猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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高1で開放感を味わったら負け
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    英会話を習得するのに、NHKのラジオ講座を毎日続けて聴くというわけには、なかなかいかない。NHKのラジオ講座は、語学習得のための安上がりで手軽な手段だとわかっていながら続かない。

    NHKラジオ講座のテキストは、新学期の4月号は山積みになっているのに、2月号・3月号になると、本屋の片隅に埋もれてしまっているという事実が、語学を「強制力」なしに習得する困難さを物語っている。だから英会話を習うために、人は高いお金を払ってNOVAやイーオンに通うのだ。英会話教室への高い授業料は、「強制力」への代価である。

    学習塾にも同じことが言える。塾の役割の1つとして「強制力」がある。塾は時間が決まっていて、わざわざ家から通わなければならない。さぼったり、宿題を忘れたりしたら、先生に叱られる。

    僕は子供を勉強に導くための適度な「強制力」が、塾の商品価値の1つだと考えている。塾の「強制力」のおかげで、子供が塾に通っているうちは、安定した学力が維持できて、志望校に合格できる可能性も高くなるはずだ。

    ただ、中学生が塾にいる時だけではなく、高校に入学して塾を卒業した後も自発的に勉強できる強い意識や学力を、中学生専門の塾が育むことができるか?
    これは塾側としても、大きな課題なのだ。

    自主性を育むための、僕の試みの一例をご紹介しよう。

    僕は中学3年生の、入試3ヶ月前になると、いっさい宿題は出さない。これは、大きな冒険だ。
    本当ならば、この時期は入試へ向けて、塾の「強制力」をフルに発揮させなければならない時期だ。生徒に向けて機関銃のように宿題を一斉放射しなければならないのはわかっている。

    しかし僕は、子供の自主性を育てるための実験台として、一番大事な時期を選ぶ。勉強に対する自主性を育てるには、受験前の時期しかないのだ。

    なぜなら、目前の困難に対する不安こそが、自主性を育むからだ。
    もしひとりで登山していて、谷底に落ちてしまったら、自力で這い上がらなければ死んでしまう。そんな時人間は、想像力・実行力・体力・持続力を、フルに発揮させなければならない。そして助かったとき以前より精神的にも体力的にも強靭になっている。

    受験を目前にして子供が不安で仕方ないとき、塾の「強制力」は子供にとっても親にとっても非常に有難いものだ。ただ、塾で出される課題を機械的にこなしていればいいのだから。

    しかし塾が宿題を出さないと、「いったいどんな勉強をしたらいいのだろう」
    と、子供は不安を掻き立てられる。

    そこで、子供は頭を使う。子供に、自分自身の力で、受験というプロジェクトを成功させる計画を立ててもらう。自分で自分の弱点を客観的に精査して、自分で解決する。

    もちろん、僕は無責任に子供を放ったらかしにしているわけではない。授業では、入試に最も即効性のあるカリキュラムを組み実践するのは当然のことだし、
    暗記事項を覚えてもらうために「暗記特訓」も行う。
    また、なぜこんな大事な時期に、宿題を出さないという大胆な方針を取っているのか、その理由を前もって綿密に話す。そして、どんな勉強方法が子供に適しているか、思いつく限りの多彩なケースを提示して、参考にしてもらう。また、自分の勉強方法が正しいかどうかを常に意識させるために、テストは頻繁に行う。

    僕が機関車のように子供を引っ張るのではなく、子供を先頭に立たせて1歩後の位置から相談役に徹するのだ。

    講師の側から見ても、大量の宿題を出していれば安心だ。ただ、それでは大学受験につながらない。

    しかしこんな具合に、自主性をめざしていながら、安心して自主性を信頼できる子は、約3割〜5割ぐらいだろうか。
    宿題がないことに甘え勉強を怠る子いる。そういう子には面談なり電話なり手紙なりで、コミュニケーションを取る。
    最終的に私が「強制力」を発動しなければならないケースは多い。

    結局私がやっていることは、塾の「強制力」の枠内での、「自主性ごっこ」に過ぎないのかも知れない。

    さて、中学生時代に、塾で「強制的」に勉強させられて、高校へ通い始めたら、いったい勉強はどうなるのか?
    「強制力」が消えた場合、子供はどうなるのか?

    事実、高校生になって、勉強への興味を失ってしまう子がいる。高校へ行ったら勉強をしない、成績が下がる。
    特に、中学生の時は厳しい塾に通った生徒が、高校は生徒の自主性を重んじるところ(見方を変えれば、甘い高校)へ進学した場合に、よくあるケースだ。

    高校の勉強は中学の10倍難しい、しかし怖くて熱心な塾の先生の存在が消えるので、受ける「強制力」は10分の1になる。となると、勉強のモチベーションは、単純計算で中学時代の100分の1に下がってしまう。
    中学時代は、塾という猛烈な機関車に牽引されてきた客車が、高校生になった途端に機関車がどっかへ消えてしまって、動力を持っていない哀れな客車は自分では動くことができず、線路の真ん中でぽつんとたたずむしかない。

    何故勉強しなくなるか、成績が下がるか。それは、中学時代の塾が子供に与える負荷が大きすぎて、子供が燃え尽きてしまったからなのかもしれない。また、中学生時代の塾の先生の暑苦しいぐらいの熱意と、高校の先生の放任主義のギャップに戸惑っているのかもしれない。

    ところで、私は実は「教え子が高校になってから勉強しなくなる」という心配を、あまりしなくてもいい立場なのだ。
    それはなぜかというと、うちの地区では最難関の公立高校が、そこらのスパルタ塾も真っ青な「強制力」の権化だからである。

    うちの地区で最難関の公立高校は、県が人材・資金を集中させる重点校で、進学実績を伸ばすために総力を挙げている。朝は7時から補習をし、年に何回か「勉強合宿」をやって、合宿では1日14時間勉強させる。
    多くの子供はもちろん嫌がるが、保護者や私は一応安心して子供をこの高校へ送り込る。

    中学校で厳しい塾の洗礼を浴び「強制力」で引っ張り上げられた子は、高校生になっても、なんらかの「強制力」に頼るのが一番安全な道だと思う。成績面だけを考えたら、恐らくそれがベストだ。

    高1で履修する内容が、センター試験で大きなウェイトを占めるという事実、また高3になると、難関国立・私立高校の生徒が本腰を入れて勉強に取り掛かり始めるという事実。そんな事実を真剣に考慮すると、大学受験を本気で考えるならば、高1でのスタートダッシュは非常に大切で、高1で成績が下がっている場合なんかない。

    ただし、そんな勉強に対する「強制力」が、子供の将来にどんな影響を与えるのか、子供をどんな大人にするのかはわからない。
    | 大学受験 | 16:52 | - | - | ↑PAGE TOP
    妻を料理上手にするコツ
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      私はまずいものを食うのが嫌な男だ。まずいものを食べたら、大事な一日が汚れたようで損した気になる。

      それから私は食べ物を残せない。特に米は絶対に残せない。
      中学校の校長先生に、入学式で「米はお百姓さんの汗です。菩薩です。おろそかに食うなよ」と吹き込まれて以来、米を残すことを罪悪だと思う気持ちは人一倍強い。

      まずいラーメン屋のラーメンも残せない。醤油に湯を注いだだけみたいな、ダシもろくにとっていないラーメンにコショウをかけたら旨くなるのかなと思って、バンバンコショウを入れる。うまくなれ、うまくなれと、祈りを込めて。
      しかし当然コショウをかけても、まずいラーメンが劇的に旨くなったりはしない。

      それから、人間は食ったら太るのだから、旨いもの食って太りたい。まずい食い物で作り上げた筋骨隆々の肉体よりも、旨いものでできたブヨブヨの醜い贅肉の方が、私にはいとおしい。

      そんな私にとって、家庭での食事は何より重要だ。もし私の妻の料理が下手だったら困る。何としてでも上手にしたい。毎日家に帰るのが楽しみになるぐらい、妻を料理上手に仕立て上げたい。

      ただし料理には素質がいる。素質がない人は、私がいかに頑張っても料理上手に仕立て上げることは無理なのだ。

      料理の素質とは何か?

      まず第1に、絶対的で正しい味覚を持っていることである。
      味覚が先天的なものなのか、後天的なものなのかはわからないが、後天的なものが大きいと私は思う。

      日本人の遺伝子には「味噌汁大好き」「フグには目がない」という情報が記録されているわけではないし、アメリカ人やイギリス人の舌に「まずい物しかオレは食わねえ」と刷り込まれているわけではない。正直、アメリカの飯はエサで、イギリスの飯はゴミである。

      アメリカやイギリスはともかく、繊細な舌を持つわが日本でも、何を食べても不味い食べ物屋がある。料理人の味覚が悪いのだろう。スープの塩気が足りないとか、煮物の旨みにパンチがないとか、焼きソバのもやしが生焼けとか、グラタンのホワイトソースが粉っぽいとか、サラダの酢がキツイとか、どこかギクシャクした味。まずい食べ物屋の主人は味覚音痴のくせに、なぜよりによって料理人を選んだの理解に苦しむ。他にも仕事を選択できたろうに。
      とにかく料理人には、絶対的な味覚が必要だ。

      第2は、料理の作り方に好奇心を示すこと、レシピに対する想像力を持っていることだ。

      レストランで旨い料理を食べたとき、料理好きの人なら、「いったい、この料理はどうやって作ったのだろう?」と作り方に興味を示すはず。

      「この酸味のもとになる材料は何なの? レモン? ワインビネガー? バルサミコ酢?」
      「調味料の配合は? この旨味の正体は何なのかしら? 醤油だけじゃなくナンプラーかニョクマムも入ってそうだわ」
      「材料を煮る時間のころあいは? 調味料を入れるタイミングは?」
      理系の機械好きの子供が、車や電気製品を見たら解体したくなるように、料理好きの人は旨い料理を食べると作り方に興味を示し、レシピを探ろうとする。

      しかし料理嫌いの人は、ただ幸せそうにおいしく食べるだけで、自分で料理を再現してみようとは夢にも思わない。結果として、美味い飯を外で食べても、自分で作る料理は全然進歩しない。

      最近は料理の本が充実して、料理の本のレシピそのままで美味い料理が出来る。料理番組もたくさんある。特にグッチ裕三のポイントをついた簡潔な教え方は素晴らしい。話し方もテキパキしている。やり手の塾講師みたいだ。

      しかし、料理本や料理番組のレシピをなぞっているだけでは驚きがないし、また進歩がない。料理の才能がある人は、料理の本を見て作っても何かしらの独創的な工夫を加え、換骨奪胎して新しい味を作り上げる。

      「この酢の物は普通の酢より、カボスかスダチの方が味が映えるわね」
      「刺身に胡麻油を混ぜて和えろと書いてあるけど、ネギ油の方がいいかも。それからネギより香菜の方が絶対においしいわ」といった具合に。

      私だって豪華な外食と家庭料理の違いがあることぐらい十分理解している。しかしプロの技の「かけら」くらいは家庭に持ち込んで欲しい。プロに対して少しだけチャレンジャー精神を見せて欲しい。そして自分なりのオリジナリティーを発揮して欲しい。

      第3は根気だ。料理は手間がかかる。私の妻には思いっきり手間をかけて欲しい。

      昼飯が蕎麦なら、蕎麦粉を石臼で丁寧に挽くことからはじめて欲しい。
      米を炊く時は、旨い米が炊けるように、黒いお盆に米を少しずつ載せ、欠けた米を取り払う作業を欠かさないで欲しい。
      枝豆の旨い季節なら、ただ茹でておしまいという手抜き作業ではなく、すり鉢で豆を摺って、砂糖を混ぜ餅をついて、デザートにずんだ餅を作って欲しい

      第1に絶対味覚。第2がレシピへの好奇心。第3が根気。この3つの素質がなければ、料理上手にはなれない。

      さて、妻に料理の才能があるといったん認めたら、私は全知全能を傾けて、妻を料理上手に育て上げるだろう。

      では、素質はあるが、まだまだ料理人として未完成な妻を、料理上手にするにはどうしたらいいのか?

      第1に、どういう料理が旨いのか、実際に食べてもらうことが大切である。
      私が「うまい」と思うイメージを、妻と共有化する作業が必要だ。つまり、私が好んで通う店に行って、私が「うまい」と思う味を、妻の舌に記憶させるのだ。

      例えばロースカツなら銀座「煉瓦亭」の油の旨み、焼肉なら足立区鹿浜の「スタミナ苑」、豆腐なら大阪長堀橋の居酒屋「ながほり」の濃厚な生クリームのような味覚、豚の角煮なら香港「雪園」「老上海飯店」の皮を残したとろりとした感触、うどんなら讃岐「山越」のグミキャンディーみたいな絶妙なコシ。
      百聞は一見にしかず。おいしい店に通って、味のイメージを共有化するのだ。

      第2に叱ること。厨房に心地よい緊張感を漂わせ、手を抜いたらズバッと指摘する。
      「今日のチンジャオロースーは、豚肉を低温で下揚げせずに、そのままピーマンと一緒に炒めただろう。手抜きだ」
      「今日の天婦羅は、揚げる前に粉を冷凍庫に入れる手間を惜しんだな。だから衣がサクッと揚がっていない。ほんの少しベタッとしている」
      眼力舌力を駆使して、工程の手抜きを見透かす。

      とにかく、料理に手抜きを許さないスタンスを明確にしておく。
      だから、手抜き料理の名手である小林カツ代の真似事などすることは許さぬ。
      小林カツ代が紹介する料理は結構旨いのだが、料理哲学が私と反する。「かんたん」とか「お手軽」とかいう言葉は、私の料理道の辞書にはない。
      「小林カツ代&ケンタロウの、5分間”のほほん”クッキング」などという類の書物は、わが家では焚書に値する。

      第3は徹底してほめること。試行錯誤を惜しまず、失敗しても耐えながらほめることだ。大事なのは、私が妻に愛される人間であり続けることだ。
      愛されるためには甲斐性を持ち続けなければならぬ。そして私が妻から見て、旨い料理を食べさせるに値するだけの、魅力を持ち続けていなければならぬ。

      夫婦間に愛がないのに、旦那が奥さんに「蕎麦は石臼で挽け」とか、「枝豆でずんだ餅を作れ」と命令し続けていると、「旦那が料理に偏執狂だから離婚したい」と家庭裁判所に訴えられてしまう。

      愛する人の嬉しそうな顔を見ることが、料理のモチベーションを上げるのだ。

      ところで、今日の日記の文章の内容はメタファーである。料理を勉強に置き換えて読んでみてほしい。
      妻を料理上手にするコツと、子供が勉強できるようにするコツは似ている。
      | 未分類エッセイ | 11:32 | - | - | ↑PAGE TOP