猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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障害者を中傷するガキ
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    6歳で亡くなったダウン症の子供のドラマを放映していた。視聴率は関東で30%を超えたという。子役は実際にダウン症にかかった子供が演じていて、母親役は松田聖子、父親役は船越英一郎だった。松田聖子はふだんのケバケバしさを微塵も感じさせない好演で、さすが20年前に一世を風靡した人だと改めて感心した。ドラマも力作だった。

    子供が先天的な障害を持っていると医者に宣告されたとき、家族はどんな反応を示すのであろうか。夫はいつ、どういうタイミングで子供を産んだ妻に対して、子供に障害があるという事実を話したらいいのか強く悩むだろう。

    また言ってはならないことかもしれないが、重度の障害だと、生まれてきた子供を殺すという悪魔のような選択肢が、いったん頭をよぎるかもしれない。コミック「ブラックジャックによろしく」では、子供を殺して欲しいと医者に頼む父母と、それを阻止しようとする若い研修医が、子供の生死を巡って火花を散らすという話があり、生々しい話で強く共感した。

    それから、なぜ肉親に障害を持った子が生まれたのか、家族や親戚はそれぞれが自分のせいだと思い、過去のさかのぼって自らの中に原因を探し始める。
    自分の遺伝子に欠陥があったのか、家の方角が悪いのか、身内が死んだ時に戒名代を安くケチった祟りなのか、常日頃の行いが悪いのか、前世の悪行の呪いなのか、とにかくどうして障害を持った子が産まれたのか、因果関係をむなしく探ってしまうだろう。

    そして子供の健康に対して異常なぐらい神経質になる。書店や図書館へ行くと、ふだんは見向きもしなかった医学書のコーナーを徘徊し、インターネットでは暇さえあれば「生存率 寿命 障害 後遺症」といったキーワードを検索する。

    しかし地獄絵図のような混乱のあと、障害を持つ子が誕生したことによって、家族・親戚の結束は固くなる。父母だけではなく周囲の肉親も、この子を最後に守るのは私たちしかいないという思いに駆られる。産まれた子供のためなら命を削ってもいいと思う。

    逆に家族の結束が固くなりすぎて、周囲の人から排他的な印象を与えることもあるかもしれないが、そんな世間の風評ははお構い無しに、障害を持つ子を中心に肉親たちは強固なバリケードを築く。そして子供を囲んで、家族には笑顔が出るようになる。

    しかし親戚が去り、父親が仕事場に向かい始めると、母親は障害を持つ赤ちゃんと2人きりになる。乳幼児のうちから、子供の仕草の中に障害の痕跡を探してしまう。
    1歳・2歳と年を経るにつれ、子供の障害があらわになる。そして成長しても言葉を上手く話せない子を持つ母親は、自分の愛情が子供にきちんと通じているか悩む。
    母親は子供に精一杯の愛情を注ぐ。子供は笑顔で返す。しかし子供から「ママ」なり「おかあさん」といった言葉は欲しくないのだろうか? 言葉によって、子供が自分を親だと認識している証拠が必要なのではないか? 
    私がもし障害を持つ子を持ち、その子の口から「パパ」という言葉が出たら、嬉しくて気が動転するだろう。

    障害を持つ子と1対1で接していると、親は途方もない孤独に陥ってしまうのではないか? 
    子供は自分を母親だと認識してくれているのか? 
    この子は私を残して先に逝ってしまうのではないか? 
    障害を持つ子に明るい未来はあるのか? 
    この先どんな途方もないトラブルがこの子に待ち受けているのか? 
    私は親になった経験がないから、その辺の心理はよくわからないから、多くを語れないのだが。

    そして障害を持つ子が成長すると、家の外ではどう扱われるのか? 
    周囲の中傷や嘲りを浴びなければならないのか?
    障害者に対して健常者が心無い不埒な行為をしないためには、幼少時の教育が肝心だ。これは我々の仕事である。

    障害者を「ガイジ」などと言う餓鬼は、徹底的に叱りつければいい。障害児の姿を見て笑う奴には、顔が引きつるくらい怒鳴りつけてやればいい。自分の軽い言動がどれだけ人を傷つけるか、他人の苦悩を想像できない貧困な想像力を哀れんでやればいい。そして叱り付けた後で、障害者とその肉親がどんな重苦を背負っているか、きちんと諭してやればいい。

    我々が生徒に学問を伝えるのは、子供を無知や偏見や貧乏から守り抜き、子供を幸福にするためだ。それ以外の目的は一切ない。知識を得て幸福になった子供は大人になって、知識を使って他人を幸福にする。医学を履修した医者は命を救い、音楽を糧とするミュージシャンは歌や演奏で聞き手の心を豊かにする。
    だから障害者を笑い馬鹿にする子供を放任する教育者は、学問の本質を誤っている。何よりも先に子供には、他人を幸せにする術を教えなければならない。

    ところで、ボランティアをやっている人に特に多いのだが、障害者を「弱者」と勝手に決めつけるのは考えものだ。おそらく無意識で悪意はないのだろうが、言動の端々に強者意識が滲み出ている人がいる。
    障害者とその家族は他人に哀れんでもらいたいのではない、優しくされたいのでもない、同じ視線で見守って欲しいのだ。他人から弱者扱いされ、「かわいそう」と思われることは、誰にとっても大きな屈辱である。

    障害児から話は逸れるが、介護士の若い女の子が、介護が必要な老人に対して、「おじいちゃん、お風呂入らなきゃだめじゃないの」とか、馴れ馴れしい口を利く。そんな口のきき方はいかがなものだろうか?
    企業で部下から敬語で話しかけれることに慣れていたた老人が、リタイアして体が不自由になり、年端も行かない若い女性に介護され、ため口で語りかけられたらどんな気がするのだろうか? 私が老人だったら女の子のしゃべり方に強い抵抗を持つだろう。

    若い介護士も何気ない自分の言動が、障害を持つ人やお年寄りに対して、知らず知らずのうちに「強者的」になっていないかどうか、改めて言葉の検証をする必要がある。介護者と被介護者のコミュニケーションが自然に成り立つような言葉遣いとはどんなものなのだろうか? 

    またたいていの健常者は、寝たきりの老人や障害者に対してどんな言葉をかけていいかわからない。繊細な感性を持つ人なら、自分の言葉で相手を傷つけないか絶えず気にしている。だから繊細で思いやりのある人ほど、自然と障害者に対して距離を置いてしまう。
    賢明な人ほど、自分が障害を持つ子の親の立場にならない限り、絶対に相手の心境など理解できないことを悟っている。賢明な人間に距離を置かれて、障害を持つ子の親はますますひとりぼっちになる。

    障害者や寝たきりの老人に対して、スムースにかけられるような言葉の開発は絶対に必要である。
    | 硬派な教育論 | 23:16 | - | - | ↑PAGE TOP
    イケメンのインフレ
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      あの山本モナは、ネットで調べていたら、どうやら私の地元出身らしい。結構驚いた。

      ところで、山本モナと不倫した民主党の細野豪志衆院議員は、マスコミでは「イケメン代議士」と呼ばれているが、あの程度のルックスでイケメンと呼ぶのは少々無理がないか? 世間が細野豪志をイケメンと認知しているのが不思議だ。
      橋本龍太郎も一時「龍サマ」と年配の女性から人気があったが、よく見ると橋龍は福笑いみたいな顔だった。
      あと琴欧州がイケメン力士というのも無理がある。ただの毛深い外国人じゃん。

      要するに政界や角界に所属する男達のルックスがあまりにもヒドイから、彼ら程度の顔でもイケメン扱いされてしまうのだろう。
      目の錯覚という奴か。

      だってイケメンアイドル、イケメンホスト、イケメンモデルという言葉がありますか? あまり使わないでしょ?
      アイドルもホストもモデルもイケメンでなけりゃできない職業だもんね。
      「ブサメンホスト」「キモメンアイドル」と呼ばれる人は、深い自己矛盾を抱えている。

      あと、もし「イケメン塾講師」と言われる人がいたら、塾講師も世間ではブサイク扱いされている、ということになるであろう。

      ところで「イケメン落語家」って聞きませんね。漫才師には時々イケメンがいるが、落語家にはイケメンは存在しないのだろうか?

      円楽・枝雀・文珍・ざこば・正蔵・円蔵・小朝・鶴瓶・志らく・談春・八方・木久蔵・小枝・こん平・・・・・

      なるほど。

      落語家ほど、イケメンもナイスミドルもいない職業は珍しい。

      | 未分類エッセイ | 17:59 | - | - | ↑PAGE TOP
      新規開業の塾は出だしが肝心
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        新規開店のデパート、ショッピングセンター、駅ビル、地下街などのレストラン街は、異常に混雑している。
        ラーメン、自然食中心の和食、讃岐うどん、イタリアン、うなぎ、とんかつ、回転寿司、オムライス、お好み焼・・・
        どの店も店外には新し物好きの行列客があふれ、ロープが張られ、なかなか中に入ることができない。
        待ちきれない子供が店の周りでチョロチョロし、喧騒を増している。

        新しくオープンしたばかりの店の若いアルバイト店員は、仕事に慣れていなくて、気が利かない子が多い。概して都会より地方のほうがひどい。
        「お客様何名ですか、お名前お願いします、しばらくお待ちください」と仏頂面で機械的な客あしらいをして、行列する客を苛立たせる。
        「オープニングスタッフ募集」の張り紙に釣られて応募したのだろうが、バイト開始早々大混雑の店で働かなければならず、「何で私がこんな目にあうの?」と不条理な仕事が嫌なのが顔に出ている。
        店長も行列客に対して、ちょっと外へ出て「ご来店早々お待たせして申し訳ございません」と挨拶でもすれば店の好感度は上がるのに、忙しくて気が回らないのだろう。

        店の中へ入れば席についてもオーダーをなかなか取りに来ない。催促してようやく注文を取りに来ても「お待たせいたしました」の一言もない、また不慣れな店員がオーダーを間違える、味も忙しくて料理が丁寧に作れず雑になってしまう・・・
        新しい店の高飛車で雑な客あしらいで、客は「もう二度とこんな店来るものか!」と思う。開店当時は大混雑だった店なのに、2〜3ヶ月したら閑古鳥が鳴く。

        塾にも同じことが言える。
        私の塾は来年2月から高校英語を始める。最初は「期待値」で生徒がたくさん来たとしても、生徒の高い期待にこたえなければ1年経たないうちに生徒はいなくなってしまう。
        とにかく最初が肝心。最初からガツンと塾長のポリシーを打ち出し、軸をぶれさせず指導し、生徒一人ひとりに対して丁寧に接しないと、レストランみたいな目に遭う。

        私は現在、センター試験や難関大学の赤本を分析し、英検の問題集を解き、また有名英語講師の参考書から教え方の「キレ」を盗みながら、高校英語の教師としてのパワーをつけようとしている。
        とにかく最初が肝心。最初が肝心。


        | 塾の様子ガラス張り | 18:01 | - | - | ↑PAGE TOP
        キムタクの長渕剛化
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          今日の朝日新聞朝刊で「お酒が似合う有名人は」という話題があったので記事を読んでみたら、ボージョレー・ヌーボーの男性1位が石田純一、女性が黒木瞳、ビールの1位が男性・香取慎吾、女性が小西真奈美という調査結果だった。何という気取ったメンツか。調査したのは「日本地ビール協会」という団体らしい。

          私は「お酒が似合う有名人は」というから、てっきり酔っ払って暴れるイメージが強い芸能人が上位に来ると思った。男性1位はやしきたかじんで、女性1位が和田アキ子だと予想したのに、がっかり。

          ところで「anan」の好きな男ランキング、13年連続1位キムタクというのも納得いかない(ちなみに嫌いな男NO1を5年続けた出川哲朗は、殿堂入りしたらしい)
          なんだか昔、山田邦子がNHKの高感度調査で何年も1位を続けたときも違和感を覚えたが、そのときと同じ状況なような気がする。
          好きな男ランキング、そろそろ福山雅治あたりがトップでもいいし、オダギリジョーや小池徹平や速水もこみちも1位を窺えそうなのに、アンケートでは低迷している。

          最近のキムタクのドラマ、「プライド」も「エンジン」も、どうも俳優キムタクのプロモ化しているような気がする。キムタクが回の終わりに必ず格好いい台詞を吐く。それがどうもお説教臭くて、しかも台詞の内容も言葉も発し方も軽く辟易してしまう。キムタクが正義的道徳的に最高の男に祭り上げられ、キムタクがプチ神格化されたような臭みがある。

          そんな最近のキムタクのドラマ、何かに似ていると思ったら、10年以上前にTVで必ずやっていた、長渕剛主演映画・ドラマにそっくりだ。
          「親子ジグザグ」や「家族ゲーム」の頃の初期の長渕ドラマは、長渕はまだ純朴なチンピラで、明石家さんまを少々柄を悪くしたキャラで愛嬌と可愛げがあった。
          しかし「RUN」や「オルゴール」や「ウォータームーン」になると、長渕の目は常人の目つきではなくなり、ストーリーは説教臭くなり、長渕教の教祖の宣伝映画みたいで、個人崇拝の匂いがして、私も長渕のファンだがついてゆけなかった。
          ドラマに関してはキムタクの長渕化が進んでいる。最近のキムタクドラマで脇を固める役者は、みな男優は山田辰夫や石倉三郎に、女優は清水美沙や国生さゆりに見える。これはキムタクには不幸な傾向だ。

          でもキムタクの全盛期のドラマは良かった。特にキムタクが無名のピアニストから這い上がる軌跡を描いた「ロングバケーション」は恋愛ドラマの傑作だ。
          「ロングバケーション」はキムタクがSMAPの一メンバー、その他大勢の若手男優から、日本一の男「キムタク」にブレイクしたドラマである。
          ストーリーは結構熱い出世物語なのに、キムタクのクールで微妙で繊細な演技が格好良かった。キムタクもドラマで決して説教なんかしなかった。等身大の若者の一人だった。

          キムタクには復活して欲しい。そういえばあの長渕も、「くりーむなんとか」のカラオケボックスライブでは、かつての優しい目を取り戻していた。
          テレビ局のスタッフや脚本家が、キムタクや長渕に対して腫れ物に触るように気を使っているのがテレビの画面から滲み出るようなドラマは、もうやめにしようよ。
          俺がテレビ局のプロデューサーだったら、キムタクには格好悪い30代ニートの役をやってもらいたい。

          | 映画テレビ | 18:02 | - | - | ↑PAGE TOP
          生徒に手紙を書く
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            生徒からやる気を引き出すにはどうするか?
            世の中の優れた教育者には、人体から生徒を感化させるオーラを出す人がいる。人体からである。

            lekuchan先生の身体からは学問の場に相応しい、爽快で厳粛な空気が発散される。「修」とか「正義」といった漢字が一面に飛び散る。
            kamiesu先生の身体からは、禅寺のような深閑な雰囲気が流れる。進学塾「SORA」は改装したての真新しい建物だが、教室には寺院の堂宇のようなヒノキの香りが漂う錯覚がする。
            みかみ先生にはお会いしたことがないが、先生は太陽みたいに熱く引力が強く、太陽系みたいに周囲の人間を引き付け、身体から染み出る気圧が異常に高く、短い一言も生徒の心にワンワン響く。

            良い先生は、人体から放射能を発散する。感性の鋭い生徒は放射能を感知し、先生の虜・勉強の虜になってゆく。
            残念ながら私の身体からは放射能は出ない。では凡人が生徒の心を捉えるにはどうすればいいか?

            私は生徒に手紙を書く。手書きが9割、ワープロ文字が1割だろうか。
            一番短いものは確か2〜3行で、一番長い手紙は便箋に16枚だったと思う。

            海外に旅行したら、必ず3〜4人に旅先からエアメールを出す。エアメールは素気ない文章だ。200〜400文字ぐらいだろうか。
            手紙は飛行機の中や、あるいは深夜のホテルの部屋で書く。

            生徒は驚くだろう。中学生がエアメールを貰う機会はあまりない。家にいきなり赤青のエアメールの便箋が届き、ローマ字で私の名前が書いてある。

            私はshyなので、生徒に言いたい事は直接言えない。またリミッターが外れたら暴言になってしまう。
            だから慎重に文章の形で思いを伝える。文章だと言いたいことを過不足なく正確に伝えることが可能だ。

            身体から放射能やオーラが出なければ、言葉で思いを伝えるしかない。
            生徒に手紙を書くなんて、あざとい人心掌握術だと思われるかもしれないが、結構効果はあるものである。

            それにしても「Dr.コトー診療所」の、コトー先生がタケヒロ君に宛てた手紙は、シンプルな文体で泣けたなあ。
            | 塾の様子ガラス張り | 18:14 | - | - | ↑PAGE TOP
            君は長渕剛が好きか?
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              私も昨夜、kamiesu先生のご覧になった、長渕剛生出演のこの深夜番組を、ブログの味の素の話を書きながら見ていた。

              長渕本人が出たときは「この人、ニセモノじゃないのか?」と懐疑的な目で見ていたが、二の腕の筋肉と、重量感のあるしゃがれ声と、尖ったギターの美音と、精悍で浅黒い顔に「本物や! 間違いない!」と興奮した。

              私は信者とまではいかないが、長渕が好きだ。
              というか長渕は「好き」か「嫌い」の二者択一で好悪を語るしかなく、「ふつうね」「まあまあじゃん」という中間で曖昧な態度を許さないアーティストだ。
              長渕はファンに踏絵を要求する。

              好きな人は長渕から麻薬のように抜けられないが、逆に猛烈に毛嫌いする人もいる。時代錯誤でアナクロな歌手と存在を無視する人もいるし、またよく吉田拓郎の劣化コピーと馬鹿にされるし、或いは笑いの対象になりやすい。

              たとえば長渕で最もアクの強い曲「Captain of the Ship」は、曲の最初から最後まで長渕は怒りながら歌っているのだが、ファンには魂の叫びの人生讃歌で熱く心が燃えたぎるが、ファン以外の人間が聞いたら絶対にドン引きするだろう。

              センチな「素顔」、アウトロー丸出しの「ろくなもんじゃねえ」、諦念が滲む「Time goes around」、熱い応援歌「STAY DREAM」、清原の好きな「HOLD YOUR LAST CHANCE」、都会に住む田舎者の心に迫る「とんぼ」など、大好きな曲が多い。

              私にとって長渕は、つらい時に飲む安いけどキューッとアルコール度数の高い薩摩の芋焼酎みたいなポジションの音楽だ。
              | 音楽批評の部屋 | 18:16 | - | - | ↑PAGE TOP
              上野「蓬莱屋」のひれかつと老舗
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                いわゆる老舗と呼ばれる店は、果たして美味いのか?

                たとえば、上野のとんかつの「蓬莱屋」

                下町的な雰囲気の店の佇まいはいい。客層も上品でいい。気の利く接客もいい。ただトンカツの味は残念ながらイマイチで、しかも値段が高い。ひれかつ定食が2900円もする。失礼ながら神保町「いもや」の600円のトンカツの方が私の好みだ。
                トンカツはラードで揚げてあり、揚げている時間が異常に長かったので嫌な予感がしたが、案の定トンカツは揚げ過ぎで、肉は少し堅くグニュッとした食感がした。
                私が生っぽい、中がほんのりピンクのトンカツが好みであることを差し引いても、独特のヒレカツだった。

                おそらく、大正時代はまだ豚を食うことに抵抗があり、生肉を想像する食感が嫌われて、揚げる時間が長い火をしっかり通したトンカツになったんだろうと思う。
                それは無理のない事で、たとえば現代の日本人が、ガチョウとか鳩とか猪とか熊のような食べ慣れない鳥獣の肉を食膳に出され、もし生っぽい味だったら気持ち悪がられ、「もっとよく焼いて」「よく煮て」と注文をつけるのと同じことだ。

                余談だが、すき焼きも明治初期に日本人が牛肉に慣れてなかった頃に編み出した調理法である。
                現代では日本人は血の滴るステーキとか牛刺しを平気で食べるが、殺生された獣肉を食うことに慣れていない明治時代の人間に、いきなりそんなヘビーな物を食べさせたらゲテモノ扱いされるだろう。
                「牛鍋」は醤油と砂糖を牛肉にぶち込んで味を濃くし、肉本来の獣臭さを消すための調理法だ。冷蔵技術も発達していなかった。ご丁寧に味が濃すぎるから、玉子をつけて味を和らげるという面倒臭い事までやっている。
                すき焼きを見ると、明治初期の日本人が、いかに牛肉を恐れながら食べていたかわかる。

                さて、老舗といえども時代に合わせて味を微調整し、創業当時とは全く違う味になっている店が大部分だと思う。
                しかし「蓬莱屋」はおそらく、大正時代に編み出した味を、現代風にアレンジすることなく、頑なに守っているのだろう。
                「蓬莱屋」の味は、もしかしたら大正時代の創業当時と変わらないかもしれない。

                「蓬莱屋」のトンカツは確かに、神田の古本屋で見つけた古い文献に載っていたレシピを再現したようなオールド・ファッション的な味だが、「変えない」ことの偉大さと弊害を教えてくれる味である。

                ちなみに小津安二郎は食通のイメージがあるが、実は彼はスタッフにカレー粉入りのすき焼きを食べさせて「どうだ、美味いだろ」と閉口させた人である。
                もしかしたら小津は世評に反して味音痴なのかもしれない。

                | 旅行食べ物 | 18:23 | - | - | ↑PAGE TOP
                遅刻は絶対に許してはならない
                0
                  うちの塾は6時30分から9時45分まで、よその塾より開始が遅く、終了も遅い。
                  この時間を見て「猫ギター先生はクラブ活動に理解がある」と思っている人が多い。
                  しかし、開始が遅いのは、
                  「開始が遅い分、遅刻は絶対許さない」
                  という決意の表れだ。

                  私は遅刻は許していない。遅刻したら叱る。
                  遅刻されたら授業の構成上、本当に困るからだ。

                  授業の最初の20分は授業の一番大切な部分だ。キモだ。その日の履修内容の導入部分だ。
                  最初の20分の不在は痛すぎる。

                  例えば英語の第5文型を教える日、
                  最初の20分で説明して、その後は演習。
                  さあ、演習がまさに始まろうとした時に、子供が遅刻してやってくる。
                  そこで子供が黒板で目にした文は、

                  He makes her happy.

                  当然遅れた子は、「彼は彼女を幸せに作る」とでも訳すだろう。
                  こんな状況が毎回続く、明らかに勉強が遅れる。

                  私も若い頃、こういった遅刻常習犯に対して精一杯気を使った。
                  最初の20分は前回の復習、そして彼が入ってきた途端に新しい単元に入る。こうするとダメージは小さい。
                  どうしても先に進まなければならない場合は、補習を組む。
                  しかしその補習にも遅刻する。

                  ところが私の「配慮」に対して、彼は有難がっている風ではない。それに補習されて当然だと思っている。しかも嫌がっている。これでは伸びない。

                  私は子供が塾を休んだら、重い病気の時や、やんごとなき事情の時を除いて、次に来た日には休んだところの単元について質問攻めにする。意地悪いかもしれないが、休んだところを自分で埋められるような積極的態度を身につけて欲しいと思う。

                  だから私は休んだ子には、授業終了後に電話をかけさせる。そして授業でやった事について説明する。次回までに「自分で」やっておけと。
                  こちらが優柔不断な態度を取るより、厳しくきっぱりと注意するハードな雰囲気の方が、お互いにすっきりすることに気が付いた。

                  | 塾の様子ガラス張り | 18:21 | - | - | ↑PAGE TOP
                  塾業界への国の介入
                  0
                    狭い町だから、街を歩いていると生徒のお母さんが、パートで働いている姿を目にする。
                    パートで稼いだお金が、私の塾に流れてくる。時給800円で1日5時間働いたとして、4日分で私の塾の1か月分の授業料とほぼ同額になる。
                    子供がかわいいから、親は子供の将来を思う。塾に渡すお金をコツコツ貯金して、現金や土地で遺産として子供に残すこともできよう。
                    しかし賢明な親が選択するのは、子供に生きていく上で必要な知恵=学問をつけることで、だからこそ子供を塾に預ける。子供に財を残すのではなく、財を生み出す力を塾に期待する。
                    自己犠牲の美学。親が身を削る。その削った肉が、お金となって、私たち塾講師のもとに届けられる。そういう親たちの信頼の上に、塾業界が成り立っている。
                    その親の犠牲に応え、期待を「まぼろし」のままで終わらせないのが、塾の仕事だ。

                    とにかく塾は「有料」だ。

                    では、親のため子供のため、塾を無料にするにはどうするか? 国から援助を受ければいい。国や地方公共団体からの援助を受けながら塾を運営すればいい。

                    私たち塾業界は、規制のない、ほぼ完全な自由競争にさらされている、日本では珍しい業界だ。
                    自分達の創意工夫がそのまま、塾の支持の向上につながる、スタート地点が公平な実力社会だ。
                    補助金もない、もちろん優遇税制などない。厳しい競争で私たちは知らず知らず鍛えられ、何者にも代えがたい「職人集団」になった。

                    しかし塾の無料化を目指し、塾が国の援助を受けるとなると、「規制緩和」が叫ばれている中、塾業界だけが国や地方公共団体の介入によって、逆行した道を歩まなければならない。

                    国や地方公共団体が援助金を出すならば、当然援助金をあてにする塾が現れる。
                    そこで国がどの塾に援助するかといえば、塾の内容よりも、役所と塾の人間関係、折衝のうまさや談合、もっと露骨に言うならば袖の下の有無で決まってくる。
                    塾業界を新たな「資金源」にする政治家の出現にもつながりかねない。

                    私の地元の同級生は、土地柄ゆえに建設業界にたずさわる人間が多い。公共事業で生活している。
                    選挙の折には、私のようなところにも、票のかき集めにやってくる。
                    彼らの国の補助金に対する「甘え」が私には少し腹立たしい。自由競争で、明日にでも塾が潰れてしまうかもしれない、そんな緊張感の中で生きている我々から取った税金が、彼らに分配されている。
                    ただ、不況で彼らは厳しい生活を強いられている。しかし彼らの努力のエネルギーは、仕事に対する創意工夫ではなく、国に対する陳情や折衝に使われている。

                    もし国や地方公共団体が塾業界に介入してくるのならば、特に大手塾では役人対策用のセクションが置かれ、援助金を引き出すための最大限の努力が払われるだろう。
                    我々は建築業界のような、国の援助を当てにする軟弱な業界になってしまうのか?

                    国や地方公共団体の援助なんて迷惑この上ない。塾業界は放任しておいてもらいたい。

                    塾は有料でいい。子供に将来1000倍にして返してやればいい。
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                    国語の授業なんかいらない
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                      昔「巨泉のこんなものいらない」という番組があった。
                      日本の大橋巨泉と、アメリカのジャックという名の記者が衛星回線を通して対談するのだが、日本人の大橋巨泉は英語で喋って画面下には日本語のテロップ。逆にアメリカ人のジャックは日本語の吹き替えという方式だった。

                      つまり日本人の大橋巨泉が「Hello, Jack」と英語を話し、アメリカ人のジャックが日本語で返答するという珍妙な対話がTVで繰り広げられていたのだ。
                      要するに大橋巨泉が自分の英語力を披露したかったのだろう。

                      さて今日は「国語の授業なんかいらない」という話である。

                      中学校でもし1つ科目を削るならば、「国語」が最適ではないかと私はいつか書いた。最近は国語力向上が巷で大いに叫ばれているため、少々勇気のいる発言だったかもしれない


                      繰り返すが最近の教育論では
                      「小学校で英語だって? それより国語を何とかしようよ」
                      「我々は日本人である。英語よりも日本語教育に力を注ぐべし」
                      「国語教育はすべての学問の基本。国語教育を充実させよう」
                      「国語力低下が著しい。国語の時間数を増やそう」
                      「日本語の文をしっかり書けずに、何が英語か」
                      という主張をよく耳にする。国語教育の充実が声高に叫ばれている。

                      しかし、数学や理科は学校や塾で学ばないと力はつかないが、国語力は必ずしも学校の国語の授業で身に付くものではない。
                      国語力は親や友人との会話、テレビの音声、読書や漫画、パソコンの画面、町にあふれる文字広告など、身の回りの森羅万象から吸収するものだ。

                      日常生活の周辺にあふれる文字や音声から子供は自然に「国語」を学ぶ。
                      言い換えると、数学が極度に非日常的な教科であるのと比べて、国語は日常的な教科であり、だからこそ国語力は日常生活で自然に身につく性格を持っている。

                      たとえば、最近の中学生・高校生の文章能力は、10年前以前に比べて上昇している気がしないだろうか?
                      インターネットとメールの普及が、若者が文章でコミュニケーションする能力を向上させている。事実、私が10代の頃と比べて、若者が文章を書く機会は格段に増えた。

                      若者の文章力向上は「非日常的」な教室の作文教育がもたらしたものではない。メールとネットでのコミュニケーションが「日常的」になったことで、若者の文章力は向上したのだ。若者の文章力向上は、メールとインターネット普及の偶然の副産物である。
                      学校の国語授業は、若者の文章力向上に何ら寄与していない。

                      若者の文章力向上は、「日常」が「非日常」に勝利した一例である。
                      ではなぜ国語の授業が必要なのか?
                      どうして「日常的」な国語が、「非日常的」な学校の教室で教えられなければならないのか?
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