2004.09.20 Monday
チェッカーズ騒動
特に私が中2だった1982年はアイドルが豊作で、歌番組は新鮮なアイドルたちの初々しい姿が目立った。
1982年にデビューしたアイドルは凄いメンバーが揃っている。中森明菜・小泉今日子・堀ちえみ・松本伊代・石川秀美・早見優・三田寛子・・・ 今では松本伊代はヒロミの、石川秀美は「はなまる」の薬丸の奥さんになっている。そういえば新井薫子なんてのもいた。彼女たちは後に「花の82年組」と呼ばれるようになった。
ちょうど思春期真っ只中のときに、アイドルがよりどりみどりだったのは、今思うと結構幸せだったのかもしれない。
当時私の中学で一番人気があったのは、おそらく中森明菜である。
中森明菜はデビューして間もない頃は、そんなに売れていなかった。中森明菜の事務所は「ちょっとエッチな、ミルキーッ娘」というキャッチフレーズを作り、松田聖子を踏襲した「ぶりっ子」路線で明菜を売り出そうとしたが、しかしデビュー曲の「スローモーション」はオリコン最高順位30位だった。
「スローモーション」は来生たかお作曲の名曲だが、この名曲をもってしてもブレイクすることはできなかったのだ。
デビュー当初は明菜よりも、今は橋之助夫人である三田寛子の方が有名だった。三田寛子は確かカルピスのCMで売り出した。「はにかみ屋さん、出ておいで・・・」というフレーズが印象的だった。
中森明菜の人気が爆発的に高まったのは、2曲目の「少女A」からである。「きっかけぐらいはこっちで作ってあげる・・・じれったい、じれったい・・・わーたーしー少女A」という過激な歌詞がラジオから流れると、私を含めたティーンエイジャーはどんな女の子が歌っているのかと、大いに好奇心を抱いた。
明菜のツッパリ路線転向は大成功だった。
当時アイドルの世界に女王として君臨した松田聖子を、明菜はレコード売り上げで凌駕するようになった。3曲目の「セカンド・ラブ」は、その年松田聖子が出したどのシングルよりも売り上げ枚数で勝っていた。
そういえば清純路線で売り出してぱっとしなかった山口百恵も、「青い果実」や「ひと夏の経験」の「あなたが望むなら、私何をされてもいいわ」「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」という"危ない”歌詞でブレイクしたのだが、明菜も山口百恵と同じ道を歩んだのである。
「少女A」や「1/2の神話」や「禁区」といったツッパリソングを歌っていた中森明菜は、まだあどけなさが残る可愛らしい少女だった。テレビでツッパリソングを歌う中森明菜を見ていると、事務所の方針で無理矢理大人びた歌を歌わされている犠牲者みたいな痛々しさを感じた。善良な子なのにSEXを連想させる過激な歌を歌わされている、こんな子に変な曲歌わせて、かわいそうじゃないか、そんな痛々しさが明菜の魅力だった。
しかし実は中森明菜の本性が、実はツッパリソングの世界に近く、狂気を秘めた女性だということが顕になってくるようになって、ファンは明菜から遠のいていった。
その後高校時代になると、中森明菜や小泉今日子から友人たちは徐々に離れはじめ、清純で可愛らしい菊池桃子や、清楚で凛とした岡田有希子、そしてあのおニャン子クラブに乗り換えていった。
私が高校2年生だった1985年は、「花の82年組」に負けないアイドル豊作の年だった。
斉藤由貴・南野陽子・中山美穂・浅香唯・本田美奈子・佐野量子・松本典子・芳本美代子・セイントフォー・・・・ おニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」でデビューしたのも1985年である。
おかげで「花の82年組」の中2時代にもまして、高2・高3の頃は女性アイドルに恵まれたのである。
私は学校へめったに行かなかったが、たまに行くと「アイドルの中で誰を彼女にしたいか?」という議論で白熱した記憶がある。
ともかく、むさ苦しい男子校で生息していた私や友人たちは、女性アイドルが大好きだったのだ。
(余談だが、アイドルはなぜか豊作の年と不作の年が激しく、例えば1983年には岩井小百合ぐらいしか目ぼしい存在がいない。岩井小百合は、かの横浜銀蠅の妹分としてデビューした人で、「ドリーム・ドリーム・ドリーム」でスマッシュ・ヒットを飛ばし、今では時々NHKの「きょうの料理」に登場して料理の先生のお相手をしている。)
さて、そんなモテない男子高校生達は、当然のように同年代の男性アイドルを嫌う。自分と同年代なのに女の子にもてはやされ、莫大な収入を得て注目を浴びる男性アイドルは、当然男の子たちの羨望と嫉妬の的になった。
男子校という檻の中で監禁されている私たちに一番嫌われたのがチェッカーズである。
特にある私の友人は、チェッカーズのことを異常に嫌っていた。彼の説によればチェッカーズというバンド名は「知恵なか族」という呼び名から来ているらしい。「知恵なか族」とは九州弁で「知恵が無いバカなやつら」という意である。
友人によると、藤井フミヤをはじめとする7人はあまりにも頭が悪いので、故郷である九州久留米出身の人たちが彼らを「知恵なか族」と呼び、それが変化して「チェッカーズ」になったのだという。
チェッカーズのメンバーの中でも、特にフミヤは彼に忌み嫌われていた。
フミヤのルックスが万人以上なのは誰もが認めざるを得ない。確かに同性の目から見てもフミヤは格好いい。また凡百のアイドルみたいにチャラチャラした雰囲気を持っていなくて、九州男児的な硬派な面がある。
そういえばフミヤは、プロデビューする前は国鉄職員だった。そんなジャニーズのアイドルとは一線を画したお堅い面も、フミヤの魅力を高めていた。
フミヤが歌でテレビの画面からフェロモンを撒き散らし、日本中の女の子を強力な磁石で引き付けてしまいそうな威力を見せつければ見せつけるほど、彼は腹を立てた。
彼はチェッカーズ他のメンバーたちにも、フミヤがいなけりゃただのクズとか、頭悪そうな顔したヤツばかりとか、悪意のこもった言葉をよく口にした。。
そして彼は、フミヤを意識して髪を刈り上げたり、もみ上げをナナメにしたりする同級生を見ると、「あいつは駄目だ」と怒っていた。
私も彼には大いに同調し、2人で話すとチェッカーズの悪口で盛り上がった。
一番彼が腹を立てたのは、「ザ・ベストテン」でフミヤと彼のお気に入りの中森明菜が一緒の画面に映ることだった。2人が「ルビーの指輪」の12週連続1位の赤い布がかかっているソファーで一緒に話を交わそうものなら、次の日は機嫌が悪かった。
進学校の男子高校生は、自分たちが将来勉強の道である程度の社会的ポジションを得るだろうことは頭では理解しているが(嫌なヤツらだけど)、ただ同世代の20前後の人間が華やかな成功を収めている姿を見せつけられると、自分たちが今置かれている冴えない地味な境遇が情けなく思えてきて、若くして輝かしい成功を収めているアイドルに対して、羨望や嫉妬が沸きあがってくるのは否定できない。
アイドルは今は格好いいが、20前後で人生の全盛期を迎えた後は落ちぶれるだけだ。曲は売れなくなり腹も出る。30超えたら俺たちが逆転する。今に見てみろ。そう強がっていた。
そして20年経ち、今回のチェッカーズの内紛である。
私の同級生たちは立派に背広を着こなし、官庁や一流企業、そして医者や法曹界で頑張っている。社会の歯車かもしれないが、飛び切り高性能の歯車である。
逆にチェッカーズのメンバーはどうか。クロベエの葬式に参列したメンバーを見ると、年不相応の長髪は見すぼらしく、同世代の男子高校生を嫉妬させたかつての華やかさはきれいさっぱり消えてしまった。また仲の良かったメンバーも、醜い中傷合戦を繰り広げている。またチェッカーズのメンバーは、フミヤを除いて今どんな境遇にあるのかわからない。
彼らは私の予想通り「落ちぶれて」しまった。こんな奴らに私は劣等感をおぼえ、ジェラシーで腹を立てていたのかと思うと、妙な安心感がこみ上げてきた。
しかし彼らに対して、「落ちぶれてざまあみろ」という言葉は私の口からは出てこない。逆に歳を取り我々と同じように醜くなったチェッカーズのメンバーを見ると、彼らの苦労がわかるような気がしていたたまれなくなる。モクこと高杢は生死の境を彷徨い、クロベエはトラックの運転手をしながら細々とバンド活動を続け、舌ガンで死んだ。彼らは若い時に成功という貯金を使い果たしてしまったかのようだ。
あくまで推測だが、今回のチェッカーズのメンバー同士の喧嘩の原因は、高杢やマサハルのフミヤに対する嫉妬が奥底にある。
フミヤに羨望の目を向けたのはモテない同世代の男の子だけではない。フミヤ以外のチェッカーズのメンバーたちは、そばにいる分だけ、我々より遥かにフミヤの存在を意識しなければならなかった。
正直言ってチェッカーズはフミヤのバンドである。サザンが桑田圭祐、ミスチルが桜井和寿のバンドであるのと同じぐらい、チェッカーズはフミヤのバンドである。それを嫌でも見せつけられていたのは、チェッカーズの他のメンバーである。
「ねえ、モク、フミヤにサインもらって!」「ねえ、ユウジ、そこ邪魔だからどいて、フミヤが見えないじゃない」
他のメンバー達は心ないファンの女の子に何度そう言われたか数知れない。彼らはチェックの服を着てフミヤのバックで踊り演奏しながら、自分の存在を哲学してしまったのではないか。
チェッカーズ全盛期、フミヤ以外のメンバーは、フミヤだけにファンの声援が集中するのを横目で見ながら、いった何を思ったのだろうか。20歳前後の多感な時期に、自分より遥かに注目を受けている人間がそばにいたら、それはとんでもなくつらいことだ。
バンド内に複雑な気分が渦巻く状況の中で、チェッカーズの解散を言い出したのはフミヤだそうだ。フミヤにしてみればメンバーの羨望の目から自由になりたい気持ちもあっただろう。またチェッカーズは楽曲から得る印税以外の収入は、メンバーで平等に7等分していたという話を伝え聞いた。バンド結成から10年近く経て、フミヤがここらで人間関係をリセットしたかったのは当然の成り行きだろう。
しかし九州男児を絵に描いたような直情的な高杢は、フミヤの解散の決断に対して腹を立てた。一体フミヤなしで他のメンバーは今後どう食べてゆけばいいのか。フミヤは自分を含めた他のメンバーを切り捨てようとしている。フミヤの解散宣言を高杢はそう受け取ったのだ。
チェッカーズがフミヤのバンドである以上、チェッカーズの生命維持装置のスイッチを握っているのはフミヤである。他のメンバーはそれに従わなければならない。でもそれはあんまりだ。
解散後しばらく高杢は沈黙を守っていた。「TRUE LOVE」をはじめとして順調にヒットを飛ばすフミヤを尻目に、高杢はチェッカーズ解散後案の定仕事はぱっとせず、おまけにガンにまでかかってしまった。生死を彷徨う病気が高杢を開き直らせ、積もり積もった感情が爆発し、恥も外聞も無くフミヤに対する攻撃を始めたのだろうと、私は思う。
そういえば、フミヤと高杢は幼なじみだったという。2人は小さい頃から無二の親友だったようだ。この2人を軸に他のメンバーが集まりチェッカーズが結成され、いまこの2人を両極にしてメンバーが対立している。
スケールは違うが、西郷と大久保も幼なじみであり、共に協力して明治維新を成し遂げたが、明治政府成立後は仲違いし、日本を二分する深刻な対立を引き起こした。幼なじみが協力して成功を勝ち得ると、成功後は人間関係が亀裂し、破滅する運命になってしまうのだろうか?
さて、私はチェッカーズの曲は大好きである。チェッカーズの曲を聴くと高校時代にリターンしたような気になる。
チェッカーズの活動時期は大きく2つに分けられる。初期の「アイドル期」と後期の「バンド期」である。
デビュー当時の「アイドル期」に当たる頃、チェッカーズは作詞・売野雅勇・作曲・芹澤廣明という当時の売れっ子コンビが作った曲を歌っていた。
しかし彼らはその後「脱アイドル宣言」をして、「NANA」以降は自分たちで曲を作るようになった。その「バンド期」のシングルの作詞は全曲フミヤで、作曲は他のメンバーが持ち回りで作曲した。
私は自作の「バンド期」よりも、「アイドル期」の曲の方が断然好きである。
「ギザギザハートの子守唄」「涙のリクエスト」「星屑のステージ」「ジュリアに傷心」「あの娘とスキャンダル」「神様ヘルプ」「俺たちのロカビリーナイト」「SONG FOR USA」など、チェッカーズが最も輝いていた「アイドル期」の曲は素晴らしい。GSを意識した、アイドル歌謡曲テイスト満載の名曲群だと思う。私は今でもカラオケに行くと身の程知らずにもチェッカーズの曲を好んで歌う。
チェッカーズアイドル期の曲を作った芹澤廣明は80年代の作曲家で、あのカラオケ人気曲「タッチ」も芹澤の曲である。中森明菜の「少女A」もそうだ。
それにしてもチェッカーズは解散してメンバーがバラバラになっても、これだけ記憶に残る曲を残しているのだ。
たしかに「ちっちゃな頃から悪ガキで、15で不良と呼ばれた」チェッカーズのメンバーは、20で大成功し、30で解散し、40で不惑のピンチにある。しかしどんなに彼らが仲違いしようと、容姿がオッサン臭くなろうと、曲は永遠に残る。
36年生きてきて何も残していない私は、まだまだ彼らに嫉妬し続けなければならない。