猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
kasami88★gmail.com
CALENDAR
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< September 2005 >>
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
猫ギター
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
中学時代・はじめての坊主頭
0
    私は4〜5年前から坊主頭である。1ヶ月に1回自分でバリカンで刈る。長さは1mmぐらいでツルツルに近い。

    頭頂部が少々はげてきた時、思い切って坊主にすることに決めた。カツラ代もかからないし楽だ。欧米に行くとスキンヘッドにした紳士が多い。日本人みたいにハゲを隠し通すのではなく、スキンヘッドにして開き直る。欧米人みたいに堂々とハゲにした方が格好いいと私は判断した。

    ただ、当然ハゲよりフサフサの方がいいに決まっている。だから一縷の望みを託して毎日リアップを塗ってはいるのだが、今のところ目に見えた効果はない。

    美容院とか理髪店とかは好きではない。私は短気だから頭を触られているとイライラしてくる。パーマをかけるなんてとんでもない。あんな超長時間散髪屋の椅子に座っているのは苦痛だ。
    また、いい歳をしたオッサンが、女性に混じって美容院へ行くのも考えものだ。不細工なオッサンが、「横の裾を心持ち短めにして」「パーマは少しゆるめに」なんて、自分の髪形に注文つけるのは恥ずかしい。そんな注文は私にはナルシスト的行動にしか映らない。自分でバリカンでサッパリ刈るのが一番潔くていい。

    ところで、今若者の間で坊主が流行っている。街へ出ると坊主頭の若者がいっぱいいる。昔は「坊主=部活で強制」だったのだが、いまはオシャレな髪型として認知されている。特にパンクとかヒップホップとか音楽系に坊主は多い。最近の若者の坊主頭は、坊主とか丸刈りとかいう名前よりも、「ボーズ」とか「ボウズ」と言った方が似合う。
    私もブカブカの服を着て半ズボンを履けば、年不相応ながら流行の一端を担っている気がして悪い気はしない。私の坊主頭に時代がついてきたのかも。


    さて、中学の時も私は坊主にしていた。坊主にした理由はこうだ。

    私は田舎の小学校で学び、中学から1人暮らしをしながら開成中学へ通い始めた。
    小学校や地方の塾では成績はトップクラスだった。しかし、中学校の最初の定期試験である中1の1学期の中間試験の成績が良くなかった。成績はクラスで51人中25位。トップクラスしか経験のない自分としては非常に情けない成績で、極度に落ち込んでいた。特に英語がさっぱり理解できず途方にくれていた。

    そんな時、私の友人が坊主にしてきた。聞けば彼も中間試験の成績が悪く、お父さんから「気合を入れろ」と坊主命令が出たのだという。私も坊主にしたら気合が入り頭が良くなりそうな気がしてきた。

    また開成では5月に運動会がある。開成の運動会は青春の匂いがほとばしる熱狂的な運動会で、開成OBの中には、開成高校が「東大合格日本一」と言われるよりも、「開成の運動会は日本一」と褒められる方が嬉しい人もいるが、私もその一人である。とにかく熱い運動会だ。
    開成では高3から中1までタテ割りで組を作り対戦する。高3は中1に運動会の指導をしてもらう。運動会の練習には教師は一切入り込まない。厳しい練習を通して、高3と中1の間には信頼関係が生まれる。運動会でお世話になった高3の先輩たちから学んだ、青春ドラマ的クサさがふんだんにある「熱さ」は、私の教師としてのパワーの一部になっている。

    そして、今はどうか知らないが、高3は負けたら責任を取って坊主にする先輩が多かった。負けたクラスは2分の1ぐらいが坊主頭になる。私が尊敬していた先輩達も丸坊主になった。
    高3の坊主頭には運動会の責任を取る意味と、8ヵ月後に控える大学入試に向けて気分を入れ替えるという意味の2つがある。そんな高3の潔いところが中1の私にはとても格好良く見えた。
    そしてお父さんに坊主にしろと命令された友人も、運動会で負けて坊主にした先輩も、坊主頭が凛々しく似合っていた。ちょっと真似してみたいなと思った。

    でも自分が丸刈りになるなんて考えられなかったが、先輩からなぜか「お前も坊主にしろ」と言われ、思い切って散髪屋に行った。
    今でこそ私はヒゲを剃る感覚で頭を刈っているが。当時は坊主にするなんてとんでもないことだった。でもテストの点が悪く、ここで何とか心機一転ギアチェンジしないと、このままズルズル堕ちてしまいそうな予感がした。いっちょ坊主にしたろうじゃねえか。

    散髪屋に行く前は大いに躊躇し、緊張で心臓がバクバクした。おでこの前髪を上げて鏡を覗き込み、自分が坊主になったらどんな顔になるか想像した。
    私は小学生の時から少し長めの髪型で、散髪屋さんに30分ぐらいかけて丁寧に切ってもらっていた。私は勉強もできたし、長めの髪型は何だかいいとこのお坊ちゃまみたいで、ちょっとした優越感を感じていた。
    しかしそんな丁寧に調髪された髪が、バリカンで呆気なく根こそぎ刈られた。髪が無造作に濡らされて、バリカンが頭頂部から暴力的に入れられ、サラサラの髪は残骸として無残に床に落ちていった。

    3mmの白い坊主頭が出来上がった。頭の輪郭がまん丸く間抜けで、恥ずかしくてたまらなかった。友人や先輩の坊主頭は格好いいのに、自分がやってみると毛を刈られた羊みたいな情けない姿にしか見えない。

    不思議なことに、もうすっかり前髪なんかキレイに刈られて無くなっているのに、まだ前髪があるような錯覚がして、思わず前髪をかき上げそうになった。前髪があると思って額をさわると、サラサラした前髪はなく、ゾリゾリした感触の短い髪しかなかった。サラサラヘアからザラザラヘアへの変貌に、まだ慣れることができなかった。

    散髪屋から出て、道に止めてある車のミラーで自分の顔を見た。かつての長髪の秀才少年ではなく、坊主頭のサルみたいな間抜けなガキがいた。落ちこぼれには坊主頭がお似合いだ。俺みたいな勉強ができない奴は髪なんか伸ばす資格はないと思った。

    刈りたて坊主の地肌には、涼しい空気が貼り付く。風が少しでも吹くと頭が寒い。今まで長い髪に守られてきた私が知らなかった感触だ。頭の冷たい感触のせいで、坊主になって気合が入るどころか、ますます落ち込んでしまった。、
    開成という、世間で言うところのエリート中学に入った優越感なんか私には全くなかった。こんな凄い奴ばかりがいるところで、どうやって生きてゆくのだろうか。
    しかも坊主頭にすると、まるで少年院に入れられたような気分だった。囚人が坊主頭を強制される理由がわかった。坊主頭は明らかに人を滅入らせる髪型だ。
    | 未分類エッセイ | 17:47 | - | - | ↑PAGE TOP
    高知と龍馬・鹿児島と西郷
    0
      何度も同じ話で恐縮だが、日曜日は泊まりで高知に行った。福山駅から高知駅までは高速バスが出ている。1日1便、朝8時10分発。客は私を含めて4人。絶対に採算割れしている。
      バス会社の方には悪いが、閑散とした気分の良いバスの中で「ダ・ヴィンチ・コード」を読む。

      11時過ぎに高知のはりまや橋停留所に着くと、すぐに日曜市へ。高知城前の通りには600もの屋台が軒を並べ壮観。日曜市で新ショウガ・ニンニク・薩摩芋・栗・ゆず・うるめを買う。まるで買い出し部隊のようなラインナップである。

      屋台で薩摩芋のフライを食べる。これが熱々でバカウマ。衣はアメリカンドッグの皮を薄くした感じで、少し甘みがある。頬張ると黄金色の芋から湯気が立っており、栗のように甘い。
      東京の天婦羅屋「近藤」の名物である、分厚い薩摩芋の天婦羅の上を行くうまさ。

      ところで、高知の街は鹿児島にとてもよく似ている。路面電車が道路の真ん中をのんびり走っているし、地元の酒や焼酎の墨字体のカンバンが目につくのも同じだ。アーケード街の天井が高いのも似ているし、郷土料理店が多いのもそっくり。高知も鹿児島も、のどかで住みやすそうな地方都市である。

      失礼を省みず言うと、鹿児島も高知も辺境・僻地である。日本の果てといっていいほど、どちらも東京から遠い。
      もちろん今では羽田から頻繁に直行便が出ているため時間的には近いのだが、東京からの心理的距離は非常に遠く感じる。東京が太陽なら高知は海王星で、鹿児島が冥王星といったところだろうか。

      東京から鹿児島までは東海道新幹線が開通する前、特急でも28時間かかった。今では28時間あれば、成田からロス乗り継ぎでブエノスアイレスまで余裕で行ける。相当な距離である。
      熊本県南部の八代から鹿児島までは、新幹線の開通により40分足らずで到着するようになったが、昔は八代・鹿児島間は霧島連峰の麓の峠を抜ける国鉄屈指の難路で、線路にはループ線やスイッチバックの区間があちこちに存在し、蒸気機関車は喘ぐように黒煙を吐きながら走行した。
      さらに遡って江戸時代には、島津の殿様は江戸と鹿児島を片道50泊かけて参勤交代した。どれだけ鹿児島が遠いところかわかるだろう。

      高知も遠さでは負けていない。東京から特急で岡山まで行って、乗り換えて児島半島の先端宇野駅に進み、それから宇高連絡線で高松まで船の旅。高松からは土讃線で高知まで直通する。土讃線は峻険な四国山地を通らなければならず、吉野川上流の大歩危・小歩危という渓谷を縫って、やっとの思いで高知に着く。
      今では四国山地のど真ん中を高速道路が走り、バスはトンネルを抜けつつ軽快に走るが、四国山地の霧がかった山の連なりを見ると霊気を感じ、遠くに来たことを実感する。「土佐日記」の時代だったら、京の人が土佐に旅することは、宇宙とは言わないまでもアフリカの端に行くような覚悟が必要だったのではないだろうか。

      ところで、中央から遠いからなのだろうか、薩摩も土佐も人柄が純朴そうなイメージがある。薩摩のぼっけもんと、土佐のいごっそう。男の人はとても頑固で硬派な感じだ。
      薩摩隼人は怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー!」と掛け声を上げそうな気がするし、土佐人は腹が立つと「なめたらあかんぜよ」と相手を威嚇しそうだ。

      また鹿児島も高知も、教育熱が高い土地であるということも共通している。鹿児島はラ・サールや鶴丸・甲南、高知は土佐・高知学芸・土佐塾と、進学実績の高い名門高校が多い。高校野球も強い。
      さらに出身有名人は個性的な人が多い。鹿児島は長渕剛のイメージが強く、高知最大の有名人はあの広末涼子だ。私は高知と聞くと、反射的にヒロスエの顔が頭に浮かぶ。

      そして何といっても、鹿児島と高知は歴史を変えた街である。なにしろ鹿児島は西郷隆盛、高知は坂本龍馬の出身地だ。
      彼らが成し遂げた大仕事は、その後の国家百年の運命を決定づけた。日本史を変えた両雄である。

      高知の電車通り沿いには坂本龍馬の生家跡の碑があり、鹿児島城下の川沿いの一角には西郷の生家の跡がある(大久保利通の生家は西郷の家から歩いて2分ぐらい。2人はご近所で幼なじみなのだ)
      土産物屋に行くと、饅頭の包装紙は鹿児島では西郷どん、高知では龍馬。人形やキーホルダーも両者のものが異常に多い。薩摩人が西郷どん、土佐人が龍馬をいかに愛し自慢にしているかわかる。高知なんか空港の名前も「高知龍馬空港」である。

      しかし薩摩も土佐も近代日本を背負う人物をたくさん輩出したのに、どうして鹿児島や高知の街は地方都市のままなのだろうか? 私はいつも疑問に思っている。

      私がもし天下を取ったら(あは)、地元贔屓の強い私は広島の三角州をマンハッタンのように高層ビルで埋め尽くすだろうし、尾道水道を香港みたいにネオンの絵具で彩ってみたい。
      幕末の偉人たちは、明治になって故郷の街を巨大都市にしようとは思わなかったのだろうか?

      坂本龍馬は幕末非業に倒れ、明治新政府を建設する時には既にこの世にいなかったので、高知の街の発展にはもちろん寄与できなかった。
      たとえ龍馬が維新後生きていたとしても、龍馬は高知の街のことなんか気にもかけなかっただろう。山内家の掛川衆から200年間抑圧されてきた郷士出身の龍馬は、旧弊な高知の街に嫌気がさして、脱藩した男である。龍馬は土佐藩の庇護を受けることなく、浪人として幕末を生きたのだ。自分が捨て、また捨てられた街に龍馬は複雑な思いを抱いていたと思う。龍馬の晩年は地元意識は極めて薄かったに違いない。
      それに自由闊達な龍馬には、当時頭が固い人間が多かった高知よりも、西洋の文明の窓口であり外国の技術を吸収するストローのような役割を演じた長崎の街のほうがよく似合う。

      土佐を追われた龍馬とは逆に、西郷隆盛は鹿児島の街と、時代に乗り遅れた薩摩武士を愛するあまり、西南戦争前の一時期薩摩を独立国のような状況にして、鹿児島を本拠に西南戦争を起こした。
      郷土愛の薄そうな龍馬とは反対に、西郷は全身が薩摩そのものだった。西郷が西南戦争に勝っていたら、いま鹿児島は日本の中心都市になっていたに違いない。
      西郷の死後、新政府に残った薩摩出身の元勲たちは鹿児島の街を顧みることはなかった。何しろ明治新政府の事実上の宰相だった大久保利通は、西郷を裏切り「殺した」ことで、今に至るまで鹿児島では忌み嫌われているのだ。
      中央政界でのし上がった薩摩藩出身の元勲たちは、西南戦争で西郷と鹿児島の町を裏切った後ろめたさがあるので、龍馬が高知に対して感じる以上に複雑な思いがあったのだろうか。

      しかし、高知や鹿児島が革命の拠点となり、騒乱の台風の目になりながらも、その後は静かに地方都市の佇まいを見せ、時代に取り残されているのは、明治の元勲が国家建設に忙しくて、故郷を振り返る余裕がなかったからなのだろう。
      また、明治の元勲たちは国会議員ではないから、今の政治家みたいに地元の選挙民に気を使う必要はなく、生まれ故郷を無視し「超然」としていても藩閥政治家として身分が保障されていたので、地元に利益誘導する必要なんかなかったのかもしれない。

      ところで、九州は薩摩、四国が土佐、本州なら長州といった、日本の本土の島のそれぞれ一番端に位置する藩が、永遠に続くと思われた江戸幕府を倒したのは果たして偶然だろうか。

      薩摩も土佐も長州も、日本を一匹の獣とすると、ちょうど尻尾に位置する藩である。西郷や龍馬や桂小五郎は日本の尻尾に生まれ、尻尾に火をつけ、巨大な幕藩体制という獣体を動かした。鈍重な牛でも、尻尾に火がつけば暴れるのだ。

      薩摩や土佐という辺境の地で生まれた、草莽の若者の大言壮語や法螺が日本を動かしたのは大壮挙だが、もしかしたら日本の尻尾に位置する辺境の土地で西郷や龍馬が生まれたからこそ、維新は成し遂げられたのかもしれない。
      もし彼らが江戸や上方で生まれていたら、尻尾のように自由に振舞うことができなかっただろう。百数十年前に突然変異的に火がついて、今は燃えカスのように静かな地方都市と化した鹿児島や高知の街を歩いていると、そんなロマンチックな気分になってくるのだ。

      もしかしたら「教育改革」も、日本に数ある教育機関の尻尾である、辺境の零細塾から火がつくかもしれない。そう考えるのは、ちょっと格好つけすぎだろうか?
      鹿児島や高知を旅し、西郷や竜馬の生きざまを背に桜島や桂浜を眺めていると気が大きくなっていけない(笑)

      | 旅行食べ物 | 02:18 | - | - | ↑PAGE TOP
      都の西北ワセダの実情
      0
        私は早稲田の政経学部の経済学科を10年ほど前に卒業した。今日は早稲田のOBの一人として、早稲田の長所・短所を、主観的に思うままに挙げてみよう。

        早稲田の一番の長所は、「人が多い」ことだ。

        人が多いぶん、大学で出会うたくさんの友人達は魅力に溢れている。学力が異常に高い人、強い問題意識を持った人、「起業」を目指す人、大学の勉強を無視して俳優を志す人、英語を帰国子女でもないのにネイティブのように使いこなす人、普段は普通っぽい雰囲気なのに文章を書かせたり映画を撮らせたりしたらその独自の表現力でまわりを魅了する人、類型の全くないようなファッションで道行く人の目をくぎづけにする人、議論で周囲を圧倒する人、大学へ全く来ない消息不明な人・・・
        個性・学力・行動力など、全ての面でパワフルだ。早稲田は「学生一流、施設二流、教授三流、学長四流」何ていわれているが、学生一流というのは真実だ。とにかく面白い友人との有意義な出会いがある。
        また早稲田は大学というより、巨大な祝祭空間というほうが当たっているかも知れない。野球の早慶戦、ラグビーの早明戦、早稲田祭など、学生感の連帯感を高めるイベントがたくさんある。
        とにかく早稲田は楽しい。こんな楽しい大学、そんなにないんじゃなかろうか。

        また、早稲田の排他的なまでの愛校心の強さ。マスコミは最近よく早稲田の悪口を書く。特に週刊誌。
        ご存知のとおりマスコミには早稲田出身者が異常に多く。その早稲田出身者が早稲田大学の悪口を書く。しかしこれは早稲田への強烈な愛情の裏返しなのだと思う。

        次に短所。
        早稲田の最大の短所は、矛盾するようだが「人が多い」こと。

        授業は語学以外、大人数のマスプロ授業がほとんど。これは学生数に対して教員の人数が圧倒的に少ないという事情があるだろう。西川潤教授みたいに、大隈講堂で800人の学生相手の授業すらある。これでは教授との緻密なコミュニケーションなど取りようがない。

        早稲田は、学問の面においては裏切られる事の方が大きい。

        政経学部に入学したら政治学を1年からバリバリに学びたいという思いが私には強かったのだが、1・2年度は一般教養ばかりで、肩透かしを食らった。人類学やら哲学やら、私には正直あまり興味のない学問ばかりだった。大橋巨泉はそのつまらなさに辟易して、「一般教養の授業は無駄だ」と言って、早稲田を中退した。
        一般教養にしても専門科目にしても、授業が面白ければいいのだが、予備校でハイレベルな講義を受けた後では失望させられる事の方が多い。
        (凄い教授の授業は目をむくほど凄いのだが・・・川勝平太教授の授業は面白かった)

        成績のつけ方も、今はどうか知らないが、とてもいい加減だった。
        早稲田には学費値上げ反対を目的とした試験のストが多く、私は4年間のうち2回後期試験でストがあり、試験を受けることができず、評価はレポートで代替した。その結果、大学の成績評価はあやふやなものになった。

        また、早稲田は人数が多いため、自分の居場所を積極的に見つけるようとする努力が必要だ。語学のクラスなり、サークルなり、またバイト先なり、とにかく自分が安心する居場所を、自分で見つけなければならない。
        | 大学受験 | 18:37 | - | - | ↑PAGE TOP
        クラシックとジャズ・難解さへの憧れの欠如
        0

          ジャズやクラシックを聞く若者が減ってきた。少なくとも私の周囲には全然いない。

          ジャズやクラシックのCDは売れない。カラヤンが生きていた頃はまだ、クラシックのレコード売り上げも結構あったようだが、今ではスター不足で売れ行きは実に淋しいものだ。

          最近のクラシック界は、一部のCDだけが爆発的に売れる。
          小沢征爾のウイーン・フィルのニューイヤーコンサートは80万枚、ヨーヨーマ(チェロ)が演奏したピアソラのリベルタンゴの入ったアルバムは30万枚売れた。こんなのはクラシックのCDとしては超例外的な数字だ。最近ではコンクールで優勝した盲目のピアニスト辻井伸行のCDが売れている。
          それからフジコ・ヘミングという技量も感性も三流のピアニストが、テレビの後押しで売れる。売れるからといってあんな演奏を上等なクラシックだと思ったら大間違いである。

          爆発的な売れ方をするCDがある一方、基本的にクラシックのCDは、1万枚も売れたら大ベストセラーである。ジャズのCDに至っては、2000枚も売れたらレコード会社は祝杯をあげるのではなかろうか。J−POPやロックとは、売上枚数の桁が全然違うのだ。

          都市部の外資系レコード店(タワーレコード・HMV)に行ってみても、クラシックやジャズの売場は、奥まった場所の、重い扉がついて静まった、高級感漂う別室にあることが多い。
          平日に訪れると、こんなんでいったい採算が取れるのだろうかと、疑いたくなるほど客がいない。
          また、田舎のレコード屋ではクラシックのCDは売れないから、ジャケットが日に当たって変色している。

          昔からジャズやクラシックのファンは、決して多数派とは言えないのだろう。
          ただ、私が生まれた60年代は、ジャズやクラシックなど「難解な」音楽を聴くことが、格好いいという風潮があったような気がする。

          ジャズやクラシックが好きだと人に宣言することは、自分が「知識階級」であると宣言するのと同じことだった。
          同級生達が藤圭子や弘田美枝子を聴いているときに、女声歌手はマリア=カラスとビリー=ホリデイしか認めねえと広言することは、「インテリ」のステイタスだった。

          しかし、彼らが本当にジャズやクラシックを理解していたかどうかは怪しい。
          正直言って、多くの私より世代が上の日本人にとって、幼少の頃に刷り込まれた音楽は、三橋美智也や春日八郎あたりの流行歌だろう。
          私にしても、ジャズやクラシックよりも、演歌やコテコテの歌謡曲のほうが、実は親しみ深かったりする。

          いい演歌や歌謡曲は一発で理解することができる。私もそうだ。
          「津軽海峡冬景色」や「青春時代」や「五番街のマリー」や「メモリー・グラス」といった曲のメロディーラインは、本当に何度も何度も聴きたくなる。
          私の大好きな「夢の途中」や「異邦人」なんかは、いったい何千回聴いたことだろうか。これらの曲のメロディーは、いくら噛んでも味の落ちない、ガムのようなものだ。

          幼少時代から音楽教育を受けていた人や、子供時代ヨーロッパ過ごした人、それから特別な感性を持っていた人を除いて、日本人が身体の芯からジャズやクラシックを求めていたとは言い難いんじゃないか?
          聴覚すら西洋人と日本人は違うらしい。西洋人は音楽に構築性を求める。だから不連続に鳴り響く音は雑音と同じなのだ。だから日本人の耳に心地よい涼気を呼び覚ます風鈴の音は、西洋人には不愉快な雑音にしかすぎないのだという。

          ともかくジャズもクラシックは、根は日本人には縁遠い音楽である。だから日本人にとってジャズやクラシックに慣れ親しもうと思ったら、無理して背伸びをしながら聞く段階が必要なのだ。
          私より上の世代の人をジャズやクラシックという異文化の音楽に駆り立てたのは、「難解さへの憧れ」だったように思う。

          日本人が難解なクラシックやジャズを理解するためには活字の媒介が必要不可欠だった。活字の手助けがないと、音楽が理解できない。自分の耳だけでは、クラシックやジャズが、本当に素晴らしいものなのか自信がない。心もとない。音楽の良否が判断できないのだ。

          クラシックやジャズの旋律が流れてくる。
          いい音楽なのか?
          悪い音楽なのか?
          自分では判断しかねる。迷っている。
          自信がないから、音楽評論を読む。言葉の後押しが欲しい。
          誰かに「これはいい音楽だよ」と太鼓判をおして欲しい。

          こんな調子だから、クラシックやジャズの高名な音楽評論家が推薦する演奏は、権威と化す。クラシック評論やジャズ評論の新書版は結構売れる。一ヶ月に一回は、どこかの出版社から新書が出ている。評論の世界だけだと、J―POPやロックを売り上げで凌駕している。
          もしかしたらクラシックやジャズの評論は、CDより売れているんじゃないか? ジャズの寺島靖国やクラシックの宇野功芳の文章は、時には音楽自体よりも面白い。
          彼らが推薦したCDは非常に良く売れる。私を含めてクラシックやジャズの良さをイマイチ理解できないが、妙に難解なものに憧れてしまう「愚民の群れ」が、評論家の文章に釣られてCDを買ってしまうのだ。

          しかし、活字にナビゲートされながらでも、自分の力を超えた難解な音楽に対して果敢に挑戦するのは悪いことではなかった。今では私もある程度は、クラシックやジャズを理解できるようになった。モーツァルトやベートーヴェンやマイルスやビル・エヴァンスの音がないと、私の生活の楽しみの10%は消えてしまうだろう。大学生時代に格好つけて、無理して聴いておいて良かったと思う。

          さて、勉強の世界も同じである。
          難解なものへの憧れ、難問を征服してやろうという野心、これが勉強に対する最高の動機になる。
          私達の頃の参考書は難解だった。そして、私達の世代より前の参考書は、サービス精神のかけらもない高踏的な過去の遺物である。ただその遺物たちは語りかける。
          「この本は難解で歯ごたえがあるぞ、さあ、攻めて来い」

          しかし、ここ10数年間、参考書の世界に実況中継シリーズが出現してから、参考書の世界は変わってきたように思う。こちらから征服しなくても、本の向こうから著者がわかりやすく語りかけてくる親切な参考書がどんどん現れた。

          ところが、参考書が飛躍的にわかりやすくなってから、大学生の学力が落ちてきたと言われ始めたのはどういうわけだろうか? 巷で言われている大学生の学力低下が本当ならば、参考書の質の向上と大学生の学力は反比例しているのではないか? 水と肥料を与えすぎたら植物は根が腐ってひ弱になるように、過保護な参考書は高校生の学力を落としているのではないか?

          極論ついでにもうひとつ極論を言わせてもらえば、クラシックやジャズの人気低下原因は、大学生の学力低下の原因と根が同じなのではないだろうか。
          その原因とはもちろん、「難解なものに対する憧れ」が無くなってきた事である。

           

          関連記事

          ヒラリー・ハーンのバッハ
          http://usjuku.jugem.jp/?eid=482

          カラヤン指揮・シェーンベルク「浄夜」
          http://usjuku.jugem.jp/?eid=442

          | 音楽批評の部屋 | 11:24 | - | - | ↑PAGE TOP