2006.10.31 Tuesday
障害者を中傷するガキ
6歳で亡くなったダウン症の子供のドラマを放映していた。視聴率は関東で30%を超えたという。子役は実際にダウン症にかかった子供が演じていて、母親役は松田聖子、父親役は船越英一郎だった。松田聖子はふだんのケバケバしさを微塵も感じさせない好演で、さすが20年前に一世を風靡した人だと改めて感心した。ドラマも力作だった。
子供が先天的な障害を持っていると医者に宣告されたとき、家族はどんな反応を示すのであろうか。夫はいつ、どういうタイミングで子供を産んだ妻に対して、子供に障害があるという事実を話したらいいのか強く悩むだろう。
また言ってはならないことかもしれないが、重度の障害だと、生まれてきた子供を殺すという悪魔のような選択肢が、いったん頭をよぎるかもしれない。コミック「ブラックジャックによろしく」では、子供を殺して欲しいと医者に頼む父母と、それを阻止しようとする若い研修医が、子供の生死を巡って火花を散らすという話があり、生々しい話で強く共感した。
それから、なぜ肉親に障害を持った子が生まれたのか、家族や親戚はそれぞれが自分のせいだと思い、過去のさかのぼって自らの中に原因を探し始める。
自分の遺伝子に欠陥があったのか、家の方角が悪いのか、身内が死んだ時に戒名代を安くケチった祟りなのか、常日頃の行いが悪いのか、前世の悪行の呪いなのか、とにかくどうして障害を持った子が産まれたのか、因果関係をむなしく探ってしまうだろう。
そして子供の健康に対して異常なぐらい神経質になる。書店や図書館へ行くと、ふだんは見向きもしなかった医学書のコーナーを徘徊し、インターネットでは暇さえあれば「生存率 寿命 障害 後遺症」といったキーワードを検索する。
しかし地獄絵図のような混乱のあと、障害を持つ子が誕生したことによって、家族・親戚の結束は固くなる。父母だけではなく周囲の肉親も、この子を最後に守るのは私たちしかいないという思いに駆られる。産まれた子供のためなら命を削ってもいいと思う。
逆に家族の結束が固くなりすぎて、周囲の人から排他的な印象を与えることもあるかもしれないが、そんな世間の風評ははお構い無しに、障害を持つ子を中心に肉親たちは強固なバリケードを築く。そして子供を囲んで、家族には笑顔が出るようになる。
しかし親戚が去り、父親が仕事場に向かい始めると、母親は障害を持つ赤ちゃんと2人きりになる。乳幼児のうちから、子供の仕草の中に障害の痕跡を探してしまう。
1歳・2歳と年を経るにつれ、子供の障害があらわになる。そして成長しても言葉を上手く話せない子を持つ母親は、自分の愛情が子供にきちんと通じているか悩む。
母親は子供に精一杯の愛情を注ぐ。子供は笑顔で返す。しかし子供から「ママ」なり「おかあさん」といった言葉は欲しくないのだろうか? 言葉によって、子供が自分を親だと認識している証拠が必要なのではないか?
私がもし障害を持つ子を持ち、その子の口から「パパ」という言葉が出たら、嬉しくて気が動転するだろう。
障害を持つ子と1対1で接していると、親は途方もない孤独に陥ってしまうのではないか?
子供は自分を母親だと認識してくれているのか?
この子は私を残して先に逝ってしまうのではないか?
障害を持つ子に明るい未来はあるのか?
この先どんな途方もないトラブルがこの子に待ち受けているのか?
私は親になった経験がないから、その辺の心理はよくわからないから、多くを語れないのだが。
そして障害を持つ子が成長すると、家の外ではどう扱われるのか?
周囲の中傷や嘲りを浴びなければならないのか?
障害者に対して健常者が心無い不埒な行為をしないためには、幼少時の教育が肝心だ。これは我々の仕事である。
障害者を「ガイジ」などと言う餓鬼は、徹底的に叱りつければいい。障害児の姿を見て笑う奴には、顔が引きつるくらい怒鳴りつけてやればいい。自分の軽い言動がどれだけ人を傷つけるか、他人の苦悩を想像できない貧困な想像力を哀れんでやればいい。そして叱り付けた後で、障害者とその肉親がどんな重苦を背負っているか、きちんと諭してやればいい。
我々が生徒に学問を伝えるのは、子供を無知や偏見や貧乏から守り抜き、子供を幸福にするためだ。それ以外の目的は一切ない。知識を得て幸福になった子供は大人になって、知識を使って他人を幸福にする。医学を履修した医者は命を救い、音楽を糧とするミュージシャンは歌や演奏で聞き手の心を豊かにする。
だから障害者を笑い馬鹿にする子供を放任する教育者は、学問の本質を誤っている。何よりも先に子供には、他人を幸せにする術を教えなければならない。
ところで、ボランティアをやっている人に特に多いのだが、障害者を「弱者」と勝手に決めつけるのは考えものだ。おそらく無意識で悪意はないのだろうが、言動の端々に強者意識が滲み出ている人がいる。
障害者とその家族は他人に哀れんでもらいたいのではない、優しくされたいのでもない、同じ視線で見守って欲しいのだ。他人から弱者扱いされ、「かわいそう」と思われることは、誰にとっても大きな屈辱である。
障害児から話は逸れるが、介護士の若い女の子が、介護が必要な老人に対して、「おじいちゃん、お風呂入らなきゃだめじゃないの」とか、馴れ馴れしい口を利く。そんな口のきき方はいかがなものだろうか?
企業で部下から敬語で話しかけれることに慣れていたた老人が、リタイアして体が不自由になり、年端も行かない若い女性に介護され、ため口で語りかけられたらどんな気がするのだろうか? 私が老人だったら女の子のしゃべり方に強い抵抗を持つだろう。
若い介護士も何気ない自分の言動が、障害を持つ人やお年寄りに対して、知らず知らずのうちに「強者的」になっていないかどうか、改めて言葉の検証をする必要がある。介護者と被介護者のコミュニケーションが自然に成り立つような言葉遣いとはどんなものなのだろうか?
またたいていの健常者は、寝たきりの老人や障害者に対してどんな言葉をかけていいかわからない。繊細な感性を持つ人なら、自分の言葉で相手を傷つけないか絶えず気にしている。だから繊細で思いやりのある人ほど、自然と障害者に対して距離を置いてしまう。
賢明な人ほど、自分が障害を持つ子の親の立場にならない限り、絶対に相手の心境など理解できないことを悟っている。賢明な人間に距離を置かれて、障害を持つ子の親はますますひとりぼっちになる。
障害者や寝たきりの老人に対して、スムースにかけられるような言葉の開発は絶対に必要である。
子供が先天的な障害を持っていると医者に宣告されたとき、家族はどんな反応を示すのであろうか。夫はいつ、どういうタイミングで子供を産んだ妻に対して、子供に障害があるという事実を話したらいいのか強く悩むだろう。
また言ってはならないことかもしれないが、重度の障害だと、生まれてきた子供を殺すという悪魔のような選択肢が、いったん頭をよぎるかもしれない。コミック「ブラックジャックによろしく」では、子供を殺して欲しいと医者に頼む父母と、それを阻止しようとする若い研修医が、子供の生死を巡って火花を散らすという話があり、生々しい話で強く共感した。
それから、なぜ肉親に障害を持った子が生まれたのか、家族や親戚はそれぞれが自分のせいだと思い、過去のさかのぼって自らの中に原因を探し始める。
自分の遺伝子に欠陥があったのか、家の方角が悪いのか、身内が死んだ時に戒名代を安くケチった祟りなのか、常日頃の行いが悪いのか、前世の悪行の呪いなのか、とにかくどうして障害を持った子が産まれたのか、因果関係をむなしく探ってしまうだろう。
そして子供の健康に対して異常なぐらい神経質になる。書店や図書館へ行くと、ふだんは見向きもしなかった医学書のコーナーを徘徊し、インターネットでは暇さえあれば「生存率 寿命 障害 後遺症」といったキーワードを検索する。
しかし地獄絵図のような混乱のあと、障害を持つ子が誕生したことによって、家族・親戚の結束は固くなる。父母だけではなく周囲の肉親も、この子を最後に守るのは私たちしかいないという思いに駆られる。産まれた子供のためなら命を削ってもいいと思う。
逆に家族の結束が固くなりすぎて、周囲の人から排他的な印象を与えることもあるかもしれないが、そんな世間の風評ははお構い無しに、障害を持つ子を中心に肉親たちは強固なバリケードを築く。そして子供を囲んで、家族には笑顔が出るようになる。
しかし親戚が去り、父親が仕事場に向かい始めると、母親は障害を持つ赤ちゃんと2人きりになる。乳幼児のうちから、子供の仕草の中に障害の痕跡を探してしまう。
1歳・2歳と年を経るにつれ、子供の障害があらわになる。そして成長しても言葉を上手く話せない子を持つ母親は、自分の愛情が子供にきちんと通じているか悩む。
母親は子供に精一杯の愛情を注ぐ。子供は笑顔で返す。しかし子供から「ママ」なり「おかあさん」といった言葉は欲しくないのだろうか? 言葉によって、子供が自分を親だと認識している証拠が必要なのではないか?
私がもし障害を持つ子を持ち、その子の口から「パパ」という言葉が出たら、嬉しくて気が動転するだろう。
障害を持つ子と1対1で接していると、親は途方もない孤独に陥ってしまうのではないか?
子供は自分を母親だと認識してくれているのか?
この子は私を残して先に逝ってしまうのではないか?
障害を持つ子に明るい未来はあるのか?
この先どんな途方もないトラブルがこの子に待ち受けているのか?
私は親になった経験がないから、その辺の心理はよくわからないから、多くを語れないのだが。
そして障害を持つ子が成長すると、家の外ではどう扱われるのか?
周囲の中傷や嘲りを浴びなければならないのか?
障害者に対して健常者が心無い不埒な行為をしないためには、幼少時の教育が肝心だ。これは我々の仕事である。
障害者を「ガイジ」などと言う餓鬼は、徹底的に叱りつければいい。障害児の姿を見て笑う奴には、顔が引きつるくらい怒鳴りつけてやればいい。自分の軽い言動がどれだけ人を傷つけるか、他人の苦悩を想像できない貧困な想像力を哀れんでやればいい。そして叱り付けた後で、障害者とその肉親がどんな重苦を背負っているか、きちんと諭してやればいい。
我々が生徒に学問を伝えるのは、子供を無知や偏見や貧乏から守り抜き、子供を幸福にするためだ。それ以外の目的は一切ない。知識を得て幸福になった子供は大人になって、知識を使って他人を幸福にする。医学を履修した医者は命を救い、音楽を糧とするミュージシャンは歌や演奏で聞き手の心を豊かにする。
だから障害者を笑い馬鹿にする子供を放任する教育者は、学問の本質を誤っている。何よりも先に子供には、他人を幸せにする術を教えなければならない。
ところで、ボランティアをやっている人に特に多いのだが、障害者を「弱者」と勝手に決めつけるのは考えものだ。おそらく無意識で悪意はないのだろうが、言動の端々に強者意識が滲み出ている人がいる。
障害者とその家族は他人に哀れんでもらいたいのではない、優しくされたいのでもない、同じ視線で見守って欲しいのだ。他人から弱者扱いされ、「かわいそう」と思われることは、誰にとっても大きな屈辱である。
障害児から話は逸れるが、介護士の若い女の子が、介護が必要な老人に対して、「おじいちゃん、お風呂入らなきゃだめじゃないの」とか、馴れ馴れしい口を利く。そんな口のきき方はいかがなものだろうか?
企業で部下から敬語で話しかけれることに慣れていたた老人が、リタイアして体が不自由になり、年端も行かない若い女性に介護され、ため口で語りかけられたらどんな気がするのだろうか? 私が老人だったら女の子のしゃべり方に強い抵抗を持つだろう。
若い介護士も何気ない自分の言動が、障害を持つ人やお年寄りに対して、知らず知らずのうちに「強者的」になっていないかどうか、改めて言葉の検証をする必要がある。介護者と被介護者のコミュニケーションが自然に成り立つような言葉遣いとはどんなものなのだろうか?
またたいていの健常者は、寝たきりの老人や障害者に対してどんな言葉をかけていいかわからない。繊細な感性を持つ人なら、自分の言葉で相手を傷つけないか絶えず気にしている。だから繊細で思いやりのある人ほど、自然と障害者に対して距離を置いてしまう。
賢明な人ほど、自分が障害を持つ子の親の立場にならない限り、絶対に相手の心境など理解できないことを悟っている。賢明な人間に距離を置かれて、障害を持つ子の親はますますひとりぼっちになる。
障害者や寝たきりの老人に対して、スムースにかけられるような言葉の開発は絶対に必要である。