猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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本番入試・算数数学の失敗を引きずるな
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    もしスケートの浅田真央がトリプルアクセルに挑戦して転倒すれば、残り時間は転倒のショックで頭の中が真っ白になってしまうだろう。

     

    最初に大きく失敗すると心が乱れて演技が雑になる。つまずきを致命傷と受け取れば、ショックで傷に傷を重ねてしまい挽回が難しい。これは入試にも言えることだ。

     

    たとえば中学入試で算数が大コケしたとする。算数が最後の科目ならいいが、たいてい算数は2番目か3番目にある。

    算数の大チョンボは次の科目に影響しやすい。たとえばうっかり計算ミスをしたとしようか。途中式を解答用紙に残す方式を採る学校なら部分点をもらえるが、そうじゃなかったら考え方は合っていても得点はゼロである。オールオアナッシング。

     

    こんな調子で大問を2〜3問落とすと衝撃で頭の中が飛んでしまい、算数のあとに控える理科や社会がシドロモドロになってしまう。

    算数のミスで頭がパニックになり集中力が維持できず、答案用紙に意識がグリップしない。結局理科や社会でもミスを連発するという悪循環に陥る。

     

    まだ国語のミスなら挽回できる。入試では国語が最初の科目という学校が多いが、国語の出来不出来は答案が返却されてみないとわからない。国語は試験が終わった瞬間「できた」と思っても得点は意に反して悪い場合が多いし、その逆もまた然りだ。

    時間配分を誤り1番の問題を完璧に解こうと思って時間を取りすぎ、2番3番の問題が空白のままというミスだったらダメージが大きいが、それ以外は国語のミスが後の科目に影響することはない。

     

    また理科社会は1問や2問間違えても配点が小さいので、少々ミスしても精神を揺るがすほどの絶望的な気持ちになったりはしない。

     

    ところが算数のミスは浅田真央のトリプルアクセル失敗みたいな、誰の目にも明らかな、派手でわかりやすいミスである。算数で主観的にミスをしているなと思ったら、大抵は誰にでもわかる客観的ミスである。得点にガツンと残酷に跳ね返る。

     

    国語のミスが後になって冷酒のようにジワジワ効くミスで、理科社会のミスが局地戦の敗北とするなら、算数のミスは日本軍のミッドウェー海戦のような戦局を180度変えるミスである。算数のミスは受験生をヤケクソな気分にする。

     

    算数でミスしたら、もはや開き直りしかない。算数で「致命的」な間違いを犯せば、受験生活で努力の結果積み上げてきたガラスの城が呆気なく崩壊する映像が頭に浮かび、厭世的な心理状態に陥ってしまうが、ガラスの破片が地面に散らばる廃墟の中で、負け戦を果敢に戦う開き直りこそが勝利を呼ぶ。

     

    死ぬ気で受験勉強して本番で大きなミスをしたら、胃が凍るような気分になり集中力が散漫になるのは当然の事だ。努力に比例してショックも大きい。

    しかし、完璧主義の格好いい戦いを振り捨て、捨て身になった泥まみれのみっともない戦いを生きてこそ良い結果が出る。

    算数の大チョンボは一瞬氷の絶望を生むが、絶望状態から体勢を立て直し、身体が火照るよな熱気と、研ぎ澄まされた集中力を身体に再び取り戻すことが勝機につながる。

    | 硬派な教育論 | 17:02 | - | - | ↑PAGE TOP
    手ぶらのサンタ
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      東京・武蔵境にある妹の家へ遊びに行った。
      妹の家には3歳の女の子と、2ヶ月の男の子の赤ちゃんがいる。子供が明るく賑やかで、都会の健全な核家族の趣が素敵な家庭だ。

      私の姪と甥は元気だろうか。生まれたばかりの甥と会うのはもちろん初めてだし、3歳の姪と会うのも1年ぶりぐらいだろうか。
      1年会ってないから、姪の直子ちゃんは私のことを覚えているだろうか? 多分覚えていないだろう。

      そこで私は「おじさん」として直子ちゃんに会うのではなく、「サンタクロース」に変装して家に突然行くことに決めた。3歳の幼児にサンタは実在すると騙してやるのだ。

      訪問の前日東急ハンズに行くと、サンタのコスチューム一式が売られてはいたが、頭から爪先まで全身サンタでキメるには5000円ぐらいかかる。一発ネタに5000円はチョット高いし馬鹿らしい。
      でも一式買ってしまえば、直子ちゃんを「サンタだよ」と驚かせたあとで、塾に衣装を持ち帰り生徒の前で着て、衣装を再利用することもできる。結構ウケるだろう。

      しかし生徒の前で着て各クラス一巡して祭りが冷めたあとは、サンタの衣装は塾の隅の段ボールに詰められ、埃をかぶるのが目に見えている。
      放置され月夜のボタン的存在になったサンタの衣装を想像するとちょっと哀れなので、結局買わなかった。サイズも1サイズしかなかったし、もし買って着れなかったら悲劇だ。店員さんに「サンタの衣装を試着させてください」と言うのも恥ずかしいし。

      結局全身サンタはアイディア倒れになり、サンタの帽子を買うことになった。ちょうど夜中に新宿歌舞伎町を歩いてたら、ドンキでサンタの帽子が398円で売ってたので買った。
      これで準備万端。サンタの帽子で直子ちゃんを騙せるかもしれない。そう思って次の日妹の家に向かった。

      サンタの格好はできたものの、何かが物足りない。肝心なことを忘れている気がする。
      冷静に考えたら、私はサンタの帽子を買っただけで、直子ちゃんへのプレゼントを何も購入していなかった。

      普通の家のサンタは、慎み深いシャイな性格なのか絶対に姿を見せず、プレゼントを残したまま颯爽と立ち去るが、このままでは直子ちゃんのサンタは、堂々と姿を現すけれど何もプレゼントを持って来ない役立たずのサンタになってしまう。

      私はサンタの衣装のことに夢中になって、直子ちゃんに渡すプレゼントのことに頭が回っていなかった。サンタは子供にプレゼントを贈るのが仕事だから、「手ぶらのサンタ」はシャレにならない。

      急いで渋谷のLoftで「魔女の宅急便」の黒猫ジジ人形と、カピパラ親子のぬいぐるみを買い、あと井の頭線で吉祥寺に移動し東急百貨店で「メルちゃん」人形の三輪車を買って、無事に妹の家に着いた。

      妹の家に突然サンタの帽子をかぶって押し入り直子ちゃんを驚かそうとしたけど、電話したら妹の旦那さんと直子ちゃんが武蔵境の駅まで迎えにきてくれて、さすがに駅の改札口で衆人環視のもとサンタの帽子をかぶるわけにはいかず、家に入って鞄からサンタの帽子を取り出し「サンタさんですよ」と言わざるを得ない状況になってしまい、結局私のサンタ変装作戦は中途半端に終わってしまった。

      | 未分類エッセイ | 12:36 | - | - | ↑PAGE TOP
      「ノリが悪い」子は受験に弱い
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        入学試験、落ちる子の典型的パターンは「ノリの悪い子」である。
        塾の受験モードの潮流に、乗り切れていない。

        私が教室に檄を飛ばしていても、冷静な顔をしている子。
        同級生が自習室に残っていても、授業終了後サッサと帰る子。
        私が授業中モチベーションを上げる話をしている時、他人事のように馬耳東風な態度で聞いている子。

        私が合格可能性が高いと見込んでいる子は、泣きそうになりながら顔を真っ赤にして真剣に聞いているのに・・・

        「ノリの悪い子」は冷静沈着とは違うし、平常心でもない。受験勉強の熱の輪の中に、意識的だか無意識的だかしらないが加わらない子、加われない子。あまり使いたくない言葉だが「KY」な子が、本番で痛い目に合う。

        「ノリの悪い子」はマイペースだ。私は「ノリの悪い子」のペースには不快感を覚える。

        たとえば塾がオーケストラで、塾長の私が指揮者で塾生がオーケストラの団員だとしようか。大交響曲のフィナーレに近づく頃、私が指揮台で汗を振り絞ってタクトを振り、団員達も力量を振り絞って楽器を演奏し、大音響をホールに響き渡らせている頃、その子だけは冷めた顔でヴァイオリンの弦をつまらなそうになぞっている。

        受験前の2ヶ月、成績は等差級数的ではなく、等比級数的に曲線のカーブを描かなければ合格に届かない。受験直前の祝祭的なノリに見事に乗って、グワンと成績が伸びる子がいる中で、ノリが悪い子は意識が受験モードに入らず、スイッチがOFFのまま成績を落とす。

        「ノリの悪い子」のマイペースな振る舞いは、私から見て非常に歯がゆい。
        受験前は「非常事態」である。平時ではなく大乱世である。受験モードにいつまでたっても突入しない子の姿を見てイライラする。

        正直言って私の塾では、受験生が12月・1月という直前にやめるケースがよくある。「ノリが悪い」子とは、意志の疎通が困難になる。
        桶狭間の戦いで、信長と決死の家臣団が死地に赴く中、後方で馬をユルユル走らせる子には、引導を渡さざるをえない。

        私は全員の合格を祈っているわけではない。「ノリが悪い子」に対して、私は正直冷めている。私のエネルギー総量は限られている。最後の追い込みの時期、私のエネルギーを「ノリの悪い子」に与えたらもったいない。それより「ノリの良い」本気の受験生に、エネルギーを費やすことが、歪んでいるかもしれないが、私なりの良心だ。

        死の淵を見るような苦悩に胸を震わせ、それでも大乱世の「ノリ」を大事にしながら、ポジティブに受験に向かっていく生徒のためなら、死すら厭わない。
        | 硬派な教育論 | 23:07 | - | - | ↑PAGE TOP
        kamiesu先生の頭にべったり張り付く授業
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          kamiesu先生の授業を拝見した。

          日曜の昼、1時間半ぐらいの補習。中3関係代名詞の授業だった。中3の諸君は授業の日でもないのに、kamiesu先生の呼びかけ1つで、休日を犠牲にして補習に来たらしい。受験生特有の緊張感が伝わる。

          先生の授業は、ありきたりな授業とはまるっきり違う。一見「自然体」の授業にも見えるのだが、そんな単純なものではない。

          教師という種族の99.9%は、日常生活を送っている時より、授業中の方がテンションが高まる。授業中は血圧も高いだろうし、動悸も高まり、発汗量も増える。

          とにかく授業になると、教師はハイテンションになり人格が変わるのが普通だ。役者にもロックシンガーにもそんな人が多い。

          たとえば俳優の山崎努は、いつもは極度にシャイな人で、楽屋では緊張して無言を通しているが、舞台に立つと感情の露出度をフルに上げて「リア王」を演じて感情を爆発させる。
          忌野清志郎もいつもは枯れた感じのオッサンだが、ステージでは気が狂い暴走する。
          教師も、講師室でのヒソヒソ声とはうって変わって、教室で生徒を前にすると声が10倍ぐらいに跳ね上がる人がいる。

          先生は違う。授業中に発する言葉の音量はふだんと変わらない。目立ちたがり屋が多い塾講師には珍しい。

          ただ、音量は変わらないが、発声の「深度」が深くなる。
          発する声は静かなのに、聴者を「シーン」とさせる磁力を発していらっしゃる。
          思わず手を膝の上に置いてしまう声であり、話し方なのだ。
          「ケレン味の強い講談師」ではなく「高僧の法話」、「ロックのライブ」ではなく「クラシックのコンサート」みたいな授業とでも言えばいいのか。

          「クラシックのコンサート」と言うと眠いイメージがあるかもしれないが、むしろ逆で、緊迫感で睡魔など付け入る隙はなく、生徒はみんな上江洲先生に催眠術にかけられた如く、授業を一言一句聞き逃すまいとしている。

          授業中、生徒が一番人の話を集中して聴く時間は、おそらく英語のリスニングの時じゃないかと思う。
          英語のリスニングCDが流れている時に、教室がざわつくことなど考えられない。ネイティブが話しているとき、どんな生徒も英語で語られる情報を聞き漏らすまいと恐るべき集中力を示す。
          何と、先生の授業はリスニングの時と同じくらいの緊張感があった。

          凄かったのは、先生が授業中、一度3分ぐらい席を外されたときの事である。
          私も生徒と同じく、後ろの席で先生の授業を聴いていたのだが、先生が教室を去りドアが閉まった瞬間、生徒達はなんと一斉に咳払いを始めたのである。
          クラシックのコンサートでは、交響曲の楽章と楽章の間に観客は咳払いをするのだが、先生の授業は、クラシックのコンサートと同じ種類の緊張感が漂っているのだ。

          さて、英語の先生なら理解していただけると思うが、関係代名詞という分野は文法用語のオンパレードである。
          経験不足の英語教師なら、関係代名詞の習い始めに、主格だ目的格だ先行詞だ接触節だ目的格の省略と、文法用語を羅列し説明が小難しい話になりがちで、生徒の頭を混乱させてしまう。

          しかしkamiesu先生の関係代名詞の授業で、「先行詞」という文法用語がはじめて登場したのは、なんと授業開始後65分もたってからだった。
          私だったら授業開始3分で、安易に「先行詞」という言葉を使うだろう。

          たっぷり1時間、慣れない文法用語を使わない授業がひたすら続き、生徒達が関係代名詞の世界に慣れて初めて文法の専門用語がポンポン先生の口から飛び出してきた。
          先生の授業では、文法用語は生徒を煙に巻くためでなく、理解を深化させるために、満を持して登場するのである。文法用語が英語を不必要に難しくする悪しき障害ではなく、英語を構造的にスッキリ理解させてくれる便利な道具だということを再認識させていただいた。

          また先生の授業は、一般的でありきたりな教え方を懐疑し、教える順序を生徒にわかりやすいように再構築した授業だった。
          関係代名詞を主格→目的格ではなく、目的格→主格の順番で教えるという1点にしても、独創性の高さを感じた。

          さらにここが一番私が感銘を受けた点なのだが、kamiesu先生の授業は、外見だけきらびやかな授業に対する、強いアンチテーゼになっているのである。

          予備校の人気講師の授業は「衝撃性」はあるが、生徒の成績を長期的継続的に伸ばす授業かといえば、必ずしもそうとは言えない。派手なケレンは短期間で飽きられる。
          授業は生徒に対して日常的、継続的に行われるものであり、kamiesu先生の方向性はまさにその辺りにある。

          予備校の派手な講師の授業はフレンチや中華という特別な日のゴージャスな食べ物だが、先生の授業は「米の飯」を志向されているのだと、私は思った。
          米の飯は毎日食べても飽きない、しかも食べなければ日本人は生きてゆけない。

          kamiesu先生の授業は、高い合格実績を上げる授業である。
          先生は難関高校に数多くの生徒を合格させてきた。実績で先生に適う人はそんなにいない。
          また、先生と生徒の人間関係は一過性のものではない。永続性の強いものだ。先生が教え子から慕われていることは、先生のブログからも強く窺い知れる。

          kamiesu先生が教え子から慕われるのは、先生が生徒の合格、すなわち生徒の人生に対して強い「責任」を背負ってこられたからに他ならない。生徒は誰が自分を一番可愛がっているか、わかるものだ。
          生徒を合格させなければならないという「責任」を背負った授業が、私はどんなものか先生の授業から教わった。

          kamiesu先生の授業を聴くと、関係代名詞という新しい知識が確実に定着する。
          先生の授業で、関係代名詞という土台強固な新築の家が、脳内に確実に建った。
          知識を与え、思考方法を構築するのが授業で一番大事なことだ。先生の授業は授業の本質を踏み外さない、きわめて純度の高い授業だった。

          そう、kamiesu先生の授業は純度が高い。濃度が高い。
          普通の講師の授業では、おそらく生徒は内容の50%も理解できずに帰るだろう。薄い授業は時間の無駄である。

          しかしkamiesu先生の授業は、先生が語った内容が、97%は生徒の頭に入る授業である。先生の授業を聴いていたら、先生の知識が、そのまま生徒の頭に漏れなくダウンロードされる錯覚にとらわれる。
          | よい授業とは? | 12:39 | - | - | ↑PAGE TOP
          塾の命は「反復」にあり
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            塾講師は意識して、子供に「反復」の機会を与えてやらなければならない。
            優れた塾講師ほど「繰り返し」を大事にする。

            中学校では、1つの内容を1度しか習わないのが致命的だ。

            たとえば中1で習う”How many pencils do you have?”という、数をたずねる定番の英文にしても、学校では授業でたった1回しか触れず、あとは定期テストに出題されるだけなので、塾に通っていない多くの子は”How many pencils do you have?”という重要構文を記憶できない。記憶する機会がない。

            ところが塾では1つの内容を5回以上は繰り返し履修する。
            ”How many pencils do you have?”を1回目は塾の授業で習い、2回目は例文暗記のテストで「強制的?」に暗記させられ、3回目は生徒が文を忘れかけた2週間後ぐらいにプリントで抜き打ち的に復習させられ、4回目は学校の授業で習い、5回目は塾の定期試験対策授業で再確認し、6回目は塾の春夏冬の講習会で復習する。

            とにかく、塾では何度も何度もしつこく”How many pencils do you have?”は登場する。

            そのうち”How many pencils do you have?”は子どもの頭にピタッと定着し脳に張り付き、自分の家の電話番号みたいに記憶から消すことが困難になる。

            社会の歴史だってそうだ。意識して教師が子供に復習の機会を与えないと、歴史の用語や流れが、どんどん抜け落ちてゆく。

            教師は普通、平安時代→鎌倉時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代と順番に、座布団を積み上げるように教えてゆくが、復習させないで放置すると、江戸時代の授業をやってる頃には、平安時代はすっかり記憶から消し飛んでしまう。せっかく暗記したのに、もったいない。

            平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と座布団を積み上げると、平安時代の座布団は、下の方で押し潰されてしまう。
            だから、時期を見計らって、下に敷かれた平安時代の座布団を抜き出し、一番上にある江戸時代の座布団の上に、ポンと置き直してやらなければならない。積んである座布団の順番を、常に入れ替える気遣いが必要だ。

            また、いま中3は公民をやっているが、ここが近現代史の復習の潮時だ。中3生の頭の中は、明治大正昭和期に起きた事件の順番なんて、もはやグチャグチャになっているだろう。
            さすがに、第一次世界大戦と第二次世界大戦のどちらが先に起きたかくらいはわかるだろうが、日清戦争と日露戦争どちらが先に勃発したか、忘れてしまった子は結構いると思う。

            とにかく、塾の効用の1つは、意識的な「反復」にある。余程の天才でない限り、どんな生徒も、たった1回習っただけで知識は定着しない。
            講義を1回サラッと済ませただけで、生徒に「教えたぞ」と満足感を持つことは極めて危険である。

            中2のオームの法則を教えたら、2週間後にはテストでもやって確認する作業が必要だし、数学の授業が証明問題真っ盛りの時期でも、1潤オ2ヶ月前にやった連立方程式の文章題や一次関数の利用を、授業前に2潤オ3問解かせる作業を怠ってはならない。

            実は、入試の応用力なんて、講師が意識して反復を繰り返せば、意外とアッサリついてしまうものなのである。
            | 塾の様子ガラス張り | 22:04 | - | - | ↑PAGE TOP
            中学生・部活の拘束時間はどのくらい?
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              中学生に部活の時間帯をあれこれ聞いてみた。
              平均して月〜金の平日は放課後約2時間、土曜日は朝か夕方のどちらかで約4時間から7時間、厳しい部活は日曜日も練習がある。
              おおよそ部活は週6〜7日、合計で週14時間から24時間くらいか。部活の拘束時間は想像よりはるかに長い。

              もし部活を週2〜3日、1日2時間半から3時間、週合計に換算すると5時間から9時間くらいに短縮すればどうだろうか?
              それじゃあ時間数は短いし、もっとたっぷり時間を取って鍛えなければ力はつかない、と思う人は多いだろう。

              実は1日2時間半〜3時間、週換算で5時間から9時間というのは、一般的な学習塾の時間数である。
              確かに勉強は自分ひとりでもできる個人技で、スポーツの多くは相手がいないとできない団体競技という大きな違いはあるが、スポーツの部活が子供を長時間拘束しているのに比較して、塾は圧倒的に拘束時間が少ない。
              いかに勉強成績の伸びが、生徒の自主性、言い換えれば人の目に付かないところで真面目に勉強するかどうかに、かかっているかがわかる。

              よく考えたら、部活は生徒を拘束する時間内で、基本的にすべての練習をこなす。
              野球部だったらランニング、バッティング、守備練習、キャッチボール、監督コーチが見ている前で練習が行われる。
              もちろん熱心な部員は家で筋トレや素振りを欠かさないが、基本的には学校から帰ったら、疲れて食事して寝る子が大部分だろう。
              拘束時間が長いから、監督やコーチは自分の目の前で、思う存分子供を鍛えることができる。また子供の側から見れば、練習する時には必ず監督コーチの眼が光っている、ということになる。

              ところが塾の場合は週2〜3日通うだけで、残りの日の学習は「宿題」「家庭学習」と称して生徒に一任される。
              野球部の練習がたった週2日で、あとの5日間は「自分で自主的に練習しろ」ということは考えられないが、塾ではそんな状況が日常茶飯事である。

              塾で子供を完全に講師の気がすむまで鍛えたいのなら、通塾日を週2〜3日で誤魔化さないで、部活と同じ長さの時間、すなわち週6日ぐらいは塾に通わせなければならないのかもしれない。
              テストも授業も自主勉強もグループ学習も暗記も、塾の教室で講師が見守る中で、何もかもが行われるようにする。
              おそらく、塾生を毎日塾に呼んで、思う存分鍛えたい先生は多いだろう。生徒の自主性に任せるのもいいが、生徒の私生活は非常に怪しいものである。
              どうしてスポーツの部活の拘束時間が長くて、塾には少ししか時間が許されないのか、残念に思っている熱心な塾の先生はきっと多い。

              ただ「塾週6日制」を実現するためには、塾に先生がたった1人しかいない状態ではローテーションが回らない。
              中1・中2・中3が毎日塾に通うわけだから、先生は最低3人、教室は3つという体制を取らなければならない。個人塾では不可能だ。人件費で授業料は当然高くなる。

              また、週6日体制では生徒の自主性が育たないのではないかという疑念が生まれる。中学で塾で勉強するクセがついてしまうと、高校へ行ったら何も勉強しない、ということになりかねない。
              おまけに夜の家族団欒の時間を週6日も塾が奪うのは不健全な気がするし、週6日も通わなければならない塾に生徒は来ない。
              部活だけでも毎日はしんどいのに、おまけに毎日塾だったら子供は過労死してしまう。
              結局塾は受験前の特別な時期は別として、週2〜3日が適当な日数、ということなのだろう。

              週2〜3日に日数を抑えておいて、あとは適宜補習したり、静粛でしかも足を運びやすい自習室を完備しておくのが、中学生の塾のあるべき姿なのだろう。
              | 高校受験 | 12:44 | - | - | ↑PAGE TOP