猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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「ALWAYS 三丁目の夕日」
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    アマゾンの「ALWAYS 三丁目の夕日」の映画紹介を抜粋する。

    昭和33年―日本はけっして裕福ではなかったけれど、人々は明るくきらめく未来に向かって懸命に生きていました。この年完成した東京タワーは、まるで人々から希望を託されたかのように、着々と天に伸び続け、完成のときを迎えます……。
    「ALWAYS 三丁目の夕日」は、そんなタワーを背景に、下町に暮らす個性豊かな面々が織り成す感動と希望の物語です。

    ・・・って紹介されても、あまり見たくないでしょ?
    なんだか、ありきたりの人情映画みたいで。「文部省選定」っぽいし。
    だから私も最初は食指が動かなかった。

    でも「ALWAYS 三丁目の夕日」は素晴らしい。観た後でもう一回観たくなる映画だ。

    良い映画の条件の一つは、「この映画の中の登場人物になりたい」と観客に思わせる映画だと私は思っている。「七人の侍」や「となりのトトロ」がそうだし、「ALWAYS 三丁目の夕日」も、観客が登場人物の一員に成りたいと切実に思わせる映画の系譜に連なる。

    まずCGが出色だ。昭和30年代の東京の風景をCGで丹念に再現している。リアルタイムで昭和30年代を体験した人や、或いはCGにウルサイ人には文句もあるだろうが、私みたいな一般の観客にとっては、昭和30年代にタイムスリップした気分を十二分に味あわせてくれた。
    特に蒸気機関車の白煙を盛大に上げる走りっぷりや、ゴロゴロ街を走る路面電車の存在感がリアルで驚いた。

    この映画のメインストーリーは、偏屈な小説家志望の駄菓子屋の30代の男が、ひょなことから男の子を預かり、子供に強い愛情を感じて優しい人間に変わってゆく、という話だ。
    偏屈で人嫌いな男が若者や子供と接することで、固い心が解き放たれてゆくという設定は、アルパチーノの名作「セントオブウーマン 夢の香り」とよく似ている。

    偏屈男を演じるのは吉岡秀隆。吉岡秀隆は最初、心がささくれ立った嫌な性格の男として出てくる。
    TVドラマの「Drコトー診療所」の後で観ると、コトー先生とは別人の吉岡秀隆に強い違和感を感じる。あのやさしいコトー先生が、素朴な純君が、「ALWAYS 三丁目の夕日」では自ら営む駄菓子屋に集う子供達に「お前らはスカだ。帰れ!」と怒鳴り上げているのである。コトー先生は絶対にそんなことはしない。
    いつもの吉岡秀隆とは丸っきり違う。

    そんな時、飲み屋で酔っ払ったはずみで、小雪演じる飲み屋の女将から、身寄りのない淳之介という男の子を預けられてしまう。淳之介は金持ちの妾の子で、またその妾に捨てられた子である。

    吉岡秀隆は美人女優にもてる役が多い。「北の国から」は宮沢りえ、「寅さん」は後藤久美子、「Dr.コトー」は柴崎コウ、今回の「三丁目の夕日」では小雪に惚れられる。
    小雪は蓮っ葉な女なのに清楚、清楚なのに蓮っ葉という役柄がキマッている。小雪のような固いイメージの女優が、ちょっとキツめなパーマをかけて、適度にクダけた役柄を演じると、色っぽさ満点である。

    吉岡秀隆に預けられた淳之介は、空想小説を書くのが好きな内面の深い子であり、捨てられた子特有な暗さがない、子供らしい男の子である。
    最初吉岡秀隆は淳之介を「お前は縁もゆかりも無い赤の他人だ」と邪険にしていたが、淳之介が自分が書いた少年小説のファンだと知り、物語が進んでいくうちに、父と子のような深い愛情で結ばれる。

    淳之介を演じる子役は本当に素晴らしい。「この子なら赤の他人だけど、父親と同じような愛情を注げるな」と思わせる子だ。
    吉岡秀隆は淳之介に父性的な愛を感じると共に、どんどん性格が丸くなり、映画の最後には結局いつものコトー先生になってしまうのが微笑ましい。

    自らの不遇を拗ねた偏屈男が、子供によって変わって行く過程が心地よい映画で、大人を変える子供の力は偉大だとつくづく思った。
    なんだか「教育は共育」という言い古された言葉が、リニューアルされて頭に甦った感じだ。
     
    | 映画テレビ | 12:46 | - | - | ↑PAGE TOP
    計算が苦手な子は「かけ算九九」ができない
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      計算能力は、学問の力の向上とは別の能力のような気がする。計算力は反射神経のようなもので、反射力を訓練すれば上がる。
      たとえば野球の守備も猛ノックで反射神経を鍛えればグングン上達するもので、計算力も怒涛の計算プリント攻撃でバリバリ向上していく。

      計算力に乏しい子は概して「計算反射神経」が遅い。意外かも知れないが、中学校レベルで計算力に難がある子は、実は「かけ算九九」に問題を抱えている子が多い。

      もちろん「かけ算九九」が言えない訳じゃない。親も本人も自分が「かけ算九九」がウイークポイントになっているなんて夢にも思っちゃいない。

      試しに計算の苦手な子に対して「しちは!(7×8の意)」と訊ねてみたらわかる。1秒以内に答えないと失格である。これが3秒以上かかるようだと、その子は計算を反射的にこなしていない。頭の中で意識しながら計算を解いている。

      計算が得意になると、指先に「計算反射神経」があって、脳を煩わせなくても指先の反射だけで説く感覚になる。わざわざ「かけ算九九」など意識していないものである。
      しかし逆に「7×8」の答が反射的に出てこない子は、計算を脳でやっている。

      たとえば「429×58」という3桁×2桁の計算も、苦手な子は「9掛け8はえ〜と72、2掛け8は16で、7と6を足して13、次はええと・・・」と計算の全過程を言葉に直しながら延々とやっている。
      シャープペンを持つ指先と脳との間の結構長い距離を、たった「429×58」という1つの計算で、神経というコードを情報が何往復もする。これではスピードも出ないし正確さも足りない。指先の反射神経だけでタタッと解けないのは、小学校時代の演習不足が原因の弊害なのか。

      とにかく「かけ算九九」は計算を反射神経だけで解くための便利なツールである。計算が苦手な子は「かけ算九九」まで思い切って戻る「度胸」が必要なのではないか。

      昔西武の広岡監督は、エラーが多いショートの石毛の守備力を確実なものにするため、石毛を家に呼んで部屋でゴムボールを転がし、ゴムボールをグラブの芯でつかむ練習を繰り返したという。
      どんな世界でも、悩んだ時は「そんなとこまで戻るのか」と疑問に思うぐらい基礎に返る作業が大事なのだろう。


      | 硬派な教育論 | 16:48 | - | - | ↑PAGE TOP
      俺はDrコトーだ!?
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        古いドラマの話になるが、ドラマ「Drコトー診療所」は、与那国島でキャストスタッフ籠って撮影しているらしい。


        吉岡秀隆は演技がうまい。「北の国から」や「寅さん」の子役時代から演技の基本線は変わっていないが、抑制した自然な演技が凄い。大好きな俳優だ。

        実生活の彼が家でどんなにDVだろうと、私は役者の彼を支持する。優れた役者には表裏一体の狂気がある。
        また余談だが「北の国から 初恋」のお札に土が付いたシーンは、TVドラマ史上最高のシーンの1つだと思う。

        ところで「Drコトー診療所」は離島で活躍する医者の話だが、コトー先生みたいに離島で塾をやっている人はいるのかな、とぼんやりTVを見ていたら、身近にいた。

        俺じゃん・・・

        私は広島県の向島という島で塾をやっている。島の子を相手に教えている。俺ってコトー先生じゃん、コトー先生と同じ境遇じゃんと少しいい気になった。
        勿論コトー先生みたいな力量はないが。
        それに、柴崎コウみたいな美人の看護婦はいない。来る気配もない。

         

        コトー先生は与那国島。日本最西端の島だ。台湾のTV放送が見られるという噂の島である。沖縄本島から飛行機で1時間以上かかる。石垣島や西表島より遠い正真正銘の離島である。気合の入った離島である。
        しかし私の島は、島といっても本土との渡船が4つも5つもあり、しかも船で5分もあれば着く。おまけに本土と島の間には橋が2本も架かっている。また塾長の私は仕事場は島だが、家は本土だ。同じ島といっても、全く本土と変わりはしない。ただ島の子供の素朴さは、与那国島の子と、あまり変わりないのだが。

        ところで「Drコトー診療所」はいい役者がそろって、しかも脚本・演出が良く、どの俳優も抑えた演技で素晴らしい。どの俳優もカメラの前で過剰な自己主張をすることなく、画面の中に見事に役に没入している。
        最近の日本のドラマはオーバーアクションが激しすぎるのだ。

        小林薫なんか森田芳光と組んで「そろばんずく」「それから」を撮っていた頃は狂気の人物をオーバーに演じていたが、今や素朴な島民として埋もれている。小林薫みたいな上手い役者が引いた演技をすると存在感が強くなる。
        あと筧利夫も時任三郎も、言葉数を抑えることで無口な島民になり切り、心に感情が溢れていても口下手で自分を表現できない愛すべき素朴な人物を表現している。

        Drコトー診療所」は、2シーズン放映されている。
        2003年」のシリーズは、話が深刻になっても基調に「ほのぼの感」があり、南国の温もりのある風が常に吹いていた。
        しかし「2006年」版は、妙にストーリーがディープで暗く、与那国島というよりサハリン島の物語みたいだ。物語の空気感が冷たい。

        特に時任三郎とタケヒロ君親子の話は、つらくて見ていられなかった。
        コトー先生に憧れるタケヒロ君は医者になりたくて、中学校から島を離れて東京の「開英中学」に一人通う。
        しかし父親の時任三郎は漁師を続けてもタケヒロ君の学費が稼げないので、沖縄本島へ働きに出る。しかし時任三郎は職場で事故を起こしてしまい、被害者から500万円の慰謝料を要求され、タケヒロ君の学資として貯金していたお金を失ってしまう。
        一方のタケヒロ君は東京で勉強に苦しみ、せっかく合格した中学を辞める一歩手前まで決意する・・・

        実は私も中学から地方を離れて東京の私立中学に通う過去を持つ、タケヒロ君と同じ境遇の少年だった。うちの父親も時任三郎と同じくかなり無理して学資を出していたし、私は東京の勉強が滅茶苦茶できる同級生たちを目にして、強く思い悩んだ。

        もちろんうちの父親は時任三郎みたいに格好良くはないし、私もタケヒロ君みたいに可愛らしい子供ではなかったが、自分の境遇とあまりにも似ているので、ドラマを見ていて自分の事のように思えてきた。

        中学から親元を離れて東京の中学に通う地方の少年なんて、ごく稀なケースだと思っていた。ドラマで自分と似た境遇の少年がテーマになるなんて思いも寄らなかった。だからどうしてもタケヒロ君には感情移入してしまう。

        でも幸いなことに、前回の「Dr.コトー診療所」はちゃんと「予定調和」の世界に戻っていて、タケヒロ君は村の奨学金という超裏技によって、学資の件は解決することになった。めでたしめでたし。

        さて、今日の本題は、コトー先生の吉岡秀隆の髪形についてである。

        吉岡秀隆の演技については賛否両論あろう。吉岡秀隆の素朴だけど、独特で強い粘着性を秘めたあの演技は、一部の人はアレルギーを起こし正視できないだろう。それは吉岡ファンの私でも理解できる。

        ただ視聴者の70%ぐらいは、吉岡秀隆の演技を良しと判断していると思う。そうじゃないと1から10まで吉岡秀隆ワールドの「Dr.コトー診療所」は視聴率を稼げないと思う。
        それに吉岡秀隆の演技にアレルギー反応を起こす人は、はなから吉岡秀隆のプロモ映像のような、吉岡秀隆出ずっぱりの「Dr.コトー診療所」なんか見ない。


        しかし、吉岡秀隆の髪形については、賛否両論どころか、誰もが否を唱える。
        コトー先生が好きな人でも、「あの髪型はちょっと・・・」と思っている人が大半だ。
        Dr.コトー診療所」は仮にも天下のフジテレビの看板ドラマであり、その主人公の髪型にはテレビ局も細心の注意を払う。その結論があれなのだろうか。

        あの吉岡秀隆の髪型は、吉岡秀隆の普段の髪型なのか?
        それともヘアメイクさんと吉岡秀隆の競作なのか?

        Dr.コトー診療所」のヘアの打ち合わせの時、ディレクターとヘアメイクと吉岡秀隆の間で、
        ディレクター「コトー先生のキャラは髪型に頓着しない人だから、いかにも美容院で丁寧にセットしました、という髪型はやめましょう」
        吉岡秀隆「うん、そうですね、ナチュラルな雰囲気で。ちょっとものぐさっぽい方がいいな」
        ヘアメイク「じゃあ、こんな感じで・・・」
        という会話が交わされたのだろうか?

        でもあの髪型はナチュラルどころではなく、極めてアブノーマルである。自然な感じの髪型を目指したのだろうが、逆に異常に自己主張の強い髪型になってしまっている。原作のコトー先生の髪型とも明らかに違う。
        コトー先生は名医で「手術は、無事、成功しました」という台詞が視聴者をホッとさせるが、逆に髪形については「散髪は、残念ながら、大失敗しました」と言わざるを得ない。

        テレビに出演する有名人には、何よりもまず髪型の印象の強い人がいる。たとえば竹村健一とか江畑謙介とか横山ノックとかパンチョ伊東とかキダタローといった面々である(後者2人は髪型ではなく「カツラ型」だが)
        吉岡秀隆はまだ、竹村健一や江畑謙介のような神の領域には達していないが、あのコトー先生の髪型を見ていると、異常性への傾斜を読み取れる。竹村江畑路線を目指しているのだろうか?

        10年後の「Dr.コトー診療所 2016」では、医大生のタケヒロ君を助手に従えたコトー先生は、まだ島の診療所を続けているのだろうが、コトー先生に憧れる医大生タケヒロ君は髪型にまで憧れ「コトーカット」にして、師弟2人してあの奇妙な髪型で診療所にいるのだろうか?

        コトー先生は仕事が医者で、「Dr.コトー診療所」だから患者さんもたくさん来るが、コトーが床屋で「Dr.コトー理髪店」だったら、客は皆あんな髪型にされると恐れをなし、やって来ないに決まっている。

        そういえば「Dr.コトー診療所」は「北の国から」の流れを汲む番組である。「北の国から」の主人公の田中邦衛も、晩年は猛烈に偏屈なオッサンになった。
        吉岡秀隆が、あんな風にならなかったらいいのに。








        ★開成塾
        尾道市向島・素朴な子供が集まる、「凛」とした学び場











        | 映画テレビ | 16:49 | - | - | ↑PAGE TOP
        高校数学・受験前には「佐藤の数学」
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          この原稿を書くために、塾にある数学の参考書・問題集をいろいろ読み返した。
          結論から言うと、塾の手助けなしに「自学自習」できる中学生用の数学参考書・問題集は、おそらくない。

          「できる子」なら「高校への数学」シリーズをやればよかろう。数学が得意な子にとって、自学自習できる最高の本である。
          だが私が塾の講師だから言うのではないが、中学生が数学を究めるためには、塾や家庭教師の強いフォローが大いに必要なのだ。
          どんなに凄い参考書・問題集ができても、そこに「人間」が介在しないと学問は定着しない。

          自慢するようで恐縮なのだが、うちの塾の生徒は、数学が比較的得意である。しかし参考書だけの「自学自習」では今のような成果は全くあげられなかったに違いない。

          私に「お前どうしてこんな難しい問題解けたの? よくまあこんな補助線思いついたなあ!」といった心地よい驚きを与えてくれる天才を除いて、ほとんどの子は私の指導がなければ、数学は得意にならなかっただろう。塾はダテに教科指導でお金を頂いているわけではないのだ。それは数学の指導に自信のある、どの塾の先生方も思っていらっしゃるに違いない。

          私が授業で説明して、彼らが問題を解いて、わからないところを質問させる。授業で学んだ解法の思考回路を確実に定着させるため、家庭での宿題を要求する。
          そして1週間後に1回、1ヵ月後には2回と、似たような問題の反復演習を行い、しつこく定着を狙う。子供の記憶力を信用してはならない。宿題チェックという「強制力」も大いにはたらかせる。
          ありきたりの方法を確実に執念深く繰り返すことで子供の成績は向上したのだ。参考書や塾のテキストは素材に過ぎない。

          というわけで家庭では、「この1冊の参考書・問題集で、数学は全部解決」というわけにはなかなかいかない。
          私が紹介する本が役に立つのは、おそらく数学のすべての単元を、1通り塾で履修した受験前の時期である。

          というわけで、私が評価する数学の問題集をいくつか紹介するが、間違ってもそれだけで数学を伸ばそうという気はおこさないで頂きたい。
          自学自習で成績が伸びたつもりでいても、塾で学ぶ子はもっと深いレベルでの理解をしているものなのだ。

          あくまで問題集は塾の授業の補完的なものであり、それ以上のものではない。繰り返すが、問題集だけで数学が勉強できるのは、数学の天才か、極めて精度の高い読解力を持つ子どもに限られる。

          まずチャート式数学(数研出版)について。
          ご存知チャート式の中学版である。

          高校生が使う、大学受験用のチャート式は、大学受験の数学参考書では抜群の売れ行きを誇る。
          チャート式は大昔からある参考書だが、ブランドに甘んじることなく、使いやすさの改善に抜かりはない。

          ちなみに私の知人はチャート式を出版している数研出版のライバル会社で働いているが、数学の教科書・傍用問題集については、数研出版の牙城を潰すのは並大抵のことではないらしい。
          現場の数学の先生の、数研出版に対する信頼は絶大だという。数研出版は数学教科書・学習参考書界のマイクロソフトなのである。

          爆発的に売れるだけあって、チャート式はさすがによくできている。
          1ページの構成は、上3分の1が例題、中3分の1が例題の詳しい解説、下3分の1は類題(この解答は別冊になっている)。
          この構成は数学の参考書の王道であり、非常に勉強しやすい。

          また高校生用のチャートはレベルに合わせて赤チャート、青チャート、黄チャート、白チャートと4段階に分かれているので、自分の学力に応じたチャートを買うことができる。

          確かにチャート式には細野真宏の「面白いほどわかる本シリーズ(中経出版)」や、東進の「はじめからていねいに実況放送シリーズ(東進ブックス)」のような、話し口調独自の面白味はないが、その代わりにオーソドックスな安定感がある。

          私がもし自塾で高校部をやるのなら、教材は絶対にチャート式を使うだろう。

          生徒の学力レベルに合わせたチャートを使えるし、一番使用されている参考書だという安心感もあり、何と言っても問題が他の参考書に比べて質量ともに豊富なのである。
          解説も昔のチャートはあまり詳しいとはいえなかったのだが、改訂が進むにつれどんどん詳しくなっている。今のチャートは問題編と解答編のページ数は同じぐらいである。

          では、チャート式の中学版はどうであろうか?
          これが正直言ってイマイチなのだ。

          中学生のチャート式は高校生のチャート式のように、4つのレベルに分けるという贅沢な編集はしていない。
          それは仕方ないことだとしても、中学生用のチャートは、問題構成がとても雑なのだ。

          中1のチャートの、「1次方程式の応用」の章を例にとろう。
          1次方程式の応用とは、1次方程式を使った文章題のことである。

          ご存知のように、中1で履修する数学の最初の3分の1は、ほとんどが計算問題である。
          正負の数→文字式の表し方(a×bをabと書き表す約束事の理解)→1次方程式の計算
          という具合に、2学期の中間試験ぐらいまで、延々と計算問題だけが続く。

          (余談だが、この延々と計算問題ばかりが続く時期、私の塾では「公文式ごっこ」と称して、計算プリントをたくさん刷って生徒に教室でやらせて、採点赤マルつけおじさんになる。授業は必要最低限しかやらない。個人の達成度に応じたプリント演習が、この計算だらけの時期には一番効率的なのだ。プリントの進度が競争心を高めるし、しかも学力に応じた指導ができる。)

          しかし1次方程式の文章題から様相は一変する。計算ばかりの、単純労働の時期は終わりを告げる。
          1次方程式の文章題は、中1になって最初に「頭を使う」単元である。要するに「公文的」ではなものだ。

          さて、チャート式中1数学「1次方程式の応用」の章で、最初に出てくる文章題は、
          「2けたの正の整数がある。その整数の一の位の数は十の位の数より3大きい。また、十の位の数字と一の位の数字を入れかえた整数は、もとの整数の2倍より9小さい。もとの正の整数を求めよ。」
          という問題である。
          これは1次方程式の文章題の定番中の定番の問題であるが、いきなりこんな難しい問題をやらせていいのかと思う。

          1次方程式の文章題では、式の作り方が生徒を一番悩ませる。
          中学受験でバリバリに難解な文章題を解いてきた子でも、文章題を方程式で解くことに最初のうちは戸惑う。
          わからない数(未知数)を「x」と置くやり方は、「脳味噌の構造改革」と比喩してもいいほど、思考法の転換を迫られるのだ。

          ちなみに上記の問題の式は、
          10x+(x−3)=2{10(x−3)+x}−9
          というものであるが、最初からこんな複雑な式を作ることを、子供に要求することは無理だ。いきなりこんな難しい問題からはじまる参考書は、どこか間違っている。

          ついでにもう一つ言わせてもらうが、次のページはもう速度の問題である。
          速度や割合や食塩水の問題は難しいので(中学受験経験者と未経験者で、速さと割合と食塩水の問題の理解度は悲惨なぐらい差があるのだが)もう少し方程式作りに慣れてから始めても遅くはないのである。
          中学のチャート式は、速度をやらせるタイミングが早すぎる。

          しかも最初から、こういう難しい例題でから始まっている。
          「花子は登校する時に、弟を幼稚園に送りとどけている。弟と一緒に7時45分に家を出て、学校の前を通り過ぎ、幼稚園に着くとすぐに折り返し、8時12分に学校に到着する。家から学校までの道のりは1kmで、また、弟と一緒のときは毎時4kmの速さで歩く。幼稚園から学校までの道のりを方程式を立てて求めよ。」
          こんな問題は方程式初心者には解けない。

          この参考書、はしがきには「一歩一歩着実に学習することによって、いつのまにか難問にも十分手の届くような力が身についてきます」と書いてあるのだが、最初からこんな難問では一歩一歩着実もありゃしない。

          1次方程式の応用問題は、ただでさえつまずきやすい単元なのだから、授業にしても参考書にしても、導入部分は安全運転が望ましい。
          どんなに勉強ができる子を相手にしても、
          「ある数を4倍して7をひいたら25になった。ある数を求めよ。」
          というレベルの、簡単な問題をまず導入として使うべきなのだ。

          赤ちゃんには母乳→離乳食を与えて、それから本格的な食事を与える。
          母乳と離乳食の段階は絶対置かなければならない。
          いきなり麺の太い、豚の背油がたっぷりかかったギトギトラーメンを赤ちゃんに与えることはできない。

          私は段階別に、簡単な問題から難しい問題に、緩い坂道を登るような問題構成の参考書・問題集が好きである。
          問題を解いて、気がついていたら知らないうちに高い場所に登っている。そんな導き方をする学参が好きである。
          そんな参考書は存在するのだ。

          そんな優れた本が、
          「入試によくでる数学 標準編」
          「入試によくでる数学 有名高校編」
          佐藤茂(ニュートンプレス)
          である。

          中学生の数学学参の中で、高校のチャート式の良さを正統的に受け継いでいるのが、「佐藤の数学」と呼ばれるこの本である。
          「佐藤の数学」は公立中学受験用の「標準編」と、難関高校用の「有名高校編」に分かれており、そのあたりの良心的な編集が好ましい。

          私は「佐藤の数学」を凄く気に入ってはいるのだが、最近までこの本をマイナーで売れない(失礼)参考書だと思っていた。
          ニュートンプレスという出版社名もなんだか怪しい。
          なにせ啓文社は私が佐藤の数学を買ったら、半年ぐらいは品切れのままだし、広島の大書店であるフタバ図書にもジュンク堂にも紀伊国屋書店にも、この本は本棚の片隅にしか置いていない。

          ところが先日東京へ行ったら、「佐藤の数学」は紀伊国屋書店や三省堂や書泉グランデの一番目立つところに、並み居る有名な参考書と拮抗しながら堂々と大量に平積みされていた。やはり東京の中学生は目が肥えているのだ。

          さて、この参考書を使うようになった動機をお話しする。
          5年前にうちの塾生で、難関高校へ入学するためには数学がどうも苦手な子がいて、非常に悩んだことがあった。本人も数学には悩んでいたし、私も彼の悩みを根本的に解決することがイマイチできず、非常にあせっていた。
          彼をバッターにたとえれば、バッティングピッチャーが投げるド真ん中の甘いストレートはちゃんと打てるが、実戦での一流ピッチャーが投げる手元で伸びる速球や、鋭い変化球は打てない。そんな状況だった。
          学校の定期試験は確実に90点以上取れる。しかし模試になるとよい結果が出ない。「基礎」と「応用」の狭間で苦しんでいたのだ。

          彼を呼んで、とことんまで一緒に数学の補習がしたい。しかし基礎と応用の狭間で苦吟しているこの男を伸ばすための良い教材が思いつかない。私と彼の数学猛ノックのための、気に入った道具が欲しかったのだ。

          もちろん私達が使っていた塾用教材を繰り返すという手もあった。私の塾の授業では、教育開発出版の「新中学問題集」を使用している。同じ教材を反復することが、学力向上のために素晴らしい効果を上げることは私も十分承知している。この塾用教材は申し分ないものなのだが、いかんせん反復するには量が多い。

          それなら私が彼にやらせる問題を絞ってピックアップしてもいいが、どうも気が乗らない。私が教材を作ってもいいのだが、私は完璧主義で、そういう作業をやり始めると周囲が見えなくなる。何か新しい頼れる教材で、一からビシッと数学をやり直したいという気持ちが、私にも彼にもあった。

          そこで教材探しである。甘いド真ん中ストレートだけの、基礎だらけの問題集や、教科書ワークなど腐るほどある。必要ない。
          バッターを震撼させる速球対策、及びシュート・フォーク・パームボールなど肉をえぐり取るような、鋭い変化球対策のための難問中心の問題集も「高校への数学」シリーズなど、素晴らしいものが数多くある。しかし今の彼には不適切である。
          彼に合った、基礎と応用の架け橋になるような問題集はなかなか見つからなかった。

          それで何か良いテキストがないかと広島の大手書店を回って、「これもだめ、あれもだめ」と探すのに苦労しながら、やっとたどりついたのが佐藤の数学である。

          この本は最高だった。
          本屋に並んでいる数多くの中学生用問題集や参考書は、ただ問題を無造作に選んで解説しているだけなのだ。編集のポリシーがあまり感じられない。

          傲慢な言い方を許していただけるなら、そこらの入試問題から問題を適当に選んで、解説を添えるぐらいなら私にだってできる。商品として売る以上、消費者に「俺にも作れる」なんて思わせてはダメだ。

          そんな状況下で、この本を見つけたときは狂喜した。本屋の書棚から美味そうな匂いがした。佐藤の数学は、粗製濫造のいい加減な学参とは一線を画していた。

          私が一番惚れたのは問題パターンの分類法。これが独特で理にかなっているのだ。
          標準編では、円・三平方の定理・2次関数・因数分解・2次方程式などという普通の分類と並行して、最短距離・展開図・重心・内接円・外接円・図形の回転・等積変形・折り重ねた図形・4点を通る円・方べき・相似と折り重ね・軌跡、といった具合に問題パターンがかなり細かくバリエーション豊かに分類され、それぞれに1ページを割いている。
          数学に詳しい人ならわかってもらえると思うけど、そこらあたりが、かっこいい。

          また難しい有名高校編では、メネラウスの定理・チェバの定理・トレミーの定理など、図形問題を解く上で魔法のような効果を示す定理の説明と演習にそれぞれ1ページをとっている。
          メネラウスのような、実践的に使える秘儀的な定理を重点的に「これみよがしに」習得させたい現場の人間にとっては、こういうページ編成は非常に便利である。

          「佐藤の数学」は、問題パターンが異常なほど綿密に分類されており、まるで本が几帳面に整頓されている図書館や書斎のようで、使いやすいのだ。この本を見ると、他の参考書は芸がなく、問題がただ無造作に並べられている代物にしか見えない。

          それに、ほどよい問題量、基礎と応用の間を取り持つような絶妙な問題の質、色刷りではない黒い活字の無骨なデザイン(私は教材は黒だけのシンプルなものが好きだ)も好ましい。

          さらに図形に多くのページ数を割いている。
          このあたりの編集方針も、図形問題で合否が左右される、私の近所の高校の入試問題の実情を踏まえていて安心できる。
          日々現場において、生徒と数学で格闘している講師のニーズを汲み取った編集である。

          各ページの問題配列もなかなかのものである。
          佐藤の数学はチャート式と同じく、1ページの上3分の1は例題、中3分の1は例題の解説、下3分の1は例題を踏まえた類題トレーニングと3つのセクションに分かれている。
          類題トレーニングは、各ページ3問から4問。
          例題→類題トレーニング1→類題トレーニング2→類題トレーニング3・・・ と、難易度がスロープ状に、基礎から応用へと無理のない自然な配列がなされている。
          実際にやってみるとわかるが、飛行機が滑走路から上空へ滑らかに心地良く飛んでいくような気分がするのだ。

          問題を基礎から応用まで自然に段差なく配列する作業が、いかに慎重できめ細かい神経が必要なことか。
          ここにも編集の「腕」を感じる。

          今うちの塾では「佐藤の数学」の標準編と有名高校編のうち、標準編を中3の2学期から、塾の授業以外のサブテキストとして大いに活用している。
          中1・中2で習ったことの復習と、入試問題を解く力、両者を欲張って高いレベルで鍛えることができる。
          高校合格のために、中学校の数学を総復習するには、うってつけの教材なのだ。

          広島県の入試問題は、数学が50点満点で、6割(30点)あれば結構どこの公立高校でも合格できる。
          数学の問題構成は、基本問題が6割、応用問題が4割というところだろう。
          佐藤の数学の「標準編」をやれば、6割の基本問題の足固めになるし、「有名高校編」をやれば残り4割の応用問題の足がかりになる。
          「佐藤の数学」、非常に重宝している。

          特に標準編は文句なしにすばらしい。
          基礎から応用までの架け橋になる参考書は、分量が異常に多い塾用テキストを除いては、そうざらにはない。必要最小限の問題数と、独創的で理にかなったパターン分類で、効率のいい指導ができる。

          有名高校編は確かによくできているが、難関高校受験用の良い参考書・問題集は群雄割拠で、粒が揃っている。だから必然的に有名高校編はone of themになってしまう。
          もちろん有名高校編も素晴らしいのだが、標準編の出来がよすぎる。標準編は基礎から応用の足場を築いてくれる、希少価値のある参考書なのだ。

          「佐藤の数学」にも問題点はある。まず中学校で習う順番をさっぱり潔く無視している。たとえば問題が載っている順番は三平方の定理よりも円のほうが後である。この配列はかなり異様だ。教科書との併用で使おうとすると、かなり使いづらい。もちろんそういう点も、私には革新的な配列に映り、好ましいのだが。
          そして最大の弱点は、新指導要綱に対応していないこと。高校入試に出ない不等式や接弦定理が掲載されているので、その部分を端折ってこなさなければならない。そのへんが不便だ。

          また解答解説はさほど詳しくない。もちろん的確な解説だが、もう少し解答解説に遊び心とふくらみを持たせてもいいかなと思う。ただ、自学自習には完璧とはいえないが、信頼できる指導者がついていれば、「佐藤の数学」は大きな力を発揮するはずだ。

          余計なことかも知れないが、私が家庭教師派遣センターのボスなら、受験直前には学生アルバイトの家庭教師たちに「佐藤の数学」を持たせて、指定テキストとして使用するだろう。

          最後にひとこと。
          何が良い参考書かと子供に聞かれて薦める場合、薦める側に「この参考書は信頼できる」という確信がないといけない。
          講師に確信がないまま何となく薦められた参考書では、子供達も勉強に身が入らないはずだ。
          講師が「絶対これしかない。この本やったら大丈夫」という言葉を添えて薦めると、子供は安心感を持つ。子供は本を信じる。

          「佐藤の数学」は自信を持ってお薦めできる参考書だ。
          掛け値なし、真のプロの仕事である。
          | 高校受験 | 12:52 | - | - | ↑PAGE TOP
          塾に看板を作るべきか
          0
            来年から高校部をやる。心機一転、塾をリニューアルしなければならない。
            私の塾の1階はカラオケ喫茶、横のビルはバーやスタンドが入居した雑居ビルで、教育的環境とは程遠い。明らかに塾の立地ではない。

            塾の名前も適当で、どうして「US塾」なのかわからない。私の方こそ知りたい。ただ「US塾」という名はいかにも英語塾らしい名前である。もとよりUS塾という名をつけたときには、高校英語をやるなんて考えてもいなかった。偶然の計らいである。

            またうちの塾には看板がない。一応「ここは塾ですよ」とアピールするために赤いフィルムで窓に「US塾」と張っているのだが、われながら怪しい雰囲気だ。
            もし反米の北朝鮮やタリバンの部隊が向島に上陸してきたら、「US」の文字を見て、アメリカの秘密基地と勘違いするかもしれない。北朝鮮やタリバンが島を攻めたら、真っ先にうちの塾は攻撃目標にされるだろう。

            それにフィルムを張ってから10年は経過しているので、日光のために赤色が黒ずんでしまい、文字が汚らしくなっている。
            この前うちの塾のOBの大学生に会ったら、「先生、塾潰れたんですか?」と言われた。窓に張った「US塾」の文字が消えかかっているので、勘違いしたらしい。
            外観を客観的に見ると、どう見てもうちの塾は場末の潰れた塾である。やっぱり看板ぐらいは作らなければならないのだろうか?
            塾のコンサルティングをやっている人が見たら、絶対に私は強いお叱りを受けるだろう。

            確かにうちは変な塾だが、私には讃岐うどんの名店の立地を真似したい気持ちがある。奥まったところに看板もなくひっそりと佇み、中を見ると外観のみすぼらしさと裏腹に地元の客で賑わっている。そんな塾にしたかった。
            また高田馬場に「がんこラーメン」という変なラーメン屋があるが、この店も看板はなく、アルミのサッシは黒ラシャで覆われていて、絶対に中でラーメン屋を営業しているなんて思いもしない。ただ営業中には外に牛の骨が掛けられ、牛の骨が営業中の目印になっている。
            うちの塾の外観も、授業中には頭蓋骨でも掛けたら似合いそうな雰囲気を醸し出している。

            それじゃあマズイということで、看板を作ることにした。
            でも普通の看板は嫌だ。「Drコトー」は診療所の屋上に島の子供達手作りの大きな旗を掲げている。「Drコトー診療所」の文字も子供達の手書きである。うちの塾も真似しようかしらん。

            ただ、コトー先生風の手作りの旗は「子供との愛情が感じられる素朴な旗」と受け取られればいいが、「金がなくてケチって作った貧乏臭い旗」と見なされる可能性が高い。
            やっぱり普通の看板にした方が無難か。
            | 塾の様子ガラス張り | 12:55 | - | - | ↑PAGE TOP
            「勉強のやり方がわからない」は禁句
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              成績の伸び悩んでいる子は、よく「勉強のやり方がわからない」という台詞を口にする。
              正確に言えば懇談会の席で、お母さんが「子供が『勉強のやり方がわからない』と言うんです」という事をおっしゃるケースが多い。

              古い考え方かもしれないが、私は勉強ができるためには「欲望」が第一に必要だという考えに与する。
              勉強がしたくてたまらない、勉強が楽しくてしょうがない、勉強ができるように絶対なりたいという気持ちがあれば、「やり方」なんてバンバン思いつくものだ。
              「やり方がわからない」というのは、自分の向学心の欠如を棚に上げた、甘えきった言葉である。
              モチベーションの低さを、方法論の問題に置き換えてはならない。

              だって自分が得意な分野に関しては、「やり方がわからない」ことイコール楽しみじゃないですか。
              プラモデル好きにとってはハードな組み立て方を要求するプラモデルは挑戦心をかき立てるし、釣り師にとって「幻の魚」を追い求めることは心のロマンをくすぐるし、数学者が「200年誰も解いたことのない定理」を解く事は野心を呼び覚ますし、目標に対するモチベーションさえあれば、「やり方」を考えることこそが喜びに他ならない。

              「やり方がわからない」という台詞は惨めだと思わないか?
              たとえは悪いが、童貞の若者が、口説きに口説いて好きな女の子をホテルに連れ込み、部屋に入ってさあこれからという時に「俺、やり方がわからないよ」と言ったら究極に情けないでしょうが。
              「やり方がわからない」と、据え膳食わずに帰るのか? そんなことできやしない。
              強い欲望さえあればやり方なんか、正常異常含めていくらでも思いつくに決まっている。

              「やり方がわからない」という言葉で逃げてはならぬ。
              | 硬派な教育論 | 11:30 | - | - | ↑PAGE TOP
              公文は計算機製造工場
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                単純に計算力をつけるなら、私は公文が一番いいんじゃないか、と思う。
                公文なら思い切って自分の苦手な箇所から履修できる。

                確かに中1の子が小4の小数計算のプリントから始めろと言われたらプライドは傷つく。
                公文の教室ではでっかい身体の自分が小数の割り算やってるのに、横で小4のガキが方程式をスラスラ解いている。公文はそんなところが残酷だ。
                そんな屈辱的な状況は「いじめ」の原因にもなりかねないが、一生計算ができないよりはましだ。

                また小4の時につまずいた箇所も、中1になると脳の力も成長しているから、「俺、こんなことがわからなかったのね」と簡単に理解できるケースが多い。
                勇気を出して思い切って基礎に戻ることは大事だ。

                公文でプリントをこなすと、子供の計算力は明らかに速くなる。私も小学5年・6年の頃には公文に通っていたが、計算が速く正確になってゆくのが実感できた。
                とにかく公文に行くと計算機のように計算が速く正確になるのは事実だ。素晴らしいシステムだと個人的には思う。

                うちの塾生にも、公文に小学校の時から通っていて、計算力が図抜けた中1生がいた。
                他の生徒が計算問題をまだ解いているのに、彼だけは時間の半ばあたりには計算を解き終わり、涼しい顔をして待っている。とにかく公文で製造された計算機みたいだった。

                しかし、文章題や図形や関数になると状況は一変した。彼は計算以外は全くと言っていい程できなかった。
                計算という直球は軽々打てるが、ちょっと文章題で変化をつけるとブルブル振り回すだけでバットにボールが当たらない。
                彼の頭脳はまさにカシオの電卓と同じで、計算は解けるが文章題や図形には対応できなかったのである。

                彼がもし公文に行ってなかったら、文章題や図形はもとより計算すらできない能力しか持っていない子だったのか? 公文の力で計算だけは反射神経で身に付けることができたのだろうか? それなら計算力だけでも伸ばした公文は偉大だと思う。

                しかし、あまりにも公文で「計算反射神経」の訓練を特化するあまり、文章題や図形や関数を解くために必要な脳の一部分を、計算力が悪性細胞のように侵食しているんじゃないかという意地の悪い見方もできる。私は脳の専門家ではないから素人の推測に過ぎないが。

                とにかく私の長年の体験上、計算力が図抜けている子に、文章題や図形問題がからっきし解けない子をよく見かけることは事実なのだ。
                計算と文章題の間に断崖絶壁が立ちはだかり、両者を繋ぐ橋を架けるのに凄まじい困難を伴う。

                公文で製造された計算機に、文章題や図形や関数の機能を取り付けるためには、どうすればいいのだろうか?
                | 中学受験 | 13:38 | - | - | ↑PAGE TOP
                尾道北高と東高、どっちを選ぶ?
                0
                  広島県の公立高校で最も入学が難しい高校といわれる、尾道北高の入試説明会に行ってきた。北高は上り坂の学校で、入試実績も確実に伸びている。

                  北高は国公立の大学入学率が60%を越えたらしい。4〜5年前までは30%ぐらいの数値をうろうろしていたのである。広島県は5〜6年前までは公立高校不毛の地とされていて、中高一貫の国私立の学校に子供を入れないと、正直言って大学進学がおぼつかなかいと言われていたのだが、確実に状況は変わってきているようだ。

                  広島県は公立高校の伸びがここ数年著しい。というか昔がひどすぎた。5〜6年前まで広島県の教育長はあの寺脇研氏だった。
                  広島県では「寺脇学力崩壊ゆとりワールド」が全国に先駆けて繰り広げられていたのである。そのおかげで広島県の公立学校の信頼は地に堕ちてしまった。

                  幸いなことに寺脇氏が文科省に帰還して、全国の公立学校を「ゆとり教育」で混乱させている間に、寺脇氏が去った広島県ではひそかに公立高校のパワーアップが実現したのである。

                  北高のほかにも尾道には尾道東高がある。北高・東高というのが、僕の塾の9割以上の生徒が目指している学校なのだが、この2つの学校は性格がまったく違う。

                  5〜6年前まで広島県の公立高校は「総合選抜」という奇妙な選抜制度が行われていて、普通科を目指す中学3年生の子は、尾道北高・東高のどちらに入学できるかは抽選で決められていた。だから北高に入りたい子が東高に、東高に入りたい子が北高にと、生徒側に学校の選択権はなかった。

                  そうした事情から総合選抜時代には、北高・東高のレベル差はそんなになかった。しかし高校を自由に選べる単独選抜になってから、大学合格実績は天地の差がついてしまった。北高は難関大学合格者の数が大いに伸びて、東高は逆に落ち込んでしまった。

                  うちの塾の卒業生の進学実績を見ても、北高に合格した子は予想通りもしくは以上の難関大学に合格しているが、東高に通った子は不本意な結果に終わった子が少なからずいる。

                  北高の先生は厳しいが筋の通った方が多い。また学校ぐるみで厳しい指導をしている。北高に通っているうちの塾のOBは誰もが「北高の先生は厳しい」と口を揃えて文句を言っているが、「でも熱心だろ?」と尋ね返すと「はい」という答えが返ってくる。しかし東高の先生は全般的にそうではないようだ。

                  だから子供の将来を案じる保護者の方や、塾の講師は子供を北高に入れたがる。厳しい北高に子供を「監禁」したら安心するのだ。

                  私も教え子が北高に入学したら安心する。できることなら教え子は北高に入れたい。しかしもし私自身が行くなら絶対に東高だ。強制されるのが大嫌いな私が北高へ行ったら、先生とトラブルを起こしかねない。私みたいに「勉強を押し付けられるのはいやだ。」と考える子や、「高校生活をエンジョイしたい」と言ってはばからない子は、北高よりも東高を選ぶケースが多いようだ。

                  そこで私は「親が行かせたい北高、子供が行きたい東高」というコピーを作った。塾の父母懇で僕がこのコピーを披露すると、お母さんの間から爆笑の声が上がる。

                  また猛烈に勉強ができる子は、自由な校風の附属福山高校に逃げる手もある。ただ中学時代に猛烈に勉強する必要はあるけれど。







                  ★開成塾・高校受験
                  尾道市向島・尾道北高・東高をめざす塾










                  | 高校受験 | 13:24 | - | - | ↑PAGE TOP
                  尾道近辺で一番成績が伸びる高校
                  0
                    私は16年間この仕事をやって来て、1000人を超える教え子と接してきた。
                    私は中学校までしか教えていないが、卒業した塾生が高校3年間、あるいは中学受験の子だと中学高校6年間でどういう成績の伸びを示したか、情報が入ってくる。
                    そんな情報から得た結論。結果だけ書く。

                    一番伸びるのは北高と暁の星(ここ数年は凋落が激しいが)。それに次ぐのが如水館特進と附属福山。
                    ずっと落ちて東高、近大附属といったところだろうか。

                    北高は実質学力別にクラスが分かれているので効率のいい学習ができる。ここ数年で急激にパワフルになった。暁の星は昔から定評のある指導をしている。

                    如水館特進は生徒数が少ないのでキメの細かい授業ができる。
                    附属福山はもともと入学する生徒の素質が違う。しかし中学から入った子の中には、中だるみと過度の中学受験の後遺症、また中学に入学して自分より遥かにできる子に遭遇したカルチャーショックから、勉強をドロップアウトする子も少なくない。

                    東高も、自分から進んで勉強できる子にとっては、とてもよい学習環境である。きちんと結果を出す子もいる。周囲があまり勉強でカリカリしていると、逆にやる気がそがれる子もいるのだ。
                    ただ、東高に入って成績ガタ落ちな子が数多いのも、紛れもない事実である。
                    | 高校受験 | 13:00 | - | - | ↑PAGE TOP
                    メロンパンの名の由来
                    0
                      塾の自習室で、なぜメロンパンはメロンパンと呼ぶのか、名前の由来の話になった。
                      さっそくWikipediaで調べる。そこには、

                      名称の由来
                      名前にメロンと付くが、メロンが原材料に使われているわけではない。名前の由来は、表面のビスケット生地に数本の筋や格子状の溝が入れてある様がメロンの模様に似ているため、との説が主流である。しかし、他にも「メレンゲパン」が訛ってメロンパンになったという説や、生地の中に実際にメロンフレーバーが加えられていたためそう呼ばれるようになったとする説もある。

                      との説明があった。なるほど、納得。

                      メロンパンの項目を読み進めていくと、関連項目にこんな記述があった。

                      メロンパンにまつわるエピソードが描かれている作品

                      アンパンマン(漫画・アニメ)
                      この作品に登場するキャラクター・メロンパンナは、メロンパンがモチーフ。しかし、アンパンマンのように頭が吹っ飛び、変わることはなく、一生同じ頭をしている。


                      「一生同じ頭をしている」か・・・
                      自習室メンバー一同、大いに笑った。


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