猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
kasami88★gmail.com
CALENDAR
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< October 2003 >>
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
猫ギター
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
LDと素人判断
0
    LDについての雑感を少々述べる。LDとは Learning Disabilities の略語で、日本では学習障害と訳されている。

    LDとは、知能が遅れていないのに文字が読めなかったり、国語はよくできるのに算数はさっぱりだったり、成績は良いけれど遊びやスポーツのルールが理解できず、みんなと一緒に遊べなかったり、知能などの発達に”普通の子”とは違った”障害”がある、子供たちのことである。

    教育現場では、LDを「暗記能力に欠ける子」と安易に結びつけるケースが多い。

    子供がLDかを判断するのは非常に難しい。
    人間が障害を持っているかどうかの判断は、専門の医者が下す。そして先天的な障害があれば、産婦人科や小児科の先生が、親に告知する。

    ただLDについてはこれらのケースとは違い、判断のプロセスが極めて曖昧だ。

    子供が持つ学習障害に最初に気がつくのが親だったら、親が専門の医者に相談し、判断を仰ぐことができるわけだから、比較的スムースな対応が取れる。
    その後親は学校の先生に子供がLDであることをきちんと告げて、適切な対応を要求することができるし、また専門家に教育を委ねるなりして、相応の措置を取れるわけだ。

    ただ、LDという障害が一般的に認知されているかというと、どうやらそうではないらしい。
    子供の学習能力に問題があっても、それをLDという言葉と結び付けて考える親は、まだ実は多くないんじゃないだろうか。
    親が子供の学習障害を幼少期に見過ごす場合が、想像以上にたくさんあるのではないだろうか。

    そうなると、子供の学習障害について最初に気づくのが、学校教師や塾講師である場合が多くなる。学校教師や塾講師が、
    「あの子は記憶力が悪い。LDかもしれない」
    「彼は情緒不安定だから、ADHDかもしれない」
    と、教育現場で判断するケースが増えてくるだろう。

    ただその場合に、LDについて専門的知識を持たない学校教師や塾講師が、子供にLDという障害があると、勝手に判断することは危険だ。

    LDとLDでない子の境界線がわからない教師が、素人判断で親に対して、「お子様はLDかもしれません。」と懇談の席で、果たして言えるのかどうか。
    学校教師や塾講師の中には、自分の教え子を「LDじゃないか」と疑いながら、口に出せずに悩んでいる方は想像以上に多いと思う。

    LDの子は学校や塾で、非常につらい思いをしている。学校や塾で与えられる、膨大な暗記項目を記憶することは、LDの子にとって地獄の沙汰ではないだろうか。

    僕は自分に置き換えて考えてみた。自分がLDの子の立場に立たされたらどうするか。

    たとえば、僕以外の人間が、コンピューターと同じ記憶力を持つ能力を持っていたとする。
    学校では、百科事典数十冊分の分量のラテン語の文献を、周囲のコンピューター人間が楽々と記憶しているが、僕にはちっとも覚えられない。
    もしそんな立場に立たされたら、僕は自分の記憶力の欠如に強い疎外感を覚えるだろう。

    しかも先生から短時間で膨大な暗記事項を記憶しろと命令される。僕にはどうしていいかわからない。
    そんな状況が毎日続けば、劣等感を抱かないほうがおかしい。毎日毎日自分の記憶力の無さをイヤでも感じなければならない学校は、自分を認めてくれない地獄の場所だ。ましてや友人から「お前は馬鹿だ」と罵られたら、やり場の無い憤りが、胸に重くのしかかる。

    僕は口が達者だから、自分の苦境を理路整然と声高々に訴えることができるだろう。「こんなにたくさん覚えられるか!」と反抗するだろう。
    しかし、LDの子は語彙が豊富なわけではない。自分の苦痛を訴える言葉も不器用なものになってしまう。

    彼らはおそらく、「眠い」とか「疲れてイヤだ」という言葉でしか、自らの苦境を訴えられないのだと思う。それを聞いた大人は、ふざけているようにしか聞こえない。LDの子を怠惰な奴だと誤解して、「根性が足りない」「甘えるな」とかいった、冷たい見当違いな言葉をかけてしまいがちになる。

    そんな悲劇をなくし、記憶し理解することが苦手な子供を苦境から救うために、LDという「レッテル」は、大きな役割を果たすと思う。
    何よりも教える側に、子供に対する配慮が生まれるだろう。


    | 硬派な教育論 | 17:37 | - | - | ↑PAGE TOP