猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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YMOは時代遅れか?
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    以前、YMOのオリジナルアルバムが紙ジャケで再発され、懐かしさのあまりi-Podに入れて、ときどき聴き倒している。
    YMOの曲の中では「ライディーン」が一番有名なのだろうか。YMOを知らない若者に「ライディーン」を聴かせると、誰もが「これ知ってます」と言う。

    YMOがブレイクして、「雷電」(「ライディーン」という呼び方よりも、こちらの方が好き)や「テクノポリス」がラジオでかかりまくっていた時、私は小学6年生で、中学受験真っ最中だった。

    「ライディーン」や「テクノポリス」が収録されている『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は100万枚以上を売り、1980年のアルバム売り上げベストワンに輝いた。

    1980年といえば、松山千春・さだまさし・谷村新司・中島みゆき・クリスタルキングあたりの、「暑苦しく」「田舎くさい」ニューミュージックが全盛期だった。

    そんななかで、YMOの音楽は都会的で、垢抜けていた。
    『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、わかりやすいメロディーの曲が満載で、新鮮なシンセサイザーの電子音であふれた近未来的アレンジがなされ、子供心に「カッコいい」と思った。
    中学受験の勉強のBGMには欠かせない、勉強がはかどる音楽だった。軽い興奮で脳の機能を上げ、算数の問題を解くスピードを1.2倍くらい上げてくれたような気がした。

    『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』には「デイ・トリッパー」が収録されているが、僕がビートルズを聴き始めたのは中高生になってからなので、原曲よりもYMOのカヴァーを先に耳にしたことになる。ジョンが歌う原曲を初めて聴いた時、ちょっとだけ違和感を覚えたことを記憶している。

    YMOを映像で見ると、シャイで頭の良さそうな3人の男性が、黙々と演奏に打ち込んでいて、敬意を覚えた。しかもときどき「トキオ」と合いの手の声をあげるのが、なんとなく奇妙で滑稽でかわいらしかった。

    当時は前衛過ぎて、細野晴臣を詐欺呼ばわりしたくなった『BGM』というアルバムが、今では一番のお気に入りだ。

    いまよく聴いているのは、散開ライブ『アフター・サーヴィス』の「東風」。高橋ユキヒロ(これもカタカナのほうがいいね)の、シンバルを使わない、硬質で打ち込みのような感触がありながら、反面情熱的な部分があるドラムがいい。YMOのライブ盤はドラムが前面に出て、スタジオ録音とは趣が違い煽情的だ。

    いい音楽は古びないというが、YMOのようなジャンルの音楽は「いい音楽だけど古びる」ものだろう。賞味期限付きの音楽である。
    YMOは若い塾生に聞かせたら、たぶん安手のゲーム音楽にしか聞こえないだろう。

    しかし四半世紀前には、YMOのテクノミュージックは、聴き手を興奮させる刺激物だったことは確かだ。
    30年前の私自身の記憶を、解凍させてくれる音楽である。

     

    | 音楽批評の部屋 | 14:07 | - | - | ↑PAGE TOP
    山田洋次「幸福の黄色いハンカチ」
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      吉岡秀隆と内田有紀の離婚話を聞いていたら、山田洋次のことを思い出した。私は山田洋次のファンだ。
      「寅さん」シリーズは大好き。「寅さん」のブログを作ろうと考えたこともあるほどだ。

      また最近の時代劇シリーズ、真田広之「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏「隠し剣、鬼の爪」は素晴らしい。
      山田洋次は、古めかしい人情を表に出す映画を作る人だが、現代劇ではそれが古めかしく、クサくなりがちになって、時折「こんなやさしい人いねえよ」と突っ込みたくなるのだが、時代劇だと山田洋次的な人情話は、不自然ではなく受け入れられる。

      山田洋次が撮る時代劇を見ると、この人の資質は現代劇ではなく時代劇にあるのではないか、そんな気がする。山田洋次的な、ちょっとべたっとした人情話は、現代劇では違和感を抱く人が多いが、江戸時代を背景に描いたらピタッとはまる。

      山田洋次の脚本は、古典落語に似ている。
      山田洋次の現代劇は、古典落語の世界を現代に置き換えたものだといってもいい。山田洋次は古典落語の世界を、強引に現代に押し込んだ。この試みは「冒険」と言いかえてもいいだろう。

      ただ、現代人の身体に、古典落語的な人格を嵌め込む試みは、若い人からは「古めかしい映画」と映った。逆に山田洋次が撮る時代劇は、モダンな感じがするのだ。

      また、山田洋次の演出は、藤沢周平の原作とはベストマッチだ。藤沢周平の清冽さと、山田洋次の隠れた激情が、映画を豊かなものにしている。
      藤沢周平の最高傑作「蝉しぐれ」も山田洋次で映画化して欲しかった。
      山田洋次の新作時代劇は来年公開されるらしい。主演はキムタク。今から楽しみである。

      さて、山田洋次の作品の中でも、「幸福の黄色いハンカチ」は日本映画の最高傑作のひとつだと思っている。
      「幸福の黄色いハンカチ」は、山田洋次の現代劇の中で最も人情味が濃密で、クサい映画なのだろうが、ここまで濃厚に描かれると凄みが出て、大名作になる。

      「幸福の黄色いハンカチ」という映画のストーリーを手短に紹介する。

      高倉健が妻である倍賞千恵子を守るために、止むを得ず殺人を犯す。そして刑務所に入る。
      高倉健は入所中、倍賞千恵子に「俺を許して迎えてくれるなら、家に黄色いハンカチを1枚かざしておいてくれ」と手紙を出す。
      高倉健は出所する。(出所した直後、高倉健は食堂でカツ丼と醤油ラーメンを食べるが、この食い方のうまそうなこと!)
      出所したのはいいが、しかし、家に帰る勇気がない。こわい。妻の倍賞千恵子が自分を迎え入れてくれるか不安で仕方がない。

      高倉健は結局、家には帰らないことにした。
      そんな時、桃井かおりと武田鉄矢が演じる、車で旅行中の若いカップルに出会う。
      (1978年の映画だから、桃井かおりも武田鉄矢も若い)
      最初は桃井かおりも武田鉄矢も、高倉健が殺人犯で出所したてだという事実を知らない。
      しかし、刑務所にいたので免許を更新していない高倉健が、たまたま自動車を運転していたとき、悪しくも検問に引っかかってしまい、警察に呼ばれ、若い2人に高倉健に殺人の前科があることがばれてしまう。
      (この検問のお巡りさんの役が渥美清。この人が警察官のおかげで、場がなごむ)

      桃井かおりと武田鉄矢は、高倉健が殺人犯だったという事実を知り恐れるが、高倉健から殺人に至るまでの、やむをえぬ悲しい事情を聞いて、逆に高倉健を後押しする。
      2人は絶対、再会しなければならない。

      そして若い2人に背中を押される形で、高倉健は家に帰り妻に会う度胸ができる。
      夕張の炭鉱にある家に帰る途中、高倉健は緊張して、何度も引き返そうとする。

      とうとう家の近くまで来た。3人は恐る恐る家を見上げる。
      家では倍賞千恵子が洗濯物を乾かしていて、その上には黄色いハンカチが、1枚どころか、何百枚もはためいていた。

      というストーリーだ。

      倍賞千恵子が黄色いハンカチを家の外に何百枚もはためかせるのは、ただ単にお疲れさま、お帰りなさい、という意味だけではない。
      高倉健の犯した殺人の罪も、また殺人を犯したことで生じた「穢れた」部分も、すべて赦すという、確固たる意思表示だ。

      高倉健は出所した。しかし倍賞千恵子が自分の穢れた部分まですべて受け入れてくれるか、心配でたまらなかった。
      自分は悪いことをしてしまった。そんな穢れた自分は妻の前に再び現れる資格があるのだろうか。高倉健は迷いに迷っただろう。
      だから、高倉健は出所した後、真っ直ぐに倍賞千恵子の元には帰らなかった。

      でも倍賞千恵子は圧倒的な愛情で、高倉健の穢れた部分も全部ひっくるめて迎え入れた。その象徴が黄色いハンカチに他ならない。
      愛する人の穢れた部分も包み込む巨大な愛情を表現しているからこそ、「幸福の黄色いハンカチ」は名作なのだ。
      | 映画テレビ | 18:37 | - | - | ↑PAGE TOP
      構造主義と貴乃花騒動
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        レヴィ=ストロースを知った時は衝撃的だった。

        音韻論と親族システムから二項対立の法則を発見し、それをあらゆる社会制度に当てはめる議論の進め方は壮絶だ。
        言語学から比較文化論を経て、その成果を全ての学問に広める軽やか過ぎる思考の離れ業に、何て頭のいい人なんだろうと思った。

        私は以前から、「科学」とは自然科学のことであり、社会科学が果たして「科学」の名にふさわしいのか訝しく思っていた。
        自然科学はサイエンスだが、社会科学をサイエンスとは呼ばない。

        経済学はともかく、政治学に「科学」という術語を使うのには違和感を感じる。宗教団体の名称に「科学」の語を使うのと同等に怪しいと考えていた。

        ところがレヴィ=ストロースの議論の進め方はまさしく科学の名にふさわしいものだ。
        音素は二者択一の組み合わせでカタログ化され、親族システムの疎遠度には法則があるという発見には驚嘆した。

        親族システムの法則とは、複雑で解きほぐしにくい親族の人間関係も、実は無意識がもたらした「一般的な、隠された法則」があり、人間が社会構造を作り出したのではなく、社会構造が人間関係を決定する、ということなのだ。



        う〜ん、もっとわかりやすく説明できればいいのに・・・

        努力してみよう。



        レヴィ=ストロースの卓越した理論の例を挙げると、親族システムにおいて

        「夫・妻と親しければ、兄弟姉妹とは疎遠」
        「夫・妻と疎遠ならば、兄弟姉妹と親しい」

        つまり1人の人間が、夫・妻と、兄弟姉妹の両方と親しく付き合うことはあり得ない、というわけだ。
        夫と親しければ、兄貴とは仲が悪くなるか付き合いが薄くなり、仲良し姉妹はそれぞれの夫と離婚寸前ということである。

        レヴィ=ストロースは世界中の民族の家族の疎遠関係を調べ上げて、この法則を導き出したらしい。

        かつて話題をさらった花田家の喧嘩にも、レヴィ=ストロースの説が当てはまるわけで、

        「貴乃花は河野景子と親しいが、若乃花とは疎遠」
        「若乃花は美恵子夫人と親しいが、貴乃花とは疎遠」

        まさにレヴィ=ストロースの説を鮮やかに証明している。

        若貴兄弟の喧嘩は意外でも何でもなくて、あらかじめ決定された社会構造の中であがいているに過ぎない、ということになる。
        構造主義の枠の存在が鮮やかに眼に見えるようだ。

        またもう一つ、レヴィ=ストロースによると、

        「父と親しければ、母方の叔父とは疎遠」
        「父と疎遠なら、母方の叔父とは親しい」

        内田樹氏の例を引用すると、「男はつらいよ」で「満男は母さくら(倍賞千恵子)の兄・叔父の寅さん(渥美清)とは親しいが、父の博(前田吟)とはギクシャクしている」というわけだ。

        花田家の喧嘩のきっかけは遺産相続だが、相続が有利になるには、父二子山親方と生前仲が良かったのが若乃花・貴乃花どちらなのか、それが重要なキーポイントになる。

        貴乃花は自分が、生前の二子山親方と信頼関係で結ばれていたことを主張していたが、二子山親方が死んだ今となっては、死人に口なしで二子山親方の意志を聞く事はできない。

        そこで、レヴィ=ストロースの説が生きてくる。
        もし、貴乃花の母方の叔父がいるなら、つまり母憲子さんの兄弟が存在するなら、その人と貴乃花の仲を調べれば、貴乃花と二子山親方の仲が良かったのか悪かったのか判別できる。

        「貴乃花が母憲子の兄弟と親しければ、父二子山親方とは疎遠」
        「貴乃花が母憲子の兄弟と疎遠なら、父二子山親方とは親しい」

        これは若乃花にも同時に言えることだ。

        お母さんの憲子さんの兄弟である叔父の動向を、ワイドショーはクローズアップして欲しかった。

        叔父が「貴乃花はダメだ、人でなしだ」と発言すれば、貴乃花と二子山親方は自動的に疎遠ということになる。
        なぜなら、20世紀後半の思想界を席巻した、構造主義の立役者レヴィ=ストロースが決めたことだから。

        レヴィ=ストロースの構造主義のイロハをかじっただけでも、ワイドショーの見方は大きく変わってくる。

        | 未分類エッセイ | 18:39 | - | - | ↑PAGE TOP
        中1・ノートの落書きの見せしめ
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          この前、中学校の期末試験前に、塾で学校の試験対策をやった。
          生徒たちは学校の教科書やノートを塾に持ってきたが、中1のT君は、学校の英語のノートの表紙に、へんてこな落書きをしていた。

          ホント、変な絵だった。
          私は見せしめのためノートを没収してやった。

          私はイタズラ心をおこし、携帯電話の画面くらいの小さな絵を、コピー機を使って、でっかくでっかく拡大した。

          塾のコピー機は1度に200%(2倍)までしか拡大できないので、2倍に拡大したものをまた2倍、それをまた2倍と、8倍に拡大した。
          8倍に拡大したら、A3の紙にちょうどおさまった。

          携帯電話くらいの小さな落書きは、美術館の額縁に飾ってある絵ぐらいの大きさになった。

          ふふ。

          そして、でっかくなった落書きを、ホワイトボードにバンと貼り付けてやった。
          ちっちゃな落書きは、巨大な作品になった。
          他の生徒は大うけ、T君は恥ずかしそうにしていた。ざまあみろ。

          うちの塾で落書きを見つけたら、どんな小さな絵でもシッカリ拡大して張り出すし、ブログにも載せてやるぜ。

          下の絵が、T君の力作でございます。

           


          | 塾の様子ガラス張り | 18:43 | - | - | ↑PAGE TOP
          教育はタイムラグのある論争
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            私は「朝まで生テレビ」を、毎月欠かさず見ている。好きなのだ。
            ときどき、存在感抜群の姜尚中氏の声色と間の取り方を真似して授業している。結構効果はある。

            朝生みたいな本格的なものではないが、私もネットで論争を何回かやった経験がある。
            ネット論争はたいてい1週間ぐらいは続くが、論争の最中は自分の意見の正当性を相手にぶつけることに神経が集中し、なけなしの知性をはたいて語彙や比喩を駆使し相手を打ち負かすことに囚われ、相手の意見を自分に融合させる余裕なんかない。

            短いスパンでの「弁証法的」論争は、私は難しいと思う。短時間の論争は「喧嘩」になり、双方に意地があって感情が優先してしまう。物理的な衝突にはなるが、化学的な融合にはならない。

            私のネットでの経験上、もし短期間に論客双方の意見がかみあい、結論が出たとするなら、それに対して逆に不自然さを感じてしまう。

            たとえば朝生で

            ○プライドの高そうな宮台真司が姜尚中にやりこめられ「あなたは正しいよ」とさけぶ

            ○小林よしりんが田原総一朗の意見に涙ぐみながら「ワシがまちがってたよ、田原さん」と声を荒げる

            ○西部遇が共産党議員の意見に「それはごもっとも」と相槌をうつ

            といった光景はありえない、というか、禁じ手のような気がする。

            番組の中で論客が相手の意見に屈してしまったら「威厳」を失うし、また視聴者に「お前そんなに簡単に屈しやがって、じゃあ、お前が偉そうに今まで本に書いてきたこと、ウソやったんかいな」と突っ込まれてしまう。

            だから朝生の物理的な意見の衝突は正しい。

            ところで、私は弁証法的論争の訓練ができていない。感情と感性に引きずられる人間だ。

            そんな、弁証法の素養がなく、かつ自己主張が激しい私にも弁証法的論争が可能だとするなら、それにはある程度の「タイムラグ」が必要だと考えている。

            短期の論争では結論は出ない、でも論争が終わって、ある程度時間が経ったら歩み寄れる。

            というのは、ネットの激しい論争が終わり、ほとぼりが冷めた時、相手の意見がいつしか自分の中に入り込んでいることに気づくことがあるからだ。

            逆もまた然りで、論争から半年くらいたってから、論争相手が書いた文章の中に私の意見の痕跡があったりして、「おう、俺の言ってる事がわかったか」と、微笑ましくなったりすることもある。

            長期のスパンで見れば、論争相手が「転向」とまではいかないまでも、意見を「微調整」する可能性がある。むしろ私の経験では、そういうケースの方が多い。

            要するに人と人の意見を擦り合わすには時間がかかる。自分の意見を相手に浸透させるには時間が必要だ。

            相手の反論や違う価値観が、自分の脳内に暴力的に入り込んだとき、まず相手の意見に対する拒絶反応から始まる。脳内は混乱状態になる。

            論争の直後、混乱状態の頭脳は固体から液体状になり、混沌としてくる。しかし論争が終わるとまた脳は固体に戻る。再び固体に戻った時、以前の固体と今の固体は何かしら変化がある。
            ただ、液体から固体に戻るにはある程度の時間が必要、ということなのだ。




            さて本題、いままで私が述べたことは、生徒と教師の間にも当てはまる。

            授業がうまく機能していれば、その授業は私と子供との質の高い「論争」になる。授業中は子供は黙っているのが普通だが、子供は黙っていても私が放った言葉で脳が活性化しているはずだ。

            口に出さなくても、同意なり反論の言葉を、授業中に子供の頭は生み出している。私の言葉は鯉の棲む池に放つ餌みたいに、脳味噌の池を波打たせているだろう。生徒は話さずとも、授業とは教師・生徒間の「無言の議論」である。

            ただ子供と議論する時、私が使う言葉はあくまで大人の言葉で、子供が短期間で咀嚼できるとは限らない。当然子供が消化不良をおこす部分もあり、消化不良の部分が理解できなかったり、時には反発を覚えたりもする。
            だから教師・生徒間に大人と子供という経験値の違いがある限り、論争が短期で決着することは難しい。

            しかし、講師が子供に放った言葉は、子供の頭脳にカプセル薬のように埋め込まれ、子供の成長に応じてカプセルが解け、浸透し理解する。私の言葉は、時には十数年という長いタイムラグを置いて生きてくるわけだ。

            「ああ、あの時の先生の言葉は、こういう意味だったのか」という具合に。

            教師と生徒は、数年あるいは十数年という長いタームを股にかけた、論争相手である。

            幸い私の塾では小4から高3まで生徒を募集していて、大学生・社会人になっても結構仲がいい。
            だから、長期のスパンで子供とつき合える。年長者と年少者のタイムラグのある健全な議論が楽しめるわけだ。

            頼もしいことに教師から見て、「論敵」である子供は日々成長している。
            教師と子供の議論は、「論敵がどんどんグレードアップする」という前提に立っている特殊な議論であり、それが教師という仕事の、とてつもなく楽しいところだ。

            また、生徒が教師から離れても、生徒は「先生ならこんな時どう言うだろうか」と、頭の中でかつての師と対話することもできよう。
            生徒の頭脳の中で「脳内教師」として生き延びて、架空の論争相手になる。

            教師は面白い仕事だと思う。




            ★開成塾
            尾道市向島の「秘密勉強基地」



            | 硬派な教育論 | 23:53 | - | - | ↑PAGE TOP
            ガストのスープのソーセージの屈辱
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              ある日のこと、ガストで恥辱的な体験をした。

              昼の出勤前、私は480円の日替わりランチ・ご飯スープセットを食べた。
              ご飯は無料の大盛りにしてもらった。ドリンクバーは減量のため注文しなかった。ランチのおかずは「きのこハンバーグ」と梅干の味がする魚フライ。安くて満足な食事だった。

              ガストの「ご飯スープセット」のコンソメスープはセルフサービスである。ドリンクバーの横の大鍋にコンソメスープがたっぷり入っている。自分で大振りの白いカップに、お玉でスープをすくうシステムになっている。

              私はこのコンソメが好きで、ガストでランチを食べると5杯はお代わりする。
              スープを注ぐため、自分のテーブルとスープ鍋を何往復かする。
              反則だが、粉チーズやタバスコを失敬して、スープにぶち込んで飲むこともある。

              ただ、このお代わり自由のコンソメ、具が異常に少ない。
              日によって違いはあるのだが、具はミジンに切られたニンジンと玉ねぎ、それから極薄にスライスされた小さなソーセージである。

              ソーセージの直径は1.5cmくらい。1円玉より少し小ぶりである。
              厚さは1mmくらいであろうか。機械で切っているのだろう。プロを除いて人間の手では、こんなに薄くソーセージは切れない。

              私はこの薄くて量が少ないソーセージが好きだ。スープにソーセージがもっとゴロゴロたくさん入っていればいいと思う。

              というわけでソーセージ好きの私は、ご飯スープセットを頼むと、スープから1つでも多くソーセージを入れるべく努力する。白いカップをソーセージで満タンにしたい。

              でも、大きなお玉で一気にカップにスープを注いでしまえば、ソーセージは2〜3個しか入らない。これでは淋しい。

              だからスープをカップに注ぐ時、私はまず鍋をお玉で底から攪拌し、底に沈んでいたソーセージを浮かせる作業から始める。
              攪拌されて浮き上がり、鍋の中で踊っているソーセージを、お玉の先っちょで少しずつ丁寧に掬う。
              夜店の金魚掬いと同じくらい神経を研ぎ澄ませる。

              ソーセージを掬う時スープの液体を、一度に入れすぎてはならない。
              お玉にスープは、おちょこ1杯分ぐらいずつ、そこにソーセージ2個ぐらいの量が望ましい。1度に掬えるのが1個だったら残念、3個だったら大漁気分だ。

              そんな風に、鍋からちょっとずつ丹念にソーセージを掬うと、カップの中には見事10個くらいのソーセージが溜まる。

              時々ラッキーなことに機械の切り間違いで、小指の第一関節ほどの大きなソーセージが浮かんでいることもある。もちろんそんな巨大な獲物は真っ先に釣り上げる。

              努力の甲斐あって、カップの中にソーセージを11個入れる事ができた。戦果上々。日常の小さな幸福感を味わうことができた。これこそ村上春樹言うところの「小確幸」であろうか。


              ところが・・・・


              後ろを振り向いたら、白いカップを持った4人が私の後ろで行列していた。私はソーセージに集中するあまり、人の気配を察知できなかったのだ。
              彼らは私がスープを注ぎ終わるのを黙って待っていてくれた。4人を私は無神経に待たせてしまった。

              そしておそらく彼らは、小さなソーセージに真剣に向き合う大男の醜態の一部始終を眺めていたであろう。


              恥ずかしい・・・


              そういえばこの薄い小さなソーセージ、ネズミ捕りに仕掛けられているソーセージに似ている。
              ネズミ捕りの真ん中にチョコンと載せられている小さな一片のソーセージに向けて歩を進めた瞬間、ネズミはゴキブリホイホイのような粘着液で身体の自由を奪われ、最終的に死に至る。

              俺もネズミと一緒なのか?
              | 未分類エッセイ | 17:31 | - | - | ↑PAGE TOP