あいも変わらずゲームに熱中している子供の背中を見ながら、ゲームで使う時間の代わりに勉強したら学力は伸びるだろう、小説読んだら情操豊かな子なるだろう、家の手伝いをしたら優しい子になるだろう、友達と付き合ったら人間関係を学ぶだろう、スポーツしたら体力がつくだろう、と期待する親や教師は多いはずだ。
ゲームは子供の貴重な時間をごっそりと削り上げ、カリフォルニアの山火事のように暴力的に奪いつくす。子供にとって可能性に満ちた時間は、ゲームという強烈な熱風によって、無残にも砂漠化が進んでいるのだ。
それに加えて、どうやらゲームは子供の時間どころか、脳味噌本体までむしばんでいるというではないか。「ゲーム脳」の恐怖は、最近マスコミでしきりに話題になっている。
ゲームを勉強の天敵だと考える私は、授業でも懇談の席でも、「ゲームはしちゃあいけないよ」と何度も何度もしつこく説いてきた。教育懇談の席で学力崩壊の諸悪の根源はゲームだと声高々に主張し、お母さんや子供の前で切々と訴えてきた。
意を尽くして子供を説得してもやめなかったら、「ゲームやるなら、指切れっ」と叱り上げた。
親「先生、うちの子やる気がないんですが」
私「ゲームをやめさせてください」
親「はあ」
親「先生、うちの子勉強しないんですが」
私「ゲームをやめさせてください」
親「う〜ん、ちょっとそれは」
親「先生、うちの子にカツを入れて下さい」
私「まず、ゲームをやめさせてください」
親「わたしの言うこと聞かないんですよ、先生のおちからで」
そして、私が馬鹿正直に「おちから」を貸すと、家庭内干渉だと責めつけられるのがオチだった。
そんなこんなで、最近ではゲームをやめろなんていうと、時代錯誤で頑固でわからずやな親父扱いされるので、何も言わないことにした。
今では好きにしてくださいとしか言わない。私はゲームに完全に敗北してしまったのだ。
ただ、私がゲームを敵視しているのには、子供のためにならないという理由ばかりではない。
私はゲームができない。異常に不器用なのだ。自転車にも乗れないし口笛もふけない、フーセンガムもふくらませることができないし懸垂もできない。私にもゲームに興味を抱いた時期もあるのだが、不器用さが私からゲームを引き離した。
ゲーム不適合者の私は、いつしかゲームから興味を失った。
自分に興味がなくて、しかも苦手で劣等感をかきたてるものに対して非難したくなるのは人間として当然の心理だ。
たまに塾生がゲームをしている姿を見る機会があるのだが、そんな時、子供が真剣な面持ちで指先を華麗にすいすい動かしているのを見ると、
「子供のゲーム姿、カッコいいじゃん」
と、うかつにも子供に対して尊敬の念を抱いてしまうことがある。子供の素早い指さばきに、一芸に秀でた者の重みを感じてしまうのだ。
そして尊敬と同時に、私が苦手なゲームをこんなにやすやすとこなしてしまう子供に対して、少々嫉妬の念を抱く。
だが冷静に考えてみると、こんなにゲームが上手になるまでに、子供が時間をどれだけ家で犠牲にしてきたか、やるせない気分にもなるのである。
さらに、ゲームは深いもっと大きな敗北感を、教育者としての私に与える。
私の授業がもしゲームより面白かったら、子供はもっと勉強に身を入れてくれるのではないか。そんな想像をすると、ゲームに子供を取られたようで嫉妬してしまうのだ。
ゲームをやるときの集中力を、勉強に注ぎ込ませるだけのい能力が、私にあるか?
子供に楽しんでもらえるよう、ゲームに負けじと授業を遊び感覚の刹那的なものにしようとすると、ますます私は自分を見失ってしまう。
そんなこんなで、子供からゲームを引き離したいという純粋な気持ちやら、ゲームができないという私の奇妙な劣等感やら、子供が私の授業よりもゲームを楽しんでいるという事実が突きつける深く歪んだ敗北感やらが複雑にミックスされた結果、私はゲーム嫌いになった。
でも、自分がゲーム嫌いだから、自分がゲームに子供を取られて悔しいからと、子供にゲームを止めろといっても説得力はない。そんな私の邪心を見抜いていたからゲームを止めなかったのだ。説教する時には私信を捨てなければならぬ。