2005.03.21 Monday
理想の国語教師(大学受験編)
理想の国語教師とは、点を取らせる教師に他ならない。
模試の偏差値を上げ、国語の得点方法を「開眼」させてくれる教師こそが良い教師だ。
受験生は国語の問題を見て2つの悩みを持つ。それは
1.問題文が難解で意味がわからない
2.問題解いても正解にたどり着けない
この2つの難関を切れ味鋭く解決し、国語でハイスコアを叩き出す手助けをしてくれる講師が、大学受験生が求める良い講師である。
まず問題文が受験生にとって難解な要因の一つは、問題文の分野の多様性である。
人間誰しも、自分が興味を持っている分野の文章なら素直に理解でき、興味という熱を持って文章に没入できるが、逆に無関心な分野なら、問題文に嫌われたような疎外感を持ち、字面を追って読み解くしか方法が無い。
大学受験の問題文には、様々な分野の文章が使われる。
都市論・科学史・脳死・身体論・環境と生態系・グローバリゼーション・西洋と東洋の比較文化論・ヴァーチャルリアリティー・死後の世界・自己と他者の関係・・・・
受験生の知的興味の間口が狭ければ、問題文は頭にグリップせず、興味を持てない分野の小難しい文章に翻弄されるだけである。
優れた教師は、高校生に知的興味の間口を広げさせる。バリエーションに富んだ数多い分野に対して深い教養知識を持ち、人文科学・社会科学・自然科学など様々な知的世界への部屋への鍵をたくさん持って、腰に鍵を何百もつけジャラジャラ音を立てている。
講義を聴いたら今まで自分の興味の外だった分野に興味を覚え、冷たい活字の羅列がヒートアップし熱い肉声に変身し、授業終了後の学校や予備校の帰り道も、教師の言葉の余韻が脳内に駆けめぐる。
この先生の話を聞いたら点が上がる、この先生に触れたら頭が良くなる。この先生と同じ空気を吸ったら賢くなる。高校生をそんな気分にさせる教養の塊のような教師である。
また大学入試問題の文章は、いわゆるインテリの文章であり、簡単なことを難解に書くのが1つのステイタスになっている。だから「わかりにくい」文章を「わかりやすい」文章に翻訳する能力が、国語の教師には求められる。
論説文特有の術語や、難解な外来語を日常の地平に落とし、抽象を具体化し、咀嚼し難い言葉を離乳食のように生徒に与える作業も、国語教師には不可欠な能力である。
たとえば「地政学的ヒエラルキー」といった術語と外来語が混ざった難解な言葉は「国の地理的位置が国同士の上下関係・主従関係を作ること」と丁寧に説明しなければならないし、「メディアリテラシーの必要性」だったら「メディアの報道は、嘘や誇張や間違った情報が含まれているので、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力が必要」とわかりやすく言い換えることが必要だ。
「ペニスの発達不全」という小難しい言葉を、「ちんこが小さい」とズバリと誰もがわかる一言で置換する力量が国語教師にはいるのだ。
さて、もう一つの問題点「問題解いても正解にたどり着けない」なのだが、国語の勉強は言うまでもなく、問題を解く、解答を見る、問題を解く、解答を見るという一種のキャッチボールである。
問題を数多く解くことで、単調なキャッチボールを続けることで生徒は正解のコツを体感的に「学習」し、正解への精度を高め、国語の得点力を上げていく。
しかし感覚的に優れた生徒なら直ちにコツは飲み込めるだろうが、そうでない場合はいくら問題と解答の間を往復しても、なかなか正解率を高めることができない。無闇で根拠の無い自己流の解き方では国語の得点力は上がらない。バットの芯で正解をスパッととらえる事はできない。
優れた国語教師は、正解へたどり着ける「理屈」を伝授できる講師である。
国語の解法を感覚的なヤマ勘から、理論的な精度の高いものへ、受験生の思考回路を頭に構築し、正解製造工場を頭に築き上げてくれる教師である。
国語の得点力が上がらない受験生は、理屈にすがってみればいい。自己流の感覚的な解き方では問題と解答の間を500往復しても獲得できなかった力が、優れた理屈を持つ教師の方法論に忠実に従えば、100往復しただけで獲得することができるだろう。
頭の鋭い人の理屈は心地よい。その理屈の心地よさが体得でき、理屈が受験生の頭に叩き込まれれば、国語の得点力は上がるに違いない。
模試の偏差値を上げ、国語の得点方法を「開眼」させてくれる教師こそが良い教師だ。
受験生は国語の問題を見て2つの悩みを持つ。それは
1.問題文が難解で意味がわからない
2.問題解いても正解にたどり着けない
この2つの難関を切れ味鋭く解決し、国語でハイスコアを叩き出す手助けをしてくれる講師が、大学受験生が求める良い講師である。
まず問題文が受験生にとって難解な要因の一つは、問題文の分野の多様性である。
人間誰しも、自分が興味を持っている分野の文章なら素直に理解でき、興味という熱を持って文章に没入できるが、逆に無関心な分野なら、問題文に嫌われたような疎外感を持ち、字面を追って読み解くしか方法が無い。
大学受験の問題文には、様々な分野の文章が使われる。
都市論・科学史・脳死・身体論・環境と生態系・グローバリゼーション・西洋と東洋の比較文化論・ヴァーチャルリアリティー・死後の世界・自己と他者の関係・・・・
受験生の知的興味の間口が狭ければ、問題文は頭にグリップせず、興味を持てない分野の小難しい文章に翻弄されるだけである。
優れた教師は、高校生に知的興味の間口を広げさせる。バリエーションに富んだ数多い分野に対して深い教養知識を持ち、人文科学・社会科学・自然科学など様々な知的世界への部屋への鍵をたくさん持って、腰に鍵を何百もつけジャラジャラ音を立てている。
講義を聴いたら今まで自分の興味の外だった分野に興味を覚え、冷たい活字の羅列がヒートアップし熱い肉声に変身し、授業終了後の学校や予備校の帰り道も、教師の言葉の余韻が脳内に駆けめぐる。
この先生の話を聞いたら点が上がる、この先生に触れたら頭が良くなる。この先生と同じ空気を吸ったら賢くなる。高校生をそんな気分にさせる教養の塊のような教師である。
また大学入試問題の文章は、いわゆるインテリの文章であり、簡単なことを難解に書くのが1つのステイタスになっている。だから「わかりにくい」文章を「わかりやすい」文章に翻訳する能力が、国語の教師には求められる。
論説文特有の術語や、難解な外来語を日常の地平に落とし、抽象を具体化し、咀嚼し難い言葉を離乳食のように生徒に与える作業も、国語教師には不可欠な能力である。
たとえば「地政学的ヒエラルキー」といった術語と外来語が混ざった難解な言葉は「国の地理的位置が国同士の上下関係・主従関係を作ること」と丁寧に説明しなければならないし、「メディアリテラシーの必要性」だったら「メディアの報道は、嘘や誇張や間違った情報が含まれているので、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力が必要」とわかりやすく言い換えることが必要だ。
「ペニスの発達不全」という小難しい言葉を、「ちんこが小さい」とズバリと誰もがわかる一言で置換する力量が国語教師にはいるのだ。
さて、もう一つの問題点「問題解いても正解にたどり着けない」なのだが、国語の勉強は言うまでもなく、問題を解く、解答を見る、問題を解く、解答を見るという一種のキャッチボールである。
問題を数多く解くことで、単調なキャッチボールを続けることで生徒は正解のコツを体感的に「学習」し、正解への精度を高め、国語の得点力を上げていく。
しかし感覚的に優れた生徒なら直ちにコツは飲み込めるだろうが、そうでない場合はいくら問題と解答の間を往復しても、なかなか正解率を高めることができない。無闇で根拠の無い自己流の解き方では国語の得点力は上がらない。バットの芯で正解をスパッととらえる事はできない。
優れた国語教師は、正解へたどり着ける「理屈」を伝授できる講師である。
国語の解法を感覚的なヤマ勘から、理論的な精度の高いものへ、受験生の思考回路を頭に構築し、正解製造工場を頭に築き上げてくれる教師である。
国語の得点力が上がらない受験生は、理屈にすがってみればいい。自己流の感覚的な解き方では問題と解答の間を500往復しても獲得できなかった力が、優れた理屈を持つ教師の方法論に忠実に従えば、100往復しただけで獲得することができるだろう。
頭の鋭い人の理屈は心地よい。その理屈の心地よさが体得でき、理屈が受験生の頭に叩き込まれれば、国語の得点力は上がるに違いない。