猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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自分の知能指数が知りたい
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    高校生のとき、学校サボって図書館で読書に励んでいたら、ある本の中に「民族別知能指数」という恐ろしげなランキング表があるのを見つけたことがあった。
    民族のIQを、まるで大学の偏差値表のように上から順番に並べたものだ。

    それによると、

    1位 ユダヤ人(ダントツ)
    2位 日本人
    3位 中国人

    で、その続きは忘れてしまった。
    どうせこんなのは、ユダヤ人が調査した結果なのだろうから、1位がユダヤ人という結果はユダヤの陰謀で、実質日本人が1位なんだろうと勝手に解釈する。

    そして、表の一番下には

    黒人
    プエルトルコ人

    と書いてあったと記憶する。
    刺激的な本だった。

    ところで、最近の小学校では子供にIQ調査をしているのだろうか?
    私は小学校でIQを調査された記憶がある。小学校の時は体育館で迷路のクイズをやった。今思うとあれはIQ調査なのだろう。結果は知らされなかったけど。

    偏差値や学年順位は、子供の努力で上下する数値だからテストをバンバンやって公表してもいいのだろうけど、知能指数は先天的絶対的能力だから困る。

    いま、子供のIQを調査することはタブー視されているのだろうか?

    たとえば「男女の間に、IQの差はあるのか?」という調査1つをするにしても、見えない圧力で厳しく戒められているような気がする。

    あと、私は島で塾を開いているが、ある人が
    「うちらは島じゃけえ、血が濃ゆうて、知的障害持った人間が多いわ」
    という恐ろしい説を唱えていた。

    確かにうちの島では、「金」や「李」や「朴」という苗字が圧倒的に多い韓国・北朝鮮みたいに、特定の苗字が異常に多い。
    4つの苗字だけで、島の人口の70%ぐらいを占める。

    韓国だと、同じ「金」姓の中に「本貫」という細かい区別があって、同じ「本貫」同士では結婚できないと聞く。
    韓国ではそんな工夫をしながら、「血が濃くなる」ことを防いでいるのだろうか?

    ところでもしかしたら、雑多な人間が集まる都会と、閉鎖された空間で「近親婚」が続く島と、どちらのIQが高いのか比較実験している研究機関もあるかもしれないが、公表したら大騒ぎになるだろう。

    たとえ調査していたとしても、興味本位で語られやすい内容だから、調査結果は象牙の塔の塀の中に隠しておいた方が、賢明だと思うけど。

    それはそうと、私は自分の知能指数が知りたい。小学校の倉庫の奥のファイルに調査結果が残されているのだろうか?

    | 未分類エッセイ | 13:10 | - | - | ↑PAGE TOP
    開成高校の凄み
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      僕は80年代前半、田舎から単身、東京の私立御三家の一つ開成中学に入学した。そして6年間独り暮らしをしながら開成中学・高校に通った。
      開成高校は20数年間東大合格者数日本一を続けている。「勉強ができる」ことに関しては、「日本一の高校」と言えるかもしれない。

      僕が田舎の小学校時代は勉強が飛び抜けてでき、周囲からは「神童」と呼ばれた。その神童の僕が、開成中学・高校の凄い奴らに、どのように打ちのめされたか書いてみたい。
      田舎で勉強ができる奴らの大部分が所詮井の中の蛙にすぎないことを、僕は身をもって体験した。
      「勉強日本一の高校」の真の凄みを紹介しよう。いったい開成中学・高校の生徒の能力はどれほど凄いのか?

      よく2月になると、開成・麻布・武蔵の御三家など有名私立中学、あるいは筑駒や学芸大附属などの国立中学校に合格した賢そうで少々生意気な小学6年生の少年達がTBSあたりのテレビに出演する番組がある。

      司会者が「君はどこの大学に行くの?」「君将来何になりたい?」と聞くと、有名中学に合格した子供は決まって
      「東大に行って、医者か弁護士か官僚になりたい」
      と、当然のように笑みも浮かべずに澄まして答える。

      多くの視聴者は、若干12歳にして天下を取ったような若い自信あふれる子供の態度に、頼もしさや羨望や嫉妬の入り混じった複雑な感情を抱く。人生そんなに甘くないぞと憤慨する。
      その通り。人生そんなに甘くない。大部分の開成中学に合格した子供にとって、合格して入学するまでの瞬間こそが、人生で自己評価が一番高い瞬間なのである。

      ここで少々、田舎で「神童」と呼ばれた僕の小学生時代の自慢話(?)をしよう。
      僕が勉強の「天才」だということは、周囲の人たちにとって暗黙の了解になっていた。田舎の小学生時代、僕にとってテストは地獄だった。特に算数のテストはできすぎて辛かった。

      ある日いつもの通り、僕は算数のテストをあっという間に全部終わらせてしまった。横の友人を見るとまだ5分の1も終わっていない。必死に解いている。
      そして僕は残された膨大な時間に困惑し「俺はみんなといっしょじゃないんだ」という途方もない孤独を感じた。どうしようもなくなって、僕は涙を流した。。
      先生は泣いている僕を見て「どうしたの?」とやさしく尋ねてくれたが、小学生の僕には、何故自分が今泣いているのか説明することはできなかった。
      僕はテストのたびに早く解き終わってしまい、他の子が解いている間孤独な時間を過ごしたのである。

      そのうち、一回やったテストの解答を全部消して、もう一度はじめから解いてゆくと孤独感がいくらか薄まって、しかもスリルがあることに気付き、その後はずっと何度も何度もやった答えを消してテストを受けた。

      ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

      僕は小学1・2年の頃は体が小さく、元来おとなしい人間なのでよくいじめられた。しかし小学校4年生ぐらいからであろうか、俺が勉強が飛び抜けてできるのがわかると、周囲の俺に対する接し方が変わって来た。

      まず友人の俺の名前の呼び方が変化する。呼び捨てだったのが、そのうち「君」づけに変わった。小学校6年生になると、ほとんどの子が俺の苗字に「さん」をつけて俺を呼んだ。小学生で同級生から「さん」づけで呼ばれる。今考えると気味が悪いが、当時の僕はそれを当然だと考えていた。

      同級生の親達は、自分の子を僕と遊ばせるように努力した。僕と同じ空間を共有することによって、自分の息子が賢くなると信じていたのだ。
      同級生やその親の中には、僕が大臣か博士になると信じていた人もいた。

      ある時、俺が風邪を引いて、学校を休んで医者に行った時、看護婦さんが僕を呼び止めた。その看護婦さんは僕の同級生の親である。
      看護婦さんは俺に色紙を渡して行った。
      「ねえ、サインして。子供の部屋に飾っておくから。あなたのサインが部屋に張ってあったらうちの子も賢くなるわ。」
      僕は精一杯の楷書で、色紙にマジックで自分の名前を書いた。僕が書いたそのサインが、今はどうなっているのか知らないが、非常に恥ずかしい体験だった。

      田舎で神童振りをたっぷり発揮した僕が、開成中学に入学したらどうなったか?
      無邪気なほど自信満々の子供たちは開成中学に入学して、自分より遥かに凄い奴の出現によって、残酷なまでに自信の牙を抜かれるのである。

      自分が音楽の天才だと思っていた少年が、圧倒的にレベルの高い音楽学校に入学したら、そこにはモーツァルトが何百人もいて圧倒された。そんな感じだ。野球少年だったら、周囲にはイチローや松井や松坂ばかりなのだ。

      それにしても、開成中学は本当に凄いところだった!
      僕の勉強の力など、ゴミのようなものだということが、23日授業を受けてみると痛切にわかった。

       

      僕のクラスで一番勉強ができた同級生は、小5の時に英検2級を取っていた。英検2級は高校3年生程度の英語力を必要とする。
      つまり彼は中学校入学時に大学受験をパスできる英語力を身につけていたのである。
      首都圏最難関で知られる開成中学の入試と並行して、高いレベルの英語学習をしていたとは驚くべきことである。

      さらに驚嘆させられたのは彼の性格だった。開成中学といえども英語は当然アルファベットから始める。
      ところが英検2級の彼も、他の皆と一緒にアルファベットから英語を始めたのである。

      彼は英検二級、仮定法も分詞構文も複雑な比較構文も、高校で習う文法事項はすべて知っている。5000語ぐらいの語彙力もあるだろう。
      それなのに今はじめてアルファベットを習うかのように、生真面目に「A、B、C・・・」と書いている。彼の顔は、恐らく彼にとっては退屈極まりないアルファベットを学ぶ時でさえ、新鮮さにあふれていた。

      よく学校の先生の話を聞くと、塾で先に習っているので、学校ではまじめに授業を聞かない子が多いという。
      そんな中途半端に勉強ができる子には、英検2級の力を持ちながらアルファベットに真剣に取り組んでいるこの男のことを聞かせてやりたいと思う。

      素直な子ほど成績が伸びるというのは事実である。勉強できる奴はさぞ性格が悪いだろうというステレオタイプの考え方は、彼の存在によって通用しないことが明らかだ。

      開成高校では、勉強ができる生徒は謙虚な子が多い。
      そして大抵の開成中学の子供たちは、彼のような信じられない能力と謙虚をもった人格に対して、知らず知らずのうちに打ちのめされてしまう。
      彼の存在を知った後、まだ自分は受験戦争に勝ち抜いたエリートで凄い男だと言い張ることは、よほど厚顔無恥な性格じゃあない限り不可能である。

      だから東大合格者数1位を誇る開成中学・高校の生徒が、勉強ができることを自慢する、やたら威張りまくる傲慢で鼻もちならない奴ばかりというのは大きな誤解である。

      開成中学・高校の生徒は周りの人から「勉強ができるんですね。すごいなあ」と称賛されても戸惑ってしまう。なぜなら自分より遥かに凄い奴の存在を、身をもって触れているから、とてもじゃないけど自分が勉強できる偉い人間だとは、とても恥ずかしくて言えないのである。

      「勉強ができるんですね。すごいなあ」と褒められて、開成の人間は「いや、そんなことないですよ」と答える。この答えを大部分の人達は謙遜だと受け取るが、開成高校の人間にとっては謙遜でもなんでもなく、ただ事実を答えているだけなのである。

      英検2級の同級生の他にも、凄い男はいた。中学1年で公文の課題を微分積分まですべて終了させた者、道元の「正法眼蔵」やケインズの「一般理論」を休憩時間に読んでいる者、国鉄の駅名をすべて言える者、巨人軍創設以来の全試合のスコアがたちどころに出てくる者(昭和36年5月3日の国鉄スワローズ戦は5対3で巨人の勝ち、勝ち投手藤田、負け投手金田、本塁打は広岡3号、長嶋7号、と言った具合)、クラシック音楽の作曲をする者、自作の憲法を作る者・・・
      あらゆる種類の凄い同級生たちが、僕に刺激を与えてくれた。

      しかし、僕は最近こう思う。
      自分とは比べ物にならない凄い力を幼い時期に知ってしまうことが、開成中学・高校に通う、普通の学力しか持たない人間の欠点じゃないかと。

      若年のうちから堅牢無比な力を見せつけられて謙虚になり過ぎて、自分の能力の限界を早めに見切ってしまい、出過ぎた行動ができなくなってしまうのだ。傲慢になろうともなれなくなってしまうのだ。
      いつしかそんな気持ちは、修繕不能の消えない痣のような劣等感につながっていく。

      凄い同級生に囲まれてやたら自己評価が低くなり、冒険をあえておかす人間が少なくなってしまう。開成高校の生徒は自らの賢さからくる、客観的に人物の力量を判断する力で的確な自己評価を下して、その枠に囚われすぎてしまう。自らの賢さによって墓穴を掘っているのだ。

      だから御三家からは近年、個性のある魅力的な有名人は輩出していない。野性的でリーダーシップを取れる人材はこういった環境からは生み出しにくいものなのだろうか。ほとんどの人間は医者や弁護士になるか、或いは役人や一部上場の企業に就職してしまい市井に埋もれてしまう。

      われわれは、自分より凄い奴を見ると、賞賛するより前にどうしてもその凄い奴の欠点を探して、その欠点を拡大解釈して精神的に安定する。
      「あの財務官僚は社会的地位はあるが、人格的欠陥を持つ」と思うことで、安心感を得るのだ。
      つまり自分より社会的地位も老後の安定性もバイタリティーもある財務官僚が、人格的欠陥(非常に曖昧な言葉だが)を持つと思い込むことによって、自分の劣等感を抑制するのである。自分を慰めているのだ。

      しかし開成高校で人格・識見・学力、そして人間づきあいの上手さなど、全てを兼ね備えた人間を見ていると、欠点を血眼になって探すという行為自体が薄汚いものに思えてきて、圧倒されるのだ。逃げ場がないのだ。

      そんなわけで、一部の人間は勉強からドロップアウトする。クラブ活動に燃える者(開成高校ではクラブは意外と盛んである。試合には弱いが)、小説や音楽美術などに走る者、渋谷のセンター街で名を売る者(開成高校の不良はたちが悪いので有名)、オタクの世界に走る者(数はこれが一番多い)などドロップアウトの方向性は様々である。

      しかし、結局彼らが勉強以外のどんな道を目指しても、ほとんどものにはならない。若い時分には、自分は勉強以外のほかの分野では生計を立てるんじゃないかとなぜか錯覚してしまう。
      小学生時代の神童体験、周りの人からちやほやされた夢をもう一度再現したいという欲が心のどこかにある。

      勉強では無理だ。上には上がいる。でも、もしかしたら他の分野なら一流になれるかもしれない・・・
      しかし運動も文学も音楽も芸術も不良体験も、どの分野にも同世代の凄い奴らがいる。開成の人間ははドロップアウトした分野でもドロップアウトしてしまう。

      「知らない何かに背中を押され、夢中で転がりやっとつかんだものに、心を裏切られちまった、心をなじられちまった」という気持ちになる。
      そして、開成の落ちこぼれ達は、結局勉強する能力において、自分が人から抜きん出ていることに気付く。そして彼らの多くは、勉強へと回帰するのだ。

      これは余談だが、内向的になって親に暴力をふるう者、学校をやめる者、自殺する者もいる。有名な話だが、俺が入学する前には、家庭内暴力で親父に暴力を振るった先輩が父親に絞殺された(水戸黄門の西村晃主演でドラマ化もされた)。
      また僕の同級生は、中2の時に中学校をやめ、その後高2の時に彼の訃報を聞いた。

      時折、勉強が滅法できる凄い奴が趣味やスポーツの世界に走り、勉強を疎かにすることがある。しかし彼らの成績は全く下がらないのだ!
      そんな時が一番悔しいなあ。
      | 中学受験 | 16:56 | - | - | ↑PAGE TOP
      私が車(免許)を持たない理由
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        私は自動車の免許を持っていない。当然車もない。持たない理由は思いつくだけで8つ。

        理由その1。大学生の時に塾のアルバイトで時間が取れなかったから。
        春夏冬の長期休暇は大学生にとって免許を取るのに最適の時期だが、私は塾の講習会にかかりきりで朝から晩まで仕事に追われ、教習所に行く暇なんてなかった。
        私が免許よりも塾の仕事を優先したのは、免許取得のために塾の仕事を休むのは私用優先で、職業倫理に反しているという殊勝な心がけを持っていたからではない。何よりもお金が必要だったし、「教習所に行くので休みます」なんて言ったらその瞬間塾をクビになりそうで怖かったからだ。
        大学生の時私は塾講師としての力に自信がなく、いつクビになるか危険性を常に感じていて、教室長や社員の言うことに逆らうことは思いもよらなかった(逆に自分の力にある程度自信を持ってからは、思いっきり自分の考えを通した)。だから自分の予定があっても塾の仕事を最優先させた。
        塾の経営を始めてわかったのだが、私のようなタイプの真面目(?)な大学生は、雇う側にとっては一番使いやすいタイプだったろうなと思う。

        2つ目は、小学生の頃から鉄道ファンで、自動車に対して意味のないライバル心を持っているから。
        スーパーカーブームの時も、ランボルギーニ=カウンタックより蒸気機関車D51の方に興味があった。世間一般の男の子と違って、私の血は車に対して煮えたぎらなかったのだ。友達がランボルギーニやポルシェやフェラーリに夢中になっている時、私は国鉄の時刻表を眺めてうっとりしていた。いまでも車には全く興味がない。だから私は車種がほとんどわからない。
        判別できるのはロールスロイスやフェラーリやベンツぐらい。ポルシェと軽自動車の違いもよくわからん。さすがにオープンカーはわかるぞ。

        3つ目は、教習所に行ったら態度のでかい教官と喧嘩になりそうだから。
        居丈高で横柄なオッサン教官と、プライドの高い私みたいなオッサン塾講師が狭い車内で顔をつき合わせたら、一瞬即発のピリピリした雰囲気になるのは必至である。教官と塾講師の偏屈比べになりそうで怖い。絶対に喧嘩する。
        いや、そうとは限らない。逆に教官も塾講師も若い連中を相手にしているから、今の若者に対するジジくさい悪口で意気投合して盛り上がるかもしれない。

        4つ目は、私の家も仕事場も公共交通機関に恵まれた場所にあるから、車の必要性を感じないから。
        私はバスとフェリーで塾に通っている。バスもフェリーも5〜10分に一本あるから不便を感じない。私は車どころか自転車にも乗れないのだが、それでも通勤は快適だ。
        実は4年前まで私の塾から歩いて2分しかかからない場所に自動車教習所があった。今は別の場所に移転してしまったが、仕事前にちょっと教習所にでも行こうと思えば簡単に通えたのである。そんな恵まれた環境にあっても自動車の運転にはあまり興味を持てなかった。

        5つ目は私に妻子がいないので、車を使って家族サービスをしなくていいから。また介護しなければならない老人もいないので車は必要ない。
        私の父が末期ガンで死ぬ寸前、病院を嫌がり家で療養していた。そんな時、車があれば病院と家の往復に便利だと正直思ったりしたが、結局タクシーで間に合った。

        6つ目は、私は考え事に没入しすぎて、周囲が見えなくなるクセがあるから。
        電車や家や仕事場の中では、別に物思いにふけりボ〜ッとしていても誰の身体も傷つけたりはしないが、車だったら前方不注意で事故を起こすに決まっている。
        たとえばブログや小説のネタを考えながら車を運転すると自分のネタに酔い、考え事が佳境に入って前方が見えなくなっている時、突然ヨボヨボのお婆さんが車道に現れ、車にぶつかり身体が宙に舞うのは怖い。
        また、私は読書に熱中しすぎて、電車を乗り過ごした経験が3回ある。また本屋で立ち読みに没頭すると、われに帰ったとき一瞬自分がどこにいるかわからなくなる。妙なところで集中力を発揮するので、私が運転する車は殺人兵器になる。

        7つ目は、引きこもりがちの私が車を買うと、もっと引きこもりが激しくなる可能性があるから。
        自動車という密室は私のような人嫌いの人間にはおあつらえ向きの空間である。適度に狭く、疲れたら後部座席で寝れる。カーステレオもある。居心地のいい空間にこもる時間が長くなれば、ますます他人と口をきくのが億劫になる。
        車を持っていれば行動範囲が広がる。塾の帰りにブックオフで立ち読みしたり、TSUTAYAでDVDやCDをレンタルしに行ける。
        また塾が終わった夜の11時ごろから深夜のドライブでもしてみたい。気分転換に広島や岡山へ行ったり、山陰方面に車を飛ばして日本海の朝日を見に行ったりできたら楽しいだろう。しまなみ海道で松山に行って道後温泉で朝風呂もいい。とにかく車を買ったら、車に入り浸ってしまう。
        自宅でこもり、車でこもり、仕事場でもこもり、外界との接点を無くしてしまえば、ますます私の人嫌いが激しくなる。

        8つ目、車を買うのには金がかかるし維持費もかかる。その金を海外旅行に回した方がずっと楽しい体験ができる。まさか車でNYやパリに行くわけにはいかない。
        私は普通の大人が車に回すお金を、全部旅行につぎ込んでいるのだ。外国、特にアメリカやヨーロッパをレンタカーで走ってみたいとは思うが、そこまで贅沢したら天誅が下りそう。
        | 未分類エッセイ | 14:01 | - | - | ↑PAGE TOP