立って馬を走らせてきた。
しかし後ろを見ると、誰もついてこないケースが多かった。
私の狂気が、受験生を上回っていたのだ。
シンタはどうか?
私についてきているのか?
馬上から後ろを振り向いて、確かめた。
シンタの姿はなかった。
ところが、前を見ると、シンタは私の遥か先を走っていた。
私の本気より、シンタの本気が勝っていた。
私はシンタに負けた。
シンタは京大に向けて、狂ったように勉強していた。
シンタは休憩時間が異常に短い。
2時間ぐらいぶっ通しで勉強したあと「休憩しようよ」と声をかけると、シンタは水筒からお茶を飲む。
シンタの休憩は、たったそれだけ。お茶を飲んだらすぐ勉強開始。
まるで、走行中のマラソン選手が給水所で水を飲む姿と同じだった。
またシンタには感情の揺れがない。
いつも同じペースを崩さず勉強する。
静粛に、座禅を組む時のような平常心で勉強している。
サボっている瞬間がいっさいない。
私はシンタがあくびをするのを見たことがない。
おまけに、シンタから「頑張ります」という言葉は、いっさい聞いたことがない。
シンタは「頑張ります」なんて言わない。
言わなくとも、いつも頑張っている。
顔に「頑張っています」と書いてある。
シンタは言葉でなく実践の男だ。
「頑張ります」なんて馬鹿でも怠け者でも言える。生徒の表面的な嘘くさい言葉には騙されず、生徒を行動でしか評価しない私が、シンタを気に入るのは当然だ。
ある日、いつものようにシンタの頭をバリカンで刈っていた。
しかし、バリカンの刃がシンタの頭皮のニキビに当たり、少しだけ血がにじみ出た。
私は「大丈夫か?」と聞いた。
シンタは「大丈夫です」と、そのまま勉強を続けた。
高校生の男の子は髪型を気にする年ごろだ。しかしシンタは剃られた白い頭に、血をにじませたまま、数学と格闘していた。
シンタは十七歳の、普通の高校生ではなかった。
私はシンタが京大に不合格になったら、腹を切らねばならないと思った。
(つづく)
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シンタは商店街の端から端まで、相変わらず自転車を猛スピードで飛ばしてやってきた。
シンタは高校生になっても、小学生から同じ自転車に乗っていた。
賢い子はモノを大事に使う。
ただ、自転車はシンタの長身には小さすぎて前傾姿勢になり、しかもシンタの自転車をこぐスピードが異常に速いので、商店街を競輪選手が突っ走るような状態になり、とても目立っていた。
シンタが通う高校は、真面目な子が揃う。制服が濃い紺色で、着ると誰もが生徒会の風紀委員に見える。シンタはその中でも極めつけに真面目な男だ。
シンタは真面目で物静かな風貌でありながら、暴走族のようなスピードで自転車を走らせる。そのアンバランスが面白かった。
ところで、私は悲観主義である。怖がりである。
シンタが不合格になった時のことを何度も考えた。
シンタが不合格になったらどうしよう?
不合格になる要素は何だろう?
数学で大きなミスをすることと、英作文ではないか?
京大の英作文はご存じの通り難しい。
英作文がネックになるのではないか?
危機感が募った。
京大英作文は、こんな問題だ。
2012 ?(1)
人間の性格は見かけよりも複雑なので、相手のことが完全に分かることなどあるはずがない。とは言うものの、初対面の人物とほんの少し言葉を交わしただけで、その人とまるで何十年も前からつきあいがあったかのような錯覚に陥ることがある。こうしたある種の誤解が、時として長い友情のきっかけになったりもする。
2013 ?(2)
南半球を旅行していた時に、見慣れない星々が奇妙な形を夜空に描いているのを目にした。こうした星座のなかには、航海に必要な器具や熱帯に住む動物の名前が付けられたものがある。星座の名前に由来について、私には正確な知識がないが、何百年か前の船乗りたちが何を大切にし、何に驚いていたのか、その一端がうかがわれる。
京大は、「彼女は疲れすぎていて食べられない」みたいな、瞬時に英作文できるような、頭を使わない問題は絶対に出ない。
最新鋭の自動翻訳機でも珍妙な訳しかできない難問である。
京大の英作文は、のんびり高3の夏から始めたら、追いつけない可能性がある。
ましてや共通テストの後、たった1カ月で対策できるほど甘くない。
高1から英作文慣れしていないと書けない問題だ。
英作文こそフライング気味で取りかかって、長期作戦で教えなければならない。
ただ、中3から高校文法を習っているシンタでも、いきなり京大英作文の過去問を解くのは困難だ。
英文和訳は過去問から入るトップダウンの頂上作戦を取ったが、英作文は基礎から積み上げるボトムアップ方式で攻略する策を採用した。
高3になると数学理科に比重を置かねばならない。高2のうちに英語はめどを立てておきたかった。
■英作文は「竹岡教」を信仰
最初の一冊には、竹岡広信の『ドラゴンイングリッシュ』を使った。
竹岡氏はNHK「プロフェッショナル」に登場し、漫画『ドラゴン桜』のモデルになった人である。
竹岡氏の本は読みやすい。文章がいい。
良い参考書の作者は、決まって名文家である。
文体が堅苦しくなく、かといって実況中継系の本にありがちな気色悪い「おじさん構文」ではなく、知的でくだけた文章である。
『ドラゴンイングリッシュ』は、「そそる」英作文の例文が100個集められている。
固い日本語をいかに柔らかく、簡単な単語を使った表現にするかに、気が配られている。
たとえば、
「不老不死は人間の夢である」を、
“People wish they could live forever and never get older.”
とか訳しているのを見たら、知的な受験生は「カッコいい」と感じるだろう。
英作文のダンディズムは、中学で習うような単語をできるだけ使って、漢語の多い硬い表現ができるかにある。『ドラゴンイングリッシュ』は英作文のダンディズムを啓蒙してくれる本だ。
焼肉屋での最初のタン塩が、胃を活性化させ食欲を増強させるように、『ドラゴンイングリッシュ』の例文は知的好奇心を喚起し、英作文の勉強の起爆剤になる。
英文解釈の要所が『ポレポレ』に詰まっているように、『ドラゴンイングリッシュ』は英作文を書く作法が凝縮されている。
シンタには『ドラゴンイングリッシュ』を熟読してもらい、例文を繰り返し暗記させた。
『ドラゴンイングリッシュ』を一通り終わらせたあと、分厚い『竹岡広信の英作文』に移った。
この本、量がすごい。これをやったら英作文は大丈夫だという安心感がある。
『ドラゴンイングリッシュ』から『竹岡広信の英作文』のラインで、京大英作文は、駿台予備学校で京大クラスの講座がある、竹岡広信氏に任せてしまう作戦だ。
竹岡氏は高い指導力で生徒から信頼され、一部からは「竹岡教」と呼ばれるが、シンタも英作文というジャンルにおいては、竹岡教の信者になった。
だが時には「竹岡教」から離脱して、Z会の『必修編 英作文のトレーニング』を一通りやって、そのあと大矢復氏の「大矢教」に宗旨を変え、『大矢の英作文実況中継』や『英作文ハイパートレーニング 和文英訳編』をつまんだ。たまには異教徒になるのも大事である。
複数の英作文を用いて基礎を固めながら、京大英作文の過去問に備えた。
■過去問〜英作文だけでなく安全策で穴埋めも
シンタが高2になったころから、満を持して京大英作文の過去問をはじめた。
やり方は、
英作文を辞書なしでシンタが解く。
添削する。
解答を見る。
というありきたりの手順である。
しかし私は「解答を見る」段階にこだわった。
解答は赤本(教学社)、青本(駿台予備学校)、金本(小倉弘の『京大入試に学ぶ 英文和訳の技術』)の3冊を見比べた。
京大の英作文は難解で、当然のことながら3冊とも解答が違う。
ある本が模範解答として挙げた表現を、他の本はNGな言い方だと、逆のことが書いてある。
3冊見比べて、比較対照するのは結構楽しい。
英作文過去問の解答は、一人の先生の解答だけに頼っていないで、セカンドオピニオン、サードオピニオンが大事だと思う。
しかし、ただ見比べるだけではいけない。
解答を眺めるだけでは流し読みになる危険性があり、かといって解答を丸暗記するのは時間がかかって非効率だ。
解答にじっくり取り組み、頭に刻むため、赤本の解答をシンタに見せたあと、青本と金本の模範解答から、私が穴埋めプリントを作って、シンタに埋めてもらった。
穴埋めにすると、クイズみたいで刺激になる。
穴埋めで、英作文の一つの日本語フレーズに対応して、いろんな英語表現があることを知れば、表現のバリエーションが豊かになる。
非常に丁寧に教えたので、京大英作文は一問につき、約2時間かかった。
英作文模範解答穴埋めプリントは、過去問だけでなく、『竹岡広信の英作文』や『英作文のトレーニング』でも作った。
模範解答穴埋めは、英作文の初心者にとって、自転車の補助輪のような役割をする。
「解答見といてね〜」と無責任に放置しても力はつかない。
英作文模範解答穴埋め作戦は、われながら成功したと思う。
■英作文を磨く決定的な凄い本
さて、ここで英作文がさらに正確に書ける本を紹介する。
学参界の究極の英作文本だ。
「金本」と同じ、小倉弘著『例解 和文英訳教本 文法矯正編』である。
この本は、本当に素晴らしかった。
英作文の勉強をやってると、「なぜ? どうしてこうなるの?」と疑問の連続になる。
どうしてこういう表現が正しいのか、納得できない場面に出くわす。
たいていの参考書は説明が足りないので「こういうものなのね」と機械的に暗記するしかない。
もっと奥まで突っ込んで説明してほしいとイライラする。
英作文について、隔靴掻痒、痒い所に手が届く参考書が、この『例解 和文英訳教本 文法矯正編』という赤い表紙の本である。
たとえば本書は、こんな疑問に答えてくれる。
「There is構文はなぜ存在するのか?」
「なぜput it onの語順になるのか?」
「太陽・月・海・風にはなぜtheがつくのか?」
「When節は文末か文頭か?」
「go to schoolはなぜ無冠詞か?」
「なぜI don’t think that SVなのか?」
「主語にWeよりYouが好まれるのはなぜ?」
といった英作文を勉強していて浮かぶ素朴な疑問を、鮮やかに説明してくれる。
特に、旧情報と新情報をこれだけ詳しく書いた本は、高校岳さんの世界ではあまりお目にかからない。
私見だが、この『例解 和文英訳教本 文法矯正編』は、英作文学習の最初に使うより、ある程度英作文に慣れてから使った方がいい。
英作文の上級者の方が、目からうろこの落ち具合が大きく、この本の価値がわかるのだ。
たとえば、カルロス=クライバーという指揮者がいた。
彼は気難しく、レパートリーが狭く、残されたレコードも少なく、コンサートもたまにしかやらず、しかもキャンセル魔だが、演奏会はもう素晴らしく、残されたレコードは神がかり的で、カリスマ性の権化のような人である。
クラシック界の大スターだった。
ただクライバーの演奏は、クラシックに慣れていない人が聞いても素晴らしいが、ある程度年季の入ったファンの方が価値がわかる。
他の指揮者と違いテンポに微妙に前のめり感があり、高揚感と疾走感と躍動感がすごい。
クライバーの後で他の指揮者を聞くと、どこか鈍重に感じてしまうのだ。
『例解 和文英訳教本 文法矯正編』も、英作文学習の最後の締めで使うと、ありがたみがわかる。
この本は英作文のルールブックのようなもので、この本の読まないと、間違った英文を間違いだと気づかないまま我流の英作文になり、高得点を取れない可能性がある。
読了したあと「いままで僕が書いた英作文はアバウトすぎた」と後悔させる。
シンタも「この本いいですね」とつぶやいていた。
自分が勧めた本が教え子にほめられると、嬉しいものである。
シンタの英作文の力は、高2の終わりにはもう、合格ラインに近づいていた。
高3での駿台京大模試、河合塾の京大オープンでは、英語は和訳も英作文を高い点数を取り続けた。
小学生時代は中学受験をせず、また中学生時代は高校受験を無視して英語を先取りするという、いわゆる「できる子」がたどるコースとは別の独自の道を進むことで、京大入試への盤石な英語力が鍛え上げられたのである。
小中学校の英語先取りを土台にして、高校になったら日曜日潰して猛勉強し、1年間のアドバンテージを作り上げた。
シンタとは、マンツーマンで英語国語の添削をしまくった。
便箋と200字詰めの原稿用紙が、またたくまに消費された。
シンタが解く。添削する。延々とそれの繰り返し。
Z会の100倍以上の量で、郵送でタイムラグがあるZ会と違って、瞬時に添削した。
書けば書くほど、シンタは京大に近づいていった。
(つづく)
]]>京大入試は英単語暗記合戦の一面がある。
語彙力こそが合否を決める。
英単語では、誰にも負けさせたくない。
シンタは中3から『システム英単語』を使用した。
高校になって楽になるよう、中高一貫難関校よりも英単語を大量に暗記したかった。
シンタは中3終了までに、『シス単』のStage3、共通テストで必要最低限の範囲プラスαまで暗記していた。理論上は中3で、単語力では共通テストがかろうじて解けるラインまで達していた。
シンタが通う高校では『ターゲット』を使っていた。
私は『ターゲット』が嫌いで、単語単体だけだと暗記してもあまり意味ないし、例文は暗記用には長すぎる。
「帯に長したすきに短し」の単語集だ。
昔からある単語集なので、高校の先生が自分が使っていたからという」理由だけで、惰性で使っている感じがする。
その点『シス単』のフレーズは、
”beg him to come back”
くらいの長さで覚えやすく、語法もまとめて暗記できる。駿台予備学校の叡智を尽くした名作である。使わない手はない。
また、最後のStage5の「多義語のBrush Up」は名作で、おなじみの単語の意外な意味が掲載されている。
’the opening address’ が「開会の演説」という意味があるなんて、他の単語集には載っていない。
受験生が英語の勉強を進めれば進めるほど、Stage5の有難みがわかる。難関校の長文には、Stage5の単語が頻出しまくっている。
ただし、addressという単語の原義は「まっすぐに向ける」という意味だが、『シス単』にはこういった単語の根本の意味があまり書かれていないので。単語の原義を私が添えながら暗記を進めていった。
うちの塾ではずっと『シス単』を使用していて、高校の単語集には合わせていない。
シンタも、塾では『シス単』、高校では『ターゲット』の2冊持ちになり負担がかかっただろうが、単語集2冊同時並行で進と、暗記が深まり都合がいい。
シンタは高1終了までに『シス単』は一通り暗記した。
京大の過去問を最初にやっていたからこそ、シンタは単語暗記がゴールに向けての、大事な勉強だということを深く理解していた。
■『DUO』を全文丸暗記
だが、『シス単』だけでは足りない気がした。
だから、シンタには『シス単』以上の無理難題を要求した。
『DUO』の丸暗記である。
『DUO』とは大学受験用と言うより、どちらかといえばTOEIC寄りの教材で、時事英語から男女の痴話喧嘩まで、硬軟織り交ぜて560個の例文が載っている。
たとえば、
121.皿洗いとか洗濯とか、そういうことにはもううんざり!
I’m tired of doing the dishes, doing the laundry, and so on!
279.昨年と比べて、売上の数字だけを見れば事業は上向いている。しかしながら、利益はまだ全く出ていない。
Compared to the previous year, business is looking up in terms of sales. However, we haven’t ,ade any profit yet.
529. リサ、ニックとうまくやってる?」「時々、離婚を考えることがあるわ。」「冗談だろ!」
“Lisa, are you getting along with Nick?” “Once in a while, I think of divorcing him.” “You must be kidding!”
これらの例文を1カ月で暗記しろと命じた。
問題形式は穴埋めにした。
それでも560個の例文暗記は大変だ。
ところで、実は7月下旬にシンタといっしょに勉強しようと誓い合ったが、実際に始めたのは9月15日だった。
私は目を患っていて、手術をしなければならなかった。
目を完全に治し、身体のメンテナンスをしてから、シンタの指導にあたろうと考えていた。
目の病気は複数にわたっていた。
まず糖尿病からくる網膜症。
網膜症とは、網膜に張り付いている毛細血管が、糖尿で血液が濃くなるために破裂出血し、血液が目に流れ込み、黒い粉が飛び散ったように視界を邪魔する病気である。
放置しておいたら失明する。映画館のスクリーンが真っ黒になって、映像が映らない状態になるのだ。
拡張を続け網膜を破壊する血管を、レーザー光線で焼く手術が必要だった。
私の左目は水に黒い炭の粉が飛び散ったような状態で濁り、仕事に支障を来していた。
同時に、私は緑内障にもかかっていた。
緑内障とは眼圧が高くなり視野が狭くなる病気で、いったん狭くなり始めると二度と元には戻らない。
目薬で治る病気ではあるが、私の緑内障は進行が早く手術が必要だった。
おまけに、私は白内障でもあった。白内障で視界が曇りガラス越しのようになって、一刻も早くクリアな状態に戻したかった。
私の目は網膜症で黒く霞み、緑内障で視野は狭まり、白内障で視界が悪い。黒だ緑だ白だと疾患の三重苦だった。おまけに近眼と老眼。日常生活が不便だった。
これらの手術を一挙に済まそうといいうことで、JA尾道総合病院に手術入院した。
手術は1時間ほどで終わったが、これが全身麻酔ではなく、局部麻酔なのである。
局部麻酔なので痛みはないが、針のような器具が目を突き刺し、黒い影が私の目の中を動いているのがわかる。身体は動かしてはならない。
手術中は夢うつつ状態で、気持ちいいのか悪いのかよくわからない状態で、あまり人には薦められない手術だったが成功した。
目を一週間ぐらい、パソコンもスマホも触らず休めたあと、Twitterでアカウントを作り、シンタに見せるため、『DUO』に登場する単語の語呂や語源を頻繁に流した。過酷な暗記の後方支援のためである。
私の「絶対京大に合格させてやる」という熱意をシンタに見せたかった。
■『DUO』を暗記させた理由
『DUO』を560個全部短期間で暗記させるのは、正直、無茶振りである。
シンタ以外にはこんな課題絶対に出さないが、シンタがいかに根性ある男といっても、これはひどい。
だがシンタには、絶対に暗記を完遂してもらいたかった。
『DUO』を暗記させた理由の第一は、英語先取りの貯金が尽きるのを恐れたからだ。
シンタは中学で高校内容を先取りしてきた。『シス単』も暗記し、同級生より1年のアドバンテージがある。
しかし、シンタの同級生の高1は今、単語暗記に必死になっている。
シンタは賢明な男だから油断はしないだろうが、それでもライバルたちに単語で追いつかれる可能性がある。
シンタは単語のストックを、ライバルとの差を維持し、さらに拡大するため、もっと増やす時期に来ていた。
だから『DUO』丸暗記という強硬手段に出たのだ。
第二は、シンタの英語勉強法を根本から変えたかったからだ。
シンタは頭のいい男だ。だから中学や高校1年ぐらいまでの英語は、特に苦労しなくても、大雑把なやり方で成績は上がる。正直、才能だけでやってきた。私もうるさく注意はしなかった。
しかし、敵は強大な京大の二次試験だ。
シンタは理系の論理的な頭脳を持っていて、英文解釈の構成は見抜くのがうまい。
しかし単語暗記はまた別の話で、シンタのさらなる英語力増強には、単語を丁寧に覚えこむ、まるで英語だけが得意な几帳面な女の子のような勉強が必要だった。
単語を暗記し、熟語を意識し、文法を把握する。これらの一連の流れを泥臭く進めることが大事である。
よく理系の高校生の中には、数学の偏差値は75あるけど、英語が55とか、数英の格差が大きい子がいる。こういうタイプは例外なく、英語の勉強法が雑だ。
シンタは河合塾全統模試で、数学も英語も偏差値は70台後半を出していたが、それでも単語を軽視して、英語の成績が下がるのを恐れた。
『DUO』 の単語は雑に暗記できるものではない。
細かくひとつひとつ丁寧に、意味を把握しながら暗記しないと覚えられない。
大量の例文暗記は機械的丸暗記を許さず、理屈を嚙み締めながら暗記しないと達成できない性質のものだ。
むかし、アニメ『一休さん』で、一休さんと屈強の男が対立して、大量の米からのりを作る競争をするという回があった。
屈強の男は、大きな杵で餅つきのように、パワフルに怪力全開で米を潰していく。
逆に一休さんは、米を一粒一粒丁寧に、時間をかけて潰していく。観客は一休さんがのんびりと米を一つ一つ潰していく姿を見て「大丈夫なのか?」とイライラする。
しかし、最後に綺麗なのりを完成させたのは、一休さんの方だった。
シンタには一休さんのように、丁寧に単語暗記して欲しかったのである
。屈強の男のように雑に暗記していては、『DUO』は頭に入らない。
シンタには暗記の極意を知ってもらいたかったのである。
第三の理由は、リミッターを超えさせるためだ。
勉強は強制か自主的かが、よく議論になるが、私は初期のうちは強制がいいと考えている。
地方の競争が緩い高校生は、まわりが勉強しないので、少し勉強しただけで、自分は突出した勉強時間を取っていると錯覚してしまう。
彼らの自主性とは、生ぬるいものである。自分は勉強しまくっているつもりでありながら、都会の進学校に比べて速度は遅く、勉強量は少なく、また勉強法が我流で効率が極めて悪い。
地方の高校生が全国レベルをめざすには、客観的に見れる指導者が必要なのだ。
たとえばトップアスリートはコーチをつける。それはコーチの強制力を、アスリートが求めているからだ。
自分だけでは厳しくできない。厳しい人の胸にあえて飛び込むことで、リミッターを外し、自分が思ってもみなかった量や質のトレーニングが可能になる。
また、カープの新井監督は、ルーキー時代は身体が大きいだけの、箸にも棒にもかからない選手だった。
しかし、カープ首脳陣が強制する、胃から汗をかくような猛練習をこなし、一流選手になった。
新井監督も、若い時の「やらされる」練習には感謝していると回顧していた。
壁を破るには他者からの圧力がある強制力が必要で、強制力の洗礼を浴びた後の自主性は、かなりレベルの高いものになる。
リミッターを知らない自己満足の「自主性」とは格が違う。
シンタは強制されることでリミッターを外し、潜在能力をフルに発揮できる精神力があると見込んでいた。
シンタには「普通の京大生」にはなるなと、絶えず口にしてきた。
シンタは、ただ頭がいいだけの、脳の機能が他より先天的に優れているだけの男ではない。
一つの目標に向かってストイックに鍛錬し、努力根性で周囲に威圧感を与える。静寂な剣豪のような、すごい男になる男だ。
シンタは物静かな男だが、後輩からも「シンタ先輩は圧があります」と言われる。シンタに勉強を教えてもらう時の後輩は、緊張して唇が震えている。
厳しい修行を経験した人間は強いオーラを放つ。シンタには場を圧倒する男になる素質があった。
■『DUO』テスト当日
シンタが『DUO』のテストをする日が近づいてきた。
シンタに暗記を指示して1か月半、ほぼ顔を合わせることはなかった。
私は緊張した。
もしシンタが暗記していなかったら、怒らなければならない。
それも激しく。
シンタと私が京大に向け勉強を開始する初日である。私が甘い顔を見せたら、いい加減な2年半を送らねばならない。最初が肝心だ。
私はシンタを絶対京大に合格させるため、遠慮はできなかった。遠慮はシンタの人生を狂わせる。
宿題は、うちの塾では絶対である。
やらない、遅れるという選択肢はない
私はただテキストをこなすだけの宿題は出さない。手を抜こうと思えばできるからだ。
私が出す宿題はつねに暗記テスト、ガチンコで覚えなければならないハードなものである。
暗記テストには再テストはない。againはなくthe endである。
宿題は緊張をはらむ。
宿題は出される方も叱られるから緊張し、宿題を出す方も叱らなければならないから緊張する。叱られる方も叱る方もピリピリしている。こんな緊張関係が、私と塾生の間には横たわっている。
シンタが現れた。
顔色は変わっていない。シンタはいつも冷静だ。
テストに自信があるのかないのか、顔だけでは判別できなかった。
シンタがテストをやり遂げたら興奮して「ようやった!」と叫びそうだった。
だがやっていなければ・・・
『DUO』の10問テストを配った。8問正解で合格だ。
シンタは穴を埋め始めた。
しばらくたって、シンタは私に答案を出した。
採点した。
シンタは暗記できていなかった。
10点中、たった1点だった。
私は瞬時にシンタを怒鳴りつけた。
何を言ったか記憶していないが、私は普段標準語だが、激怒すると広島弁になる。
おまけに声が高くなる。
「おみゃあ! 何しょうんならあ! 1か月半どうしようたんなあ!」
「よくもまあ、こんなもん、ワシの前で出しよったなあ。どうしてくれるんじゃ!」
とでも言ったのだろうか。
塾の狭い和室が、安土城天守閣で織田信長が狂乱激怒しているようなカオスな状態になった。
紳士であるシンタを、初めて頭ごなしに怒った瞬間だった。
シンタは、これだけの男なのか。
私の熱意が通じていなかったのか。
しかし、冷静に考えたら、『DUO』を一冊丸暗記することは無理なのだ。
シンタは課題が多い高校に通っているし、ピアノも続けている。
私の課題が無茶苦茶なのだ。
私の怒りが理不尽なのだ。
シンタは私の期待に精一杯応えようとしたが、できなかったのだ。
シンタは私の怒りを、背筋を伸ばし、微動だにせず受けていた。
潔い物腰だった。
シンタはテストの点が悪かったら、私が爆発することを知っている。
でも、シンタは逃げなかった。
堂々と1点を取った。
普通の高校生だったら、テスト前に「忙しくてできませんでした」と、言い訳の1つもするだろう。減らしてくれと交渉もするだろう。
叱られたあと、言い訳を並べるだろう。
「今日は頭が痛くて休みます」と仮病を使う子もいるだろうし、もしかしたら「無理です」と塾をやめる子も出てくる。
でもシンタは言い訳を一切せず、真正面から私と対峙した。
できなかった時のシンタの態度で、私の彼への評価はさらに上がった。
私はシンタに尋ねた。
「お前、やる気あるのか?」
シンタは潤んだような、そのくせ涙は絶対に落とさない強い目で私をみつめて、
「あります!」
ときっぱり答えた。
シンタが、『DUO』を暗記したのは、その3ヶ月後である。
私はそれからシンタに時折、べらぼうな宿題を出した。
でも、シンタは2度と失敗はしなかった。
どんな課題も、完全にこなしてきた。
高2の12月には、黄チャートを?Aと?Bの2冊分、1か月でこなせという猛勉強も課したが、完璧にやった。
シンタは『DUO』の一件以来、明らかにリミッターを超えた。
(つづく)
]]>
シンタと京大に向けて勉強を始めた。
シンタと私が最初に取り掛かったのは、京大の過去問である。
まだ高1の9月である。世間の常識では早すぎる。
もちろん高1時点のシンタの学力では解けない。
正直、無茶苦茶である。
しかしシンタは辞書も引かず、ヒントも出さず、真正面から日本一難しい京大の和訳に挑んだ。
頂上作戦だ。
京大の問題は、ご存じのように英文和訳と英作文だけのシンプルな構成だ。
最近では英文和訳に下線部の説明問題、英作文には自由英作文や会話文補充問題も出るが、メインは下線部和訳と英作文である。
京大和訳は旧制高校入試にタイムスリップしたような問題で、かつ、日本一難しいと言われる。
構文は煩雑で、内容は難解。おまけに、日本語に訳してみても、その日本語自体が難しい。
京大の和訳を解いたあと他大学の問題を解くと、単純すぎて「なんだこんなもんか」と思ってしまう。
シンタは果敢に京大過去問を攻めた。
受験勉強を過去問から始める方法は、かつてベストセラーになった、野口悠紀雄『超勉強法』のパラシュート勉強法を参考にしたものだ。
パラシュート勉強法とは、最初から難しい課題(ゴール)に取り組む勉強法で、頂上に立ってまわりを俯瞰することで、ゴールに達するために必要な勉強は何か、無駄な勉強鵜は何かを知る、効率的な勉強法である。
時間がない、無駄な勉強を省く、そのための過去問から始めるのだ。
一歩一歩下から積み上げていく勉強法では、どこに向かって勉強しているのか迷う。
無駄な作業に無駄な時間をかけてしまう。
逆にパラシュート勉強法は敵の強さを知ることで、現時点での自分の足りなさを知り、同時に敵の攻略法を知る。方向性に迷わない。
高1から京大の過去問をやれば、文章の複雑さ、国語力の大事さ、単語力の大切さ、そして発想力類推力が求められていることに誰よりも早く気づける。
過去問は高3の夏からでいいとよく言われるが、絶対勝つには思い切ったフライングが大事である。シンタは普通の京大受験生より約二年早く過去問を解いた。それだけでも大きなアドバンテージだ。
しかし、シンタが高1の段階で過去問に触れられたのは、中学で高校の文法単語をある程度終えていたからだ。
私はシンタの中学時代、高校受験はまったく眼中になく、合格するのは当然と考えていて、大学受験のことばかり頭にあった。
だから広島県の公立高校が、一定以上の学力がある子が絶対合格できる状況を利用し、英語を高校内容まで突っ込んでぶっ飛ばした。
よく、中3の高校受験終了後、合格発表から入学式までの期間が重要だといわれる。
誰もが高校受験が終わってほっとして遊んでいる時期(中3の3月)に高校内容に踏み込んでおけば、高校でロケットスタートを切れるのだと。
しかしシンタはその上を行った。
中3に進級した時点から飛ばし、高校英語を勉強してきたのだ。
高1の秋にはもう、京大の問題がどれだけ難しいか、体感できる英語力はつけていた。高校受験を捨ててまで英語を進めた、用意周到な準備が功を奏した。
京大過去問を3年分やれば、シンタも京大和訳の傾向が理解できただろう。
次は、京大への和訳力を鍛える、精読力をつける参考書の出番だ。
■『ポレポレ』&『英文読解の透視図』
私は、参考書の選択は保守的である。
前例踏襲、昔から評判の良い物しか使わない。
新刊でよいものがあっても使わない。私は本質的には参考書に関しては目移りしやすいタイプなので、あれこれ目移りする。だから書店の参考書売り場には、たまにしか足を踏み入れない。
あの本もいい、この本もいいと参考書をドッサリ買ってきて、あれもやれ、これもやれと勧められたら、生徒が迷惑だ。
一冊これと決めたら信じ込み、冒険はしない。
だからこそ、安定と信頼の『ポレポレ』に頼った。
『ポレポレ』は、難関大学志望者なら、誰もが持っている超人気本である。
売れるのは理由がある。中身が素晴らしいからだ。
英文を難しくする三大要素は「倒置・挿入・省略」である。この3つの難所を『ポレポレ』は鮮やかに切りさばく。
『ポレポレ』のタイトルは、正式には『英文解釈プロセス50』というが、タイトル通り英文読解の必要十分なプロセスを、わずか50の例文に詰め込んだものである。
難関大学で受験生を困らせる英文解釈の難所を、たった50の例文に過不足なく詰められたものだ。その構成の妙に感動する。
作者の西きょうじの頭には、あらかじめ構成があって、構成のストーリーのままに適材適所の例文を置いた、天才の若書きだ。
シンタには『ポレポレ』の例文だけをコピーしたものを便箋に貼って和訳させた。
単語の注釈も一切与えず、構文も単語も自ら閃かねばならない。
シンタは難しい顔をしながら、オランダの原書を訳す杉田玄白みたいに『ポレポレ』と格闘していた。
私は教えたがりだが、教えたいのを我慢してシンタが意味を閃くのを待った。
『ポレポレ』を授業に使った先生ならわかるが、説明が楽しいのである。
ポレポレは、たった一言二言のヒントで、全容が一瞬でわかるような例文が選ばれている。
鍵をカチッと一瞬開くだけで、構成がたちどころに見える。
教える側が「これはね、倒置なんだよね」とドヤ顔で説明すれば、生徒も「そういうことか」と、新しい地に触れた喜びと悔しさが入り混じったいい顔をする。
『ポレポレ』は良書中の良書である。
『ポレポレ』を一通りすませたら反復する。勉強系YouTuberの中には、ポレポレを毎日300回繰り返したという人もいたが、強烈な反復に耐えうる本である。
次は河合塾の先生が書いた『英文読解の透視図』を使った。
『ポレポレ』と『透視図』のラインは、京大への王道である。
『ポレポレ』で英文解釈のやり方を学び、『透視図』は実践的演習問題の位置づけで使った。
ただし、安全策もとった。
『ポレポレ』と『透視図』だけでは難しすぎる。
同時並行して、桐原書店の『入門英文解釈の技術70』『基礎英文解釈の技術100』も使った。
難易度は簡単な順に、
『入門英文解釈の技術70』<『基礎英文解釈の技術100』<『ポレポレ』=『透視図』
であろうか。
『ポレポレ』や『透視図』ばかりでは、基礎が抜けてしまう可能性があった。
私は難解な本を使う時には、安全策で同時並行して基礎的な本を使う。
『入門英文解釈の技術70』『基礎英文解釈の技術100』には単語の注釈がついているが、『ポレポレ』と同じように、無視して英文だけを便箋に貼り付けて訳させた。
『基礎英文解釈の技術100』は模試の前、「英文解釈特訓」と称して土日の2日間、例題だけ100問、超短期間で全部終わらせてしまった。
シンタとはこういう爆発的な集中特訓をよくやった。
■『速読英単語』は塾の教科書
「短文精読」は『ポレポレ』と『透視図』にまかせ、「長文多読」も同時並行で進めていかねばならない。
英語力は長文多読と短文精読、英文法と英作文と整序問題、音読とシャドーイングとリスニングなど、さまざまなジャンルを同時並行で進めていかねば伸びないと、私は考えている。複合的に伸ばしていくのだ。
「短文精読」と「長文多読」とどちらが英語力伸びるかという議論があるが、私とシンタは欲張って両方に力を入れた。
私の「長文多読」の英語指導の根幹をなし、英文解釈の「教科書」的な役割を果たしたのは『速読英単語』シリーズである。
使ったのは
『速読英単語・中学編』
『速読英単語・入門編』
『速読英単語・必修編』
『速読英単語・上級編』
『速読英熟語』
『リンガメタリカ』
『速読速聴英単語・Daily1500』
『速読速聴英単語・Advanced1100』
である。
これら『速単シリーズ』はターゲットやシス単のような純粋な「単語集」ではない。
大学入試の必修語が長文にちりばめられていて、長文の中で英単語を暗記しようという企画のもとに作られていて、「単語集」としては使いにくい。
しかし見開きで、左に英文、右に日本語が書かれていて、英文を大量に読むための最適の本である。高校も『速単シリーズ』を教科書に採択してほしいぐらいである。
国語力を伸ばすのは読書力と言われるが、『速単シリーズ』は英語の読書に欠かせない。
私は『速単シリーズ』を、右の日本文をハガキで隠して、一文ずつ口頭で訳させた。
野球の猛ノックに似ている。
できうる限り順繰りに訳してもらう。関係代名詞も後置修飾も後ろから訳させない。読解スピードを上げるためだ。
そして、文法事項の細かい質問攻めをする。
主語と動詞は何か、このthatは接続詞か関係詞か代名詞か、この不定詞はどんな用法か、このreadingは現在分詞か動名詞か、現在分詞なら後置修飾か前置詞の目的語か分詞構文か進行形か動詞+目的語+~ingの形なのか、このandは何と何を結ぶのかなど、シンタを攻めていった。
また未知の単語があれば、「クイズミリオネア」のファイナルアンサーの時のみのもんたみたいな怖い顔で「類推しろ」と睨めつけた。無茶振りである。
完全に類推できないのなら、せめてプラスの意味かマイナスの意味か判別せよと指示した。
本番より怖い緊張ムードが続いた。
マンツーマンでこんな作業を続けると、べらぼうに和訳力がつく。時には6時間ぶっ通しでノックを続けた。
この『速単シリーズ』和訳の勉強法の何が素晴らしいかって、生徒の英語力の成長ぶりが、ダイレクトに体感できることだ。
力がつけばつくほど訳がスムースになる。ギクシャクした状態が続けば反復し、スムースに行きすぎたらハードルを上げる。シンタの成長に合わせて、融通無碍に『速単シリーズ』を進めた。
『速単シリーズ』は問題形式ではないので、実は自学自習の挫折率が高い参考書なのだが、マンツーマンには強大な効果を発揮するのだ。
シンタは『速単シリーズ』を、『中学編』は中3の1学期、『必修編』を中3の夏休み、『必修編』を中3の2学期から3学期にかけてやった。
高校生になってから『必修編』を再度やりこみ、さらに『上級編』『リンガメタリカ』を高2までに終わらせた。
速単も『上級編』『リンガメタリカ』になると単語も構文も難解で、京大の入試問題と同じレベルに近づいてくる。東大や京大や早稲田や慶応の入試問題レベルの英文が並ぶ。ここまでくると「長文多読」ではなく「長文精読」の領域に入る。シンタは真面目に取り組み続けていた。
『上級編』『リンガメタリカ』を反復しつつ、時には思い切って『必修編』を超スピードで反復しながら、高3からは『速読速聴英単語』をはじめた。
このZ会の『速読速聴英単語』は『速単シリーズ』と同じ、左に英文、右に日本文のレイアウトだが、大学入試ではなく、むしろTOEICやTOEFL用の教材だ。
『Daily』はくだけた会話文が多く、京大で新傾向として出題されている会話文対策で使った。
また『Advanced』は英検1級レベルの英文で、単語が容赦なく難しく、京大の問題を簡単に見せるための錯覚を起こさせるために利用した。
『Daily』も『Advanced』も半分ぐらいしかできなかったけど、単語のストックが大幅に増えた。
『ポレポレ』『透視図』『速単シリーズ』を英文解釈の核に据えながら、適宜、京大の過去問に触れた。
英文解釈本を地道にやっていると、最初は手も足も出なかった京大の過去問が、少しずつ少しずつ解けるようになっていった。
最初はびくともしなかった重量上げのバーベルが、高3の最後には堂々と持ち上げられるようになったのである。
繰り返すが、最初に過去問をやっておけば、日々の勉強は過去問を「倒す」ための勉強になり、徐々に力がついて、過去問を屈服させる達成感を味わえ、モチベーションが上がる。
勉強というものは、目標を決めて努力して、小さな成果を積み上げることで、充実感に変わっていくのだ。
シンタは結局、英文和訳の過去問を1991年まで30年分、それから駿台や河合塾の京大実戦模試を古いものまでAmazonで取り寄せて解いたため、約45年分は解いたことになる。
この過去問をやりまくった努力が、京大の和訳の力を上げるだけでなく、シンタを高3の2月、意外なところで救うことになる。
(つづく)
]]>7月、久しぶりにシンタに直接会った。
3か月ぶりだった。
場所は塾ではなく、駅前のチェーンの個室居酒屋を選んだ。
私は生徒に大事な話をする時は、重々しい空間を作るため、わざと場を変え空気を変える。
3か月ぶりのシンタは背が伸び、シュッとした松下洸平みたいな若者になっていた。
シンタは私に礼を尽くして、学生服姿でやってきた。ストイックさに磨きがかかっていた。
私も塾ではどうでもいい普段着だが、その日は背広を着てシンタに向き合った。
シンタを塾に戻すには、厳しい、捨てるような言葉をかけるのが一番だと判断した。
シンタはおとなしい顔をして意志が強い。向上心がある。引き寄せるには強い言葉が効果的だと考えた。
むかし、江夏豊が阪神にドラフト一位で指名された時、江夏は阪神ではなく大学へ行きたかったのだが、江夏の才能に惚れた当時の佐川スカウトが、入団してほしくて江夏にこんな言葉をかけた。
「オレは君なんか、たいした投手だと思っていない。だから本気で入団の交渉をするつもりはない。球団がドラフト会議で君を指名して、オレに入団交渉してこいと言うから来ているだけだ。阪神に入りたくなかったらこの話は断ってもいいんだぜ。」
頭にきた江夏は契約書にサインしたという。なかなかの高等戦術だ。
私もシンタにきつい言葉をかけ、負けん気を煽りに煽った。
「君は地元じゃ負け知らずだが、全国的に見たらまだまだ。思い上がるな。」
「地方進学校の高校生は、高2までは課題が多いからアドバンテージは取れる。だが高3になると都会の進学校の奴らが本気を出す。勝てるか?」
「君は数学は大丈夫だ。だが他教科、英語と国語と理科と社会はまだまだだ。相当の努力がいるぞ」
シンタは真っ直ぐに私を見て、私の話を聞いていた。私の言葉が強くシンタに浸透していくのがわかった。
現代の子に厳しい言葉をかけ負けん気を煽るのは、逆効果とされている。しかしシンタは高度経済成長期のようなタフなハングリー精神がある若者だ。だからシンタの心を揺さぶるには、この方法がベストだと判断した。
シンタは志望校を「京大工学部情報学科です」と、私にキッパリ告げた。
凛々しい顔をしていた。
東大へ行く力を持ちながら、あえて京大へ行くのがカッコいいんだと言っていた。また、東大は進振りがあり理科?類に合格しても情報学科へ行けるとは限らない、京大なら直接情報学科をめざせるのだという。
志望校が京大で安心した。これが阪大とか九大なら「君は京大に合格できる。高いところをめざせ」と説得しなければならなかったが、それも必要なくなった。
その日は2時間ぐらい身辺状況について話したあと別れた。
結局、本格的に一緒に勉強しようとは言い出せなかった。恥ずかしかった。
なんだか「一緒に漫才コンビを組まないか?」と意中の相方候補に告げたいけど告げられない、無名のお笑い芸人の心境だった。シンタの人生を左右することに、この期に及んでまで躊躇し煩悶した。
数日後、とうとう私はメールで、「俺といっしょに勉強しないか?」と誘った。
シンタからすぐに「ぜひお願いします」と返答があった。
シンタは京大をガチでめざす、「暗黒の高校時代」を送る決意をしたのだ。
シンタは数学の塾に通っていた。高2で高校全内容を終わらせる塾なので、数学に関しては安心してお任せできる。数学音痴の私では何もできないので、数学の専門家に任せるのが一番だ。
私とシンタが個別で勉強する時間は、最初は日曜日、夜6時から10時までの4時間だけだったが、そのうち午後2時から午後10時の8時間、そして土曜日や平日の放課後まで拘束時間が増えた。
勉強時間が増殖していった。
試験休みや祝日など学校が休みの日があれば、直ちに補習を組んだ。ほぼ高校3年間、暇なときはずっと一緒に勉強していたのである。
シンタには「絶対に俺を信じてくれ」と言った。シンタも「わかりました」と即答した。
そして覚悟を試すため、高3になったら頭を坊主にして気合を入れろと命じた。シンタは何の躊躇もなく笑顔で「やります」と答えた。
■地方から京大合格への戦略〜過去問中心主義
シンタ京大合格への戦略、骨組みを作った。
高校とは別の、シンタだけの「学習指導要領」がいる。京大合格には勉強構成を骨組みから変えていかないと、合格にはたどり着けない。
シンタの高校は国公立の進学率が高いが、メインは広大・岡大など地方国立大学で、東大京大は合わせて数人、旧帝大や神戸大が十数人と、必ずしも多くはない。
授業は共通テストでの高得点を目標に行われ、二次対策はサブ的なものになっている。ボリュームゾーンは九大あたりにある。カリキュラム的には、少数派である京大志望者には合わせることができていないのだ。
(しかし実際にはシンタの学年では、高3で難関クラスが設けられ、英数は難関大学を照準にしてかなりレベルの高い授業をやったようだ。特に英語は高嶋ちさ子にの厳しい先生がいらっしゃって鍛えられたという。これは助かった)
とにかく、京大志望のシンタだけのオリジナルの骨組みを組まなければならない。京大には独自の勉強法が必要なのだ。
私の戦略の根本はこうである。
?過去問中心主義
?英語と国語は、高2で京大二次レベルに上げる
?物理化学はスタディサプリで先取り
?高3・1学期から二次数学の勉強に集中
?高2・2学期から理科で追い込み
まず、過去問は絶対的バイブルである。
シンタがやるすべての大学受験勉強は、過去問からの逆算だ。
受験が情報合戦で、大手塾が有利で中小塾が不利と言われているが、過去問という最大の情報は平等に公開されている。中小塾でも情報弱者にはならない。試されるのはこちらの解釈能力だ。
過去問中心主義の高校は進学実績がいい。
たとえば東大合格者数一位の開成高校では、無意識のうちに授業が東大の過去問に寄り添っている。
開成では生徒の7割が東大をめざす。目標が同じなので、東大だけに合わせた勉強ができるのだ。
優秀な生徒が一つの目標に向かって勉強することは、大きすぎるアドバンテージだ。
開成高校では東大合格のために「書く力」にこだわる。
東大の二次試験で必要なのは「表現力」だ。書く力だ。
英語でも国語でも数学でも社会でも、二次試験では文章や数式を書きまくらねばならない。記号の選択肢ではない。採点官の東大教授の眼鏡にかなうスッキリ論理的な文章や数式を書かねばならない。文書力が合否を決める。
開成では教室の四面のうち三面が黒板で、黒板がコの字型に教室を囲んでいる。
数学の演習授業は生徒が黒板に解答を書き、先生が添削するという方法を取る。英作文も同様に添削される。
開成の生徒は自分の答案を常に人前にさらされ、先生にジャッジされる経験をしているのだ。
他の生徒も友人の答案と自分のを比較対照できる。
毎日書きまくることで論述に慣れ、添削の繰り返しで精度が上がる。ふだんの授業形式が、東大の過去問に準拠しているのだ。
共通テストが終わったあと、付け焼刃で二次対策する高校とは格段の環境の差がある。
京大をめざすシンタにも大量の過去問に触れさせ、論述問題を書かせ、私が添削しまくらねばならない。
マンツーマンで過去問を3年間続けることで、圧倒的な差をつける作戦だ。
私は100円ショップで縦書きと横書きの便箋を大量に買い込み、さらにamazonで200字詰めの原稿用紙を買った。シンタは高校3年間ずっと、過去問で便箋と原稿用紙を埋め続けたのである。作家と編集者のような作業だった。
■京大工学部の配点に配慮
過去問とともに、学部の科目別得点配分も重要だ。得点配分を見れば、どんな学生を求めているのかわかる。
京大工学部の配点は
●共通テスト 英語50(読解40・リスニング10)
国語50・社会(シンタは地理)100
計200
●二次試験 英語200・国語100・数学250
理科250(物理125・化学125)
計800
総計1000
数学の配点が高い。
国語や英語は理系では差がつかない。しかし数学は強烈に差がつく。京大の数学は6問だが、六問完答から0点まで差が開く。数学を制する者が京大理系を制するのだ。
京大の配点で驚くのは、共通テストの数学理科がカウントされないという点だ。京大合格には共通テストの数学と理科は全く必要ない。京大は共通テストを信じていない。
だからシンタの共通テスト対策は、配点が100点と高い地理だけやることにした。
私は京大の二次対策を、高1から始めること決めた。
京大の過去問に完全に準拠するカリキュラムを組んだ。すべての道は過去問に通じる。共通テスト対策は高校がやってくれる。とにかく京大の過去問に特化した。
京大の入試問題は素晴らしい。
英語は言語を高度に扱う力を求めている。英文和訳は単語熟語語法が難しく、真面目に勉強を積み重ねた学生を求めてはいるが、それだけではない。見たこともない単語が出てきて、類推力がないと解けない。努力と才能、愚直さと閃きの両方を、高いレベルで求めている。
京大の問題との格闘は、学問に向いた若者が青春を費やすのにふさわしいものだ。解けば解くほど知性が磨かれる。共通テストの勉強ばかりして小器用になるより、腰を据えて京大の問題に向き合った方が、どれだけ面白いか。
敵が強いとやる気が出る。われわれは英語の問題を7割解ける力をつければいいのだ。
■物理化学の進度の決定的遅さ
困ったのは、シンタが通う高校の物理化学の進度が遅いことだ。決定的に遅い。
私立高校なら、高2までに物理化学のカリキュラムが終わり、高3な入試問題を解く余裕がある。
しかし公立高校は学習指導要綱の縛りで、カリキュラムを変えるわけにはいかない。
この「物理化学進度問題」が、私立と公立で難関大学進学実績の差の、決定的理由になっている。
シンタの場合、物理は高3の9月、科学は高3の11月に全カリキュラムが終わった。高校の進度に合わせていたら、京大入試に追いつけなかった。
物理化学は、高校の進度とは別の、京大入試に向けたカリキュラムを組まねばならない。フライング気味の進度を取らねば手遅れになってしまう。
私が理系の塾講師なら、物理化学を高2までに終わらせることができるが、残念ながら私は物理化学音痴で、その力がない。だから英語国語を高2までで完全に仕上げ、高3になったら英国にあまり時間を取らないようにする方法を取った。
物理化学は高1高2のうちにスタディサプリで軽く先取りしておいて、高3夏休み以降、物理化学でスパートする時間を確保する戦法だ。
■高校の膨大な課題との闘い
シンタは、高校の膨大な課題と、闘わなければならなかった。
シンタの高校は課題が過大で、自分でオリジナルの勉強をやりたい高校生には、正直課題が邪魔になり、有難迷惑なのが正直なところだ。
こうした高校の課題の悪いところは、学校用教材を使うことで、解答解説が薄い。課題で自学自習を求めていながら、自学自習するには解説が少なすぎるのだ。
まだ市販の解説が丁寧な参考書問題集を使ってくれれば有難いのだが、諸事情でそうもいかないのだろう。
それから肝心かなめの暗記課題がおろそかだ。
たとえば古文は共通テストで古文は大事な科目だが、古文単語は300個ぐらい1週間で暗記できるにもかかわらず、そういう大事な課題が出ない。かと思えば、漢検準一級レベルの超絶難しい、大学受験とは関係なさそうな漢字暗記を強制される。高校が出す課題は、どこかずれていた。
しかし、シンタに愚痴は言わせなかった。
シンタも愚痴を言うような男ではない。
たとえば和田秀樹なら、学校の課題は無視して、授業中内職してでも、自分だけの勉強をやれと本に書くのだろうが、私は、シンタには学校の課題もきちんとやらせた。
シンタには、学校の先生から課題をやらない「外様」扱いではなくて、課題もきちんとやる「譜代」として扱ってほしかったのである。
シンタは将来社会人になって、無駄に敵を作らないための処世術だった。
理想だが、あらゆることを全力投球でやる男になって欲しかった。
シンタが京大合格した時、誰からも祝福される男になれよと。そのためには手抜きはできなかった。
高校から出る過大な課題は、塾で圧倒的な力をつけ、猛スピードでこなすよう指示した。
シンタは英語に関しては、中学で高校内容の単語文法は終わらせてある。
広島県の高校受験が緩いのに便乗して、高校受験勉強をほとんどやらず、高校英語を先取りしてきたのが功を奏した。
シンタにとって高校の英語課題は、最初のうちはただ手を動かすだけの代物だったのである。
高校の定期試験の扱いはどうしたか?
私は高校の定期試験勉強で、京大過去問の勉強が滞るのを嫌った。
シンタは推薦入学を目指すわけではないから、定期試験の成績に神経質になることはない。
だけど高校の定期試験は、基礎力をつけるのに絶好の機会である。こちらも課題と同じで手を抜くわけにはいかない。特に英語・数学・古文・物理・化学という受験に必要な最重要科目には力を入れるよう言った。
しかし、私と一緒に勉強する日曜日は学校の定期試験対策は無視して、京大の過去問とそれに準じる勉強をやり続けた。定期試験勉強期間は、シンタにとって手ごろな内容なので、逆に学力が落ちる気がした。常に過去問レベルの問題を解くことで、頭をフル回転させ、ホットな状態にしたかったのである。
シンタは日曜日、同級生たちが遊んでいる間私に「監禁」され、勉強を続けた。
地方の進学校のトップレベルの生徒はふつう、先生からは「あの子は言うことなし」と神棚に置かれるように、勉強面も生活面も本人任せにされる。注意されることはない。
しかしシンタは、英文和訳や英作文や国語論述の答案を書くたびに、私にシビアなチェックを受けた。
時にはシンタが想定もしていないことで厳しく叱られた。
「できる子」に対する扱いではない。
おまけに、塾の勉強も学校の勉強も、すべて完璧にやるという、スーパーマンになることを求められた。真面目さの殻から抜け出すことを許されない圧力がかけられた。
しかしシンタはあえて、つらい「暗黒の高校生活」を選んだ。
(つづく)
]]>元気でやってるだろうか。
シンタが去ってみると、彼の凄さを改めて感じた。
彼の勉強姿は、やることなすこと、感心のしっぱなしだった。
シンタは勉強の取り掛かりが早い。塾に着くと速攻で教材を広げ、勉強を始める。
勉強が苦手な子は、塾に来てから勉強を始めるまでの時間が、一昔前のWindowsパソコンの立ち上がりのように遅い。しかしシンタは、最新鋭のMacbookみたいに、開けた瞬間起動する。スピード感が圧倒的だった。
またシンタの礼儀作法は完璧だった。
目上の人には必ず敬語を使い、お母さんは「母」、おばあさんは「祖母」と呼び、士大夫のように立ち振る舞いにそつがなかった。
シンタのお父さんお母さんは、シンタを自分がかわいがるだけでなく、まわりの大人からもかわいがられるよう、厳しくしつけていらっしゃる。
そんなシンタを私は再び塾に迎え入れ、高校部を再開するかどうか迷っていた。
迷った理由は、正直言うと病気ではない。
シンタを大学受験で「私が」不合格にするのが怖かったからだ。
シンタと私は高校受験では成功した。シンタにとって私は成功に導いてくれた「いい先生」であるはずだ。このまま離れた状態だと、良い記憶しか残らない。いい思い出はそのまま温存したかった。
でも、私と大学受験を戦って、不合格にしてしまったらどうか。
不合格になった塾生と、不合格にした塾講師は、微妙な関係になる。
私は、これぞと見込んだ子が不合格になれば、再起不可能なほど落ち込む。せっかく私についてきてくれたのに合格させてあげられなかった罪悪感は死ぬまで残る。
対して、不合格だった子も、私に対するすまなさと、同時にどうして合格させてくれなかったのだという責めが両立する、アンビバレントな感情を抱くだろう。
現実問題として、大学受験で成功した塾OBとは大人になっても親交はあるが、不合格にしてしまった塾OBとは、気まずさや感情のしこりが残る。
私はシンタに対して、強い敬意を持っている。心の底では共に戦いたい。
でも、私はかつて大事な生徒を難関大学に不合格にさせてしまった過去があり、大学受験に対して臆病になっていた。
それに、私は大学受験に「狂う」のだ。
私は大学受験を、人生を決定する重要な岐路だと考えている。大学受験は真剣勝負だ。だから狂う。
狂うと高校生に勉強を強要する。特に東大や京大に合格するには、大量の勉強時間が必要だ。シンタを絶対に不合格にさせたくない。不合格になった時の恐怖で震える。だから勉強させる。土日はない。大学受験に没入すると、日曜休むと怖くなる。シンタを土日に呼び、彼は休みがなくなるだろう。シンタは高校3年間、勉強まみれの「暗黒の青春時代」を送らなければならない。シンタを私の「狂気」に引きずりこむことには躊躇があった。
私は、期待し見込んだ塾生には厳しくなる。
私はシンタを叱るのがイヤだった。
中学まで私はシンタを叱ったことがなかった。しかし高校は違う。
東大か京大を共にめざす師弟が、なあなあの緩い関係になれるわけがない。時には厳しく叱る局面が出てくる。本気になれば人間どうし感情がぶつかり合うのは必然だ。
私は難関大学を目標にする子がいると、梶原一騎の作品、『巨人の星』の星一徹、『あしたのジョー』の丹下段平みたいな指導者になる。精神論根性論が先立ち、教育熱のボルテージが上がる。高度経済成長期の1970年代前半でも古臭い過激な子供の育て方が、令和の若者に通用するはずもない。
私の要求の高さに、シンタに反抗心が生まれても不思議ではない。上をめざすと、互いに価値観の違いが生まれる。私とシンタは、仲の悪い漫才コンビみたいな関係になってしまう可能性があった。
私は愛情が強い。この愛情は平等で微温的な「ビジネス生徒愛」ではない。もっと重く強く狭いもので、中森明菜の歌唱のように、揺れ動く危なげな愛情だ。おまけに、いい加減な人間に対しては、愛情などまったく感じない、きわめて差別的なものだ。
それに、私の愛情は、怒りや激情に変わりやすい性質のものである。いい加減なことをしていたら、強い怒りを浴びせられる。立川談志のように気難しく、大島渚のように直情的な怒りが炸裂する。情の化け物のような私のそばにいたら、シンタがかわいそうだ。
おまけに私は冷酷だ。
難関大学合格に足りないものがあれば、勉強面と生活面の両方で、微妙なことでも鋭く指摘する冷酷さ、残酷さがある。容赦はしない。
たとえば高校生を一対一で説教する時、ほぼ誰もが私の前で全身を硬直させる。そして生徒が「先生はこういうだろうな」と想定する以外の、思いもつかぬ鋭い言葉を放つ。私の一言で、生徒は神経締めにあった魚のようにピクッと動く。そんな緊張感が3年間も続くのだ。
その上さらに、私の病気である。
腎臓の病気が、シンタの指導に支障を来したりはしないか?
病気が原因で、教える体力気力が弱まるということではない。
むしろ逆で、病気が進行すればするほど、私の「狂気」、言い換えればシンタを合格させたい欲が加速する。この世の名残に絶対にシンタを合格させたい。
志村喬が演じた、ガンで余命半年を告げられ最後の仕事に幽鬼のように没頭する黒澤明監督「生きる」の主人公みたいになる。
子供が大学受験に成功するには、指導者や両親のやる気が、子供自身のやる気を絶対に上回ってはいけない。あくまで塾の先生は、受験生を見守る立場でなければならない。私が病で病的に燃えて、シンタが引いてしまうことは避けねばならない。
私が桶狭間の時の織田信長のように、先頭切って馬を走らせたのはいいが、シンタはあきれてリタイアしついてこない場合もありえた。
繰り返すが、シンタの高校生活を受験勉強一本に黒く塗りつぶすのが耐え難いし、ましてや不合格にしてしまえばどうすればいいのだ?
受験に一生懸命になればなるほど、不合格のショックは大きくなる。
たとえば、時速20?の自転車が壁にぶつかってもケガ程度ですむが、時速800?の飛行機が墜落すれば大惨事になる。受験勉強も全力でやる人間の方が、不合格のダメージは大きい
あれこれ考えた末、私はシンタと大学受験を共に戦うことを諦めた。
大学受験は人生を決める。生半可な覚悟では手を出してはならない。私に人の一生を決める力があるか? しかもシンタのような稀代の若者を教える資格があるか? 何度も問い続けた。
しかしある日のこと、病院のベッドで横たわっていると、夢うつつの状態で、シンタが京大に合格する夢を見た(なぜか京大だった)。
京大の合格発表時間から1分もかからないうちに、私のiPhoneにシンタから電話があった。
「先生、京大合格しました!」
シンタは絶対に声を張り上げない、冷静な話し方をする男だが、その時は声にふだんの1.2倍ぐらいの微かな高揚感があった。
私は「おめでとう!」と言いながら、目から涙があふれていた。鼻から鼻水が垂れていた。うれしすぎる。武者震いで歯がガタガタ鳴っていた。
夢が覚めた。
が、夢は覚めても興奮は冷めてはいなかった。夢が私の心の奥底の正直な気持ちを引き出してくれた。私はシンタを鍛えに鍛えまくって、絶対に京大に合格させたい。夢が私の覚悟を決めさせた。
私が塾講師の職を選んだのは、大学生講師の時、教え子が合格するのが嬉しかったからだ。真面目で一生懸命頑張っている子供と受験を戦い、一緒に喜ぶ。こんな楽しい仕事を大学卒業した後、やめてしまうのが惜しかった。塾講師以外の仕事が霞んで見えた。
シンタとともに大勝負をして勝ちたい、一緒に泣きたい。熱い気持ちに突き動かされた。
しかし、私はまたまた躊躇した。
熱や愛情だけで京大合格させられるのか?
ライバルとする相手は東進であり駿台であり河合塾であり鉄緑会である。地方零細塾の塾長にしかすぎない私に、シンタを京大に合格させることが可能だろうか?
かつて私は高校部をやっていて、塾生は少数精鋭で難関大学に合格してきた。各学年の人数は絞ってきた。名だたる都会の塾と張り合うには、少人数にして手厚く教えなければ勝てない。
だが、どれだけ気を配っても、大学受験で手痛い失敗もしてきた。またまた失敗してしまうのか?
私はシンタの京大への道を、執念深くシミュレーションした。病院のベッドで横たわりながら、戦術と戦略を立てた。目標は京大現役合格、3年間でやるべきことの大枠を立て、同時にどんな参考書問題集をどの時期にやるべきか、詳細な計画を練った。
私は4年間シンタに勉強を教えてきて、シンタの強味も弱点も知り尽くしていた。弱点になるであろう英語と国語と社会は日曜潰してマンツーマンで3年間やろう。3年間あれば京大には絶対に届く。
私は最後に確信した。私はシンタを京大に合格させられる。
シンタとは価値観が同じだった。言葉は数多く交わさないが、お互いに理解し合ってるのはわかった。
彼は理知的な風貌をしながら、心の底は精神論根性論の要素があった。現代の子でも厳しい環境を求めている子はいる。シンタはまさにそれだった。
つい最近、イチローがこう言っていた。
「厳しくしてほしいのに、してくれないからつまらないと思っている子も、中にはいると思う。一番弱いところに合わせるっていうのが今の風潮としてあるでしょ? 一番できない子に合わせる、それじゃあダメでしょ。大人がケガしたくないからっていうのが多くのところで見られる、そんな印象です」
シンタは「厳しくしてほしい」向上心の強い男だ。シンタは私のやり方に合っている。
当然、私もケガする覚悟など完全にできている。私はシンタが合格するためなら悪にでもなれる。
私はシンタと京大をめざす決意をした。
たしかに、死ぬほど勉強して不合格になったら、飛行機が墜落した時ぐらいショックを受ける。
でも逆に、合格したらどれほど嬉しいだろうか。
さて、大事な問題が残っていた。
肝心のシンタが塾に戻ってきてくれるかどうかである。
私は一度シンタを手放した人間である。私がいくら熱意を持っていても、シンタに振られたらこの話はおしまいである。
シンタは私に人生を預けてくれるのか?
私はシンタにメールを書いた。
挑発的な内容だった。
「いまのままでは、お前はダメだ」と。
(つづく)
]]>
糖尿病の壊疽である。
痛みと腫れを最初に感じた時、私は勝手に軽症だと判断し、放置していた。しかし左足が異常に腫れ、強い痛みが続いた。しかしバカなことに半年間我慢し、病院には行かなかった。私は極度の病院嫌いだった。病院に行って面倒くさいことになるのがイヤだった。
そのうち、タオルを噛んで叫ぶくらいの強い痛みが襲った。さすがに我慢の限界を超え、タクシーで病院へ行った。
内科の先生は私の足を見るなり、震えた声で「これは死にますよ」と言った。先生は職業としての医師の冷静さを失っていた。目が真剣だった。ただならぬ事態になった。
足の痛みは、糖尿病で足が腐っているのが原因らしい。私は自分が糖尿であることをはじめて知った。うちの家系は母方も父方も糖尿が多いのに迂闊だった。私は酒もタバコもやらないので、自分は絶対に糖尿にはかからないだろうと自惚れていた。
糖尿になると血がドロドロになり、全身に血液が行き渡りにくくなる。だから、血液を送るポンプの心臓から一番距離が遠い足に新鮮な血が届かなくなり、腐敗したのだ。
直ちに皮膚科で緊急手術をした。皮膚科の先生も私の患部を見て唖然としていた。左足の一部は完全に腐っていて、足から滲み出る液体からは死臭がした。縦約8?、横5cm、深さが2?もある巨大な膿をくり抜いた。とりあえずの応急処置だ。
手術のあと、私の左足には穴があいた。穴は理科室の標本みたいな色をしていた。左足は包帯でぐるぐる巻きにされ、そのまま私は入院した。いつ退院できるかわからなかったし、ここで一生を終えるかもわからず、不安になった。塾生にはとりあえず、塾を一週間休むと電話連絡した。
それから左足切断か否かの、せめぎ合いが続いた。
腐敗箇所を取って陥没した足が炎症を起こしていた。炎症のせいで血糖値が下がらなかった。血糖値は500まで上がった。
血糖値が上がると血液の循環が悪くなり、足に新鮮な血液が供給されず、腐敗はどんどん進んでいく。腐敗が進むと左足切断である。演歌歌手の村田英雄が晩年、私と同じ病気で足を切断して、車いす姿でテレビに出ていたのを思い出した。
さらに悪いことに、下手すると体も腐敗して死に至る。炎症を抑える点滴を打ちながら、腐敗を防止する治療が続いた。
しかし残酷にも、私の足はどんどん腐り続いた。新しく腐敗した箇所は一日に一回、麻酔なしで削られた。これが凄まじく痛い。私の足が大きなサラミソーセージのようになり、腐った部分をメスで削っているような感じだった。肉は腐ってるのに神経はしっかり通っている。
時代劇で、蘭学の医者が麻酔なしで患者を手術するシーンを見たことがある。患者が暴れないよう手足を布で縛って柱にくくりつけ、大人数で身体を押さえ、額の汗をぬぐい取る。患者は痛みで叫んでいる。私が足の肉を削られる痛みはそれほどの痛みだった。
病状は一進一退が続き、5日間の攻防のあと腐敗はおさまり、左足切断は免れた。
皮膚科の先生の手厚い治療のおかげである。
3ヶ月後、足の空洞にはスポンジのようなものを入れ、その上に自分の左太ももから移植した皮膚をかぶせた。いまでも私の左足はケロイドのようになっている。
私が入院している時期、塾は休まざるをえなかった。うちの塾はワンオペで講師は私しかいない。勉強が心配な塾生は病院に呼んで、ベッドで説教した。生徒にはほぼ毎日病棟の待合室から電話をかけ、やることを指示した。
いつまでも休んではいられないので、手術から2週間たって、夜間、塾のある時間だけタクシーで病院から塾へ通った。先生からは反対されたが何とか許可を得た。
私は松葉杖姿で授業をした。壮絶感があった。うちの塾生は集中力の高い子たちだが、この時の集中力はすさまじかった。病院から抜け出してまで私が必死で授業をやっていることは、聡明な彼らにはわかっている。私は時に、松葉杖でホワイトボードをたたきながら授業をした。演技がかっているが、私は病気を、塾の緊張感をさらに高めることに利用した。
左足はとりあえず落ち着いた。しかし、私は腎臓も壊れていた。腎不全になった。
腎臓の疾患はサイレントキラーだ。足の疾患がわかった時、私の腎臓はもはや機能不全で、まもなく人工透析が近づいていることを示していた。
糖尿病は万病のもとと言われる。糖尿になると動脈硬化で脳や心臓に負担を与え、神経障害になり、目や歯も影響を受け、腎臓の機能が低下する。足すら切断せざるをえなくなる。まさに糖尿病は疾患のデパートで、私の場合どんな疾患にもかかる可能性があり、総合病院でお世話にならなくてすむのは産婦人科と小児科だけである。
足の病気のあと3年間は節制して、透析する時期を遅らせた。透析は日常生活の自由を奪う。週3日4時間ずつ病院に通わなければならないからだ。
しかし、とうとう数値が限界を超えた。
腎不全の自覚症状が出始めた。腎臓が弱り、排出の機能が衰えているのがわかった。腎臓が機能しないと、水分と毒素が体の外に出ない。塩分が少し多いものを食べると身体が重くなり、水分を排出できないため大量の寝汗をかくようになった。
人工透析とは、機能を失った腎臓に代わって、排出の役割を果たす装置であり、日本では約30万の人が透析治療を受けている。腕に針を刺し、週3日・1日4時間から5時間血液をろ過して、透析治療をする。
透析を始めるにあたって、まずシャントの手術を行う。人間の手首は、静脈が表面に、動脈が骨に近い部分にある。透析は動脈に針を刺し透析機械に流し、浄化された血液を静脈に戻す治療だ。動脈が腕の奥深い骨の部分にあると針が刺せない。
そこで動脈を手術で手首の表面に移し、シャントを作る。私の手首の表面は太くて青黒い動脈が流れ、触ると高圧電流が流れているようにドクドクする。手首の表面を無防備に流れる動脈のせいで、私は重い物を持てない。動脈を傷つけたり重量で圧迫したりすると血液が噴き出し、命にかかわるからだ。
塾生に「触ってみろ」と触らせたら、「わっ」と叫び一瞬で怖くて手を引っ込める。中2理科の「腎臓と排出」で人工透析の話をすると、塾生は思いっきり食いつく。まさに生きた教材だ。
人工透析は、以前は死亡率が高かった。透析始めてから2〜3年で死亡するケースが大多数だったという。機械が未発達なので、毒素とともに健康維持に必要な部分も血液から取り出していたらしいのだ。かつて透析は一種の末期医療だった。
現在は透析の技術も進歩し、透析患者の存命率は高くなっているが、やはり透析患者の死亡率は高い。病床からはどんどん患者が消えていくし、野球のドカベンの香川伸行も人工透析を受けて早死にした。
また透析患者は感染症にきわめて弱い。コロナにかかったら私は健常者の数倍高い確率で死ぬ。
そして、私は透析しなければ、早くて2週間で死ぬらしい。心不全による呼吸困難や、尿毒症による神経障害が起こり、命が絶たれる。
腎不全は命に関わる病気なので、患者には障害者手帳が交付される。透析患者になって、日本の社会保障の手厚さがわかった。透析患者の私には、月30万以上の医療費がかかっている。
しかし私が払う費用は月400円だ。しかも特別なものを除いて、どんな手術を受けても医療費は1回200円。またJRやバスの乗車券は半額(特急券は半額にはならない)、市バスに至っては無料、また観光施設も半額が多く、姫路城のように無料のところもある。また介添人1名まで無料や半額だ。実に手厚い。
おまけに障害年金も支払われる。私は月に7万円もらっている。国民年金を払っていてよかったと思った。この7万は授業料を相場より安くすることで還元している。誰が若い時に、自分が生涯を持つ身になろうと考えるだろうか?
尾道で水害があり、水道が止まった時も、水は最優先でうちの病院へ運ばれた、透析には大量の水が必要なのだ。東日本大震災の時の透析患者の苦難が想像できる。
このあたりの話も、中3公民の「社会保障」のところで触れている。
透析中は実に退屈である。
なにしろ4時間ベッドに寝たきりだ。うちの病院はスマホ禁止、しかも読書は左腕が透析の針、右腕は血圧計で拘束されているため事実上できない。
テレビはあるが、NHKの衛星放送を病院が契約していなくて、スクランブルがかかり大谷翔平の試合が見れない。だから八時台は「羽鳥慎一のモーニングショー」か「ラヴィット」を見ている。朝病院につきベッドで横たわり、子供なら泣きわめきそうな太い針を看護師が刺す時、玉川徹が画面越しで吠えていたのだ。
十時台からは衛星放送の2時間ドラマ再放送か「大下容子のワイドスクランブル」を見ている。
2時間ドラマでは渡瀬恒彦や小林稔持やや榎木孝明や船越英一郎や真野あずさや片平なぎさをローテーションで見ている。寺田農や尾美としのりや高橋かおりが劇中に登場したら80%の確率で犯人であることも分かった。
また、時には4時間ずっと考え事をしている時もある。
透析をはじめて日常生活も変わった。透析後は時間が拘束されるので、本やブログを書く時間がなくなった。透析前は本を執筆したりブログで長文を書いたりしていたが、授業準備やスキルアップのための勉強で時間が取れず、外に向けてのアウトプットは断念せざるを得なくなった。限られた時間は塾生のためだけに使った。
また透析後2時間は、頭痛と極度の疲労感に悩まされている。透析患者は尿が出ない。出たとしても少ない。だから水分が体に溜まる。私の場合2日で4Lだ。それを透析で一気に抜く。2lのペットボトル2本分の水分が抜かれると、当然疲労感がある。私の場合は、水泳で長時間泳いだ後と同じタイプの疲労感だ。だが、なぜか生徒の前に出ると、疲労感がピタリとやむ。
時間が拘束される以外は、私はほぼ、健常者と同じ生活をしている、だが、透析をやっていたら、大規模な塾はできない。
塾は絶対に続けたかった。他の職業への転身など全く考えなかった。私は、真面目で向上心ある塾生が成長し成功するに立ち会うのが生き甲斐だ。この年齢で、しかも疾患持ち。どんな企業からも粗大ゴミ扱いされる。「生涯塾講師」と言えば格好いいが、実際は「障害塾講師」だ。
熟考の末、塾の縮小を決意した。
まず、塾の教室を小さくした。病気前は、比較的広い貸しビルのテナントを借り、手広く塾をやっていたが、身体の負担を減らすため古い木造建築の自宅を改装し、こじんまりした塾に変えた。
さらに、高校部を廃止することにした。高校部はストレスが溜まる。小中学部ならやっていけると判断した。
広島県の公立高校入試は、他の都道府県と比べて合格しやすく、試験直前に切ったハッタのピンチは少ない。これに対して大学受験は「命」をかけた戦いである。身体的には大丈夫だが、精神的に高校部はもたないと思った。高校部の募集はストップし、残っている塾生の面倒だけはしっかり見て、高校部はフェードアウトしていった。
いま考えると私は、楽な道を選んでしまったのだ。
私は高校生に厳しい。
たとえば偏差値が70の九州大学志望の子がいるとする。しかしその子の偏差値が55しかない。偏差値15の差を埋めるためには、猛勉強をしなければならない。
だが、他塾の中には「何とかなるさ」という態度で接し、厳しいことも言わず、そのままダラダラ塾に在籍させて、案の定共通テストで失敗し、2ランク3ランク下の大学にしか合格できない。それでも「君よく頑張ったよ」「合格は先生のおかげです」と慰め合う。
私はそういう生温さが大嫌いだった。
仮にも九大に合格したければ、それ相応の努力しなければ合格しない。偏差値を15上げるには、起きている時間全部勉強する気概がいる。私は意識が甘い子には本気で向き合い、メチャクチャ発破をかけた。妥協はしない。そうすると「先生にはついていけない」「先生の高い要求にこたえられない」と塾を辞める子が出てきた。
「高い志望校に到達するには、それ相応の努力をせよ」という正論が頑固さと受け取られた。仕方のないことではあるが、何で大きな可能性があるのに、才能を無駄にするのかと忸怩たる思いが残った。
こんな私の強引なやり方では、残った子が少なくなる。でも、塾に残った子は私の要求に必死に食らいついてきた子ばかりだ。当然強い愛情が芽生える。偏愛と言っていい。また塾生たちも、私が表面上は厳しくしていても実は溺愛されていることを、よくわかっていた。強すぎる絆で結び付いていた。絆が強いからこそ、絶対に合格させてやらなければならない。プレッシャーで私のストレスは溜まった。
こんな私だから、高校生の模試の結果に神経質になった。
結果が悪いと胃が固まって石になる。食べ物を全く受け付けない。自分の指導の至らなさで、自虐の塊になった。私のせいで塾生を私が不幸にしたんだと。また、私がこれほど不安に駆られているのに、当の本人がのんびりしていると、さらに食欲が減退した。
血圧も高騰した。ひどい時には血圧が250まで上がった。情熱型の指導者は、血圧との戦いだ。星野仙一が阪神の監督をやめる時、ストレスで血圧が190まで上がって、ドクターストップがかかったという。私の血圧は星野仙一より高かったのだ。
逆に、塾生の模試の結果が良いと、食欲がわく。食べるもの何でもおいしい。食べられない時期の大反動がくる。ある時は暴食、またある時は絶食という不健康極まりない食事サイクルが蓄積して、私の足は腐り、腎臓の機能が止まった。
高校生と勉強することは私の生き甲斐だった。塾生とともに第一線で勝負している充実感があった。人生を預かっている責任感が快感だった。だが同時に、明らかに強いストレスになっていた。表面上は何ともなくとも、血圧と血糖値が私がいかに重圧に耐えているかを示していた。
だから泣く泣く高校部をやめた。塾から中学生が卒業する時、「私がもし健康だったら高3まで教えられたのに・・・」とつらい思いを毎年した。
こういうわけで、修羅場の大学受験をやめ、小中学生だけの、のんびりした塾へ移行していった。
そんな時期に私の前に現れたのが、小6のシンタだったのである。
(続く)
]]>建物も小綺麗なビルではなく、尾道の古い木造建築でやっている。「家塾」といえば聞こえはいいが、見栄えはあまり良い方ではない。場末のボクシングジムのような環境である。
しかし、建物は四流、生徒は一流だ。「厳しい」という評判の塾の門を敢えて叩いた、向学心のある十代の若者が、将来ひとかどの人物になることをめざして、真剣に学んでいる。
これから語る長い記事は、小6から高3までわが塾に通い、京大工学部に現役合格したシンタという若者の、努力の軌跡である。
真面目とか根性とか、いまでは前時代の遺物のように扱われている。だが、大人が真面目でひたむきな若者に肩入れしたがるのは、昔も今も変わらない。
私はシンタの、現実離れした真面目さ、大人の知恵をまるごと吸収しようとする素直さ、そして強い意志を内に秘めた上昇志向に心を打たれ、絶対にこの男を京大生にしようと、真剣に教えてきた。
京大合格という高い目標をめざす若者の熱情は、大人を動かすチカラがあるという事実を、この記事で知っていただくことを願う。
シンタは小6の11月に入塾した。
お母さんと面接に来た時、私はシンタを一発で気に入った。色白で眼光に知性がある。インテリ特有のメヂカラがある。見るからに賢そうな男の子で、緊張して顔が少し赤くなっているのにも好感を持った。しっかりしているのに、子供らしい。
シンタは見た目通り、学力が高かった。彼は尾道の土堂小学校、陰山英男氏が校長を務めた教育水準が高い小学校の生徒だ。基礎学力はしっかりしている。
しかも彼は学習塾に通った経験がなかった。中学受験はしないという。首都圏関西圏なら、彼ほどの男ならSAPIXや浜学園に通っているはずだ。手つかずの才能を、私が教えることができる。心が弾むと同時に、宝物を預かったみたいで武者震いした。
彼の頭脳は、作物がまだ植えられていない肥沃な土地だった。小学校の先生とお父さんお母さんが、丹念に開墾した土地だ。そして種を蒔くのは私の仕事。種子を一粒落とすやいなや、ジャックと豆の木のように茎がぐんぐん伸びていきそうだった。のびしろしかない。
シンタは、自転車で塾に通った。
尾道は山が海まで迫り、ウナギの寝床のような細長い平地に、長い長いアーケード商店街がある。室町時代からの古い港町で、神戸や長崎や小樽に似ているが。規模はずっと小さい。
シンタは商店街の西の端から、東の端のアーケードが切れ、さらに少し離れた場所にある私の塾へ、自転車で往復する。
塾が始まるのは19時15分。彼は必ず19時12分から13分、ピタリとギリギリに塾に到着した。時間管理が正確な男だ。彼は7年半塾に通い続けたが、遅刻することも、早く来すぎることも一切なかった。何もかもピタリ正確だった。
私は彼のお父さんお母さんが、個人塾に、そしてこの私に、シンタを預けて下った意味を考えた。
うちの塾は昔気質で、塾長に一癖も二癖もあると毀誉褒貶はげしい塾だ。いい加減な子には「ブラック塾」「パワハラ塾長」と言われても仕方ないくらい厳しく冷たく接する。
だが、向学心ある真面目な子には誠心誠意尽くす。シンタのお父さんお母さんも、私のそういう点を見込んで入塾させて下さったのではないか。クセは強く劇薬だが、真面目なシンタと私なら、相性がいいのではないかと。
また、シンタのお父さんお母さんは、大手塾の画一的な教育はさせたくない。大勢の中の一人ではなく、小規模で個人塾で丹精込めて育てられることを望まれたのではないか。江戸時代の武家が、武士道を学ばせるため厳しい師範のいる道場に子弟を通わせたように。
彼は首都圏・関西圏の難関中学にいても遜色ない力を持つ男の子だ。どんな無能な教師でも伸ばすことができる。だが、せっかく個人塾でお預かりした以上、誰にもできぬ成果を出さねばならない。
私は、シンタの力を最大限に発揮させる戦略を練った。
彼は算数ができた。典型的な理系の頭脳だ。小さい頃からパズルを解くのが好きだという。将来は明らかに将来難関大学を狙える。おそらく医学部か工学部か理学部だろう。
だが、シンタは中学受験の複雑な算数を解いた経験がない。難関大学理系数学では、中学受験で難しい算数を経験した子が有利だ。中学入学までの4か月、やるなら中学受験算数だ。
私は一般的カリキュラムを無視して、図形・割合・速度・数の性質など、シンタが将来中学受験経験者に負けないように、中学受験算数をやらせた。いわば「擬似中学受験」だ。算数以外は一切やらせなかった。難関大学受験への布石を打った。
中学生になったシンタ、学業成績はきわめて順調だった。
定期試験では、5教科450〜480点ぐらいをコンスタントに取った。学校のテストだけでなく模試でも高い偏差値を出していた。
シンタは自分の成績だけでなく、間接的に、他の塾生たちの成績も上げた。
塾では定期試験前、勉強会と称して7〜8時間塾にカンヅメにする。シンタは塾で拘束しなくても、家で自主的にできる男だ。だが私は他の子と同じように塾で勉強させた。
その理由は、彼が勉強すると、まわりに凛とした空気を醸し出すからだ。彼の集中力が教室に波及した。シンタという生きた手本がいたから、まわりの子が覚醒した。
またシンタは、いい意味での臆病さを持っている。勉強ができる子、いわゆる秀才は、シンタに限らず臆病さがある。官僚がその典型で、怖い政治家の心理を忖度できる、感度が高いアンテナを持っている。秀才は先生の意図を忖度できるから、学力が高まるのだ。
私は怒りをストレートに表現する怖いタイプの塾講師だ。だけど、現在の塾は、叱ると退塾が相次ぎ経営の差しさわりがあるため、ある大手塾のマニュアルには、生徒を絶対に怒ってはならないと書いてあるという。もし私がその大手塾の講師になったら、たった10分でクビだ。
シンタは小中学生の間の3年半、一度も私に怒られたことがない。彼は私が怒るツボを知り尽くし、忖度し、避けるのがうまい、他の子を叱っていても自分が叱られたものだと解釈し、ますます真面目さに磨きをかけてきた。叱られた当人が無神経に同じ過ちを繰り返すのとは対照的だ。
また私が彼を叱れないのは、シンタには、どこか高貴なバリアがあるからだ。シンタはアジアの英明な君主、たとえば昭和天皇やタイのプミポン国王の幼少時のような、知性が醸し出す侵しがたい威厳がある。
それに加え、彼は負けず嫌いだ。
シンタは幼少の頃からピアノを続けているが、一年ごとに開催されるピアノの大会のHPを見ると、シンタは一年ごとに成績を上げている。自分より上のライバルがいると、次の年には追い抜いている。骨の髄から負けず嫌いなのだ。
また、たとえばある時、私がシンタに「定期試験、中学校で1番取れた?」と聞くと、「今回は2番でした」とこたえた。「今回は」の「は」に、彼の負けん気が現れていた。色白の端正な顔立ちなのに、オスの闘争本能を持ち合わせていた。
負けず嫌いの子は、勉強方法を間違えない。勉強は高い得点を取るためという目標が明確なのだ。だから点数に直結しない無駄で非効率な勉強をしない。
目標がぼやけている子は、答を写したり、教科書を丸写ししたり、得点に結びつかない勉強を平気でする。時間をつぶすだけの勉強法をとる子は、高得点を取ろうとする野心が欠如している。
そう、シンタの勉強法に無駄がないのは、彼がピアニストであることが大きいと分析する。
ピアノのミスは、残酷にも即座に音でわかる。ピアニストは「1日怠ければ自分にわかる、2日怠ければ批評家にわかる、3日怠ければ聴衆にわかる」という厳しい世界に生きている。
ピアノの先生から新しい曲の課題を出される、難曲にチャレンジし、ミスしないために練習をし、微調整をし、納得する音が出るまで練習を繰り返す。ピアノの練習はtrial & errorの反復だ。
ピアノ上達のノウハウが、勉強で生きた。ピアノのミスを即座に直す習性が、勉強でミスを瞬殺することに結びついたのだ。
同時にピアノは脳の力を上げる効用があるらしい。東大合格者数一位の開成高校では、中学の3年間、音楽の時間にピアノを弾くという。右手と左手が別の動きをするピアノの練習で、学力が高まっていくのだという。シンタにピアノを習わせたお母さんは慧眼である。
さて、シンタの志望校は、尾道北高だ。
ここで広島県の公立高校入試状況を説明すると、広島県の公立高校は他都道府県に比べ合格しやすい。県が重点的に力を入れている県立広島高校という特殊な高校を除き、尾道北や福山誠之館のような最難関高校でも偏差値50台後半で合格できる。偏差値が70前後なければ最難関校に入れない他都道府県と状況が違う。中学受験が盛んな土地柄で、優秀な子が六年一貫中高に流れてしまうのだ。
正直、広島県の公立高校受験は牧歌的だ。とくに広島県東部は際立った私立高校もなく、偏差値75の超難関校である広島大学附属福山高校はあるが、狭き門だ。附属福山高校から公立最難関高の尾道北まで、偏差値にして20近く差がある。
ということは、広島県東部の勉強が得意な中学生は、附属福山高校を目標にしなければ、偏差値55の尾道北や福山誠之館を目標にするしかない。中学校のクラスの上位1〜3番の生徒にとって、公立高校受験は刺激がないのである。
シンタは成績的にも素質的にも、附属福山高校に合格する力は持っている。だが尾道から福山は遠く、尾道北高は家の近所なので、通学時間を考慮して尾道北高を選んだ。私も賛成だった。
また附属福山高校は自由な校風で生徒を縛り付けず、逆に尾道北高は課題が多く厳しい。入学してからの安定性では尾道北高に軍配が上がる。シンタの生真面目な性格は、尾道北高に合っていると判断した。
尾道北高はシンタにとって、絶対合格できるラインにある。彼の偏差値は70前後、偏差値55の尾道北は絶対安全圏だ。
シンタの公立高校受験を衆議院総選挙にたとえれば、自民党の大物政治家、たとえば安倍晋三や麻生太郎や石破茂が、小選挙区で絶対的に強いのと同じことだった。
高校受験が無風状態だと、潜在能力が生かしきれない。一流アスリートの卵に対して、学校の体育の授業で我慢しろと言っているようなものだ。才能には負荷をかけないと「もったいない」と思った。
そこで私は、中3夏休みから、シンタに高校英語を先取りさせた。
彼の高校受験が無風状態なのを利用して、中3終了時にセンター試験で6割取れるくらいのラインまで、文法・単語・読解の三位一体で力を伸ばそうと考えた。
広島県の公立高校入試が緩いのを逆手にとり、高校英語を先取りし、フライングする作戦だった。
読解は『速読英単語・入門編』『速読英単語・必修編』、単語は『システム英単語』を使用した。彼は数学ができるので、文章構造の把握は抜群だった。主語と動詞が離れていても、複雑な挿入や倒置があっても、少しの訓練で見抜けた。
だが英単語は苦しんだ。「解釈は成り易く、単語は成り難し」だ。膨大で難解な高校英単語に、さすがのシンタも四苦八苦していた。
私は英単語を語源・語呂を駆使して説明した。執拗に反復もした。シンタは英単語のストックを確実に増やし、『システム英単語』の1章・2章・5章までほぼ完璧に暗記することができた。
シンタは予想通り、尾道北高に合格した。推薦だった。
シンタは誰よりも早く、2月初旬に高校受験から解放された。だが、シンタは勉強の手を緩めなかった。ここがシンタの凄いところだ。
普通の中学生は、高校受験合格から入学までは、受験で燃え尽き遊ぶ時期である。この時期に勉強したら差をつけられるのはわかっているが、過酷な高校受験の後で、さらに勉強を続けることは、現実的には難しい。
先生の側としても勉強してほしいのは山々だが、強制的具体的指示までには至らない。「受験のあとなのにかわいそう」と甘くなってしまう。
しかしシンタは高校受験が終わっても、ハードな勉強を当然のように受け入れた。土日は1日6時間塾で拘束し、家でも暗記するようシンタに命じた。極端な話、シンタは高校合格前よりも後の方が勉強していた。シンタは自分の目標が高校受験ではなく、大学受験であることを熟知していた。シンタは高校合格直後、英語をひたすら猛勉強した。
だから、シンタは京大に合格したんだ。
そして、シンタと別れの日が近づいてきた。
実は、私は病を抱え、高校部の募集はストップしていた。中学生はなんとか教えられるが、人生が懸かる高校生は難しい。彼が小6で塾に来た時、彼の先生でいられるのは中学3年の終わりまでだと諦めていた。 私の身体では高校生を教えることができない。もし私が健康なら、シンタを手放すわけがない。無念だった。教えたくても教えられないのが、どれだけつらいことか。
中学3年の後半から、しばしば授業後にシンタを呼んで、大学受験の話をした。「シンタ、ちょっとこい」と言って、膝詰め談判をした。
彼は難関大学をめざす力がある。難関大学合格への心構え、勉強のやり方、具体的にどんな本がいいか、高校3年の夏ごろの模試にはどう対策すればいいか、根幹も細部も教え込んだ。高校生になって教えられない分、いま凝縮して言っておかなければならないのだ。私は遺言のつもりで語った。シンタは体を硬直させて聞いていた。私の身体からは、おそらく殺気が出ていたに違いない。
私は正直、シンタと大学受験をいっしょに戦いたかった。
大人は依存してくる子供より、自立している子供の方を評価する。シンタは自主性があり、自分が今何をやるべきか判断できる男だ。お互いに敬意を持ち合っている師弟がともに戦えば、良い結果が出る確率は上がるかもしれない。
だが、ついにシンタと別れる日がきた。
最後の授業、3月16日、ラフではあるが『速読英単語・必修編』を完走した。『システム英単語』も暗記した。挫折率が高いこれらの本をやり遂げ、しかも中学生のうちに終わらせたことは、大きな自信につながるだろう。これでなんとか素晴らしい高校デビューが飾れる。
次の日、シンタとお母さんが私のもとに挨拶に来られた。通夜のようだった。なんだか私とシンタの全十回の連続ドラマが、三回ぐらいで打ち切りになったような気がした。私は終始暗い顔をしていたようだ。シンタものちにこの時「先生に捨てられた」と、お母さんに語ったそうである。
ここで終わってしまうのか。
シンタは塾を卒業した。
(続く)
]]>
中学部の目標は、「尾道北高・東高・福山誠之館・附属福山」に合格させることです。
高い才能を持つ子の学力をさらに伸ばし、隠れた才能を発掘し、人生を変えてみせます。
将来、ひとかどの人間になりたい、自分を高めたい、向学心と知的好奇心がある子には、最高の居場所だと自負しています。
たとえるなら、広島カープのような塾で、一生懸命勉強して這い上がろうという子が多いです。塾生はたいてい根性型です。
「夏の特訓」では、短期間で勉強に対する意識を上げ、カルチャーショックを与え、勉強の楽しさと厳しさを同時に教え、他の塾ではできない、勉強を通した人間力の形成を行います。
そして成績を「爆伸び」させ、イマイチ伸びなかった子供の学力を「魔改造」したいと考えています。
日程は以下の通りです。
中3
●費用
32,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/20(水)・22(金)・26(火)・29(金)
◇14:30〜17:30
8/1(月)・2(火)・3(水)・4(木)・7(日)・8(月)
9(火)・10(水)・18(木)・19(金)・22(月)・23(火)
◇19:15〜21:45
8/26(金)・30(火)
中2
●費用
24,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/18(月)・21(木)・25(月)・26(火)・28(木)
8/1(月)・2(火)・4(木)・8(月)・9(火)
20(土)・22(月)・23(火)・25(木)・29(月)・30(火)
中1
●費用
24,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇19:15〜21:45
7/20(水)・27(水)
◇16:30〜19:00
7/23(土)・30(土)・8/2(火) ・3(水)・4(木)・9(火)・10(水)
18(木)・20(土)・23(火)・27(土)
小6(中学受験はめざしません)
●費用
21,000円 (英数国理社5教科込み・テキスト代含む)
●日程・時間
◇17:30〜19:00
7/18(月)・20(水)・22(金)・25(月)・27(水)・29(金)
8/1(月)・3(水)・8(月)・10(水)・19(金)・22(月)・24(水)
26(金)・29(月)・31(水)
お申込み、お問い合わせは
kasami88@gmail.com
まで、よろしくお願いいたします。
]]>主な動機は、大学で行える研究の内容が自分の将来やりたい事と一致していたからです。
長いようで短くもある高校3年間の受験期を乗り越えるにあたって何よりも重要なのは、志望校を早く決定し、それを貫き通すということです。
1年生の僕にとって京大の情報学科は手が届かないような高みにある大学でした。
それでも情熱と夢はふんだんにあり、この気持ちを3年間持ち続け、そこに向かってひたすら進むことが何よりも大切なことです。
その気持ちをずっと支えて下さったのが笠見先生です。
先生が僕のことを最後まで信じて下さったおかげで、苦しい時でも迷いなくずっと京大だけを目指して進むことができたと思っています。
先生と僕の3年間の軌跡を書いていきます。
僕はこの受験勉強の中で、大きく3つの失敗をしました。
第一の失敗は、1年生の夏のことです。
先生との受験勉強が7月にスタートした直後、「まずは英語を固めよう」ということで、夏休みの間に「DUO」と「システム英単語」の例文を全て覚えてくるように言われました。
先生としては、ここでスタートダッシュを決め、英語で圧倒的なアドバンテージを得る予定でしたが、夏休み後に行った例文のテストで僕は惨憺たる点数をとってしまいます。大げさではなく0点に近いものでした。
夏休み中、先生に対し、自信に溢れた大言壮語を散々吐いておきながらのこの結果であり、当然ながらもの凄くお叱りを受けました。
中学までやってきた暗記の仕方では詰めが甘く、大学受験では到底通用しないと思い知らされます。
何度も何度も紙に書いて覚える、といった泥臭い勉強法の大切さを学んだ事は収穫でしたが、英語のスタートダッシュは確実に遅れました。
第二の失敗は、1年生の3月から2年生の6月にかけてのコロナによる休校期間中でした。
僕はこの間、数学の黄チャートの習った範囲を3周ぐらいして基礎を定着させる、という作戦をとりました。
基礎を固めることは、受験においてとても大切ですが、京大を受ける上でこの勉強法は不十分でした。
京大数学では、誘導形式の問題が少なく、難問へのアプローチ、発想力が問われます。
僕はここで、基礎をやるだけでなく、休校中の大量にある時間を使って、難問をたくさん解くべきだったのです。
追い込みの時期になってくると、一問を数時間かけて解く、ということは難しくなります。時間のありあまるこの時期に、基礎の定着という守りに入って、難問をガツガツ解く、という攻めた勉強法をしなかったのは、怠惰でした。
第三の失敗は理科です。
地方の高校から難関校を目指す際に、理科が最大のネックになります。
中高一貫校の生徒は、高校2年生までに理科の全カリキュラムを終わらせ、高校3年生の間は問題演習ができます。
僕の場合、理科のカリキュラムが終わるのが3年生の秋頃だったため、その時点でそもそもハンデを背負っているようなものなのです。
僕はその事実を先生に聞いて、知っていたにも関わらず、学校の進度に合わせて悠長に基礎固めをしていました。
本気で中高一貫校の生徒と戦うなら、「スタディサプリ」などの映像授業でも使って、積極的に先取りすれば良かったのです。
このしわ寄せが、3年生になって過去問に取り組むタイミングが遅くなるというところに来てしまいます。
難関大学を受けるという人は、特に3つ目の理科の事例は反面教師にして欲しいと思います。
次に各科目の勉強法について書きます。
〈国語〉
1年生の9月から京大の過去問を解いていました。
京大の国語は、とにかく大量に記述させる問題なので、その長い文章を読みやすくまとめる力が必要となります。
文章力、記述力は自分で書いて添削を受けなければ成長しません。
学校で課題として出される国語の問題集もありましたが、記述量は30字程度で、京大の問題に十分な文章力の養成は見込めませんでした。
また、よく読書が効果的、と言われますが、僕は読書量が不足しており、読書時間が十分にとれない状況にありました。
そこで先生は、僕に「得点奪取・現代文」「現代文のアクセス」「現代文の開発講座」などの問題集を渡し「この問題の本文をじっくり読んで咀嚼して読書に変えろ。そうすれば短時間で濃い読書になる。」ということをおっしゃいました。
この勉強法と、文章を書いて添削してもらうことで、少しずつ記述力がついていきました。
〈数学〉
?A?Bについては、2年生ぐらいから京大の過去問を解いていました。
数?は、基礎内容が難しいので、3年生の始めぐらいまで基礎を固め、その後過去問に入りました。
過去問を解く際に「世界一わかりやすい京大数学」という本に沿って進めていきました。
この本は、どのようなアプローチでその解法にたどり着いたのか、という過程を詳しく、受験生目線で解説している、京大受験生のバイブルのような本です。
また、「京大数学プレミアム」という本にもとてもお世話になりました。
1900年代の古い京大数学の問題を主に集めた本で、青本、赤本にも載っていない年代の難問を経験でき、これによって「世界一わかりやすい京大数学」+αの力がつきました。
さらに、3年生の秋、合否を分けたと断言できる勉強法を先生が提案して下さいました。
その内容は単純なもので、一日に最低3問以上数学の過去問を解いて、紙に記録する、というものです。
数学は一日でもやらないと勘が鈍り、鉛のような頭になってしまい解法が閃きづらくなります。
僕の受ける学部では、数学が最も差のつく科目だったので、この勉強法によって本番直前まで頭の冴えを維持し続けることが出来たこと、そして誰よりも大量に過去問を解いた、という自信を持てたことは本番の結果にも大きく影響したと思います。
〈英語〉
国語と同様1年生の9月から過去問を始めました。
京大の特徴として、とても複雑な構文の和訳が求められます。
「ポレポレ」「英文解釈の透視図」の2冊をリピートすることにより、英文解釈はほぼ敵なし状態まで仕上げました。
また、「速読英単語上級編」「リンガメタリカ」などの難しい文章を読む訓練を積み、単語力と未知語の類推力を同時に養っていきました。
長文読解で最も苦しんだのは、「内容説明」でした。
英文和訳は早めに仕上がり、最終的には学校の先生にも太鼓判を押してもらえるぐらいになりましたが、「内容説明」は最後まで不安定でした。
直前に、京大模試の過去問の内容説明問題を笠見先生とノックのように解きまくり、本番までには完成させました。
英作文は「ドラゴン・イングリッシュ」「竹岡の英作文」「英作文のトレーニング必修編」「例解・和文英訳読本・文法矯正編」の4冊の本を復習しながら終わらせ、とにかく数をこなし、経験を積むと同時に英訳のストックを増やしていきました。
早めに英作文に取りかかったからこそ、大量の問題に当たることができました。
そして、英語と国語で大切なのは、1、2年生のうちに志望校の過去問で合格点がとれるぐらい完成させておくことです。
数学・理科に専念するためにも、英語と国語を安定させることが重要です。
〈物理・化学〉
進研模試の理科の点数が伸び悩み、8割の壁がなかなか越えられない状況が続きました。
まずは、3年生の秋ごろ、物理を打開するために「物理のエッセンス」で基礎を固め直し、「名問の森」で発展問題を大量に解くよう先生に勧められました。
それまで、他の問題集を何周かやっていてこの時期に問題集を変える、というのはリスキーな選択だったと思います。
しかし、これによって模試の点数が安定し始めました。
自分の演習量不足が解消された故か、それとも新しく使った問題集がうまくはまったのかは分かりませんが、作戦は成功だったのです。
化学もこの成功体験をもとに、学校で全カリキュラムが終わった11月頃「化学の新演習」を新しく始めました。
全てを解いて復習する時間は無かったため、それまで使っていた問題集で難問が不足していた平衡分野の補強と、習って間もなかった有機化学の演習を行いました。
有機分野の構造決定は元々自分が好きだった上に大量の演習をしたことで、超得意分野となり、入試本番でも得点源となりました。
京大の理科は全てを時間内に解けるようには作られていないので、自分の得意分野を作り、そこで確実に点を稼ぐほうが、点数も伸びるし心にも余裕が出ると感じました。
〈京大模試〉
京大模試は当然、他のどの模試よりも大切です。
通常の模試は、大学固有の問題とは毛並みが全く違うので、判定は正直そこまで当てになりません。
実際に僕の判定も、京大模試とその他の模試で大きく異なっています。
また、京大模試は慣れない環境で受験し、実際の入試さながらの緊張感の中受けられるので、1つの大きな目標として、また自分がこれまでやってきた勉強が正しい方向に進んでいたかを確かめる目的でも効果的に活用できます。
全国の京大を目指すライバルと競い合って刺激を受ける又とない機会です。
〈本番直前期〉
笠見先生の作戦により、配点の低い共通テストは地理以外を捨てて、家や塾ではほとんど対策を行いませんでした。
その分浮いた時間を二次の対策、特に数学と理科の過去問に充てていました。
結果、共通テストはこけてしまい、8割ありませんでしたが、二次対策はずっとやってきており、自信があったので、京大に出願しました。
また、私立大学の受験の重要さも痛感しました。
僕は慶應義塾大学に合格することができ、強力な後ろ盾を得た気分でした。
国公立入試の前に入試の緊張感に慣れておくというだけでなく、「落ちたら浪人かもしれない」という選択肢が消えたことは本番のメンタルに大きな影響を与えました。
本来かなり緊張していたはずの本番で、ある程度リラックスして実力を出せたのは、これまでやってきたことに対する自信と慶應の後ろ盾のおかげでした。
最後に笠見先生について。
僕はUS塾に小学6年生の頃から通いました。
当時US塾は先生の体調もあり大学受験をやっていなかったので、僕は高校入学後、塾を去りました。
しかし、高1の7月、先生から一緒に大学受験を戦おうとお誘いいただきました。
大げさに思われるかもしれませんが、この瞬間、僕の未来は変わりました。
笠見先生の力なしでは、僕の京大合格はあり得ませんでした。
そして、先生は身体に大きな病気を複数患っておられ、週に何度も病院に行って透析を受け、闘病しながら塾をやって下さいました。
本当に執念の如き熱意で、休日も返上して僕と一緒に本気で戦って下さいました。
さらに、笠見先生に教えていただいたことは、勉学に限りません。
熱のこもった文章を書くこと、目上の人に対して受け身ではなく、積極的なコミュニケーションをとることを何度も厳しく指導していただきました。
先生は何度も「お前を普通の京大生にしたくない」とおっしゃっていました。
この指導は僕が大学生、大人になってからのことも考えてのことでした。
まだまだ未熟ですが、このことは今後の人生で必ず僕を助けてくれるはずです。
これ程熱く、卒業後まで真摯に考えて下さる先生はどこを探しても見つからないと思います。
世界最高の塾講師だと僕は信じています。
大学受験をする人は、入試直前に「これだけ勉強して落ちるならもうしょうがない」、入試後には「これ以上の答案は書けない」と思えるぐらいまで努力して下さい。
一世一代の勝負に悔いを残さないように。
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私は5年前まで高校部をやっていましたが、一時中断しました。
大学受験は子供の人生を預かるものであり、精神的にきつく、肉体的にもほころびが見え始め、体を壊したためです。
野球の星野仙一監督は阪神時代、チームは優勝したのに監督を辞任しました。血圧が180を超えドクターストップがかかったからだそうです。対して、私の血圧は当時240。星野監督の遥か上をいくものでした。大学受験生を本気で率いていくのは、命がけです。
昔の高校部は外部から募集せず、ほぼ小中学生のころから教えてきた子どもたちだけを相手にした、ごく少人数のものでした。数人の高校生と、強く濃厚な師弟関係を結び、手塩にかけて鍛えてきました。長い年月、私がずっと教えきた子ばかりですから、不合格になれば私の全責任です。プレッシャーは相当なものでした。
しかし、おかげさまで東大・京大・一橋大・九州大・広島大・岡山大・愛媛大・埼玉大・早稲田大・慶応大・上智大・同志社大・立命館大・関西学院大・中央大・明治大・立教大など、小さな塾にしては自慢にしていいほどの合格実績を上げてきました。うちの塾は大手塾でなく小さな個人塾ですが、場末のボクシングジムが強いボクサーを出す気概で、教え子たちは、私の厳しい要求に耐え、よくがんばってきました。
誰もが同じ学力を持っているわけではありません。得意教科と苦手教科も人さまざまで、志望校もそれぞれ違います。でも彼らはみんな泥臭い努力をし、就職活動でもよい結果をもたらしました。
私にとって大事な高校部をやめる決断をしたのは断腸の思いでしたが、その後私の体調も快方に向かい、中学で塾を卒業する一部の子とも意気投合し、「高校になっても一緒にやろうか」ということになり、自然発生的に高校部を再開しました。
私が高校部を再開した最大の理由は、中学を卒業した塾OBの高校生たちの成績が、いろいろ噂を聞くに、あまり上がらなかったからです。正直、私より怖い先生は、周辺にはあまりいません。高校生になって甘い環境(世間一般で言えば普通の環境ですが)に慣れ、厳しさから解放され、家でゲームやYouTubeにはまり、そのうち勉強する気になっても時すでに遅く、もはや授業についていけない、そんなケースを数多く耳にしました。ゲームやYouTubeにはまってしまえば、せっかくの青春時代が台無しです。僭越ながら、私が高校生を教えるに耐えうる健康体だったら、ずっと一緒に頑張って来たのにと、忸怩たる思いでした。
また、北高の進学実績も大きく落ちているのも、再開の理由です。前年度北高は、旧帝大の合格者数はわずか3名でした。
高校生たちは、口では東大京大早稲田慶応、阪大九大神戸大、広大岡大と勇ましい目標を立てていても、相応の勉強量をこなしていません。意識も甘い。
特に難関大学は全国レベルの戦いです。ライバルは灘や開成にいるのです。都会の才能ある同級生と渡り合っていくには、意識の高さと勉強の質量、自信と負けず嫌いの性格、そしてこれが一番大事なのですが、「勉強を楽しむこと」が必要なのです。
地方では、勉強ができる子に対して、先生たちも「あの子は放任していても大丈夫」と満足して、厳しい言葉をかけたりはしません。神棚に置かれてしまっています。現状に満足し、お山の大将になり、才能をフルに生かせません。勉強が得意な子に対して「もっと這い上がってこい。君の力はこんなもんじゃないぞ」と、私みたいに刺激を与える人はいません。
地方の子は、都会の子にはない素朴さがあります。誰からも可愛がられる性格を持っている。これに学力が加われば、ハイパーな若者になれるのです。
いずれにせよ、大学受験勉強は、高校受験のように最後の3か月でスパートをかけ、追い越せるような甘いものではありません。「勉強界の大谷将平」くらいのポテンシャルがあれば別ですが、高校受験の成功体験を大学受験に持ち込めば、ひどい目にあいます。
私は高校生に対して、物分かりいい大人を演じたりはしません。ある時は厳しく、ある時は熱く励まし、10年後に「もっと勉強しておくべきだった」と後悔させないよう、強い視線で見守っていきます。
才能を生殺しにしないために。
■勉強はフライング
高校で成績を上げるには、スタートダッシュしかありません。学力が劇的に上がるのは、中学1年と、高校1年の入学前後と言われています。誰も勉強していない時期に抜け駆けしないと、学力の伸びは限定的になってしまいます。
特に英語のスタートダッシュが肝心です。
英語は、高1の最初、いや中3の3月からスタートダッシュをかまします。
「百ます計算」の陰山英男氏は小学生に、各学年の最初にその学年で習う漢字をすべて暗記させるそうです。小6で習う漢字を4月のうちに暗記したら、その後の勉強は楽になります。教科書の文章も、漢字を知っているからスラスラ読めるでしょう。最初に漢字丸暗記という負荷をかければ、あとは「国語を楽しむ」ことができます。
英語も同じです。
私は高校3年間の基本単語、共通テストで必要な最低限を、高1の1学期ですべて暗記してもらいます。すでに高校受験が終わった塾生は、合格発表直後に高校英単語を暗記し始め、高校で必要な単語の3分の2は、すでに暗記し終えました。まだ高校受験が終わっていない子も、合格の余韻に浸っている場合ではなく、高校受験終了次第ただちに暗記を開始し、順次追いついてもらいます。
「高1で高校英単語前倒しで暗記するなんて早すぎる」と思われるでしょうが、林修氏も「勉強にフライングはない」と言っていました。また陰山英男氏の漢字同様、英単語を暗記してしまえば、英文読解が楽です。一文にわからない単語が3つも4つもあるような難しい英文を、辞書を引きながら和訳する作業は苦しく、知らず知らずのうちに英語嫌いになります。
わからない単語だらけの英文を読むことは、砂利だらけの米の飯を食べるのと同じくらい不快です。
「英語を楽しむ」には、高校英語最初の3か月の、苦しい暗記が必要です。嫌なことは先にすましておきたいものです。暗記してしまえば、英文が読める、高校の単語テストで苦しまないといった、甘い果実が待っています。
■高1高2の勉強は ONとOFFの区別を
高校生で大切なのは、勉強と部活の両立です。
勉強すべき時と、部活に熱中すべき時の、メリハリが大事です。
高1高2のうちは、部活に燃えてほしいと思います。部活のいいところは、努力と結果の因果関係を肌で学べるところです。技術向上のために、作戦を考えトライアルする。試行錯誤の中で、最大の結果を得る方法論を見つけ出す。成功と失敗の絶え間ない繰り返しの中で、頭脳と身体の両方が鍛えられる。この経験は、勉強にも仕事にも生かせます。
高1高2の勉強面で重要なのは、「断続的な猛勉強」です。
高1高2のメインは「模試」です。正直、定期試験より模試の方が大事です。ベネッセや河合塾や駿台が実施している模試は、全国での順位と偏差値、それに志望大学の合格可能性がA判定からE判定まで出てきます。自分の学力がどれくらいのレベルにあるか、数値で一目瞭然です。
定期試験の範囲は学校で習った範囲なので、暗記したことが素直にそのまま出ます。範囲も狭い。
逆に、模試は範囲が広く、問題が難しく意地悪で、しかも「頭の良さ」を試す問題が出ます。
定期試験がバッティングセンターの棒球なら、模試はカープの栗林のフォーク、ジャイアンツ菅野のスライダー、オリックス山本由伸のカーブです。
US塾では定期試験対策に加え、模試対策も行います。模試はほぼ2カ月に1回、土曜日に高校で行われ、その10日前から模試を入試に見立てて対策します。
たとえば高2夏の模試なら、試験範囲は高1の最初から高2の1学期までの15カ月分と、かなりの量です。無対策で模試に臨むのは危険すぎます。
模試という「疑似入学試験」に本気で立ち向かうことで、入試に強い学力とメンタルを鍛えます。高1高2のうちは、OFFは青春を思いっきり謳歌してもらいたい、しかし模試や定期試験前のONの時期には、猛勉強してもらいます。
■高3では周囲がドン引きする猛勉強
高3の最初に決めた志望校、1年後に合格する可能性は何%だと思われるでしょうか?
ある統計によると16%だそうです。
6人に5人が第一志望に合格できない、高校受験に比べ、大学受験の厳しさがおわかりになるでしょう。
公立高校生の模試での順位は、高3になるとガタリと落ちます。理由は浪人生が同じ土俵で戦うようになること、そして中高一貫の難関高校の生徒がやる気を出し始めるからです。 広島県東部でいえば、附属福山高校の生徒が、成績を爆上げさせます。
六年一貫校の生徒は、中学受験で勝ち抜いてきた、算数数学の力がある子が揃っています。彼らは高校受験がないので、中3から高1の間は遊んでいます。
しかし高3になれば高校のクラスの空気が自主的に「戦う集団」になり、目の色が変わり猛追してきます。結果、大学合格者数は、難関高校の独占になるのが、お決まりのパターンです。
数学には一種の才能が必要なのは事実です。特に最近の入試は、理数系を強化し日本の国際的地位を高めたい国策からでしょうか、大学受験も高校受験も数学の難化が激しく、「天才」でなければ高得点が取れない傾向があります。大学共通テストの数学では、数学の才能がある生徒とそうでない生徒の格差が大いに広がり、パニック状態になりました。
だからこそ努力が裏切らない、苦労がそのまま得点につながる英語を味方につけなければなりません。「天才の数学、努力の英語」と言われています。英語の先取り学習、フライングが必要なのは自明の理です。
危機感を煽るようで恐縮ですが、六年間一貫の難関高校と同じリングで戦うには、高3になったら起きている時間すべて勉強するくらいの「狂気」が必要です。「狂」という言葉は誤解されやすいですが、もともとは「自分以上の力を振り絞って出す」という健全な意味です。
意識が高い塾生の中には、高3になると髪は勉強の邪魔だ、気合を入れたいと、頭を坊主にして頑張る子もいます。
繰り返しますが、入学試験数カ月前になってやる気になっても完全に遅いのです。
高1高2のうちは、勉強頑張る子に対して「そこまで勉強頑張らなくても」と冷ややかに見ていた高校生でも、試験数カ月前だけは「狂気」に陥るでしょう。しかしそれでは、高1の最初から将来を見据えてきた高校生に、勝てるわけがありません。精強なロシア軍に素手で戦いを挑むようなものです。
■過去問は楽しい!
しかし歴代の塾OBたちは、なぜかこんな受験勉強を口をそろえて「楽しかった」と言います。それはおそらく高3後期から「過去問」を中心に勉強するからだと分析します。
「過去問」は高校生を燃やします。
過去問のいいところは「スコア」が出ることです。人間は結果が数値化されるものに興奮を覚えます。過去問を解くことは、子供のゲーム、大人のゴルフに似ています。スコアに一喜一憂します。
いざマークシートの過去問をやってみる、最初のうちはスコアが低く、たとえば100点満点中43点しか取れない。悔しい。原因を探る、苦手分野を洗い直す、同じタイプの問題が出たら解けるよう執拗に見直しをする。成果を試すため、はやく次の過去問がやりたい・・・
こういうトライアル&エラーを繰り返すことで、高3生は本番に強い力をつけていきます。部活と同じで、努力と結果の因果関係を肌で学べ、学力向上のために試行錯誤し、結果を追求する楽しみがあります。
とにかく、高3になると、『黒子のバスケ』のZONEに入っているように見えるほど、猛勉強します。まるでゲーム感覚、ゴルフ感覚のように楽しいものです。
高3がもし一日14時間勉強していたら、まわりは苦しんでいるように見えますが、過去問でスコアを上げることに燃えている本人からすれば、14時間ゲームしているのと同じことです。
現在高3にシンタ君という京大志望の北高生がいますが、彼は京大の数学を過去30年分やり、しかもそれに加えて予備校模試の過去問を12年分終わらせ、もう解く問題がなくやり尽くし、同じ問題を反復しています。物静かな男ですが、猛勉強している彼には、まわりも引きずりこんで勉強させる、人格的圧力、威厳が漂っています。
現中3の塾生たちも実は、高校受験に向け広島県の公立高校の問題を、いま、大学受験と同じ感覚で解いています。私がすべて採点し、論述問題をシビアに採点し、結果を数値化し反省点を洗い出し、苦手分野を消していく。この一連の作業で土日が丸ごと潰れてしまいますが、ただ教材を解くだけ、ただ暗記するだけの単調な勉強より、健全な射幸心が刺激され、体感時間は短いはずです。
勉強というものは中途半端にやれば苦痛ですが、本気で挑めば快感です。
■論述力・文章力にこだわる
過去問はマークシートだけではありません。国公立大学の二次試験は論述問題です。
国公立二次試験は、文章力が問われます。大学受験の文型科目は、いわば文章力勝負です。
英語と国語は記述問題で、生徒自身では正確な採点はできません。US塾では論述問題を高1の夏ぐらいから実際に書いてもらい、私がすべて採点します。師匠と弟子の間の書簡のやり取りみたいな感じです。
高3の2次試験直前になって、英作文や現代文論述の添削をやり始めても遅いです。文章力は一朝一夕に身につくものではありませんし、大学の論述は、採点する英語ネイティブや大学教授の目にかなうものでなければならないのでハードルは高いのです。文章を書きなれた受験生と、そうでない受験生を、プロは一瞬で見抜きます。
私が中学生のうちから、塾生にメールで文章を書いて添削するのも、すべて大学受験の二次試験のためです。あれは大学受験論述問題の「早期教育」です。
またふつうの塾は、講義が中心、つまりインプットがメインになります。しかしUS塾ではインプットにプラスして、アウトプットを重視します。アウトプットとはすなわち、塾生自身が問題を解くこと、頭を使うこと、そして文章を書くことです。
一方的な講義だけでは、限界があります。
旧日本海軍・連合艦隊司令長官・山本五十六は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と言葉を残しましたが、「やってみせ、言って聞かせて」だけではダメで、「させてみせ、ほめてやらねば」子供は伸びないのです。
論述こそ、究極の「させてみせ」、実践的なアウトプットです。
■私は大学受験の「プロデューサー」
私は英語・国語・社会を教えます。数学・理科はタッチしません。私は私立文系大学の出身であり、数学理科は大学受験の科目になかったため、高校数学は教えるのを遠慮し、専門家に任せるのがベターだと判断しています。数学塾は別にお探しください。時間はこちらが合わせます。
私は文系科目だけを教えますが、 英語だけ伸びればいいという、そんな考えには立ちません。全教科に目配りします。苦手科目の苦手分野があれば映像授業を見せたり、本の紹介をしたりで、徹底して気を配ります。
全教科を上げるということは、「人格力」を上げることにもつながります。勉強に対する意識の高さ、若者らしい青春の燃える意気、将来ひとかどの人間になってやろうという野心、そして自分の力で誰かを救えるという自負心、これらの全人格力すべてが、勉強の結果に反映します。
私は塾生を「勉強だけの人間」にはしたくはありません。誰からも慕われ頼られる人間にしたい。ですから小手先の勉強だけ教えるという姑息なことはしたくないのです。学力が人格を高め、人格が学力を上げる。学力と人格は相関関係にあります。
とにかく高校部では、教科は英国社しか教えませんが、全科目に目を行き届ける「プロデューサー」的存在、さらにいえば、塾生が十代の若い殿様で、私が教育係の五十代の家老みたいな、参謀的存在だと思っていただければいいでしょう。
音楽の世界で、才能あるミュージシャンに寄り添う、ミスチルの桜井和寿を引き上げたプロデューサー小林武史的な、塾生の才能をどの方向性に向かわせたらいいのか絶えず考えるスタンスに立ちたいと考えています。
■受験生の「メンタリスト」
何よりも気を配らねばならないのは、受験生のメンタルです。
塾講師の価値は、生徒が不合格になった時の声掛けにあります。大学受験への第一志望の合格率は16%とお伝えしました。この確率を少しでも上げることが私の仕事ですが、残念ながら当然不合格もあり得ます。不合格になった子を前にして、ロシアのトゥトべリーゼコーチのような、ワリエワ選手が失敗した後に「どうして流したの」と冷たい言葉をかけたりできるわけがありません。
受験勉強は、本気でやればやるほど、精神的にきついものです。がんばっても成績が伸びない時のつらさは地獄です。そして、一生懸命勉強すればそれに比例して、不合格になった時の衝撃は大きいものです。ジェット機が墜落した時の衝撃が大きいように。
しかし、大学受験で万が一失敗した時、失敗を糧にできるような、むしろ失敗した時こそ新たな生きる力が湧いてくるような言葉をかけることが、私の最大の使命です。人生の岐路に立った時、私の言葉を塾生が素直に聞き入れてくるような、強い人間関係を構築していきたいと思います。言うは易し行うは難し、理想的過ぎて、大変難しいことではありますが。
■なぜ、大学受験を死ぬ気でやるのか?
本気で勉強して不合格になれば、精神的にダメージを食らいます。
しかし逆に言えば、合格した時の喜びは、本当に、筆舌に尽くしがたいものです。
合格発表で自分の番号を見た瞬間、頭がスパークします。
オリンピックで金メダルを取った瞬間、プロ野球の優勝チームの胴上げの瞬間、無名の漫才師がM―!グランプリで優勝した時の瞬間、そんな喜びの瞬間が、他の誰かではない、自分自身の身体を突き抜けるのです。どんなに嬉しいことでしょう。他の子が遊んでいる時に勉強を続けてきたつらさが、合格発表の一瞬で報われます。
合格したら、とてつもなく大きな自信になります。苦労して物事を成し遂げたとき、困難なことでも自分ならやり遂げることができるんだと、強い自信がみなぎります。そして、自信がある人に人はなびきます。受験勉強の成功が自信につながり、自信が他人を魅きつけるパワーをもたらすのです。
加えて、私は塾生に、他人から批判される人間になって欲しいと思います。他人から批判されるということは、自分から何かアクションを起こし、物事を進めていく行動力と気概があるからです。批判する人間ではなく批判される人間に、傍観者ではなくプレーヤーになってほしいです。
そんな強い人間になるための礎を、大学受験を真剣に取り組むことで、私の塾生たちには身につけてほしいと考えています。
塾生たちを、高校部における真剣勝負の勉強を通して、誰よりも凄い人間にしてみせます。
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土日は塾にカンヅメで学校の提出物をこなす。週2~3回の通塾時間は週5回に増える。
だから定期試験の成績は良い。塾生の努力の賜物である。
私は、中学生は自主性に任せない。強い勉強意識が芽生えるまで、私が引っ張る。
定期試験前、中学校は午前中で終わり、試験1週間前からは部活もない。これは中学校側が試験勉強時間を与える気遣いなのだが、多くの子供は空白の時間をYouTubeやゲームに費やしている。ふだんは遊んでもいいが、定期試験1週間前くらいははメリハリをつけ、ド集中して猛勉強すべしというのが、私の考え方である。
広島カープは猛練習で有名だが、金本や新井のような意識が高いレジェンドも、最初から自主的に練習したわけではない。厳しいコーチがいて「やらされる練習」を課され、リミッターを外されたからこそ、自主的に猛練習ができるタフな選手になった。勉強もスポーツも、最初は指導者が引っ張ることが大事だ。
定期試験対策は、塾ですべてやってしまう。
勉強方法を知らない新人の子には「点数の取れる」勉強方法を一から教え、また社会や暗記物は「強制暗記」してもらいクイズを頻繁にやる。数学や理科の頭が混乱する所はマンツーマンで教える。とにかく定期試験で良い点を取れるよう、徹底して気を配る。
塾生は、長時間拘束に嫌な顔一つせず頑張っている。土曜日も日曜日も、朝9時から夕方6時までとか、長時間勉強している。
「長い」と思われるかもしれないが、学校で定期試験前に出た課題を、英数国理社プラス音楽・技術家庭・保健体育・美術の実技教科に至るまで全部こなし、頭にインプットして試験に備えるためには、べらぼうな時間が必要なのだ。
もしサッサと課題を終わらせている中学生がいれば、それは神業レベルで処理能力が速いか、手を抜いているかのどちらかだ。意外に多くの子が課題の答えを丸写しして出している事実に、保護者の方は気づいていない。一度、子供の提出物を見ればいい。間違いがなく全部マルだったら、100%解答を写している。
うちの塾生は、手を抜かない。
私は定期試験を重く考えている。たかが定期試験勉強だが、本気でやる。
定期試験前には1対1で面談をやり、抱負を述べてもらい、目標点を決める。試験への意識づけを明確にするのだ。試験終了後はテスト結果の現物を持ってきてもらい、私が講評を加える。
子供が一番うれしい瞬間とは、努力して良い結果が出た瞬間だ。苦学して定期試験で結果を出せば、学力以上に自信がつく。
大げさに言えば、人格成長の一つのきっかけとして定期試験勉強がある。塾は勉強だけ教えるところというのは間違いだ。勉強の成績が伸びることも勿論大事で、学習塾の使命だが、勉強を人格形成の一つの手段としてみなす視点も塾は忘れてはならない。
さて、今回の定期試験対策は、1週間前からでなく、2週間前から開始した。
中3は入試3か月前で、正直、学校の定期試験勉強よりも入試問題を解いて実戦力を鍛えい時期なのだが、やはり最後の内申点は大事だし、また学校の定期試験勉強を深くやることが入試に直結すると考えたので、貴重な2週間を定期試験勉強に捧げた。
中2は中だるみの時期で、日本全国津々浦々の中2生はあまり勉強していない。勉強は人がやらない時にダッシュかけないと伸びないものだ。
中2には「将来君たちは、特に大学受験前になると、勉強に燃える時期が必ず来る。その時に武器弾薬が豊富なのと、裸のまんま徒手空拳で戦うのとでは、まるっきり違う。だから今のうちに勉強して、武器弾薬を確保しておけ」
「人が遊んでる時に逆行することはカッコいい。和して同ぜずの精神が大事だ」と語った。
中2の2学期がどれだけ大事か、理解してくれたと思う。
さて、中3と中2の試験結果がほぼ出揃ったので、85点以上取った子を掲載しよう。
各学校の5教科平均点は、約260点から340点。うちの塾生の平均は416点。前回の401点から伸ばした。
2週間前からの試験対策は、とりあえずは成功した。
2学期期末試験 成績優秀者
中3(8名)
長江中 社会 100点 Oさん
向東中 社会 99点 K君
長江中 数学 97点 Oさん
長江中 英語 97点 Oさん
高西中 社会 96点 G君
高西中 理科 96点 Y君
栗原中 社会 96点 P君
向東中 数学 96点 K君
向東中 国語 96点 K君
高西中 社会 94点 Y君
長江中 理科 94点 Oさん
高西中 国語 92点 M君
高西中 社会 92点 M君
向東中 英語 92点 K君
高西中 数学 90点 G君
高西中 数学 90点 Y君
高西中 英語 90点 M君
高西中 数学 90点 M君
向東中 理科 89点 K君
高西中 理科 89点 M君
長江中 英語 88点 M君
高西中 国語 87点 Y君
長江中 国語 87点 Oさん
高西中 理科 86点 G君
栗原中 数学 85点 P君
中2(10名)
長江中 理科 99点 H君
長江中 英語 99点 H君
長江中 英語 99点 O君
向東中 社会 97点 K君
長江中 社会 96点 H君
長江中 国語 95点 H君
向東中 数学 95点 K君
向東中 理科 95点 K君
向東中 英語 95点 M君
向東中 社会 93点 M君
高西中 英語 93点 R君
高西中 国語 92点 R君
高西中 社会 92点 R君
高西中 数学 91点 R君
向東中 国語 91点 M君
日比崎中 国語 90点 M君
高西中 理科 89点 R君
向東中 理科 89点 M君
長江中 数学 88点 H君
長江中 社会 88点 O君
日比崎中 社会 88点 M君
長江中 社会 86点 K君
向東中 英語 85点 K君
2週間前から始めたおかげで、各中学校でトップレベルの子はさらに成績を伸ばし、伸び悩んでいた子もある程度は底上げできた。
反省点としては、数学をもっと上げたい。ここには名前が出ていないが、数学で失敗した子もいた。特に一次関数の応用問題の詰めが甘かった。それが反省。
あと国語。国語は模試も学校の定期試験も、90点以上は出にくい科目だ。だが欲をもって、もう少し高得点を模索してもいいのではないか。この辺が私の課題。
欲を言えば、英語の平均点をさらに上げたい。現在英語の塾内平均は86点。各中学校の平均よりははるかに上だが、全員が90点以上、学校の定期試験くらいは無意識に流して解けるだけの英語力をつけたい。英語が苦手なのは努力が足りないのだ。英語は完璧主義になっていい。
また、5教科300点台の子に、力をつけ結果を出してあげたい。繰り返すが成績がブレイクすれば言動に自信がみなぎってくるのだ。
3学期の学年末試験は範囲も多く、同じように2週間前から対策を開始する。
妥協はしない。
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たとえば中1の定期試験を例にとると
1学期中間 英100 数93 国84 理89 社93 合計460
1学期期末 英91 数88 国80 理81 社87 合計427
2学期中間 英89 数86 国81 理78 社78 合計412
2学期期末 英67 数51 国69 理80 社88 合計355
3学期学年末 英55 数65 国80 理81 社64 合計345
とガッツリ下がる。
中1後半になって定期試験の成績が大きく下がる原因を、いくつか挙げてみよう。
?勉強不足
勉強不足こそ、唯一無二と言っていい原因だ。
中学の勉強が新鮮でなくなる、部活への過度の没頭、ゲームやり過ぎYouTubeの見過ぎLineのやり過ぎ、恋愛や友人との人間関係、つるんで「みんなと同じ」ことをやってたら成績は下がる。
ある程度周囲から毅然とした態度を取り、「和して同ぜず」の意気込みがないと、流されて自堕落な道に走ってしまうのが、中1後半から中2にかけての一般的な中学生の姿だ。
太り過ぎは食べ過ぎ、成績低下は勉強不足。因果関係は明快だ。
また、定期試験対策を「マジ」になってやってないと落ちる。
定期試験1週間前から、テレビやゲームはほどほどにして、定期試験対策に没頭してるだろうか?
定期試験の勉強習慣は、ふだんと生活モードを変えなければならない時期だ。日常が「平時」なら試験前は「戦時」だ。
こういう意識の高さが、定期試験でよい結果を出す前提条件だ。直前の試験勉強を求めない小学校のテストを引きずっていてはならない。
?問題の難化
中学校入学当初は勉強が新鮮で、しかも内容は簡単だから頭に入りやすい。
中1初期はモチベーション高く内容は簡単。中1後期はモチベーション低く内容は難しい。これでは成績は下がるのは当然だ。
まず、英語。
中1後半で、数学と並んで一番点数が下がりやすい科目だ。
中1初期、英語はThis is a pen.とかI am a student.とか他愛のない文章が続くが、そのうち一般動詞とbe動詞の区別、名詞や代名詞の複数形、人称代名詞の変化、三人称単数現在、そしてほとんどの子が嫌うwhatやhowなどの疑問詞など、次から次へと頭を悩ます文法事項が登場する。中1生の頭の中は混乱し、英語苦手、英語嫌いになっていく。
特に落ちやすいのは、小学校で英語を中途半端にかじった子である。
入学当初は少々できるから英語ができる。天狗になる。そして英語をなめて勉強しないうちに、成績が大幅落下する。小学校時代遊び感覚で英会話教室に通い、文法を体系的に学んだことがない子によくあるケースだ。英語を感覚だけで学び、文法構成力を習得してないと複雑化する文法に対処できない。中1後半には小学校時代のささやかな貯金を使い果たす。先取り学習の悪弊である。
ただ、英語は比較的修復可能である。思い切って中1初期から、鍛え直せばいいのだ。英語が苦手な子の勉強法を見ると、細部のすべてが危うい。手抜きの我流を通している。素直な子ならまだまだ矯正できる。
逆に問題なのは数学だ。
小学校時代の知識の抜けが、中1後半になって顕在化する。
中1の最初は計算問題ばかりだから、差はつかない。しかし中1の2学期から、計算から「考える」数学へ移行する。
小学校の知識があやふやな子は、計算はできても応用問題ができない。たとえば2学期に一次方程式の文章題が登場するが、そこでは小5で習った速さや割合が壁になる。算数嫌いな子が一番嫌うのが速さと割合で、その上中学ではxという文字を伴うからますます頭が混乱する。
速さと割合が終わっても、一難去ってまた一難、比例と反比例、平面図形と空間図形、小学校内容の復習に新しい内容が加えられ、小学校の知識が抜け落ちた子は、真面目に勉強してても苦しむ。
だから中1後半の数学は、中学受験経験者や、小学校で中学内容を意識したカリキュラムを組んだ塾に通った子が、高いアドバンテージを持つ。速さや割合は、中学受験では最重要単元で、たっぷり時間をかけて教えられる単元だ。中学受験が不合格になっても、中1後半で中学受験勉強が力を発揮するのだ。中学受験は無決して無駄ではない。
また、公文式で計算ばかりやってた子も、中1後期で頭打ちになる可能性が高い。
公文漬けの子は、計算はできるが文章題や図形は苦手だ。野球でいえば遅い直球は打てるが変化球はからきし打てない打者のようだ。変化球打てなければ球界で通用しないように、計算だけで「考える」数学を解く意識がないと、成績は一気に下降する。
もし、英語の成績が落ちても中1初期からやり直せばいいが、数学は小学校時代までさかのぼって復習しなければならない。小5の割合と速さどころか、小4の小数や分数の計算、かけ算九九にまで苦手にしている子がいる。
数学苦手は「修正」ではきかない。「改造」が必要なのだ。
英語の傷は浅く、数学の傷は深い。
?塾に通ってない&塾の環境が悪い
一人で勉強ができる子は、塾に通ってなくても勉強ができる。
しかし経済的事情で塾に通えない子は、中学校が学級崩壊でも起こしていたら、勉強どころではない。教室には先生をいじり、授業中に私語やスマホに熱中しする子がいて、塾に通っている子は塾で勉強するから問題ないが、大人しくて塾に通っていない子は損をしている。勉強の才能が学校でスポイルされている。
また塾にも問題がある。
いわゆる「遊び塾」というのがあって、先生がゆるく、授業も無法状態で、消しゴムの投げ合いが横行し、授業後は床に小さくちぎった消しゴムのカスが大量に落ちている。「やさしい」先生は子供注意することなく、黙々と掃除する。
授業は完全に崩壊しているが、この手の塾に限ってイベントが大好きで、友達と一緒に騒げる「夜の託児所」と化している。女子がレストランの酔っ払いの女子会のように騒がしく徒党を組み、おとなしい男の子が気をつかう。
これでは、中学生の勉強面のポテンシャルは死蔵したままだ。
逆に厳しい塾が合わない子もいる。モチベーションがあまり高くない子、友達とつるむ女子がもしうちの塾のような硬派な塾に来ても委縮し合わない。勉強の動機がイマイチ薄い子は、先に述べた「遊び塾」の方が友達とワイワイできてリラックスできる。
中1後半で成績が伸びなければ、塾に通ってない子は塾通いを開始し、通っていても伸びない子は転塾を検討し環境を変えるのが手だ。
ただし、転塾は子供の「逃げ場」になる場合がある。他力本願で、成績が悪いのを自分の怠惰でなく、先生の教え方や塾の環境のせいにしがちな子は、どこに行っても伸びない。「塾が合わないからやめます」と転塾を繰り返し、繰り返すごとに状況は悪化する。
将来、どんな企業に勤めても「環境が合わない」といって、我慢を知らず転職を繰り返す大人の予備軍になってしまう。
?コロナの影響
2020年、今年に限って言えば、コロナの影響が大きい。
1学期授業がほとんどできなかったおかげでカリキュラムが遅れ、進度が凄まじく速い。私の体感速度では、例年の1.5倍。本来ならじっくり1カ月かかる分野が、たった1週間の超高速で終わってしまう。年寄りの塾講師の私が混乱するのだから、幼い中1が戸惑うのも無理はない。
進度が速いから、定期試験の範囲がべらぼうに多くなる。
ある中学校の中2の2学期中間試験は江戸時代の最初から明治時代の文化まで、期間にして400年、石田三成・徳川綱吉・井原西鶴・松平定信・杉田玄白・ペリー・西郷隆盛・板垣退助・野口英世・樋口一葉が、同じテスト用紙に詰め込まれているわけで、暗記が地獄のようだった。中学校の平均点は50点を下回った。
とにかく3月から6月の一斉休校で、子供の学力は低下している。
勉強は継続性が失われ、いったん弛緩してしまうと、なかなか元には戻らない。運動不足の人間が久しぶりに長距離を走ると簡単に息が上がるのと同じで、子供の「勉強体力」は落ち、将来「ゆとり世代」どころか「コロナ世代」と呼ばれてもおかしくない状況である。
子供の学力低下は日本だけでなく欧米諸国でも深刻で、フランスは今冬再びロックダウンの危機になりそうだが、学校は閉鎖していない。なぜなら春の学校閉鎖で学力が低下しすぎて、塾というセーフティネットがないフランスでは、壊滅的に学力が低下しているからだという。
中1後半の定期試験は、ただでさえ点数が下がるのに、今年はコロナ下の勉強不足と、それに伴う狂ったような進度の速さで、低下が加速化している。
対処法は、稿を改めて。
(つづく)
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わが塾の対策を紹介したい。
ここで注意してほしいのは、これから私が述べる勉強法は、家庭でもできる簡単な勉強法ではない。「おうちでできるお手軽勉強法」ではなく、塾という密閉空間でしかできない、強いキャラの指導者がついてないとできない、正攻法の手間がかかる勉強法である。
だが、この勉強法を信じれば広島県公立英語で8割は固いし、学校の定期試験でも9割、業者の模試でも8割取れる。
?授業で「書かせる」
授業にも2通りある。先生が一方的に喋る授業と、生徒をバシバシ指名する双方向的授業である。
私は生徒を当てる双方向的授業をする。バラエティ番組のM Cがひな壇芸人を指名ししゃべらせ時にはいじるやり方だ。生徒は指名されたら適切に返さねばならない。傍観者で授業を受けることは許されない。
高校生や予備校なら一方的授業もいいが、まだ勉強意識がそこまで高くない中学生には、授業でいつ自分が当たるかわかならいハラハラ感を味わってもらった方がいい。
言葉のキャッチボールをしながら、わかりやすく楽しい授業を心がけている。
だが、こんな授業はどの塾でもやっている。
ここに、たったひと手間加えるだけで、生徒の英語の定着は全然違う。
その手間とは、文法事項の授業直後(絶対に直後)、生徒に例文を繰り返し「書かせ」その後に「覚えさせる」ことだ。
たとえば ”How many children do you have?” という例文。
この文構造を説明したあとで、雑記帳のようなノートを用意し、授業で同じ例文を何度も書かせる。そして書かせたあとは例文を暗記させ、忠実にインプットできているか試す。
なんてことはない方法だが、授業でただ講師の話を聞き、きれいさっぱり忘れ去る馬耳東風状態になるのを防ぐ。その場で例文を書いて覚えるだけで、定着率はべらぼうに改善するのだ。
無責任に、生徒に「覚えろ!」というだけでは伸びない。実際に覚えさせて、テストで確認して最後まで見届けなければならない。
だが、授業だけで上がる子は少数だ。一を聞いて十を知る子は稀で、大多数の中学生は十を聞いても一しか残らない。
授業は英語の点を上げるスタートにすぎない。東海道新幹線で東京から新大阪まで行くなら、授業だけでは新横浜にしか到達していない。
授業後、が大事だ。
?文法の塾用教材を執拗に反復
授業で聞くだけではダメ、その場で短文暗記するだけでも浅い
生徒に問題を解かせないといけない。
まず教材は何を使うか?
本屋やアマゾンでは売ってない、塾用教材を使う。これは学習塾専門の問屋でしか扱ってないもので、文法問題を中心に300ページ近くある分厚いものだ。
塾用教材は、市販のものとは問題量が違う。中学生用の本屋で売っている市販教材は、色刷りで薄くて問題量が少ない。これではガッツリした力がつかない。
中学生の英語文法力を伸ばすには、絶対に塾用教材がいい。市販教材と違ってモノクロの字がびっしり詰まっていて、「お手軽」な市販教材と違って、中学生に迎合していない。
市販教材でも代用品にはなるかもしれないが、効果は大きく違う。
塾用教材を市販教材で代用することは、たとえば料理でチンジャオロースを作るのにオイスターソースではなく醤油、回鍋肉を作るのに甜面醤でなく味噌を使うようなものだ。味が全然違う。チンジャオロースにはオイスターソース、回鍋肉には甜面醤、英語文法には塾用教材でなければピタッと決まらないのだ。
そしてこの分厚い塾用教材を最低5周繰り返す。執念のような徹底反復だ。
これは公文式の真似である。
公文がメジャーになったのは、プリントの徹底反復にある。反復こそ公文の方法論である。また、公文は生徒にプリントをやらせるだけという批判を受けるが、採点は絶対に先生がやる。生徒に自己採点はさせない。
うちの塾も公文式を踏襲し、赤マルは絶対に講師の私がつける。生徒任せにはしない。授業中一人ずつ呼び採点。採点したら間違いを説明する。時にはなぜこの答えにたどり着いたのか、口頭で説明してもらう。生半可な理解では進まない。暗記すべき単語があればその都度暗記させる。
こういう対面方式をとると、生徒は手抜きができない。生徒は集団の中の一員ではなく、私と一対一で面と向き合って勉強してると意識しているはずだ。
また反復すればミスが減る。英語の大文字小文字、複数形三単現などのミスは、演習量の不足が原因だ。「うっかりミスが多い」と告白することは、勉強が足りないとカミングアウトするようなものだ。演習量が足りないと無意識な状態でミスをするが、逆に猛勉強し徹底反復すれば無意識に解いても自然と正解を書くものなのだ。
こういう、一人ずつ呼んで採点し解説する方式は、大人数ではできない。だから定員は必然的に十名程度にしている。
分厚い塾用教材を徹底反復、一対一の対面式で採点し、その場で解説。このやりかたで英文法の基礎は磨かれる。
?英語教科書を完全暗記
文法テキストの徹底反復だけなら、公文式に行けばいい。
英語の成績を徹底的に上げる方法は、学校教科書の丸暗記に尽きる。
一言一句、正確に暗記する。
一言一句、正確にである。
1ページを20~30分で暗記。丸暗記なら授業中でも宿題でもできる。
ただの丸暗記ではなく、寝言に出てくるくらい丸暗記することだ。だから丸暗記も一度だけでなく数度反復する。
丸暗記して英文を自家薬籠中の物にしてしまえば、学校の定期試験は一網打尽に解けるし、また高校受験を超えて大学受験にも役に立つ。
卒業した塾生に「英語教科書丸暗記を強制してもらってありがたかったと感謝される。中学の時に覚えた英文が高校になっても定着し、財産になっているらしい。
現代の子供は日本語でも長文に抵抗がある子が多い。ましてや英文への抵抗感は非常に強い。そんな長文アレルギーを治すには、英語長文丸暗記というハードルが高いショック療法を取るのが効果的だ。読むことより覚える方がずっと大変。最初の1ヶ月は正直苦しむが、慣れると英文丸暗記は平気になる。
?NHK『基礎英語』の音読
いままで私が述べた文法徹底反復演習や教科書丸暗記は、正直「古い勉強法」である。四技能という言葉が表立つ前から行われていた、戦前の旧制中学でも行われていた気合根性系の勉強法だ。
これら「読む」「書く」能力を伸ばすことが主体の「古い勉強法」に加え、「聞く」「話す」力も同時につけねばならない。
そのために最適な教材は、NHK『基礎英語』である。
『基礎英語』はいい。
『基礎英語1』『基礎英語2』『基礎英語3』と中1・中2・中3と学年別レベルに分かれ、会話の例文が豊富だ。
学校の英語の教科書は非常に優秀なテキストだ。ただ量が足りない。『基礎英語』で英語を読書感覚で大量に読める。
『基礎英語』で音読やシャドーイングを継続すると、発音が滑らかになり、ネイティブにも「うまい発音ですね」と評価される。
当然「話す」力と比例して「聞く」力がつく。『基礎英語』をテキスト読ませず音声だけ流して、英文を書かせるディクテーションを続ければ、耳が発達する。
ただ、文法の基礎学力なしで『基礎英語』など英会話教材に手をつけてはならない。あくまで文法や教科書丸暗記など、気合根性系の「古い勉強法」のあとでやらねばならない。
天性の語学力の持ち主なら『基礎英語』など英会話教材だけで英語の得点力は伸ばせるだろう。だが天才の勉強法は天才にしか汎用性がない。
英文法のグラグラした地盤しかないのに、いくら立派な英会話教材をやっても効果は極めて薄い。
授業→英文法徹底反復→教科書丸暗記、という順序を踏まえた上でなければ、『基礎英語』を高校入試の礎としては使えないのだ。
?定期試験前のワーク反復
定期試験前、うちの塾生は、小説家のカンヅメのように塾で勉強する。
まず学校の提出物は丁寧にやる。答え合わせは頻繁に。学校の提出物が一通り終わったら、反復。その後、学校の教科書に準拠したワークをやる。
塾用教材のワークは問題数が非常に多く、教科書の理解がより深まり、どんな問題形式担ってもできうる限り対処できるようにするのだ。
とにかく、重箱の隅レベルまで英語を突き詰める訓練をする。
試験前、英語はある程度高得点が取れると判断したら、しつこく反復する必要ないと思われる方もいるだろう。
だが塾講師生活30年で、高校になって英語が得意になる子は、完璧主義の子が多い。英語を雑に勉強すれば、相応の報いがくる怖い科目なのだ。高校で自分は英語が得意だからといって、荒い勉強法で高2・高3になるにつれて英語の力が落ちていく高校生が日本中にどれだけいることか。
神経質なくらいの丁寧さと、知らない英単語熟語があったら悔しがり追い詰める執念が、英語力を上げる。
英語の定期試験勉強は、短期的には直近のテストでよい点を取り、長期的には英語上達に適した性格を養う機会である。
以上、私の塾のやり方は、別にオリジナリティがあるわけではない。
問題は実行できるかである。
誰でもできそうだが、誰にもできない。英語が苦手な人はたいてい理屈っぽく、実践家ではない。
私が述べてきた勉強法は、かなりの量である。実行するには、塾は絶対にピリッとした空気を漂わせなければならない。友達がだべる緩い空気では成績が伸びない。
例えば英文法テキストを反復する時、友達同士が答えを教え合ったり、私語が蔓延したりすればピリッとした空気が淀む。騒がしい教室は英語の成績向上には致命傷だ。
特に教科書丸暗記は、静寂で無菌室のようでなければできない。物音一つ建てるのがはばかられるような雰囲気でこそ集中暗記が可能だ。
また「いやだ」「疲れた」といったネガティブな言葉も禁句。ネガティブな言葉が誰かから発せられたら、緊迫した空気が弛緩する。
こういう泥臭い勉強法は、将来生きる。
横綱千代の富士は、120?弱の小兵ながら筋骨隆々で、自分より体重が重い巨漢力士を速攻で土俵外に追いやり、腕一本で投げ飛ばしたが、千代の富士は北海道の漁師の息子で、小さいころから父の手伝いで漁船に乗り、荒れる波で揺れる船上でバランスを崩さぬよう立ち、重い魚や漁の道具を運ぶうちに、足腰が強くなった。
西鉄ライオンズで、年間42勝の大記録を持つ稲尾和久投手も大分県の漁師の出身で、
私が述べた地道な勉強法を中学生のうちに積み重ねれば、英語の足腰を鍛えるのだ。
この勉強法、英語が苦手な子でも、気合根性があれば成功をつかめるのだ。
やることは同じ、だが反復回数を増やせばいい。
できる子が教科書暗唱1回で済むなら、苦手な子は5回。文法反復も得意な子が5回なら苦手な子は10回。自分はいずれ勉強できるようになるんだというポジティブな自信を胸に頑張ればいい。
粛々と、たっぷり時間をかけ徹底反復。頭でっかちではなく、スッポンのような中学生が英語の勝者になるのだ。
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わが塾の対策を紹介したい。
ここで注意してほしいのは、これから私が述べる勉強法は、家庭でもできる簡単な勉強法ではない。「おうちでできるお手軽勉強法」ではなく、塾という密閉空間でしかできない、強いキャラの指導者がついてないとできない、正攻法の手間がかかる勉強法である。
だが、この勉強法を信じれば広島県公立英語で8割は固いし、学校の定期試験でも9割、業者の模試でも8割取れる。
?授業で「書かせる」
授業にも2通りある。先生が一方的に喋る授業と、生徒をバシバシ指名する双方向的授業である。
私は生徒を当てる双方向的授業をする。バラエティ番組のM Cがひな壇芸人を指名ししゃべらせ時にはいじるやり方だ。生徒は指名されたら適切に返さねばならない。傍観者で授業を受けることは許されない。
高校生や予備校なら一方的授業もいいが、まだ勉強意識がそこまで高くない中学生には、授業でいつ自分が当たるかわかならいハラハラ感を味わってもらった方がいい。
言葉のキャッチボールをしながら、わかりやすく楽しい授業を心がけている。
だが、こんな授業はどの塾でもやっている。
ここに、たったひと手間加えるだけで、生徒の英語の定着は全然違う。
その手間とは、文法事項の授業直後(絶対に直後)、生徒に例文を繰り返し「書かせ」その後に「覚えさせる」ことだ。
たとえば ”How many children do you have?” という例文。
この文構造を説明したあとで、雑記帳のようなノートを用意し、授業で同じ例文を何度も書かせる。そして書かせたあとは例文を暗記させ、忠実にインプットできているか試す。
なんてことはない方法だが、授業でただ講師の話を聞き、きれいさっぱり忘れ去る馬耳東風状態になるのを防ぐ。その場で例文を書いて覚えるだけで、定着率はべらぼうに改善するのだ。
無責任に、生徒に「覚えろ!」というだけでは伸びない。実際に覚えさせて、テストで確認して最後まで見届けなければならない。
だが、授業だけで上がる子は少数だ。一を聞いて十を知る子は稀で、大多数の中学生は十を聞いても一しか残らない。
授業は英語の点を上げるスタートにすぎない。東海道新幹線で東京から新大阪まで行くなら、授業だけでは新横浜にしか到達していない。
授業後、が大事だ。
?文法の塾用教材を執拗に反復
授業で聞くだけではダメ、その場で短文暗記するだけでも浅い
生徒に問題を解かせないといけない。
まず教材は何を使うか?
本屋やアマゾンでは売ってない、塾用教材を使う。これは学習塾専門の問屋でしか扱ってないもので、文法問題を中心に300ページ近くある分厚いものだ。
塾用教材は、市販のものとは問題量が違う。中学生用の本屋で売っている市販教材は、色刷りで薄くて問題量が少ない。これではガッツリした力がつかない。
中学生の英語文法力を伸ばすには、絶対に塾用教材がいい。市販教材と違ってモノクロの字がびっしり詰まっていて、「お手軽」な市販教材と違って、中学生に迎合していない。
市販教材でも代用品にはなるかもしれないが、効果は大きく違う。
塾用教材を市販教材で代用することは、たとえば料理でチンジャオロースを作るのにオイスターソースではなく醤油、回鍋肉を作るのに甜面醤でなく味噌を使うようなものだ。味が全然違う。チンジャオロースにはオイスターソース、回鍋肉には甜面醤、英語文法には塾用教材でなければピタッと決まらないのだ。
そしてこの分厚い塾用教材を最低5周繰り返す。執念のような徹底反復だ。
これは公文式の真似である。
公文がメジャーになったのは、プリントの徹底反復にある。反復こそ公文の方法論である。また、公文は生徒にプリントをやらせるだけという批判を受けるが、採点は絶対に先生がやる。生徒に自己採点はさせない。
うちの塾も公文式を踏襲し、赤マルは絶対に講師の私がつける。生徒任せにはしない。授業中一人ずつ呼び採点。採点したら間違いを説明する。時にはなぜこの答えにたどり着いたのか、口頭で説明してもらう。生半可な理解では進まない。暗記すべき単語があればその都度暗記させる。
こういう対面方式をとると、生徒は手抜きができない。生徒は集団の中の一員ではなく、私と一対一で面と向き合って勉強してると意識しているはずだ。
また反復すればミスが減る。英語の大文字小文字、複数形三単現などのミスは、演習量の不足が原因だ。「うっかりミスが多い」と告白することは、勉強が足りないとカミングアウトするようなものだ。演習量が足りないと無意識な状態でミスをするが、逆に猛勉強し徹底反復すれば無意識に解いても自然と正解を書くものなのだ。
こういう、一人ずつ呼んで採点し解説する方式は、大人数ではできない。だから定員は必然的に十名程度にしている。
分厚い塾用教材を徹底反復、一対一の対面式で採点し、その場で解説。このやりかたで英文法の基礎は磨かれる。
?英語教科書を完全暗記
文法テキストの徹底反復だけなら、公文式に行けばいい。
英語の成績を徹底的に上げる方法は、学校教科書の丸暗記に尽きる。
一言一句、正確に暗記する。
一言一句、正確にである。
1ページを20~30分で暗記。丸暗記なら授業中でも宿題でもできる。
ただの丸暗記ではなく、寝言に出てくるくらい丸暗記することだ。だから丸暗記も一度だけでなく数度反復する。
丸暗記して英文を自家薬籠中の物にしてしまえば、学校の定期試験は一網打尽に解けるし、また高校受験を超えて大学受験にも役に立つ。
卒業した塾生に「英語教科書丸暗記を強制してもらってありがたかったと感謝される。中学の時に覚えた英文が高校になっても定着し、財産になっているらしい。
現代の子供は日本語でも長文に抵抗がある子が多い。ましてや英文への抵抗感は非常に強い。そんな長文アレルギーを治すには、英語長文丸暗記というハードルが高いショック療法を取るのが効果的だ。読むことより覚える方がずっと大変。最初の1ヶ月は正直苦しむが、慣れると英文丸暗記は平気になる。
?NHK『基礎英語』の音読
いままで私が述べた文法徹底反復演習や教科書丸暗記は、正直「古い勉強法」である。四技能という言葉が表立つ前から行われていた、戦前の旧制中学でも行われていた気合根性系の勉強法だ。
これら「読む」「書く」能力を伸ばすことが主体の「古い勉強法」に加え、「聞く」「話す」力も同時につけねばならない。
そのために最適な教材は、NHK『基礎英語』である。
『基礎英語』はいい。
『基礎英語1』『基礎英語2』『基礎英語3』と中1・中2・中3と学年別レベルに分かれ、会話の例文が豊富だ。
学校の英語の教科書は非常に優秀なテキストだ。ただ量が足りない。『基礎英語』で英語を読書感覚で大量に読める。
『基礎英語』で音読やシャドーイングを継続すると、発音が滑らかになり、ネイティブにも「うまい発音ですね」と評価される。
当然「話す」力と比例して「聞く」力がつく。『基礎英語』をテキスト読ませず音声だけ流して、英文を書かせるディクテーションを続ければ、耳が発達する。
ただ、文法の基礎学力なしで『基礎英語』など英会話教材に手をつけてはならない。あくまで文法や教科書丸暗記など、気合根性系の「古い勉強法」のあとでやらねばならない。
天性の語学力の持ち主なら『基礎英語』など英会話教材だけで英語の得点力は伸ばせるだろう。だが天才の勉強法は天才にしか汎用性がない。
英文法のグラグラした地盤しかないのに、いくら立派な英会話教材をやっても効果は極めて薄い。
授業→英文法徹底反復→教科書丸暗記、という順序を踏まえた上でなければ、『基礎英語』を高校入試の礎としては使えないのだ。
?定期試験前のワーク反復
定期試験前、うちの塾生は、小説家のカンヅメのように塾で勉強する。
まず学校の提出物は丁寧にやる。答え合わせは頻繁に。学校の提出物が一通り終わったら、反復。その後、学校の教科書に準拠したワークをやる。
塾用教材のワークは問題数が非常に多く、教科書の理解がより深まり、どんな問題形式担ってもできうる限り対処できるようにするのだ。
とにかく、重箱の隅レベルまで英語を突き詰める訓練をする。
試験前、英語はある程度高得点が取れると判断したら、しつこく反復する必要ないと思われる方もいるだろう。
だが塾講師生活30年で、高校になって英語が得意になる子は、完璧主義の子が多い。英語を雑に勉強すれば、相応の報いがくる怖い科目なのだ。高校で自分は英語が得意だからといって、荒い勉強法で高2・高3になるにつれて英語の力が落ちていく高校生が日本中にどれだけいることか。
神経質なくらいの丁寧さと、知らない英単語熟語があったら悔しがり追い詰める執念が、英語力を上げる。
英語の定期試験勉強は、短期的には直近のテストでよい点を取り、長期的には英語上達に適した性格を養う機会である。
以上、私の塾のやり方は、別にオリジナリティがあるわけではない。
問題は実行できるかである。
誰でもできそうだが、誰にもできない。英語が苦手な人はたいてい理屈っぽく、実践家ではない。
私が述べてきた勉強法は、かなりの量である。実行するには、塾は絶対にピリッとした空気を漂わせなければならない。友達がだべる緩い空気では成績が伸びない。
例えば英文法テキストを反復する時、友達同士が答えを教え合ったり、私語が蔓延したりすればピリッとした空気が淀む。騒がしい教室は英語の成績向上には致命傷だ。
特に教科書丸暗記は、静寂で無菌室のようでなければできない。物音一つ建てるのがはばかられるような雰囲気でこそ集中暗記が可能だ。
また「いやだ」「疲れた」といったネガティブな言葉も禁句。ネガティブな言葉が誰かから発せられたら、緊迫した空気が弛緩する。
こういう泥臭い勉強法は、将来生きる。
横綱千代の富士は、120?弱の小兵ながら筋骨隆々で、自分より体重が重い巨漢力士を速攻で土俵外に追いやり、腕一本で投げ飛ばしたが、千代の富士は北海道の漁師の息子で、小さいころから父の手伝いで漁船に乗り、荒れる波で揺れる船上でバランスを崩さぬよう立ち、重い魚や漁の道具を運ぶうちに、足腰が強くなった。
西鉄ライオンズで、年間42勝の大記録を持つ稲尾和久投手も大分県の漁師の出身で、
私が述べた地道な勉強法を中学生のうちに積み重ねれば、英語の足腰を鍛えるのだ。
この勉強法、英語が苦手な子でも、気合根性があれば成功をつかめるのだ。
やることは同じ、だが反復回数を増やせばいい。
できる子が教科書暗唱1回で済むなら、苦手な子は5回。文法反復も得意な子が5回なら苦手な子は10回。自分はいずれ勉強できるようになるんだというポジティブな自信を胸に頑張ればいい。
粛々と、たっぷり時間をかけ徹底反復。頭でっかちではなく、スッポンのような中学生が英語の勝者になるのだ。
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英作文が多く、英文を大量に書かねばならない。
その証拠に、自由英作文の問題はこれ。
広島県英語の解答もお見せしよう。
これだけの英文を、中学生が50分で書ききらねばならない。
もちろん平均点も低い。平成31年度が21.3点(50点満点)、令和元年度が23.9点と半分以下。多くの受験生が苦しんでいる。
昔は簡単だった。
いまの中学生のお父さんお母さんが中学生のころ、広島県公立高校の試験問題は簡単で、合格もたやすかった。
広島県は「ゆとり教育」の先進国で、いかに厳しい受験戦争なしに高校受験を乗り切るかに主眼を置かれた。尾道市には総合選抜制度という制度があって、受験生が尾道北と尾道東、ランダムに高校に振り分けられ、好きな高校に通うことはできなかった。
英語も、短くやさしい文章の読解問題、文法の簡単な穴埋め、初歩レベルのリスニング、そんなに英語の成績が良くない中学生でも50点満点で40点以上は取れ、差が全くつかなかった。当時「受験戦争」という言葉は尾道市では死語だったのである。
今では、状況が全く違う。
「ゆとり教育」漬けの親の世代が、広島県公立高校入試を甘く見てたら、わが子が痛い目に合う。
10年くらい前から公立高校の問題が大幅に難しくなった。
英語は特に難しい。
難化の原因は、広島県が「読む・書く・聞く・話す」の四技能を重視しているからだ。
日本の英語教育は、「読む」主体から、「読む・書く・聞く・話す」の四技能の力をむらなくつけ、日本人の英語力を国際化しようという傾向になりつつある。最近の大学受験英語試験の迷走も、「読む」主体の受験英語からから、四技能を取り入れる過渡期だから起こる。
広島県公立高校の英語試験もかつては、四技能のうち「読む」の比重が異常に高く、「聞く」リスニングは簡単すぎ、英文を「書く」量も少なく、四技能推進派の人が見たら激怒しそうな問題だった。
「ゆとり」の先進県から「四技能」の先進県へ、十年間で一気に芸風を変え、難易度も一気に駆け上がったのである。
ここ数年の問題を見ると、広島県は「書く」ことを他の都道府県より重視する。英作文をたっぷり書かせる。英文を書くことにアレルギーがあれば空欄で提出する屈辱を味わう。
おまけに、リスニングも長文読解も質量とも十年前よりはるかに上だ。「書く」「聞く」という中学生が嫌がる分野が徹底的に突かれ、「読む」問題も難化している。
さすがに受験者が多いため、英検のように「話す」テストは行われていないが、広島県は四技能の影響をもろに受けている。広島県公立の英語は、真の英語力を問い、いい加減にしか勉強してない中学生を蹴散らす「良問」なのだ。
では、広島県公立の自由英作文の対策法は何か?
まず自由英作文は、文法ミスをなくすことから始めたい。
英語が得意な子でも、自由英作文対策の初期のうちは文法ミスを連発する。He play tennis.とかThese are pen.とか平気で書く。
三単現や複数形を抜かし、時制はあやふやで現在完了がうまく使えず、主語が決定できず、また構成もグチャグチャで日本語に引きずられる。
自由英作文は内容は自由だが、文法が自由であってはならない。自由英作文は不自由英作文なのだ。
それから、中学生の自由英作文は、中学生らしい、等身大の内容で書くべきだ。自由英作文習いたては、背伸びしすぎる傾向がある。
ある時、「“日本の政界は魑魅魍魎の世界”です、を英語にするとどうなりますか?」とたずねた子がいた。自由英作文は何を書いてもいいのに、わざわざ「魑魅魍魎」という難語をチョイスすることはない。自分でハードルを上げ自分で苦しんでいる。こんな京大阪大レベルの英作文力など公立高校試験は中学生には求めていない。
だから安全運転で、英語にできない表現は避け、文法ミスに神経質になって書く練習が必要なのだ。スピードスケートでいえば基準点だけでよく、芸術点はいらない。日本語に引きずられず、知ってる英文ストックを繋ぎ合わせる訓練が必要だ。
慣れてきたら、and, but, becauseやso, if, whenなどの接続詞、またwhoやwhichなど関係代名詞を使い、論理的で息継ぎの長い文章を書く練習をする。方法については類書が多いのでここでは問うまい。
最後に、自由英作文を伸ばす最大の方法は、?量をこなす ?人目にさらす の2つである。
量については、日本の各都道府県の自由英作文がまとめて掲載されている「全国高校入試問題正解 英語 分野別過去問」を使えばいい。自由英作文の問題が大量に掲載されている。
ある程度量をこなしていくと、自由英作文の問題や解答パターンが「ワンパターン」であることに気づく。ワンパターンと感じだしたら、それは自由英作文の力がついている証拠である。
もう一つ人目にさらすことは絶対条件。
自由英作文は絶対に、指導者に添削してもらうべきだ。自己流には限界がある。
その点、うちのように少人数制を取る塾は有利。塾生が英作文を書いたら、瞬時に添削し改善点を口頭で伝える。この「瞬時」が大事なのだ。
英作文の答案を集めて、数日後に返却すると、その数日のタイムラグが鮮度を悪くする。その場で書いたものはその場で直すことが大事なのだ。自由英作文の点数は、講師と生徒の密接度に比例すると私は思う。
あと、うちの塾では、自由英作文は1つの問題で、2人以上ホワイトボードに答案を書いてもらい、衆人環視の下で添削する。どちらが正解に近いかコンペの形をとる。
私はかつて東京都の進学校・開成高校に通っていたが、数学や英語の演習授業で、複数の生徒に黒板に答案を書かせ添削する方法を取っていた。そのやり方を踏襲している。答案を一目にさらすことが、実戦的な力を伸ばす。
以上、広島県公立高校の難化著しい自由英作文対策についてまとめてみた。
ただ一つ言えることは、文法・読解・音読・単語暗記など、中1から地道に英語学習を続けてきた子は、自由英作文の習得が速いし正確だ。小手先の自由英作文対策の前に、英語の基礎力をつけることが前提にある。
自由英作文は応用力を問うように見えて、実は中学3年間でコツコツ積み上げてきた基礎力を問うているのだ。
そして、私が自由英作文対策に熱心なのは、自由英作文が高校受験以上に大学受験でもトレンドになっているからだ。中学3年生の時点で、真っ白な紙に自分で考えた英文を書くことに抵抗をなくしておけば、大学受験に役に立つ。
正直言えば、自由英作文にそこまでこだわらなくても、合格点は取れるかもしれない。だが、大学受験を視野に入れて高校受験を指導することは、私の一縷の良心である。
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尾道市の公立中学生なら、迷うところだ。
概して、勉強が得意で国公立を狙う中学生は北高、勉強も大事だが遊びも大事という中学生は東高を選ぶ。北高は課題も多く校則は厳しく勉強漬け、逆に東高はあまり勉強に厳しくないというステレオタイプのイメージがあり、対照的な両校である。
「まじめ」な北高、「あそび」の東高、北高の青みがかった制服を着ると誰もが風紀委員的な「まじめくん」に見えてしまうのは不思議だ。
その厳しさから北高は「北高プリズン」とも呼ばれ、北高から抜け出すことは「プリズン・ブレイク」と言われている。
だが「北高プリズン」と呼ばれるだけあって、進学実績も尾道北高の方が尾道東高より圧倒的に良い。
尾道北高の令和2年の実績は、東大1名・京大0名・阪大6名・九州大8名・広島大8名・岡山大19名、愛媛大18名。東大京大は少ないが、その他の旧帝大や地元の広大岡大は手堅い。
それに対して尾道東は東大0名・京大0名・阪大0名・九州大0名・広島大4名・岡山大1名、愛媛大11名と、尾道北の圧勝だ。
高校の選び方は千差万別、いろんな基準がある。
ただ、塾の先生という立場として、大学進学という一面だけで判断すれば、私は生徒に北高を勧める。
これは保護者の方も同じとみえて、北高に子供を通わせたい方は多い。だが、北高は厳しいという先入観があるからか、親が北高に行ってもらいたくても、子供が東高を選ぶケースは多い。私は昔「親が行かせたい北高、子供が行きたい東高」というコピーを作ったが、塾の懇談会でこのコピーを披露すると、お母さんの間から爆笑の声が上がった。入学試験でも東高は毎年人気だが、北高は敬遠され、時に定員割れする。
だが、北高で学力が伸びるのは確かだ。北高には高校生を確実に国公立に合格させるスキルがある。卒業生の約6割が国公立に合格する。現役合格率も高い。
私は中学生が塾を中3で卒業する時、この子はどのくらいの偏差値の大学に合格するか予想するが、北高に入学した子は私の予想レベルとほぼ同じ程度の大学に合格するのに対し、東高に行ったら受験に「失敗」する子が多い。
大学受験で成功するには、高1の最初の段階から継続的な勉強が必要だ。だが広島県の公立高校の試験は結構合格しやすいので、直前3カ月の勉強で合格してしまう。
そして高校入学後、大学受験も直前に頑張ればいいやという意識が抜けず遊んでしまう。
高校生が遊びたい意識でいるのに対し、高校の勉強内容は中学に比べ格段に難しい。高い難度の勉強に低い意識で臨み、気がついた時には手遅れになっている。高校受験の成功体験は大学受験には一切通用しない。
北高なら4月に勉強合宿をして勉強意識を叩き込み、カルチャーショックを与え、先生が目を光らせているからスタートでつまずく心配は少ない。逆に東高は生徒の「自由」に任せているから、勉強で落ちこぼれるリスクは高いのである。尾道北高には、安心してうちの中学生を送り出すことができる。
ただ、尾道北高の弱みといえば、東大京大や医学部、早慶などの難関私立の合格者が少ないことだ。これは、勉強が飛び抜けてできる子が、できるからといって放置され「神棚」に置かれ、井の中の蛙になってしまうのが一つの原因であろう。
東大合格者10名を超える附属福山高校なら、自由な校風でも生徒間にライバル意識が芽生え切磋琢磨し、おのれの小ささを知り刺激を受ける機会が増える。
また尾道北は進学校といっても公立高校だから、カリキュラムが高3終了まで終わらない。逆に首都圏関西圏の難関私立、また広島県なら広島学院や修道などの私立高なら、高2までに英数理社のカリキュラムが終わり、高3は入試問題を解くことに回される。
それに対して北高生は、高3の2学期になってやっと過去問に取り組めるのだ。1年間過去問という練習試合を頻繁にこなす難関私立と公立高校では、経験の差が出るのは当然といえよう。北高生葉、自分が経験不足と知らないまま、入試に臨んでしまう。
あと北高は進学先があまりにも国公立に限られ、なぜか都会の難関私立大学を勧めない。北高OBは学校の先生や地方公務員が多く、大企業に就職するOBは比較的少ない。東京や関西なら旧帝大が不合格になったら進学先は早慶やMARCHや関関同立だが、北高の旧帝大志望の子がセンター(今後は共通テスト)で失敗したら、広大岡大はいい方で、広島県から遠い地方の公立大に進学したりする。極端に地元志向・地方志向が強く、都会や海外で活躍するイメージが薄い。
また北高では先生の志望校決定権が強く縛りがきつくて、不本意な進学を余儀なくされることもある。
そういう弱点はあるものの、現在は北高も、高1高2段階から英数や理科の成績上位者を集め少数精鋭の特別クラスを作り、難問を積極的に解き、生徒たちを切磋琢磨させている。ライバルと模試の成績を比べ一喜一憂し刺激を受けている。
また北高の先生は熱心である。何とか難関大学に合格させようという執念を感じる。「北高勉強部顧問」と呼んでもいいような、部活の熱血教師の熱意を勉強に持ち込む先生もいる。自由放任という美名のもとの無責任さはない。そこで、一部の自由に勉強したい生徒や、勉強に熱心でない生徒との間に軋轢は生むものの、熱心な教師ほど生徒と対峙する場面が増えるものである。
以上、高校3年間をある程度犠牲にして勉強したければ北高、羽根を伸ばしたければ東高という選択がベターだ。
ただ北高と東高は校風があまりに違い過ぎる。究極の選択だ。トランプとバイデンくらい違う。ただ東高も完全に自由ではなくて、拘束が結構厳しい面もある。東高は女子のスカート丈が長い。そんな厳しさを「成績を上げるため」と黙って真面目に受け入れるのが北高生で、理不尽だと主張するのが東高の校風である。
北高と東高で迷ったら、折衷案として尾道からは通学に時間はかかるが、尾道の隣町の福山誠之館という道もある。ここは北高ほど厳しくなく、東高ほど自由でない、尾道の中学生からも人気が高い高校である。
進学実績は、東大0名・京大0名・阪大2名・九州大2名・広島大16名・岡山大21名、愛媛大27名で、尾道北高と東高の中間ぐらいである。福山誠之館もおすすめだが、ただ入試倍率が高く、リスクはある。
私の結論。
塾生に行かせたいのは、難関大学をめざすなら北高、そこまで野心がなければ東高。
難関大学を狙う気がないのに北高へ行ったら勉強地獄が待ってるし「北高プリズン」の名の通り勉強は懲役刑に過ぎない。逆に難関大学志望の子が東高へ行けば、まわりの意識の低さに驚き、同化するか浮くかの選択に迫られ、目標にフィットしない高校生活を送らざるを得ない。
ちなみに私自身なら、北高でなく東高を志望する。北高のように縛られると私は反発するし、東高で自由に勉強したい。「私が行きたいのは東高、生徒に行かせたいのは北高」というところか。
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定員が200人から160人へ、もともと人気が叩く倍率が高い高校だけに、不合格の受験生が大量に発生する。
これは、たいへん厳しい。
尾道の高校事情を知らない方に説明すると、尾道市内には尾道北高と尾道東高という2つの普通科高校があり、両者はライバル関係にある。
課題が多く生活指導に厳しい北高と、高校生活をエンジョイする東高の校風は対照的で、3年間しっかり学んで国公立を志望する子は北高へ、勉強にそこまで熱心でない子は東高に行くのが尾道の中学生の典型的パターンである。
「真面目」な北高と「遊び人」の東高というイメージは昔から強い。もちろんその結果、大学進学実績は、北高の方が東高より圧倒的に良い。
高校入試で東高は、ライバルの北高が「厳しい」という風評から時に定員割れする不人気を尻目に、高い倍率を示してきた。せっかく高校生になったのに、尾道北のように勉強が厳しいところは嫌だ、でも私立や商業もいやで、普通科には入りたいという中学生のニーズに東高はこたえてきた。
だが定員削減で入試の厳しさが増し、もはや甘いことは言っていられなくなった。
悪いことに、尾道東と難易度や受験者層がかぶる隣町の三原高校も定員を200人から160人に減らした。尾道東を避け三原に志望変更もままならない状況だ。
さらに、定員減の尾道東高を避け、志望校を尾道北高に変更する受験生も現れる。私の塾でも東高定員削減の一報を受け、東高を避け北高に鞍替えした中3生も数人いた。尾道東高の定員削減は、北高志望生にとって対岸の火事ではなく、ダイレクトに影響を受ける。
ところで、15歳の中3生にとって、高校受験は大きな試練である。
公立高校受験の合格発表の日は緊張する。残念なことに不合格になれば、楽しい3年間の中学生活の最後に、悪い後味を残す。教室の隅で、机にうつぶせになって泣く子すらいる。合格した子も露骨には喜べない、重苦しい空気が教室を支配する。定数削減で、さらにつらい思いをする中学生が増えるのだ。
さて、尾道東高が、定員を減らした理由を考えてみよう。
もちろん尾道東の定数減の最大の理由は、少子化にある。少子化は日本全体の傾向で、高校の定数減も尾道東高だけにとどまらない。
少子化が進み中学生が減っているのに定員が変わらなければ、かつて中学生の数が多い時代には合格できなかった、学力が高くない中学生が東高に進学する。
となると、現場の高校の先生は、授業がやりにくい。高校のカリキュラムの難しさは変わらぬままだし、そこへ最低限の基礎力が備わっていない子が増えても、公立高校では学習塾のように補習が難しい。勉強で落ちこぼれた子が大量発生するが、対処法はない。授業が理解できず、先生の言葉が坊さんのお経にしか聞こえない、表面上荒れはしないけど、静かな「学級崩壊」が起きているのだ。
尾道北高は、なぜ募集人員が減らないのか?
東高は200から160に募集人数が減るが、北高は200のままである。
これは尾道北高の生徒が「勉強する覚悟」でいるのに対し、東高は「高校生活エンジョイ」に比重をおいて進学する。その結果、北高の生徒は勉強のモチベーションが高い子が多く
、逆に東高生の中には勉強に対する意欲が極めて低い高校生が多い。勉強意識が高い北高の募集人数は削減せず、意識が相対的に低い東高を削減する今回の措置は、県教委や高校側の「勉強しない高校生一掃」の本音が見える。
高校生の低学力化は、内申点重視の現行制度にも原因がある。
言うまでもなく、広島県の公立高校試験は、中学校の定期試験や授業態度や提出物で積み上げた内申点と、本番の学力試験の比率が1対1である。だから定期試験の点数を上げ、学校での生活態度を整え、内申点の向上させるのが公立高校合格への近道である。
ただし、現代の内申点の評価方法は、必ずしも学力が高い子が高い内申点を取るとは限らない。内申点が大学受験の一般入試に耐えうる真実の学力を正確に示すバロメーターではなくなっている。大人の事情が生み出した「フェイクな学力」で合格する子が、現状の内申点重視制度では生まれやすいのだ。
現行制度では、中学校の内申点はあてにならない。
まず内申点は中学校で格差があり、基準が平等ではない。長江中のような教育熱心な熱心な保護者と学力が高い中学生が集まるところでは、通知表の点数が相対的に低く出るが、逆の中学校では高く出る。学力が低い中学校で「お山の大将」になるのが、内申点では有利なのだ。
困ったことに、内申点と、高校の授業についていける学力との間に違いが生まれる原因は、塾の側にもある。
塾の先生になるには、資格もない。試験もない。だから自らのスキルを上げ、教科力を高める勉強に不熱心な塾講師は多い。塾講師、特に個人塾講師の力量はピンキリなのだ。
で、こういう勉強不足の塾講師が取る手段が、定期試験の過去問の丸暗記をさせることである。教える力量の欠如を、過去問丸暗記でごまかす。
良心的で真面目な塾の先生が、子どもを賢くしようと自らの教養を高めようと読書し教材研究している間、別の塾講師は中学校の定期試験過去問収集に労力を費やし、問題解答を丸暗記させる。こんな方法だと定期試験では高得点は取れるかもしれないが、実力以上のフェイクな点数であり、虚偽の内申点になり、高校の授業についていけない生徒を量産する。
たとえば定期試験の国語で、過去問の模範解答を暗記して、試験時間に丸暗記したものを書くだけ。こんな勉強が高校に入って役立つだろうか。これではまともな読解力はつかない。生徒の側も、中学の過去問丸暗記勉強法から、高校の自分の頭を使った勉強法とのギャップについていけなくてショックを受け、勉強から脱落する。
中学生が通う塾は定期試験の点数を上げるのが至上課題なので、学力とモラルに欠けた塾講師は、麻薬のように過去問暗記に走る。
塾講師の学力不足とモラル低下で、手っ取り早く内申点を取る方法が常態化し、こういう塾の存在が、内申点は良くても知識も理解力もない、ただ過去問丸暗記しただけのオウムや九官鳥のような新入生を大量発生させ、高校の先生に頭を抱えてきた。定数削減したくなる気持ちも理解できる。
偽りの内申点で底上げされた「フェイク学力」の高校生の大量出現で、広島県教育委員会の側も定数減に加え、さらに大胆な手を打ってきた。
今年の中1から、高校受験の制度はドラスティックに変わる。
新しい広島県の公立高校入試は、内申点の一丁目一番地である推薦入試が廃止される。さらに中3の3月の一般入試も、現在の学力試験:内申=1:1から、3:1に変更される。内申点の比率が下がり、学力試験一発勝負の様相になる。
広島県教委や公立高校は、内申点への不信感を「公式に」あらわにした。一発勝負の学科試験ができる「ホンマもんの学力」がある子が、高校生として欲しいというサインを露骨に示した。
高校入試改革で、内申点の比重低下や定数減で不利なのはどんなタイプの子か?
それは、内申点では高い評価を得るが、応用問題ができない中学生である。
特に女の子の中には、内申点は塾がやらせる定期試験の過去問暗記などの裏技で手堅くまとめるが、難問が多い本番の入試問題に手も足も出ない子が多い。
また一般入試で差が一番激しい科目は数学だ。一般入試の数学で取れる子は50点満点近くを取るが、苦手な子は10点台しか取れない。数学が苦手だと門前払いを食らう。
特に尾道東は女の子の比率が多い。女子は概して数学が苦手とされる。まじめだが応用力がない子、数学の難問への対応力がない子には、受難の時代がくる。
菅首相は「自助」をスローガンにしている。自助とは「自分で自分の身を助けること。他人の力を借りることなく、自分の力で切り抜けること」と言う意味である。最高権力者であり、国民を庇護すべき首相の口から「自助」という言葉が発せられることに眉をひそめる人もいるだろうが、広島県の公立高校受験の世界でも、今後は「自助」の精神が重視される。
入試改革後はフェイクな内申点というセーフティネットは頼りにならず、一般入試を若い身体一つで戦わねばならない。十四十五の春に人生を左右する一発勝負に臨む残酷さは、負ければあとがない甲子園の高校野球に似ている。
シビアな定数減や入試改革にしぶとく耐えうる、ホンマもんの学力を身につけねば、北高にも東高にも合格できない。解決策はただ一つ。一発勝負に耐える強い学力と精神力を身につけることだ。他にはない。
]]>人は見た目が9割というが、彼ほど第一印象の印象がいい子はいない。
笑顔が飛び切り良く、というか日常生活の9割は笑顔で過ごしているのではないかと疑うほどいつもにこやかで、斑鳩の仏像みたいな笑みをたたえている。いや、斑鳩の仏像というより、「まんが日本むかし話」に出てくる慈悲深い和尚さん、戦災でも飢饉でも笑顔を絶やさぬお地蔵様みたいな顔と言った方がいいだろうか、とにかく、ほくほくの笑顔にまわりは癒される。教える側としたら、怒りづらい顔なのだ。
アスカ君は勉強の才能がある。中1の最初から勉強面は順調だった。
だが彼には欲がなく、おそらく長渕剛や矢沢永吉の歌詞は全く理解できないじゃないかと思うくらいハングリー精神とか成り上がりとかいう要素がなく、いつでも微笑みを絶やさなかった。
私がアスカ君に将来何になりたい?」と尋ねると「電車の運転手になりたい」という小学生みたいな答えがかえってきた。
授業中に私がギャグを言うと、必ずアスカ君の顔を見た。彼は百発百中で笑ってくれる。私は彼の笑顔に向けて授業をしていた。私がお笑い芸人なら、最高の客である。
私は平板な授業が嫌いで、数学の時間すら、5分に1回は笑いを入れる。落語家の柳家喬太郎や春風亭一之輔ら、噺の中にくすぐりを入れるのが大好きな落語家を手本にしながら、何とか飽きさせないよう努力している。アスカ君は3年間、そんな私の努力をずっと認め続けてくれたのだ。
中3になったアスカ君は、勉強面で少々緩んだ。
中3の1学期の中間テストの点数が、あまり良くなかった。英数国理社、合計で500点満点で419点しかなかった。彼の才能からすれば明らかに低い。ドラえもんの出木杉君が100点満点の50点とるようなものだ。夏休み前、受験まで7カ月、ここで気合を入れねばならない。
私はアスカ君の才能を見込んでいた。私は才能がある子に「勉強しろ」とうるさく言わない。とにかく勉強を楽しんでほしい。詰め込むよりエンジョイさせた方が、高校進学後につながる。勉強のポテンシャルが高い子は、燃料だけフルに積み込んでおけばいい。直前に必ず燃焼する。
だがその直前が近づいた。高校受験。彼は尾道北高には100%合格する力がある。どうせなら上位合格し、高校入学後に華々しくデビューできる地力をつけたい。
アスカ君を説教するため、私の部屋に呼んだ。1対1で対峙した。アスカ君はいつもの慈悲深い笑顔が消え、怖い物体を前に緊張していた。
私は言った。
「2学期の中間試験、5教科で450点以上取れなければ、頭を五厘にしろ」
アスカ君は動転した表情を隠さなかったが、数秒経って「はっ、はい」と、どもりながら言った。うちの塾生は勉強意識が高い子が多いので、気合を入れる時に坊主にする子が時々いる。私が冗談で言ってないのは、アスカ君もわかっている。
頭を五厘刈りにすれば、アスカ君は顔も仏様、頭も仏様になってしまう。彼は「やります」と言って帰って行った。
部活を引退した夏休み、そして2学期も、アスカ君は勉強のモチベーションを上げ、2学期の中間では5教科468点を取った。50点近くのアップである。第一段階は成功した。
しかし、定期試験の得点だけでは安心できない。大事なのは内申点にかかわる通知表の点数だ。アスカ君の1学期の成績は5段階評価で以下の通り。
英語4、数学4、国語3、理科3、社会5、音楽4、美術3、保健体育4、技術家庭4
合計34
彼のポテンシャルからすれば低い。私は再びアスカ君を部屋に呼んで言った。
「2学期の期末も450点なければ五厘。通知表の点数も上げなければ五厘」
アスカ君は顔が微笑みに埋め尽くされているので、野心とか根性とかが表面に出づらいが、顔には闘志が出なくとも行動は明らかに変わり、時には塾で1日8時間勉強した。
2学期の成績は御覧の通り。
英語5、数学5、国語5、理科4、社会5、音楽5、美術3、保健体育4、技術家庭5
合計41
爆発的に伸びた。本気になった。
彼は尾道北高に合格した。
さっそく、合格体験記を書いてもらった。
僕は、中1の時にUS塾に入りました。
US塾の授業はとても面白く、先生の経験や知識を交えて話をしてくださって、固い感じの雰囲気だけではないので、楽しく、自然と集中して授業を受けることができました。
また、試験週間のときには塾の時間を増やして試験対策をしてくださって、分からないところを分かるまで教えてくださり、そのおかげで、5教科の平均は83点を下回ることはありませんでした。
そして、受験勉強のときには、過去問を一問ずつ分かりやすく解説してくださって、特に英作文のときにはホワイトボードに書いた英作文を添削して、どう書けば正解になりやすく、くどい表現にならないためにはこうすればいいなどのアドバイスをしてくださって、受験のときにはアドバイス通り答えることができました。
僕はUS塾ではなかったら、北高に合格できていなかったと思います。
三年間ありがとうございました。
私の塾は厳しい塾のはずなのだが、成績が高い真面目な子ほど「面白い」と言ってくれる。賢明な子は、見せかけの厳しさの内面を見抜く。
大学受験、彼の勉強の才能なら、特に数学ができるため、阪大九大は合格するだろう。
ただアスカ君は年賀状に「京大に合格したい」と書いてあった。
京大に合格するには、慈悲深いお地蔵さんの姿をかなぐり捨てて、時に阿修羅にならねばならない。
頑張ってほしい。
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ウイニングという分厚いテキストを、3週間でほぼ1冊終わらせた。
パワハラ塾、ブラック塾長と、子供の人権110番に通報されてもいいほどの量である。
しかも答え合わせは全部私がやり、ミスをしたら厳しく叱る。執拗に質問も浴びせる。緊張感で手を抜けない環境を君たちは耐えた。
努力の甲斐があって、、模試では全国平均が60点台前半のところ、塾生の平均は90点近くもある。
2月の学校の定期試験をはさみ、3月、またまた英語の膨大な課題である。
一難去ってまた一難、今度のテキストは発展新演習。かなり難しいテキストだ。
難しいテキストなのに、塾がコロナウイルスで休みなので、家で自分でこなさなければならない。塾の凛とした環境を、家庭で再現する必要があるのである。
ではなぜ、英語の猛勉強をやるのか?
なぜこんなに量が多いのか?
言語を習得するには、とにかく量が大切だからだ。
数学は必ずしも勉強量が得点に結びつかないが、英語は確実に勉強量と点数が比例する。英語は努力家が勝つ科目だ。
語学は量をこなすと、自然と間違った文に「違和感」をおぼえるようになる。文法的に間違った文を察知する鋭敏なセンサーが発達するのだ。
たとえば君たちは、下の英文が間違いだと一発で見抜くだろう。
He work hard.
I playing tennis in the park.
These cats is cute.
Ton can swims well.
He is a English teacher.
変な文だと素早く察知できるのは、猛勉強の成果である。英語に触れた時間が長いから、センサーが研ぎ澄まされたのだ。
三単現のsの抜け、aとanの使い分けなど、たった小さな一語で英文はおかしくなる。
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日本語でも同じことだ。君たちは日本語ネイティブだから、瞬時に違和感に気づく。
ユウト君がチキンを食べた
ユウト君をチキンが食べた
ハルト君は慶応大学を目指す
ハルト君を慶応大学が目指す
助詞を入れ替えるだけで、意味が180度変わってくるのがわかるだろう。
言語は繊細なもので、繊細さを身に付けるには、言葉に触れる回数を増やす、すなわち勉強量をこなすことしかない。
部活でも単純な基礎訓練を反復すれば上達することを、君たちは身体レベルでわかってるはずだ。
勉強量を増やし反復することが、学問の王道なのだ。
ところで、猛勉強なんて時代遅れと思う人もいるかもしれない。まわりの中学生は君たちほど勉強していない。
だが猛勉強は「世界基準」である。日本の中学生の勉強は、特に周囲のアジア諸国に比べ、甘いと言わざるをえない。
少し大きな話をすると、日本は世界から遅れをとり,特にアジア諸国に追いつき追い越されている。
日本は物価が安い。西洋は高い。アジア諸国も昔は安かったのに、今は高い。
私はよくアジアを旅行するが、最初に韓国に行った30年前、韓国は日本に比べ貧しい国だという印象を受けた。
町はキムチのニンニク臭く、歩道は舗装されず靴は汚れ、タクシーに乗ると車の性能が悪く道路の振動を腰にダイレクトに感じた。
トイレに紙を流すと下水管が細いから逆流し、歯磨き粉は香水みたいな変な味で、駅は古くて薄暗く、軍人が多く、地下鉄の車内には物乞いがウヨウヨしていた。
でも物価は安かった。冷麺は300円、焼肉は腹いっぱい食べて800円もしなかった。高速バスの料金は日本の7分の1くらい。初めて韓国へ行った大学生時代の私は大食漢のデブだったが、食べても食べてもお金が減らなかった。
時は流れ、韓国は物価が高い。コンビニでコカ・コーラの500mlペットボトルを買うと200円はする。冷麺もソウルでは1000円以上。日本より安いと感じるのは交通料金だけといっていい。
アジアは物価が高くなり、日本はデフレで安いまま。だからインバウンドで中国韓国香港台湾タイあたりから、日本に観光客が来るのだ。
かつて日本人がアジアに旅行すると物価が安いから貴族気分になったものだが、現在はアジア人が日本で爆買いする。
日本がアジアに追いつき追い越されそうになっているのは、パワーの差、ズバリ言うと、勉強量の差だと、私は考える。
現在のアジア諸国の子供は教育に熱い。日本は豊かになり子供はハングリー精神を失い、アジアの国は貧困から抜け出そうと目が輝いている。そもそも日本には人より抜きんでて勉強すると恥ずかしいという謎の価値観がある。
(ここ十数年間の韓国は日本より悲惨な部分があるんで、その話は授業で)
韓国の中学生は学校に弁当を2つ持っていく。昼と夜の二食分で、夜は塾に深夜まで通う。夜のソウルの街は繁華街が深夜までにぎわっているが、午前0時近いのに塾帰りの中高生がショッピングセンターでたむろしている。
台湾は高層アパートが多く、子供に勉強部屋を与えられず住環境が悪いので、レンタル自習室というのがあり、深夜2時3時まで生徒が勉強している。
アジアの塾では、生徒を厳しく叱る。攻撃的な韓国語中国語の怒声が教室で響く。いい加減な態度を許さない。韓国も台湾も小国だ。子供の学力を伸ばさなければ国が滅びてしまう。そんな緊張感が教育現場の末端にも浸透している。
韓国も台湾も、科挙の伝統が現在に根付いているのだ。
私は日常の息抜きに韓国や台湾に行くが、塾の多さと子供の熱気に、逆に刺激をもらって帰ってくる。うちの塾も負けるもんか鍛えてやると、「燃える男」になる。通塾日数や宿題が増えて迷惑するのは君たちだけども。
日本の塾では、子供にやめられるのが怖いから言いたいことを言わない先生が増えている。大手塾のマニュアルには「生徒絶対叱るな」とある。パワハラ塾長の私なら一発でクビにされる。
だが、君たちにはポテンシャルがある。ポテンシャルは刺激ある環境でなければ伸びない。記憶力がいい十代前半のうちに、英語を鍛えて記憶しておくべきことを記憶しておけば、高2ぐらいで世間が見え勉強の大事さが分かった時、「あの時もっとやっておけばよかった」と悔しくて天を仰ぐこともない。
そして君たちの中には、中学校でトップクラスの成績を収める子もいる。
だが井の中の蛙ではダメだ。「地元じゃ負け知らず」のレベルで満足していてはならない。
英語は世界中で通用する。英語を学ぶのは、「世界基準」の言語を学び、君たちの魅力を世界中にアピールするためだ。
また日本では古くさい猛勉強も「世界基準」である。いま君たちが格闘している英語の膨大な宿題は、言葉も精神も「世界基準」に引き上げる、小さな一歩だ。
君たちは一生懸命が好きではないか。
塾には「ONE PIECE」「MALOR」「僕らのヒーローアカデミア」「鬼滅の刃」「宇宙兄弟」「BLUE GIANT」「キングダム」などの根性系の漫画が置いてあるが、登場人物たちは、とんでもない試練に翻弄され、知恵と勇気で乗り越えていく。(「こち亀」は別)
そんな姿に君たちは何かしら心を打たれ、食い入るように読んでいるではないか。君たちも漫画の登場人物のように、一生懸命勉強頑張ってるではないか。
一生懸命は人の心を打つ。
]]>だが自習室は「甘え」である。
同級生たちが試験勉強を友達の家でやると言ってゲームしながらいい加減にやってる間、君たちは厳しい環境を選び、「トイレに行っていいですか」とすら口に出せないほどの自習室で、長時間集中して勉強する。こんな光景を見た人なら、誰もが真面目な中学生だと感心するだろう。
ただ、勉強は本来、一人で孤独に行う作業である。
テレビやゲームやマンガなどの誘惑に打ち勝ち、己の意志で無菌状態を保つのが、本来の勉強姿である。
自習室でしかまじめに勉強できないのは、まわりの環境に流されているからにすぎない。怖い人の前では真面目で、解放されると怠惰になる。二面性のある人間は卑怯者である。
もしかして諸君は、US塾の自習室のような、ノイズキャンセラーが装備されているような静粛な環境だから集中して勉強できるのであって、もしも図書館の騒々しい高校生の中に紛れ込んだとしたら、怠惰に流されてしまうのではないか?
どんな悪環境でも意識高く毅然と勉強できるか?
今後、コロナウイルスの影響で、塾は10日ほど集団授業ができない。中学校もない。原始時代の子供のように自由だ。日本全国の中学生は、遊びまくっているだろう。
こんな時こそ、家庭学習が大事だ。家でカッコいい姿をお父さんお母さんに見せるべきだ。勉強や読書に思いっきり精を出してほしい。ストイックなサムライになった覚悟で、一人で孤高の勉強をすれば、化ける。
一人で勉強する際、真剣勝負の空気、別の言い方をすれば「話しかけるなオーラ」を放て。
本気で集中すれば、凛とした「話しかけるなオーラ」が漂う。勉強中、家族に怖いと思わせるくらいでなければダメだ。「俺に話しかけたらケガするぜ」と人格的迫力を醸し出すレベルまで集中しろ。
「話しかけるなオーラ」を放出するには、一日に課題をどれだけやるかノルマを決める。決めたら一意専心、集中してやり遂げる。時間と範囲に縛りをかけよ。焦れば集中力は自然に高まる。塾の自習室と同じレベル、いやそれ以上の強い緊張感を全身にみなぎらせよ。
君たちには、塾内に生きた手本がある。
中1生の中には、私が個別で教えている高1のシンタと、同じ部屋で自習した経験がある子もいると思う。シンタには合格体験記も語ってもらった。優秀な外科医のような理知的な語り方が印象に残ったと思う。彼は進学校でトップクラスの成績の男である。
シンタは紳士的な物腰の高校生だが、勉強中は「話しかけるなオーラ」を振りまく。彼が勉強すると緊迫感が部屋中に広がる。目はカミソリのように鋭い。人を殺めた後のような顔つきでテキストをにらみつけている。
中1諸君は、図書館で集団でつるむ高校生とはまるで違う人格的迫力をシンタから感じたはずだ。
シンタが途中で自習室から去ったあと、中1諸君はシンタの呪縛から解放され、いっせいにため息を漏らした。緊張感が一気にほぐれた。
シンタには自分が熱心に勉強するだけでなく、後輩を勉強に集中させる磁場を発生させる。
中学生諸君へ。
難しい要求かもしれないが、シンタのような、まわりに緊迫感どころか、威圧感すら与える勉強姿勢を、家の勉強部屋で見せつけてほしい。自分が一生懸命勉強するだけでなく、まわりを感化させるカッコいい若者になってほしい。
そして、君たちの中にも、たかだか13歳14歳にして、超一流の勉強姿勢の萌芽を感じさせてくれる子もいる。
コロナウイルスで塾の集団授業が休みになったのは、君たちが「個」を磨くチャンスだ。
一人で勉強できるのか、大量の学校と塾の宿題を計画性持って進められるか、まわりの誘惑に立ち向かえるか、勉強時間とそうでない時のオンとオフを明確に区切れるか。今回の安倍首相の決断は、空気に流されない「個」を鍛える、神が与えた貴重な時間だ。
君たちそれぞれが孤独な家庭学習で「個」を極め、こんど塾に集まった時には、意識の高い「話しかけるなオーラ」の集合体のような、粛然とした雰囲気を出してほしい。
競争意識が高い「個」が相互に刺激し、全員が自習室を引っ張るリーダーになり、互いを高め合うチームワークを期待する。
依存体質で流され見かけだけ静かな自習室と、「個」が競争し合う自習室では、同じ静かさでも天と地ほど違う。
勉強しないのは三流。
まわりの空気に合わせて勉強するのは二流。
どんな環境でも勉強できるのが一流。
まわりを勉強する気にさせるのが超一流。
(次回は3月7日(土)午後9時更新予定)
]]>コロナウィルスの影響で授業ができないため、いつもは授業中に語るモチベーショントークを、ブログの場をかりて書く。
君たちUS塾の中学生は、学校の定期試験前には塾でカンヅメになり、中学校の課題をこなすために猛勉強する。週に6日、時には10日連続で勉強する。
時間も長いが集中力も高いレベルに達してきた。中1の初期や、塾に初めて来た子の中には私語をする子もいたが、雰囲気にのまれ、勉強中はいっさい言葉を発しない。
自習の時トイレに行きたくなったらどうするか?
わざわざ先生に断って「トイレに行っていいですか」と声をかけるべきか、それとも黙って行くべきか。
ふつうの塾なら「トイレ行っていいですか」と先生に声をかけるのが常識とされている。
だけど君たちは「トイレに行っていいですか」という何気ない一言が、他の人の勉強の邪魔になることを空気で悟り、黙ってそっとトイレに行く。誰も自習中に「トイレに行っていいですか」と声を出したりしない。
君たちが「トイレに行っていいですか」とわざわざ断るクセを捨てたのは、「トイレに行っていいですか」と声を発すると、友達の勉強妨害になることが、理解できるようになったからだ。
逆の立場で考えてみよう。君たちが熱心に勉強してる時に、不意に誰かが「トイレに行っていいですか」と声を上げたらどうか。「せっかく集中してたのに邪魔しやがって」と軽く憤慨するのではないか。憤慨できるのは、集中して勉強できるようになった証拠である。
勉強は睡眠と同じで、没頭している時に妨げられるのが最もつらい。
シーンと静まった自習室の「トイレ行っていいですか」の無神経な一言は、午前3時、熟睡している友達の顔に氷水をバケツでかけるのと同じ行為である。
だいたい「トイレ行っていいですか」とわざわざ声をかける人は、私が「ダメです」と言うとでも思ってるのだろうか。
それはともかく、トイレの行き方一つにしても、静寂を保つために君たち塾生は気をつかっている。君たちは友達の邪魔にならぬよう、忍者のように気配を隠しトイレに行っている。現代の中学生でこれだけ高い自習環境を協力して作り上げた君達は素晴らしいと思う。
うちの塾ではときどき、近くの図書館に散歩がてら行く習慣があるが、図書館の自習室で近所の高校生たちが自習しているのを見たことがあるだろう。
だが、そこに緊張感はない。
高校生たちは勉強中も席を立つ人が多く、友達どうし教え合ってるようで、話で盛り上がる。あれは自習室ではなく「夜のたまり場」である。笑顔と私語が飛び交う喧噪空間で、勉強の成績など上がるべくもない。
図書館でチャラチャラ自習してる高校生より、君たちの方が何倍も立派だ。
君たちは定期試験で5教科の目標点を設定して、それに向かって勉強している。トイレの行き方ひとつにも最大限気をつかい、静粛な環境を死守している。
おそらく君たちが塾を卒業し高校生になったら、まわりの環境は「甘い」と感じるに違いない。そこで君たちが甘い環境に同化するか、それともUS塾で身に付けた厳しい勉強姿勢を孤軍奮闘で守るか、それは君たちにかかっている。
(次回は3月5日(木)午後8時半更新予定)
]]>出版業界でも、本になるのは奇跡の大逆転ものばかりで、勉強ができる子が当然のように難関校に合格した話は「面白くない」と企画段階でボツにされる。
だが今日私は、力のある中学生が、ぶっちぎりの強さで公立高校に推薦で合格した話を書く。
これから書く話は、波乱万丈のストーリー性に欠けているかもしれない。だが試験直前に爆発力を発揮する子よりも、誰からも合格確実と言われ、当たり前のように合格を勝ち取る子の方が、人生における努力の総量が多いのは事実だ。
だから、書く。
中3のシンタ君は、自転車で塾にやって来る。
尾道は山が海まで迫り、ウナギの寝床のような平地に、長い長いアーケード商店街がある。
シンタ君は商店街の西の端から、東の端のアーケードが切れ、さらに少し離れた場所にある私の塾へ、自転車で往復する。
塾が始まるのは19時15分。彼は必ず19時12分から13分、ピタリとギリギリに塾に到着する。時間管理が正確な男だ。
雨の日はレインコートを羽織る。大雨の日も台風の日も、送り迎えなしで自力で自転車を走らせる。お母さんはシンタ君に雨に濡れても大丈夫なようにレインコートだけ与え、あとは一人で通いなさいと突き放す。
シンタ君は小6の11月に入塾した。
中学受験はしない、いわゆる中学準備講座に来た。彼は学習塾に通う経験がなかった。
お母さんと面接に来た時、私はシンタ君を一発で気に入ってしまった。色白で眼光に知性がある。見るからに賢そうな男の子で、緊張して顔が少し赤くなっているのにも好感を持った。
彼は見た目通り、学力が高かった。彼は尾道の土堂小学校、陰山英男氏が校長を務めた教育水準が高い小学校の生徒だ。彼は土堂の中でもおそらくトップクラス、中学受験をしないのが不思議なくらいだった。
シンタ君は、手つかずの才能だった。12年間の人生で、変にいじられていない。
彼の頭脳は、作物がまだ植えられていない肥沃な土地だった。小学校の先生とお父さんお母さんが、丹念に開墾した土地だ。そして種を蒔くのは私の仕事。種子を一粒落とすやいなや、ジャックと豆の木のように茎がぐんぐん伸びていきそうだった。
また、小さい頃からピアノを習い、地域の大会で金賞を取るくらいの腕前で、バッハやショパンを弾く。面影が『ピアノの森』の雨宮にどこか似ている。
私は彼のお父さんお母さんが、個人塾に、そしてこの私に、シンタ君を預けて下った意味を考えた。
うちの塾は、厳しくて塾長に一癖も二癖もあると毀誉褒貶はげしい塾だ。だが、向学心ある真面目な子には誠心誠意尽くす。シンタ君のお父さんお母さんも、私のそういう点を見込んで入塾させて下さったのではないか。クセは強く劇薬だが、真面目なシンタ君と私なら、相性がいいのではないかと。
また、シンタ君に大手塾で画一的な教育はさせたくない。大勢の中の一人ではなく、小規模で厳しい個人塾で丹精込めて育てられることを望まれたのではないか。
彼は首都圏の難関中学にいても遜色ない力を持つ男の子だ。どんな無能な教師でも伸ばすことができる。だが、せっかく個人塾でお預かりした以上、誰にもできぬ成果を出さねばならない。プレッシャーはあったが、それより喜びと希望の方がはるかに大きかった。
私は、シンタ君の力を最大限に発揮させる長期的作戦を練った。
彼は算数ができた。理系の頭脳だ。小さい頃からパズルを解くのが好きだという。だが、中学受験の複雑な算数を解いた経験がない。
シンタ君は明らかに将来難関大学を狙える。難関大学理系数学では、中学受験で難しい算数を経験した子が有利だ。中学入学までの4か月、やるなら中学受験算数だ。
私は普通のカリキュラムを無視して、図形・割合・速度・数の性質など、シンタ君が将来中学受験経験者に負けないように、中学受験算数をやらせた。いわば「擬似中学受験」だ。算数以外は一切やらせなかった。私たちがやってることは、中学準備講座どころか、難関大学受験講座だった。
中学入学まであと4か月の時期、ふつうなら英語の勉強を先取りし中学に備えるのが普通だ。しかもシンタ君は英語未経験者だ。だがシンタ君の頭脳なら、中学入学1か月前から、他の生徒と同じスタートを切っても英語は心配ないと考えた。英語の先取りはあえてやらなかった。中学受験算数に専念させた。
中学生になったシンタ君、勉強は順調だった。
定期試験では、5教科450〜480点ぐらいをコンスタントに取った。学校のテストだけでなく模試でも高い偏差値を出していた。
彼は自分の成績だけでなく、間接的に、他の塾生たちの成績も上げた。
塾では定期試験前、勉強会と称して7〜8時間塾にカンヅメにする。シンタ君は塾で拘束しなくても、家で自主的にできる男だ。だが私は他の子と同じように塾で勉強させた。
その理由は、彼が勉強すると、まわりに凛とした空気を醸し出すからだ。彼の集中力が教室に波及した。シンタ君という生きた手本がいたから模倣ができた。私は自習室の厳粛な空気づくりに、シンタ君を利用した。
彼には集中力がある。シンタ君は数学の問題に熱中すると、シャープペンシルを回す癖があった。勉強に集中し没我の心境にあると、シャープペンシルを盛大に回し始める。
残念なことに、三者懇談で私がそのクセを指摘しまった。指摘した途端、シャープペン回しはピタリとやめてしまった。彼の集中度を測るバロメーターだったのに、惜しいことをした。
彼は小学校1年生の時も、集中すると筆箱を噛むクセがあったという。
また彼は、いい意味での臆病さを持っている。勉強ができる子、いわゆる秀才は、シンタ君に限らず臆病さがある。官僚がその典型で、怖い政治家の心理を忖度できる、感度が高いアンテナを持っている。秀才は先生の意図を忖度できるから、学力が高まるのだ。
私は怒りをストレートに表現する怖い先生だと思う。ある大手塾のマニュアルには、生徒を絶対に怒ってはならないと書いてあるという。もし私がその大手塾の講師になったら、感情表現が「喜怒哀楽」どころか「喜怒怒怒怒怒哀楽」な私はたった10分でクビだ。
シンタ君は3年半塾に通い、そんな一度も私に怒られたことがない。彼は私が怒るツボを知り尽くし、忖度し、避けるのがうまい、他の子を叱っていても自分が叱られたものだと解釈する。「いい子」であり続けることで、自分を磨き上げているのだ。
また私が彼を叱れないのは、シンタ君は、どこか高貴なバリアがあるからだ。シンタ君はアジアの英明な君主、たとえば昭和天皇やタイのプミポン国王の幼少時のような、勤勉さがもたらす侵しがたい威がある。
それに加え、彼は負けず嫌いだ。
たとえばある時、私が「定期試験、中学校で1番取れた?」と聞くと、「今回は2番でした」とこたえた。「今回は」の「は」に、彼の負けん気が現れていた。色白の端正な顔立ちなのに、オスの闘争本能を持ち合わせていた。
負けず嫌いの子は、勉強方法を間違えない。勉強は高い得点を取るためという目標が明確なのだ。だから点数に直結しない無駄で非効率な勉強をしない。
目標がぼやけている子は、答を写したり、教科書を丸写ししたり、得点に結びつかない勉強を平気でする。時間をつぶすだけの勉強法をとる子は、高得点を取ろうとする野心が欠如している。
だが負けず嫌いな子は、勝つための勉強をする。勝つための勉強とは、ミスを嫌い、ミスを追い詰める勉強である。試験勉強の時に自分がどれだけ理解し、どれだけ暗記しているかを臆病なほど慎重に確かめ、弱いと思った箇所を瞬殺する。
シンタ君は暗記の時も、時には紙に書き、時には紙をにらめつけ、フレキシブルな勉強法を取る。最善の勉強法は何か絶えず模索する。
勉強が苦手な子は、「目標があやふやで、勉強法は一定」、勉強が得意な子は「目標が一定、勉強法は変幻自在」なのだ。頂上が見えているから、アプローチを試行錯誤できる。
正しい勉強法を取る子は、小手先のテクニシャンではない。負けず嫌いの執着心が正しい勉強法を生む。勉強法は人格的迫力と密接に関係がある。
シンタ君の勉強法に無駄がないのは、彼がピアニストであることが大きいと分析する。
ピアノのミスは、残酷にも即座に音でわかる。ピアニストは「1日怠ければ自分にわかる、2日怠ければ批評家にわかる、3日怠ければ聴衆にわかる」という厳しい世界に生きている。
ピアノの先生から新しい曲の課題を出される、難曲にチャレンジし、ミスしないために練習をし、微調整をし、納得する音が出るまで練習を繰り返す。ピアノの練習はtrial & errorの反復だ。
ピアノ上達のノウハウが、勉強で生きた。ピアノのミスを即座に直す習性が、勉強でミスを瞬殺することに結びついたのだ。
これは冗談だが、シンタ君は私のミスも許さない。
私が授業で間違い計算ミスをしようものなら、それまで静かに授業を聞いていたのに、顔が豹変する。私の間違いを指摘しようと身体が前のめりになり、細い目が見開き、私のミスに対し鋭く突っ込んでくる。その圧力はまるで「モーニングショー」の玉川徹みたいだ。
彼は自分自身のミスに対しても、内面で鋭く突っ込んでいるのだろうと、おかしくも頼もしかった。
さて、彼の志望校は、尾道北高だ。
ここで広島県の公立高校入試状況を説明すると、広島県の公立高校は他都道府県に比べ合格しやすい。県が重点的に力を入れている県立広島高校という特殊な高校を除き、尾道北や福山誠之館のような最難関高校でも偏差値50台後半で合格できる。偏差値が70前後なければ最難関校に入れない他都道府県と状況が違う。
正直、広島県の公立高校受験は牧歌的なのだ。
広島県東部は際立った私立高校もなく、偏差値75の超難関校である広島大学附属福山高校はあるが、超狭き門だ。附属福山高校から公立最難関高の尾道北まで、偏差値にして20近く差がある。
ということは、広島県東部の勉強が得意な中学生は、附属福山高校を目標にしなければ、偏差値55の尾道北や福山誠之館を目標にするしかない。中学校のクラスの上位1〜3番の生徒にとって、公立高校受験は刺激がないのである。
シンタ君は成績的にも素質的にも、附属福山高校に合格する力は持っている。だが尾道から福山は遠く、尾道北高は家の近所なので、通学時間を考慮して尾道北高を選んだ。私も賛成だった。
また附属福山高校は自由な校風で生徒を縛り付けず、逆に尾道北高は課題が多く厳しい。入学してからの安定性では尾道北高に軍配が上がる。シンタ君の生真面目な性格は、尾道北高に合っていると判断した。
尾道北高はシンタ君にとって、絶対合格できるラインにある。彼の偏差値は70前後、偏差値55の尾道北は絶対安全圏だ。
シンタ君の公立高校受験を衆議院総選挙にたとえれば、自民党の大物政治家、たとえば安倍晋三や麻生太郎や石破茂が、小選挙区で絶対的に強いのと同じことだった。
高校受験が無風状態だと、潜在能力が生かしきれない。一流アスリートの卵に対して、学校の体育の授業で我慢しろと言っているようなものだ。私はかつて大手塾に勤めている時、先輩の講師から「できる子には120%の課題を与え、退屈させてはいけない」と教えられた。
才能には負荷をかけないと「もったいない」と思った。
そこで私は、中3夏休みから、シンタ君に高校英語を先取りさせた。
彼の高校受験が無風状態なのを利用して、中3終了時にセンター試験で6割取れるくらいのラインまで、文法・単語・読解の三位一体で力を伸ばそうと考えた。
広島県の公立高校入試が緩いのを逆手にとり、高校英語を先取りし、フライングする作戦だった。
読解は『速読英単語・入門編』『速読英単語・必修編』、単語は『システム英単語』を使用した。彼は数学ができるので、文章構造の把握は抜群だった。主語と動詞が離れていても、複雑な挿入や倒置があっても見抜けた。
だが英単語は苦しんだ。「解釈は成り易く、単語は成り難し」だった。膨大で難解な高校英単語に、さすがのシンタ君も四苦八苦していた。
私がシンタ君に中3夏休みで英語を先取りさせたのは、半年後の高校受験でなく、3年半後の大学受験が心配だったからだ。私は大学受験に関して、病的な心配性なのだ。
シンタ君は理解力が抜群に秀でていたが、弱点があるとすれば暗記力だった。もし彼が万が一難関大学に不合格になる事態になったら、原因は英単語のストック不足になるだろうと予測した。数学は天才型だが、英単語暗記は泥臭い努力型に徹しなければならない。
私は英単語を語源・語呂を駆使して説明した。執拗に反復もした。シンタ君は英単語のストックを確実に増やし、『システム英単語』の1章・2章・5章までほぼ完璧に暗記することができた。彼の努力で、私の大学受験への心配も薄らいだ。
シンタ君は予想通り、尾道北高に合格した。推薦だった。
合格した勢いで、体験記を書いてもらった。
■シンタ君の合格体験記
僕は、小学6年生の時にUS塾に入塾しました。
中学校に上がる前には「apple」すら書けず、僕の書ける英単語は「UFO」だけでした。
bとdを何度も間違え、「自分には英語の才能がないんだろうか」と、これからの中学校生活に対して大きな不安を感じていました。
ですが、笠見先生の指導のもと、「いくつかの単語を数十分で覚えて、その後テストをする」というサイクルを何度も何度も繰り返し、単語を大量にインプットしていくうちに、スペルミスなども少なくなり、英語の定期テストでも1年生の1学期から良い点数をとり続けることができました。
そして3年生の春、英検準2級を受けたいと先生に伝えた時には、試験日まで残り一か月しかなく、なんの準備もできていなかった僕に先生は高校内容を短期間で熱心に指導してくださり、自分でも驚くことに、自己ベストのスコアで合格することができました。
その後は高校内容をどんどん進めていくようになりました。
高校の英語はとても複雑で、知らない単語や文法も多く、なぜその答えになるのか分からなくて、嫌になりかけたこともありました。
辞書で以前に何度も調べている単語が覚えられなかったり、知らない単語がたくさん入った文章だと辞書を使っても意味がよく分からなかったりして、苦戦していました。
ですが、パソコンで並べ替え問題を解いて文法を定着させる方法や、「速読英単語」の英文を先生と一緒にひたすら読み、訳していく方法、「システム英単語」で短文ごと単語を覚えるなどの方法で少しずつ単語が身についていき、長文を読むこともだんだんと楽しくなっていきました。
先生は、個人塾の利点を最大限生かして、一人ひとりに適切な指導をして下さいます。
また、塾内は空気がとても張りつめており、私語などは一切ありません。ぼくは、他の塾は知りませんが、ここまで静謐な環境の塾はそう無いと思います。この環境も、学力を伸ばせる要因の一つだと考えます。
定期試験前もこの緊張感がある状態で長時間自習をしたことが、選抜?での合格につながったと思っています。
勉強に対する姿勢にはとても厳しい先生ですが、生徒に実力をつけさせるためです。
本当に頑張った時には「よくやった!」と本気で褒めてくれます。
もしUS塾に行っていなければ、僕はもっと勉強をなめていたと思います。そして、適当なところで満足してしまったと思います。今の僕は絶対になかったと断言できます。
僕は、US塾で勉強をがんばってきて本当に良かったと思っています。
向学心があれば、この塾が必ず学力と人間性を大きく成長させてくれます。
僕には将来、建築設計士になりたいという夢があります。 僕の尊敬する坂茂さんという建築家は、大型の高級な建築物に限らず、例えば被災地などに、コストが少なく、安全性も高い紙でできた素材の避難所や仮設住宅を考案、設計しています。人に愛される建造物とは規模やかけたコストとは別のことであるという話を以前に読み、感銘を受けました。
人の暮らしを少しでも豊かにしたい、という思いをもって仕事をする人は尊い生き方をしていると思います。
僕は将来、自分の利益だけを追求するのではなく、人や社会のためを考え、仕事をする人になりたいです。
シンタ君は誰よりも早く、2月初旬に高校受験から解放された。だが、シンタ君は勉強の手を緩めなかった。
私は彼に、中学卒業までの1か月弱で、『DUO』の560の例文を丸暗記することを指示した。無茶振りである。
だが、3年後、シンタ君の大学受験、英語で合否を決めるのは英作文だ。文章のストックを積み上げておけば楽になる。
普通の中学生は、高校受験合格から入学までは、受験で燃え尽き遊ぶ時期である。この時期に勉強したら差をつけられるのはわかっているが、過酷な高校受験の後で、さらに勉強を続けることは、現実的には難しい。
先生の側としても勉強してほしいのは山々だが、強制的具体的指示までには至らない。「かわいそう」と甘くなってしまう。
しかし、私はシンタ君に関しては容赦なかった。
高校受験が終わるやいなや『DUO』例文丸暗記という過酷な課題を指示した。『DUO』はTOEICやTOEFLにも使える、大学受験の範疇を超えた難しい例文集である。挫折率は極めて高い。
だが、シンタ君は稀有の才能がある。勉強すればするほど彼が幸福な人生を送る100%の確信がある。
極端な話、高校時代勉強漬けで、暗黒の青春時代を送ってもいいと思う。高校3年間勉強すれば続けるだけ、将来の見返りは大きい。私はシンタ君に『DUO』を丸暗記させることに、何の躊躇もなかった。
シンタ君は私と過ごした3年間、どんなに難しく膨大な課題を出しても、嫌な顔一つしなかった。顔色一つ変えず素直に受け入れた。だから私も出し甲斐があった。
彼は自分の目標が高校受験ではなく、大学受験であることを熟知していた。『DUO』例文暗記も、当然のように受け入れた。土日は1日6時間塾で拘束し、家でも暗記するようシンタ君に命じた。
3月16日、ラフではあるが『DUO』例文暗記、『速読英単語・必修編』を完走した。挫折率が高いこの2冊をやり遂げ、しかも中学生のうちに終わらせたことは、大きな自信につながるだろう。
シンタ君は将来、ひとかどの人物になる。
そういえば、こんなことがあった。
彼が小6の時、授業前に私は三原のイオンに買い物に行き、トイレで意識を失った。1時間くらい気を失っていた。気づいたら授業時間は過ぎていた。シンタ君たち中1の生徒が教室で私を待っている。
シンタ君は私の不在にトラブルのにおいを感じ、私の家の電話番号を電話帳で調べ、私の母親に連絡した。
そして同級生に先生が来るまで待とうと指示してくれ、私が急いで教室に駆け込んだ時、彼らは静かに自習をしていた。小6のシンタ君の冷静な判断がなければ、教室は混乱していただろう。危機の際、臨機応変に機転がきき、実行力がある男である。
私は彼がただの勉強秀才でないことを悟った。
シンタ君はまだ東京へ行ったことがない。尾道の商店街を自転車で往復する狭い世界しか知らない中学生だ。彼はまだ自分が都会で通用することを知らない。だが、19過ぎたら都会へ海外へと羽ばたく。
あとはせっかく暗記した『DUO』や『速読英単語』を反復することだ。暗記したのにドライアイスのように消えたらもったいない。英語力は同じ文章に何度も触れることで上がる。
シンタ君が『DUO』や『速読英単語』を血肉化したら、彼の一生は変わる。同時に、彼が建築家になれば、彼が設計した安価で住み心地いい住居が、被災者や発展途上国の貧困層の人生や生活を変える。
将来に確信をもって「暗黒の高校時代」を送ってほしい。
シンタ君は体験記で「僕は将来、自分の利益だけを追求するのではなく、人や社会のためを考え、仕事をする人になりたいです」と書いている。この子には、その能力も資格もある。
]]>
1月から3月にかけての学習塾チラシでは、中1からの入塾を熱心にすすめている。だが、中学校の入学準備で忙しいのに、塾は後回しという家庭は多い。
だが、塾側の立場から言えば、中1から入塾すれば、塾も保護者も生徒も、三者がWin-Winの関係になると断言できる。
学習塾が中1からの入塾にこだわるのは、もちろん経営面もある。多くの塾は中1・中2・中3と、受験が差し迫るほど人数が多くなる。中1から定員が埋まり、3年間在籍してくれれば経営が楽になるのは確かだ。
都会の大手塾の中には、中学受験経験者の中1の授業料を無料にする塾もある。これは中学受験をした優秀な中学生を囲い込むためだ。
だが、良心的な塾が中1入塾にこだわるのは、決して金銭の問題ではない。
正直言って、中1から教える方が、中2・中3から通い始める子より、はるかに教えやすいからだ。悪い言葉かもしれないが、中1からの方が勉強の世界に「洗脳」しやすい。
塾に通い始めた子に、まず教えなければならないのは勉強法だ。だが中2・中3は我流の勉強法に走っている子が多く、一部の優秀な子以外は、その我流の勉強法は悪習慣以外の何物でもない。
単語を書いて暗記しない、計算は雑で字が小さい、学校の提出物は解答を写す。こういう悪しき勉強法に染まっていると、矯正するのに苦労する。
たとえば、塾の講師は和食の料理人とするなら、料理人は味がしみこみやすい新鮮な素材を好む。中1は朝堀りの柔らかいたけのこ、中2・中3は固くなった青竹。個人差はあるが、中2・中3に出汁をしみこませるのは骨が折れる。特に14歳の中2は反抗期か無気力で難しい年頃なのだ。中2・中3からの勉強開始は双方にとって一種の葛藤なのである。
その葛藤が嫌だから、塾側としては中1の最初から入塾してほしいのが本音なのだ。
途中入塾の生徒で一番苦労するのは、授業を聴く姿勢だ。勉強が苦手な子は総じて講師の話を聞けない。これまで学校で授業を聞いていなかったから、勉強が苦手なのである。
ベテランの塾講師になれば、授業態度を見ればその子の成績を80%くらいの確率で当てられる。
定期試験の点数で、英数国理社の5教科500点満点のうち、中2で350点、中3で400点を超えてないと、広島県の公立進学校合格は難しい、またこれ以下の点数を取る子は、決まって授業を聴く習慣ができていない。
授業はオーケストラのようなもので、講師は指揮者だ。水準以下の点数しか取れない子は、異音を発する。よそ見をするとか授業中に話すとか、そういうわかりやすい兆候だけではない。ただ真面目ぶって黙っていても、聞いてない子は見抜けるものなのだ。
また、教室で何か物音がしたとき、集中力が真っ先に切れるのは勉強が苦手な子である。成績上位者は物音がしようが爆音が鳴ろうが見向きもしない。
通塾開始が早ければ早いほど聞く姿勢が身につく。繰り返すが中1からの入塾は、保護者と子供と塾講師の三者が、Win-Winの関係になれる。
■中1の内申点が最後まで響く現実
中1からの入塾が好ましい理由は、高校の内申点にもある。
広島県では公立高校の合否判断の比率は、中3・3月の学力試験と、内申点の比率がほぼ半々である。
内申点は定期試験と授業態度や提出物の総合的判断で決まる。授業態度や提出物の比率は想像以上に大きい。
恐ろしいのは、中1・中2・中3の点数が、同じ比率で判断されることだ。中1より中3の成績が重いわけではない。だから、中1で勉強つまずけば後々まで響き、中3でやる気になって塾に通い始め挽回しても追いつかない。
中3で部活終了後に、一念発起して勉強に対してやる気になった子が、中1のひどい内申点で不合格になり涙した悲劇がどれだけあっただろうか。内申点が悪いと、本番の試験に重さ20?の鉛を身体に巻き付けて出場するようなものだ。
病気にたとえれば、中3で酷い内申点の子が来ると、ステージ4のガン患者を診察する医者のような気分になる、どうしてもっと早く来てくれなかったのかと。
あと、内申点はなかなか上がらない。上がらない理由に「イメージ」の問題がある。
中1の初期に「この子は不真面目」と判断されてしまうと、3年間悪いイメージが付きまとう。
特に実技教科は、テストの点数以上に、性格的印象で判断される。しかも広島県の場合、音楽・技術家庭・保健体育・美術は内申点が2倍になり、英数国理社の主要教科より影響が大きい。そして、中1の最初の段階で悪い印象を持たれると、内申点は上がらないのが現実だ。悪いイメージがこびりつくのだ。
逆に印象が良い子は、内申点で優遇される。たとえば中1に正田美智子さんと吉永小百合さん(いずれも仮名)という、品格が高そうな真面目な女子がいる。ノートも丁寧で発言も思慮深く、気品があり、申し分のない生活態度である。美智子さんと小百合さんなら、どの教科の先生も内申は最高点をつけるだろう。彼女たちが万が一テストの点数で時に悪い点を取っても、最高点5点の座は不動のままだ。
同じく中1の、生活態度の良くない千鳥の大悟くん(仮名)という男の子がいる。遅刻の常習犯で、提出物は出さない。授業中に大声出して、授業を荒らし先生やクラスメイトを笑わせ荒らす。面白い子なのだが先生の評判は悪く、内申点は最悪である。
中2中3になるにつれ、大悟くんの人の良さが伝わり、遅刻や授業荒らしが収まったとしても、最初のイメージが強烈で内申点はなかなか上がらない。当然、相対評価において、くせがすごい大悟くんは、イメージ最高の正田さんと吉永さんの牙城を崩せない。
大悟くんのキャラは内申点向きではない。第一印象が悪すぎる。そして真面目になっても、第一印象を引きずるのが、中学校の内申点の世界である。
とにかく中学入学後の初対面から、遅くとも中1の1学期の中間試験で、真面目アピールをしておかないと3年間響くのである。「人は見た目が9割」というが、「内申点は中1の1学期が9割」なのである。
だから中1の4月の段階で、試験勉強の方法、学校の先生に対する振る舞い方、礼儀作法を塾で教え込んでおかねばならない。小学校受験で面接官に対する振る舞いを教える、就学前の子供が通う「お受験塾」と似たようなことを、中1の初期段階でしておく必要がある。大悟くんのように野生のまま、中学デビューするのは危険極まりない。
■隠れた才能は中1からの入塾で花開く
そして、地方には勉強の才能があるのに、なぜか中学受験はしなかった、天然の才能が眠っている。
都会だと難関中学を受験する才能がある子が、手つかずのまま天然で中1から入塾してくるのである。
性格は素直で講師の話を聞く力があり、記憶力理解力も抜群。中学受験で汚れてない分、無垢で教えやすい。都会では金鉱は掘りつくされているが、地方では金塊が岩肌に露出している。
こういう子をお預かりした時「私はこの子を育てることができるのか!」と有頂天になる。この素直な物体をどう鍛えようか、頭の中がアイディアでいっぱいになる。
そして、もしこういう才能がある子が、中学でも塾に通わず、勉強の才能が眠ったままだったらどれだけ惜しいかもったいないか、心胆が震え上がる。
また、中学受験失敗した子も、中1から塾に通い捲土重来してほしい。不合格になっても、中学受験で学んだ教養は役に立つ。
たとえば、中学受験していなかった子が中学で数学の速さや割合でつまずくところ、彼らは簡単に解いてしまう。中学受験経験が肥料になって、学力を豊かにする。
中学受験に合格した子は、大学受験まで6年間受験がない。遊んで成績が奈落の底に落ちる子もいる。
逆に不合格だった子は、不合格だったことで「大人」になる。中学受験不合格は精神年齢を上げる。「失敗は成功のもと」という、ありきたりだが深い英知を秘めた教訓を、中学受験に失敗した子は傷とともに得る。
中学3年間、臥薪嘗胆の気概を心に秘め、リベンジに燃え勉強頑張れば、中学受験で自分を不合格にした難関高校に合格することもできる。中学受験で成功した子を学力性格両面で追い抜く可能性が高い。
さらに、小学校まで勉強が苦手だった子にこそぜひ、中学1年生から入塾してほしい。
小学生時代は、勉強面が地味でパッとしなくても、性格が素直で根性を秘めてる子が、3年後には難関高校に合格し、ヒーローヒロインになることができるし、そんなサクセスストーリーを演出するのが塾だ。
地味で真面目な子は、学校では脇役かもしれないが、塾では主役である。真面目で素直というのは、分別ある大人の目から見れば、ものすごく目立つ。神々しいくらいに。だから真面目な子は塾の先生から強く肯定され、誉め言葉のシャワーを浴び、黙っていても塾で自己顕示欲を満たせる。
最初は成績がイマイチ伸びなくても、最初の3か月は正直我慢が必要だが、厳しい時をこらえて3年間修業を積めば、結果は出る。
うちの塾に、小6のはじめに入塾したヨシタカ君は、最初勉強が苦手で、お母さんが「この子勉強ができないんです」と匙を投げた感じで話していらっしゃった。
様子を見ると、入塾してから1か月のあいだ、百ます計算をストップウォッチで時間を計っても、なんと途中で眠ってしまう。緊迫感が演出される百ます計算で眠るとは、かなりの強者である。
だが性格がおとなしく素直で、最初は厳しく叱ったが、懲りずに塾に休まず来るうち、見違えるようになった。ヨシタカ君はギブアップしなかった。
中1後半の今では定期試験5教科400点を超え、英語では95点以上とコンスタントに高い点数を取っている。
英語という科目は地味で真面目な子が伸びる科目である。小学校時代成績がパッとしなくても、中学生になると真面目な子には最重要科目の英語が味方につく。英語は努力を裏切らない科目だ。中学での勉強革命は英語がおこす。
塾に通わず英語を系統立てて習わなければ、勉強が苦手なままで人生をすごす危険性があったのだ。英語は子供を「変身」させる。
中1・1学期からの入塾は、子供の人生を劇的に変える。
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良心的な塾の先生から、お叱りを受けても仕方ない。
私は現実主義者で、本来なら、直前の大逆転など難しいと考えている。いままで遊んでおきながら、最後だけ勉強して合格するのは虫が良すぎる、甘い、とすら思っている。
よく中3の冬休みに「いまからでも間に合う!」とチラシで宣伝している塾があるが、数か月で大逆転できるのはレアケースである。
ましてや内申点が低く絶望的だと合格はほぼ困難である。本番の試験を競泳にたとえると、内申点が低い受験生は、背中に20?の鉛のおもりを背負って泳ぐくらいのハンディがある。
公立高校受験は内申点がつきまとう。高校受験より大学受験の方が「奇跡」がおきやすいのは、大学の一般入試は内申点が不要で、本番一発で判断されるからである。
高校受験は、たった2か月で間に合わないと考えるのが、常識的な判断だ。
まともな責任感が強い塾では、高校受験わずか2か月前に、中3生を受け入れたりはしない。塾側では昔から自分を信じて通ってくれる塾生の結果で頭がいっぱいで、新人の面倒を見ている余裕なんかない。
いままで遊んできた子がガチガチの進学塾に入れば、学力意識ともに決定的な差があり、正直、塾側としたら足手まといで、新しく入塾した子の側からしても、ついていけなくて居場所がない。
塾で長年がんばってきた子は、もともと勉強意識が高く潜在能力がある子が多い。才能あるキリギリスがアリのように勉強してきた。そんな厳粛な場へ直前に遊び人が駆け込んできても場違いで勝負にならないのである。
ただ、夏休み以降に成績が伸びて、ギリギリの段階で志望校のレベルを上げる決意をした中3生なら、話は別である。模試の偏差値が2か月で60から65に伸びた、いままでの志望校の合格偏差値は62。ならば偏差値68の地域最難関高校をめざしたくなった。こういう場合なら、勢いを最終2か月で加速させることが可能だ。たった2か月で偏差値を5も上げた昇り調子の受験生なら「いまからでも間に合う!」可能性はあるのである。
また、公立高校は各都道府県で難易度が違う。それぞれに地域事情がある。私の塾がある広島県の公立は、他の都道府県の公立と比べて合格は難しくない。愛知県や福岡県や神奈川県のような偏差値70近い難関公立高校は、広島県にはない。基町や尾道北でも偏差値60はいかない。難関公立でも定員割れの高校があるくらいである。
だから内申点さえ足を引っ張っていなければ、やり方次第では「いける」可能性があるのだ。内申点が少々悪くても、逆転の余地はある。
さて、これから広島県の、偏差値55くらいの公立高校合格に向け、大逆転するには何をどのように勉強をすればいいのか考察する。高校受験の突貫工事をどうすればいいか?
■数学は関数に絞る
試験に出る確率が高い分野を重点的にやり、そうでないものはやらない徹底的な割り切りが、直前には大事だ。
ただ、理科社会はヤマを張りにくい。各分野まんべんなく出題されるので、「ここが出る!」と直前に断定するのは避けたい。出そうな分野をチョイスして重点的にやるより、すべての分野をくまなく押さえておきたい。ルーレットの一点賭けは怖いのである。
よく大手塾が「予想問題的中」とあるのは、中学3年間の膨大な量のテキストやテストを配布していれば何かが当たるわけで、ノストラダムスの大予言みたいなものであてにはならない。
しかし、数学は予測が立てやすい。
広島県の数学は、関数が大きな配点を占める。配点の3分の1は関数だ。関数が出ない年はない。これは全国的傾向でもある。というか、関数抜きでは数学の問題が作れないのである。
関数はいったんコツを知ったらコンスタントな得点源になる。逆に、図形は難問にぶつかったら解法がひらめかずお手上げだし、証明問題は配点が少ないので労力の割には得点に結びつかない。2か月というタイムリミットを考えれば、一番出題され、慣れたら確実に点が取れる関数に勉強の比重をおくのは必然といえよう。
関数が苦手な受験生はまず、塾のテキストや学校の教科書を復習するべきだ。新しいテキストに手を出してはならない。直前に浮気は禁物だ。
一度やった教科書やテキストには、どれだけ過去に授業を受けたとき真剣に聞かなかったとしても、記憶の残滓くらいは残っている。教科書やテキストを引っ張り出して復習するのが最優先だ。新しいテキストは一番風呂のように体になじまない。
あと一次関数・二次関数だけでなく、中1で習った反比例を忘れてはならない。反比例は意外にウイークポイントで、双曲線のグラフに苦手意識を持っている受験生は多い。反比例は死角になりやすいので気を配りたい。
また、関数の難問には相似が絡む。グラフ内の面積比を求める問題は相似の知識が必要だ。関数と相似を同時並行で基礎を押さえるべきだ。
基礎力がついたと判断したら、過去問に徹底的に当たる。広島県の過去問だけでなく、旺文社の「全国高校入試問題正解・数学」を買い、関数の問題に片端から当たってみる。
ここで注意してほしいのは、絶対に過去問は新しい方がいい。古くさい市販の問題集は使ってはならない。強い効果があるのは過去3年の新しい過去問に限る。
野菜と同じで過去問は新鮮なほどおいしく、ウサギの飼育小屋に散らばるキャベツの屑のような古い問題を解いても効果は薄い。関数は絶対出題される分野だが、絶対出題されるからこそ出題者は頭を使い、入試問題は年々進化している。新しい過去問を解けば、既存の問題とは思ってもいない角度から突いてくるのがわかる。古い過去問は結構あちこちで使い回しされていて、惰性で解けてしまうのだ。
本番の入試問題はパリパリの新作である。どんなアプローチで問われても対応できるよう、新作慣れする目的で新しい過去問を解きまくるのだ。
関数を勉強すると意外な副作用がある。それは、頭の中が整理整頓されることだ。関数とは段取りの学問で、一つ一つ適切な段取りを重ねていけば解ける。これは数学の他の分野、また他教科にも波及する。関数が高校受験で配点が高いのは、高校側が整理整頓された論理的な思考ができる受験生を入学させたいという意思の表れでもある。
とにかく、出ても配点が少ない分野に時間をかける、無駄な勉強は絶対避けたい。
広島県では二次方程式の文章題は配点が少なく、三平方の定理を使う空間図形は出ない。確実に出題され配点が高く、また得点が安定しやすい関数に時間をかけるのが直前の鉄則である。
■社会は過去問の解答を暗記
直前になると社会の一問一答集が売れるそうだが、公立高校狙うのに一問一答暗記するのは、まったくばかげた勉強法である。
また図書館で、直前にノートを綺麗にまとめる受験生を見かけるが、これは完全に無駄な勉強だ。ノートまとめは平時には効果的だが、戦時にやることではない。ノートまとめなんかしていたら時間との闘いの敗者になる。
広島県の公立高校の社会の解答を見てほしい。
記述式の、まとまった文章を書かせる問題がほとんどではないか。用語を問う問題は少ない。用語集暗記が時間の無駄であることは一目瞭然だ。
社会は暗記教科と言われ、直前でも対策が立てられると思われている。他教科に比べ、直前で追い込みやすいのは確かだ。
「暗記教科」という言葉には、暗記ならできるという、暗記を甘く見る意識が底にある。複雑なことを理解するよりも、暗記の方が楽だという意識が横たわっている。ということなら社会科は、「楽な」暗記に徹する方が、直前の正しい勉強法なのではないか。
私も社会は暗記で点が伸びると考えている。ただし断片的な用語を暗記しても意味はない。記述問題の解答文を丸暗記するのだ。
各都道府県の記述問題の解答文暗記、これが直前に最も効果がある勉強法だ。
使用するのは旺文社の「全国高校入試問題正解・社会」。最新版だけだと足りないので、過去3年分はほしい。
まず記述式の問題だけピックアップする。記述式の問題は自分で解かない。量をこなすのが目的なので、自分で頭をひねって書く時間はない。問題読んで解答のイメージを浮かべたら、すぐ正解を見る。47都道府県すべての記述式問題に目を通すのだ。正解を読みながら解答文のインプットを心掛け、頭に入りきれないものは書いて覚える。一言一句丸暗記する緻密さはいらない。雑でいい。
記憶作業を続けるうちに、どの都道府県も出題されるトピックが似通っていることに気づく。同じような問題が全国の公立高校で出題されている。
さらに社会は、表やグラフを読み取る問題が非常に多い。読み取り問題ではあらかじめ暗記した知識はいらない。表やグラフを見た素直な感想を、簡潔な文章を書けばいい。「〜が増えれば〜が減った」「〜が上がれば〜が下がった」と対比で書けば綺麗な答案が書ける。
記述式の正解暗記は付け焼刃のように見えるが、邪道ではない。
記述問題は出題者が教科書から選び抜いた、中学生に一番学んでもらいたい最重要事項エッセンスだ。教科書だけ満遍なく読んでも、初心者にはどこがコアなのかわからない。教科書の記述のどこが重要で、どこが重要でないか区別できない。公立高校社会の入試問題は、ゴマのエッセンスを小さな錠剤に詰めた、セサミンのようなものだ。
記述式の問題に接していくうちに、中3生は社会科の本質を知るようになる。高校では用語を丸暗記しかできない受験生はいらない。社会の構成の因果関係をストーリーとして知る、言い換えれば高校の先生と現代の社会を取り巻く問題点について語れる高校生がほしいのだ。記述問題の丸暗記は単なる暗記ではない。社会科という中学校の教科を、生きた社会に昇華させるための、質の高い読書である。
よく「本番に強い」という言葉が使われる。本番に強い受験生は、過去問に多く接し、過去問のコアな部分を感じ取る感性がある受験生である。枝葉末節は大胆に捨て、幹の部分だけおさえる。社会で直前に記述式だけにこだわる勉強は、まさに社会科の心臓をわしづかみにする勉強法である。
この勉強法は、理科でも通用する。また英語の自由英作文でも、全国都道府県の模範解答を暗記すれば、英文の型を身につけることができる。
■英語・マンツーマンで英文和訳
断言する。英語は一人では這い上がれない。英語の力を入試に耐えるまで底上げするには、マンツーマンで鍛えなければならない。集団塾のワンオブゼムで伸びるわけがない。
説教口調で申し訳ないが、英語が苦手なのは「素直じゃなくて、だらしない」からである。英語は指導者の言葉を信じ、言語体系を脳に埋め込む素直な頭脳を持ち、毎日淡々と勉強時間を取らねば上達しない。英語は頭脳のキレより継続力がモノをいう科目である。
英語学習は筋トレに似ている。英語を2か月で志望校の合格レベルまで伸ばすのは、絞ればへそから白いラードが出てきそうな太った腹を、腹筋が割れた筋骨隆々とした身体に変えることである。
英語を短期間で上げるには、厳しい指導者と1対1で対峙し、「素直じゃなくて、だらしない」自分を変える覚悟がいる。私はマンツーマンで、英文読解を一文ずつ丁寧に訳させる方法を取ってきた。
この動詞は過去形か過去分詞形か、この~ingは現在分詞か動名詞か、この不定詞の用法は名詞的か形容詞的か副詞的か、この代名詞itやthemは何を指すか、このthatは関係詞か接続詞か代名詞か、細かいことを一つ一つ尋ね、理解が浅い文法事項はその都度解説する。
また、知らない単語が出てきたらすぐ意味を教えるのではなく、意味が閃くまで追い詰める。こんな相撲のぶつかり稽古みたいな逃げ場がない勉強を長時間続けてこそ、英語に開眼するのである。
私は英語がピンチか、あるいはより高いレベルまで短期で伸ばす必要性に迫られた時には、男の子は頭を坊主にさせ鍛えている。覚悟を形で示させる。受験まで1日5~6時間ぶっ続けで英文解釈。英文を一文ずつ訳させる地味な作業。頭を丸めて英文を暗唱する姿はまるで修行僧だ。
時代錯誤かもしれないが、耐えながら勉強し結果が出た時の自己肯定感は半端じゃなく、自信がなかった「僕でいいのかな」という弱気な顔つきが「俺がいなくちゃだめだ」という自信に満ちたものになる。英語力に加え人格力が加わり、打たれ強さも鍛えられる。逆境から這い上がれば、同年代の若者に比べて強く凛々しくなり、厳しく鍛えられた子は各方面で活躍している。
試験直前の逆境を利用して私は、英語力だけでなく、時代を超越した普遍的な人格力を上げようと企んでいるのである。
直前で追い上げるには、勉強中毒にならなければならない。concentrateどころではなくaddictするレベル、たとえば高校駅伝の強豪校・佐久長聖は全寮制で、漫画も携帯もテレビも禁止で、唯一の娯楽が陸上雑誌だという。陸上雑誌で全国のライバルの記録を見て、闘志を奮い立たせているのだ。記録を伸ばすことだけに集中し、邪念を振り払わないと奇跡は起こらない。
直前の追い上げで忘れてならないのは、自分だけが頑張っているわけではないということだ。良心的な塾では朝から晩まで勉強会をやり、1月2月に合宿をやる塾もある。生半可なことでは追い越せない。勉強は自分との戦いだというが、直前の3か月は他の受験生との競争になる。自分だけではなく、ライバルに勝たねばならない。
また、志望校合格が99%絶対に大丈夫と太鼓判を押されている受験生ほど焦る。もし落ちたらどうしよう、不安で一心不乱に勉強する。なぜかトップクラスの子は、直前に脅迫観念が取りつきやすいのだ。強者が焦っているのに、弱者がのんびり構えていたらダメなのである。
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最後は精神論のようになってしまったが、直前2か月で大逆転したいのなら、過去問と相談しながら、無駄な勉強はしないこと、本質を突くこと、そして勉強中毒になることである。
直前だからこそ邪道は通用しない。正攻法あるのみである。
各都道府県で差はあるが、学科試験と内申点の比率はほぼ1対1で、また内申点の内訳は各学校や先生の方針で幅があるが、平均すると定期試験の点数が6割、授業態度や提出物が4割くらいである。
ということは、授業態度や提出物などの平常点が、高校合格に必要な点数の4分の1弱を占めることになる。これは大きい。
平常点を加味した判定方法は、不公平といえば不公平である。
授業態度の良否判断は正直、学校の先生の主観が大きい。入試はスポーツのようにフェアな競争であるべきで、ここに特定個人の主観が入れば不公平だ。
学区の先生には好き嫌いの激しい人もいて、好意を持つ子には点が甘く、生意気な子には点が辛い。上沼恵美子が担当の先生だったら怖い。平常点の重視は、学校の先生が子供の生殺与奪の権を握っているみたいで、良い気はしない。
塾側の本音を言わせてもらえば、定期試験で高得点取っているのに、通知表の評価が低ければ腹が立つ。
中間期末テストでは各教科90点前後を取っているのに、学校の先生から受けが悪く、5段階で4とか3とかつけられている子がいると、どうしたものかと思う。悪い評価をした学校の先生、テストでいい点取るのに詰めが甘い生徒、うまく指導できない塾講師の自分の三方に対して腹が立つ。
また評価は秘密のベールに包まれていて、どうして中間期末試験が良いのに、通知表がパッとしないのか担任に保護者が尋ねてみても、「総合的判断」と言い訳されると二の句がつけられずお手上げなのである。
提出物を出していない、授業態度が悪いとかの理由で3とか4をつけられると、中堅校はともかく難関校合格には大きく足を引っ張られ、内申点で涙を呑むケースも多い。
内申点から平常点を抜き、いや内申点すらなくして、大学受験みたいに学科試験一本勝負にした方が基準がわかりやすく、フェアだ。
スポーツの大会で、ふだんの練習態度が悪いからと減点されることなど、ありえない。公立高校入試は、そんなあり得ない評価が横行している。
だけど、ここ10年くらいで、私の考えは大きく変わった。
私も30代までは内申点廃止派だった。内申点は、指導力が欠如した学校の先生が、子供を縛るシステムだと考えていた。
だが40歳超えてから、あることに気づいた。
内申点が良い子は、就職試験に強いのだ。
テストの点数は良くても、生意気な口をたたいたり、斜に構えていたり、発言にどこかイラっとした部分があったり、コミュ障の子は、総じて就職試験で高く評価されていない。
逆に中学時代、努力しても中間期末であまり点数が取れない。無器用だが可愛げがあり、提出物も丁寧にこなす。誰からも愛され、私から見ても「この子には絶対、世間から評価される人生を送ってほしい」と祈りたくなる子、そんな子は、通知表で本来の点数より1点2点加算され、就活では大企業の内定を稼ぎまくる。テストの点だけでない「総合的評価」が、就活に直結する。そんなケースを長年塾講師をやっていて幾度となく経験していると、内申点の奥深さを感じるのである。
内申点をないがしろにしてはならないのだ。
塾ではテストの点数だけでなく、生活態度の改善も求められている。知育だけでなく徳育の領域まで指導しなければ、偏った人間が生まれてしまう。
内申点を上げることは徳育、言葉を変えるなら「嫌な人との付き合い方」を学ぶことである。
特に提出物を出さない子は、大人をなめている。内申点では提出物が最重要視される。提出物を遅れて出し、ましてや出さないと評価は大幅に下がる。
提出物を出さない、またいい加減にこなすことは、先生に対する人格批判ととらえられても仕方がない。社会に出て上司に与えられた課題をサボれば、何らかのペナルティがあるのが必然だ。
おまけに学校の先生の中には、塾を嫌う人もいる。勉強は塾でやっているからと学校の授業の態度が悪く、学校の提出物はないがしろにする子に対しては、怨念が通知表に反映する。特に相対評価で、真面目に提出物を出す子に甘くなり、雑な子の点数が低くなるのは自然な感情である。学校の先生は、提出物を出さない子を、自分に対して誠意がないと判断するのである。この判断は正しい。
だから塾では、提出物の指導が絶対に欠かせない。提出物は指導の生命線である。
だが、十代の反抗心が強い若者にとって、内申点は邪悪なものである。
私が中学生なら、私に悪く通知表で評価した学校の先生に対して、こう強く反発する。
「どうしてアンタに俺の評価ができるのか、徳がない奴に徳育する資格があるのか。提出物なんて勉強の経過を見る代物で、テストの点数という結果だけで評価してほしい。真面目ぶって結果出さない奴より、結果出す人間の方が、実は真面目ってことじゃないか。
内申点って、弱い大人が子供を支配する凶器だ。人格的魅力で引き付けるんじゃなくて、内申点で縛りつけることしかできない馬鹿な大人たち。そんなくだらない大人から良い子扱いされると反吐が出る。
俺の実力を大学受験で見せたい。大学受験こそ、大人に媚びない実力主義のフェアな世界さ。学校教師が俺を認めないなら、凄い大学入って認めさせてやる。お前は俺を評価しなかったけど大学は俺を評価した、俺に対する低評価を後悔させてやる。ほえづらかくなよ」
若者の中には、学校の支配から卒業するのに、盗んだバイクで走り出すような馬鹿な真似はせず、狂気のように勉強して知識を身につけ、大学に入り早く自由になりたいと、大人に対する敵対心をパワーを勉強に向ける者だっているのだ。
だが、50代の中年男性の老婆心から言わせてもらえば、「知」だけで世の中を渡るのはリスクが大きい。特に成績トップクラスの公立中学生は、すごい同級生が身近にいないから、お山の大将になりがちだ。
難関中学にはとんでもない化け物がいる。漱石は「知に働けば角が立つ」と言ったが、小5で英検2級とり、あるいは中3で中国語の読み書きができる難関中学の天才に対して「知で戦えば殺される」のである。「知」による実力だけで戦うのは、あまりにも無防備だ。
「知」の実力がものをいう、お笑い芸人の世界ですら、芸の凄さに加え「好き嫌い」が人気を左右している。
内申点が良さそうな芸人の代表がサンドウィッチマンで、内申点がいかにも低そうなのが品川祐である。
品川祐は頭が切れる人で、アドリブ力がすごい。だが、話が他の芸人に対して高圧的な面があり、また嘘か本当かは知らないが、若手時代に番組のADに偉そうにしていたそうで、ADがディレクターやプロデューサーに出世した現在、「品川だけは使わない」と過去を根に持っているから仕事が来ないと、品川自身が自虐的に話していた。品川は私の好きな芸人だが、知性を露出させて損をしている。
逆にサンドウィッチマンは好感度NO1芸人で、伊達と富沢は売れてからも仲良く、敵を作らない芸風に人柄がにじみ出て、また東北被災地への援助など、いかにも「内申点が良さそうな」活動を続けている。
M-1グランプリの審査員だったサンドウィッチマンの富沢は、審査に人間味を重視していた。漫才には演者の人間性がにじみでていなければダメだと。
富沢の審査コメントには、人間性を向上させてきた、サンドウィッチマンの「したたかさ」を語っている。
富沢は高校時代内申点が良いどころか、ツッパリだった。だが30代前半まで売れなくて、その時の苦労が才気だけでは勝てない、勝つには人間性で勝負するしかないという結論に至ったのだと私は推測する。芸のキレと人間性の二刀流でないとブレイクしない。サンドウイッチマンのスタンスは、若い時から才能だけで売れた芸人とは一線を画す。
私も塾講師として、教え子の内申点が低ければ、好感度を上げれば生き方が楽になるし、同時に好感度を上げる知恵を与え、嫌な先生がいれば反抗するのではなく、逆に先生を手玉に取る「したかかさ」を身につけてほしいと考えている。
また天性の可愛げに自信がなければ、世の中を渡る武器として、律義さを定着させるのが大事だ。律儀な人間になるためには、提出物をきちんと出すこと。提出物の指導は律儀な人間を育てる第一歩である。
信長みたいなエキセントリックな人材は天性だが、家康のような律儀で堪える人材は教育の力で生み出せる。教え子を好感度が高い人材に育てたい。決して「おしゃべりクソ野郎」とは世間に呼ばせたくないのである。
好感度でワースト1位でも、圧倒的実力でお笑い界に君臨する、天才・松本人志をめざしてはならない。
親会社を持たないカープは、他球団のように資金を親会社に補填してもらえない。資金力がないため、逆指名時代は有名な新人が取れず、また現在でもFAで他球団の力のある選手が獲得できず、逆にFAで生え抜きのスター選手がライバル球団に移籍してしまう。
そんな資金力で圧倒的に不利な状態なカープがセリーグで3連覇を成し遂げたのは、無名の新人を見抜くスカウトの力と猛練習である。
スカウトは無名で、まだ身体が細いが才能が眠っている高校生や大学生を、鵜の目鷹の目で全国駆けずり回って探す。その様子がNHK「プロフェッショナル」で紹介された。噂で良い選手がいると聞くとすぐに駆け付け、プロのレベルにまで育つ才能があるか選手を観察する。そして惚れた選手に出会うと何度でも通う。スカウトに熱愛されて獲得した選手の一人に、あの黒田博樹もいる。
将来伸びる選手か見分けるポイントは、技術的な面のほかに、厳しい練習に耐える体力と精神力。また一流に育つ選手は持って生まれたオーラがあるという。黒田は大学時代から後姿がカッコ良かったらしい。
ジャニーズでも、社長のジャニー喜多川は、10代の男の子を見て、将来スターになるか判断する目を持つ。ジャニー氏は、若い男の子が持つフェロモンを的確に見抜く感性があるのだ。その感性で郷ひろみ・田原俊彦・本木雅弘・東山紀之・諸星克己・木村拓哉・亀梨和也・櫻井翔・岡田准一などスターを発掘してきた。
勉強の才能があり、将来難関大学に入りそうな子も、長年塾講師を続けた人間なら、中1段階で1週間も観察していればわかる。中学から本格的に塾通いを始める中学1年生は、中学受験経験者に比べて不器用な面はあるが、将来有望な原石が眠っている。ほんの些細なしぐさや行動で、将来をある程度予言することが可能だ。
私は講師生活30年、多くの塾生に接し、どんな子が伸びるかこの目で見てきた。まだ海のものとも山のものともわからぬ中1時代、勉強で成功してきた子がどんなサインを発していたか、どんなタイプの子が伸びてきたか紹介しよう。
■授業終了後も、納得するまで勉強続ける子
授業では解説のあとに演習、つまり生徒に問題を解かせる。答え合わせも各自で行う。演習して答え合わせをする過程で、「わかる」から「できる」段階へ知識が身体化する大事な作業だ。
そして授業後の演習、または試験直前の勉強会の終了時に、私が「今日は終わりです」と告げる。そこで「やっと終わった」とばかり、一目散にカバンに教材ノート筆記用具をしまう子は、まず成績が伸びない。
終了の合図とともに勉強を終える子は、ただ勉強を機械的にこなす「やらされる」勉強しかしていない。学力を伸ばすために勉強をしてない。ただ義務でやっているだけ。授業終了合図後の一瞬で、悲しいかな意識の低さを暴露してしまう。
逆に、きりがいいところまで終わらせ、答え合わせをしてから帰る子は十中八九伸びる。終了の合図後もキリがいいまでやり遂げる子は、「できる」レベルに達するために勉強している。勉強とは力をつけるためにやるものだという、勉強の目的を見失っていない。
この授業終了合図後のささいな一瞬で、子供の将来が読めてしまうのだ。相撲も勉強も土俵際が大事。土俵際で粘る子は関取をめざせる。
■雑談に食いつく子
落語家や講談師の本音を聞くと、やはり笑わない客は嫌いらしい。寄席常連の中年男性が、値踏みするように仏頂面で腕組みして聞く姿を高座から眺めていると、演者はかなり気になるという。時にはその客を笑わせようと勝負を仕掛けることもあるらしい。
授業もそうで、笑わない子を苦手にする塾講師は多い。私もそうで、笑わない子に対して、あれこれ思うところはある。若い先生は特に、笑わず表情が硬い子がいると、授業がうまくいかなかったと落ち込みやすい。
塾では講義にアクセントをつけ、面白い話で生きた教養を深めるため雑談をする。入試直前の切羽詰まった時期を除き、雑談のない授業はしない。まくらやくすぐりのない落語が若い人に敬遠されるように、雑談は授業を構成する大きな要素だ。
雑談といっても、本筋とは付かず離れずの雑談が多い。難関大学の入試問題を見ると、知的好奇心を試す問題がほとんどで、教科書の本筋だけ学んでいても解けない。雑談は教科書テキストの内容から脇道に逸らすのではなく、深化させるためにするのである。もちろん雑談のために読書は欠かせない。雑談は難関大学の入試に対応できる知的好奇心を鍛えるための、私なりの企みなのである。
教科書の骨に、雑談で肉付けをしなければ授業は成り立たない。根性論で骨だけ食べさせる授業は面白くも何ともない。
勉強が伸びる子は、雑談に食いつく。笑う。雑談を楽しめるのは知的好奇心が強い証拠だ。時にはチコちゃんみたいな鋭い質問も浴びせてくる。答えられない時もある。そんな時は知ったかぶりせず、「ボーっと生きてんじゃねえよ」と内心の声におびえながらネットで調べる。質問で講師を困らせるのも伸びる子の特徴だ。
伸びる子は勉強時間以外の日常生活からも、さまざまなことを吸収する。24時間アンテナを張っている。ユーミンではないが「目に映るすべてのことがメッセージ」なのである。
逆に勉強が伸びない子の中には、雑談になると興味を失う子がいる。聞くアンテナがオフオードになる子がいるのだ。お前の雑談がつまらないからだと言われたらそれまでだが、雑談中に笑わず仏頂面している子で、国公立や難関私立大学に合格した子は極めて少ない。
勉強の世界で「笑う門には福来る」は真実だ。
■説教を真正面から聞く子
1対1で説教するとき、私は子供を真正面に座らせ、病院の診察室みたいに対面する。
勉強の成績が上がる子は、説教したら背筋を伸ばして聴く。顔は紅潮し身体は硬直し、手のひらは膝の上にのせて、100%聞き逃すまいとする。私の言葉が佳境に入れば、熟した果実から果汁が滴るように、眼からは涙が流れ落ちる。
逆に伸びない子は斜に構える。体がゆがみ真正面から聞いていない。話の区切りで席を立つ素振りを見せる。被害者意識が抜けない。叱られ慣れていないか、講師と生徒の間の人間関係ができていないか、どちらかであろう。
とにかく、性格が素直かどうかは、説教という極限状態でこそ判別できる。
勉強は、真っ白なキャンパスのような心構えの子が伸びる。特に語学は「どうか僕のキャンパスに先生の好きな絵を描いてください」という、丸投げ精神が必要なのだ。
逆にキャンパスが我流の変な絵で埋め尽くされている子、反抗と懐疑と頑固で埋め尽くされている子は、人間的魅力や押しの強さはあるが、成績の伸びという観点からすれば不利である。
勉強が伸びるには、素直さが絶対条件である。
■気が弱いビビり屋
素直とは、気が弱いということである。
素直さは、子供が怖い大人から身を守る盾である。
たとえば成績を伸ばすには、宿題を必ずこなし、小テストで良い点を取り続けなければならない。日常の小さな伸びが大輪の花を咲かせる。
宿題をコンスタントに続ける動機には、「やってなければ怒られる」という理由があるのは否定できない。宿題やらなければ恐ろしい目にあう、そんな恐怖心が強いほど、勉強時間が増え学力がつく。神経が太い子よりビビリ屋の方が、コンスタントな勉強に対するインセンティブが強い。
これは、たとえば物書きが締め切りを怖がるのと同じ心理だ。物書きには締め切りに遅れたら業界に干されるのではないかという潜在的恐怖がある。締め切りに追われるうちに書く量が増え、筆力も上がる。
締め切りなんて遅れても構わない、宿題なんかやらなくてもいい、そんな図太い神経の子は豪放磊落で面白いが、成績の伸びという点に関しては後れを取らざるを得ない。
真面目で素直な子は、基本的に気が弱い。気が弱いと危機察知能力が高くなる。他人が叱られていても自分が叱られたように感じ、他人の愚かな言動を他山の石とする。どうやったら叱られないか、怒りの照準が自分に向かわないように気をつかう。官僚は勉強ができる子の集まりで、危機察知能力が高い。だから強者の意向を忖度する能力に長けている。
気が弱い素直な子は、先生に対して真面目な子を演じる。不真面目な面を見せて、ありのままの自分を覗かれるのを極度に恐れる。
だが、真面目な子を一生懸命演じることで、学力は伸びるのは事実だ。教える講師の側も、特に怖い先生と呼ばれる人は、子供が精いっぱい真面目にふるまっている健気な努力はわかっている。そこで講師は子供に同情して「もっとありのままの自分を見せてごらん」と歩み寄ってはいけない。生徒が講師の前で、いつも月の表面のように真面目な面だけを見せられる距離感が必要なのだ。
真面目な子は先生に認めてもらいたい、また見捨ててほしくないという潜在的恐怖がある。先生の側も悪に徹して、子供の恐怖心を利用し、真面目な子を演じさせ続ける。
賛否両論あろうが、怖い先生と、気が弱い真面目な子は、成績が上がる最高のコンビだ。
■数学の問題で粘る子
わからない箇所は、小まめに質問するのが一般的な勉強法だ。それについては誰も文句がない。
だが、講師とコミュニケーションを取りたいがため、また自分で解くのがめんどうくさいために質問に来る生徒もいる。自習室の質問魔は熱心に見えるが、70%くらいの子は講師依存症である。自習室は甘えん坊の巣窟になる危険がある。
伸びる才能がある子は、何とかして自力で問題を解こうとする。執念深い。
こちらから「教えようか?」と尋ねても。「いや、解けそうです」と拒否する。時間切れで解説を始めようとすると残念そうな顔をする。数学の問題に対する探究心旺盛で負けず嫌い。根底には自分なら解けるという自信がある。
もちろん手っ取り早く解答解説を読めば効率は良い。賢い子は受験が近くなれば解けない問題を無理して自力で解こうとせず、解説を読んで解き方をインプットする要領を覚える。目先の征服欲より本番で合格点取るための勉強法にシフトする。
だが初期段階では、テストの駆け引きを知るより先に、自力でガムシャラに解く姿勢を大切にしたい。集中力というより没頭力と呼んだ方が的確な力。密度の濃い長時間勉強は、没頭力があってはじめて可能なのだ。数学で粘る子は天賦の没頭力がある。
数学の難問を自力で解く姿は、厚い壁を自力で破ろうとする勇者だ。負けることもある。だが時には苦労の末に解ける。私がマルをする。巨人の原監督ならグータッチするところだが、私も生徒も顔色を変えない。だが、お互い心の中で「やりました」「よくやった」と叫んでいる。自力で解く子はこうして一皮むけ、パワーアップしていく。
■結論から先に話す子
たとえば子供に「明日の文化祭何やるの?」と尋ねる。
ここで「え〜と中森君と藤沢君が出て、未来の重田君に会いに行って、僕は小道具係で、核戦争が起きて、2年生は合唱で〜え〜と〜」と延々と話すのは失格である。
中森君とか藤沢君とか重田君は彼にとっては友達かもしれないが、私はそんな子知らない。無名の人間の話をされてもわからない。また小道具係というワードから芝居だということは理解できるが、彼から芝居という言葉は一言も発せられていない。話が冗長でストップかけないと永遠に続きそうである。
この子をこのまま放っておけば、小論文で出題者の要求にこたえる文章書かずに、ただ自分の思いをズラズラ書き殴る最低の答案を書きそうである。
「明日の文化祭何やるの?」と聞かれたら、「現在の中学生が30年後にトリップした劇をやります」と簡潔に答えるのが正しい。概要を10秒以内で簡潔にこたえられる子、結論を先に言える子は、まず間違いない。
余談だが、他人が興味ないことを延々と書いたり話したりするのは罪である。
たとえば食べログでレストランを検索していたら、レビューで文頭から「今日は仲間のキク兄とツーリング、で、途中でトシオと合流してサウナ、サウナでスッキリの後は釣り、おっきなメバルが釣れた。釣果上々! それからトシオの奥さんの誕生日プレゼントを物色。な〜ににしよっかな・・・」と個人的日記みたいなのが20行くらい続いてからやっと店の紹介。こんなのは最低だ。
食べログの読者は食レポを求めているのであって、あんたの日常生活など興味はない。自分自身のことなど他人にはどうでもいいという視点が、決定的に欠けている。
勉強ができる子は、他人に発していい情報と、どうでもいい情報が頭の中で整理できている。自分の脳内世界を簡潔に取捨選択して相手に伝えるのが知性だ。
■新聞・ニュースに関心がある子
日常の中で、小学生にとって身近な大人の文章は新聞である。新聞は小学生を読書対象にしてはいないが、子供の時に背伸びして新聞を読む経験は貴重だ。
子供は新聞を最初から最後まで読みつくすわけではない。スポーツとか大事件とか、興味がある記事しか読まない。だが興味があることなら、難しい文章で書かれていても意味が分かってしまうものなのである。新聞は中学高校に進んでから、社会科のみならず国語の力を伸ばす基礎体力をつけるアイテムである。スマホを子供に与えるなら、新聞を定期購読し居間に置いておく方がベターだと、私は信じて疑わない。私が時事関係の雑談をしたとき、反応がある子は将来有望だ。
新聞やニュースに興味がないということは、人間に興味がないということである。人間が活躍し、人間が殺し殺され、人間が抑圧され抑圧し、人間が不幸になり幸福になり、人間界の森羅万象を知らせてくれるのが新聞やニュースである。勉強で国語や社会は「人間」を学ぶ教科である。人間に興味がない子は、文科系の科目は壊滅である。
テレビニュースでドナルド・トランプの顔や演説を見て、もし何も感じなかったら悪質な不感症である。
新聞はオワコンだと言われるが、新聞を読まない子の方がオワコンである。
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以上、プロ野球のスカウト気分で、将来伸びそうな子が出すシグナルを羅列したが、運命論者のように「この子は伸びないタイプ」と決めつけるのは良くない。
いま現在では伸びる兆候は見られないけれど、子供は化ける。諦めかけた子が突然変異することは教育の場では日常茶飯事なのだ。
ただ伸びる子に共通して言えることは、愚直なことである。
カープの新井選手だって、プロ入りした時は、技術は三流、体力は超一流のウドの大木と言われた。だがまわりに愛され、愚直に猛練習したからレジェンドになった。
子供は指導者が見捨てた瞬間、成長が止まる。
そして才能の芽を見つけたら、最大限に伸ばすのが塾の役割である。
小三治の実演に接すると、難しい顔で面白いことを語り、客を爆笑させる。また話の途中、不自然なほど間をあけ、茶をすすりながら沈黙する。沈黙の間、客は小三治が次に何を話すか、固唾を飲んで待つ。観客を吸い付ける引力は比類ない。まくらで話す内容は他愛ないものでも、老成した含蓄があり、笑うと三歳児のような愛嬌がある。老成と邪気を備えた素敵なおじいさんだ。志ん朝・談志という巨星亡き後、落語界を支えてきた貫禄は比類ない。
だが、一つ引っかかることがあって、小三治が先日、朝日新聞のインタビューにこたえていたのだが、そこで「私は勉強嫌いで、学生時代にカンニングをした」と過去を語っていた。私はそれに少々違和感をもった。カンニングは他人の努力を、ただ首を動かすだけで盗み見る行為だ。私は小三治を尊敬しているが、昔のワル自慢をして読者に媚びているようで、軽く残念な気分になった。
私は塾の先生で、子供の不正が学力を高めないガン細胞だと知り抜いているから、狭量になっているのかもしれないが。
勉強ができる子はズルをしない。真正面から勉強と戦い手を抜かない。不正することなど考えも及ばない。だから社会から評価され、大人から気に入られ信頼される。まっすぐ生きていると学力は自然に上がり、性格の良さにも磨きがかかる。成績向上は人間性の向上に比例すると、私は信じている。
だが逆に、ズルをする子もいる。カンニングもひどいが、試験前の勉強で、提出物の解答を丸写しにする子を、悲しいけど時々発見するのだ。
別冊の解答を丸写しして赤マルをする。提出物の教材は不自然に全部正解。狡猾な子は難しそうな問題だけは空欄を作ったりわざと誤答をしたりで、いかにも真面目にやりましたとばかりに偽装工作する。学校の先生は気づいているのかは知らないが、「よくできました」と花マルのハンコを押している。
提出物の不正をする子は、解答写しが常態化している。試験勉強は解答写すだけだから試験勉強は速攻で終わり、試験期間中もテレビやゲームで過ごす。試験期間は余暇になる。
保護者の方も、子供が試験期間中に余裕かまして遊んでいたら、ズルをしていると疑った方がいい。学校の定期試験の提出物は真面目にやっていたら結構時間がかかるものであり、また提出物をこなしてきちんと暗記していたら一定以上の点数は取れるものであり、試験期間中暇そうで、しかもテストの点数が低い子は、高い確率で提出物を写している。
だが、家庭では親は注意できない。親子関係にひびが入る。一世一代の勇気を出して子供に「試験勉強真面目にしてるの? 宿題の答え写してるんじゃないよ?」と問ったとしても、「そんなことしねえよ」で会話は終わる。また写そうが写すまいが俺の勝手だろうと逆ギレされる可能性もある。
塾では私が監視の目を光らせているから、提出物丸写しの子はいないと言いたいところだが、まれに塾の新入生で提出物を写す子を見かける。
私の対処法は何か?
現行犯で発見するか、証拠を積み上げ自白させることである。
人情家の塾講師ではなく、冷徹な東京地検特捜部の気構えで、悪事を暴きたてる。
たとえば。
試験前の勉強会、塾生は提出物を丁寧にこなしている。だが、提出物を丸写ししている子がいると察したら、しばらく放置して泳がす。私が見ている時は写さないが、目を離したら安心して写し始める。私はわざと長時間教室を離れる。その間は写し放題だ。
しばらくして私が教室に入ったら、教材を隠す不自然な行為をする。やってた教材をカバンにしまうか、右腕で抱え込む。裏と表を使い分けているのは行動で明白。だが、それでは証拠が弱い。状況証拠は揃っているが、決定的な証拠が欲しい。
ああ、私はこれから、証拠を積み上げ、この子を激しく怒らねばならない。胸が昂ぶり心拍数が上がる。私の葛藤を全く察知しないで、提出物写しの容疑がある子は、真面目な子の仮面をかぶり、無邪気に勉強している。
これから悲劇を迎える子供の顔が、映画『太陽がいっぱい』のラストシーンのアラン・ドロンのように見える。
行動開始。
私は数学の提出物を「ちょっと貸して」と取り上げる。私はこの子の学力を把握している。どの問題でつまずくかは察知できる。だが、見るとすべてが正解の赤マル。すべて正解のはずは絶対にない。
おまけに途中の計算式は書いていない。「クロ」と判断した私は提出物をコピーし、修正液で解答の部分を丁寧に消す。部屋に修正液のシンナーのにおいが漂う。提出物を取り上げられた子供は、私の一連の行動を緊張して見守る。もうこの時点で「ばれたか」と観念しているだろう。
修正液を乾かしたB5判のコピーを、もう一度コピーする。提出物は問題だけ残して、解答はきれいに白紙になっている。
「もう一回、これ解いてみて」
私は堺雅人のような笑顔で言う。子供の顔は引きつる。だが解き始める。私は横に椅子を置き、じっと眺めている。提出物のコピーに計算式を書く。前半の簡単な問題は正解する。難問に差し掛かる。手が止まる。全身がフリーズする。
私は搦手からたずねる。「最初にやった提出物、どうして計算式書かなかったの? どうして解答しか書かないの?」
生徒はつばを飲み込み「計算は別の紙に書いています」と、どもりつつこたえる。ポリグラフなしでも、動揺しているのが肉眼でわかる。
私はさらに、真面目な子の仮面を、生皮を剥ぐようにビリビリ引きちぎる。
「じゃあ計算やった紙見せて」
「いま、ありません・・・」
「でもこの提出物、30分前にやってたでしょ? 提出物やったあと、君は教室の外に出てないよね? カバンの中にあるの?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、ゴミ箱にあるはずだ」
私は部屋のゴミ箱の中身を床にぶちまける。中身はティッシュと紙くずとジュースのペットボトル。
「計算用紙、ないなあ」
ティッシュと紙くずを1枚1枚丹念に調べ上げる。教室で勉強している他の子は黙っているが、私が濡れてカピカピになったティッシュを広げる「狂気」の行為に、固唾を飲んでいるのがわかる。
「計算用紙、いくら探してもないぞ。もう一つ質問していいかな? どうして自分一人でやるときには別の紙に計算して、俺の前では直接プリントに計算するわけ?」
「・・・」
「なあ、答え見て写しただろ?」
「・・・」
「正直に言いなさい。証拠はそろっているよ」
「う、うつしました」
外堀を完全に埋められ、生徒は自白する。その目は遠山金四郎の桜吹雪が目に飛び込んだ罪人のように見開き、身体は感電したように凍り付いている。
私は追い打ちをかけ、雷を落とす・・・
不正を暴くためのショック療法だが、効果は強い。
子供というものは、間違った道に走りやすい。放任して自然に治る間違いもあるが、大人が厳しく断ち切らねば矯正できない間違いもある。カンニングとか提出物写しは後者だと私は判断した。不正を見かけた大人が責任を放棄し、自然に治るだろう、誰か他の大人が注意してくれるだろうとスルーするのは許されないことで、誰かが嫌われ役に徹して、不正の芽を根こそぎ引き抜く必要がある。警察まがいのやり方は良策でないかもしれないが、私は無策より愚策を選ぶ。
カンニングや提出物を写す子は、周囲の大人の期待が高く、いい子の仮面をかぶらねば評価されない不安を抱えている子が多い。
大人が子供のあるべき姿、理想の姿を規定し、子供に私の理想まで駆け上がってきなさいと、心理的プレッシャーをかける。子供は大人の理想ラインに達するには、実力不足だと感じている。現実の実力と理想の実力を埋めるには、不正しか方法がないのである。結果を重視するあまり経過を評価しない大人の態度が、子供を不正に駆り立てるのだ。
柳家小三治もお父さんが厳格な小学校の校長で、小三治は5人の子供の中で唯一の男の子、100点満点で95点取っても叱られたらしい。その反発で勉強嫌いになりドロップアウトし落語家になったといわれる。カンニングは厳格な父親に認知されたい気持ち、それに恐怖と反発が混ざったからやったのだろう。
不正を見破る電撃的ショック療法のあとは、フォローがいる。塾は北町奉行所や東京地検ではない。教育機関だ。フォローがなければ、不正はさらに巧妙になり、マフィアのように地下化する。
悪事が見つかった子に対しては、結果で評価しない、経過をほめる。不自然にマルが揃ったイミテーションの提出物より、間違いだらけで赤の書き込みが多いノートを評価する。間違いは宝だと美意識を変える。提出物は全部間違ってもいいからガチンコでやれと、思考の転換を促す。無骨でも不正をせずにまっすぐ取り組んでいたら、芝居かかったくらい称賛する。結果より経過が大事だと「洗脳」するのだ。
子供の側にしても、以前のような身の丈に合わない理想に届かないと評価されない飢餓感とは決別でき、少しの努力で評価されるのだから気を良くする。表情が明るくなる。地道な経過の積み重ねで、大きな結果を手に入れる道筋が立てられるのだ。
さらに言うと、不正をする子は潜在的にプライドが高い。現在に自分に満足しないから、理想の自分を追い求める。プライドがなければ不正はしない。提出物なんて空白のまま出す。歪んだプライドを正しい向上心へと、ベクトルを変えてあげなければならない。
私も実は、小学生の時に不正を行った経験がある。
小4の時、そろばん教室での出来事だ。
初老の女性のそろばんの先生が、「1ばっかりの競争」という競技を教室の生徒にやらせた。1分間の制限時間に。そろばんで1をどんどん足していき、数を競うのだ。数は自己申告。子供の競争心を煽る競技だった。負けられなかった。
スタートの声とともに、親指で1を積み上げていく。集中力はマックスに達する。1分後「やめ」の合図があった。私が積み上げた数は375。これでは1番になれないかもしれない。そこで魔が差した。私の親指は百の位に1を加えた。475。
375を475に増やした。明らかな不正だ。
しかしその瞬間を、そろばんの先生に見られていた。
先生は一言「そんなことしちゃあだめ」。
神に誓って言うが私は過去に不正はしていない。たった一度の不正を先生に見咎められた。皆既日食のような奇跡だ。私が不正を叱った生徒の場合は証拠を積み上げ追い詰めたが、私の場合は完全に現行犯だった。犯罪なら令状なしで逮捕のケースだ。
先生はそれから私に、不正については何も言わなかった。不正する前と同じように接してくれた。この事件で、私には不正は誰かが見ているという畏怖が植え付けられた。
先生はまだご存命で、うちの近所に住んでいらっしゃるが、お会いしても顔をそむけてしまう。私が不正をした過去を知っている唯一の人、何だか私の本質を見透かされているようで怖いのだ。
私も小三治師匠と同じように、過去の不正を告白してしまった。小三治師匠を非難できない。
繰り返すが、不正は成績向上の足枷であり、また今後の人生や生活、あらゆることに波及する。
成功体験はのちの人生に影響する。中学高校で不正を大人が見過ごしていたら、不正が成功体験になり、いずれは人生に影を落とす出来事に遭遇するだろう。
逆にコツコツと努力を積み上げ結果で得た成功体験は快感だし自信がつく。
不正を見つけたら電撃的に断ち切るべきだ。
うちの塾では、中学校の定期試験前、勉強会をやる。
勉強会といえばソフトな語感で聞こえはいいが、要するに塾にカンヅメでハードな試験勉強。試験前、週5回は塾に来てもらい、土日は1日8時間ほど「監禁」する。
というのも、中学校の提出物は膨大で、締め切りに間に合わなかったり、字が雑だったりしたら内申点に響き、また正しいやり方で勉強しないとテストの点数が取れないからだ。また家はテレビやゲームなど誘惑が多く、幼い兄弟の相手で集中力が続かない子もいる。私の目の前で提出物をこなしてもらわないと、安心できないのだ。
試験前の勉強会は、生徒同士の切磋琢磨の場である。
保護者の方はよく「子供が勉強のやり方がわからないと言っています」という。だけど中学校では勉強は教えるが、勉強のやり方を教えないから、勉強法がわからなくて当然なのだ。中学校では試験前にはテストの範囲を書いたプリントを配るだけで、試験勉強は子供の自主性に任せている学校が多い。プリントには「しっかり復習しよう」「1日4時間は勉強しよう」と抽象的スローガンは書かれているが、具体的指示は少ない。「勉強のやり方」が我流に放任されている。
たとえば部活では、子供たちは顧問の先生の前で練習し、顧問の先生が具体的指示を出す。練習を生徒に任せっぱなしの部活では強くならない。
だから塾で、定期試験前に塾でカンヅメにして、私の目の前で勉強させ、やり方を懇切丁寧に教えなければならないのだ。
しかし、4~5年前、ある中学1年生の子のお母さんから、1学期の中間試験前に、「試験前に塾に来なければならないのでしょうか? 家で勉強させたいのですが」という軽いクレームがあった。
塾でのカンヅメ=強制というイメージがあったのかどうか、もっと自由でのびのびさせたい、ということなのだろうか?
私は反論した。定期試験勉強は塾でやって下さいと。中1、しかも勉強方法が定まらない最初の中間テスト前に家で勝手に勉強させるのは極めて危険である。
まず中1は「試験前には勉強する」という習慣がない。小学生で学校のテスト前に勉強した経験がある子は少ない。
中1には、テスト前にはテスト勉強するという、当然のことから教えなければならない。塾に通ってない子の中には、悪気なく無勉強で試験を受けてしまう子も多いのだ。
「試験前には試験勉強する」という初歩の初歩から塾では教えなければならない。
さて勉強会で、中1・1学期中間試験前、塾で子供に試験勉強をさせてみる。つい数か月前まで小学生だった子は、理にかなわないおかしな勉強法をする。今からいくつか紹介しよう。
■教科書丸写し
間違った勉強で最も多いのが、教科書丸写しである。
試験勉強しなさいと曖昧に指示すると、半分くらいの子は、坊さんの写経みたいに教科書を丸写ししている。女の子はきれいに色ペンを使い分けて丁寧に写す。こんなのは勉強ではなくデザイナーの仕事である。
教科書丸写しは小学生時代の悪癖だ。典型的な例が漢字練習で、書いて書いて書きまくることが勉強法だと信じて疑わないし、また先生もそれを推奨してきた。教科書をただ写す手作業を勉強と勘違いする土壌は、小学校の漢字練習にある。
「きれいな丁寧な字を何度も書く=先生にほめられる」という小学校時代の成功体験が中学生を束縛するから、ただ書くだけ写すだけの悪癖を踏襲してしまう。だから私が「教科書丸写しはやめなさい」と指示すると、いままでほめられてきた勉強が否定され、子供は意外そうな顔をするのだ。
特に勉強が苦手な子は頭を使う勉強を嫌う。頭を使うより手を使う単純作業に逃げる。
驚いたのは、ただの教科書写しではなく、数学の問題文を丸写しした子がいたことだ。
数学の教科書に書いてある、「A,B,C,Dの4人でゲームをしたら、4人の得点の合計は5点であった。Aが11点で、B,C,Dの得点が同じであった。Bの得点を求めよ。」という問題文をノートに写している。しかも何度も。これには驚愕した。
問題文を丸写しとは、なんという非生産的な時間だろうか。奴隷のように退屈な時間だと思うのだが、それを本人の意志でやっている。丸写ししている時、生徒の頭は完全に思考停止している。
で、この勉強法をしていたのは、皮肉にも「家で勉強させたいのですが」と言ってきた保護者の子供だったのである。
■詰め込み暗記ができない
詰め込み教育は批判されるが、実は、小学校では用語を詰め込む経験は少ない。暗記に力を入れている小学校は意外に少数派だ。小学校では読んだり書いたりして、自然に記憶させる方法をとっている。小学校の授業で暗記特訓する光景はあまり想像できない。
根を詰めて暗記する経験が少ないのは、勉強が苦手な子だけではない。難関中学を受験する学力の高い子もそうだ。彼らは小学校の知識くらい、気合を入れなくても自然に記憶できる。
だが、中学生以上になると、暗記には一種の気合根性がいる。中学高校と進むにつれ、暗記する単語用語が増えるが、記憶力は落ちる。どんな記憶力のいい子でも、自然に記憶できるわけではなくなる。
暗記には気合といえば大げさだが、「さあ覚えるぞ」という念力のようなものがいるのだ。暗記は自然にできるものではない。暗記する意識が必要だ。中学校になりたての子にはそれがわからない。
中1生の大部分は、詰め込み暗記未経験者なのだ。
だからこそ、試験勉強中にわれわれ塾講師が、英単語や歴史用語や世界の国名などの暗記テストを頻繁行うことによって、書くだけじゃ意味ないよ、暗記するには一種の気合がいるものだよと尻を押し、さらに暗記するコツを教えることで、「詰め込み初体験」をつつがなく通過させねばならないのである。
■雑すぎる計算
中学になりたての子は勉強法が雑である。勉強法を習得させるのは、子供の粗忽さとの戦いだ。
英語はピリオドを抜かす、文頭を大文字で書かない、複数形と三単現のsを抜かす、homeworkをhome workと分けて書く、次から次へと現れるミスを指摘し、根気良く直す作業が必要である。
中学生の粗忽さは、とくに数学の計算で顕著だ。まず計算が汚い。板書は濃い楷書体で写すのに、計算だけ薄い草書体。筆算の桁が揃ってなくて、サイケデリックなアートのように歪んでいる。
また、計算が苦手な子は、まわりくどい非効率的な計算をする。たとえば、山手線で2分しかかからない東京から有楽町へ行くのに、秋葉原・上野・池袋・新宿・渋谷・品川と遠回りする非効率な計算をする。
山手線だったら内回り外回り乗り間違えても目的地に着くが、他の鉄道だったらそうはいかない。東京駅で東海道新幹線と東北新幹線乗り間違えたら、博多に行くつもりが新函館北斗に飛ばされてしまう。
下の計算は、中学生が間違う典型的な例だ。
左のように、無理して暗算でやるからミスしてしまう。だが、右のように分母を添えるとミスの確率は格段に下がる。計算が苦手な子ほど途中の式を省き頭の中でやる。無理な暗算は暗愚への道だ。
また分母を添えろと指示した瞬間は書く。だが目を離すと暗算に戻り再びミスをする。
小姑のように口うるさく、粘り強く執念深く指摘し続けなければ治らない。塾講師はミスを減らすため、嫌われ者に徹すべき場面である。
■小学校内容が根本的にわかっていない
だが、これくらいのミスなら傷は浅い。根気よく矯正すれば治る。
だが、こういうミスはどうだろうか?
まるっきり分数のたし算をわかっていない。ケアレスミスの範疇を超えている。傷が深い。分数を根本からわかっていない。口の悪い指導者だったら「小学生の時、何をしていたんだ」と悪態の一つもつきたくなる。
こういう致命的な間違いを見つけた場合、一刻も早く小学校の内容を復習する必要がある。これは絶対に自学自習では不可能だ。プロの診断とサポートが必要な局面だ。
余談だが、公文が強いのは、学力別プリントを与えることで復習が可能なことである。子供の学力にあった勉強ができる。学力と一致しない勉強は、サイズの違う靴を履いているみたいで違和感がある。公文の長所は、復習をシステム化しているところだ。
ただ一つ問題なのは、理解力が足りない子は、もう一度機械的に反復しても理解するとは限らない、ということだ。
たとえば、中1が小5の分数の約分ができない時、復習しても理解できない子がいるのも事実である。小5から中1に身体的に成長したからといって、頭脳的に成長したとは限らない。こんな時こそ、理解させるのに講師のワザがいる。正攻法でダメなら別のやり方を試す。試行錯誤は一対一の師弟関係だからできる。教育がAI化、システム化できず、人肌のぬくもりが最終手段にならざるをえないのは、この辺に理由があるのだ。
■答え合わせが甘い
学校の提出物は、答え合わせし、間違えた箇所を暗記して本番に備えるのが勉強方法の鉄則である。
だが勉強に慣れない中1は、答え合わせをしても正解を機械的に赤で書き込むだけで、そもそも答え合わせをしない子もいる。これでは勉強しない方が良い。
間違えた問題は「宝物」であり、間違いをブラックリスト化し、リストを粛々と記憶に残す作業が試験勉強だ。間違った場所を深刻に受け止め、2度と同じ間違いを犯さないよう緊張感を自分に課し続けることで、高得点への道は開ける。完璧主義でかつ悲観主義、間違いに神経質になる子ほど成績は高い。
勉強は常に、試験本番を想定したものでなければならない。本番でミスしないための試験勉強だ。だが、中1になりたての子は、中間期末試験の経験がないため、本番の試験の感触がわからない。だから試験勉強にも甘さが出る。本番で痛い目に合ってはじめて、浅い勉強では点が取れないことに気づくのだ。
だが塾側としては1学期中間試験でよいスタートダッシュを切らせたい。失敗してから学べと悠長なことは言えない。だから最初から口うるさくなる。
対策方法として、過保護かもしれないが、勉強方法の下手な子は、最初は講師が手取り足取りで答え合わせをする必要がある。いちいち間違った問題を暗記させてテストをする。自力でできるまで他力で勉強パターンを、まずは二人三脚で覚えてもらうのだ。この過程が自分一人でできるまで執拗に手ほどきをする。
答え合わせに関して困ったことが一つあって、それは、生徒に解答を渡さない学校の先生がいることだ。おそらく子供が安易に解答を見て、中には解答を丸写しする子がいるから防止策というのはわかるのだが、解答がないのに勉強しても仕方ないと思う。
真剣に勉強する子、知的好奇心が高い子は、解答を直ちに見て正解かどうか確かめたい欲求が強い。テレビのクイズ番組で、司会者が解答を教えてくれないまま番組終了したら視聴者はフラストレーションをためるだろう。解答を渡さない先生は、子供の健全な好奇心に蓋をし、答え合わせをせず勉強をやりっ放しにする悪癖を助長している。
■過剰すぎる徹底反復
勉強が苦手な子は、簡単な問題を過度に反復する悪癖がある。わかりきった計算問題を十数回も繰り返す。極端な話、1+1ばかり繰り返しても力はつかない。
ピーマンやニンジンが嫌いな子供が手を付けないように、難しい問題を避ける。頭を使う局面を極力逃げる。
陰山英男氏が提唱する徹底反復は大事である。子供が勉強を理解できないのは反復が足りないから、繰り返せば無意識に問題が解けるレベルまで達するという考え方は正しい。
だが、ものには限度がある。
中学校の定期試験の数学の比率を、訓練で解ける基礎的な問題が60%、文章題など応用問題が40%としよう。ということは、基礎的な問題ばかり反復していてもMAX6割しか取れない。100点満点のテストなのに、60点しか狙わないことになる。
ここでまた余談だが、公文の怖さは徹底反復にある。計算を反復し計算が得意になり、学年レベルを超え、中1なのに高校レベルに達する子もいる。本人も周囲も、
だが、それで数学ができると勘違いしてしまいがちなのだ。で、中3の入試前に過去問を解いて、応用問題ができない事態に遭遇する。
高校の微分積分の計算だけなら、中1でもコツを教えれば解ける。だが生徒を不合格にしようと悪意を秘めた入試問題は、計算技術だけ発達した子には解けない。図形や関数や方程式や場合の数は別の種類の「頭の良さ」がなければ解けない。計算力とは別次元の力なのだ。高校レベルの計算ができるから数学ができると勘違いし、対策が遅れるがちになるのが公文の欠点である。
■勉強のやり方をすぐに忘れる
さあ、勉強会で過保護のように勉強のやり方を直す。うまくいった。だが、しばらく放っておくと、目を離したすきに勉強のやり方が元に戻っているのである。教科書写し、雑な計算、とっくに理解している問題の機械的反復、せっかく教えた勉強法が身につかず、元に戻っている
そういう時には、さらに繰り返し教えなければならない。何度も繰り返すうちに語気は強くなる。声を荒げることもある。忘れやすい子には忍耐力も必要だが、強い言葉で刺激を与えることも必要なのである。
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以上、中1のおかしな勉強法を紹介した。中1になりたての試験勉強会がどれだけ大切で大変かおわかりいただけたかと思う。
ただ、読んだ方は一つの疑問があるだろう。なぜ、最初に正しい勉強法を指示しないのか、指示しておけば、おかしな勉強法をすることもないのではないかと。
だが、正しい勉強法のルールは数百以上あるし、最初にズラズラ紹介しても六法全書を記憶させられるみたいで、かえって子供は大混乱する。
また子供は、塾講師歴30年の私でも想定外な間違いを犯す。
だから、俳優の演技にダメ出しする映画監督のように、子供の勉強方法をいちいち「違うだろ」と否定する方法をとるのが最善の方法である。教える側、教えられる側、双方に根気がいる作業である。
勉強法は、野球でいえばピッチャーやバッターのフォームに似ている。良いフォームだとキレのある球が投げられ、鋭い打球が飛ぶ。コーチの仕事は選手のフォームの矯正にかかっていると言っていい。
だが最後までフォームの矯正ができず、プロ野球を去る選手はあとをたたない。同じように正しい勉強法を知らずに勉強の道からドロップアウトする子は多い。勉強法の習得は、子供が最初に手をつけねばならないことである、
勉強法とは型を作ること、一種の芸事である。芸事は執拗でないと上達しない。
試験前の勉強会こそ、「勉強のやり方がわからない」子供を救う絶好の場なのである。
貴乃花親方の日馬富士暴行事件での度を越えた協会への反抗は、八百長を弟子の貴ノ岩に強要したモンゴル人力士たちへの怒りがあるという。
私にはその真偽はわからないが、もし八百長があるとするなら、ガチンコ力士が八百長力士に対して強い憤りを持っている感情は十分理解できる。自分は本気でやってるのに、ズルして勝ち星をカネで買う行為は許しがたいし、また集団で隠蔽された時の胸の苛立ちはいかばかりか。
中学生を教える塾にも「八百長」をやっている塾がある。中学校の定期試験の過去問を集め、生徒にやらせている塾である。
学校の先生の中には、定期試験を使い回ししている人が案外多い。過去問をやらせる塾はそこを狙う。特に国語のテストは先生ごとにクセがあるため、当たった時は大きなアドバンテージになる。
塾の中には各中学校の先生の転勤先まで調べ、前任校のテストまで収集するCIAみたいな行為までやっている。
また「80点成績保障! 達成できなければ授業料返金します」という広告を見かけるが、こういう塾は何が何でも基準点をクリアしないと収入減になるため、手当たり次第過去問を集め生徒にやらせる。もし効果があれば見せかけの達成感に保護者も生徒も騙される。
中学校の定期試験の点数は内申点に直結する。こういう不正が内申点という公的文書に反映されていいものだろうか。真面目にガチンコで定期試験を受けた子と差がつくのは不公平ではあるまいか。
塾が中学校定期試験の過去問やらせば、塾に通わない子はどうなるのか。過去問やらせる塾の生徒の中には「俺、塾で配られた3年分の過去問持ってるぜ。欲しいだろ〜」と見せびらかす悪質な子が出てくるかもしれない。過去問対策は悪差別を助長し、ただでさえ「カネ払って勉強教えるところ」と揶揄される塾業界への世間の目は冷たくなる。
塾には「情報収集力」があるというが、中学校の過去問を収集する行為に情報収集力というカッコいい言葉は使えない。単なる不正行為である。
中学生が真面目に試験に挑んでいるのに、一方では定期試験過去問丸暗記という塾主導のカンニング的行為がなされるのは絶対におかしい。
貴乃花親方は現役時代からガチンコで八百長に一切手を染めなかったというが、他の八百長力士に対して激怒しただろう。あのかたくな仏頂面が示している。ガチンコで定期試験頑張る中学生も、過去問に手を染めない塾の先生も、貴乃花と同じ怒りを抱いている。
中学校定期試験の過去問をやらせる行為はドーピングである。生徒の「真の学力」を破壊する。
中学の定期試験過去問に頼った勉強法では、高校では通用しない。定期試験過去問で内申点を嵩上げして高校に合格できたとしても、十中八九落ちこぼれる。モヤシが成長しないのと同じ。
だが困ったことに、親や本人は高校で成績が下がった責任を高校や高校の塾の先生に押し付ける。「中学の塾の先生は面倒見が良かった」と。成績落下の悪の張本人は中学の塾の先生なのに。過去問で積み上げた「フェイク学力:」は剥げる運命にある。
中学校で過去問をやらせる塾に通った子の、高校でのカルチャーショックは極めて大きい。
まず定期試験丸暗記させるような塾は高校であまり存在しないから、中学の時ほど定期試験の点数が取れない。「何かおかしいぞ」と疑問に思う。
絶望的なのは模試だ。模擬試験はテスト中に考えねばならない。模試は暗記したことがそのまま出題されるわけではない。頭を使う。考えることなく、ただ記憶したことを神に写す中学校の定期試験とはまるっきり違う。
模試ができなければ当然入試問題もできない。中学校過去問に頼る塾は、生徒から思考力の足腰を根こそぎ奪っているのだ。
中学校定期試験過去問を丸暗記することは、ドラえもんのアンキパンと同じ、一瞬にして外に出てしまう。蓄積しないし応用はきかない。生徒の将来を見据える指導者なら、中学校定期試験過去問は強く拒絶する。目先の点で生徒の将来を奪いたくないから。
まともな親、真の学力を子どもに授けたいと考える親は、中学校の定期試験の過去問をやらせるような「せこい塾」に通わせたりしない。取り繕ったフェイク学力が、高校で大学で社会で役に立たぬことは百も承知だからだ。
そして過去問をやらせる講師は、指導力不足を卑怯な手で取り繕おうとしている。私塾を作るなら、中学の定期試験過去問なんてセコい下請け根性丸出しのことやってないで、もっとオリジナルの教養蓄積に役に立つ楽しいことがあるでしょ?と思う。
過去問やらせる塾は零細塾が多い。目先の成績上げねば飯が食えない。ちっぽけな金銭欲のために安易に過去問に手を出し子どもの将来をスポイルしてると言われても仕方がない。
真面目な塾は、中学校定期試験の過去問をやらせるような八百長でフェイク学力を伸ばしたりしない。ガチンコで試験に臨む。ただ、ガチンコでやると決めたからには、八百長な他塾より濃い稽古がいる。ズルをする人間には負けられないのだ。
生涯八百長しなかった貴乃花のような、愚直で真直ぐなやり方でいきたい。
]]>塾の自習室で中学校の定期試験対策を生徒の好きなようにやらせると、教科書丸写しとか小学生のような漢字練習とか、手を使うが頭を使わない勉強をしている。こんな勉強は知的作業でなく肉体労働である。ゲームでは頭を使うのに、勉強では頭を使わない。
「基礎は大事だ」と誰もが言う。だが「基礎」という言葉を勘違いして解釈している子が多い。丸暗記で得た基礎は応用力がきかない。スパルタ塾で長時間拘束して詰め込んでも入試に対応できない。応用問題が解けてはじめて、勉強は完成するのである。基礎が肉体労働のまま終わってしまえば勉強の意味がない。
例を挙げよう。
英語の第5文型の典型的な文が
Tom made her happy. (トムは彼女を幸せにした)
である。第5文型は中学生が苦手なところで、ふだんhappyという形容詞ははbe動詞のあとにあったり、a happy boy みたいに名詞を前から修飾したりするのに、第5文型では文の最後に取ってつけたように置かれている。中学生には違和感しかない。例文暗記や簡単なドリルを繰り返せば、付け焼き刃的に例文は一応記憶できる。学校の定期試験にはこのレベルでも通用する。
だが、入試問題はそんなに甘くはない。
たとえば、次の文章の意味を中学生はなかなか理解してくれない。
Helping the old woman made both Yuta and the old woman happy.
目的語のher がboth Yuta and the old woman と長いから難解な文章になってしまうのだが、この文章、Tom made her happy.をただ丸暗記するだけの、頭を使わない勉強に固執してたら手が出ない。
Tom made her happy.のような短い文でも違和感があったhappyが、長い文の最後に置かれることで、さらに取ってつけた感が増している。整序問題で出されると解けないだろう。
だが、応用問題を意識して解き続けることで、迷うことなくhappyを最後に置く力がつく。真の基礎力は応用問題を解かないと定着しない。基礎と応用を繰り返してこそ、確信ある基礎力がつくのである。
繰り返すが、基礎ばかりでは伸びない。
塾でも昔ながらの中学生を長時間監禁し、気合と根性を唱え、中学校の定期試験の過去問を丸暗記させる、先生というより鬼軍曹と呼んだ方がいい講師が教えている塾は時代の遺物になりつつある。講師の力量のなさを生徒の根性で補い、基礎をタラタラ反復させ知的刺激のない塾では、たとえ高校受験は乗り切れたとしても、大学受験には勝てないのだ。
逆に応用ばかりやるのはさらに悪い。大学教授のような数学の眠い難解な授業は、トップクラスの生徒には一定の支持があるかもしれないが、大部分の生徒には何の利益もない。知的刺激の恩恵は一部の生徒しか享受できない。基礎だけ繰り返すよりたちが悪い。基礎と応用の繰り返しを教える側も教わる側も意識しなければならないのである。
落合博満が言ってたが、ふだんの素振りやバッティング練習で打撃フォームを固めていれば、試合で投手が投げる百戦錬磨の投球に、少々フォームが崩れても対応できるのだという。
勉強も基礎でフォームを固め、どんどん実戦を繰り返し確信ある基礎力が身に付いたか試す工程が必要なのだ。
変な比喩で恐縮だが、勉強ができるということは、空を飛ぶということだ。
基礎で地べたを這っているだけではいけない、鳥や飛行機のように空を飛ぶ応用力があってこそ入試問題が解ける。
だが、空を飛ぶには才能が必要なのも事実だ。誰もが空を軽快に飛べるわけではない。だが教える側も教わる側も、いつかは基礎力で助走をつけて飛ばねばならないということを意識しておきたい。意識一つで、ルーティンワークのような退屈な勉強から卒業できる。
]]>
「アメリカ南部の農業は何ですか?」「綿花です」「ピンポーン、合格です」の時代ではないのだ。
大事なのは用語丸暗記ではなく、用語の背景にあるストーリーを把握することだ。松本清張ではないが「点」でなく「線」で学ぶ。蜘蛛の巣のように知識と知識を結ぶイメージを頭に張り巡らせているかで学力が判断される。
中学校の定期試験なら「アメリカ南部の農業は何?」「綿花」でよい成績が取れる。定期試験は暗記努力がそのまま身になるテストだ。
だが、生徒を落とす目的で作られた入試問題はそんなわけにはいかない。
見逃されがちな点であるが、最低減の知識として「綿花」が何に使われるか知っておかねばならない。今の子は日常生活と学校で習うことが結びつかない。数学の証明問題のように、綿花という言葉の「定義」は最低限おさえておかねばならない。
綿花がシャツやパンツや靴下の原料であり、おそらく自分の体の90%が綿花で包まれていることを意外に知らない子が多いのだ。綿花はともかく生糸や羊毛に至ればさらに知らない。羊毛がセーターの材料なのは直感的にわかるとして、背広が羊毛で作られていることを知っている中学生は少数ではないか?
綿花が生糸や羊毛に比べどれだけ生活必需品としての価値が高いか。綿花は安価で水で選択しても傷まない。いまでも洗濯機に無神経に入れておけば勝手に洗ってくれる。クリーニングに神経質な生糸や羊毛と比べどんなに便利か。汗の吸収性もいいし、そこに綿花が普及した理由がある。
また日本では江戸時代に綿花生産に干鰯(干したイワシ)を使っていた。アメリカでは鶏糞を使う場合が多いが、綿花は干鰯と相性が良い。綿花という一つのキーワードでも、地理から歴史へつながるのである。
もっと言うなら金属の「すず」なんか、どういう用途で使われているか、日常のどこに存在するのか、社会の先生はですら知らない人は意外と多いのではないだろうか?
そんなこんなで、綿花とは何かときちんと定義したうえで、綿花はどんな地域で栽培されているか、栽培の気候条件は何か、綿花を材料とする綿製品の生産が盛んな国はどこか、綿花について日常生活と絡めながら、「点」の知識が「線」につなげるのが、本来の社会の勉強である。
社会で直前に追い上げようと思って一問一答の問題集を暗記するが、なかなか入試問題の過去問の点に結びつかないのは、入試問題が「点」より「線」を問うているからである。
かつて、流れを説明する「線」を問う問題は、難関中学の入試問題、とくに麻布や武蔵あたりの専売特許だったが、現在では公立高校の入試にまでトレンドが及んできている。
一問一答の問題はコンピューターでも作れる。しかし思考力を試す問題は、選ばれた先生が頭をひねって考え出した作品である。その作品に太刀打ちするのに「社会は直前で間に合う」という態度がいかに怖いか認識してほしい。
ではなぜ社会の入試問題が「点」から「線」へ変質をとげたのか?
高校側が暗記力自慢の子が必要ないと判断したのは大きい。中学時代に意味も分からず用語だけ詰め込んで入学した子は高い確率で大学受験失敗するので、思考力がある子を取りたい思惑が見える。
大学側も塾予備校で詰め込んだブロイラーはいらないと、思考力が欠如した悪貨を駆逐したい、そしてそんな要望は国家政策にまで波及し、マークシートのセンター試験が改革されるに至った。
だが「点」から「線」に変化した一番大きいのは「点」しか詰め込んでいない人材が、社会の邪魔者になるということである。
たとえば、営業は買いたくない相手を説得する仕事である。説得するには「ストーリー」が必要だ。「わが社の新製品は最新鋭の××プロセッサーを使っています」と固有名詞告げただけで相手の購買欲はピクリとも動かない。「点」で人の心は動かない。既存の製品とどう違うか、顧客にとってどう役に立つか、ストーリーを語ることで商談が成り立つ。中高生のうちから事象に対してストーリーを語る思考力をつけることが、社会人としての訓練につながるのである。
社会という教科は「社会」という名前であるから、日常社会と乖離してはならない。小中高生のうちから用語暗記中心の日常生活と隔たれた勉強は社会ではない。社会科は社会であり、社会人としての礎を築く教科である。
とにかく「アメリカ南部の農業は何か?」「綿花です」という無口な態度ではだめで、饒舌な関西人のように綿花について長々と語れるのが社会科の力、社会人の力である。「点」から「線」への問題傾向変化は、社会科教育の進化である。
]]>1980年台後半から、カープを取りまく雲行きが怪しくなった。プロ野球界のシステムが変わって、どうやらこれまでのようにカープは勝てないかもしれないという嫌な予感がした。
80年代後半、巨人と西武を中心に1リーグ制が噂にのぼった。人気球団の巨人と、当時圧倒的に強かった西武が組んで、1リーグ10チームにし、観客動員の少ないチームを排除する動きが新聞をにぎわせた。巨人の渡邉恒雄は政界マスコミに強い影響力を持ち、西武の堤義明は世界最高の金持ちと言われた時代、この最強の2人がタッグを組んだのである。
カープは毎年のように優勝争いに絡み一定の成績はおさめていたものの、勝ちに慣れたファンは球場に足を運ばず、観客動員は上昇せず資金力は脆弱で、1リーグに再編成された日本プロ野球界から排除される可能性があった。スポーツ新聞には1リーグに加入できない可能性がある球団として、広島やロッテや日本ハムの名前が挙げられた。
結局、1リーグ制は掛け声だけで終わったが、代わって逆指名制度とFAという、巨人のような資金力の強い球団に有利なシステムが導入された。
アマチュア時代に活躍した選手が即戦力として巨人にごっそり引き抜かれ、その結果カープの無名の選手を育てて鍛えるという地道な方法は通用しなくなり、弱体化する危惧を持った。
だが、私の悲観的な想像よりはるかにカープは弱くなってしまった。まさか25年間優勝できないなんて夢にも思わなかった。
巨人はFAで主力選手を手当たり次第に獲得した。中日から落合、西武から清原、ヤクルトから広沢、横浜から村田、ダイエーから小久保や工藤、そしてカープからは江藤や川口を取った。他球団で活躍した外国人選手、ペタジーニやラミレスや李承?などもジャイアンツの一員になった。これでは他球団は勝負にならない。
逆指名制度でも、大学生・社会人の有力選手を巨人が豊富な資金力をバックに獲得した。1993年から2006年までの逆指名制度で、上原・高橋由伸・仁志・二岡・阿部・内海などを入団させた。21世紀に入ってからの巨人の強さは、巨人有利な制度がバックにあったからである。
不公正な制度の中で、カープはアマチュア時代の実績が乏しい選手を入団させることしかできなかった。
だがカープにも家貧しくして孝行息子が出て、入団早々に大活躍する選手たちがいた。しかし悲しいことに、層の薄いカープ投手陣でイキのいい新人が出現すれば、たちまち登板過多になり肩やヒジを痛め、投手生命を縮めてしまった。小林幹英・沢崎・山内・河内・苫米地などの有望な選手が、酷使され特攻隊のように散ってしまった。彼らは広島でコーチや球団職員、また地元放送局の解説者として活躍しているが、酷使がなかったら別の人生があったのにと思う。
これだけカープの若手投手が酷使され潰されたら、アマチュア球界の有望選手を抱える監督は、大事な教え子に広島カープへの入団を勧めないだろう。「カープへ入団したら潰されるぞ」と言って指名を忌避させる。
さらに、カープは家族的経営と資金力不足がたたり、外部の人材を導入しなかった。
ヤクルトは野村克也、阪神は星野仙一、中日は落合博満という外様監督に指揮を預け強くなった。(落合は中日OBだが、彼の性格はどんな組織でも外様的である)。
弱小チームが強くなるには、勝ち方を知っている外部からの輸血が絶対に必要なのだ。新鮮な血液が入ることなく、血が濃すぎるカープが低迷するのは当然のことといえた。
カープファンもオーナーも、「カープが優勝できるか?」という高い望みは現実的ではなく、「カープは存続できるか?」という心配を抱えていた。
だからこそ今回のカープの優勝は、まさに「夢のまた夢」で、歓喜もひとしおなのである。
]]>カープが25年ぶりに優勝する。MVPはいったい誰だろうか。
今季こそ飛びぬけた成績は記録していないので、記者投票のMVPには選ばれないだろうが、カープ優勝の最大の功労者は、黒田である。
黒田はカープをいったん離れて、メジャーで経験を積み勝つ意識を身体で浴び、選手に強い影響を与えている。カープに対する主観的な情愛と、外部から冷静にカープを眺める客観的な視点を合わせた、内部であり外部である稀有な存在である、黒田こそがカープを変えた。
また、黒田復帰はファンのカープ愛を強めた。
カープファンはFA制度以降、現役で活躍中の選手に対し、心のどこかで「こいつはFAで巨人や阪神に行くんだろうな」と冷めた目で見ていた。応援しすぎて裏切られるのが怖かった。広島市民球場末期には、江藤や金本のようにチームを去っていくのかとファンは疑心暗鬼になっていた。
だがメジャーでの20億円のオファーを蹴った黒田の復帰によって、選手もファンと同じようにカープを愛していることがわかった。裏切りを怖がらずに、思う存分カープを応援できる。そんな、かつて津田に感情移入したような熱烈な選手愛を呼び戻してくれたのが黒田だった。
そして新井。新井は前回のカープ時代と阪神時代を通して、勝負弱いバッターだというイメージがあった。変化球が打てず、負け試合での焼け石に水のホームランと、ダメ押しホームランなど、どうでもいい場面で打点を稼ぐ印象があった。
ところが復帰後の「新井さん」は勝負強いバッターに変身していた。
新井が復帰する時、私は代打要員だと考えていた。年齢も40近いし、試合に出れなくても練習姿勢で若手を覚醒していく役割を求められていたと思ったら、何と試合にバリバリ出て2年目の今年は打点王を狙える活躍である。これには驚いた。MVP候補の一人である。
新井が阪神に行った時、正直私は「地獄に堕ちろ」と思った。こんなことになるなんて夢のようだ。
鈴木誠也は一瞬でスターになった。
「ミスター赤ヘル」の称号は山本浩二以来空席のままだが、鈴木誠也がこのまま伸びれば2~3年後は4番に座り「新ミスター赤ヘル」と呼ばれるだろう。
彼の凄いところは、ソフトバンクの内川とオフに自主トレしたことだ。内川はプロ野球きっての右打者であり、常勝ソフトバンクの4番である。トップ選手の懐に飛び込み、教えを請いながらともに寝食を共にする行動力は素晴らしい。
また内川も鈴木に可愛気と将来性を感じなければ、共に行動したりはしないはずである。内川も鈴木から刺激を受けられると判断したからこそ、懐に快く飛び込ませたわけだ。
キャッチャーの石原の存在感は大きい。カープ打線の中で、1割台の石原の打率は異彩を放つ(最近は2割台に乗ったが)。
40近い年齢で、肩もさほど強くないのに正捕手の座を守り続ける。バッティングのいい若手の會沢が台頭し、ふつうならレギュラーの座を譲るのが自然な成り行きだが、石原は老獪にマウンドを死守する。
経験に裏打ちされたリードと、確実性のあるキャッチングには定評があり、ジョンソンからも「できれば彼に受けてもらいたい」と言われ投手陣からの評価も高い。野村復活も石原の功績が大きい。
石原が頭に死球を受け登録抹消された8月には、巨人に4.5ゲーム差まで追い上げられ、石原の存在をファンも再認識した。
阪神は現在、若手捕手の試用期間中で、金本監督は「捨てシーズン」と言っていいぐらい勝負を度外視し若手を育てている気がするが、もし阪神の捕手が石原だったら、藤浪晋太郎もあれだけ苦労することはないのにと思う。
石原は渋いオッサンで、お父さん的なルックスだが、球場や街では石原の31番のユニフォームを着たカープ女子を結構目にする。菊池や大瀬良のユニフォームを着た人たちを尻目に「私はアナタ達とは違うのよ」という意気を感じる。
地味ながら活躍が目覚ましいのは安部である。
安部は堂林と3塁の激しいレギュラー争いをして、現在のところ勝っている。以前、堂林は野村謙二郎監督から「贔屓」され不振でも3塁のポジションから外されなかった。野村監督の現役時代の背番号7ももらった。
またカープファンは堂林が大好きで、罵声でも堂林に対する期待と愛情が入り混じる。マスコミからも数多く取り上げられ、ルックス面でも神様に愛されている。
カープファンは堂林が登場してから、彼が将来主力バッターになり、カープを優勝に導くという将来のストーリーを無意識に作りあげた。堂林にはスターのオーラがあった。安部はそんなストーリーやオーラに屈することなく、堂林の成長物語をぶち壊した。
安部のライバルは堂林だけではない。内野はどこでもこなす安部は当初2塁だったが、セカンドの座はあの菊池に奪われた。ショートは田中広輔がポジションを手にした。おまけに今期は3塁にルナが加入した。こういう状況下でレギュラーに近づいた安部の精神力はただ事ではない。
私が個人的に推すMVPは、菊池涼介である。
かつて中日のアライバコンビはうらやましかった。
2000年代の落合中日全盛時代、ショート井端・セカンド荒木の「アライバ」コンビは、センター前に抜ける当たりを軽々と捕球した。バットコントロールが誰よりもうまい落合監督の猛ノックを受け、2人の守備力には磨きがかかった。中日にカープは勝てなかった。
だが、菊池はカープファンの守備に対する欲求不満を綺麗に解消してくれた。菊池の登場がセンターラインに柱を作り、守りの時間も楽しんで見れるようになった。
当たり前の話で恐縮だが、野球は攻撃の時間は点が取れ、守っている時間は点が取れない。どうしても攻撃時間の方が盛り上がってしまう。
だが最近のカープは、守備の時間も菊池の存在によって楽しめる。守備位置一つにしても菊池は魅せる。ふつうの二塁手ではあり得ないような深い守りにファンの期待は膨らむ。菊池は攻撃時間も守備時間も、二重にファンを楽しませてくれる。
長嶋茂雄があれだけ人気があったのは、勝負強いバッティングだけでなく、あざといぐらいの華麗な守備にあった。菊池は長嶋茂雄に存在が似てなくもない。サーカスや雑技団の公演を見るようなエンターテイメント性が、菊池の守備にはあるのだ。
菊池はヒットを打つだけでなく、敵のヒットを何本もアウトにする。野球の魅力を投手と捕手の往復運動でだけでなく、フィールド全体に広げた。『フィールド・オブ・ドリームズ』に出てくるような、天然芝の魅力的な球場マツダスタジアムの、まさに申し子である。
MVPは菊池が最有力候補である。
岡山大学アメフト部 BADGERS#7 矢野航太郎
前回までのあらすじ
■和歌山大学戦 つづき
岡山21-28和歌山 BADGERSの7点ビハインド。
残り時間5分強。
4thダウン、ギャンブルを選択しランプレーで攻撃権更新。
またしても4thダウン、パスでフレッシュ獲得。
攻撃権を更新できなければ負けがほぼ決まる状況で、つまり2部昇格への道が絶たれる状況で、二度も立て続けにギャンブルを成功させた。執念といか言い様がない。
いつ途切れても不思議ではない幸運の連続だった。
ここまで前進できたのはQB沖西の活躍が大きかった。
ランニングバック陣が脳震盪や骨折で試合に出場できない中、ランでボールを前に運べるのはQBしかいなかった。
勝負どころで人一倍の負けん気が存分に発揮された。タックルに来た相手ディフェンスをグラウンドに叩きつけ、グイグイ前進してく。
沖西は1部でもやっていけるポテンシャルを持っている、と、あるコーチは言う。誰もが認めるスーパーアスリートだ。頭でイメージしたことをいとも簡単にやってのけ、周りを驚嘆させる。負けず嫌いでメンタルも強い。この瞬間、2年生ながら間違いなくチームを鼓舞し、奮い立たせていた。
しかし、沖西が一人でチームを動かしていたのでは決してない。けが人も、試合に出られない選手も、サイドラインから声を張り上げてフィールド上のプレーヤーの背中を押していた。
例えば、昨シーズン2年生の石川晋伍、
ごちん。広島出身、沖西と同じ国泰寺高校野球部。カープの大ファンで練習後、一目散にカープの試合結果を確認する。肩の脱臼に苦しみ、長くリハビリ生活を続けてきた。面白いとは言いがたい一発ギャグのレパートリーが豊富でチームのムードメーカーだ。ウォーミングアップの時の声出しは毎日ごちんから始まる。この日も緊迫した雰囲気に委縮することなく声を出し続けていた。
次に当時1年生の玉井慎吾、玉ちゃん。
体のパーツすべてが丸い。千と千尋の神隠しに登場する緑のだるまの様な体型をしている。沖西にしばしば乳首を摘まれて悶絶しているのが微笑ましく、誰からも愛されるキャラだ。1年生でフィールドに立つ事は出来ないが、よく通る声を目いっぱい張り上げていた。
逆転勝利、入れ替え戦決定戦、入れ替え戦、来年の二部での勝利と続いていく道を信じて、コーチ、マネージャー、選手含めてBADEGSR相手と全身でぶつかっていた。
「自分らで考えて、追い込んで、ついにここまで来た。俺らのほうが努力量は勝っとる。俺らが負けるはずがない。」キャプテンの試合前のモチベーショントークが蘇ってきた。
沖西が繋いできた攻撃権を途絶えさせる訳にはいかない。逆転以外ない。
この攻撃シリーズで逆転するには8点が必要だ。
タッチダウンの6点とキックの1点では同点止まりで、タッチダウン後にゴール前3ヤードから攻撃で2ポイントコンバージョンを成功させて合計8点取るしかない。
冷静に考えて、逆転するのは非常に難しい。
NFLでは統計上、100本タッチダウンを取ったとしたら、トライフォーポイントの内85〜90がキックで、残りの10〜15が2ポイントが行われるとされている。さらに2ポイントコンバージョンが成功する確率は50%弱。
ゴール前3ヤードからのオフェンス、1stダウン。
だがランプレーで3本止められた。
ゴール前1ヤードから、この攻撃シリーズ3度目の4thダウンギャンブル。
ここで点が取れなければ、残り時間を考えても岡大に攻撃権が返ってくるかわからない。返ってきたとしてもけが人も多く、満身創痍の状態で得点できるかは不確実。
仕留めるのは今だ。
ゴール前1ヤードはエンドゾーンがすぐそこに見えているのにディフェンスが中央を固めるため、見た目の距離感以上に壁をこじ開けるのは難しい。
ここで岡大タイムアウト。
サイドラインと、どのプレーでタッチダウンを取るか最後の決断を下した。
選手もコーチも頭にあるのは一つ。
シーズン中、いつか窮地に追い込まれた時のために温存してきたプレー。
このプレーが成功すれば6点追加で1点差まで追い上げれる。
ボールを受けた。
前に体を伸ばすだけ。
だが、ディフェンスのスタートもよく、上も前も塞がった。
体が咄嗟に回転した。
倒れこんだ先はエンドゾーンの中。
何がどうなったのかはわからないが、とにかく自分はエンドゾーンの中にいる。
タッチダウンだ。
やった、タッチダウンだ。
可能性が見えてきた。
岡大27−28和歌山 BADGERS1点ビハインド。
あと1点。
PAT(Point After Touchdown)で狙うはもちろん、2ポイントコンバージョン。
同点にしても次の攻撃シリーズで得点できる力は残っていない。
逆転するには勢いがある今しかない。
コールされたのはシーズンで初めて使うプレー。
パスプレーだが、投げられる状況に無ければ、自らエンドゾーンまで走ることもできる。
単純なプレーだが使う局面は必ずシビアだから、飽きるほど、何度も反復してきた。
Ready set hut!!
ボールがスナップされた。
右にロール。
けが人の影響でランニングバックの位置には初めてこのプレーを合わせる選手が入っていて、上手く合わない。レシーバーはカバーされていて投げられない。
ランだ。
僕はボールを持ち替えた。
ボールは僕の腕の中にある。観衆の視線もいま、僕が抱えている物体にある。
僕はボールを、いつもより強く抱きしめた。
空襲で乳飲み子を抱えて猛火から逃げる母親みたいに、ボールを抱えた。
このまま走りきれば2点。大逆転だ。
下から手が伸びてきた。
俺に触るんじゃねぇ。なんとかかわした。
視線の先に赤いユニフォームが良いブロックで相手を抑えているのが見えた。
俺が走るコースはあの背中だ。
間に合ってくれ。とにかく我武者羅に走った。
そして。
エンドゾーンまでたどり着いた。
タッチダァーーンッ!!
漂流中に有人島に上陸できたような、絶望の淵から生を実感したような気分だった。
岡山 29−28 和歌山 BADGERS1点リード 残り時間4分22秒。
俺がやった。
俺が決めたんだ。
アメフトの神様がいるとすれば来年は絶対に2部で勝負しろよというBADGERSへのメッセージだったかもしれないし、BADGERS39年の歴史に力が宿るとすれば、それの全てがボールを抱えていたに違いない。
だが試合はまだ4分半残っている。
和歌山としては逆転するのに十分な時間だ。
タッチダウンの興奮が冷めないうちに、キックオフに向かった。
少しでも時間を消費し、少しでも敵陣深くボールを止めるために、相手にリターンさせないことが大事なキック。
ゴロのボールを蹴った。
リターナーの手元からすり抜け、点々と転がった。
狙い通り相手にリターンさせなかった。
やはり今日のBADGERSは勝負強い。
気は抜けないが勝てる気がした。
サイドラインに帰り、オフェンスコーディネーターと抱き合った。
普段冷静なコーチのガッツポーズが見えて、タッチダウンと同じぐらい嬉しかった。
キッキングコーディネーターとも抱き合った。
二人とも泣きそうだった。
つられて僕も泣きそうになった。
だが泣くのはまだ早い。
泣くのは時計が0:00になってからだ。
ディフェンスを信じて、ボールを目でおった。
ジリジリと前進されたが、ファンブルフォースからのリカバーで攻撃権を取り返した。最後の最後にディフェンスでもビッグプレーが生まれた。
残り時間を消費し、時計が0を示した。
BADGERSは勝った。
選手たちは泣いていた。
岡大BADGERS 29−28 和歌山大 BLIND SHARKS
1点に泣いた天理戦から1点に歓喜した和歌山戦。BADGERSが見せた成長劇だった。
2部昇格まであと2勝。
■入れ替え戦出場校決定戦、vs大阪芸術大学VIPERS
和歌山大学戦後、満足感が体を覆い、燃え尽き症候群のような感覚に襲われた。
激闘の末手にした勝利。これ以上何もいらない気分だった。
これまでずっと彼女のいなかった男子が大学生になって人生で初めて彼女ができた時のような気分だ。
だが、まだ戦いは終わっていない。
2部昇格まで2勝。
エキスポフラッシュフィールドで試合がある時は、朝7時過ぎに岡山駅を出発する。姫路で乗り換え、新快速で大阪まで行って、普通に乗り換え茨木まで。茨木駅からはタクシーでフィールドまで移動する。
朝はおにぎりとパンで糖を補給し、活動するエネルギーを摂取する。電車の中では100%のグレーピプフルーツジュースを飲む。試合会場に到着後、第1試合を見ながらコンビニで買ったみたらし団子を3本食べる。
これが僕の試合の日のルーティンだ。
1クオーター残り7分、4thダウンでフレッシュまで3ヤードほど残った。
26ヤード地点。
43ヤードのFGトライ。
僕のキックの出番だ。
タッチダウンは取れなくても緊迫した試合では先制点が大事。
敵の戦意を多少なりともそぎ落とせる。
失うものがないチーム、しかも関西人が多く、乗らせると怖い。
初戦の大阪工業大学戦では48ヤードのFGがショートして失敗していたが、5ヤード前のこの地点なら自信があった。練習でも成功する確率が高い距離だ。
キックで先制して、楽にゲームを進めたい。
タン、タッ、踏み込んで、振りぬく。
いつものリズムでボールを蹴った。
弾道が少し低かったが、ボールはポールの間を突き破った。
BADGERS 3−0 VIPERS
知り合いの方が、敵スタンドで観戦した試合は負けないというジンクスを守り、大芸側のスタンドにいたらしいが、それまでの関西ノリの明るさが、このFGを機に消えたそうだ。
4年生は負ければ最後の試合。大阪芸術大学には試合中笑顔も見え楽しそうにアメフトをしている印象を受けた。そんなチームから戦意を少しでも削ることができたなら、キックの効果は3点以上に大きい。
モチベーションをいかに維持するかが難しい試合だったが、BADGERSはその後も得点を重ね、結局29−7で勝利した。
岡大BADGERS 29−7 大阪芸術大学VIPERS
入れ替え戦出場権を勝ち取った。
2部昇格まであと1勝。
■入れ替え戦 vs大阪学院大学PHOENIX
この試合に勝てば2年ぶりの2部昇格。
バジャーズはこれまで大阪学院大学に勝ったことがなかった。
大阪学院は、2部で優勝し1部との入れ替え戦に出場したこともある強豪。3部に降格したことはなく、入れ替え戦にかけるモチベーションも高いはずだ。2015シーズンこそ2部で最下位に沈んだが、シーズンが深まるに連れて確実にチームを完成させてくる。
12月12日11:00キックオフ。晴れ。
始まってみると人数の差は明らかに得点に現れた。大阪学院はオフェンス、ディフェンス、キッキング全て全力でできないので、どこかで手を抜く瞬間が来る。実際に相手は疲弊していた。試合前にはもう、シーズン中に負った怪我で主力選手が出場できない状態になっていた。
第4クオーター残り10秒、BADGERSサイドのスタンドからカウントダウンの
声が聞こえてきた。5,4,3,2,1,0。
フィールドでは大きなビクトリーフラワーが咲いた。
終わってみるとBADGERSの圧勝だった。
岡大BADGERS 42−13 大阪学院PHOENIX
2部昇格。
和歌山大学戦後は泣いていたが、この時は泣いている人が少なかった。
やりきった清々しさと、2部で勝ってこそこのチームの目標が果たされる自覚、責任、やっちゃらーという来季への意気込みが表情から見て取れた。引き締まったかっこいい表情だった。
■アメリカアナグマ、ハンディを乗り越え、その先へ
BADGERSは2004年以来2部で勝利していない。2部には昇格できるものの、リーグ戦で全敗し、3部との入れ替え戦に回り3部に降格するというシナリオが常であった。その間、新入生の勧誘に苦労し、部員数が少ない時期もあった。
そこで、3年前から特に新入生の勧誘とサイズアップの2点において取り組み方法を見直し、ここ3年はプレーヤー20人以上の入部を達成し、サイズにおいても2部の平均に達した。
今年は戦力的にも充実、オフェンスのエースと呼ばれるQBには沖西、WRに高森、RBに中、土井田と活きのいい3年生が揃い、それを生かすOLにも経験のあるプレーヤーがいる。
ディフェンスにはDL窪田、LB山本、SF松川と要所に強力な選手がいる。
今シーズン2部での勝利を達成し2部に残留すれば、2部上位定着、1部昇格というBADGERSの長期目標も現実的になってくる。
しかしBADGERSの下馬評は低い。
関西連盟の多くの人が岡大は3部との入れ替え戦に回ると予想しているそうで、また2chの関西学生アメフトのスレでも岡山大学は最下位と予想差されている。
BADGERSは今年創部40周年を記念してユニフォームを一新した。赤から青へと大幅な変更だ。新ユニフォームに身を包み、関西の連中を驚愕させる所存である。
全てはBADGERSのスローガンであるこの一言に集約される。
何があっても這い上がる。挑戦を続ける。
Challenge on!!
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子猫は可愛い。誰からも愛される。
だが親猫になると、子猫のように万人が可愛いと感じるわけではない。猫は年齢を重ねるとともに、ルックスは悪くなっていく。哺乳類の赤ちゃん特有の、キュッと抱きしめてやりたくなるような可愛らしさは消える。
子猫は確かに愛らしい。だが、私も猫を飼っているからわかるのだが、不細工になっても、変わらずそれ以上に愛しいものだ。家族のように心が通ってくるのだ。
アイドルもそうだ。
十代の男性アイドルはフェロモンを発していて、同世代の女の子を虜にする。だが歳を取るにつれオッサン臭くなり、ファンが離れるのが男性アイドルの宿命だ。
ジャニーズ事務所の総帥・ジャニー喜多川は人気が落ちた所属アイドルに「お前は女を知ったから売れなくなった。女に飢えたハングリーな目をしてなければだめだ」と言ったという。
アイドルは性的魅力を発していなければ、子猫のように捨てられる運命にある。
だがSMAPは違う。鮮度が命のアイドルなのに25年間も人気を保ち続けた。私から見れば40を超えて、雄のフェロモンを放ってるのはSMAPのメンバーではキムタクしかいない。だが他のメンバーも、ふつうの若者・中年のルックスになっても人気を保った。SMAPは自分の家族のように愛されてきた。
SMAPは、25年にわたりグループを存続させ、しかも第一線の人気を保った。これは奇跡に近い。
たとえば田原俊彦や近藤真彦の「たのきんトリオ」の人気が25年間も続き、藤井フミヤのチェッカーズが解散もせず25年間第一線で活躍できただろうか? 彼らの鮮度は5年前後だったではないか。
SMAPの人気を支えたのは、マスコミの報道から類推するに、飯島マネージャーの存在が大きいと思う。
部外者が芸能界のことを記事にするのは難しい。歴史家がどれだけ過去の史料を読み解いても正確な事実にはたどり着けないように。SMAPに関する報道から内部事情を類推するのは難しい。
そうとは知りつつ、飯島マネージャーの大手事務所社員の一線を完全に超えた母親のような愛情がSMAPを人気グループにしたことは想像できる。
飯島マネージャーはSMAPの「教育者」である。SMAP個人個人の個性を伸ばす教師。週刊誌で不鮮明な飯島氏を撮った写真を見たことがあるが、まるで小学校の先生のようだった。芸能界の辣腕マネージャーには見えなかった。
私は個人塾を営んでいるが、勉強を伸ばすのも大事だが、生徒の個性を生かし長所を伸ばし、唯一無二の存在として社会に出てほしいと願っている。大学合格と同じ比重で、就活の結果が気になる。生徒がタレントならマネージャー、ミュージシャンならプロデューサー的な立場になりたいと考えている。
だが生徒の個性を伸ばすと言葉にするのは簡単だが、実行するのは難しい。それどころか、生徒の良さを打ち殺し、欠けたものを埋める方向に走りがちだ。生徒本来の長所を忘れ、正反対のものを求めてしまう。徳川家康のように物静かで篤実な子に、豊臣秀吉のように華々しくアピールするよう要求し、またその逆のケースもあったりして、試行錯誤を重ねてきた。
逆に飯島氏はメンバーの個性に合わせた仕事を模索し成功した。
木村拓哉が『あすなろ白書』の助演・取手君役で「さりげない演技」が評価されてから、ドラマの仕事を意図的に増やし、『ロングバケーション』で「キムタク」として国民スターとなった。
木村拓哉の囁くような演技は、他の若い俳優のオーバーアクションの演技に辟易していた視聴者に、等身大の共感をもたらした。目が大きく潤み鼻筋が通った超人的なルックスを持つキムタクに自己投影する矛盾を忘れ、キムタクの演技に自己移入した。
日本でこんな「さりげない演技」を確信犯的に強調した俳優は、キムタク以前には松田優作しかいない。
中居正広はバラエティーに活路を見出し、SMAPの2大巨頭になった。
中居は本質的に、どこか神経質で気難しい人だと思う。ファンやマスコミに対して表面上は冷たい印象を受ける。
だが、バラエティーではゲストに気をつかい、きわめて社交的な面を見せる。天性が社交的な明石家さんまと比べて、中居は繊細で内向的な人が無理して頑張っているように感じる。そんな中居の精いっぱいの努力が視聴者の好感につながっている。中居君がんばってるねと。
飯島マネージャーは、木村がドラマで成功したからといって、中居に同じ路線を走らせなかった。実は中居は演技が上手いのだが、木村の道徳的圧力すら感じさせる存在感にはかなわない。中居がテレビカメラの前で社交的になる特性を伸ばし、バラエティーの司会でトップをめざした。
香取慎吾はSMAP誕生のころ、私の周囲の中学生には一番人気だった。25年前の中学生の女の子に好きなアイドルはと聞くと「かとりしんご」という名がよく返ってきた。
SMAPの初期の写真を見ると、他のメンバーは典型的なアイドル顔で見分けがつかなかったが、香取慎吾だけは目鼻が大きく際立った存在に見えた。SMAPで最年少の香取慎吾はアイドルでなく子役スターのようだった。
キムタクや中居はそれぞれドラマ、バラエティーに順調に居場所を堂々と確保したが、だが、子役から大人へ変わる香取慎吾の仕事には試行錯誤した。既成のアイドルがやったことのない「汚れ仕事」もやった。郷ひろみや田原俊彦が女装して「おっはー」という姿が想像できるだろうか。
新選組の近藤勇、忍者ハットリくん、『ドク』でのベトナム人、こち亀の両さん、成功したものから失敗したものまで、硬軟取り混ぜ手あたり次第に仕事を選ばなかった。飯島マネージャーも香取慎吾の処遇には頭を悩めたと思う。
草?剛は歳を重ねるにつれ、アイドルとは言えない顔立ちになっていった。だがその唯一無二のルックスと雰囲気が、性格俳優の味を出した。
私が草薙の演技で感動したのは、三谷幸喜の映画『ステキな金縛り』である。主人公深津絵里の若くして死んだ父親の幽霊役として登場したが、立ってるだけで父性愛が滲み、存在感だけで涙が潤んでくる演技だった。
稲垣吾郎は二枚目を中途半端に保ったことが、影の薄さにつながったが、ビートルズで言えばジョージ・ハリスン、仮面ライダーならライダーマンのような存在である。SMAPのメンバーでは癒し系で、一番手が届きそうな存在として愛された。SMAPはスーパーグループだが、スーパーになり過ぎない緩衝材として、稲垣吾郎の存在は貴重だった。
かといいながら稲垣はとんでもないところで目立つ。『人志松本のすべらない話』で、同棲相手の男性がいることを話し、これにはものすごく驚いた。アンニュイで退廃的な雰囲気も魅力である。
飯島マネージャーは5人の個性を際立たせた。それに加え彼女の凄いところは、ドラマやバラエティーはマンネリと言われるくらい王道を突き進んだのに比べ、音楽では前衛的に冒険を続けたことである。
飯島マネージャーは音楽に関しては、つねに新鮮な人材を補給し続けた。『らいおんハート』では野島伸司、『BANG!BANG!バカンス!』では宮藤官九郎と、著名な脚本家に歌詞を依頼し、スガシカオや山崎まさよしやMIYABIなどブレイク中の新鮮なミュージシャンに楽曲を依頼した。
また、SMAP出演のドラマは同じようなものが多く、ワンパターンと揶揄されたのと好対照に、楽曲は二番煎じを慎重に避けた。
『世界に一つだけの花』があれだけ成功すれば、もう一曲ぐらいは槇原敬之にシングルを依頼し、二匹目のドジョウを狙うのがマネージメントの王道である。だがそれをしなかった。
SMAPのシングルを系統的に聴いていると、素人でもわかる曲と、玄人好みの難解な曲が交互に現れる。売れ線の曲だけでは飽きられることを熟知していた。
ドラマとバラエティーはソロで王道、音楽はグループで前衛と方針を使い分け、古い血と新しい血のミックスを絶えず意識することが、SMAPを新鮮かつ懐かしい存在にした。
ところでSMAP解散は、海外ではビートルズの解散にたとえられている。
ビートルズも人間関係が破綻して解散した。木村と中居は、ジョンとポールの関係に似ている。
ビートルズのベストアルバムに赤盤・青盤というのがある。赤盤は初期の、青盤は後期のナンバーを集めたものだが、赤盤のメンバーの写真は若く同じマッシュルームカットで、無個性で見分けがつきにくいが、青盤は解散前の写真で4人は思い思いの服装髪型をしている。
SMAPもデビュー当時の無個性なアイドルから変貌し、現在は個性が際立っている。誰も現在はキムタクと草?君を間違えたりはしない。
ビートルズもSMAPもこれだけ容姿がバラバラだと衝突を起こすのか、個性の拡張の行きつく先は解散しかないのかと、納得させる写真である。オンリーワンが5人揃えば破綻するものなのか。
メンバーの個性の伸長、王道と前衛の調和は、まさにビートルズがたとった道であった。飯島マネージャーはビートルズのバンドとしての生き様が、どこか頭にあったのではないか。皮肉なことにビートルズとSMAPが同じ道をたどってしまったのは、さぞ、つらかっただろう。
ビートルズは解散前に『アビー・ロード』という大傑作アルバムを残した。人間関係は破綻しても音楽は破綻するどころか病的な調和をみせた。彼らは音楽の前では嘘をつけなかった。
SMAP解散まで4か月、5人がビートルズのように最後の奇跡的な調和を見せてほしいのは、ファンならずとも願うことであるが、今のままでは無理なのだろうか。
SMAPはファンから見れば、テレビを通じた家族だった。飯島マネージャーはSMAPを自分の家族にし、日本人の家族にした。SMAPの解散はファンにとって「家庭崩壊」なのである。
]]>伊藤和夫『英文解釈教室』VS西きょうじ『ポレポレ』
=『受かるのはどっち?』英文解釈本2強対決〜
博士
■伊藤和夫『英文解釈教室』で英文がクリア
伊藤和夫先生は故人ですが、駿台予備学校の英語科主任で、数々の名著を生み出し、現在は英語教育界の「キングカズ」と呼ばれています。
『英文解釈教室』は伊藤和夫先生の代表作です。
ある日、僕の高校の英語の先生が「私は高校時代、英語読解の参考書は『英文解釈教室』しかやらなかったよ」とおっしゃっていました。「あれは凄い本だ。英文がクリアに読めた」と大絶賛されていました。でも先生は加えて「挫折する人も多い。古臭くて化石扱いする人もいる。だから勧めはしない」とも仰っていました。
僕はそれを聞いて逆に「僕にできないことはない」と飛びつきました。読み進めると「この本はモノが違う」と鼻筋がゾクゾクしました。英文で難しいのは、倒置・挿入・省略・同格ですが、そんな受験生が嫌がる難所を、体系的に豊富な例文を通して説明しています。
『英文解釈教室』は英語の読解法のみならず、アカデミズムの凄みを感じさせてくれました。知的な人だけが持つ圧倒的な存在感があります。『英文解釈教室』は英文読解本の最高傑作です。
女王
■西きょうじ『ポレポレ』『英文読解入門』を反復
私は高2まで勉強してなくて、スパルタ塾に通い始めた。スパルタ塾だから分厚い本を何十冊も渡されると思ったら、長渕先生は「これだけでいい」と薄い本を2冊しかくれなかった。それが西きょうじの『英文読解入門 基本はここだ!』と『ポレポレ 英文読解プロセス 50』。薄い本だったから、これなら猛勉強しなくてすむわと安心した記憶がある。
英語初心者の私は、『英文読解入門』から始めたの。ライトグリーンの優しい色の装丁で、短い簡単な文章が丁寧に説明されていて、十回繰り返したわ。
それから黄色い表紙の『ポレポレ』に進んだんだけど、これが歯ごたえがあるの。『英文読解入門』が軽自動車なら、『ポレポレ』はF1マシンみたいに感じた。『ポレポレ』も十数回繰り返した。繰り返せばRPGみたいで楽しくなってくる。難所があってクリアしていくのが快楽になってきた。『ポレポレ』の一番すごいところはね、ほかの英文を読んで「難しいな」と感じたところが、『ポレポレ』で経験済みな箇所なわけ。たいていの難所は『ポレポレ』のおかげで解決できた。
判決
■私の生涯を変えた『英文解釈教室』
私は進学校の落ちこぼれで、中3から浪人の6月まで勉強をしていなかった。
だが『英文解釈教室』に出会って英語の偏差値は25も上がった。高校時代、英語は苦手だったが現代文は得意だった、そんな私に『英文解釈教室』の理屈っぽさは性に合った。
この本は結果だけ書くのではなく、思考の途中経過を丁寧にたどる。伊藤和夫は近寄りがたそうに見えるが、実は受験生に寄り添う、「過保護」と言っていいほど懇切丁寧な講師である。
伊藤和夫が構築した英文読解の論理体系にはまり、脳内に英文解釈装置が設置される。私はこの分厚い本を全部和訳し、それを7回繰り返した。結果、大学受験レベルの英文なら、構文を気にせず無意識に読めるようになった。
伊藤和夫の教え方をライトにしたのが『ビジュアル英文解釈』。こちらは伊藤和夫と生徒たちの対話形式の本で、理解しやすい。
■『ポレポレ』の簡潔な説明は引き算の美学
『ポレポレ』はRPGに似ている。英語を読解する時、受験生がぶつかる壁を、50の英文の中に巧みに組み込んでいて、壁の越え方を教える。『ポレポレ』を反復した数だけ、剣武器が身体の一部になり、最終的には英文が無意識に読めるレベルまで到達する。
説明は簡潔明快。素っ気ないが必要十分。説明を削ることに心血を注ぐ。松尾芭蕉の『奥の細道』は日本一有名な旅行記だが、無駄な文章をそぎ落とした薄い本で、『ポレポレ』と『奥の細道』には「引き算の美学」がある。
『英文解釈教室』は素晴らしい本だが、挫折率が高い。『ポレポレ』は129ページなのに対して『英文解釈教室』は314ページ。厚い本を1冊やるより、薄い本を反復した方が効果的なのは明らかだ。うちの塾生にも『英文解釈教室』は怖くて勧められないが、『ポレポレ』なら安心して勧められる。
『英文解釈教室』も『ポレポレ』も、構成が斬新だ。既存の参考書に対する批判や怒りを感じる。参考書は人二番煎じの本が多いが、この2冊は違う。執筆する段階で、構成に頭を悩まし、例文の選択に手こずったのがわかる。知恵と労力が凡百の本とは比較にならないほどかけられた作品で、新しいものを世に問おうという健全な野心が伝わる。
伊藤和夫や西きょうじが創造的偉業を成し遂げたのも、「受験生に英文を読む力を与えたい」という執念である。伊藤も西もクールに見えて、著作には桁外れの情がある。
強い本でなければ強い学力はつかない。『英文解釈教室』も『ポレポレ』も反復に耐える強い本だ。
判決 女王 伊藤和夫『英文解釈教室』は厚すぎる。本は薄いが内容が濃い『ポレポレ』をひたすら繰り返せ
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ベストセラーの古文単語、『マドンナ古文単語』VS『ゴロ565』 古文単語はどちらがお勧め?
博士
■『マドンナ古文単語』、荻野文子の文章力は抜群
マドンナこと荻野文子先生の著書の人気が、一向に衰えないのはどうしてでしょうか。
失礼ながら荻野先生は、もうかなりお年を召していらっしゃいます。
「マドンナ」という年齢ではありません。でも荻野先生の本は『マドンナ古文』『マドンナ古文単語』『マドンナ古文常識』など、本屋に平積みにされ、ロングセラーになっています。
荻野先生の本が売れる理由は、文章力にあると思います。
僕は心の中で荻野先生を、英語の竹岡広信先生と並んで、「学参界の文豪」と呼んでいます。学参派内容も大事ですが、文章のうまさも同じくらい大事だと思います。小説でも文章が良いものは歴史の風化に耐えますよね。
受験生の肌身に寄り添う、フレンドリーでくだけた文体でありながら、肝心な時にはキッパリ断定口調になる荻野先生の文体は、受験生の癒しかつ叱咤激励になります。
学参というより、良質のエッセイを読んでいる感じがいいです。
これが『マドンナ』の人気の理由です。
女王
■『ゴロゴ』』は勉強アレルギーを治す
女の私がゴロゴを勧めるのは変だけど、はじめて見た時は正直
「これ、学参として売っていいの」
と思ったわ。
学校で配られる真面目な古文単語は「”さはれ”どうにでもなれ」と、単語と意味が書いてあるだけなのに、『ゴロゴ』は、痴漢の絵があって、大きな字で「さはれ痴漢よ、もうどうにでもなれ!」って語呂が書いてあるの。学参には映画みたいにR指定はないのかと思ったわ。
『ゴロゴ』はね、真面目な子には邪道だと嫌われてるけど、ヤンチャな男の子には絶大な人気があるの。他の参考書にはピクリとも反応しないのに、ゴロゴだけは夢中で読んでるの。『ゴロゴ』にはジャンク感があるのよ。ラーメンにたとえたらラーメン二郎みたいな感じなのかしら。
私もね、生徒から古文単語何がいいか聞かれたら、真面目な女の子にはゴロゴは絶対勧めないけど、ヤンチャな野郎には強くプッシュします。特に勉強嫌いな子は『ゴロゴ』で勉強に目覚める可能性だってあるのよ。
古文なんて自分とは無縁だと思ってる人は、絶対に買って。
暴走族上がりの吉野敬介だって、立派な古文予備校講師になってるじゃない。
判決文
■『マドンナ古文』の漢字暗記法は地味だが確実
実は私は、日本の高校生に古文苦手が多い原因の一つは、古文は漢字が少なく、ひらがなの比率が高いからではないかと考えている。
表音文字の古文は、子供が書く、「ぼくはおだのぶながみたいなゆうかんなひとになりたいです」という、ひらがなだらけの文章のように読みにくい。
子供にとっても、ひらがなだらけの文章は読みにくい。子供も漢字という「絵文字」の力を借りたいから、漢字練習に励むのではないだろうか。
英語やフランス語は表音文字のアルファベットしか使わない。だが日本語は、表意文字の漢字と、表音文字のひらがな・カタカナが混じる世界でも類を見ない言語だ。その結果、日本人は文字を読むとき、脳内の2カ所を同時に使う。
養老孟司は「絵を認識する脳内部位と、音声を認識する脳内部位は別の場所にある。文字を読むときに単一の部位を使うのと、二つの部位を使って並列処理するのでは、作業能率が違う。日本人は二つの部位で文字を読めるから、正確に速読ができる」と指摘する。
表音文字のアルファベットしかない欧米では、字が読めない子供が多く、非識字率の高さが重大な社会問題になっているらしい。フランス人の12歳児の35%は「速読ができない」という統計結果が示されていると、内田樹が語っている。
『マドンナ古文単語』は漢字にこだわる単語集だ。
たとえば’かたはらいたし’は漢字で「傍ら痛し」と添えられ、傍らで心が痛むというのが語源と指摘し、そこから?はらはらする・見苦しい?恥ずかしい・気づまりだの2つの訳が生まれたと解説する。
ひらがなの古文単語を漢字に脳内変換することができれば、脳の二つの部位を使って古文が読める。『マドンナ古文単語』は、ひらがなの古文単語を漢字に脳内変換するよう誘導してくれる。
■『ゴロゴ』はピンチでチラ見するのが正しい使い方
『マドンナ古文』は良書だが、単語数が230と少ない。
だが他の単語集に手を出す前に、最低限マドンナ古文の単語は暗記したい。話はそれからだ。
女王推薦の『ゴロゴ』は掲載数が565と多いのだが、古文単語はゴロで暗記するより、漢字のイメージで暗記する方が、正統的かつ暗記しやすいと個人的には考える。
ただし、『ゴロゴ』の語呂と奇抜な絵が頭に焼き付いた時の爆発力は半端ではない。『マドンナ古文』のような正統派の古文単語集と並行して持ち、どうしても暗記できない単語があった時に、隠れてチラ見する感じで参照すればいいと思う。シュールな絵と語呂で、一人勉強中に声を出して笑うのも、暗い受験生活の一コマとして面白い。
『ゴロゴ』は正統派の単語集でどうしても暗記できない時、禁断の助っ人として使うのが正しい。
「ピンチヒッター。ゴロゴ。背番号565」
判決 『マドンナ古文単語』。どうしても暗記できない時は『ゴロゴ』の下品でシュールな語呂に頼れ。
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『システム英単語』VS『英単語ターゲット』有名単語集対決
どっちがお勧め?
博士
■『英単語ターゲット』で入試出題頻度チェック
”Cho ChoTrain”のEXILEは知っていても、英単語exileの意味が「亡命」だと、知っている人は何人いるでしょうか。
またPerfumeはいまや世界的に有名ですが、perfumeが「香水」だと知っている高校生は、意外に多いと思います。
街には英語があふれていますよね。それが日本語でどういう意味を持つのか、調べる習慣があるかどうかで、英語力は格段に違ってきます。新しい外来語、たとえばケースワーカー、ワークショップ、セグメント、デフォルトとか新語が現れたなら、スマホで調べるクセをつけてほしいです。
僕は勉強中、未知の単語があれば辞書を引くのではなく、まず『英単語ターゲット』で調べていました。
ターゲットは受験に出そうな英単語が掲載されています。未知の単語が、受験に出る単語なのか、それとも大学受験を逸脱している単語なのか、ターゲットで確認していました。
僕にとって単語集は、英単語詰め込みに使うものではなく確認用でした。ターゲットはレイアウトがシンプルで調べやすいのです。exileもperfumeもターゲットに載っていますよ。
女王
■『システム英単語』は初心者にやさしい
私ね、学校で買わされたのが、旺文社の『英単語ターゲット』だったの。
この本はシンプルなのはいいけど、悪く言えば単語が並んでいるだけ。例文も中途半端に長い。難度が高い本よね。
で、私は高2から塾に通ったんだけど、長渕剛に似たスパルタ先生は、私が持っていたターゲットを見て、「そんな本を俺の前に2度と持ってくるな。カバンにしまいなさい」と言って、『システム英単語』を渡したわけ。それから、「英語ができない奴は単語を知らない。単語を知らない奴は根性がない。1か月で暗記しろ。」と言って、シス単のミニマルフレーズを、1冊丸暗記しろと命令した。
でもね、孤立した単語だけ暗記するつまらなさがないけど、シス単のミニマルフレーズは長さがちょうどいいわけよ。
たとえば『システム英単語』でvirtue(美徳)は”the virtue of hard work”と、のど越しのいい日本蕎麦みたいに、ツルッと一気に呑みこめるわ。
逆に、ターゲットの例文は”The Japanese learn that vagueness in discussion is a virtue.”って感じで長いの。こんな韓国冷麺みたいに固くて長い例文は、暗記できないわ。
判決文
■『ターゲット』は前世紀の遺物か?
学校や塾の先生に「どんな参考書がいいですか?」と尋ねるときには、必ず「先生はどうしてその参考書を勧めるのですか」と尋ねてみよう。
もし先生が「私が使っていたから」と答えたら、疑ってかかることだ。若い先生ならともかく、年配の先生が「自分が使っていたから」という理由で勧めた参考書は、時代遅れのものが多い。
学参の世界は日々進化している。20年も30年も前の自分の成功体験だけで、教え子に学参を勧めるのは、日露戦争時代の古色蒼然とした武器で、ソ連の近代兵器に挑み敗れた、ノモンハン事件の帝国陸軍のように愚かである。
英単語集にしても、最新鋭の本の存在も知らないで、新しい学参の研究もしないで、自分の経験だけで教え子に本を勧めるのは無責任だと私は思う。
『ターゲット』は1990年代には定番だった単語集である。40代50代の先生は使っていた人がかなり多い。だから生徒に勧めたがる。
だが、ここ数年で発行された単語集に比べると、『ターゲット』は英単語を並べただけの、工夫が凝らされていない単語にしか見えない。博士のように辞書代わりにするのならいい。だが、英単語を命綱にして這い上がりたい受験生には、あまり勧められない。
ある有名予備校の先生は、「ターゲット? あかんあかん、そんなもんほってしまえ」と言ったらしい。
■『システム英単語』は大学受験界の老舗・駿台の新鋭単語集
うちの高校生は『システム英単語』を使っている。
私が受験生の頃、こんないい単語集はなかった。
駿台文庫は大学受験参考書の名作を放ってきた「古典」だが、単語集には目立つものがなかった。だが駿台が満を持して出版したシス単は、出版されて以来評判を呼んだ。
シス単が素晴らしいのは、ミニマルフレーズである。contemporary「現代の」という単語を、単体で暗記するのではなく、’contemporary Japanese culture’「現代の日本社会」という短いフレーズで覚えさせる。フレーズで暗記することで格段に覚えやすくなる。
もし『シス単』以外の単語集を使ってたら続けていいが、『シス単』第5章の「多義語のBrush Up!」だけは絶対見ておきたい。簡単な単語の意外な意味が載っていて楽しい。
たとえば'line'には電話という意味があるが、この意味を知らなければThe line is busy.を「行列が混んでいる」などと誤訳してしまう。
センター試験は特に、『シス単』第5章のような、簡単な単語の意外な意味が出やすい。
第5章は試験問題の作成者が受験生に仕掛ける、単語トラップを集めたものである。受験生が問題作成者という「敵」の魂胆を知るには最高だ。
この第5章の有用性こそ、『シス単』が最も信頼される単語集に急速にのし上がった原因である。
chargeが告訴とか、lotが運命とか、soundが健全とか、sentenceが判決とか、知っておくと便利だ。
判決 女王 単語は『システム英単語』で決まり。
駿台予備学校の底力。特に第5章の「多義語のBrush Up!」を知らなければ今すぐ読むべし。
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拙著『受かるのはどっち』より、「数学苦手は克服できるか?」を一部改変して掲載します。
王子
■数学苦手が克服できるのは中学受験経験者だけ
京都大学はアメリカンフットボールが強いです。
彼らはもともと体が細い受験秀才ですが、関西学院大や立命館大など強豪チームの相撲取りみたいな選手と、いい勝負をしています。
アメフトは体力勝負であるとともに、知的勝負のウェイトが多くを占めるスポーツだから対抗できるのです。
京大が強いのは、彼らに数学的センスがあるからだ僕は分析しています。
アメフトではボールを瞬時に的確な場所に投げ、また最短走路を取らなければなりません。たいていの京大生は中学受験勉強で、図形の点の移動、最短距離を叩き込まれています。
関西の中学受験塾では土日は十数時間も塾で特訓です。
まるで毎日が数学オリンピックのように数字や図形と格闘します。アメフトを始めたのは大学からでも、小学生の時からアメフトの知的訓練を積んでいるようなものです。
数学力が紙の上だけでなく、アメフトのグラウンドという実戦にも生きているのです。
難関高校の生徒は数学で落ちこぼれていても、中学受験時代に培った算数のポテンシャルがあります。
基礎学力を持つ彼らなら追い上げ可能ですが、そうでなければ無理でしょう。
女王
■数学苦手克服は万策尽くせば可能
数学では別にトップに立たなくていいわけで、苦手は苦手なりにしのげばいいわ。
まず計算力からつけましょう。数学できない人は計算力がない。
『足し算・引き算から微分・積分まで 小・中・高の計算が丸ごとできる』間地秀三(ペレ出版)がいい。計算に特化した本で、掛け算九九から積分計算まで載ってるの。数学嫌いな人は計算アレルギーで、通信制限のかかったスマホのように計算が遅いの。この1冊を繰り返せば、月初めの通信制限解除の時のように速くなるわ。
あと、基礎ならマセマ出版社の『初めから始める数学?A』馬場敬之を使ってね。
問題が少なく解説がフレンドリー。これだけで大丈夫かと心配する前に、まずこれだけやってみてほしい。
数学苦手克服には思い切って基礎に戻る度胸がいるの。
偏差値が伸びないとき、基礎に戻るのは理に適っているとわかってはいても、直前なのに基礎なんかやってる場合じゃない、応用問題解かなければと焦る。
それに、人から「基礎に戻れ」と言われたらプライド傷つくしね。でも平常心で基礎を粛々とやれば道が開けるわ。
判決
■数学全体と戦うな。個々の単元を一つずつ潰せ
判決、女王の勝ち。数学で中学受験経験者が有利なのは事実だが、方策はある。
数学で苦手克服するには、数学全体と戦わなければいい。
1つずつ単元を潰していく方法を取れ。
二次関数・三角比・ベクトル・数列・微分積分、どれか1単元のスペシャリストになることだ。数列から潰しにかかるとすれば白チャートから始めればいい。
マセマ出版社のシリーズでもいい。基礎ができてる人なら『1対1対応の演習』を勧める。
1単元に戦力を一極集中し、他の単元は潔く捨てる。1単元ずつ潰せば成績は確実に上がる。
数学という科目は質量ともに多く、数学全体を同時に敵に回すのは無謀。数学全体と一気に戦ったら敗ける。
ヒトラーが敗北したのは、東はソ連、西のアメリカ・イギリスと、東西の敵と同時に戦ったからだ。
また、大日本帝国に至っては北にソ連、東にアメリカ、西に中国、南にイギリスと、東西南北を敵に囲まれた。
さらに織田信長も西は毛利、北に上杉、東に武田・北条、そして本願寺と、四方八方敵だらけで最後には明智光秀に隙を突かれ殺された。
数学全単元を伸ばそうと欲張れば、ヒトラーや大日本帝国や織田信長のような破滅が待っている。
■それでも苦手なら、計算力を上げるため公文式へ
数学苦手を克服する、決定的な方法が公文式である。
計算力を上げるには、ズバリ、公文式がいい。
日本の教育制度は、学年一斉に同じ内容をやり、一度やったことは原則として復習しないという大原則がある。これでは復習できず成績が落ちるのは当然である。
「一期一会」で学力はつかない。
逆に公文式は、学年を無視した能力別プリント、苦手分野の徹底復習 という「一期二会」「一期三会」の方法論で、ポピュラーな教育産業に成長した。
勉強が苦手な人を得意にする方法論がシステム化されていて、数学の基礎力を高めるには公文式のシステムに頼ればいい。
公文式では、高校生で中学生の方程式と格闘する人もいる。
学年枠を取っ払い、プリントを基礎から反復してこなす。公文式の門をたたいた最初のうちは、高校生が中学生用のプリントをやるのは恥ずかしいけれど、驚くべき速さで復習ができ達成感がある。
私はTwitterとBlogをやっていて、数学苦手克服法をよくたずねられるが、「公文式がいい」と言うと、「まさか公文なんて」と耳を傾けない高校生が多い。
基礎が大事なのは誰もがわかっていても、いざ公文式という基礎の基礎の勉強法を突きつけられると、プライドが傷つく気持ちはわかる。
だが、バカほど基礎をバカにする。
公文式だけで大学入試の問題が解けないのは当然だ。しかし基礎の通過儀礼を浴びなければ、難問がいつまでたっても解けない。だまされたと思って「くもんいくもん」という気になってみよう。
判決 女王…数学が苦手なら、1単元ずつ潰せ。計算が苦手なら公文式という巨大教育システムに頼れ
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逆に高校時代は数学が苦手で、私大文系に転進せざるをえなかった。
どうして小学校の時、算数ができたか?
塾のテキストだけをやっていたからだ。
テキストを聖書のように信じた。
1つのテキストを解き、わからない箇所は先生に執拗に質問した。復習反復し、解き方を身体レベルまで習得した。その頃は「数学は暗記教科」という言葉はなかったが、まさに数学は暗記だった。
時間が余れば『最上級問題集』とか市販の問題集に手を出しはしたが、あくまでサブ的存在で、テキスト以外に目むくれなかった。
「勉強法」に悩むことなど全くなくて、一意専心「テキストをやる」のが勉強法だった。
私の塾はテストだけの塾で週1回。授業はテスト解説だけだった。だがテスト終了後に算数の質問教室があり、テキストの難問を授業形式で教えてくれた。参加は任意で残る生徒は少なかったが、私は毎週必ず残った。
先生からは素直な子だと可愛がられ、熱心に教えてくれた。先生が熱心だったということは、私が熱心だったということだ。
生徒に情熱があれば、先生も熱を上げる。
猛勉強をしているように見えても、私は根性入れて勉強した記憶はなく、自然な形で長時間勉強していた気がする。つらいことはなかった。
逆に、どうして高校時代、数学ができなかったか?
簡単に言えば、勉強していなかったからだ。
塾に通わなかったのが、いま考えれば致命的だ。
進学校の数学の先生は、上位層に合わせているため、下位層への目配りが足りない。私は数学ができなかったし、そのうえ塾にも通っていなかった。生意気盛りのころで、塾という存在を敵視していた。おまけに学校にも批判的だったし、そんな高校生を大人がかわいがるわけがない。下から這い上がるには大人の愛情や贔屓が絶対に必要なのだ。
教科書も学校のサブテキストも理解できなかった。勉強法の本ばかり書店で読んでいた。法ばかり説いて頭でっかちになった。
勉強法本が勧める参考書を買ってみても「自分には合わない」と数ページで投げ出した。また別の勉強法本を読んだら別の参考書が勧めてある。それも買って、もちろん挫折した。
おかげで私の本棚には、チャート式とか鉄則とか解法のエッセンスとか大学への数学とか、参考書の数だけは揃っていた。現在のように実況中継的な、話し言葉で書かれた参考書はなかった。
一つのテキストを反復して成功した、小学生時代の成功体験はまったく踏襲されなかった。反対の勉強法で自滅した。
数学力が中学生レベルしかないのに、赤チャートなんかやっていた。当然、わからない。
理解できなければ思い切って戻れというアドバイスは、誰もしてくれなかった。
だがもし当時の私が、数学苦手だったらわからない箇所まで戻れとアドバイスされても、耳を傾けなかったろう。「なんで俺様が中学校レベルからやらないとアカンのか」と反発したに決まっている。高校生という種族は、大人が思うより数倍プライドが高い。いまさら簡単なことはやりたくない。馬鹿にすんなと。
それに数学で、教師にわからないところを聞いたら、人格批判されそうで嫌だった。もし教師に「どうしてわからないのか」と馬鹿にされたら、刺していたかもしれない。
数学が苦手なら、解法を暗記する、テキストを繰り返す、わからない箇所は聞く、思い切って戻る、こういう当たり前のことが、私はできなかった。
数学は結局、捨てざるを得なかった。数学を捨てたのではなく、数学に捨てられたのだ。
「プライドの高いバカ」の末路である。
スーパー銭湯の職員はどうだろうか?
刺青を入れた客が来る。店長から追い出し係を命じられる。
風呂で気持ちよさそうに湯を浴びている刺青客に、
「刺青のお客様はご遠慮いただいています」
「なんな、このガキは、わしが出にゃあいかんのか」
「他のお客様の迷惑になっておりますので」
「迷惑ゆうて、わしゃあ大人しゅう風呂入ってるだけじゃが。なんなあこのクソガキ」
「規則です。直ちに出て下さい」
と、堂々と言えるだろうか?
学校の先生もいい。
言う事聞かないガキ相手に授業をし、テストを作り採点し、部活の顧問になって夜遅くまで残業し、親からのクレームを受け、不登校の子の家を訪問し、組合活動の人間関係で揉まれ・・・・・子供は教師の苦労の一端が理解できるだろう。
飛びきり責任の重い、緊急性の高い仕事を、中学生にいきなり任せるのもいい。
たとえば寿司屋。職場体験に行ったら、親方がいきなりどこかへ消えてしまう。
カウンターには口うるさそうなオッサンの客が10人くらい、「早く握ってくれ」とばかりに、エサを待つツバメの雛のように待っている。ネタ箱には、鯵とかサヨリとかイカとか赤貝が、さばかれもせず海から引き上げたままの姿で丸ままドスンと置いてある。さばき方がわからない。どうしよう。中学生は途方にくれる。
パイロットはどうか? 機長と副機長はパラシュートで機外へ逃げ出し、乗客500名の運命が一手に任される。うまく着陸しなければ乗客の命も自分の命も失われる。操縦桿を持つ手が震える。
救急病棟はもっと大変だ。緊迫性が異様に高い。
中学生は突如、交通事故で瀕死の患者の執刀医を任せられ、薬品と内臓の匂いが漂う戦場みたいな手術室でメスを握らされ、横では「私の夫を助けてください、お願いします」と患者の奥さんが狂乱し、「脈拍落ちています」と看護婦が金切り声を出し、心臓を手づかみにしながらマッサージをし・・・・修羅場だ。
職場体験でとんでもない重責を負わされたら、中学生の職業観・人生観は変わるだろう。
以上の例は超極端だが、学力と知識と経験がないと、仕事ができないという厳然たる事実を、是非職場体験で子供に知ってもらいたい。ふだんの勉強の大切さも、わかろうというものだ。
■数学苦手が克服できるのは中学受験経験者だけ
京都大学はアメリカンフットボールが強いです。
彼らはもともと体が細い受験秀才ですが、関西学院大や立命館大など強豪チームの相撲取りみたいな選手と、いい勝負をしています。
アメフトは体力勝負であるとともに、知的勝負のウェイトが多くを占めるスポーツだから対抗できるのです。
京大が強いのは、彼らに数学的センスがあるからだだと、僕は分析しています。
アメフトではボールを瞬時に的確な場所に投げ、また的確な走路を取らなければなりません。
たいていの京大生は中学受験勉強で、図形の点の移動、最短距離を叩き込まれています。関西の中学受験塾では土日は十数時間も塾で特訓です。しかも算数の時間が多い。まるで毎日が数学オリンピックのように数字や図形と格闘します。
アメフトを始めたのは大学からでも、小学生の時からアメフトの知的訓練を積んでいるようなものです。京大生はアメフトの「基礎学力」ができています。空間図形のセンスがあり、グラウンドが「イーグルアイ」として俯瞰できます。数学力が紙の上だけでなく、アメフトのグラウンドという実戦にも生きているのです。
難関高校の生徒は数学で落ちこぼれていても、中学受験時代に培った算数のポテンシャルがあります。
あのですね、最近は偏差値40から70へ上げたみたいな本が多いですが、数学で偏差値30上げたという本は少ないでしょう。あったとしても、彼らは難関高校の生徒です。
将来京大アメフト部で活躍しそうな、難関高校の中学受験経験がある高校生なら。高いポテンシャルで追い上げ可能ですが、そうでなければ無理でしょうね。
VS
熱血女王のオピニオン
■数学苦手克服は万策尽くせば可能
数学はエリートの独占物じゃないわ。
数学では別にトップに立たなくていいわけで、苦手は苦手なりにしのげばいい。
まず、計算力からつけましょう。
数学できない人は計算力がない。『足し算・引き算から微分・積分まで 小・中・高の計算が丸ごとできる』間地秀三(ペレ出版)がいいわ。計算に特化した本で、掛け算九九から積分計算まで載ってるの。
数学嫌いな人は計算アレルギーで、通信制限のかかったスマホのように計算が遅いの。この1冊を繰り返せば、月初めの通信制限解除の時のように速くなるわ。
あと、基礎ならマセマ出版社の『初めから始める数学?A』馬場敬之を使ってね。問題が少なく解説がフレンドリー。これだけで大丈夫かと心配する前に、まずこれだけやってみてほしい。
数学苦手克服には思い切って基礎に戻る度胸がいるの。
偏差値が伸びないとき、基礎に戻るのは理に適っているとわかってはいても、直前なのに基礎なんかやってる場合じゃない、応用問題解かなければと焦る。
それに、人から「基礎に戻れ」と言われたらプライド傷つくしね。数学が苦手な人の最大の敵は、実はプライドなのよ。プライドが高いと基礎に戻るのを厭うし、わからないことを聞くのを沽券にかかわると思って敬遠する。
数学でわからないところを聞いて、「お前、今まで何をやってたんだ、こんなこともわからないのか。小学生からやり直せ」と冷たく追い返す先生もいるでしょう。でも「小学生からやり直せ」というのは金言よ。ほんとうに小学生からやり直せばいいの。
挽回できます。
数学は挽回可能か?
天才の軍門に下るしかないのか?
挽回できるとすれば、そのやり方は?
判決はどちらに?
『受かるのはどっち? 目次』
第1章 大学受験“ウワサ”の真相
1 ビリギャルみたいに偏差値40から逆転可能か?
2 文系理系どちらが有利か?
3 大手塾予備校VS個人塾
4 Twitterを受験生がやっていいのか?
5 高校の定期試験対策に力を入れるべきか?
6 スケジュール表は作るべきか?
7 集中力が30分しか続かない時は?
8 勉強しない日を作ったほうがいいか?
9 恋愛と勉強は両立できるか?
10 部活と勉強は両立できるか?
11 体育会系部活生はラストスパートで逆転できるか?
12 一冊の参考書を繰り返すべきか?
●文章がうまい、読ませる参考書
第2章 正しい勉強の仕方はコレだ!
13 朝型か?夜型か?
14 予習中心?復習中心?
15 精神論は大学受験に有効か?
16 模試の見直しはどうすれば効果的か?
17 ノートはきれいなほうがいいか?
18 本にマーカーは引くべきか?
19 モチベーションを上げる本が知りたい
20 論述対策は一人でできるか?
21 音楽聴きながら勉強できるか?
22 ゲームはやってもいいか?
23 センター過去問対策はいつから?
●センター直前3か月、一発逆転を可能にする参考書
第3章 科目別「攻略法」伝授
24 英単語は書いて暗記するべきか?
25 英単語暗記――語源VS語呂
26 『英単語ターゲット』VS『システム英単語』
27 『速読英単語』は本当に名著か?
28 英文読解――『英文解釈教室』VS『ポレポレ』
29 英文法が苦手――問題集は何がいい?
30 数学苦手は克服できるか?
31 数学――ひらめきVS暗記
32 数学――『青チャート』VS『教科書』
33 現代文は高校から逆転可能か?
34 現代文の選択肢に強くなるには?
35 古文は単語と文法の暗記で伸びるのか?
36 古文単語――『マドンナ古文単語』VS『ゴロ565』
37 世界史VS日本史
38 歴史――理解が先?暗記が先?
39 センター地理、ラストスパートの方法は?
40 物理に才能は必要か?
41 化学、はじめの一冊は何がいい?
●ピンポイントで苦手単元をつぶす参考書
第4章 合格を近づける最後の1ピース
42 偏差値55で停滞中。才能の壁はあるのか?
43 非進学校から難関大は無理か?
44 授業がつまらない時の対処法は?
45 高校の大量課題はやるべきか?
46 浪人はすべきVS避けるべき
47 医学部多浪に賛成VS反対
48 志望校は早く決めた方がいいのか?
49 親の経済力は学歴に関係するか?
50 地方国立大VS都会の難関私大か
51 下剋上で合格可能なのは、早稲田VS慶應
52 参考書・問題集だけで自学自習は可能か?
●一人でも自学自習が可能な「初心者マーク」の参考書
「3年B組金八先生」は、中学校が舞台だから成立した話だと思う。金八先生は、裏番組で視聴率最強を誇った「太陽にほえろ!」を抜き去った。武田鉄矢が石原裕次郎に勝ったのだ。
これが小学校や高校だったら、伝説のテレビドラマにならなかっただろう。中学生は疾風怒濤の時代だからこそ、武田鉄矢の金八先生の熱血ぶりが際立ち、激しいドラマになった。
中学時代は人生の分岐点である。鉄道なら行き先を変える転轍機。人との出会いによって、人生は左右される。
だから身体を張って、思春期の暴風に立ち向かう、中学生を教える塾の先生の存在は大きい。
とくに、ごく数年前まで「ゆとり教育」が蔓延していて、中学生の学力は低下した。
当時「地頭がいい」という言葉がはやったが、地頭がいいというのは、本来ならもっと学力偏差値が取れていたはずなのに、小学校で基礎学力をつけられず、頭の良さを持て余していたということになる。生まれつきお能力はあっても、訓練されていない。潜在能力とペーパーテストの点数が一致しない。要するに「ゆとり教育」は、勉強の才能を殺したのである。
また、叱ることが教育現場で忌避された。生徒との対話を重視し、甘い先生のミスリードで、授業は喧騒の場と化した。
授業はまず「聞く」習慣をつけるのが原則だ。活発な議論のアクティブラーニングは、「聞く」ことを学んで後の話だ。人の話を聞かないで話すことばかり夢中になる人間がどれほど困った存在か。話好きで聞き下手な子の迷惑行為で、どれだけ真面目な子が先生の話を聞くチャンスを奪ったか。
自由奔放な生徒たちの教室での振る舞いで、生徒の「聞く」能力は置き去りにして、十代の子どもの耳は退化した。
それに、中学生の厳しい塾は、厳しいといっても常識を教えているだけである。生徒を拷問にかけているわけではない。人の話を聞く、礼儀作法を守る、遅刻はしない、ネガティブな言葉ははかない、ズルをしない、物事には真摯に取り組む。小学生の時に、こういう当たり前のことが教えられていなかった。悪癖を残したままの中学生を、放置するか矯正(古い言葉だが)するかである。厳しさは尻ぬぐいであり、叱らないのは逃げである。
中学生で悪癖を残したままだと成績は伸びない。そして成績が伸びない生徒は、大人から見て「いらつく」部分がある。
「いらつく」部分を見つけたら、率直に言うべきだと私は思う。厳しさとは素直さである。悪い箇所を言葉でハッキリ指摘する。変に気をつかって隠し通さない。斬り込むことで「いらつき」の要素を一つ一つ殺していくのだ。
じゃあ、悪癖を持つ中学生に向かって「いらつき」を感じないためにはどうするか、先生と生徒が友達であればいいのである。友達関係なら、いい加減さはあまり気にならない。だが、お友達先生のままでは、中学生の「いらつき」は死ぬまで温存される。「いらつく」大人になり、自分も他人も不幸になる。教育の失敗作である。
私は「厳しい」塾をいくつか訪問させていただいたことがあるが、「いらつき」とは程遠く、生徒の好感度は抜群であった。
どういうわけか知らないが、高校生を教える大学受験専門の先生が、中学生に対して厳しい塾を、詰め込みとか、無理して難関校に合格させても高校になって苦しむだけじゃないかとか、陰キャラのように非難するのを目にする。
だが、地方によって違いはあるが、難関高校は単純な詰込みだけでは合格できない。公立高校の問題を一度見てみればいい。単純作業で解けるものではない。むしろ単純作業に落ちた勉強を繰り返す中学生に、難しいことにチャレンジするよう強く促すのが、厳しい先生である。
公立高校の難問を解くために、スパルタ詰め込みで対処できるわけがない。難問を解く思考回路まるごと頭に埋め込まなければならない。思考回路を埋め込むには、小学校や中学校で教えられていない「聞く」能力をつける。城の石垣を運ぶような基礎工事。これには知力だけでなく、体力も人格力も必要なのだ。子供の甘さに対峙する厳しさ、愛情ある父性の発露がいるのだ。
ステレオタイプの批判として、中学校で成績低位の子が、無理して難関校に合格しても、高校では才能がないからついていけない、大学受験では勝てないという批判がある。「進学校の落ちこぼれ」は悲惨で、ならば普通の高校のトップクラスの方がいいのではないかと。
だが、中学生の塾の厳しくてパワフルな先生なら、生徒に自力でやっていく力を与える。先生が身体を張れば子どもは身体で覚える。人格の感化力はそれほど大きい。子供は強烈な人間と出会ったら、強烈さを身につけるものである。中学時代に圧倒的に成績伸ばして「進学校の落ちこぼれ」になるという心配の多くは杞憂に終わるし、たとえ伸び悩んでいても、生徒と真剣勝負をしてきた先生は、高校になってもあらゆる角度から勉強面や心の面を、自然な形でケアしている。
最大の利点。どん底から先生の二人三脚で難関校に合格することは、十代の若さで成功体験を手に入れる。これがいかに自信になるか。
中学校の時、親からも学校の先生からも無理だと言われながら、逆転した経験が将来どれだけ自信につながるか。僕ならできる、私ならやれる。努力の先に栄冠があることが身体レベルで刻まれる。
私も「厳しい塾」とやらの末節を汚している一人だが、なぜ厳しい塾に価値を見出しているか。それは中学時代に叱られ大人と対峙してきた子は、就職活動で抜群に強いからである。もし不本意な進学をしたとしても、面接で強く、大学の偏差値以上の強さを発揮する。
高学歴でも大人に対して斜に構える若者が、就職活動で痛い目に合うのは承知の通りだ。「勉強だけできる人間はダメ」なのである。勉強以外の可愛げ、律義さ、真摯さが就活では高く評価される。
勉強を通じて、勉強以外の能力を鍛えるのが、厳しい塾の先生が持つ一貫したポリシーなのである。試験の結果は一種の副産物である。
中学生時代に厳しく細かい塾に通っていると、いい加減さが消える。授業中の姿勢、細かいノートチェック、繰り返される復習テスト、挨拶礼儀の指導、「聞く力」を持ち大人に愛される、いい加減でない律義な人間に育つ。
中学校の友人ならいい加減でもかまわない。だが大人になっていい加減な人間ほど、自分が困り他人を困らせる人間はいない。
厳しさが、自由な発想を抑え、個性のない人間を育てるという批判もある。日本にはスティーブ・ジョブズを育てる土壌がないと。だが天才は育てるものでなく育つものである。スティーブ・ジョブズを変人・狂人から偉人にしたのは、彼のアイディアを理解する「聞く」力を持った人々、怒り叫ぶジョブズの無理難題に耐え成果を上げるタフな人々である。ジョブズは育てられないが、ジョブズを助ける人は育てられるかもしれないではないか。
厳しい塾の「金八先生」に出会ったら、ラッキーである。
女王の全面勝訴。
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■厳しい高校受験の塾は意味がない
公立中学生が通う、高校受験に向けて厳しく鍛える塾ってありますよね。先生が細かいことにうるさくて、時には怒鳴りあげるスパルタ指導の塾。
僕、そんなの意味ないと思います。
高校受験する人は、中学受験が盛んな地方では負け組でしょ?
スポーツでいえば、中学時代にサッカーのクラブチームに選抜された人が開成や麻布や灘など難関中学、残りが公立中学ですよね。
嫌な言い方を敢えてしますが、中学受験で勝った人が「豆腐」で、落ちた人は「おから」みたいなものです。
そんな「おから」みたいな、才能にいま一歩欠けた中学生に勉強を強いる。それって一昔前の教育ママ・教育パパの塾版って感じですね。時代錯誤です。だいたい勉強がスパルタで通用すると考えているのが間違いです。
高校受験で厳しい塾って、先生が中高時代にあまり勉強しなかった人が多いんじゃないでしょうか。自分が中高時代に怠け者で、塾の先生になったとたん中高生に厳しくする。自分に甘く他人に厳しい典型ですね。
中学の塾で厳しく鍛えて、たとえ難関高校にギリギリ入っても、落ちこぼれてしまいますよ。記憶力や理解力では中学受験で勝った人たちに劣るし、また中学時代勉強し過ぎたせいで勉強アレルギーになり、燃え尽き症候群になってしまいます。
あと、こういう厳しい塾を、自由闊達を好む勉強ができる生徒は避けますよ。
それに厳しい塾は弊害が大きいです。中学時代は厳しい先生がいたから成績が残せた。でも高校ではそんな先生いません。スパルタって最大級の依存なんですよ。中学時代に厳しい先生に勉強は思いっきり依存して、高校になったら自由放任、しかも勉強内容は格段に難しくなる。こんなの赤ん坊を大学受験の戦場に放り捨てるようなものです。
逆に、難関中学の生徒は、高校受験がなくて読書や部活などで青春を謳歌しています。遊んでいるように見えて、教養を身につけていて、知識を涵養しているんです。それが高3になって爆発するんです。才能がない人ほど、勉強を机の上だけでするものだと考えていますね。
「おから」は「豆腐」には勝てません。どんなに鍛えてもね。
VS
女王
■中学生は厳しい塾で鍛えられなさい
あのね、難関中学でも、博士みたいに遊んでても勉強できる人って一部だと思うの。多くの生徒は難関校専門の、宿題が多い詰め込み型の塾に通ってるのが当たり前じゃないの。博士みたいに読書で教養を涵養なんて、旧制中学時代みたいなレトロなこと言ってたら、凡人は生き残れないのよ。
中学で勉強厳しくして何が悪いの? とくに男の子なんて成長に差があるわ。小6なんて声変わりしてない、ちっちゃい男の子だっているし、ヒゲでも生えてきそうな半ズボンとランドセルがキツキツのオッサンくさい子だっているでしょ?
勉強に目覚める時期だって人それぞれ。中2ぐらいから上背も学力も伸びる子はいくらでもいるわ。部活だったら鍛え時でしょ、勉強で鍛えてどこがいけないのよ。
それを「おから」か「おけら」か知らないけど、失礼な言い方よね。エリート意識を感じるわ。
中学生ってね、人生の分岐点なの。勉強の道に進むか、そうじゃないか。大事な大事な分かれ道よ。反抗期で怠け者な年ごろで、しかも異性とか部活とかスマホとかゲームとかいろいろ誘惑がある。
そこへ厳しい先生が身体を張って、神経をすり減らしながら、勉強の道を指し示すことの何が悪いのよ。勤勉さの価値を教えることのどこがいけないのよ。
一番腹が立つのは「才能」って言葉よ。才能って博士はよく使うけど、才能ってすごく排他的な言葉なの。才能がないと言われて落ち込まない子っていないわ。
才能という言葉は才能を潰す危険な呪文よ。
でもここで、あえて才能という言葉使わせてもらうけど、厳しく鍛えないと才能が眠ってしまう子が多いじゃない。公立中学生を「あなたのなすがままに」と自主性に任せて放置するのと、「俺について来い、鍛えてやる」と本気でぶつかるのと、どちらが「良い先生」なのかしら。私の価値観でじは断然後者よ。
判決は28日(木)午後9時半
ここでは私の本が受けた批判について、1冊につき1つずつ、簡単に答えておきたい。
『難関私大・文系をめざせ!』
難関私大はオワコン。今更こんな本出してもねぇ
(塾講師)。
日本の大学入試は、十分逆転可能なシステムである。
数学や理科を受験しなくても、一流大学とされる早稲田や慶応に合格できる。これをシステムの欠陥と取るか、寛容なシステムと取るか。
だけど、高2・高3まで勉強の才能を持ちながら、生かされなかった若者が、大逆転劇を演じる。これは痛快ではないか。
もちろん、私も真面目にコツコツやってきた国公立の大学生に対する敬意は強い。数学や理科が必要な科目であることは、誰が否定できようか。
だが、難関私大という、英国社3教科で受験できるシステムがあるのだから利用しない手はない。とくに地方でくすぶっている若い人には、どうやったら逆転可能か、そのマニュアルをこの本で示したかった。
私は難関国立大学に関して、ふつうの高校で偏差値40あたりからの逆転は奇跡に近いほど難しいと思う。低成績の高校生が東大を1年でめざす『ドラゴン桜』は夢物語だと考える。だが慶応SFCに合格した『ビリギャル』は少ないが可能性がある。『ドラゴン桜』はフィクションのマンガで、『ビリギャル』はノンフィクションではないか。
難関私大合格は現実に可能なのだ。たとえ早慶には及ばなくても、関関同立やGMARCHなら、マニュアルに忠実に勉強すれば合格できる。また難関私大の文系の学生が、バイタリティで日本社会の心臓や血液になっていることは誰も否定できない。
決して難関私大はオワコンではない。
『センター前ヒット』
書店で国語の勉強法のところだけ見て、そっと棚に戻した
(高校国語教師)
『センター前ヒット』は、センター前3か月、火事場の馬鹿力を出すための本だ。突貫工事で、どうやって合格点をたたき出すか。センター試験に対する、救急医療のような役割を果たすべき本だ。
批判した高校国語教師は、予備校講師の教え方に影響を受けた、文学青年上がりで、文章にインスピレーションを感じない人だった。生真面目な感じだが説得力が弱いタイプに見えた。
私が提案した勉強法は、オーソドックスなものではない。それなら大量の参考書が出ている。私の提案は、センター試験で国語が伸びない受験生に、一か八か試してみる種類のものだ。私を批判した国語教師とは、求めているものが違う。
現場で、現代文ができない生徒を抱え、タイムリミットが近くて焦っている先生には、共感してもらえる勉強法だと信じている。付け焼刃と呼ばれることを恐れず書いた。塾で成功例を出し(もちろん失敗もした)、『センター前ヒット』の国語の部分が役に立ちましたという高校生・浪人生からメールを何通かいただいた。
内科医が、ER集中治療室の医師を批判するのは、ピント外れだと思う。
『大学受験勉強法 受かるのはどっち?』
内容が薄くて、立ち読みですんだ
(2浪生)
私はとにかく、この本を読みやすくしようと努力した。砂利道ではなくアスファルト、いや、ボウリングのレーンのように読みやすい本をめざした。
編集者の方と協力して、推敲に2か月かけた。文章から小石を取り除き、ローラーを丁寧にかけた。
受験生は勉強法の本を読んでいる暇はなかなか取れない。だがら負担を減らそうと考えたのと、あと勉強法の本をはじめて読む人に抵抗のない文体をめざした。
また、文章がオッサン臭く、説教臭くならないように、20代前半の若い大学生4人に助言を求め、文章を推敲してもらった。すべてはスラスラ読んでもらうための、「薄い」と言われることすら予期したものだ。
私は難解さを賢明だとは思わない。難解に書こうと思えば、いくらでも書けるのだ。しかし出版物として世に出す以上、わかりやすくあるべきだと私は考えた。たしかに、難解な本に魅力があることは否定しない。だが私が作ったのは、高級ウイスキーでなくビールである。
だから「立ち読みできる」「内容が薄い」というのは、ほめ言葉である。中学生でも手に取れるように書いた。
だが平易な内容の中に、重厚なポリシーが潜ませてあることは、読者ならわかっていただけると思う。
どうしようもなければ、個別マンツーマンで、現代文を教えてくれる先生を探せばいい。正直それしかない。
数学が苦手なら、個別指導や家庭教師は最高の方法だが、現代文を上げるのも自力では難しい。現代文が苦手な人は現代文の参考書を読む読解力がない。数学と同じように、現代文も個別や家庭教師と親和性が高い教科だ。
現代文をライザップ形式で鍛えるシステムがあればいいのに、と思う。
現代文が苦手な人は、集団授業を聞くのも下手だ。
集団授業で、うまい予備校の先生は「わかる」段階までは引き上げてくれる。だが実際「できる」レベルに達するには訓練がいる。わかってもできるようにならないのが現代文。
だから個別や家庭教師で、選択肢も記述も一問一問、先生の前で解き、なぜその解答なのか、いちいち丁寧に説明してもらう必要がある。
数学と同じだ。
そして論述問題を書き、添削。来る日も来る日も添削。
論述は型を身につけなければならない。言語体系を身につけるには、強い「師匠と弟子」の関係を結べば手っ取り早い。
言葉こそ伝承だ。落語や漫才など言葉で生活する芸人が、師弟関係にうるさいのはそういう背景がある。新聞社でもデスクは若い記者に何度も書き換えを命じて鍛えていく。
論述はマンツーマンでどんどん間違えて恥をかけばいい。恥をかいた回数が現代文力につながる。
現代文で必要なのは、inputだけでなくoutputだ。
もちろんoutputするためには、inputしなければならない。
inputで大事なのは、もちろん語彙である。「語彙こそはすべて」である。
ゲームが怖いのはそこで、小学生のころから本もマンガも読まずテレビも見ない生活をしていたら、語彙が抜け落ちてしまう。ゲームは語彙を砂漠化する。
語彙が貧弱だと、種子を蒔いていない植木鉢のようで、学力の芽は絶対に生えてこない。
語彙をつけるには、本格的な読書から始める必要はない。ライトノベルでも百田尚樹でも東野圭吾でも、本を開いたら読者をつかんで離さない作家の本から始めればいい。直木賞作家の代表作とか、本屋大賞受賞作とか、数冊読んでみて気に入った作家の作品を読み込めばいい。
間違っても『東大生に薦める本』で推薦されているような本を選んではいけない。それはもう少し段階を経ての話だ。気取る必要など全くない。
現代文が得意な人は、たいてい小学校中学校から本を手放さない。彼らは最初から高尚な本を読んでいたわけではない、娯楽作品で語彙を知らず知らずのうちに埋め込んでいる。何よりも彼らは本が楽しいものだと知っている。
入試の現代文の文章は、読書体験が豊富で、語彙のストックが増えて、はじめて理解できる難解なものだ。語彙がなければマンツーマン個別授業でも家庭教師でもどうしようもない。
十冊、エンターテイメント小説のジェットコースターに乗れば、視界が開ける。
広大の学生で、陽気で明るくフレンドリーで生徒に人気があり、授業中は小4の授業で「光合成ダンス」といって、ズボンに黒板消しを挟んで踊っていた。いつも怖い顔で怒っていて、生徒が近づいてこない私とは好対照だった。
中谷先生は海外旅行が好きで、ロシアとかアフリカとか鈴木宗男が好みそうな場所ばかりに行って、生徒に土産話をして喜ばせていた。中谷先生は卒業後、誰とでも壁を作らない性格を買われて、NHKのカメラマンになった。
十数年後、私が個人塾を開いて、4月に休暇を取ってロサンゼルスへ行った。私は街歩きが好きで、海外の都市を歩き回るのが趣味だが、ロサンゼルスは街が広く、地下鉄路線も充実してない、流しのタクシーもほとんど走っていない、街歩きには極めて不便な街だ。ロスは車がないと生活できない。1日で街歩きをギブアップし、滞在2日目以降はツアーに頼ることにした。
昼はユニバーサルスタジオへ行った。日本語ガイドさんつきのオープンバスに乗った。途中バックトゥザフューチャーのデロリアンが無造作に放置されていたり、池沿いを走ったら突然水しぶきをあげてジョーズが出てきたり楽しかった。
ターミネーターの3Dでは、飛び出してくる画像を堪能した。途中悪戯心を起こして、3Dメガネを外し横のアメリカ人を見ると、画像から絵が飛び出すごとに”Wao!”と言ってのけぞる姿が面白かった。
そして夜はドジャースタジアムで野球観戦をした。メジャーリーグを見るのは初めてである。この日は偶然、ヤクルトからドジャーズに移籍した石井一久投手の初登板日だった。記念する日に立ち会えてワクワクした。
ところが、球場へ向かうバスの中で問題が起きた。バスガイドさんが「今日は、石井一久選手の初登板日です。そこで、バスを降りたらNHKがテレビの取材に来ています。もし声をかけられたら、インタビューに応じていただけないでしょうか」と言ったのだ。
私はテレビに出るなんて絶対に嫌だった。私は容姿コンプレックスがある。これまで3冊本を書いているが、どの編集者の方も私に「本に先生の顔写真を出しましょうか?」と声さえかけてくれない。表紙どころか扉の部分にも私の写真はない。イケメン先生、たとえば船越先生あたりだったら表紙アップだろうに。『受かるのはどっち?』に至ってはイラスト勝負の本なのに、私のイラストすらない。写真どころかイラストにもなれない。要するに私は主観的にも客観的にも容姿的にバツなのだ。
だから何とかしてテレビを避けようと、バスからは最後にこっそり降りた。誰か他のツアー客がインタビューを受けているどさくさに紛れて『黒子のバスケ』のように存在を消して隠れよう。
ところが、バスを降りた瞬間、「笠見さんじゃあないですか。笠見さんですよね!」という陽気な声が聞こえた。見るとテレビカメラを抱えた中谷さんだった。
「どうしたんですか、こんなところで」「中谷さんこそどうして?」
中谷さんはNHKのカメラマンとして、メジャーリーグ中継を任されていたのだ。十数年ぶり、ロサンゼルスでの再会に驚いた。
「笠見さん、インタビュー受けて下さいよ。みなさん嫌がってるんですよ。お願いしますよ」
中谷さんの願いを拒絶するわけにはいかない。「いいですよ」
誠実そうなインタビューアーの方が、笑顔で私にマイクを向けた。
「石井選手にどんなピッチングを期待しますか?」
「三振をバッタバッタ取ってほしいですね」
ことらも笑顔で、無難に答えておいた。
試合が始まってピーナッツを食べながら観戦していると、中谷さんが私を探しだして隣に座った。会話に花が咲いた。同僚の先生や教え子が10年たっていま何をしているか、情報を交換し合った。
中谷さんはメジャーリーガーにカメラを向ける仕事だ。選手の内幕をいろいろ話してくれた。
「いやあ、イチローは話してくれないんですよ。参っています」
「カープの大野さんはいい人ですよ」
「ジャイアンツOBのZさんはストリップが好きで困ります。アハハ」
私は中谷さんからいろいろ面白い話を聞き出した。
試合で石井一久投手は、6回2安打無失点、10三振の好投でメジャー初登板初勝利を挙げた。
私がインタビューを受けた映像は、残念なことにしっかりオンエアされていた。ボツになるという期待はむなしかった。
帰国後、中2のシュウヘイ君が「先生、テレビ出てましたね」と私の映像を偶然見ていたのだ。7時のニュースだったという。まあ10三振取った石井一久に対して、試合前に三振バッタバッタ取ってほしいですねと、おあつらえ向きのコメントしたのだから、使われてしまったのは仕方ないけど。
でも私はカープファンなのに、わざわざロスまで石井一久の初登板を見に行った、ミーハースワローズファンだと視聴者の100%は誤解するだろう。それがつらい。
志望校は先生でもない、親でもない、自分自身が決めるものだ。
だって結婚相手を先生が決めるか、両親が決めるか、親戚が決めるか、上司が決めるかという問いはナンセンスじゃないか。
封建制度のなごりが残っていた時代ならともかく、結婚相手は本人どうしが決めるのが当然である。
志望校は自分自身の意思で決めないと後悔する。
ただし、最終決定は自分がするが、大人とはよく相談しなければならない。
受験生は志望校を攻略する大名であり、先生や両親は情報強者で経験値の高い家老や参謀である。
学校の先生を参謀につけた場合。
学校の先生でも、地方の公立いわゆる「自称進学校」の先生は、進路指導で「現役国公立合格」に執着しがちなのは周知の事実だ。
センター試験で思うような点数が取れなかった場合、三者面談で、聞いたこともないような遠隔地の公立大学を勧める。「自称進学校」の先生は、生徒を何が何でも、どういう手段を使っても国公立に行かせようとする。安全志向だけでなく、なにか深い事情でもあるのではないかと勘繰りたくなるくらい、国公立にこだわる。
君が確実に合格できるのは延岡市立大学とか留萌工業大学とか(延岡や留萌の方には失礼だが)、島流しや都落ちを連想する大学名を出し、「大学へ行ってからが勝負だから」という言葉で納得させる。苦手教科の数学を捨てれば都会の私立大が射程圏内の生徒に対してでも、国公立をしつこいセールスマンのように勧める。
大学を決める進路指導は、就活も視野に入れて行わなければならない。大学は偏差値データだけでなく会社四季報も頭に入れて決める必要がある。
だが学校の先生は教育学部で教職をめざした方が多いため就活事情をあまりご存知ない。地方で就職するならいいが、特に文系学部で中央を狙うなら地方は不利だ。一つの資格めざして学業に邁進した学生、長期留学した学生、厳しい体育会系部活で頑張った学生、天性の感じ良さや目立った個性を持った学生なら別だが、就活事情が進路指導決定の要素から完全に抜けている。
塾の先生はどうか?
塾の先生に相談する時、気をつけなければならないのは、塾講師のバックボーンである。塾講師はいろんな職業から流れついてきた人が多いので、考え方が各自異なる。極端に異なる。
私が言うのも何だが、塾講師は出自が怪しい。就活でうまくいかなかった人や、企業に就職したが人間関係でうまくいかず退職した人や、ポスドクで食っていけず流れ着いた人や、自由孤独を気取る人や社会主義者など、さまざまな経歴を得ている。反社会的だったり、社会のことを知らなかったり、就活というシステムに敵意を抱いていたり、就活に無知だったりする。相談相手としては偏りすぎている。
あと、個人塾講師は大企業とか公務員に潜在的コンプレックス抱いている人が多いから、教え子が有名企業や高級公務員になると度を越えて喜ぶ。独立貴族を気取っていながら、権威に弱いところを露呈する。
また生徒に対する愛情のバイアスがかかっているため、偏差値のデータを忘れ神風特攻隊のような非合理な精神で偏差値が高い志望校に玉砕しがちだ。「お前ならいける」と情熱が暴走する。
しかも塾講師は言葉がうまくて強いし、「俺はお前のことを考えているんだ」という暑苦しい愛情をまとった殺し文句をかけるため騙されてしまう。長年世話になった個人塾の先生はいわば「腐れ縁」なので、言うことにはなかなか反対できない。
学校教師塾講師、進路指導の参謀にするには一長一短がある。
志望校の最終決断権は、受験生自身にある。
『大学受験勉強法 受かるのはどっち?』
(KADOKAWA)
しがらみのない、胸をすくストレートな教育論!