猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
kasami88★gmail.com
CALENDAR
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
猫ギター
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
「塾」は外国で何と呼ぶか
0
    いわゆる「知的職業」の中で、塾講師ほど海外と縁のない職業はないだろう。

    たとえば商社マンや金融業やクリエーターなら、海外出張は社運を決定する重要な仕事だが、塾講師の海外出張なんて全く想像がつかない。

    大手塾なら、海外に住む日本人子女のための教室に人材を送り込んでいるから講師や職員の海外出張はあり得るが、田舎の個人塾講師が海外出張なんて聞いたためしがない。海外出張どころか国内の出張もない。

    塾にドンと居座って動けないのが塾講師の仕事である。グローバル化もへったくれもありゃしない。個人塾の講師で、僕みたいに海外に異常に興味がある人間は、自費で旅行するしか外国へ行く方法がない。

    また、塾講師には海外の同業者がいない。台湾や韓国といった東アジア圏を除いたら、海外の塾講師なんて極めて稀だ。
    (ロンドンで"Kumon"の教室を見かけたことはある。あれは現地のイギリス人がマルつけをしているのだろうか)

    学校教師も農夫も株屋もプロレスラーも宗教家も小説家も海外には同業者がいるのに、塾講師にはいない。海外に同業者がいない職業を探してみると(つまり日本にしかない職業)、相撲取りとか歌舞伎役者とか伝統芸能系しか思いつかない。そんな意味で塾講師は結構独特な職業ではある。

    NYでタクシーに乗った時、「職業は何か」と聞かれた。とても困った。

    僕の拙い英語力だと、自分の仕事を説明するのに手間がかかる。日本の和英辞典には、「塾=cram school」とかいろいろ書いてはいるが、絶対にそれじゃあ通じない。そんな言葉、アメリカには絶対ない。また"cram"は「詰め込む」という意味だから曲解されて変なイメージをもたれたら困る。

    また"jyuku"という日本語が、"sumo" "sushi" "tempura" "harakiri" "karoushi"
    みたいに、英語に同化しているとは全然思えない。

    というわけで、「塾」という職業を長々と説明する必要がある。
    「日本は教育熱が高く、high schoolやuniversityの入学試験に合格するには極めて高い学力が必要だ。だから昼の学校が終わってから夜にもう1つ学校に通う子供がたくさんいる。僕はその夜の学校のteacherなんだよ」といった具合に。

    最初にアメリカを訪ねた時、そんなこといちいち説明するのが面倒くさいから、少々投げやりに"teacher"と単純に答えたところ、僕の発音が悪く"singer"と運転手さんには聞こえてしまい、「どんなジャンルの歌を歌うのか?」と返されて困ったことがある。
    | 軟派な教育論 | 23:06 | - | - | ↑PAGE TOP
    東京で一番有名な繁華街
    0
      最近、中学校の地理は変だ。教科書は無作為?に選んだ都道府県を学習することになっている。
      なんで広島県民のわれわれが、岩手県や東京都や福岡県のことを細かくやらねばアカンのか?
      中学地理を地理総論的でグローバルなマクロの視点から、都道府県別の地域社会的なミクロの視点へ移そうという意図はわかるが、現場に落とし込むには少し冒険的かな、という疑問が強い。

      高校の履修単位不足問題が問題になっていたが、要するに学習指導要領が現場のニーズとズレている、ということに他ならぬ。
      カリキュラムが現場中心主義ではなく、文部科学省のトップダウン形式で組まれているから問題が起こる。現場に学習指導要領をフレキシブルに修正する権限を与えれば、こんな問題は生じない。
      学習指導要領に完全に従えば、大学受験をめざす教え子のためにならないという、現場の高校教師の「親心」はよく理解できる。

      中学校の地理の教科書にしてもそうだ。教科書は変わったが、公立高校入試に東京都・福岡県・岩手県ばかりが出題されるというわけではない。
      教科書は県別学習というぶっ飛んだ内容だが、相変わらず公立高校入試問題はオーソドックスな設問形式だ。
      現場で地理のカリキュラムを公立高校入試向きに修正しないと、子供が不利な状況に陥る。
      学習指導要領や検定教科書の言いなりになっていたら、痛い目に合うのは子供だと、良心的な現場の教師は知っている。

      現場の教師の教え方やカリキュラムが個性的なのも考え物だが、中学地理の教科書のように、国からトップダウンで個性的なものを与えられる事態は現場が混乱してもっと困る。

      さて話は変わって、学校の試験対策のために「東京都」の授業をやった。
      ホワイトボードの中央に丸い山手線を、真ん中に中央線・総武線、縦に京浜東北線を書いて、皇居や江戸川・荒川・多摩川の位置を示し、東京湾を描いて、川崎と木更津の間にアクアラインをピッと引いて、霞ヶ関や大手町などの官庁・ビジネス街、新宿・池袋・渋谷などの有名な繁華街について、私の東京生活12年の経験を生かしながら説明していった。

      地方の子だから、東京の地理については疎い。
      新宿や渋谷はともかく、池袋といっても知らない子が多い。
      子供達が知っている東京の街は、動物園のある上野、六本木ヒルズの六本木、フジテレビのお台場、竹下通りの原宿などだったが、赤坂や汐留や新橋や品川や浅草や御茶ノ水などは認知度がかなり低かった。両国なんかは国技館があるのにあまり知られてなかった。

      ところで、うちの塾生に聞いたところ、東京の繁華街で一番知名度が高かった場所はどこかご存知だろうか?

      それはダントツで「秋葉原」でした。むかしは家電やパソコンの街だったが、変われば変わって、いまや変態さん大集合の街になってしまった。おまけに稀代の犯罪者まで現れる始末だ。
      | 未分類エッセイ | 08:14 | - | - | ↑PAGE TOP
      「不真面目」な子には私立文系
      0
        地方のある程度学力を持っている子にとって、志望校を地方の国立にするか、それとも東京や京阪神の私立にするか、大いに迷うところだ。
        (首都圏や京阪神の国立ということになると、話はまた別だが)

        僕は高1が終わる段階で、文系の子には数学を捨てさせることがよくある。
        例えば英語と国語と社会のうち2科目以上得意で、数学に苦手意識を抱いている子。そういう子には迷わず東京か京阪神の私立文系をすすめる。

        僕が講師生活初期の頃、苦手な数学を最後まで抱えたまま、受験直前にバタバタと国立から私立へ志望校を転換した子をいかにたくさん見てきたか、数知れない。
        高1の段階で、大学受験の情報をきっちり教えておけば防げたミスが数多くあった。

        だから僕は生徒の志望大学については、積極的に関与する。情報のシャワーを浴びせる。
        東京にも青春18キップで、大学見学に連れて行ったことがああ。田舎のハンディから、情報のなさが引き起こすミスを、最小限に食い止めたい。

        地方は官学志向が非常に高い。だから私立文系の大学を、誰でも入れるものと甘く考えている人が多い。昔ながらの「官高私低」の感覚でいる人が結構いる。

        しかし、中堅以上の私立文系学部は、直前になって対策できるほど簡単ではない。確かにここ数年、中堅私大はかなり合格しやすくなっている。

        だが、一部の人たちが考えるほど私立文系は簡単ではない。ジャニーズのアイドルも、最近有名私立大学に通う傾向が強いが、ジャニーズが合格したからといって、自分も入れると思ったら大間違いだ。私立を「滑り止め」とか「直前の駆け込み寺」と考えていたら痛い目に合う。

        結局国立にこだわりすぎ、最後の最後になって自分の意に沿わない進学をせざるを得ない子があとをたたない。

        国語が得意で、数学が苦手な子は私立文系がふさわしい。国語の成績を上げるには物凄い苦労が伴う。なかなか成績が上がらない。
        しかし、国語のセンスがあり、河合の全統模試で悪くても偏差値65は下らず、国語で苦労しない子。これは恐るべき長所だ。

        こんなタイプの子は国語の問題が難しく、かつ配点が高い私立文系の大学を受験させるべきだ。私立文系で国語が強いというのは、将棋で言えば飛車と角が2枚ずつあるというのに等しい。

        国立の文系学部では、二次で国語がないところも数多くある。そうなると国語という必殺武器は使えないままだ。

        数学の偏差値が、50を切った状態の子も私立文系を進める。
        数学は勉強時間に多大な時間がかかる。それをすべて、英語や社会に回す。数学を捨てる代わりに、英語の能力をハイパー化する。

        社会が得意な子も私立文系がいい。
        たとえば日本史や世界史なら、私立の問題は「社会オタクキング決定戦」のような細かい問題がたくさん出される。センター試験の感覚で受験したら、とんでもない目に合う。

        日本史や世界史を選択しているならいい。受験できる学校の幅は広い。
        しかし、高校で地理や政経を選択していたら悲惨である。私立文系で地理や政経で受験できるところは限られている。社会を選択する時に、こちらがしっかりアドバイスしなければならない。

        「信長の野望」をしっかりやってマイナーな戦国武将の名まえをたくさん知っている日本史オタクの子。戦艦や零戦に詳しく、太平洋戦争の戦史について物凄い知識を持っていて、ミッドウエイ海戦やレイテ海戦について講師にレクチャーをする子。
        そんな子には興味がそのまま試験勉強につながる道を探ってあげたい。
        私立文系こそ、「社会科オタク」にとって、最も有利かつ得意教科を生かした進学先選択だと思う。

        声を大にして言いたいのは、早期に大学進学先を私立文系一本に絞るのは、数学からの逃げではなく、英語・国語・社会の更なるパワーアップ、積極的転進だと考えている。
        私立文系は就職もいい。広島大学より明治大学のほうが全国区で、就職にも有利だ。

        ただ、東京の私立大学に進学するとなると、教育費に多大な負担がかかる。私立文系をすすめる場合、父母の方と話し合いの場をもつのは、言うまでもない。
        しかし奨学金もあれこれ揃っているので、決して家計の事情で私立文系進学をあきらめてはならない。

        私立文系、僕は好きだ。いろいろな事情があって、高校時代まじめに勉強していなくて、逆転の大きなチャンス狙っている子には最適な選択だと思う。
        早慶・明治・立教・青学・同志社・立命館など私立文系大学には、ユニークな個性が集結している。
        | 大学受験 | 13:31 | - | - | ↑PAGE TOP
        携帯電話は集中力を殺す
        0
          勉強とは「夢」である。

          といっても Dreams come true、勉強は子供の将来の夢をかなえるんだぜ、というクサい意味ではない。夜見る夢のことである。

          われわれは勉強している最中、まるで夢の中にいるかのようだ。勉強部屋も目前の活字も意識しない。外界から離脱した空間を彷徨い、勉強の世界に「沈没」している。

          数学の問題を解いている時は数学的論理体系にハマっているし、日本史で戦国時代を学習している時は、戦国武将に感情移入している。深い「夢」を見れば見るほど、「沈没」度が深いほど、集中力が高いほど、学力はしっかりと涵養される。

          深い睡眠が健康をもたらすように、高い集中力は学力を向上させる。
          そんな勉強中の「夢」を、一気に覚ましてしまうのが、携帯電話の音である。

          たとえば携帯電話の着信音が「オペラ座の怪人」だったら、携帯から突然流れ出す「オペラ座の怪人」の壮大なテーマは、数学の世界から、中世戦国の時代から、子供を一気に現実に戻す。

          せっかく集中して、勉強にノッてきたのに、携帯の着信音に妨害されたらたまらない。
          子供は電話を切ったあと、また1からリセットして勉強の世界に潜り込まなければならないし、携帯で友人との話が盛り上がり、勉強していたことはいつしか忘れ去られてしまう。
          とにかく、携帯電話は勉強の集中を破壊する爆発物である。どう考えても、学力向上の邪魔になるアイテムだ。

          ところで、無味乾燥な問題集や参考書の活字の世界に、長時間「沈没」する能力を持つことは、よく考えたら凄いことだ。
          漫画やゲームのような刺激物に対しては、子供はすぐに集中できる。ゲームや漫画はおもしろいし、子供を垂らしこむマタタビのような麻薬が仕込んであるから、仕方がないことだ。

          しかし勉強の集中力というものは、幼い頃から大人がある程度、強制し訓練してつけなければならない。勉強に沈没できる能力をつけるために、わざわざ学校や塾といった教育機関が存在する。
          だから、集中力を鍛えることが仕事である学校や塾の先生が、子供の携帯電話の所持に対して嫌な顔をするのも当然なのだ。

          ところで、勉強の集中力をつけるのは大変だし、活字だけでシッカリ集中できるのは凄いことだが、もっと凄いのは禅宗の坊さんである。彼らは座禅を組み、数時間も身体を動かさず、じっとしている。集中力の極みである。

          彼らは座禅中、いったい何を考えているのだろうか?
          勉強だったら問題集や参考書をオカズに集中することができる。しかし座禅には、集中の「よすが」となるオカズがない。オカズなしで米を食えるか?

          座禅を組んでいる時、向き合うのはただ自分のみ。自分の脳味噌が貧困なものだったら、数時間も静かに座禅を組むことなんかできないだろう。座禅の集中力は、己の精神の優劣だけでなく、己の頭の中身をも試す。

          でも、禅宗の坊さんが長時間が集中していられるのは、禅寺が静寂な環境に置かれているからである。

          東洋・西洋通して、学問の場は決まって都会の喧騒から離れた場にある。
          イギリスのオックスフォード・ケンブリッジはロンドンから電車で1時間半、田園の静寂がたっぷり残っていて、しかも大都市ロンドンから近い、静寂でしかも都会の刺激からも遠くない、絶妙な位置に立地している。
          禅寺も京都五山・鎌倉五山のような武家政権と結びついた名刹を除いて、都市から離れた山里にある。

          いにしえの智者は、若者に静寂を与えるために尽力してきた。大学や禅寺を喧騒から離れた場所に作って、若者が学問に沈没できる環境を築き上げてきた。

          学問の静寂の場に、携帯電話は似合わない。禅僧が座禅中、横で携帯電話が頻繁にビービー鳴っていたら、悟りなど永遠に開けぬ。


          | 硬派な教育論 | 19:05 | - | - | ↑PAGE TOP
          学校の芝居は良薬か?劇薬か?
          0
            芝居は楽しい。良い芝居は演者と客が一体化する。

            良い芝居は、舞台上の演者の輪の中に、客を完全に食い込ませる。客は芝居の世界に自分の居場所を見つける。芝居小屋は家になり、役者と客は家族になる。

            だからこそ良い芝居は、芝居が終わったあとの反動が大きい。芝居の親密な小宇宙からひとり取り残されたような猛烈な孤独を客は感じる。芝居終了後客に猛烈な孤独を感じさせる芝居こそが良い芝居である。

            ところで最近、学校で芝居をする機会が減ったような気がする。

            私はもっと学校で芝居に力を入れてもらいたいと思う。小学校・中学校では、1年に2〜3回は芝居をする機会を与えてほしい。
            芝居は子供を成長させる踏み台になる。

            子供に芝居を演じさせる利点は、まず第1に国語力がつくことだ。
            暗記暗唱は学力向上のための最大の方法であろう。英文を暗唱し古典を暗記することは、学力向上への近道だ。
            芝居を演じるには台本を完璧に「暗記」しなければならない。上質の台本を記憶し演じることで、必然的に国語力が上がるのは道理だ。
            芝居とは、良いテキストを暗記暗唱させるための最高の手段である。

            第2の利点は、芝居を演じると人前で物怖じしない度胸が身につくことである。
            大勢の観衆の前で正面を向き、台詞を口にすると最初は緊張する。
            しかし自分の発した台詞で、或いは自分の体の動きで観客を感動させ、笑いを取る快楽は何者にも変えがたい。
            ふだん子供は学校で知識のinputばかりで、outputの機会があまりない。芝居は子供が自分を表現する手頃な手段だ。

            第3は芝居は子供の団結力を高め、達成感を与える。
            芝居には人手がかかる。役者・脚本・演出・舞台装置・照明・大道具・小道具・衣装・メイク・宣伝・・・・
            多くの人間の努力と才能とアイディアが渾然一体となり、優れたリーダーの下に団結しなければ良い芝居は生まれない。また芝居のために汗水流し、観客から熱い拍手を浴びた時の達成感は何者にも変えがたい。

            第4、これが一番重要だが、芝居は子供の「人格力」を高める。
            芝居の役柄になりきり、舞台上で別人に憑依すれば、演者は役柄の人物のエッセンスを吸収し、強い影響を受ける。良い人を演じれば、子供は良い人になる。

            役柄の人物の所作や立ち振る舞い、言葉使いを子供は芝居を通して身体で覚える。
            若者の言葉使いや態度が乱れていると言う大人は多いが、どんな言葉使いが人に好かれ、どんな振る舞いが賢明か、大人は若者に模範的な「形」や「手本」を示せずにいる。
            形や手本を示さずにただ「最近の若者の言葉使いはなっとらん!」と否定するだけで難癖つけるのは、まるで吉良上野介みたいな陰湿な態度である。

            芝居を通して子供の頃に、自分以外の人物になりきる訓練をしておけば、成長した時大人の立ち振る舞いの「引き出し」が増えるような気がする。頭の軽そうなヤンキー女に、美智子皇后陛下の役をやらせればいい。おのずと態度言動が変わってくるだろう。

            ところで、学校が最近芝居に熱心でないことは、おそらく学校内で左翼教師の力が低下したことにも原因があるだろう。
            左翼運動の啓蒙は芝居を通して行われた。かつて左翼演劇の説得力は、民衆を熱狂させた。
            それと同じく、左翼の平和教育や平等教育の血肉化に芝居は大きく手を貸した。これは戦前の皇民化教育の手法をそのまま踏襲したものである。

            戦前も戦後も、学校ではイデオロギーを子供に染みさせるために芝居を利用した。芝居は子供の頭も心も体も呪縛する。芝居は子供を洗脳する手段としては最高の装置である。芝居はわれわれの想像以上に危険性を持つ。

            でも逆に言えば、子供を正しく「洗脳」するには芝居ほど効果的な装置はない。
            芝居は子供を洗脳する毒薬だ。しかし同時に子供に「形」や「規範」を叩き込む良薬にも成り得る。
            | 硬派な教育論 | 14:20 | - | - | ↑PAGE TOP
            「お父さん家庭教師」の破綻
            0
              父親が子供に勉強を教えるというのは、どういうことなのか?
              中学受験期の子供に勉強を教えている「お父さん家庭教師」は、かなりの数にのぼるだろう。
              しかし子供が成長するにつれて、だんだん父親は子供に勉強を教えなくなる。教えられなくなる。

              その理由の第1は、父親の学力にある。難関中学の算数は難しいから、父親が問題を解けなくなる。
              小6ぐらいになってくると、子供に「お父さん、この問題教えて」と質問されても、お父さんは30分も1時間も頭をひねるだけで、問題が解けない。
              その間子供は黙ってお父さんが難問と格闘する姿を見ている。お父さんは子供の視線が拷問プレッシャーになり、ますます解けない。

              難問にイラつき、「こんなもん自分で解け!」と逆ギレするお父さんの気持ちもわかる。
              難関中学の算数の問題は年々難化しているから、子供時代に中学受験を経験したお父さんでも歯が立たない問題は多いし、また自分の受験時代には存在しなかった面積図が理解できないから、教え方は自然と我流になり、しかも「方程式なら解けるんだけどね」と、突然前触れもなく登場する方程式に子供は戸惑う。

              そんな状況が何度も続くと、子供はお父さんの学力と教え方に限界を感じて質問に来なくなるし、お父さんも子供に勉強を教えることに自信を無くす。
              子供に勉強を教える作業は、専門職集団である塾に丸投げする。かくして、父親が子供に勉強を教える「お父さん家庭教師」は自然消滅する。

              「お父さん家庭教師」が自然消滅する第2の理由は、父親の多忙のせいだ。
              特にサラリーマンのお父さんは帰宅が遅く時間的余裕がないし、せっかくの土日は子供の通塾日に重なるケースが多い。

              小4ぐらいまでは子供に「ちょっと算数教えて」と質問されても瞬時に答えることができるが、小6の子に本格的に勉強を教えるとなると、しっかりした予習が必要だ。一旦教える決意をしたら腹を括らなければならない。

              塾のプロ講師ですら綿密な予習をして授業に臨むのだから、素人のお父さんが難関中学の問題を生半可に教えることは難しいのが現実だ。本格的に教えるには膨大な時間と執念がいる。

              でも、たった1〜2問ぐらい算数の質問に答えるぐらいは時間的に楽だと思われるかもしれないが、子供は自分が解けないから質問に来るのであって、必然的に強烈な難問しか質問しない。
              お父さんは仕事から帰って来たら突然、進学塾のテキストで選りすぐりの難問を子供から「わからん」と質問される。パパっと解いて鮮やかに説明できる父親は少ないだろう。たった1〜2問だからといって、絶対にナメてはならない。

              予習した範囲を授業形式で教えるのは易しい。逆に突然子供が持って来た難問を解くのは難しい。サーブを打つよりレシーブほうが格段に難しいのと同じことだ。レシーブを100%返す能力があったら、ウィンブルドンの王者になれる。
              とにかく子供に持ち込まれた難問に答えるには深い学力が必要で、塾のベテラン塾講師並みに中学受験に知悉していなければならない。

              だから子供に勉強を教えることのできる父親は、時間に融通が利き予習時間や過去問研究の時間が取れる自営業の人か、あるいは予習しなくても教える能力がある医者か官僚か弁護士か大学教授のような高い学力を持つ人か、或いは本職の塾講師という場合に限られる。

              「お父さん家庭教師」が長続きしない第3の理由は、反抗期思春期の子供に反抗されるからだ。
              10歳を超えれば、父親と子供はN極とN極、S極とS極といった具合に反発し合うのが普通ではないか。親子がベタベタの蜜月関係だったら気持ち悪い。

              狭い部屋で父親と子供が向かい合って、或いは子供の勉強机の横に父親が陣取って勉強を教えている姿はいかがなものか。個人差はあるだろうが、私には強い抵抗がある。子供の立場だったら絶対に嫌だ。ほとんどの子は親離れをして、「お父さん家庭教師」から卒業する。

              ところが、かつて義理の母と妹弟を放火殺害した東大寺学園の高1の男の子の場合は、「お父さん家庭教師」が16歳になってまで続く条件が揃っていた。
              父親は医師で理数系の学力があり、また息子は大人しい真面目な子で真正面から父親を拒絶することができなかった。
              父親に抵抗する力がもしあったら、殺されたのは母親と妹弟ではなく、父親だったはずだ。

              執拗な「お父さん家庭教師」は、内田樹氏言うところの「ファミリアル・ハラスメント」の一種だろう。




              ★開成塾・中学受験
              尾道市向島・定員5人・少数精鋭




              | 中学受験 | 10:17 | - | - | ↑PAGE TOP
              古文は毒舌のカタマリ
              0
                私は学生時代古文が大嫌いで、文系のクセにひどい点数ばかり取っていた。学生時代、一番嫌ったのは古文だった。今思うと原因の大半は文法軽視だった。

                しかし最近、30過ぎになって古典を読み始めた。古典の面白さにはまったら抜けられない。あんな面白いもの、文法の壁で封印してしまうのは忍びない。

                二葉亭四迷たちの言文一致運動は、文章を庶民に開放したと同時に、文語体の秘め事のような格調高さを破壊してしまった。
                彼らの言文一致運動のせいで、明治以降と江戸以前では、言葉の断絶が激しく、教育の手を施さないと江戸時代以前の人間の心的世界に入り込めない。

                しかし、文法の壁が立ちはだかって、古典の世界に入り込むのは容易じゃないけど、私は文法という古典を読む鍵を子供に伝授する苦労は、決して無駄じゃないと思う。古文は大いに「読む価値あり」だ。

                なぜ古典が、この齢になって私の気を引いたかというと、古典には「暴言」が多いからだ。現在の書き手だったら、出版事情や「弱者」に対する過度の遠慮などで躊躇して書けないようなことまで、古典は平気の平左で大胆に言い放つ。

                現在では、小説でも随筆でも論説でも、書いちゃいけない一定の境界線があって、そこを踏み越えることができない。
                古典はそんな枠が無い。自由奔放に言葉が踊り、読者を想定しない才能の自慰行為が素晴らしい逸品を生み出している。

                古典を読んでいると、あまりの大胆な物言いに2秒ぐらい「はっ」となる瞬間があり、その後大笑いしてしまうような、心地良い場面に頻繁に出くわす。
                それは和洋中華いずれの古典にもいえることで、マキャベリの「君主論」なんぞは権力者の大暴言集で、共感するかしないかは別として、読んでて爽快この上ない。

                そして、時々そんな暴言が、私自身に向かってくるのだから、うかうかしていられない。
                たとえば高校生の時に読んだ記憶があり、当時は私の心に全然かすりもしなかったこんな言葉が、40歳の私にはグサリと胸に響く。

                子曰く、「後生畏るべし。焉くんぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ」と

                (超訳)孔子先生が言われるのには「若者はすごい。尊敬すべきである。これから未来を背負って立つ若者が将来、現在の私の人格や知識を追い抜かないなどと、どうしてわかるのか。若者が将来私を越える可能性もあるのである。しかしだ、40歳や50歳にもなって、何の名声も上がらないような大人は、全然尊敬する価値などない」と。

                こんなのを読むと「私ももう40歳。ああ、俺は全然価値の無い、若者に尊敬される資格の無い人間だと思われてるのかなあ」と痛く傷つく。

                やはりこの手の教訓は、格調の無い現代語訳で言われるより、原文で罵倒されたほうが心が痛む。
                「全然尊敬する価値などない」と現代語で言われるより、「畏るるに足らざるのみ」と文語体で言われた方がショックが大きい。古典、恐るべし。





                ★開成塾・大学受験
                尾道市向島の「秘密勉強基地」







                | 大学受験 | 20:09 | - | - | ↑PAGE TOP
                親藩・譜代・外様
                0
                  私は「情」の男である。
                  5年ほど前、いろいろ悩んでいた頃、友人に軽いカウンセリングを頼んだところ、「君は普通の人の5倍情が強い。だから悩む」と言わたことがある。

                  ただ、私の情は絶対に平等には向けられない。嫌いな人間には冷酷だ。
                  塾を休んだり、イヤイヤ塾に来ている子は、私にとって「外様」にしかすぎない。ただ、この「外様」を塾に残すか残さないかが、経営の匙加減になってくる。

                  「外様」を残す理由はたった1つ。それは「お金」しかない。銭儲けのために外様を残すか切るか選択しなければならないが、私は躊躇なく切る。

                  切らないで残すのが、塾拡大=金儲けの道なのかもしれない。でも私にはそれができない。むしろ切るのが生徒の質を「純化」し、個人塾が生き残る道なのかもしれない。

                  消費者意識の高い親と、可愛げのない子のコンビが塾にいると、塾長の私の精神衛生上よくない。愚か者のために悩むのは下らない。何よりも他の真面目な子の迷惑になる。キッパリ退塾を宣告するか、「塾を辞めろ」というシグナルを送る。幸い現在のところ、うちの塾に「外様」はいない。

                  また、塾にキッチリ来る子は「譜代」である。徳川家と旗本八万騎。厳しい塾を選んでくれた以上、妥協なく鍛えぬく。平等に情を注ぐ。

                  問題なのは、自習室に頻繁にやってくる子だ。
                  中3や高3になると、やる気がある子は、学校がない時間のほとんど塾で勉強している。マジで住民票を塾に移せばいいと思うぐらい「塾の子」になっている。

                  正直言って、こういう子に対して、「情」のボルテージは最高潮に達する。意識は完全に「オレの子」であり「親藩」で、可愛くて仕方がない。 彼らが第一志望に合格するんだったら死すら厭わない。

                  しかし「平等」という一線は崩さないでおくため、自習室に来る子に対して、情をかけるのはやめようと精神修養を積んできた時期があった。わざと彼らに対して無愛想に接したり、まだ勉強をやりたがってるのに、時間を決めて自習室から追い出したりした。

                  でも、最近はもう駄目だ。私を慕い、私を頼り、自習室に来て勉強する子に対して持つ「贔屓」の感情は隠せなくなってきた。
                  自習室にやって来る子は、誰よりも勉強に対して一途で、怖い私に対して真正面からぶつかって来る子である。
                  私に叱られる恐怖より、伸びようとする野心が強い子である。誰が彼らを放っておけようか?

                  私が持つ、普通の人の5倍強い「情」を素直に出して、それが、自習室で勉強している生徒の力になればいいと、開き直れるようになった。
                  「勉強と塾に惚れたなら、俺も負けずに惚れ返してやる」みたいな感じで。

                  やる気がある子は、自習室の常連になればいい。
                  俺と同じ空気を吸うだけで、賢くなれるぜ。
                  | 硬派な教育論 | 19:22 | - | - | ↑PAGE TOP
                  体罰と言葉の暴力
                  1
                  子供に対する体罰は是か非か? 盛んに議論されてきた話題である。

                  よく考えたら、教育の場においてのみ、体罰という暴力が「是か非か」と議論されるのは、不思議なことだ。
                  暴力は絶対的に悪い、というのが世間の共通認識だ。でもどうして教育の場では、体罰容認=暴力OKという論者が現れるのか?

                  だって、
                  「企業で上司が部下に暴力を振るうのは是か非か?」 
                  「老人ホームで管理人が痴呆のお年寄りを殴るのは是か非か?」
                  「家庭で夫が妻に暴力を振るうのは是か非か?」
                  そんな議論は聞いたことがない。
                  誰もが「非」と答える命題だから、議論になりはしない。

                  「アントニオ猪木がファンにビンタを喰らわせていいか?」 
                  「浜ちゃんがタレントをはたいてもいいか?」
                  という命題なら、「まあ、いいんじゃないの」と肯定派のほうが多いような気がするが。

                  冗談はともかく、「学校や塾で先生が子供に体罰を振るうのは是か非か?」という命題になると、たちまち議論が沸騰する。不思議なことだ。

                  歴史の叡智は、この世から暴力を消し去ることを選んだ。暴力を振るって罰せられないのは、戦争という地球上で一番巨大な暴力と、子供の喧嘩という地球上で一番小さな暴力だけである。
                  国家の争いと、子供の争いだけが、暴力という最終手段を選ぶ。そのほかの暴力は穢れたものとして、地球上から抹消された。暴力を振るう者は罰せられる。

                  では、教師が生徒に振るう暴力は、アリかナシか?
                  言うまでもなく、ナシである。

                  体罰はなぜ駄目か?
                  体罰が、子供の命を奪うからである。

                  体罰とは、子供の身体に触れることである。身体に触れるということは、相手の身体を支配することである。身体の支配の行き着く先は、相手の肉体を抹消することである。
                  体罰は子供の「肉体」に手をかけることだ。それは殺しの第一歩だ。だから体罰は非である。

                  ところで、学校をはじめとして、警察や軍隊や刑務所のような、強者が弱者を「支配」する機関は、暴力の温床になりやすい。
                  警察も軍隊も刑務所も学校も、警察官・上官・看守・教師という強者が、容疑者・兵隊・囚人・生徒という弱者を管理する機関である。閉塞的な上下関係が生まれやすい機関であるから、体罰が起こりやすい。

                  学校は、社会の規範的な人物を製造するところだ。学校とは、生まれながらの餓鬼、すなわち放任しておいたら反社会的な大人になりうる子供に、大人の価値観を強制する場所である。

                  学校は反社会的な人間を作らない場所であり、警察・刑務所は反社会的になってしまった人間を矯正する場所である。そういう意味で、学校と警察・刑務所は、同質の意味を持つ。

                  しかし、警察・刑務所・軍隊と、学校の間には、絶対的な大きな違いがある。それは、警察・刑務所・軍隊が、人間の「死」を扱う機関なのに対して、学校は人間の「生」を育む機関だということだ。

                  警察・刑務所には、他人の肉体を損傷あるいは抹消した人間がやって来る。彼らは罰として身体を拘束され、労役に服すことを強制され、首を吊られる。死刑は究極の体罰だ。
                  警察・刑務所は、人間の肉体が生々しく官憲や刑務官から支配される、「死」の匂いがプンプンする場所である。

                  軍隊に至っては警察・刑務所とは比較にならないくらい死臭が漂う場所だ。軍隊とは集団で、相手国の国民の肉体を地上から奪い去り、自らの肉体を消し去る場である。
                  上官は兵隊を軍靴で足蹴にし、ビンタを張り、訓練された兵隊は殺人マシンと化し、相手国の兵隊住民を殺し、自分も殺される。
                  軍隊は人間の肉体が屠殺所のように粗末に扱われるところだ。軍隊は人間の「死」で成り立っている組織である。

                  教育の場で、刑務所や軍隊のような、肉体が直接支配される状況は避けねばならない。教育機関では体罰という死臭を漂わせてはならない。

                  繰り返すが、暴力の行き着く先は「死」に他ならぬ。

                  ただいきなり宗旨替えして恐縮だが、私はスキンシップ的体罰は「いいんじゃないか」と思う。むしろ生徒と教師の関係を深める。
                  逆に「体罰は絶対に良くない、教育者の風上にも置けない!」と、体罰を根本から批難する人に対して、私はなぜだか懐疑の目を向けてしまう。

                  体罰に対して、アレルギー的に目くじらを立てる人は「言葉で子供を説き伏せましょう。子供は話せばわかる」と言う。確かにその通り。でも、言葉の力は時に、暴力よりも恐ろしい力を振るうことがある。

                  たとえば、私は生徒から、頭のキレる人間だとよく言われる。
                  10代の青少年から見ると、40歳の私は経験も知識も20年分先を進んでいるわけだから。頭がキレる人間に見えるのは、当然のことだろう。

                  ただ、私が他の大人と違う所があるとすれば、心の中に放射能のような、沸々としたものを、誰よりも抱えているところだろう。私は原子力発電所みたいな人間だ。心の放射能は厚いコンクリートで十重二十重に厳重にブロックしている。

                  そんな頭のキレる教師が、子供の前でキレて、言いたいことを全部さらけ出して、放射能を撒き散らしたらどうなるか?
                  特に私は怒ると頭の回転が急速に速くなり、チャーリー=パーカーのアドリブのように、相手に暴言妄言を流暢に長時間浴びせかける。

                  私に関して言えば、ビンタ一発の方が、子供のダメージははるかに少ない。
                  体罰は悪くて、言葉は良いというステロタイプな判断は、言葉の力を過小評価している。

                  言葉の暴力は人を殺す。私は言葉で人を殺せると思っている。
                  寸鉄人を刺す言葉は、相手の身体を蝕む。教師の屈辱的な暴言で、子供の胸は震え、心拍数が増え胃壁を血で濡らす。怒りで動悸が高まり、目の前が真っ白になるだろう。
                  文章は、相手の鼻面にパンチを食らわせる以上の効果がある。

                  特に塾講師は、話し言葉を飯の種にしている人間だ。毎日毎日4時間5時間、講師生活で延べ1000時間10000時間、生徒の前で話し続けている。だから講師の言葉は普通の大人より鋭く重い。

                  塾講師は「言葉の有段者」だ。剣の達人が素人に剣を本気で振るうのはルール違反であるのと同じように、言葉が売り物の講師が、子供相手に「本気の言葉」を発してはならない。子供のハートを歪める。

                  体罰は恐ろしい。でも「ペンは剣より強し」とはよく言ったもので、時には言葉の暴力の方が恐ろしい。言葉の暴力は、子供の「肉体」を蝕む。
                  | 硬派な教育論 | 15:19 | - | - | ↑PAGE TOP
                  inputとoutput(後編)
                  0
                    旅行に持っていく本はどんな本がいいか?

                    音楽ならiPodを1つ持っていけば事足りる時代になったが、本は重量も体積もある。
                    沢木耕太郎は「深夜特急」の香港からロンドンまでのバスの旅に、「鬼才」と呼ばれた李賀の漢詩集1冊だけ持参したと言うが、私はそこまでスタイリッシュになれない。

                    旅行に持っていくのに最適な本は、閃きに満ちた魅力的な言葉で書かれ、鋭い知性と毒性を含んだフレーズにあふれ、そのたびに読者を立ち止まらせ、本をふと置いて、読者に考える時間を与える本である。

                    こういう本は、読み終わるのに時間がかかる。結果として長期の旅行でもかさばらず、4〜5冊持って行けば万全だ。途中読む活字がなくて、禁断症状に陥る危険を回避させてくれる。

                    優れた本は、スラスラ読むことを拒否する。活字世界の逍遥を楽しませ、読者が蜜蜂とすれば、お花畑のような豊潤な蜜に満ちている。

                    難解だから読むスピードが遅くなるわけではない。速読するにはもったいなくて、一言一句を噛み締めながら読める本。そんな本こそが素晴らしい旅行の友である。
                    おまけに、この手の本は読み終わっても直ちに再読可能で、読み返せば読み返すほど味わい尽くせる。本の密度が高い。

                    具体的に言えば、最近なら養老孟司や内田樹や茂木健一郎の著作である。
                    彼らの文章は閃光のようにアイディアがほとばしり、アイスピックのように脳に刺激的なinputを喰らわす。

                    inputを喰らわされるたびに、力量に圧倒され無力感を覚えるが、しかし1〜2分時間がたてば、彼らの優れた文章が刺激になって、自分の脳味噌からアイディアが湧き出る気になる。刺激的なinputが、充実したoutputにつながる。

                    良い本はinputとoutputの混沌状態を、頭の中に作り出す。読み続けるうちに、もはやinputとoutputの境界線が曖昧になってしまう。

                    彼らの本を読んでいると、錯覚だけど「自分の頭が良くなってる」と感じる。
                    思わず本を置き「スゲエ」と軽く叫んでみたり、開けっ広げな度胸ある表現に笑ってしまったり、そんな瞬間、自分がグレードアップしている気になる。

                    福田和也はcleverな書き手だが、最近の本は軽く流しながらわかりやすく書かれているので速読しやすく、旅のお供にはあまり適していない。速読できる本は漫画と同じで、旅行には向かない。

                    小説だったらドストエフスキーが最高だ。
                    ドストエフスキーを読み返す前「最近面白い小説がないな」と読書に身が入っていない時期があったが、「カラマーゾフの兄弟」を再読し、至福の時を過ごすことができた。

                    「カラマーゾフの兄弟」は推理小説的な推進力もあり、同時に立ち止まって思考を巡らせる本でもあり、おまけに分量も多い。旅行には最適な本である。未読なら、旅行を機会に「カラマーゾフの兄弟」を読破するのもいい作戦だ。

                    旅先の列車やバスの中で「カラマーゾフの兄弟」を読み、ふと我に帰り本を置くと、車窓には異国の光景が広がり、景色を眺めながら考え事にふける。最高に幸福な瞬間だ。



                    さて、私が主観的に「日本で一番頭のいい人」と畏怖する人物が書いたエッセイを抜粋して紹介しよう。煽情的なフレーズが絶対に読み飛ばせない、旅行にうってつけな本である。鋭い頭脳が放つ毒に、同意と反感の入り混じった感情が昂ってしまう。

                    「このごろの青年の時間にルーズなことには驚くのほかはない。・・・こういう人間に限って、会社につとめたり、いっぱしの社会人になると、自分の社会における役割というものの重さに次第に目ざめ、と同時にそれを自分で過大評価して喜ぶようになる。こうして窓口の役人タイプや、つまらない末端の仕事にいながら、やたらに人にいばりちらす人間があらわれる。そして学生時代に約束や時間を守らなかった人間ほど、かえって社会の歯車である自分に満足してしまう人間ができあがりがちなのである。」

                    「私はむしろ、何が楽であり何が努力であるかということのけじめをつけたいと思うのである。人間は、場合によっては、楽をするほうが苦しい場合がある」

                    「日本の女性は伝統に対して受身であったので、自ら伝統を守るという役割を果たしたことがなかった。・・・もし、女性がほんとうに主体的であれば、主体的に伝統を守るという考えがどうして生じないのであろうか。・・・いつも女性は男性に対抗して、伝統を破壊するという方向にのみ、自分の自由と解放の根拠を求めた。」

                    「革命っていうのは、”今日”よりも”明日”を優先させる考え方だろう。ぼくは未来とか明日とかいう考え、みんなきらいなんだ。・・・未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。・・・未来の自由のためにいま暴力を使うとか、未来の自由のためにいま不自由を忍ぶなんていうのは、ぼくは認めない。『欲しがりません勝つまでは』などという言葉には、とうの昔に懲りたはずじゃないか。」

                    「人間の能力の百パーセントを出しているときに、むしろ、人間はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずっと低いことしかやらされていないという拷問には、努力自体のつらさよりも、もっとおそろしいつらさがひそんでいる。」

                    「一流のおそろしい文学に触れて、そこへ断崖絶壁へ連れてゆかれた人たちは、自分が同じような才能の力でそういう文学をつくれればまだしものこと、そんな力もなく努力もせずに、自分一人の力でその崖っぷちへ来たような錯覚に陥るのである。・・・それの位置はあらゆる人間を馬鹿にすることのできる位置である・・・自分は人間の世界に対して、ある「笑う権利」を持っているのだという不思議な自信のとりこになってしまう。そしてあらゆるものにシニカルな目を向け、あらゆる努力を笑い、何事か一生懸命やっている人間のこっけいな欠点をすぐ探し出し、真心や情熱を嘲笑し、・・・人間精神の結晶であるようなある激しい純粋な行為に対する軽蔑の権利を我れ知らず身につけてしまうのである」
                    | 硬派な教育論 | 21:54 | - | - | ↑PAGE TOP