猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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思春期のファッションと毒舌
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    私はデリカシーがないので、思春期の子が見た目を気にして、髪形や服装を変えて格好をつけてくると、すかさず茶化す。からかう。
    「こいつ、色気づいてるな」と凝ったファッションで塾に現れると、私の大毒舌大会がはじまる。

    また、その格好のつけ方が空振りに終わったり、おかしな方向に走ったら(つまりダサかったら)、私の悪口毒舌はさらに冴え渡る。

    たとえば、女の子が前髪を2cm切り過ぎたりすると
    「お前、ちびまる子カットにしたんか?」
    と ♪おそるポンポコリン と歌い始めるし、

    太った男の子がAPEのTシャツやクラッシュデニムで決めてくると
    「おまえ体型が西郷隆盛なんだから、浴衣着て来い。お前は和服が似合う」
    と攻める。

    また、中2・中3くらいの男の子が流行の鳥の巣みたいな頭をしてくると
    「なんじゃそりゃ。そのボサボサの頭。バリカンで掃除したろか。」
    なんて言われる。

    男の子が部活の関係とかで坊主にした時、坊主隠しで恥ずかしいのか、野球帽やフードを頭にかぶって塾に現れる。
    そんな時、私はすかさず野球帽やフードをスパッと取って坊主頭を丸出しにしてやり、
    「おお、お前ハゲにしたんか。よう似合うのう」
    と、刈りたてのハゲ頭をクリクリなでられる。

    すると、彼らは何とも困ったような、照れくさそうな表情をする。

    その子たちは、その日の授業を最悪の気分で受けるのかもしれない。
    気をつけよう。
    | 高校受験 | 15:35 | - | - | ↑PAGE TOP
    センター試験と官僚支配の関係
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      センター試験に対しては、言いたいことが多すぎる。

      私の教え子を含めて、たくさんの受験生たちがセンターを目標にして必死に頑張っているので、あまり高みの見物的に非難はしたくないのだが・・・

      中学校や小学校では、「ゆとり」だの個性の尊重だの、学習指導要綱がダッチロールの如くコロコロ変化するが、センター試験が小中高の最終的なゴール、教科学習の集大成だという現状は、いまのところ微動だにしない。

      ゴールだけが「ピシッ」と決まっているのに、文部科学省がそこに至るまでの過程を朝令暮改でいじくることは、多くの人に不信感を与えている。

      それにしても、日本の教育の最終的な評価基準がセンター試験の点数だという事実、いかがなものだろうか?

      小学校・中学校・高等学校の学力評価はあまりにもわかりづらい。
      業者テストが排除されている限り、高校3年生になるまで学生の勉強面での評価は、学校ごとの極めて狭い範囲だけで行われる。それに結果が公表されたりされなかったりで、自分の学力の数値評価が知らされないケースも多い。

      おまけに絶対評価と相対評価、2つの評価基準が並立している。また評価は各教師の主観によって決定されることがしばしばある。

      母数が大きい予備校の模試でも受験しない限り、自分の学力が全国でどのくらいの位置にあるのかわからない。
      またどこの予備校の模試の判定が一番信憑性を持っているのか、このあたりの判断も受験生を迷わす。

      それに比べて、点数で学力を輪切りにするセンター試験という評価基準の、いかにわかりやすいことか。
      全国で数十万人もの学生が受験するし、母数も大きい。わかりやす過ぎて怖いぐらいだ。

      センター試験で、自分の学力が18歳にして生まれて始めて、国家に数値化されて認定される。
      国が全国規模で行う、最初にして1回限り(浪人生を除いて)の学力評価である。
      甲子園は人生で5回チャンスがあるが、センター試験はたった1回しかない。
      否が応でもセンター試験の神秘性と権威は高まる。

      スッパリ点数化されたわかり易い評価。しかも受験回数は1回限り。小中高時代の曖昧模糊な建前だらけの評価は、センター試験によって一挙に本音の評価へと変わる。
      この「わかりやすさ」が曲者だ。

      しかし・・・
      文部官僚がセンター試験改廃の最終的な決定権を握っている以上、センター試験は絶対無くならないだろう。
      センター試験は官僚支配を正当化する道具なのだ、とも言える。

      700点以上の得点をゲットして、東大に合格した人間が官僚になる。官僚は大衆を見下し、逆に500点しか取れないものは、750点の官僚に羨望・劣等感・嫉妬など入り混じった複雑な感情を抱く。

      少し話は逸れるが、大抵の人間は政治家に対して、劣等感なんぞ抱いていない。
      なぜなら二世議員が多い昨今、多くの国民は、国会議員と自分を隔てているのは血縁だけだと思っているからだ。

      「多くの国会議員は、父親や祖父が国会議員だったから今の地位にある。」
      「彼らは能力的に優れている人間ではない。」
      「あいつらは元来、世間知らずのぼんぼんだ。」

      そして本来なら尊敬されるべき、父祖に政治家をもたない叩き上げの国会議員達にしても、国民は彼らが裸一貫から国会議員まで上り詰めるには、人品骨格よりも、悪事に手を染める図太さのほうが必要だとわかっているので、叩き上げ議員の大部分は、二世議員よりタチが悪いこと気がついている。

      ところが官僚は、センター試験で一度は同じ土俵に上がって、数値で自分が負けている人間たちである。
      確かに官僚には複雑な感情は抱いているが、かつてセンター試験という国家が大々的に実施した「公平な」テストで敵わなかった相手である。

      そんなわけで政治家支配よりも、官僚支配のほうが公平なのではないかという意識を、「一般大衆」はどこかで持っている。

      一種の「負け犬根性」が、学歴社会の勝者である官僚支配を正当化する。
      センター試験はすべての同年代の学生が、機会均等に正当に実施されたテストなので、逃げ場がないのだ。

      官僚の側も、自分たちが日本の大学受験生の大多数が受験する「正当で公平な」試験の勝者であることをたっぷり意識しているから、自分たちの特権を安心して享受することができる。

      センター試験がある限り、大学の縦割り評価は改善の兆しを見せず、志望大学を専攻や教授の研究内容で決めるという、何度も何度も何度も何度も語られてきた理想は叶うことはない。
      | 大学受験 | 12:25 | - | - | ↑PAGE TOP
      公文の「ケレン味」
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        最近、個人塾の先生のブログを見ていると、いかに塾をビジネスとして成功させるか、という視点のものが多い。
        多店舗展開して塾を巨大化させるのは、「男の夢」なのかもしれない。

        さて、この業界で一瞬の間に巨大化した教育機関といえば、やはり公文式だろう。
        37歳の私が小学生の時、公文は瞬く間に全国展開し、日本全国津々浦々に公文の教室ができた。
        公文式こそが、われわれ塾業界人の「アメリカンドリーム」の一例である。

        私は1978年、小4のとき公文に通い始めた。この頃私の友人たちがたくさん、公文に通い始めるようになった。
        私が通った公文の教室は歯医者の奥さんがやっていた。1回プリントを溜めて(100枚くらい)、それが先生に見つかってしまい叱られた痛い記憶があるが、それを除いては小6まで楽しく通っていた。

        最近では、公文は計算力だけを伸ばし、数学の応用力はつかないという批判が多いが、私が小学生の頃は、公文の評価は絶対的だった。

        だって、公文に行ってた友達は、みんな計算が速くなったんだもの。

        勉強があまり冴えなかったやつが、突然計算が速くなっている。勉強ができる人間に変身している。「どうして速いの?」と聞くと、「公文に行っているから」と答える。

        公文に通っている子が、猛烈なスピードと正確さで計算プリントを解く。
        まさにそれは「公文マジック」だった。

        やはり、計算力がぐいぐい伸びる姿を目の当たりにすると、「自分も公文に行きたい」と思うようになる。

        公文の凄いところは、計算力の伸びが誰の目にも一目瞭然でわかり、周りの子供に対して、体感的に公文の凄みを体感させるところである。
        公文のプリントで鍛えた、曲芸師のような圧倒的な計算力で、同級生を威圧する。

        子供に体感的に凄みをわからせるという点では、公文式はスポーツと良く似ている。
        校舎の窓を割るような、どでかいホームランをかっ飛ばす同級生の凄みは、子供にはわかりやすい。
        公文の計算力の凄みはそれに似ている。計算力は子供にもわかりやすいスポーツ的な凄みである。

        親の側からしても、計算力というものは目に見えて上達するので、公文は費用効果が高いと感じるだろう。

        たとえば、中学卒業して相撲部屋に入門した息子がいるとする。入門前はブヨブヨの水デブの肥満体だった息子が、半年たって実家に帰省したら、筋肉質の力士らしい身体に変身している。身体の成長が目に見えてわかる。ビジュアルが成長を示している。
        そんな時親は、「相撲部屋でたくましくなったなあ!」と思う。

        同様にして公文も、2ヶ月3ヶ月継続してプリントをこなしていくうちに、計算力の成長が目に見えてわかる。
        「公文に行って計算が速くなったなあ、公文に行かせて良かったなあ、お金を払ってよかったなあ」
        と親は思うだろう。

        実をいうと、勉強の凄みというものは、子供にはわかりにくいものだ。
        偏差値が高い子がいても、それは数値の凄みであり、体感的な凄みではない。

        また、中学受験で灘や東大寺学園に合格した同級生がいても、中学受験に無縁の子には、その偉さは体感的には理解できない。
        灘や東大寺学園という「名前」には凄みを感じるが、それは大人の世界の、わかりにくい凄みだ。

        そんな、凄みがわかりにくい、という感覚は、ノーベル賞に似ている。
        ノーベル賞を受賞した学者に対して、誰もがノーベル賞の権威でその学者が偉い人だということがわかるが、その学者の業績がどれだけ斬新なものかは、大抵の人には理解不可能だ。
        漠然と凄いとわかるが、凄みの内容は理解できない。

        いずれにせよ、自分とは無縁だ、オレには無理だ、と思う。

        逆に公文は、計算というわかりやすい、身近な尺度で凄みを表す。
        中間子理論でもニュートン算でもない。

        計算という身近な尺度で凄みを示すから、公文で鍛えた同級生には凄みを感じても、それと同時に「計算なら自分にもできそうだ」と思わせてしまう。だからこそ、私と同世代の子供が公文に飛びついたのだ。

        そんな公文の廉価版が「百ます計算」ということになるのだろうか。

        とにかく公文は、計算力の向上というわかりやすい凄みを全国の小学校にアピールし、また誰にでも計算が速くなると思わせる作戦で、ダムの決壊時の水の如き勢いで、全国に教室数を増やしていった。

        ここで教訓。

        学校で「あの塾に通っている子すげえ」と思わせるには、合格実績も勿論大事だが、あの塾に通っている子は計算が速くなったとか、日本の県名と県庁所在地を全部言えるとか、目に見えて、しかも誰にでもできそうな凄みを撒き散らすことが大事だ。

        世界に200ある国の国名・首都名を、塾生が全部暗記している塾が近くにあれば、やはり親は「その塾に子供を通わせたい」と、少しは思うことだろう。

        受験塾のように、学力を総合的に伸ばすのは複雑で難しい。ところが基礎学力をつけること、たとえば計算力を上げたり、漢字を暗記させたりするのは、システムさえ整っていれば意外と簡単にできるのかもしれない。

        公文は計算力に特化した学力向上システムを確立し、学力の一部分、しかも一番伸ばすのが簡単な部分だけを、飛躍的に誰の目にもわかるように、「ケレン味」を感じさせるほど伸ばすことで、事業を成功させた。

        蔭山英男は「百ます計算」で、公立小学校の教員でありながら、多額の印税を得た。

        基礎学力を上げるアイディアは大衆を動かし、アイディアを広めた組織や個人は巨富を得る。
        | 中学受験 | 13:39 | - | - | ↑PAGE TOP