猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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銀行の非常識な親子
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    しょせん他人というものは迷惑な存在だ。好ましい存在の他人とは、自分を理解してくれる他人、お金をくれる他人、ピンチの時助けてくれる他人、能力がある他人、おもしろい他人、性的魅力がある他人、可愛げがある他人・・・
    本来なら迷惑なはずの他人を、いかに好ましい存在にするかが、教育なり躾なりの役割なのだ。しかしながら、自分の子をいかにして他人に可愛がってもらうか、他人の役に立つ人間にするか、そういう大事な視点が欠けている親が多い。

    親は子供を愛して当たり前。しかし他人から見れば人の子なんて正直どうでもいいし興味がない。むしろ邪魔な時がある。親からしか愛されない人間は不幸だ。子が親から離れた時に、どれだけ他人から好かれる人間にするか、そこが子育ての勝負のしどころだろう。
    「他人から愛される人間を育てる」そんな視点を、少しでも親たちに持っていただきたい。そうそう、私もこんな嫌な体験をした。

    私は地方都市に住んでいるが、私の街の銀行には、キャッシュ・ディスペンサーの機械が2台しか置いていない。都会の銀行のように、機械が何十台も置いてあるわけではない。ふだん機械はは空いているのだが、給料日にはメチャクチャ機械が混む。機械が2台しかないから、殺人的な行列ができる。
    都会の銀行では、混んでいても台数が多いから意外と行列の流れは早い。しかし田舎の2台しかない機械では、誰かが操作に手間取ったり、長々と機械を占有していたりすると、列はなかなか前には進まない。

    さて、銀行が混んでいる日のこと。2台しかない機械のうち、1台が使用できない状態だった。たった1台の機械の前に10人ぐらいの行列ができた。

    そんな時、5歳ぐらいの女の子を連れた35ぐらいの女性が機械を使っていた。
    その女の非常識ぶりは凄かった。後ろに行列があるにもかかわらず、なんと小さい子供に機械操作をやらしていたのです。

    子供は背が低いから、母親が抱きかかえながら、
    「はい、押してご覧なさい。いち・・・・・・・さん・・・・・・・・ごお・・・・・・・・なな・・・・・・・・・・」
    パソコンのビギナーがキーボードを初めて操作する時のように、子供はタッチパネルを、人差し指でぎこちなく1つ1つ押していた。しかも引き落としじゃあなく、よりによって振り込み! 相手の口座番号・金額・自分の電話番号・暗証番号・・・ いったい、いつになったら終わるのだろうか? 

    確かに銀行の機械の使い方を子供に教えるのは大事なことだろう。しかしそんなものは、いずれは覚えられることだ。こんな状況の時に親が子供に一番教えなければならないことは、すばやく操作を終えて、次の人に譲ることだろうに。

    私は指でタッチパネルを触っている5歳の女の子に、いけないことなのかもしれないが、憎悪感を抱いてしまった。この子は母親のせいで、見ず知らずの人間から憎まれている。
    私は母親に注意を促そうとしたが、子供の前で親を叱ることには、さすがに抵抗があった。それはやっちゃあいけないことではないかと。ああ、でも何か言わなければ・・・ 私も気が弱い。
    私の思考が堂々巡りをしている最中にも、母親のスローなナビゲートのもと、子供の機械操作が続いている。苛立つ行列の客を尻目に、機械をいじる親子二人のまわりだけは、悠久の時間が流れているようだった。

    とうとう、60歳ぐらいの白髪の紳士が、しびれを切らして怒鳴った。
    「あなた、後ろに何人も待っているでしょう。子供にやらすんじゃない。早くしてくれ!」
    老紳士の通る声に、銀行に緊張が走った。怒鳴られて女性は、どういう反応を見せるのか。老紳士と女性の口論が始まろうとしていた。

    しかし女性の反応は意外だった。
    「すいません、申し訳ありませんでした。気がつきませんでした」
    と心底悪いことをしたと反省したように、あとは自分でさっさと操作を終え、帰り際に老紳士をはじめとする行列に並んでいた客に向かって、「申し訳ありませんでした」と頭をぺこぺこ下げながら帰って行ったのだ。

    この女性、確かに悪いことを素直に認めるのは立派な態度だ。悪事や非常識を指摘され逆ギレする人が多い中、爽やかな立ち振る舞いであることは否定できない。しかし、こんなに混んでいるのに、気がつかないで自分の子供にのんびりと機械をいじらせていたのは何故か。何で指摘される前に気がつかないのか? 周囲の状況を察知できないアンテナの感度の悪さに、腹が立った。

    それから一番やりきれないのは、母親の非常識な振る舞いのせいで、本来なら可愛い盛りの子供が憎まれてしまったことだ。それは母親にとっても子供にとっても、大きな損じゃないのか?

    | 硬派な教育論 | 17:00 | - | - | ↑PAGE TOP
    「中2ボケ」に効く薬
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      中2の指導は難しい。中2という生き物は放っておけば極限まで勉強しない種族である。女の子は色気づき、男の子はサルのような顔になる。

      中2は、彼らのぐうたら性がフルに発揮される。お母さんに聞いていても、
      「うちの子夏休み、クラブがすんだら、ちょろっと勉強した後、家で寝てばかりいるんです。」
      という声が多い。しかも注意すると反抗するらしい。困った年代だ。

      しかし黙っていれば成績は下がる。中2でタチが悪いのは、彼らがクラブや昼寝やゲームで大ボケかましているうちに、カリキュラムが加速度的に難しくなっていくということである。遊んでいるうちに、各教科で最大の難関とされる単元が登場するのだ。

      例えば英語、中2が一番ボケている時に習うのは不定詞・動名詞・比較。特に不定詞は難しい。
      動詞が主語の後にあるのだという固定概念を根本から覆される。動詞が頭に前置詞のtoを伴って、文の頭にも間にも尻にも現れる。目玉が腹にも足にもくっついた、妖怪のような文が登場するのである。

      しかも用法は名詞的用法・副詞的用法・形容詞的用法と3種類あって(私は副詞的用法は2つに分けて教えているが)、その見分けが難しい。

      さらにtoの後は動詞が原形、つまり辞書に載っているまま入る。中2の初期において、やれ過去形だ、未来形だと英語の時制のややこしさに頭が混乱したまま不定詞を習うと、"to loved" とかいう恐ろしい英文を書いてしまう。

      そういうわけで中2で置いてきぼりになった連中は大変である。
      中2でボケていた連中が、受験が迫った中3になってやっとやる気になり、さあ英語頑張るぞとやる気になった瞬間、不定詞の波状攻撃に悩まされるのだ。

      比較はまだ、ボケた頭にも「これは別の世界だ」と見分けがつくのでまだいい。
      中2の間、全く英語やらなかった子でも、英文に“larger than”とか“the smallest”とか、見ず知らずの言葉が書いてあると、「ああ、サボっている間に別の文法事項をやったんだ。」ぐらいの理解はできる。比較という新しい単元を意識し、それなりの対処はできる。

      しかし不定詞はto+動詞の原形といった目立たない姿形をしているため、曲者であることには気がつきにくい。

      不定詞は悪質なウィルスの如く、長文のあちこちに散りばめられている。
      中2の時思いっきり勉強をさぼった頭は、動詞がtoを伴って文の頭にも間にも尻にも登場することによって、混乱の極みに陥る。
      しかも長文で「訳せ」とアンダーラインが施されているキメの部分には必ずといっていいほど不定詞の姿がある。出題者も子供が不定詞で迷うことがわかっているから、意地悪してバシバシ不定詞を出題するのだ。

      中2ボケ時代に履修する内容はもちろん英語の不定詞だけではない。数学に至っては図形の証明問題である。理科では電流である。真剣に取り組まざるをえないこと、言うまでもない。

      僕は中2をやる気にすることは諦めた。積極的に自分で勉強させるような指導、そんなのは一部の子を除いて無理である。無理とは言わずとも、困難であることは確かである。


      彼らの勉強意欲がわかないのなら、講師の側が強引に引っ張ればいい。鳴くまで待つのではない。鳴かしてみせようの精神だ。自発性は期待しない。我々が機関車の如く、彼らを学問の道に連れ去ればいいのだ。

      逆に言えば、中2の夏休みや2学期の間、こちらが真剣に向き合えば成績は飛躍する。なんせ全国の中2が比較的ボケている時期だ。効率は抜群である。週3回の授業・厳しい宿題チェック・能力別の補習。これらを手を抜くことなく確実にこなしていれば、特別なことをやらなくても成績は上がる。驚くほどに。
      中3になって、うちの塾に通っていない子が悪性不定詞ウィルス退治に苦しんでいる時期、我が塾生は新たな別の難題に取り組むことができる。

      中2の時にボケを最小限に食い止めた子は、中3になって、受験意識に芽生えた時、中2の時頑張っていてよかったと思う。中3になったら、講師主導の勉強から解放して、勝手に自分で勉強をやらせればいいのだ。
      しかし自発的に勉強させるには、中2時代に培った基礎力は必要不可欠である。その基礎力は講師主導型で身につけさせる。

      中3になってからの成績は子供の能力の差ではない、講師の覚悟の差だ。
      | 高校受験 | 12:12 | - | - | ↑PAGE TOP
      NYの地下鉄と9・11の恐怖
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        日本で大活躍しているプロ野球選手は、どうして日本での安定した立場を捨てて、アメリカに果敢に挑戦するのか?
        日本だったら2億・3億年収がある一流選手が、3Aで安い賃金しかもらえなくてもアメリカで野球をしようとする。

        不可解でリスキーな行動だ。しかし、アメリカ、特にニューヨークに1度でも行ったことのある人なら、「アメリカの魔力」が理解できるはずだ。

        アメリカは素晴らしい。特にニューヨークは凄い。万人を吸い込むブラックホールのような町だ。這い上がろうという力がわいてくる。ニューヨークの住人になりたいと思う。
        新庄や伊良部がメジャーに挑戦した時、ニューヨークの球団にこだわった理由が、私には痛いほどわかる。

        私の夢は、あと4年経ったらニューヨークのマンハッタンの高層アパートに住むことである。
        私が最初にニューヨークを訪ねたのは31歳の時だっった。
        私がもし十代の頃ニューヨークを旅していたなら、十中八九はウォール街あたりで仕事していただろう。



        2005年の7月にNYを訪れた。

        上の写真はウォール街のビル街。日本の新宿の高層ビル街は、ビルとビルの間が離れているが、ニューヨークの摩天楼は50階クラスのビルが隣接し、ビルの密林状態になっている。
        だから、ウォール街のコンクリートジャングルは、昼でも谷底を歩いているように暗い。

        IMG_1587.JPG 

        ところで悪名高きニューヨークの地下鉄だが、治安は以前よりかなり良くなっているが、日本の地下鉄に比べて不気味だ。
        確かに身体のデカイ黒人や、ドレッドヘアのヒスパニックとか、薄汚い東洋人とか(これは私のこと)、客層はハイソとはお世辞にも言えないが、危険を感じさせるほどでもない。
        人が襲ってくる恐怖はあまり感じないが、地下鉄駅の古色蒼然とした雰囲気にビビる。 

        IMG_1543.JPG 

        日本の地下鉄は照明が明るく、深夜の地下鉄駅でも自分が地下にいることを感じさせないが、ニューヨークの地下鉄は薄暗く、錆びた鉄骨が露出し、古い屋敷の地下室にいるような印象を受ける。

        IMG_1730.JPG 



        ニューヨークの地下鉄路線網は、第二次世界大戦の頃には整備され、それ以後新線の建設はほとんど行われていない。
        日本の地下鉄のように駅の改装も頻繁に行われているわけでもなく、20世紀前半の意匠が残っている。
        下はレトロなタイル張りの駅名標だ。

        IMG_1549.JPG 

        ところが、マンハッタンで1箇所だけ、新しく綺麗な駅がある。
        街のど真ん中にあるのに、他の駅の古めかしさとは一線を画している。
        ニューヨークの地下鉄の駅は、どこも過去にタイムスリップしたような錯覚を覚えるが、ここの駅だけ過去から未来にいきなりたどりついたような気分になる。

        IMG_1630.JPG 

        IMG_1635.JPG 

        もちろん、この駅は、自爆テロで崩壊したワールドトレードセンタービルの真下にある地下鉄駅である。



        ビル崩壊直後は、もちろんこの区間の地下鉄駅も破壊されていたが、ようやく2年前に開通した。ニューヨークでは珍しい真新しい駅は、911の恐怖を物語っている。



        ワールドトレードセンタービル跡の十字架
        | 旅行食べ物 | 17:47 | - | - | ↑PAGE TOP
        ハズレ学校担任撃退法
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          学校と塾の大きな違いは様々あろうが、学校は嫌いな人と上手に人間関係を築き上げる訓練をする場所、塾は好きな人間とだけ付き合う場所、私はそんな風に考えている。
          学校の方がもちろん「現実社会」に近い。

          たとえば塾で子供がいじめられたら、サッサとやめて別の塾に通えばいい。
          しかし学校だったら、越境入学するか、それとも中学入試や高校入試で私学に行くか、煩雑な方法を取らざるを得ず、手軽に学校から逃げ出すわけにはいかない。
          最悪の場合、不登校にもつながりかねない。
          嫌な友人との「腐れ縁」に悩むことになる。

          ただ、いじめの逆境を自力で克服する訓練は、悲しいけど必要だ。
          どうして自分が嫌われるのか、どうしていじめられるのか、嫌われいじめられないようにするために、自分はどう振る舞えばいいのか。そこらあたりを自分で考え、自分で自分を矯正しなければならない。

          幼少の子にそんな難儀なことを求めるのは酷かもしれないが、打開策を練らないと、大人になって痛い目に合う。

          友達ならまだいい。
          担任に嫌われたり嫌ったりする事態になったら大変だ。

          塾の先生が嫌いなら塾をやめればいい。でも学校なら、嫌な先生でもつき合い続けなければならない。
          特に小学校の場合、担任がほとんどの教科を一人で教えるので、1日6時間も、嫌な担任のワンマンショーの観客でいなければならない。

          たしかに学校の担任が嫌な人なら、すぐに担任を変えてもらいたいのが親子の本音だ。今すぐ担任を変え、また今すぐでなくていいから来年度の持ち上がりだけは勘弁して欲しいと、校長や教育委員会に訴えたり、署名を集める親もいるだろう。
          子供のために、お母さんは執念を燃やして、担任交代を要求する。どうして同じ学校へ通っていて、私の子だけハズレくじを引かなければならないのか?

          しかし、全力をかけ執拗に教育委員会に頼んでも、大嫌いな教師が次の年も持ち上がりで担任だったら、親子ともども悲惨である。

          まるで、「来期も堀内監督続投」と聞かされた時の、巨人ファンみたいに愕然とするだろう。
          (まあ、来年堀内監督は絶対にないだろうけど)

          自分の子の担任には、落ちこぼれクラスを常勝軍団に仕立て上げた「燃える男」星野仙一先生や、実績抜群で徳のありそうな王貞治先生が良いし、星野先生や王先生は無理にしても、まだ原先生や中畑先生や江川先生の方がましだったのに、よりによって堀内先生続投である。

          親子は不可解な人事をした教育委員会を恨み、巨人ファンはナベツネを恨むだろう。
          また、堀内先生は嫌われているのがわかっていながら、どうして場の空気を察して辞めないのか、憤りも大きくなる。

          ただ、堀内先生との懇談で、堀内先生の悪口を面前で言うのは愚策である。
          喧嘩腰で懇談に出かけ、親子ともども「おまえはハズレ担任」とキン肉マンみたいに額に書いてあるような、そんな態度だけは避けたい。

          懇談で担任に厳しい言葉で抗議したら、犠牲になるのは子供である。担任の子供に対する嫌悪感はますます強くなる。心の小さな担任は、親から懇談で受けた屈辱を、子供にリベンジして返す。
          また、担任に対して本音で迫ったら分かり合えるという幻想も捨てた方がいい。堀内監督のような腺病質の人に本音を言ったら恨まれるだけである。

          ハズレ担任に対しては、発想を変えればいい。
          将来子供が社会で上手くやっていくためには、嫌な人といかに付き合うかが鍵になる。子供のうちに、嫌な人に対する免疫を付けておくことは大事である。

          だからこそ、ハズレ担任は天の配剤だ。誰もが嫌う堀内先生に対して、いかに上手く接するか、そんな処世術を取るのは子供の将来に大いに役立つ。
          良い先生は、誰もが良い先生と感じる。ハズレ担任こそが、子供の社会勉強になるのだ。
          媚を売り、甘言を弄し、「先生のおかげで学校が楽しいです」と嘘八百を並べたら、堀内先生の態度も変わってくるだろう。

          私が親だったら子供と一緒に、堀内先生と上手に付き合うプロジェクトを組んで、堀内先生を人生勉強の道具に仕立て上げる。
          子供がどれだけ堀内先生の悪口を言っても、「先生は先生だ」と諭す。絶対に親の私は堀内先生のことを悪く言ったりはしない。


          ただし・・・・・・

          私が堀内クラスの生徒だったら話はまったく別だ。
          堀内って偉そうでムカツク。親の諭しなど聞かず、せいいっぱい反抗してやる。
          学校にスキンヘッドで、両耳にダイヤのピアスつけて通ってやるぜ。
          | 軟派な教育論 | 19:27 | - | - | ↑PAGE TOP
          パパより「オレ流」落合福嗣
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            私のような人にものを教える稼業をしていると、スポーツの世界でどんな監督チームを強くし、どんなコーチがトップアスリートを育てるのかが気になる。
            私は特にプロ野球ファンだから、チームを優勝に導いた監督のキャラクターには大いに注目する。

            梨田や原のような若い監督がチームを優勝に導いたら、今の若い選手にはソフトな雰囲気で接するのがいいのかなあと思うし、逆に星野仙一のような熱い監督の下で弱い阪神が優勝したら、「やっぱり熱血が一番じゃけえ」と舌の根が乾かぬうちにコロリと宗旨替えしてしまう。

            ただ私が監督のキャラクターに影響されすぎて、今日は梨田みたいにニコニコと笑顔を絶やさず、明日は星野仙一みたいに顔面を紅潮させて思いっきりゴミ箱を蹴り飛ばすといった具合に、態度がコロコロ変わると生徒は大いに面食らう。ただでさえ私は二重人格AB型の典型と呼ばれているので気をつけねばならぬ。

            さて、去年の日本一は西武の伊東監督。ペナントレース前はBクラス、日本シリーズ前は中日有利と予想されながら西武が日本一に輝いたのは、伊東監督の豊富な勝負経験があったからだろう。
            若い時分に広岡・森という頭脳派の名将の薫陶を受け、数々の修羅場をキャッチャーという最前線のポジションでくぐり抜け、日本一8回・リーグ優勝13回という戦跡を残した経歴はだてではない。
            伊東監督が日本一の座を勝ち得た理由は納得いくものである。

            しかし落合監督の中日がセリーグを制したのは意外だった。開幕前には正直言って落合中日が優勝するとは思わなかった。どちらかというと落合には、鈴木啓示みたいに選手から総スカンを食うダメ監督の匂いがしていた。落合や鈴木啓示みたいな一匹狼=ダメ監督という図式が頭の中にこびり付いていた。

            ただ、落合の成功の予感がなかったわけではない。私は彼の著作のファンで、「野球人」「勝負の方程式」「プロフェッショナル」「コーチング」の4作は教える稼業に就く者の視野を広くする貴重な本である。
            どの本を開いても落合の意見は首尾一貫したもので全くぶれていない。特に「コーチング」は、自分が監督になったらどういう指揮を振るうか、そんなビジョンが細かに書かれている。
            この本に書かれた「選手の自主性に任せる」「指導はコーチ、監督はまとめ役」「プロとしての意識を強く持て」という落合の思いは、監督に就任してからマスコミに語ったものと寸分違わぬ物である。

            また、落合の裏方の人への心遣いの細やかさには恐れ入る。落合はスカウト・打撃投手・審判員らに対し、同じ野球のプロフェッショナルとして、最大限の敬意を持つ言葉を書き連ねている。私が落合の下で働く打撃投手なら、「あなたに絶対ついていきます」と叫びたくなるぐらい有難い言葉である。

            もしこれらの本を書いた人が落合と知らなければ、私は「この人こそプロ野球を背負う名監督だ」と素直に説得されただろう。
            しかし書いた人は「オレ流」の落合である。一匹狼で自己中心主義の典型みたいなイメージが強く、落合は張本みたいに輝かしい実績を持ちながら一生監督になることはあるまいと予想していた。落合を抜擢した中日のオーナーは博打に勝ったといえる。

            ただ、落合は部下としてなら嫌な男かもしれないが、上司としてみたら働きやすい人なのだろう。
            落合は、コーチに一定の権限を「丸投げ」している。しかも責任は監督がすべて取ると明言している。こんなにコーチにとって働きやすい環境はないだろう。

            さて「オレ流」で中日を優勝に導いた落合は、おそらくまた本を出版するだろう。優勝への軌跡や、日本シリーズの敗因を記した興味深い本になると思う。
            ただ、成功した人間が著した本には、よく子供の教育提言が書かれた1章が設けられている場合が多い。しかし彼らが書いた教育論の大半は、現場を知らぬ空理空論である。余計な口出しをするなと教育現場にいる者にとっては腹立たしいものが多い。

            特に落合には子供の教育に口を出す資格はない。なぜなら落合が育てたのは、信子との間にできた一人息子福嗣だからだ。
            福嗣が小さい頃、落合はロッテから中日へする前後の全盛期で、よく落合家で暴れまくる福嗣クンの姿がテレビに映し出された。

            雷様みたいなモジャモジャ頭の福嗣はチンチンを丸出しにして小便をたらしながら部屋の中を駆けずり回り、信子夫人はそれを見て笑っているだけだった。パパ落合が球場へ向かうときは、マンションの玄関から「ういろー」「ういろー」と福嗣は大声で叫んでいた。そんな福嗣の天衣無縫を超えて傍若無人の域にまで達した振る舞いは視聴者の度肝を抜いた。

            福嗣の評判はあまり良くないらしい。マスコミは無口な落合のコメントが欲しいため福嗣を甘やかす。福嗣は図に乗る。だから小さい時の福嗣のマスコミに対する口癖は「パパに言いつけるぞ」だったという。
            また落合も親バカで、噂によると「福嗣はオレより野球の才能がある」と語っているらしい。まさかとは思うが。

            そんな福嗣は、落合が巨人や日本ハムにいた頃は、あまりマスコミには出てこなかったが、中日優勝でまた福嗣はテレビに露出するようになった。今は17歳で国士舘高校で野球をやっているらしい。身体はでかくなっている。

            福嗣は中日リーグ優勝のビールかけに、高校生のくせにゴーグルをつけ参加して顰蹙を買った。またナゴヤドームの観客席で狂乱する信子と福嗣を横目で見て、ウンザリした解説者の金村義明は全国中継の実況で「福嗣と信子なんとかしてほしい」と言のは有名な話だ。

            福嗣見たいな子供は教師の天敵だ。福嗣がもし塾にやってきたらたいへんだ。高校生にもなってまさかフルチンで教室を駆けずり回りながら小便を垂らしたりはしないだろうが、授業中にデカイ身体で「ういろう、ういろう」なんて叫ぶくらいのことはやりそう。
            身体も声も大きい福嗣に授業妨害され頭にきて叱ったら「パパに言いつけてやる」と可愛げのない顔でふてくされ威張るだろう。

            福嗣が家に帰りほっと一息ついていると、信子夫人が「福嗣は自由に育てているので邪魔しないで下さい。あなたもうちの教育方針に合わせてね」と塾に抗議にやってくる。対応に追われる。

            やっとこさ信子をなだめて追い払ったと思ったら、今度は落合博満自ら現れ理詰めで攻めてくるかもしれない。金も実績もあり、しかも弁の立つ落合には太刀打ちできない。
            押しもアクも強い親子3人のせいで精神状態がおかしくなる。
            とにかく福嗣は絵に描いたような悪い子育ての成れの果てだ。
            | 野球スポーツ | 19:40 | - | - | ↑PAGE TOP
            社民党・共産党凋落の理由
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              去年7月の参議院通常選挙で、共産党は4議席、社民党は2議席と大きく議席を減らした。
              共産党は6年前の選挙では無党派層の票を巻き込んで15議席と大勝したが、今回は議席数が3分の1になった。また社民党は旧社会党時代の土井たか子全盛期にはマドンナブームで46議席を得たが、その後22→16→5→3→2と議席数が激減している。(あのマドンナブームで当選したオバサンたちは、今どうしているのだろう?)

              ただ、参議院選挙で共産党が比例区で得た得票は4,362,574票、社民党は2,990,665票にものぼる。現行の選挙制度では衆議院参議院ともに小政党には不利な制度になっているから議席数は惨憺たるモノになっているが、実はまだ共産社民あわせて740万人の有権者が支持しているのである。この数は東京23区と横浜市の有権者の合計に匹敵する数字である。「少数党」と呼ぶには、支持者の数はあまりにも多い。議席数ほどには、両党の支持者は減っていないのである。

              しかし全盛期に比べると、共産党と社民党は「凋落」という言葉がふさわしいほど勢いがないのは、厳然たる事実である。
              それにしてもどうして、共産党や社民党は古くからの支持者を失い、若い人からそっぽを向かれるのだろうか?

              確かに90年代以降、両党には「国際情勢」というハンデがあった。冷戦が終わって後ろ盾としていたソ連が崩壊し、頼りにしていた中国も毛沢東からトウ小平に指導者が代わりストイックな原理共産主義の国から経済本位の「商売人」の国へ衣替えした。
              また依然としてお隣には北朝鮮があり、共産党や社会党が政権を取っていたら日本もあんな国になっていたという、絶好なショーウィンドウの役割を果たしている。
              社会主義国家の成れの果ての姿を、北朝鮮があんなにわかりやすい形で曝してしまえば、共産党や社民党の党勢拡大は困難である。

              しかしそれだけでは、共産党や社民党の凋落の原因は説明できない。
              現にイギリス労働党やドイツの社民党は政権の座にあるし、またフランスでは80年代から90年代にかけて、先進諸国がレーガンやサッチャーや中曽根など「新保守主義」の政治家が政権を握っている状況に逆行して、社会党のミッテランが大統領を14年間も続けてきた。
              だから社民党も共産党も、もしかしたら冷戦下うまく立ち回って国民の支持を集め続けることだってできたのである。

              私は社民両党の凋落の原因の一つは、彼らが「戦争反対」とか「護憲」といった、手垢のついた「正義」のスローガンを有権者に押し付け過ぎて、人々の心を打つ言葉を生み出すことを怠ってきたからだと思う。

              ところで、小泉首相も国民の心に響く言葉の探求を怠ってきた人である。小泉首相は「改革なくして成長なし」「自民党をぶっ壊す」という「ワンフレーズ・ポリティクス」で大きな支持を得てきたが、自民党をぶっ壊す政権獲得から3年たった今では鮮度を失ってしまった。
              ワンフレーズの格好いいスローガンは、はじめのうちは新鮮で人の心を打つが、やがて輝きをなくし、そのうちに人の心を打たない「手垢のついた言葉」に成り下がる。

              野党はそんな首相の言葉の空疎さを槍玉に挙げて攻撃している。しかし、共産党や社民党は小泉氏の「ワンフレーズ・ポリティクス」を批判することはできない。なぜなら「ワンフレーズ・ポリティクス」の元祖は、実は社民・共産両党だからである。
              彼らは半世紀にわたって「戦争反対」「改憲反対」といった同じ言葉をしつこく繰り返してきた。3年どころか50年も60年にもわたって、「ワン・フレーズ・ポリティクス」を続けているのだ。
              小泉首相の「改革なくして成長なし」とか「自民党をぶっ壊す」というフレーズを「戦争反対」「護憲」「安保反対」に置き換えて欲しい。短いスローガンを連呼するのは、なにも小泉首相だけではないのだ。共産党や社民党の方がはるかに年季が入っている。
              共産党や社民党の凋落は、小泉内閣の支持率減少と同じく、言葉の創造力が欠如した「ワンフレーズ・ポリティクス」に原因があるのだ。

              誤解しないでいただきたいのは、私は「戦争反対」「平和を守ろう」という言葉の内容に異を唱えているわけではない。共産党や社民党の政策の語り方に対して注文をつけているのだ。
              「戦争反対」「平和を守ろう」というスローガンは、太平洋戦争終了直後の、長く激しい戦争で疲弊した国民の前では、大いに効果的だったろう。あの戦争がどんなに人々を苦しめたか、想像に余りある。

              戦時中の人々は、空を見上げれば爆弾が落ちてくる恐怖を感じ、今日の晩ご飯の食料確保に頭を悩まし、外地で兵隊として死の危機にさらされ、残された人は家に郵便や電報の配達人が来るたび肉親の死の報告じゃないかとハラハラし、親と子は疎開で離れ離れの生活を余儀なくされ、疎開で田舎の生活を送っている子は、いつ自分の家が空襲で破壊されるか親の生死を案じ、とにかく誰もが心を休めることなく、絶えず緊張しながら生活していた。

              そんな悪夢のような戦時下から解放されたばかりの日本人にとって、社会主義政党が叫ぶ「戦争反対」「平和主義」のスローガンは、乾いた砂漠で出会った、噴水のように人々を安心させ、かつ熱狂させた。
              しかし平和ボケした我々は違う。悲しいかな我々は「戦争反対」のスローガンだけでは心が動かされなくなった。街でよく見かける、白地に黒の毛筆体で書かれた「世界人類が平和でありますように」の文字を見て、果たしてどれだけの人間が平和への想いを新たにするだろうか?

              社民党・共産党の人たちは、戦争直後と同じ言葉で、同じ感覚で有権者に訴え続けている。彼らは自分たちの言葉が「正義」であることに安住して、有権者の心を打つ言葉の開発を怠ってきた。それが彼らの敗因である。
              彼らが心の底から戦争反対を願い、戦争に対して恐怖を感じ、戦争で虐げられた人の気持ちを想像できたなら、もっと生きた言葉で、聞く人を感動させる言葉で、平和について語ることができたのではないか? 平和に安住している人間を戦争の地平まで引きずりおろすリアルな言葉で説得していたら、今のような惨状に堕ちなかったのではないか?

              確かに「戦争反対」の言葉に一番有難みを感じるのは戦火の中である。今の日本みたいな太平の世の中で戦争の痛ましさを伝えることがいかに難しいか、それは私にもわかる。
              ただ今のような芸のない「戦争反対」「護憲」の無邪気な連呼から、社民党や共産党は一歩踏み出すべきなのだ。

              社会党・共産党は日教組を通じて、50年もの長い間いわゆる「左寄り」の教育を子供に与えてきた。もし彼らの「刷り込み」が成功したならば、子供たちが大人になった時に社会党や共産党にどんどん投票して、今では社会党と共産党の立派な政権が誕生していたことだろう。
              なぜそうならなかったのか、もう一度考え直して欲しい。
              | 政治経済 | 19:39 | - | - | ↑PAGE TOP
              塾の国語テキストは名文カタログ
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                僕が中学受験時代、国語の勉強は軽い息抜きだったような気がする。
                脳味噌の酸素を激しく消耗させる算数や、本を開くだけでハクション大魔王みたいにジンマシンが出てきそうで大嫌いだった理科のあとに国語をやると、すごく気分が落ち着いた。
                国語は勉強というより、ちょっとしたブレイクタイムだったようだ。
                算数・理科というハードなスポーツのあとに、国語という氷水でのどの渇きを癒した。

                でも1回だけ、国語で異常に歯ごたえのある問題があった。内容は忘れたが、その難しさは鮮明に覚えている。
                それは武蔵中学の問題だった。塾のテキストの「発展問題」の最後の方に、4ページわたって問題が載っていた。
                武蔵の問題は文章が異常に長く、しかも設問は記述式で何を書いていいかわからず、暗中模索の状態で書き上げて模範解答を見ても、書いた答案が正解なのか自分では判断できなかった。

                この時ばかりは、冷たい水だと思ってゴクリと飲みこんだら、実は強烈な焼酎だったわけで、ひどく騙された感じがした。
                しかしそんな例外はあっても、中学受験の国語の勉強は、楽しむだけで苦痛なく無意識のうちにやっていた。

                それは僕が数式や図形の問題を解くよりも、文章を読む方が楽しいという個人的資質もあっただろうし、また20数十年前には、中学入試の国語の問題は今みたいに難しくなかったというのが本当の理由だろう。
                今の難関中学の国語の入試問題はごまかしのきかない超難問である。


                ところで、塾のテキストは古今東西の名著のダイジェスト版みたいで、ちょっとした名文カタログのようで、読むのが実に楽しかった記憶がある。

                中学入試塾の国語テキストは、まるでクラシックの名曲のサワリの部分だけが1分ぐらいずつ収録されている「ベストクラシック100」のサンプラーCDみたいなものだろうか。

                僕は大学生のとき、この類のCDを参考にしてクラシックを聴き始めた。
                おっ「運命」だ、知ってるぞ。ベートーヴェンなら「交響曲第7番」というのが躍動感あふれてていいぞ。
                モーツァルトの「アイネ=クライネ=ナハトムジーク」はよく耳にするが、聞き飽きたしお上品で正直つまらない曲だな。でも「ピアノ協奏曲20番」と「レクイエム」は悲しそうないい曲だ。俺の性に合ってる。CD買おう。

                ドビュッシーという人の曲はよくわからない。最初から最後まで「ボヤーン」「フワーン」としていて、おいしいメロディーがいつまでたっても始まらない。あっ、もう終わり? ピアノ曲なんか、このピアニスト間違って隣の鍵盤も一緒に弾いてしまってるんとちゃうやろか。和音が変だよ。ちょっとパス。

                そんな風にして、自分の気に入った音楽をサンプラーで探し求める。塾の国語テキストも、そんな感じだった。気に入った作家は、中学校に入ったら腰を据えて読み始めた。

                別に齋藤孝氏が理想の教科書なんか作らなくても、塾のテキストがおいしい部分を選んでくれているじゃないか。


                で、そんな塾のテキストの中で、僕が一番お気に入りだった作家は北杜夫だった。
                「どくとるマンボウ青春記」が出典の文章に何度かお目にかかり、文章の愉しさに酔った。
                中学時代には北杜夫が書いた文章を新潮文庫で貪り読んだ。「どくとるマンボウ航海記」で大いに笑い、「夜と霧の隅で」で泣き、「幽霊」の小説技巧に酔いしれ、「楡家の人びと」には時を忘れてのめりこんだ。
                彼の読者を楽しませる力には強い敬意を感じた。

                ところでいつぞや「徹子の部屋」で北杜夫が出演しているのを見かけたのだが、本物の北杜夫は寡黙なのだが、ときおり断片的に素っ頓狂な声で話す人で、強烈な「変人オーラ」が漂っていた。
                躁鬱病とはこんなものなのかと妙に納得した。
                あの黒柳徹子までもが、北杜夫の珍獣ぶりに戸惑っていて、いつもの饒舌が影を潜めていたような気がする。

                一番衝撃だったのは、北杜夫の手だ。
                彼の手を見ると、10本の指すべてにセロテープが巻いてある。その理由について北杜夫は延々と語っていた。
                その理由は忘れてしまったのだが・・・

                僕はますます北杜夫が好きになった。

                | 中学受験 | 14:15 | - | - | ↑PAGE TOP
                中学生・おすすめ理科社会参考書
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                  私の塾には、参考書や問題集が数多い。塾の規模のわりには量が揃っていて、生徒一人当たりの参考書・問題集密度は高い。

                  私は良い参考書や問題集があると買いまくる。買う量も半端じゃないが、それに加え私は物が捨てられない性分である。
                  また、塾用教材のサンプルを教材屋さんが大量に送ってくれる。
                  中学生用の塾用教材は、街の本屋で売っている市販教材よりも遥かに質が高いので重宝する。

                  それから私は中学校を卒業した生徒に、「いらなくなった参考書・問題集をくれ」と頼む。だから卒業時には、膨大な参考書・問題集が塾に集まる。
                  だから、どんどん本がたまる。

                  我が塾に置いてある本の質は高い。
                  大学教授や有名高校教諭の名前で出版している、アルバイト学生が適当に過去問を切り貼りした手抜き教材は、本屋でパラッとページをめくっただけでわかるので絶対買わない。
                  自習室には、私が集めた大量の参考書・問題集を置いて、いつでも勉強できるようにしてある。最新のコピー機を自習室にドンと据えて、生徒には自由に使わせている。

                  参考書・問題集の数が多いのは、もちろん塾生のために、でき得る限りの学習環境を整えることが目的であることは言うまでもない。

                  しかし正直に言うと、塾に膨大な本がある理由の半分は、私の偏執的な収集癖に由来する。

                  私はコレクター的性質を持っている。参考書や問題集を収集するのは楽しい。
                  小学生の時に、切手収集に凝ったた時と同じ熱狂度で本を集める。ブックオフあたりで、質の高い参考書や問題集が、捨て値で売りさばかれているのを見ると狂喜する。

                  古い参考書には素晴らしいものがあるので、塾の本棚には10年・20年前の参考書・問題集を大量に残している。
                  最近の参考書・問題集は「ゆとり教育」に合わせて、子供に迎合した多色刷りのものが多い。
                  出版社が説明をわかりやすくする方向で編集していただけると助かるが、実際は本の版を大きくし、活字もついでに大きくして、デザインに凝りイラストを増やし、色や写真を多用し軽薄路線を突き進んでいる。結果として最近の参考書は、でかくてケバケバしい、役にもたたない代物が多くなった。

                  昔の参考書は骨があった。
                  倒産した駸々堂が出していた、灘高の先生が書いた「アプト」は、難関高校入試には最適の本である。会社が潰れ、どこにも売っていないため(稀にブックオフで見かけるが)。今では骨董本である。
                  駸々堂も、アプトのような良心的で難解な本を出していたから倒産してしまったのだろうか?
                  こういう貴重な本は、生徒に持ち帰りを許さず禁帯出本にする。

                  さて、ここで塾の自習室で人気の高い、理科社会の参考書・問題集、ベスト3を紹介する。


                  1.中学 スーパー理科事典(受験研究社)

                  理科学習の必需品。値段は高いが、この本はその値段の何万倍の実りを、子供たちの将来にもたらせてくれる。
                  理科事典は、中学校の履修内容がほぼ網羅してあり、時には高校内容に逸脱している。
                  絵と図表のバランス、色の使い方も申し分なく、レイアウトは四谷大塚の予習シリーズの中学生版といった趣である。

                  恐らく塾内で使われた回数はダントツだろう。本は手垢で黒くなり、3代目が導入された。
                  受験研究社はかつて「自由自在」シリーズで一世を風靡したが、改訂作業を怠っているため、「自由自在」は時代遅れの代物になっている。
                  ただし「理科事典」は素晴らしい。受験研究社渾身の作品である。

                  各ページの表題が
                  「変異はどのように起こるか」
                  「節足動物にはどんな特徴があるか」
                  「地震はどのように起こるのか」
                  「原子説はどのように生まれたか」
                  「圧力とはどのようなものか」
                  という具合に、問いかけ文になっている。このちょっとした工夫が、読み易さを演出している。
                  また、索引も充実している。

                  英語には英和辞典・和英辞典が欠かせないように、理科学習事典は、中学生の理科学習の必需品だ。


                  2.精解と資料 地理・歴史・公民・理科1分野・2分野(文英堂)

                  難関高校を目指す子にとっては最適。装丁は重いハードカバーで、厚さも十分。
                  「参考書」というイメージ通りの、参考書中の参考書である。

                  理科・社会を勉強していて、理解不能な事柄がある時には、この本の索引を参照すれば、たいていのことは載っている。
                  精解と資料の出現によって、受験研究社の「自由自在」も、教学研究社の「中学事典」も、古色蒼然とした過去の遺物になってしまった。

                  ただし上級者向きなので、最初の1冊としてはお薦めできない。
                  また学校の定期試験対策や公立の入学試験には、情報量が多すぎて使いづらい。

                  しかし、難関高校を受験する受験生には、「精解と資料」は大きな味方になる。勉強している時、机の上にボンと置くだけで、「俺は勉強してるぜ」という雰囲気にさせてくれる重厚な本だ。


                  3.くわしいシリーズ(文英堂)

                  とりあえず何か参考書を買う場合には、これが一番のお勧めである。期待に外れることは恐らくない。
                  私が嫌いな多色刷りだが、悪趣味の一歩手前で抑えてあり非常に読みやすい。図版も写真も十分掲載されている。
                  学校の定期試験対策や公立の入学試験には、これ1冊で十分。

                  使いやすさも抜群。本のページが左右に分かれていて、左側が学校の教科書のような文章、右側が注釈になっている。
                  そしてこの注釈が、用語説明・写真や図表や資料、気の利いたコラムになっていて読ませる。
                  去年改訂され、一段と読みやすくなった。
                  文英堂は学習要領が変わる度に抜本的に参考書を改訂し、改訂するたびに洗練の度合いを高めていく良心的な出版社である。

                  自習室での塾生の勉強をのぞいてみると、最初はみな「くわしいシリーズ」を使って調べものをしている。しかし学力に自信がついてくると「精解と資料」に移行していく。
                  生徒が「精解と資料」を使い始めるのを見ると「ああ、こいつ学力伸びたな」と嬉しくなる。
                   
                  私が挙げた3シリーズは、中学生が通っている塾ならば必需品であろう。オーソドックス極まりない選択である。
                  でも売れ線だけあって、理科・社会の調べ物には最適だ。

                  問題集に話を移そう。私の塾の、理科・社会問題集の中で一番人気は何か?

                  それは

                  「にがてな人へ シリーズ」(理社出版)

                  である。

                  私は生徒に「どの問題集がいいか?」と尋ねられたら丁寧に答えるが、私から積極的に「これがいいよ、是非やってごらん」と言ったりはしない。自分の目で、塾の本棚から、良い本を探してもらう。

                  そんな中で、ほとんどの生徒が本棚から「にがてシリーズ」を目ざとく見つけ出し、「いい問題集だね、これ」と評価し、「先生これ持って帰ってやっていいか?」と頼みにくる。
                  自習室にいる生徒のうち、半分ぐらいがこの問題集をやっている時期がある。

                  入試4ヶ月ぐらい前から、中3生の自習室への人の出入りが激しくなる。追い込みに向けて、特に理科社会の学力をグレードアップしたい受験生は多い。この問題集をやれば、2ヶ月ぐらいで理科・社会の成績は飛躍的に向上する。

                  また、中3の2学期あたりで、途中入塾してくる子が多い。たいていの場合、理科と社会に爆弾を抱えている。実力テストで30〜40点しか取れない。中1・中2で履修した内容が、すっかり記憶の彼方に消えてしまっている。

                  そんな子に、正しい理科・社会の勉強法を身につけさせた上で、「にがてシリーズ」を薦めれば、80%ぐらいの子供の理科・社会の成績は、恐ろしく上がる。彼らにとって「魔法の杖」になる。

                  この問題集は、入試問題レベルの応用問題まで網羅しているわけではないが、理科・社会の特定分野の苦手意識を克服するためには、これ以上ないスグレモノである。

                  この問題集を卒業したら、生徒たちは実践的な入試問題に取りかかっていく。そして入試問題を解くうちに、「私は江戸時代が弱い」とか、「関東地方がよくわからない」とか、「湿度計算がイマイチしっくりこない」とか、弱点が浮き彫りになったら、再びこの問題集で復習する。

                  断言しよう。
                  市販している中学生用問題集の、90%はゴミである。
                  しかし「にがてシリーズ」のように、理科・社会の成績を怒涛の如く伸ばす立派なモノも一方で存在するのだ。

                  私は7〜8年前に「にがてシリーズ」を岡山の紀伊国屋書店で偶然発見し、いっぺんに気に入って、早速全シリーズ衝動買いした。

                  薄い問題集で、分量は30枚(60ページ)ぐらい。
                  装丁は安っぽく、高校の文化祭のパンフレットのようである。
                  しかも中身は手書きで(最近改訂版が出て、活字になったが)、どこかの中規模塾のテキストみたいに手作り感覚にあふれていて、「これなら俺にも作れそう」と思わせるところがある。

                  このシリーズは、単元ごとに分冊になっている。
                  「電流のにがてな人へ」
                  「化学のにがてな人へ」
                  「天気・天体のにがてな人へ」
                  「光・音・物質・運動のにがてな人へ」
                  「世界の地理のにがてな人へ」
                  「日本の地理のにがてな人へ」
                  「歴史のにがてな人へ」
                  「公民のにがてな人へ」
                  「一次関数のにがてな人へ」
                  「二次関数のにがてな人へ」
                  「図形の証明のにがてな人へ」
                  「立体・角度・比のにがてな人へ」
                  「文章問題(数学)のにがてな人へ」

                  この、単元別に分冊になっている、というのがミソで、子供は苦手分野だけやればいい。
                  「にがてな人へ」というネーミングの上手さと、単元別に分冊化したアイディアは秀逸で、できそうでできないことだと思う。

                  たとえば受験前に公民が苦手で悩んでいる子がいたとする。でも何から手をつけていいのかわからない。
                  普通の問題集は分厚すぎ、全部やらなければならないと思うと、げんなりする。

                  そんなところへ、塾の棚で「公民のにがてな人へ」というタイトルを見つける。
                  本を手に取る。薄い。
                  中を見る。問題量は1ページに20問くらい、活字は結構大きく読みやすい。
                  ケバケバしい色刷りじゃないから、どこか信頼感がある。
                  そして、ご覧になっていただけるとわかるのだが、他の問題集とは違う、言葉では説明できない「手作り感」「ぬくもり感」に満ちているのだ。
                  パラッとページをめくれば、子供は「これなら僕にもできる」と思うだろう。

                  子供の心を巧みに掴む問題集である

                  問題構成もなかなかで、私も自分で理科の「電流のにがてな人へ」を実際に解いたが、基礎的な問題から、程度の応用問題まで、なだらかな坂を上がるように徐々に難しくなっていく。編集者の心配りが行き届いている。

                  このシリーズは、苦手分野を無理なくピンポイントで解決できるのである。

                  目の肥えた方からは「なんじゃこれ、薄っぺらい」と批判を受けやすい代物であることは確かなのだが、中学生が一念発起して苦手分野を自学自習するには、このくらいの分量が限界だと思う。

                  分厚い問題集は量が多すぎ挫折しやすい。
                  市販の問題集を買って、子供が最初から最後までやり通すケースは、学校や塾の副教材として強制してやらせる場合は別として、0.5%ぐらいだと私は推測する。
                  そ分厚い問題集を買い、ピンポイントで重要な箇所、重要な単元だけをやってみようと思っても、なかなか自分ではどこが重要かわからず、しかも問題集の一部だけ「つまみ食い」するというのは、イマイチ達成感がもてない。

                  「にがてな人へ」シリーズは、中学生の力で、最後までやり通せる問題集であり、1冊きちんと仕上げることで、「私はこの単元は極めた」という心理的達成感を持つことができるだろう。

                  「にがてな人へ」シリーズの難点は、中規模以上の都市の大書店にしか置いていないことだ。
                  だから、田舎では知られていない問題集で、私はマイナーな「知る人ぞ知る」存在だと思っていたのだが、最近では新宿の紀伊国屋書店や神保町の三省堂に、他のメジャーな問題集を押しのけ平積みになっている。
                  こういうところが、都会の凄い所である。
                  値段は各シリーズ、500円から600円。「にがてシリーズ」強力プッシュします。



                  2014年7月発売の、私が書いた勉強法の本「難関私大・文系をめざせ!」
                  大学受験の英語・国語・社会の勉強法と、現場で成功をもたらした参考書紹介の本です。
                  ユニークな塾生たちの合格体験記も掲載。熱い本です。


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                  ソウル「明洞餃子」の激辛キムチ
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                    キムチは複雑玄妙な食べ物。漬ける時間の長短や、保存する場所や、気候で味が全然違う。
                    塩加減も千差万別。塩辛さが表に出るキムチもあれば、塩気をほとんど意識させないキムチもある。

                    また、カキやアミの塩辛をふんだんに入れた、豪勢な白菜キムチもある。
                    そんなキムチは魚介類の力で、味わいの深みとコクは格段に増すのだが、その分キムチは魚臭くなり、好みは分かれるところだ。

                    さて、私が韓国を旅しながら訪ねた店で、このキムチは絶品だと感激したのは、ソウルの繁華街明洞にある「明洞餃子(ミョンドンギョジャ)」という名の店のキムチだ。

                    「明洞餃子」の売り物はカルグクスという、韓国では有名な麺類である。この店のカルグクスは有名で、観光ガイドには必ず載っている。



                    麺は平麺で、ラーメンのように"かんすい"は含まれていなくて色は白。日本の稲庭うどんに似ている。
                    それを鶏のスープで麺ごと煮る。薄口の鶏のスープがなかなかの美味い。麺ごと煮ているから、スープには少々とろみがついている。
                    そこに醤油で煮込んだ豚のミンチが少量と、ワンタンが5切れほど入っている。それになぜだかキュウリも一緒に煮込んである。

                    麺のほかにサービスとしてつくのが、ごく少量の粟と一緒に炊かれたご飯。
                    粟といったら江戸時代の貧しい農民の食べもの、または鳥の餌を想像しますが、
                    この店の粟入りご飯はなかなかいい。
                    粟を入れることによって、ご飯にトウモロコシのような甘みが加わる。



                    韓国の人は、カルグクスの麺を食べた後の残ったスープに、この粟ご飯を入れて食べている。
                    私も最初スープとご飯を混ぜる食べ方は気持ち悪く、少々抵抗を覚えたのだが、やってみるとおいしく効率的な食べ方であることに気がついた。

                    日本人は口の中で飯とおかずを噛んで混ぜるが、韓国人はあらかじめ器の中で混ぜ合わせておく。韓国人はうな丼までビビンバみたいにスプーンで丁寧に混ぜる。日本人と韓国人の食べ方は根本的に違う。

                    そして、この店の大看板はキムチだ。
                    ここのキムチは浅漬けで、白菜にはシャッキリ感が存分に残っている。浅漬けだから白菜はまだ透明感があまりなく、大根のような純白さをとどめている。その純白さが、唐辛子の極彩色の中で引き立ち、紅白のコントラストがはっきりした、たいへん見た目にも美しいキムチだ。



                    ここのキムチは辛い。とっても辛い!
                    食べるたびに、舌の付け根に火傷に似た刺激を感じる。
                    火傷のような刺激を抑えるために、水ばかり飲んでいたら腹がタプンタプンになるので、水は極力我慢する。
                    我慢して食べていると、大袈裟でなく舌を手でつかんで辛さを中和したくなる。

                    「からい、うまい、からい、うまい、うまい、うまいっ、ひいいいいっ!」

                    この辛さは、唐辛子の辛さではない。
                    韓国の唐辛子は、日本の唐辛子に比べて大きく、辛さはマイルドだ。
                    韓国の人は日本の鷹の爪を食べて、「この唐辛子は辛すぎる」と文句を言うほどである。

                    しかも韓国の唐辛子は、日本の唐辛子に比べて、噛めば素晴らしい芳香が立つ。韓国産の唐辛子は、唾液の分泌を促進する、複雑な良い味がする。

                    このキムチ、唐辛子の種も大量に入っているのだが、唐辛子だけではここまで凄まじく辛くはならないはずだ。
                    そしてなぜだか「明洞餃子」のキムチには、真っ赤な色をしたリンゴや梨をすりおろしたようなものが、ふんだんに白菜に絡みついている。この赤いすりおろしリンゴみたいな物体こそ、キムチの辛さの原因だ。

                    味は全く違うけれど、色や形状が日本のもみじおろしに酷似している物体が、ここのキムチをダイナマイトの如き攻撃的な辛さのキムチに仕立て上げている。

                    この赤い物体とは、ニンニクだ。

                    ここのキムチの辛さは唐辛子のHOTな辛さではなく、ニンニクの刺激的な辛さである。
                    レシピは恐らく、ニンニクをミキサーにかけ、水分を適度に搾ってペースト状にしたものと、種を取らない唐辛子の粗挽きを混ぜ合わせ、浅漬けの白菜にまぶすというものであろうかと想像できる。

                    要するに私は、生ニンニクのすりおろしをバクバク食べていることになる。
                    しかも唐辛子で真っ赤になった代物を。
                    しかもこんなに辛いのに、白菜の甘みがずすんと感じられるのは、もはや神業だ。

                    キムチはそのまま食べても美味いし、ご飯と一緒に食べても最高。ご飯の甘みがキムチで尚一層引き立つ。

                    そしてカルグクスにキムチを入れて食べたら、上品であっさりした味のカルグクスが、突然暴力的な味になりこれまた素晴らしい。

                    たしかに、カルグクスの鶏のスープは繊細な薄味だから、キムチを入れたら上品な味わいが辛さで破壊されるとの危惧もあるだろう。

                    しかし唐辛子の苛烈な辛さで、カルグクスは鮮烈で多層的な味に変化する。
                    口に含んだ時の暴力的な辛さが一段落すると、そのあとにはスープの旨みがくっきりと舌の上で舞う。
                    そのまま食べると異常な辛さを発揮するキムチは、スープに入れると辛さが中和され、スープの旨みとコクをくっきりと引き立てる。

                    そしてニンニクはスープの熱によって、刺激的な悪魔のような味から、まろやかさや甘みへ味が変わる。

                    また、辛いものって、食べれば食べるほど空腹感を覚えないだろうか?
                    キムチを食べると唐辛子とニンニクの魅惑的な辛さによって、喉の奥から唾液が大量に湧き上がり、死んでいた胃は「激うま」キムチの来襲によって激しい蠕動運動を始め、「もっと食べて、もっと食べて」とフル操業状態になり、キムチを食べれば食べるほど腹が減るという悪循環に陥る。
                    汗が怒涛の如く吹き出し、血液は健康的に身体中を駆け巡る。

                    キムチは何て素晴らしい食べ物なのだろう。

                    | 韓国 | 13:02 | - | - | ↑PAGE TOP
                    中学数学・方程式は反則技
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                      試験が終わって通常授業。やっと塾側のペースで授業ができる。学校の定期試験対策は、まるで学校の下請け作業のように受け身にならざるを得ないので結構疲れるのだ。

                      数学は中学生各学年とも、やっと計算問題が終わった。3月から延々と計算問題ばかりやっていた気がする。計算問題ばかりやらせていると、まるで自分が公文の先生になったような錯覚を感じる。教師というよりトレーナーみたいだった。

                      これからは嬉しいことに各学年いっせいに方程式の文章題に突入する。これでやっと「訓練」ではなく「学問」ができる気がする。
                      中1は1次方程式、中2は連立方程式、中3は2次方程式。方程式の文章題には、じっくりと時間と熱意をかける。文章題がビシッと解ける地力をつけるのが塾の仕事だ。方程式の文章題は塾の力の見せ所である。

                      文章題を教えている時は、まさしく子供の「学力」をつけているんだという充足感がある。生徒の脳味噌を鍬でせっせと耕しているような、健康的で実りのある労働をしている感じだ。
                      中3・中2の子は中1の時に鍛えているので文章題にも慣れていて、サクサクと鍬が地面に食い込むように飲み込みが良く、教えることが心地いい。

                      しかし中1で中学受験をしていない子に1次方程式の文章題を解かせるのは、最初のうちはかなり苦しい。まるで万年雪に閉ざされ硬く凍りついた地面を耕しているかのようで、鍬が氷にガチンと押し返されてしまう。

                      彼らは文章題に最初は手も足も出ない。小学校では文章題をろくに教わっていないのだ。問題を読みこなす読解力、問題のイメージを図に書き示す表現力、未知数をxと置く技術、そして計算力と、文章題解くにははあらゆる力が必要である。

                      僕は硬く凍った土の中からこれらの力を引き出してやらなければならないのだ。中1の1次方程式には2ヶ月間みっちり時間をかけて取り組むが、彼らがどこまで力をつけるか不安4割、楽しみ6割である。

                      逆に中学受験を経験した子は方程式の文章題を楽しんでいる。小学校時代に苦労した文章題が方程式という「反則技」でいともあっさりと解けてしまうことに感心している。

                      「小学校の時の難しい解き方より簡単」という声があちこちでしている。
                      「なんで方程式を小学校の時に教えてくれなかったん」という声もする。

                      | 高校受験 | 13:07 | - | - | ↑PAGE TOP