大村はま女史は1906年生まれで、1980年で退職するまで52年間女学校や中学校で国語教師を続け、生涯一教師を貫き、退職後も98歳で亡くなるまでずっと、講演活動や実践活動を続けてきた方である。
教育界ではかなり名を知られた方で、私ももちろん名前だけは知っていたが、著作に触れたことはなかった。
正直私は「大村はま」に偏見を持っていた。経歴はある程度知っていたが、どうせ、本には婆さんの自慢話と、クドくてヌルい退屈な教育論が、延々と続いているに違いないと思っていた。
「子供は天使です」「子供はみんな平等です」「子供を慈しみましょう」・・・日教組の先生が好きそうな、左翼の理論的指導者というか、戦後民主主義の体現者というか、マリア様的な慈母の退屈さというか、とにかく大村はまに対して悪しきイメージを抱いていた。
まず、「大村はま」という名前がよくない。
やさしそうな名前でしょ?
やさしい先生→ぬるい教育論→面白くない文章→読む価値ナシ という図式が私の頭に勝手に作成され、食わず嫌いになっていた。
ところが、大村はまの「灯し続けることば」という、薄い1000円の格言集を、騙されたつもりで読んでみた。
いやあ、凄いですよ。大村はま。
私が今まで読んできた教育関係の本では、ピカ一である。
有名な教育者は、福沢諭吉しかり、新渡戸稲造しかり、毒舌家というか、人の言えないことを平気で開けっ広げに言う放胆さを持っているが、大村はまもそんな「毒舌教育家」の系譜につながる人だ。
大村はまが、やさしい先生→ぬるい教育論→面白くない文章→読む価値ナシ、だなんて、とんでもない。
逆に、厳しい先生→刺激的な教育論→エキサイティングな文章→読まないと絶対にアカン、と思わせる人である。
「退屈なマリア様」ではなく、むしろ「毒舌ばあさん」と呼ぶにふさわしい。
とにかく、言葉がピチピチ生きている。現場の人間が膝を打って共感する言葉に満ちている。手垢のついた言葉はない。どれも教育現場から直接生まれ出た新鮮な言葉だ。温泉でも、循環式の死んだ湯ではない。源泉掛け流しの湯だ。
たとえば、私は以前、勉強が得意な子を教えるのは苦手な子を教えるより実は難しいという主旨の日記を書いたことがあるが、そんなことは、大村はまがとっくの昔に書いていたのである。
大村はまは「できない子の世話は、たやすいことです」と題して、次のように書いている。
教師ならよくおわかりでしょうが、勉強ができない、わかっていない子の面倒を見るのは、比較的たやすいことです。それに、それは教師として当然しなくてはならないことですし、そういう訓練も積んできていることと思います。それを行えば、いい先生だと誰もが評価してくれるでしょう。
ところが、そういう子どもの面倒を見るとか、落ちこぼれた子を出さないということばかりに目が行って、できる子供を伸ばすことがおろそかになりがちのようです。
(中略)
力のある子供を伸ばす、精いっぱい学ぶ姿にもっていくには、教師のほうにそれだけの実力がいります。その子のすぐれた力をはるかに上回る幅や高さがなければ、夢中にさせられないのです。「優も劣も」といったときに、どうも教室では「劣」のほうに重みがかかってしまい、その子たちの面倒を見ることで教師が満足して、「優」の子を退屈させてしまうことが多いようです。それが教室の魅力を失わせているのです。
教師が考えていることは、時代を超えても変わりはしない。私は大村はまと同じ意見を持ったことに、誇りを感じた。
とにかく、大村はまは私のイメージとは全く逆の人だった。偏見は怖い。「あちら側」ではなく「こちら側」の教育者だった。実際に読んで見なければわからないものだ。
大村はまの強烈な言葉を、いくつかご紹介しよう。
持っている力というものは、使い切ったときに伸びるもののようです。大してない力でも、ありったけ使うと、またどこからかわいてくるのです。
誰かが哀れに思って、与えてくれるのではないかと思うほどです。
ですから、少ししか使わないと、力は伸びない、生まれてこないようです。かわいそうになるほど、持っている力をみな使ってしまうことが、次の力を得るもとになるのだと思います。
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教師は一個の職業人です。「聖職」という方もいますが、私はその名に隠れて精神主義に偏っていく態度には賛成できません。心さえあればいい、熱意さえあればいいというわけではないと思うからです。熱心、結構です。いい人あたり前です。悪い人であったら、たまったものではありません。
なのに、教師の世界というのは、いろいろな職業と比べても、「いい人」ということがかなり幅をきかせているように思います。他の社会では、仕事の能力と切り離して「いい人」をここまで尊重しないのではないでしょうか。いい人であっても、やはり業績を上げて、仕事をちゃんとやれる人でないと、価値を認められないのではないでしょうか。
教師という職業の拠って立つものは何か。子どもに一人で生きていける力をつけること、そのための技術を持っていることでしょう。それを忘れた「いい人」ではちょっと困るのです。
最後に、「灯し続けることば」に散りばめられた格言の、タイトルだけをご紹介する。
「熱心と愛情、それだけでやれることは、教育の世界にないんです」
「自分が自分らしくないときには、小言を言わないようにしました」
「獅子でなければ死んでしまうでしょう」
「子どもほど、マンネリがきらいな人はありません」
「最初に頭に浮かんだことばは、捨てます」
「教室で、私は子どもがかわいいなんて思ったことはありません」
「教師が少しは傷つかないと、子供はつまらないのです」
ねっ、タイトルを読んだだけで、続きを読みたくなるでしょ?
まさに、大村はまはRockだ。
私の定義するロックとは、自分の考えに言葉や音楽が忠実なこと、破壊的かつ攻撃的であること、「他人と同じ」を嫌うこと、反抗精神を持っていること、自分の独創性がもたらす孤立に耐えうることなどであるが、そんな意味で大村はまは、98歳のロッカーだ。
63歳で東京ドームを震撼させる、ミック・ジャガーの上を行く。