猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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没落士族の「教育欲」
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    齋藤孝が言うところの「教育欲」は、一定の年齢に達した人なら、ある程度は持ち合わせていることだろう。
    ビジネスマンは後輩社員に、高校野球の監督は選手に、学校教師は生徒に、相撲の親方は力士に、落語家は弟子に、教育欲のはけ口を求める。

    ところで、明治以降武士は俸禄を停止され、武士階級の特権もなくなり不満が嵩じた。不満のはけ口をある者は西南戦争をなどの不平士族反乱に求め、またある者は自由民権運動に携わることで解消しようとした。

    しかし多くの士族は、自分自身の現世での出世栄達を諦め、夢を子供に託した。没落士族は現状の不満を子供の教育でぶつけたのである。
    おりしも当時のベストセラー福沢諭吉の「学問ノススメ」は、学問を修めることが立身出世の王道である事を説き、多くの士族の共感を得た。
    福沢諭吉のアジテーションに感化された武士階級は、子供の教育に力を入れた。没落武士の「教育欲」は、自分の現世での不遇に対する怨念とあいまって強い欲望になった。

    親の強い「教育欲」の結果、学問に励んだ子弟達は、官吏や軍人、或いは実業界で活躍するようになり、富国強兵・殖産興業の原動力となり、明治の日本の隆盛を築き上げる力になった。
    自分に代わって息子を出世させたい親の執念が、産業の未曽有の発展を成し遂げた。

    結局、没落武士の「教育欲」は、自分達を武士という特権階級から引きずり下ろした明治新政府に、息子を人材として送り込むことに結びついた。なんとも皮肉なことである。
    | 硬派な教育論 | 16:39 | - | - | ↑PAGE TOP
    個人塾は入りづらい?
    0
      個人塾やってる私が言うのもなんだが、個人塾の門を最初にたたく時、お母さんや子供は怖いんだなあと思う。

      大手塾なら1階がガラス張りになっていて、中ではネクタイ姿の先生や、制服を着た事務の女性がテキパキと仕事をしている姿が見える。ドアを開けても洗練された反応が返ってきそうだ。
      また、講師がズラリ玄関前に並んで送り迎えしている大手塾もあり、それならどんな人が子供を教えているのか一目瞭然で、尚更入りやすい。

      しかし個人塾は違う。個人塾の先生は怪しい。
      個性的といえば聞こえはいいが、とんでもない人物が先生だったりする。

      だから雑居ビルの2階にある個人塾にお母さんや子供が最初に訪れる時は、塾長がどんな人かわからないので、興味と恐怖で心が一杯になり、コンクリートの階段を上がりながら肉体の疲れだけでなく、緊張で息切れしてしまうだろう。

      お母さんが個人塾のドアを開ける。「ごめんください」と言う。中から反応は無い。もう一度今度は少し大きな声で「ごめんください」と叫ぶ。奥から「は〜い」という声が。塾長だろうか。足音が近寄ってくる。スタスタ。どんな人なんだろう・・・

      こんな具合だから大手塾のほうが親しみやすく、個人塾は取っ付きにくいと考えるのも道理だ。

      商店でもそうである。スーパーやコンビニは自由に入れて、何も買わなくても遠慮なく出られる。「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった感じだ。

      逆に個人商店は入りづらい。入った途端に商品をしつこく勧められるとか、あるいは古本屋みたいに偉そうなオッサンが店の奥で腕組みしているとか、買わないと嫌味を言われそうだとかで足が遠のく。

      またコンビニやスーパーのいいところは、1万円札を出しても何も言わずお釣りをくれることだ。1万円出してガム1個買っても嫌がられない。だから買い物する時、ついついコンビニやスーパーに足が向いてしまう。

      しかし個人商店では1万円札を出そうものなら、「細かいのはありませんか」「928円のお買い上げですが、8円お持ちじゃないですか」と批難されそうで困る。個人商店にはお釣りの出し方1つにしてもローカルルールがあり、客は店独自のルールに合わせなければならない。
      大手のチェーン店なら、どこでもルールが同じだから気をつかうことが無い。

      個人塾にも塾長の個性の匂いがプンプンする独特のルールがあって、保護者や子供がそれに合わせなければならない。
      それが嫌だから入塾を躊躇してしまうケースが、結構多いような気がする。

      だから個人塾のルールは
      、普遍的で理に適ったものでなければならない。また、ある程度個人塾は、HPやブログで自塾の雰囲気を公開するのが望ましい。
      | 塾の様子ガラス張り | 14:35 | - | - | ↑PAGE TOP
      親が子に「勉強」を教えた時代
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        東大寺学園高1の放火殺人事件について、いましばらく、牛歩のようにじっくりと考察を進めてみたい。まずは当たり前のことから整理しよう。

        いまでは、塾や学校が親から子供を預かり、親以外の大人が学力の成長を全面的に担当するようになった。
        親が直接子供に勉強を教えることは稀で、学力向上は塾や学校に任せるのが当然だ。

        でも子供の教育に関する「分業」が成立したのは、よく考えてみれば時代的に新しいことなのかもしれない。

        昔は、仕事のノウハウは親が家で教えた。親が子に職業技術を教えるのは当然の事だった。
        原始人は狩猟のやり方を、百姓は田植えを、漁師は魚の取り方を、鍛冶屋は鉄を打つ技術を、親は子の手を取り直接教えた。

        身分が固定していて、親の職業を子が継ぐのが当たり前だった時代、父親は親と教師を兼ねていたのである。

        現在では、子供は大きくなると親離れするのが当然のように思われているが、昔の子供は親離れすることは稀だった。親と子は死ぬまで一緒に暮らしていた。

        確かに戦国時代になると一旗揚げるために鍬を刀に変え戦いに出る若者は増えたし、また江戸時代には江戸や大坂といった都市に移住する百姓の次男三男が後を絶たず、居住の流動化が進んだが、多くの人は一生同じ土地や家に定住したわけで、生まれた家はイコール死ぬ家だった。

        ところが明治以降、身分や職業が流動的になると、子が親の職業を継ぐ割合が少なくなった。
        全国に学校ができて、公務員とか軍人とか江戸時代に無かった職業も増えた。
        社会構造は大幅に変化し、子は親よりも上のステージの職業を目指すようになり、そうなると親が持つ職業知識は子には不要なものとなった。
        農民の父には、軍人の子は教育できない。

        社会の「進化」及び近代の到来が、親と子を引き離した。子供は一定の年齢になったら親と別居し、親は子供に職業技術を教えるケースは少なくなった。

        近代以降、子供には将来の職業の可能性ができた。子供は親の跡を継がなくてもよくなった。そんな環境の転回が、直接子供を手取り足取り教育するステージから、親は退場を余儀なくされた。
        子供に職業技術や勉強を教える役目は、教育機関に一任されたのである。

        | 硬派な教育論 | 22:24 | - | - | ↑PAGE TOP
        自分の知能指数が知りたい
        0
          高校生のとき、学校サボって図書館で読書に励んでいたら、ある本の中に「民族別知能指数」という恐ろしげなランキング表があるのを見つけたことがあった。
          民族のIQを、まるで大学の偏差値表のように上から順番に並べたものだ。

          それによると、

          1位 ユダヤ人(ダントツ)
          2位 日本人
          3位 中国人

          で、その続きは忘れてしまった。
          どうせこんなのは、ユダヤ人が調査した結果なのだろうから、1位がユダヤ人という結果はユダヤの陰謀で、実質日本人が1位なんだろうと勝手に解釈する。

          そして、表の一番下には

          黒人
          プエルトルコ人

          と書いてあったと記憶する。
          刺激的な本だった。

          ところで、最近の小学校では子供にIQ調査をしているのだろうか?
          私は小学校でIQを調査された記憶がある。小学校の時は体育館で迷路のクイズをやった。今思うとあれはIQ調査なのだろう。結果は知らされなかったけど。

          偏差値や学年順位は、子供の努力で上下する数値だからテストをバンバンやって公表してもいいのだろうけど、知能指数は先天的絶対的能力だから困る。

          いま、子供のIQを調査することはタブー視されているのだろうか?

          たとえば「男女の間に、IQの差はあるのか?」という調査1つをするにしても、見えない圧力で厳しく戒められているような気がする。

          あと、私は島で塾を開いているが、ある人が
          「うちらは島じゃけえ、血が濃ゆうて、知的障害持った人間が多いわ」
          という恐ろしい説を唱えていた。

          確かにうちの島では、「金」や「李」や「朴」という苗字が圧倒的に多い韓国・北朝鮮みたいに、特定の苗字が異常に多い。
          4つの苗字だけで、島の人口の70%ぐらいを占める。

          韓国だと、同じ「金」姓の中に「本貫」という細かい区別があって、同じ「本貫」同士では結婚できないと聞く。
          韓国ではそんな工夫をしながら、「血が濃くなる」ことを防いでいるのだろうか?

          ところでもしかしたら、雑多な人間が集まる都会と、閉鎖された空間で「近親婚」が続く島と、どちらのIQが高いのか比較実験している研究機関もあるかもしれないが、公表したら大騒ぎになるだろう。

          たとえ調査していたとしても、興味本位で語られやすい内容だから、調査結果は象牙の塔の塀の中に隠しておいた方が、賢明だと思うけど。

          それはそうと、私は自分の知能指数が知りたい。小学校の倉庫の奥のファイルに調査結果が残されているのだろうか?

          | 未分類エッセイ | 19:45 | - | - | ↑PAGE TOP
          中1は過保護に「母乳」で指導
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            試験対策真っ盛りだ。
            うちの塾は試験前「自由に勉強に来ていいよ」という形式ではなく、強制的に何時から何時までいらっしゃいという形式を取っている。
            試験前は週6回通塾しなければならない。

            どうせ塾に勉強に来ない子は、試験前家で遊んでいるに決まっている。私生活がとっても怪しい。
            家で勉強しているか疑わしいので、試験前塾に絶対に来てもらう。自学自習という理想はちょっと脇に置いといて、成績が伸びない子は、私が機関車みたいに引っ張らなければならない。

            特に中1はまだ試験勉強の方法を把握していない。まるで赤ん坊だ。
            ビャービャー泣いている中1の赤ん坊どもに「自分でえさを探して来い! 自学自習だ!」と叫んでも、何もできやしない。そんな冷たい仕打ちをしたら、中1は食にありつけなくて干からびてしまう。

            勉強のやり方がわからない子に対しては、教師は距離を取ってはならない。乳離れするまでしつこく面倒を見るのが教師の役割だ。
            過保護・過干渉・構いすぎ・教えすぎ、そう批判されてもいいから、懐に飛び込ませて思いっきり抱きしめながら教えよう。

            気色悪い比喩で恐縮だが、私が巨乳を丸出しにして、中1に母乳をたっぷりと与えてあげなければならない。
            小学校時代勉強のやり方を教えてもらえなかった子をの頭脳を豊満にするには、母乳が一番さ。
            | 高校受験 | 16:34 | - | - | ↑PAGE TOP
            「誰のおかげで大きくなったんだ!」
            0
              うちの子猫は、鶏のささみとチーズと鰹節が好物で、1日5食もするので身体が結構大きくなった。子猫と成猫の中間ぐらいの大きさになり、とにかくよく食べよく動きよく太る。

              子供がいない私にとって、小さい生命体が食料を得ることで、日に日に身体が大きくなる体験は新鮮だ。
              猫の身体が大きくなると、猫は私が稼いだ金で買った食べ物で大きくなり、私がいなければ猫は餓死していたかもしれないという、妙な実感が生まれてくる。
              「こいつの身体は俺が大きくしてやったんだ」と偉そうなことを思ってしまう。

              心の成長は目ではあまり確かめられないが、体の成長は一目でわかる。子猫の身体の成長は子猫の可愛らしさが失われることでもあり微妙に残念だが、やはり嬉しい。

              ところで、私のような塾講師や学校教師は、子供の心や学力の成長には関わっているかもしれないが、身体の成長には全く関係がない。塾講師と一緒にいても、子どもの身体はデカくなったりしない。
              自習室の休憩時間におごったラーメンぐらいしか、塾の講師は子供の身体の成長には寄与していない。

              だからこそ、子が無い塾講師の私は、猫の身体の成長を新鮮に感じたのだろう。
              とにかく、塾講師は専ら子供のBODYではなく、SOULを成長させる役割を与えられているのだなと、大きくなった子猫を見てつくづく思った。

              ところで、親は自分の子供に対して、私が子猫に感じたような「この子の身体は私が大きくした」という気持ちを持っているのだろうか? 
              身体が大きくなった子供と喧嘩した時に親が、「誰のおかげで大きくなったんだ!」と怒鳴る気持ちが、子猫を育てていて非常によくわかった。
              | 硬派な教育論 | 14:33 | - | - | ↑PAGE TOP
              「まじめ君」の犯罪
              0
                俺は高校生時代、「不良」と呼ばれる同世代の若者が羨ましかった。
                服装や言動で「不良」をアピールすれば、どれだけ楽かと考えた。

                ボンタンはいてリーゼントで決めてバイクを乗りこなす不良たち。
                こっちは学生服にきちっとカラーつけて通学してるのに。

                世間から真面目な奴だと見なされている若者の中には、心の中に巨大な「不良」を抱えている人間がいる。

                いい奴、無難な奴、おとなしそうな奴、人間できてそうな奴、幸せそうな奴、可愛げのある奴、悩みが無さそうな奴・・・・・
                彼らは世に言う「不良」達みたいに、一見威勢がいい低温の炎を撒き散らしたりはしない。誰が見たってわかる反抗のシグナルは発しない。

                紳士然とした賢そうな風貌の奥に、実は原子炉のような青白い高温の、閃光のような青白い焔を隠している。

                理性とか知性とか分別とかいった、小さい頃から真面目に構築した厚い壁で焔は覆われている。
                彼らは人に悩みを相談する術も知らない。というか、悩みを他人に相談することなど想像もつかない。悩みが深すぎて自分が悩んでいることすら知らない場合すらある。

                真面目な子は孤独力が強すぎて、なんでもかんでも自分で解決してしまう。
                心の傷をひたすら隠し、深さ5cmのパックリ開いたザクロのような傷を、自分で止血し、糸と針を使って縫い繕う修羅場が日常化している。
                そんな子に対して大人は「手のかからない子だね」と安堵する。

                ただ、強い抑圧とか家庭環境とか周囲の無神経な言動が、原子炉の焔を爆発させる。
                彼らは感情を小出しにしない。感情を出さない奴は絶対に出さない。
                でも、爆発する時は地震のように、ある日突然爆発する。誰も爆発を予知できない。

                そういえば俺は中学高校浪人の時、犯罪が起こるたび、犯人に肩入れ味方した。若い犯罪者は俺の代弁者だった。

                お前は無口だ。もっと積極的に話をしろ。自分をアピールしろ。そう言われて慣れない能弁を身に付けると、今度はお前は口だけの理屈屋だ、実行が伴わない。そうかそれなら行動してやろう。俺のいざという時の爆発力を世間に見せてやろう。
                「臆病モノのイチゲキ」は怖いぞ。

                俺は大人に反抗するため、煙草に火をつける奴の気持ちがわからなかった。どうせ火をつけるなら、嫌な奴の身体をガソリンかけて燃やしたいと願った。自虐より他虐でしょ。
                でも度胸がなかった。じゃあ度胸がついて実行したら、お前は褒めてくれんのか。
                | 硬派な教育論 | 22:30 | - | - | ↑PAGE TOP
                財津和夫と財津一郎を間違えた
                0
                  どうでもいい話で恐縮だが、私は昔、財津和夫と財津一郎を同一人物だと勘違いしていた。

                  説明するまでもないが、財津和夫は1970年代に全盛期だったバンド、チューリップのボーカルで、「虹とスニーカーの頃」や「サボテンの花」などのヒット曲を飛ばした。
                  財津和夫は痩せ型の優しい繊細なボーカルスタイルで、同世代のニューミュージック歌手が放つ濃厚なアクが少ない、草食動物のようなルックスの人だ。

                  逆に財津一郎はコメディアンというか怪優で、「キビシ〜ッ!」とか「〜してチョウダイ」といった一発ギャグというか奇声で名声を博し、「バブルスター」や「こてっちゃん」のCMでも一世を風靡した。
                  小太り体型で、サングラスをかけた海坊主のような、個性が強烈な人だ。

                  本来ならこんなシマウマとアザラシみたいな2人を間違えるはずはないのだが、苗字が「財津」と変わっていて、またチューリップの財津和夫はあまりTVに露出しない人で、しかも私はあまりチューリップを聴かなかったから、愚かにも2人を混同してしまったである。

                  財津一郎の顔が、財津和夫の声を出すのだと思い込んでいた。

                  財津一郎がTVでは「〜してチョウダイ」という甲高い声を発する脂ぎった三枚目を演じていながら、裏のバンド活動では 
                  ♪わがままは、男の罪〜それを許さないのは女の罪〜
                  と爽やかな二枚目にコロッと大変身するのだと勘違いしていた。
                  財津一郎はテレビでは奇声を、ステージでは美声を発する両極端な人だと。

                  悪いことにご両人とも、「一郎」「和夫」というポピュラーなありふれた名前である。それが良くない。
                  たとえば財津一郎が財津権造、財津和夫が財津公麿といった変わった名前だったら、私も混同しなかっただろう。

                  しかし言い訳させてもらうと、私が財津和夫と財津一郎を勘違いするのも無理はない。
                  1970年代のニューミュージック歌手には、あまりにも二重人格の人が多すぎる。
                  中島みゆきはその最たる者で、ラジオでは躁的な嬌声を発していながら、ジメジメした暗い唄を歌う。
                  さだまさしもコミカルになったり深刻になったり二面性のある人だし、松山千春は曲は純朴青年だけど言動は思いっきりヤクザだ。

                  財津一郎(和夫)も、そんな二重人格歌手の一味だと私が思い込んでしまったのも仕方ない。
                  | 未分類エッセイ | 19:20 | - | - | ↑PAGE TOP
                  夏みかんの味って、どんな味? 柳川
                  0
                    福岡の天神から西鉄電車に乗って、クリークで有名な柳川へ行った。和風のベニスみたいな街だ。
                    柳川は城下町。武家の住まい特有の、凛とした静寂さに包まれている。

                    IMG_0986.JPG

                    街歩きの途中、民家の軒先で夏みかんを見つけた。
                    夏みかんの木の存在が、街を時代劇のセットにする。

                    IMG_1047.JPG

                    ところで、柑橘類は冬に一斉に実がなる。ミカンはコタツが良く似合う果実だ。
                    しかし、夏みかんは4月から6月に収穫期を迎える偏屈なミカンだ。

                    夏野菜はビニールハウス栽培によって、冬でも生産できて高値で売れる。夏みかんも柑橘類の少ない夏に、高値で売れるべきではないのか?
                    本来だったら、夏にスーパーで夏みかんが大量に売られていてもおかしくない。
                    でも、どうして夏みかんは店で売られないのか?

                    おそらく夏みかんはマズイのだろう。美味い果物だったら今の季節に、
                    母「今日のおやつは夏みかんよ」
                    子「わーい、わーい」
                    という会話も成り立つ。
                    夏みかんは余程まずいのだろうか? 民家の柿泥棒はよく聞くが、夏みかん泥棒は寡聞にして知らない。

                    私も夏みかんを口にしたことがない。老舗の和菓子屋で買った夏みかんゼリーみたいなものは食べたことはあるが(これはうまかった)

                    というわけで、落ちていた夏みかんを思い切って食べてみた。

                    IMG_1048.JPG

                    春の陽にオレンジ色の果実が眩しい。
                    早速皮をむいてみる。皮は「グニュ」と軟体動物のようだ。ナマコの感触に似ている。グニュグニュしたオレンジ色の皮を、人差し指に力を込めて思いきってむく。

                    IMG_1049.JPG

                    実の部分が少ない。普通のミカンは皮と実が密着しているが、夏みかんは皮と実の間に隙間がある。

                    実を少しだけ食べてみる。薄皮が固いが、歯で噛み切ってみる。
                    緊張の一瞬。

                    おお

                    ぬるくて、少し渋くて、酸っぱくて、甘みは乏しく、水気が無くて・・・・

                    夏みかんは味よりも、オレンジ色の色彩にこそ、存在意義があるのですね。
                    | 旅行食べ物 | 22:33 | - | - | ↑PAGE TOP
                    児童文学が面白くない
                    0
                      よく塾生のお母さんから「どんな本を子供に読ませたらいいでしょうか?」とのご質問を受ける。
                      でも私は、小学校・中学校の子供に関しては、明確な答えを出せないでいる。

                      私は一般的な児童文学が嫌いだ。読んでも面白くない。
                      大概の児童文学は、作者が子供におもねって書いているみたいで、照れくさくなってしまう。
                      いい歳した大人が無理して子供の目線を繕って書いた児童文学は、作為の匂いがして、ちょっと気持ち悪い。
                      大人が子供になりきろうと無理して書いた児童文学は、オッサンオバサン作者が子供のコスプレをしているみたいで、読んでてイタい。

                      私は日本の児童文学の、子供の名前の呼び方が嫌いだ。
                      エイジとかヤッチンとかヨッサンとかドテカボチャとか、何で片仮名やニックネームで呼ばれるのか。
                      赤面してしまう。

                      それはそうと、子供がそのまま大人になったような幼児性の強い人じゃないと、優れた児童文学の書き手にはなれないのか?
                      日本の作家ならたとえば、宮沢賢治や中勘助のようなピュアな人間にしか児童文学は書けないと私は思う。

                      というか、児童文学が面白くないのは、私が歳を取ったのが一番の原因だろう。
                      児童文学が理解できないのを、作者のせいにしてはならぬ。子供が読んで面白い児童文学と、大人が読んで郷愁を誘う児童文学は違うのだろう。

                      かつてはあれほど面白かった「週刊少年ジャンプ」も、今読んだら難解で理解できない。(「DEATH NOTE」と「こち亀」は別)

                      その点やはり「ハリー・ポッター」は、大人と子供の両方に愛される稀有の作品なんだろうと思う。

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