猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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潔癖症の人は困る
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    いわゆる潔癖症の人がいる。
    潔癖症とは、電車の吊り革を握るのが駄目だとか、他人と一緒に鍋や焼肉をつつくのに抵抗があるとかいう人のことである。ヤンキースの松井も潔癖症だと週刊文春に書いてあった。

    私が大手塾に勤めていた時の教室長も潔癖症だった。その教室長がうちの教室に赴任してきた初日、歓迎パーティーを開くことになった。場所は小料理屋で、寄せ鍋をつついた。
    私の同僚が、自分の口にくわえた割り箸を鍋の中に入れた。そしたら新任教室長は醜悪な顔を歪めながら、
    「きちゃなあけえ、箸入れんさんなや」
    と広島弁で言った。標準語に直すと「汚いから箸を入れるな」ということになる。

    本人は哺乳類と爬虫類の中間みたいなご面相なのに、潔癖症とは恐れ入った。逆にあんたに触ったらこっちが穢れるじゃないかと、その後講師の間で教室長は笑いものになった。
    そんな管理職にはあるまじき一言で、新任教育長は赴任1日目にして思いっきり人望を失い、その後講師の誰も彼に従わなくなり、私の教室から独立して塾を開く講師が相次いだ。

    潔癖症がらみの話をひとつ。むかしTBSの「関ヶ原」という時代劇で、こんなシーンがあった。
    秀吉の死後、戦国武将たちが大阪城の大広間に集まって今後のことを協議をする場面で、戦国武将たちは酒を杯で回し飲んでいた。
    そこで、ハンセン病で身体が腐った大谷刑部吉継が、杯を回されて酒を飲んだ。しかし周囲の武将は気持ち悪がって、包帯でぐるぐる巻きになった大谷刑部が口をつけた杯を誰も手にしなかった。
    そこへ加藤剛扮する石田三成が他の武将たちが見守る中、大谷刑部が飲んだ杯を飲み干したのである。
    確かに芝居がかったスタンドプレイのようにも見えるが、石田三成と大谷刑部の友情を示す素晴らしいシーンであり、石田三成の行動に感じ入った大谷刑部は、その怜悧な頭脳では石田三成率いる西軍の不利を悟りながら、石田三成とともに負け戦に殉じたのである。
    逆に教室長は石田三成とは正反対の行動をし、しかも「きちゃなあ」と間違っても言ってはならぬ言葉を口にしたわけだから、人望を失っても当然である。

    しかし、潔癖症であることは別に悪いことではない。潔癖症であることは、病気の感染を防いでくれる。
    たとえば、お隣の韓国は衛生面で大雑把な国なので、1つの器で平気で酒を回し飲む。
    また韓国のおでんの屋台に行くと、おでん鍋の脇に通常の2倍ぐらいの大きさのプラスティックのレンゲが置いてあり、おでんのスープを飲めるようになっている。そのレンゲは使いまわしで、ある人がそれでスープをすくって飲んでも、店の人はレンゲを洗わず、また次の客が同じレンゲでスープを飲む。洗わないレンゲの使い回しである。

    韓国で肝炎やコレラが流行しやすい理由には、そんな潔癖症から程遠い国民性もあるのだろう。おそらく韓国の男性は徴兵制があり軍隊での生活が強制されるので、潔癖症であったとしても軍隊で矯正されるのだろう。軍隊で「オレは潔癖症だ」と言っても相手にされないし、軍隊ほど潔癖症が似合わない職場はあまりない。

    ところで、実は私も軽い潔癖症である。私の場合変な想像力が働くので、人があまり汚らしさを感じないところでも抵抗を感じることがある。

    吊り革に汚らしさを感じるのなら、もっと他に汚い物はあると思う。まずエスカレーターの手すり。あれは吊り革と同じぐらい汚い。

    それから古着。見ず知らずの人間の汗の染み付いた衣服を金を出して買うなんて抵抗はないのだろうか? 吊り革なら汚いのは手だけだが、古着を着ることは全身が他人の汗で包まれることになる。それって不思議じゃないだろか? 

    あと図書館の本や古本。他人の手垢がまったり付着した本の汚なさは吊り革の比じゃない。本を読みながら鼻くそほじっている人は数知れないだろう。私は一度図書館の本を借りて、開いてみたら鼻毛のついたネズミ色の干からびた鼻くそがあり、気分が悪くなったことがある。

    それからオフィスやネットカフェの他人が触ったパソコンのキーボード。色が白いキーボードは手垢で黒ずんでしまっている。吊り革が汚いと言っている人が、そんな手垢まみれのキーボードで軽やかに文字を打っている姿はどうも解せない。
    ピアノ教室に置いてあるピアノも同じように汚い。ピアノの鍵盤は複数の人間が力をこめて弾いているから、手垢の付着度も高いだろうに。

    まだまだあるぞ。エレベーターのボタン、銀行のタッチパネル、美容院や理髪店のハサミ、病院のスリッパ、みんな他人の身体が接触したものである。
    よく金持ちのオッサンが、自分が付けていたロレックスの金時計なんかを「これやるわ」と若い衆に気前良く上げているシーンがヤクザ映画なんかであるが、オッサンの汗のにじんだ時計も、ロレックスとはいえ汚そうだ。

    寿司も怪しい。あれは人間が手づかみで握ったものである。一歩間違えると不潔極まりない食い物だ。指の手入れに怠りない職人が握る寿司に不潔感は全く感じないが、くるくる寿司で高校生の兄ちゃんが握っている寿司なんかとても怪しい。高校生の男の子が日常生活において、手をどんな用途に使っているかチョット想像してみればいい。

    あと公衆トイレで手を洗うのも考えモノだ。他人が手を洗った水で濡れた水道栓は、バイ菌の塊じゃないのか? そんなバイ菌まみれの水栓で手を洗って何になるだろう。洗わない方がマシじゃないか?

    それから温泉や銭湯。大浴場はよく考えれば汚い。浴槽の中でオッサンが自分の尻に手を突っ込んで洗うと、大腸菌が湯の中に流れ出す。草津温泉では酸性で殺菌力が強いから大腸菌は40秒で死に絶えるというが、日本の温泉や銭湯がみな草津みたいな殺菌力があるわけではない。われわれは大腸菌入りの湯に入っているのだ。
    浴槽はともかく、温泉や銭湯では特に洗い場の椅子が汚い。自分が座るちょっと前までその椅子には見知らぬオッサンのケツが乗っかっていたのだ。ケツの穴から滲み出るウンコ汁が付着しているのだよ。

    風呂はまだいい。プールはもっと悲惨だ。子供の中にはプールを巨大なトイレと勘違いしている奴がいる。泳ぎながら尿を放出している子供は多いはず。
    夏真っ盛りの日にテレビのニュースで、混雑したプールで子供が水を掛け合って遊ぶ光景が出てくるが、あれなんか潔癖症の人が見たら、小便のぶっかけ合いにしか見えないかもしれない。

    手紙も汚い。封書に貼る切手は、ほとんどの人が舌でなめて貼るだろう。誰かから封書を受け取って、切手のあたりを指で触るのは汚らしくないか? 切手の裏には唾液がびっちょり付着している。

    使いまわされているのに不潔感を感じないのはお札やコインだ。あれだけ多くの人に回されながら不思議だ。どんな潔癖症の人でも「お札やコインは不潔だからいりません」とは決して言わない。

    潔癖症の敵の極めつけは公衆電話の受話器。公衆電話の受話器は何百何千もの見知らぬ人間が口をつけ、息を吹きかけたものである。不潔の権化である。公衆電話の受話器に口をつけることは、集団間接キッスの輪に自分も加わっていることになる。

    潔癖症、気になりだしたら止まらない。
    | 未分類エッセイ | 13:23 | - | - | ↑PAGE TOP
    日本の赤い牛肉と白い米
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      大阪の焼肉屋「万両」の上バラ



      日本の食べ物で一番美味いものは何か。
      もちろん好みは人それぞれだろうが、焼肉屋で食べる霜降りの焼肉と白い米の組み合わせが、最有力候補に上がるのは間違いない。

      仕入れが良い焼肉屋で、飛び切り上質な霜降りのロースやバラを網で焼き、白い脂には完全に熱を通し、でもまだ赤い肉の部分にほんの少しレアな部分を残した絶妙な焼き加減の肉を、白いご飯と一緒に流しこむ快楽は、ほかのどんな食べ物も絶対に感じさせてはくれない。

      焼肉と一緒に食べる米は、炊きたての熱々よりも、炊いて少し時間がたち水分が抜けたものがいい。
      炊飯器の蓋を開けたばかりの米を、焼きたての肉と一緒に頬張ると、熱すぎて味がわからない。ご飯は大量にバクバク口に運べるように、おひつで余分な熱と水分を飛ばしておきたい。

      うまく焼けた霜降りの焼肉を、ご飯と一緒に口にすれば、溶けた脂の甘さ、レアな赤身の甘さ、白い米の甘さ、タレの醤油味とニンニクのスパイシーさが口の中でブレンドされ、最強の和音を奏でる。

      さて、牛肉・豚肉・鶏肉のうち、どの肉が一番美味いだろうか。
      豚肉もチキンもたしかにうまい。美味い豚肉を食べると「下手な牛肉よりおいしいね」と思うことは確かだ。
      しかし「最高の牛肉」を食べたとき、絶対的なうまさに言葉を忘れ、どんな肉も、どんな食材も太刀打ちできないと正直感じてしまう。

      美味い和牛は牛乳の味がする。雄牛は肉用に適さず、去勢牛か雌牛が肉用になるのだが、去勢牛よりも雌牛の方がうまい。甘い乳臭さこそが上質の雌牛の証拠だといってよい。
      雌の和牛の霜降り肉は、牛乳と牛肉が同じ生命体から生まれた食材であることを、改めて認識させてくれる。

      ところで、中国や韓国を旅して思うのだが、米と牛肉の味はイマイチだ。韓国は焼肉の本場のように思われているが、私の主観で言えば、日本の方がはるかに牛肉がうまい。中国に至っては牛肉は豚や鶏よりも一段下の肉だと考えられていて、中華料理のメインな食材ではない。

      また日本の米は真珠のような艶々した光沢を持つが、中国や韓国の米は輝きがなく、どこかパサッとしており、味も上品な甘さを感じない。米粒もどこか不揃いのような気がする。
      私たち日本人が、毎日いかに上質の米を食べているか、中国や韓国に行けばよくわかる。

      嗜好の違いはあるかもしれないが、日本の米と牛肉は、絶対的なうまさをもつ、世界に冠たる食材だと私は考える。中国韓国の観光客が日本に来て、高級温泉旅館に泊まり、おひつに入った朝食のご飯を口にすれば、必ずや感動するだろう。

      中国で経済発展が続き金持ちが増えれば、日本の米は中国米の10倍の値段がするにもかかわらず、売れ行きは大幅に伸びるだろう。日本の米は中国の金持ちの嗜好品になるかもしれない。牛肉も同様に中国の富裕層の食卓に上る。

      中国人の舌と胃袋が日本の米と牛肉を求めてくれれば、日本の農家は潤う。
      ある国家が経済発展を成し遂げリッチになれば食生活は豊かになり、食材の輸入が増え、周辺諸国の農業漁業関係者の収入が増える。

      ということは、中国の経済発展が日本の農業漁業の救い主になる可能性がある。
      かつての日本がそうだった。高度経済成長で食生活のバリエーションが増え、世界中から食材を求めたおかげで、世界各国の農業・漁業が発展した。日本の経済発展が、地球上の第一次産業を活性化したのである。

      戦後の日本人の「食いっぷり」は凄まじかった。
      食生活が変化した結果、1億人もの日本人が急にラーメンやパンを食べるようになり、アメリカは日本に大量の小麦を輸出した。おまけに日本人の食卓には肉料理が登場し、飼料としてとうもろこしや大豆も輸出し、アメリカの農家が大いに潤った。

      また、旧ソ連でウニは気色悪い棘皮動物として二束三文で売られていたが、冷戦後日本人がウニ好きであることを知り、ロシアの漁師は先を争ってウニを採取した。

      さらにアメリカでマグロは赤身の部分だけが缶詰にされ、脂の部分はアメリカ人の口に合わず廃棄処分されていたが、日本人がマグロの脂が大好物で、とんでもない高値で取引されることを知り、アメリカの漁業関係者は日本にマグロのトロを売りつけた。

      タイやインドネシアやベトナムでは、日本人向けのエビの養殖が盛んになり、農民は田んぼを潰してブラックタイガーの養殖池を作った。エビの養殖は米作りの5倍儲かるそうで、バンコクやサイゴンの郊外はエビの養殖池だらけである。

      ノルウェーでも日本人向けのサーモンが企業的に養殖され、オスロからサーモン専用の直行便で成田空港に空輸される。オスロから成田へは旅客用の直行便は就航していないのに、サーモンの貨物便は飛んでいるのだ。

      日本という、食に「ぜいたく」な国が、世界各国の農業・漁業を潤わせた。同じように中国が経済発展すれば、「ぜいたく」になった中国人が日本の高級食材を求め、結果として日本の農業・漁業を、危機的状況から救う可能性が強い。

      米も牛肉も素材で勝負の食材である。素材の良さは自然の恵みでもあるが、それ以上に農業や漁業に携わってきた人の叡智と努力の賜物だ。
      真珠のような光沢を持つ白米に更に磨きをかけ、牛肉を霜降りの綺麗なマーブル状態に改造したのは、農業関係者が積み重ねてきた執念の結果である。

      日本の第2次産業の成果は、外国で大いに評価され、日本製の自動車や船や電気製品やゲーム機は世界を席巻し日本の国力を大いに上げた。
      反面、日本の農産物は価格の高さもあってか、ドメスティックな国内消費にとどまっている。日本の第1次産業の成果は、日本の物価高もあって国際的に評価されていない。

      中国が経済発展し、日本との物価の差が縮まれば、日本の飛び切りうまい農産物、特に米と牛肉は堰を切ったように中国へ輸出される可能性がある。
      もともと日本人も中国人もアジア人、味覚の嗜好性は似ていると思われる。中国の経済発展で日本の第2次産業は痛手を蒙っているが、皮肉にも第1次産業に復活の余地を残す展望が開けてきた。
      安い農産物の輸入を制限し、農家を保護してきた受け身の農政が、輸出に力を入れた攻撃的なものに転換する可能性を秘めている。

      赤い牛肉に白い米。赤と白は日本の国旗・日の丸の色である。美しい日の丸を喰らうような、白い米と赤い肉のエクスタシー。

      かつて日本は中国に日の丸を掲げ軍事侵攻したが、これからは日本のナショナルカラーである赤い牛肉と白い米で、中国人の舌をノックアウトしたい。


       
      | 旅行食べ物 | 17:11 | - | - | ↑PAGE TOP
      北京オリンピックと男子体操
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        妹のご主人や、東京の友人など、けっこう北京オリンピックに行く人が多い。
        誰かが海外に行くと聞けば私は「うらやましい」と思ったりするのだが、オリンピックに行きたいとは思わない。テレビ観戦のほうが優雅でいい。

        オリンピック期間中は航空券も高いし、ホテルも通常の3倍はするし、おまけに暑い。
        さらに今回はよりによって開催地が北京。どんなトラブルが起こるかわからない。チベット族やウイグル族にテロでやられたらかなわない。
        なんでもウイグルから重慶に行く列車で、雷管を100本腰に巻いた男が公安に拘束されたというし、オリンピック開催期間中は、北京の地下鉄は身体検査と持ち物チェックをしないと乗車できないという。

        テレビ観戦が、いちばん優雅なオリンピックの楽しみ方なのかもしれない。
        ただ今回の北京オリンピック、テレビ観戦はあまりできない。なぜなら中国と日本は時差が1時間しかないため、ゴールデンタイムの主要競技は塾の仕事と重なってしまう。
        バルセロナやアテネの時は、競技が日本時間の深夜に行われたので、夜更かししてオリンピック観戦を楽しむことが出来たのに・・・

        特に4年前、アテネ五輪の男子体操競技は興奮した。思いがけず金メダルを獲得するドラマに立ち会うことができた。
        男子体操競技は日本時間の深夜3時から始まったのだが、私はNHK総合テレビで野球のオランダ戦を見ていた。
        ところが途中で野球中継が中断して、体操競技の決勝が始まった。野球中継の中断に腹が立った人は多いに違いない。

        オランダに先行され、岩隈はマウンドで弱気になり、日本の勝利に黄信号が灯り始めた場面だった。 肝心な時に野球が中断され、メダルがあまり期待されていない体操競技に変わり、私はがっかりした。

        ところが・・・

        日本はなんと金メダルを取った。TVを見てあんなに興奮したのは久し振りだったかもしれない。とにかく素晴らしい試合だった。見てホントによかった。まるで梶原一騎的劇画世界みたいに視聴者を熱くさせた。 私も熱くなった。

        体操競技で印象に残ったのは、強くて笑える敵役の双子、アメリカのハム兄弟だった。
        ハム兄弟は、ここぞという時に日本選手の前に立ちはだかった。
        兄はグラハム=ハム、弟はポール=ハム。この2人は抜群の技量の持ち主で、顔は全く同じ。双子の体操選手というのは珍しい。
        2人とも冷静沈着なサイボーグといおうか、クローン人間みたいなみたいな顔をしていて、冷たい迫力を持っている。アメリカ人というより、1970年代のソ連の代表選手といった容貌だった。

        2人の容姿の違いは1つ。兄弟ともに髪が短いのだが、お兄さんの方が前髪が少しだけ立っているのだ。前髪でしかこの2人を見分けることができない。
        推測だが、2人ともあまりにも似ていて、そのまま競技したら審判が見間違ってしまうので、審判が何かわかりやすい目印をつけて欲しいと兄弟に要求したに違いない。だから兄さんの方が短い前髪をちょこんと立てているのだろう。

        とにかくこのハム兄弟、団体戦が終わった今では笑って語れるが、競技中は「日本選手はこんなおっそろしい双子と戦わなければならんのか」と脅威に感じた。

        対する日本の男子体操選手は、富田も鹿島も塚原も、なんか真面目でストイックな、進学校の勉強ができそうな生徒みたいで、彼らの平凡な容姿が体操の練習の厳しさを物語っていた。
        日本の真面目な青年が、ハム兄弟みたいなアメリカのサイボーグや、中国のゴム製の関節とコンニャク製の筋肉を持つ超人と戦って勝った。痛快この上なかった。4年前の体操競技はオリンピックの醍醐味を味あわせてくれた。



        ところで、北京の街って3日も歩けば飽きてしまうんだよね。
        東ベルリンやワルシャワや平壌のような、社会主義国の首都独特の陰気な街並みに、圧迫感をおぼえる。香港のような、街歩きの楽しさに書ける。
        また、北京ダック以外、北京はメシがまずい。 故宮や万里の長城は素晴らしいが。

        どうせならオリンピック期間中だけでも、北京市内でアトラクションやればいいのに。
        ディズニーランドにミッキーとミニーがいるように、北京の街のあちこちに、毛沢東や北京原人がいれば、街歩きも楽しかろう。

        ただ少数民族の過激派が北京原人に化けて破壊活動を行う可能性が強いため、現実味には乏しいが。

        おまけにメスの北京原人だと思い「いっしょに写真撮ってください」と声をかけたら、「わたしは日本の尾道から来た観光客よ。失礼しちゃうわね」と答えが返ってきたりすると、非常に気まずい。
        | 野球スポーツ | 13:18 | - | - | ↑PAGE TOP
        わが塾は変人屋敷 下
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          「ユニークな変人」とは活発で、自己表現がうまい子ばかりではなく、もちろん無口な「ユニークな変人」もいる。
          無口な子にも、無愛想で無表情で人の話についていこうとしない、錆びたアンテナみたいに無反応で不感症のタイプと、逆に高性能な感度を持つ繊細で「ユニーク」なタイプの2通りある。両者は決定的に違う。

          後者の無口で「ユニーク」な子は鋭い感性を持ち、まわりがウィットに富んだ会話をしていれば、たとえ発言数が少なくてもニュアンスに富んだ、的確な笑顔で反応する。
          雄弁な子が楽しいおしゃべりと独特なパフォーマンスが得意分野なら、無口な子は笑顔で話の輪に溶け込む。

          無口な「ユニークな変人」に文章を書かせたら、飛び切り面白い表現をする。
          彼らはおそらく、自分が思っていることを話し言葉で口に出してしまえば、大雑把になり上手く伝わらないと慎み深く考えているから、自然に言葉数が少なくなるのだろう。中途半端にベラベラ話すよりも、言葉を慎重に選択し、鋭敏な書き言葉でじっくりと文章表現する術に長けている。

          内面が深く文章力が豊かな子は、活発な友人が話している最中にでも、「君の話は理解できるし、おもしろいよ」と常に紳士淑女的な笑顔を見せながら相槌をうつのがうまく、また彼らが時々放つ短い一言は重みがあり、言葉数が少ないのに会話の中心になり、畏敬の念を抱かれる。

          とにかく話すにせよ黙るにせよ、「ユニークな変人」は会話中、脳の回転音がブンブン聞こえる。私は塾を「ユニークな変人」が集まるサロンにしたい。
          塾の広告に「恋人募集中」をもじって「変人募集中」と書きたい衝動に駆られる。



          ところで、かつてイギリスでは、カフェに独自の才能を持つユニークな知識人が集まって、あれこれ議論をする風習があったという。
          そんな活発な議論の中からニュートンなど偉大な学者が生まれ、斬新なアイディアに満ちた科学者を輩出した。

          紅茶を前にして語り合う、子供じみた机上の空論が、鉄道や蒸気船や電話や映画や蓄音機を発明するきっかけになり、現実世界の風景を鮮やかに変えたのである。

          ニュートンと比較するのはおこがましいが、塾の授業もイギリスのサロンみたいに、私だけが授業形式で話すのではなく、遊びとウィットに富んだ会話を、ユニークな感性に満ちた生徒同士で交わすような形態が理想だ。「遊び心」に富んだ塾にしたい。

          しかし最も大事なことは、平時の授業は「遊び心」に満ちているが、戦うべき時には壮絶に戦う気概を持つことである。
          イギリス人は平時において個人主義な遊び人だが、戦時には豹変し、確固たるチームワークで一丸となり、なりふり構わず戦い抜く。

          第2次世界大戦中、ナチスドイツに追い詰められたイギリスでは、ロンドンの地下壕で、チャーチル首相以下陸海軍の軍人、蔵相・外相などの政治家が共同生活をし、24時間体制で作戦を練り、現場に命令を下したという。
          地下壕ではイギリスの首脳が、ナチスの空襲に耐えながら喧々諤々の議論をし、"unique"なアイディアが飛び散った。

          逆に日本の戦争指導者は、陸軍と海軍が犬猿の仲で、軍官僚の縄張り争いが優先して作戦系統が混乱し、陸軍は中国・アジア、海軍はアメリカと戦線を無謀に拡大しすぎて、破滅の道に突き進んだ。
          司馬遼太郎によれば、あれほど精神主義を謳った陸軍省は、夜になると明かりが消え、高級官僚は帰宅したという。

          個人主義者で遊び人のイギリス人が、戦時には団結し闘争本能をむき出しにして勝利したのに対し、和を重んじるはずの日本人は、肝心な時に仲違いして戦争に負けたのは皮肉なことである。
          イギリス人は平時にバラバラで戦時にベタベタ、日本人は平時にベタベタで戦時にバラバラと表現できるだろうか。

          うちの塾も、受験前は大戦中のロンドンの地下壕のように、自習室で講師と「ユニークな変人」の生徒が団結して、血眼になるような戦闘集団に仕立て上げたい。
          平時には遊び心に富んだユニークな会話で盛り上がるが、戦時には緊迫感の中でシリアスな雰囲気が醸し出される、メリハリのついた環境を作りたい。

          ついでに言うと「遊び心」のある自由な発想は、受験前の緊迫した場面での通奏低音になる。「ユニークな変人」ほど乱世に強い。
          | uniqueな塾生の話 | 20:18 | - | - | ↑PAGE TOP
          わが塾は変人屋敷 上
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            うちの塾は個性の強い子だらけ。現役の塾生もOBも「ユニーク」な「変人」が多い。現役塾生で言えば、特に中2男子は「ユニークな変人」ばかりだ。
            (現役の塾生だから詳しくは書かないけど、YK君は真面目な変人、グルグルスグル君はヤンチャな変人、R平君はクールな変人、さわちんはスマイリーな変人、タコ君はクリリンな変人、AP君は顔が変人だ)

            誤解して欲しくないのだが「ユニーク」「変人」とは、私に関する限り最大限のほめ言葉である。
            たしかに、ユニークという言葉は日本語では「おかしな人」「笑わせてくれる人」というニュアンスが強調され、一般的にはほめ言葉ではないかもしれない。
            「君はユニークだね」と伝えれば相手の気分を害する可能性もあり、「お前は変人だ」と言えば、喧嘩を売っているようにしか聞こえない。

            ただ英語"unique"の原義は、唯一無二の人という意味だと聞いた。イギリス人は"unique"な人材をこよなく愛し、ある街に"unique"な人がいると噂に聞きつけたら、わざわざ足を運ぶ趣味の人までいるらしい。
            ユニークな個性を愛でるイギリス。うちの塾もイギリス的な塾である。

            さて、おなじみのK君はイギリス的意味での"unique"な男だ。他人とは違うことをしよう、変わったことをしようという気概にあふれている。ユニークさに磨きがかかった男で一緒にいると楽しくて、すがすがしい。

            ある時K君の携帯電話から、突然、目覚ましの音が鳴り出した。
            この音が凄まじかった。不協和音の壮絶な音で、黒板とチョークが接触する「キー」という不快な金属音を集めてサンプリングし、ボリュームを最大級に上げたような音だ。

            どうやらこの目覚まし音、哺乳類も爬虫類も鳥類も、あらゆる動物が不快に感じ、どんな状況でも目ざめてしまう音らしい。私もいちおう哺乳類のはしくれなので、K君の目覚まし音にトラウマになりそうな衝撃を感じた。

            こんな壮絶な音で起きないのは死体だけだろう。10分も聞いていれば死ぬか狂うかしてしまいそうな拷問的な音だった。K君はどういう手段でこんな音を探し出したのだろうか。

            また、これまたおなじみのS君の中3時代のユニークなエピソードを紹介しよう。
            うちの塾の壁には書棚が張り巡らされ、ギッシリと本が詰まっている。
            彼が中3の時に、私の家から本を大量に運んだのだが、本の多さに興味を示したS君は難しい顔で「ぎょうさんあるねえ」と言ったとたん、塾にある本の値段の合計額を、講師室の電卓を片手に計算し始めたのだ。

            2ヶ月に渡り、休憩時間になると必ず1つ1つ本を手に取り、計算機に値段を打ち続けた。変な男だ。

            受験が近くなり、150万ぐらいまで計算したところでギブアップしたようだが、S君は鋭い目つきをしているので、電卓片手に本の値段を計算している姿はまるで、私の塾が借金で抵当にされ、競売にかけられた本の価値を精査する管財人みたいだった。
            | uniqueな塾生の話 | 21:49 | - | - | ↑PAGE TOP
            博多「元祖長浜屋」のラーメン
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              塾で朝から事務の仕事をしていて、ちょうど3時ごろに腹が減る。
              そんな時、無性に食べたくなるのは、博多「元祖長浜屋」のラーメン。

              どこにも「元祖長浜屋」に似た味のラーメンがないんだよね。
              いまどきの九州ラーメンはクリーミーで濃厚なスープなんだけど、「元祖長浜屋」は白濁しているけど、トロトロしたコクに欠ける。その分、味を塩分と化学調味料で整えている感じ。ジャンクな味わいだ。悪口を言おうと思えばいくらでも言える。でも、それがたまらない。

              写真は「べたなま」。脂が濃く麺も生のように固い。麺は小麦の味がして歯ごたえがあり、まことに秀逸。博多ラーメンは1杯分の麺が少ないが、ここは麺の量が多い。替え玉1回で腹がいっぱいになる。

              また、左側の肉が結構醤油からくて、スープに沈めておけばちょうどいい塩梅になる。肉だけのおかわりも出来る。

              このラーメン、麺もスープも肉も、明らかにどうしようもなく不健康なベクトルを向いているが、ただネギのシャリシャリ感だけがヘルシーな方向である。

              ラーメン1杯400円。以前は250円だったが、それでもよその店に比べてリーズナブル、安い。

              博多ラーメンも「一風堂」や「一蘭」はチェーン展開しているのに、「元祖長浜屋」は有名店なのに多店舗展開しない。塾の近くに支店を出してくれないかしらん。
              もし近くにあったら週に2〜3回は通うので、メタボ死にしそうだけど。

              ジャンクな味の食べ物は、食う者をジャンキーにする。


              | 旅行食べ物 | 16:10 | - | - | ↑PAGE TOP
              イチローとダメ外人
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                日本のプロ野球に「ダメ外人」がどれだけやって来た事か。

                巨人だけでも、あの「トマ損」「大型扇風機」と呼ばれたトマソンとか、渡邊オーナーに「何でヤクルトがペタジーニでうちがアルモンテなんだ」「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と言わしめたアルモンテ&マントのご両人とか、「炎上神」と呼ばれ防御率23.63(!)という凄まじい成績を残して4月に去っていったミセリとか、ひどいのがいた。

                阪神のグリーンウェルなんか年棒3億もらいながら、日本通算6安打しか打てずに、ヒット1本に換算すると5000万円貰ってウホウホ日本を去った。

                あと「球場のロッカー室にゴキブリが出る」といって帰った近鉄のマネー、仮病で解雇されたダイエーのミッチェルあたりがひどかった。
                あと西武にシアンフロッコという珍名の選手もいたっけ。

                ところが、野茂がメジャーリーグに挑戦した1990年代以来、ダメ外人は徐々に減り始め、21世紀に入ってイチローや松井がアメリカに渡ってから、ダメ外人の数が減ったような気がする。

                というかイチローが移籍した2001年以後、ダメ外人の質が変わった。高額年棒をせしめ仮病でサッサとアメリカに帰ってしまうミッチェルやグリーンウェルのような、態度のでかい日本をナメたヤツがいなくなった。

                同じダメ外人でもイチロー以後は生活態度が悪いダメ外人ではなく、ただ能力の低いダメ外人だけになった。

                やっぱりイチローの存在は大きい。日本人の凄みをアメリカ人に知らしめた功績は素晴らしい。日本の野球は、なめられなくなったのだ。

                つうかアメリカ人は、こちらが弱みを見せると馬鹿にし、強く出ると勝手に敬意をいだく、単純な国民なのかしらん。
                | 野球スポーツ | 10:37 | - | - | ↑PAGE TOP
                国語・難しすぎる接続詞の問題
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                  (   )に当てはまる選択肢を、次のア〜エから選びなさい。

                  ( 1 )マンピーのGスポット
                  Gスポット Gスポット
                  真夜中の森を抜けて 辿れば自由の道
                  ( 2 )マンピーのGスポット
                  Gスポット Gスポット
                  たとえ君がつれなくても 永遠の 夏のメロディ

                  ( 3 )マンピーはJuke Box
                  Juke Box Juke Box
                  湖に赤いバラを捧げた憂いの旅
                  ( 4 )マンピーはJuke Box
                  Juke Box Juke Box
                  君と濡れた貝を拾う 灼熱の恋のメロディ

                  ア・あれは イ・それが ウ・やがて エ・だから

                  桑田氏の歌詞は解読不能
                  | 国語力!作文力!読書力! | 20:09 | - | - | ↑PAGE TOP
                  教員採用はカネとコネ
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                    大分県で、カネとコネで教職に就いた人間のことが問題になり、新聞記事には「学校には失望した」「自分の担任がそうだったらどうしよう」というコメントがあったが、私は別に失望していない。
                    私は公教育にあまり期待していないから、塾の仕事をやっている。賢明な親もあまり公教育に期待していないから塾がはやる。希望がないものに対して失望したりはしない。

                    カネとコネで教職に就いた人は一部の人に限られるのだろうが(割合はわからない。5%かもしれないし50%かもしれない)、学校の先生はカネとコネでなるものだという事実は、私の中では子供時代からの常識だ。

                    私には代議士や組合の知り合いもいないし、カネもコネもないので最初から教職になんて就く気はなかった。教職の採用なんて、はなから出来レースだと思っているから、学校の先生になろうなどとは露ほど思わなかった。

                    案の定、大分県では昨年15人がカネとコネの力で、点数に下駄をはかせて採用されたらしい。ということは点数が良かった15人が「有力者の子弟」のカネとコネの力で弾き飛ばされ先生にはなれなかったということになる。カネもコネもないのに無謀な挑戦をしたわけだ。

                    不採用になった15人は、いまどうしているのだろう。力がありながらカネとコネの力に負け、先生という職業に就けなかった人達。不採用の15人は採用試験をフェアな競争だと勘違いして試験を受けたのに不合格になった。信じちゃいけないものを信じたら駄目だ。

                    要するに根本の原因は、学校の先生が、生徒がいて授業ができる幸せを知らないことにある。自分の授業を聞く生徒がいて当然だと錯覚している。
                    逆に塾の先生は授業をしたくても、教室に生徒がいない場合だってあり得るのだ。

                    たとえば私が塾を開業した当初、1ヶ月間生徒が中2の男の子1人だった。彼とはいっしょにデスクライトを買いに行き、黒板をセットし、手作りの塾という感じだったが、内心は死の深淵を覗き込む恐怖がした。
                    私のつくった得体の知れぬ塾に、最初に飛び込んで来てくれた彼には、感謝を通り越して言葉が出ない。彼がいなかったら私は今頃どうなっていただろうか。

                    とにかく学校の先生には、生徒が集まらない恐怖なんか想像できやしない。塾講師が授業をするには、当たり前だが最初に自分の授業を聞いてくれる子供を集めなければならないのである。

                    学校の管理職も、いい先生を集めなければ学校が潰れるという危機感がない。部下が無能でも余程のことがない限り自分の給料は下がらない。
                    奇人変人怠け者、また自己主張だけが強い偏屈者だらけの学校でも、学校が消滅することはない。だからカネとコネで能力が劣る人材を集めても学校はどうにかうまくやっていける。おとなしく従順な人なら誰でもいいのではないか。

                    学校は下方硬直性が強い。鉄板のようである。しかし塾の仕事はいったん落ち込んだら奈落の底だ。

                    ところで、あるテレビのコメンテーターは「こんな事件があると、ちゃんと自分の力で教職に就いた先生が疑われてしまいますよね」と言ってたが、その自力で教職に就いた先生も怪しい。

                    たとえば教職志望の大学生を持つ親が、息子や娘の点数を水増しするために政治家に頼みに行く時、息子や娘にきちんと「お前の点数が足りなかったから、県議の先生に300万円持って頼みに行くからな」と告げるのだろうか。
                    私が親だったら、息子や娘に告げたりはしない。黙って有力者にカネを渡し、息子や娘には内緒にして、裏ですべて事を処理する。

                    息子や娘の側も、親が不正な手段を取ると知ったなら、多少なりとも矜持のある若者だったら、親に「余計なお世話だ」と拒否反応を示すだろう。親子断絶だってありえる。
                    それとも「裏口就職」を素直に受け止め、親子揃って県議の先生のところに「先生のおかげで先生になれました」と、商品券と菓子折を持参して挨拶に行くのだろうか。

                    こんなふうに自分が「裏口就職」で教師になった事実を知っている人間は、不正が明るみに出ても自業自得だが、逆に親が本人の知らぬまま裏から手を回して教職の座を手に入れた教師は、自分が不正な手段で先生になったと知ったら、途方もないショックを受けるだろう。

                    おそらく今学校の先生の中には、もしかしたら自分が知らないうちに親が政治家に金を渡して、足りない点数に下駄を履かせて、不正に教師になったんじゃないかと、戦々恐々と自分に対して疑いの目を向けている人もいるだろう。
                    自分が実力でゲットしたと疑わなかった学校教師の座が、実は周囲の大人が不正な手段を使い、裏でセッティングして手に入れたものだと、内部資料を公表された時の衝撃は計り知れない。親や子供など外部からの軽蔑と、内部の自己批判のダブルパンチで、アイデンティティを喪失してしまう。

                    「うちの担任の先生はカネとコネで教職に就いたのかしら」と疑っているのは保護者だけではない。教師自身すら自分が採用された経緯について疑心暗鬼になっているのだ。
                    日本全国の学校教師が「絶対に自分だけは違う!」と言い切れない、微妙な立場に置かれている。
                    | 硬派な教育論 | 17:07 | - | - | ↑PAGE TOP
                    学校の先生の子
                    0
                      学校の先生の子供には良い子が多い。ただ単に勉強ができるというものではなくて、性格がいい素直な子だという意味である。(もちろん結果的に学業成績が伴っている場合が多いが)

                      しつけがきちんと行き届いている。好感度満点の挨拶もできる。また服装にしても質素できちんと清潔に洗濯したものを着てくる。お兄ちゃんやお姉ちゃんのお古の服を、弟や妹が身につけているのもほほえましい。そして靴は学校規定の白い靴をはいてくるし、中3になっても靴には黒マジックで名前がカタカナで書かれていたりするのである。

                      学校の先生の子供に、良い子が多い原因を色々考えてみた。
                      まず学校の先生特有の「生真面目さ」が、家庭で子供に伝授され熟成されるのだろう。うちの塾の生徒で、塾の自習室に毎日やってきて、私が帰るのと同じ時刻まで粘るのは学校の先生の子が多い。言われたことをまじめにこなすことが、血肉化している。そしてまじめさ律儀さが、大人に好かれる大事な要素だということがわかっている。
                      それからやはり「遺伝」があることは否めないだろう。

                      しかし私が一番の原因だと思うのは、学校の先生が学校の現場でたくさんの親や子に接しているからではないかと思う。
                      教育現場では多種多様な親子がいる。学校での親子面談は、学校の先生にとって、さまざまな家族模様の情報収集場だ。学校の先生は、この家の子育ては素晴らしいから真似しよう、ここはひどいから反面教師にしようと、無意識のうちに懇談会で得た教え子の家族の情報を踏み台にしているのだ。

                      たとえば現場で数々の子供と接してみて、学校の先生はこんなことを考えたりするのだろう。
                      「A君は国語の成績が悪い。原因は小さい頃からゲーム漬けにして、本を読ませる機会を与えなかったからだ。うちでは幼稚園に上がる前に膝に子供を乗っけて持たせ読みしよう。プレステを買い与えるタイミングは、できる限り年長になってからにしよう。」
                      「B君は親が甘やかしすぎてわがままだ。三田佳子の子供のミニチュア版。母親はブランド物を身につけて、子供も20000円のナイキのバッシュをはいている。こづかいもやりすぎ。うちは毎月のこづかいをきちんと決めて、子供のうちから金銭感覚を身につけさせよう。」
                      「C子さんはいつも顔色が悪いし肥満体。普段からジャンクフードしか与えていないからだ。自分の子供には自然食を与えよう。」
                      「D子さんは学力がイマイチ上がらない。学校教師の自分が言うのもあれだが、
                      塾へ全く通っていないからだ。自分が学校現場にいるから痛いほどわかるのだが、学校だけでは偏差値の高い大学の進学は不可能。まさかD子さんに塾へ行けとは学校教師の立場上口が裂けても言えないが、自分の子供は『きちんと』塾へ通わせよう。」

                      もちろんいちいち意識的にこんな悪魔的なことを考えているわけではないが、ひどい子育てをやっている親は、学校の先生によって無意識のうちに自分の子供はこんな風には育てちゃならないという反面教師にされる。

                      また、学校の先生が多くの子供に接していて、子育てに有利な点があるとすれば、自分の子供の能力が客観的にわかるということかもしれない。

                      教師以外の仕事をしている普通の親は、自分の子の事しか知らない場合が多い。よその子はたまに家に遊びに来たり、学校の参観日や塾の送り迎えのときに
                      会ったりするのがせいぜいである。だから自分の子の性格や能力や社会に対する適応性などの比較判断が曖昧になる。客観的ではなく主観的になる。
                      だから自分の子に、妙に高望みをさせたり、また逆に凄い力を持っているのに
                      知らないまま才能を放置したりする事態になるわけだ。

                      子供は自分の能力と違う評価をされると、居心地が悪いものである。「うちの子はやればできるのに・・・」この言葉は極端に言えば、親が今あるがままの子供を認めないで将来のあるべき姿の子供しか認めていないことになる。子供にとっては面白くないし、不要なプレッシャーがかかる。

                      普通の親はたかだか2〜3人の自分の子しか知らないが、学校の先生は1000人の子供を知っている。学校の先生は多くの子供を見てきた経験から作られた子供の評価基準の「ものさし」を持っていて、自分の子をそれに当てはめることで、子供の背丈にフィットした子育てができる。
                      塾で懇談会をしていてわかるのだが、学校の先生が自分の子に下す判断は冷徹で、しかも正確なのである。だがしかしそれは子供の能力に対して「あきらめる」ことではなくて、逆に子供は自分の力を親に正確に見抜かれている分、安心して伸び伸びと生活できるのである。
                      その結果、勉強もできるし、精神的にも安定した、目的意識のはっきりした子ができる。

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