猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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アメリカのデブの太り方は異常
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    アメリカのデブはすごい。日本のデブとは格が違う。

    腹の出っ張り具合、横へのはみ出し方、すべてにおいて日本のデブとはスケールが違う。
    スーパーでカートに大量の食料を満載しながら、ヨタヨタ歩いている40歳以上の黒人のオバサンとか、農園を経営するサスベンダーを吊るした太鼓腹のおじさん。
    中年アメリカ人は度を越えて、威勢がいいほど太っている。

    それから、アメリカのデブは手足が細い。
    ボディーだけ異様に肥大化して、細くてか弱い足がウルトラ級の重量を支えている。
    粘土を丸めて、そこに松葉を手足にしてくっ付けたような異常体型なのだ。
    同じデブ仲間の私から見ても「こりゃあ健康に悪いわ」と思ってしまう。

    たとえ地獄に落ちたとしても、アメリカのデブの細い足首にだけは生まれ変わりたくないと思う。一生あんな重量を支える苦痛には耐えられない。

    また、アメリカの太ったご婦人は、手足が美しい方が多い。
    テレビや雑誌の、手のモデルになれそうな人も中にはいる。
    「白魚の手に巨鯨の肉体」とはよく言ったものだ。
    しかし彼女たちがモデルになって、読者や視聴者に「あの美しい手の人、顔もきっと素敵に違いない。見てみたいわ。」とカミングアウトを求められても、ご本人は死んでも姿形を世間にさらすことはできないだろう。

    さらに、手足の細いデブが殺されて、バラバラ死体になって、手の先だけが見つかったらどうなるか。
    警察は鑑識で、細い腕だけを証拠に、
    「この仏さんの推定体重は40〜45キロだろうなあ」
    と間違った推定をして、実はこの死体が百貫デブであることなんか思いもよらずに、捜査の進展に致命的な悪影響を与えるだろう。
    まぎらわしいデブだ。

    アメリカのデブは、腹の出方も尋常ではない。ポコンとしたお腹はカエルみたいに、丸みを帯びてはちきれんばかり。
    ポコンと突き出したお腹を、両手で脇から押さえて搾り取ってみると、へその穴から真っ白なラードが、

    「ちゅうる、ちゅうる、ピュッ、ピュッ」

    とばかりに、飛び出してきそうだ。

    しかしたとえラードが飛び出してきそうなお腹でも、前にポコンと威勢良くせり出した形のお腹の持ち主は、貫禄があるし、なおかつユーモラスだ。
    しかし、前にも横にも後ろにも、ダランと巨大アメーバみたいに垂れ下がったお腹の人はどうすればいいのか。
    ひどい人はお腹がアメーバのお化けみたいに、膝ぐらいまで垂れ下がっている。グロテスクだ。

    とにかくアメリカにはデブが多いし、またそのデブたるや、中途半端なデブではない。
    アメリカ人の中年の3分の1はデブなのではなかろうか、特に低所得者の女性にデブが多い。NYなら、マンハッタンよりブルックリンやクイーンズにデブが多い。
    低所得とデブは、どうやら関わりがあるらしい。

    それにしても腹が立つのは、アメリカ合衆国は国内にこれだけ大量のデブを抱えていながら、一流企業には「タバコを吸う人間と、デブは採用しない」という掟があるらしいのだ。
    アメリカは国内にあれだけ質量揃ったデブを揃えていながら、排除の論理を振りかざそうとするのか。

    デブは自己管理できないから、エグゼクティブになる資格がないらしい。
    俺なんかはきちんと自己管理して、太った肉体を維持している。そんな人間まで疎外しようというのか。

    とにかくアメリカ人は食生活から改善しなければだめだ。
    日本の主婦は、夫や子供がいない時の昼飯は、友人達とたまにランチに出かけるとき以外には、ほうれん草のおひたしとか、きんぴらごぼうとか、低カロリーのものをショボショボ食べているイメージがある。きわめて健康的な食生活である。

    ところがアメリカの主婦の昼飯は、マックとかバーガーキングの巨大なハンバーガーや、お手製のジャムとラードのたっぷり入ったパイなんかを、ムシャムシャ食べているイメージがある。

    これじゃあ、デブになっても仕方ない。

    | 未分類エッセイ | 23:36 | - | - | ↑PAGE TOP
    公立高校入試に絶対出る問題
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      公立高校受験4ヶ月前ぐらいになると、成績の入れ替わりが激しい。
      成績が奈落の底みたいに落ちる子もいれば、急激に浮上する子もいる。
      偏差値という数値は、落ちる子の数だけ上がる子もいるわけだから、非常に残酷な数値である。

      成績が急浮上する子は、じつは今まであまり勉強に対して熱心じゃなかった子が多い。
      潜在能力を秘めながら遊び呆けていたのである。学校のクラスの中にも2人か3人、受験前になって突然目の色が変わり始め、成績が急上昇したクラスメイトがいるはずだ。

      また成績が上がる子は、決まって効率の良い勉強をしている。
      勉強に無駄がない。塾の指導力の腕の見せ所かもしれない。

      私みたいに15年間受験指導をしていると、ある程度公立高校の入試問題にどんな問題が出るかは読める(ときどき見事に外れるが(笑))
      公立高校の入試には毎年決まったパターンの問題しか出ない。そのパターンを重点的に演習すれば成績は伸びるのだ。

      直前になって模試の成績を落とす子は、効率の悪いトンチンカンな勉強をしている場合が多い。
      山に登らなければならないのに、海で沖に向かって泳いでいるようにしか私には見えない
      試験に出る問題はやる、試験に出ない問題はやらない、そんな当たり前のことが案外守られていないのである。

      では公立高校入試前にやるべきことは何か? 
      具体的には20ポイントほどある。
      その20ポイントを押さえていれば、内申点があまりに酷くない限り公立の入試問題は結構簡単に解けるのである。

      入試問題は子供を落とすための問題である。
      となると入試問題はある程度難しくなければならない。
      入試問題の作成者は、限られた指導要領の中から、いかに良問、すなわち難問を作るか頭をひねる。たとえば数学で言えば、当然教科書の各単元の最後のページあたりに出ている応用問題が狙われる。

      ところが「ゆとり教育」で生徒が理解しにくい箇所が大幅に削られてしまった。
      難しい分野が削られたら、必然的に難解な箇所、つまりは入試問題の材料は少なくなる。
      入試問題は、「ゆとり教育」で削除されるのを免れた、そんな数少ない難しい箇所から出題されるのである。

      ということは、出題される箇所は大幅に絞られることになる。
      かつては難しい箇所が30あったとすれば、そのうち20削られて10しか残っていない。入試問題作成者はその10の部分から問題を出さざるを得ない。
      私立高校ならともかく、公立高校では指導要領外の難問を出したら新聞沙汰になるから、出題者の苦労は察するに余りある。
      とにかく「ゆとり教育」で、出題される範囲はグンと狭められ、現場の人間からすると予想が立てやすくなったのである。

      では具体的に、必ず出題される箇所はいったいどこなのか、数学で1点だけご紹介すると、それは点の移動を一次関数のグラフにし、式を求める問題である。

      最後に問題の一例を挙げておいた。

      これは点の移動の最も基礎的な問題だが、これと同じような問題が入試には頻繁に出題される。
      また図形の点の移動だけではなく、管で水を容器に入れたり、或いはおもりを吊るしたばねの長さ、火のついたろうそくの長さ、速度で2者の位置関係といったバリエーションで出題される。

      このタイプの問題は、今年の公立入試問題47都道府県のうち、何と30都道府県で出題されているのだ。配点率は平均して15%くらいだろう。
      特に図形の点の移動は、場合分けが難しく中学生の頭を混乱させる。入試問題作成者がそんなオイシイ部分を突かないわけがない。

      とにかく点の移動と一次関数の問題を集中的にやれば、本番の入試での数学の得点力は大幅にアップする。

      繰り返すが入試前の限られた時間においては、出る問題はやる、出ない問題はやらないというスタンスが必要である。入試には出題されるポイントがある。

      成績が伸びないと悩む前に、まず入試問題を分析し、何が出るかをきっちり掴むことが肝心である。
      点の移動の問題はこんなに頻繁に出題されるのに、入試前に特別の対策がなされないなんて、実にもったいないことだ。







      ★開成塾・高校受験
      尾道市向島・尾道北高・東高をめざす塾








      | 高校受験 | 23:22 | - | - | ↑PAGE TOP
      平壌でオリンピックが開催されたら
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        次の夏のオリンピックは3年後だ。3年後といえば今の中学校3年生が順調にいけば高校3年生になる頃である。
        もし私の塾が3年後にまだ潰れていなかったら、中3生のうち誰かがスタッフとして私を助けているかもしれない。3年という年月は子供にとっては長い。

        次回のオリンピックは北京だ。中国が日本を差し置いて、アジア最強国として君臨することを世界中にアピールする大会になるかもしれない。
        中国が「あらゆる」手段を尽くして、金メダル80個ぐらい取りそうな予感がする。

        でもまだ中国ならいい。もし万が一北朝鮮でオリンピックが開催されたらいったいどうなるのだろう。

        私は生徒に北朝鮮の正式名称は

        「朝鮮民主主義人民共和国」

        ではなく、

        「朝鮮金正日帝国」

        だと常日頃から言っているのだが、そんな北朝鮮は不正の限りを尽くして金メダル30個ぐらい強引に取り尽くすのだろうか。それじゃあまるでオリンピックが国体になってしまう。

        北朝鮮でオリンピックが開催されたら、乗馬は金正日将軍自らが金メダルを取るかもしれない。
        白馬にまたがった金正日将軍の雄姿の映像は有名だし、また「金正日の料理人」という本によれば、金正日は部下と遊びでモーターボートで競争するときに、自分のボートだけ高性能のエンジンをつけて、いつも圧勝するのだという。
        金正日ならマジで馬術で金メダル取るくらいのことはやりかねない。

        ところで金正日の肖像画が北朝鮮の公式の場からどんどん撤去されているという。
        以前は金正日と金日成の写真が並べて掲げられていたのだが、今は金日成の写真だけになっているらしい。
        肖像の撤去は金正日体制の終焉を暗示するものだという説があるが、私は金正日の意志で撤去したという説を支持する。

        おそらく金正日は後継者問題に頭を悩ませているに違いない。
        今年金正日は妻を亡くし、自分にも死期が訪れることを悟った。当然後継者は自分の息子にしたい。それには金王朝の神格化がもっと必要になる。

        金正日は失政の多い自分の神格化をこれ以上進めても人民は納得しない。それより伝説の将軍金日成の直接的後継者として息子を人民に認識させたほうが、息子の政権基盤は強くなる。正日はそう判断し自分の存在を軽くするという判断を下したのではないか。

        つまり金日成を明治天皇、息子を昭和天皇という「強い天皇」になぞらえ、自分は一歩退き大正天皇みたいな中継ぎ的存在になることで、金王朝の永続性を目論んでいると考えられる。

        さてそんな金王朝を崩壊させるためにはどうすればいいのか。
        軍事制裁は現実的ではない。経済制裁が最良の手段だと私は考えるが、日本だけが経済制裁を行っても効果はない。アメリカ・韓国・中国・ロシアと共同歩調を取らなければならない。

        籠城する北朝鮮を、周囲の国で四方八方完全に包囲する。城攻めで金正日を追い詰めるが、追い詰めすぎると金正日が暴発するので、そうならないよう国外逃亡などの逃げ道を用意しておかなければならない。

        だがこの作戦、アメリカがイラクに取ったのと同じではないか。包囲して追い詰め「窮鼠猫をかむ」パターンに陥る可能性のほうが高い。何か良い作戦はないものか。

        ただ、ブッシュと金正日が妥協し、米朝間の国交が開き、核問題解決が大幅に進展する可能性は低い。
        かつてレーガンと中曽根が「ロン・ヤス」関係になったように、金正日とブッシュが「ジョン・ジョージ」とビートルズみたいにお互いをファーストネームで呼び合う関係にでもならないだろうか。
        | 未分類エッセイ | 23:04 | - | - | ↑PAGE TOP
        教育はタイムログのある論争
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          私は「朝まで生テレビ」を、毎月欠かさず見ている。ときどき、存在感抜群の姜尚中氏の声色と間の取り方を真似して授業している。結構効果はある。

          朝生みたいな本格的なものではないが、私もネットで論争を何回かやった経験がある。
          ネット論争はたいてい1週間ぐらいは続くが、論争の最中は自分の意見の正当性を相手にぶつけることに神経が集中し、なけなしの知性をはたいて語彙や比喩を駆使し相手を打ち負かすことに囚われ、相手の意見を自分に融合させる余裕なんかない。

          短いスパンでの「弁証法的」論争は、私は難しいと思う。短時間の論争は「喧嘩」になり、双方に意地があって感情が優先してしまう。
          物理的な衝突にはなるが、化学的な融合にはならない。

          私のネットでの経験上、もし短期間に論客双方の意見がかみあい、結論が出たとするなら、それに対して不自然さを感じてしまう。

          たとえば朝生で

          ○プライドの高そうな宮台真司が姜尚中にやりこめられ「あなたは正しいよ」とさけぶ

          ○小林よしりんが田原総一朗の意見に涙ぐみながら「ワシがまちがってたよ、田原さん」と声を荒げる

          ○西部遇が共産党議員の意見に「それはごもっとも」と相槌をうつ

          といった光景はありえない、というか、それは禁じ手のような気がする。

          番組の中で論客が相手の意見に屈してしまったら「威厳」を失うし、また視聴者に「お前そんなに簡単に屈しやがって、じゃあ、お前が偉そうに今まで本に書いてきたこと、ウソやったんかいな」と突っ込まれてしまう。

          だから朝生の物理的な意見の衝突は、あれはあれで正しい。化学的に論客の意見を融合させるのは、視聴者の仕事だ。

          しかし、朝生の出演者にせよ私にせよ、弁証法的論争の訓練ができていない。論争を喧嘩だと言ってる時点で論客として失格だろう。

          さて、弁証法の素養がなく、かつ自己主張が激しい私にも弁証法的論争が可能だとするなら、それにはある程度の「タイムラグ」が必要だと考えている。

          短期の論争では結論は出ない、でも論争が終わって、ある程度時間が経ったら歩み寄れる。

          というのは、ネットの激しい論争が終わり、ほとぼりが冷めた時、相手の意見がいつしか自分の中に入り込んでいることに気づくことがある。

          逆もまた然りで、論争から半年くらいたってから論争相手が書いた文章の中に、私の意見の痕跡があったりして、「おう、俺の言ってる事がわかったか」と、微笑ましくなったりすることもある。

          長期のスパンで見れば、論争相手が「転向」とまではいかないまでも、意見を「微調整」する可能性がある。むしろ私の経験では、そういうケースの方が多い。

          要するに人と人の意見を擦り合わすには時間がかかる。自分の意見を相手に浸透させるには時間が必要だ。

          相手の反論や違う価値観が、自分の脳内に暴力的に入り込んだとき、まず相手の意見に対する拒絶反応から始まる。脳内は混乱状態になる。

          論争の直後、混乱状態の頭脳は固体から液体状になり、混沌としている。しかし論争が終わるとまた脳は固体に戻る。再び固体に戻った時、以前の固体と今の固体は何かしら変化がある。
          ただ液体から固体に戻るには時間がかかる、ということである。

          さて、いままで私が述べたことは、生徒と教師の間にも当てはまる。

          授業がうまく機能していれば、その授業は私と子供との質の高い「論争」になる。
          授業中は子供は黙っているのが普通だが、子供は黙っていても私が放った言葉で脳が活性化しているはずだ。

          口に出さなくても、同意なり反論の言葉を、授業中に子供の頭は生み出している。私の言葉は鯉の棲む池に放つ餌みたいに、脳味噌の池を波打たせているだろう。
          生徒は話さずとも、授業とは教師生徒間の「無言の議論」である。

          ただ子供と議論する時、私が使う言葉はあくまで大人の言葉で、子供が短期間で咀嚼できるとは限らない。当然子供が消化不良をおこす部分もあり、消化不良の部分が理解できなかったり、時には反発を覚えたりもする。
          だから教師生徒間に大人と子供という経験値の違いがある限り、論争が短期で決着することは難しい。

          しかし、講師が子供に放った言葉は、子供の頭脳にカプセル薬のように埋め込まれ、子供の成長に応じてカプセルが解け、浸透し理解する。
          私の言葉は、時には十数年という長いタイムラグを置いて生きてくるわけだ。

          「ああ、あの時の先生の言葉は、こういう意味だったのか」という具合に。

          教師と生徒は、数年あるいは十数年という長いタームを股にかけた、論争相手だというわけだ。

          幸い私の塾では小4から高3まで生徒を募集しているが、塾には大学生・社会人になっても、勉強しに来たり、スタッフとして働いたり、遊びに来たりしている。
          結果、長期のスパンで子供とつき合える。年長者と年少者のタイムラグのある健全な議論が楽しめるわけだ。

          そして、教師から見て、「論敵」である子供は日々成長している。
          教師と子供の議論は、「論敵がどんどんグレードアップする」という前提に立っている特殊な議論であり、それが教師という仕事の、とてつもなく楽しいところだ。

          また、生徒が教師から離れても、生徒は「先生ならこんな時どう言うだろうか」と、頭の中でかつての師と対話する。
          影響力のある教師は、生徒の頭脳の中で「脳内教師」として生き延びて、架空の論争相手になる。

          そんなところも、いい。

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