2008.07.24 Thursday
潔癖症の人は困る
いわゆる潔癖症の人がいる。
潔癖症とは、電車の吊り革を握るのが駄目だとか、他人と一緒に鍋や焼肉をつつくのに抵抗があるとかいう人のことである。ヤンキースの松井も潔癖症だと週刊文春に書いてあった。
私が大手塾に勤めていた時の教室長も潔癖症だった。その教室長がうちの教室に赴任してきた初日、歓迎パーティーを開くことになった。場所は小料理屋で、寄せ鍋をつついた。
私の同僚が、自分の口にくわえた割り箸を鍋の中に入れた。そしたら新任教室長は醜悪な顔を歪めながら、
「きちゃなあけえ、箸入れんさんなや」
と広島弁で言った。標準語に直すと「汚いから箸を入れるな」ということになる。
本人は哺乳類と爬虫類の中間みたいなご面相なのに、潔癖症とは恐れ入った。逆にあんたに触ったらこっちが穢れるじゃないかと、その後講師の間で教室長は笑いものになった。
そんな管理職にはあるまじき一言で、新任教育長は赴任1日目にして思いっきり人望を失い、その後講師の誰も彼に従わなくなり、私の教室から独立して塾を開く講師が相次いだ。
潔癖症がらみの話をひとつ。むかしTBSの「関ヶ原」という時代劇で、こんなシーンがあった。
秀吉の死後、戦国武将たちが大阪城の大広間に集まって今後のことを協議をする場面で、戦国武将たちは酒を杯で回し飲んでいた。
そこで、ハンセン病で身体が腐った大谷刑部吉継が、杯を回されて酒を飲んだ。しかし周囲の武将は気持ち悪がって、包帯でぐるぐる巻きになった大谷刑部が口をつけた杯を誰も手にしなかった。
そこへ加藤剛扮する石田三成が他の武将たちが見守る中、大谷刑部が飲んだ杯を飲み干したのである。
確かに芝居がかったスタンドプレイのようにも見えるが、石田三成と大谷刑部の友情を示す素晴らしいシーンであり、石田三成の行動に感じ入った大谷刑部は、その怜悧な頭脳では石田三成率いる西軍の不利を悟りながら、石田三成とともに負け戦に殉じたのである。
逆に教室長は石田三成とは正反対の行動をし、しかも「きちゃなあ」と間違っても言ってはならぬ言葉を口にしたわけだから、人望を失っても当然である。
しかし、潔癖症であることは別に悪いことではない。潔癖症であることは、病気の感染を防いでくれる。
たとえば、お隣の韓国は衛生面で大雑把な国なので、1つの器で平気で酒を回し飲む。
また韓国のおでんの屋台に行くと、おでん鍋の脇に通常の2倍ぐらいの大きさのプラスティックのレンゲが置いてあり、おでんのスープを飲めるようになっている。そのレンゲは使いまわしで、ある人がそれでスープをすくって飲んでも、店の人はレンゲを洗わず、また次の客が同じレンゲでスープを飲む。洗わないレンゲの使い回しである。
韓国で肝炎やコレラが流行しやすい理由には、そんな潔癖症から程遠い国民性もあるのだろう。おそらく韓国の男性は徴兵制があり軍隊での生活が強制されるので、潔癖症であったとしても軍隊で矯正されるのだろう。軍隊で「オレは潔癖症だ」と言っても相手にされないし、軍隊ほど潔癖症が似合わない職場はあまりない。
ところで、実は私も軽い潔癖症である。私の場合変な想像力が働くので、人があまり汚らしさを感じないところでも抵抗を感じることがある。
吊り革に汚らしさを感じるのなら、もっと他に汚い物はあると思う。まずエスカレーターの手すり。あれは吊り革と同じぐらい汚い。
それから古着。見ず知らずの人間の汗の染み付いた衣服を金を出して買うなんて抵抗はないのだろうか? 吊り革なら汚いのは手だけだが、古着を着ることは全身が他人の汗で包まれることになる。それって不思議じゃないだろか?
あと図書館の本や古本。他人の手垢がまったり付着した本の汚なさは吊り革の比じゃない。本を読みながら鼻くそほじっている人は数知れないだろう。私は一度図書館の本を借りて、開いてみたら鼻毛のついたネズミ色の干からびた鼻くそがあり、気分が悪くなったことがある。
それからオフィスやネットカフェの他人が触ったパソコンのキーボード。色が白いキーボードは手垢で黒ずんでしまっている。吊り革が汚いと言っている人が、そんな手垢まみれのキーボードで軽やかに文字を打っている姿はどうも解せない。
ピアノ教室に置いてあるピアノも同じように汚い。ピアノの鍵盤は複数の人間が力をこめて弾いているから、手垢の付着度も高いだろうに。
まだまだあるぞ。エレベーターのボタン、銀行のタッチパネル、美容院や理髪店のハサミ、病院のスリッパ、みんな他人の身体が接触したものである。
よく金持ちのオッサンが、自分が付けていたロレックスの金時計なんかを「これやるわ」と若い衆に気前良く上げているシーンがヤクザ映画なんかであるが、オッサンの汗のにじんだ時計も、ロレックスとはいえ汚そうだ。
寿司も怪しい。あれは人間が手づかみで握ったものである。一歩間違えると不潔極まりない食い物だ。指の手入れに怠りない職人が握る寿司に不潔感は全く感じないが、くるくる寿司で高校生の兄ちゃんが握っている寿司なんかとても怪しい。高校生の男の子が日常生活において、手をどんな用途に使っているかチョット想像してみればいい。
あと公衆トイレで手を洗うのも考えモノだ。他人が手を洗った水で濡れた水道栓は、バイ菌の塊じゃないのか? そんなバイ菌まみれの水栓で手を洗って何になるだろう。洗わない方がマシじゃないか?
それから温泉や銭湯。大浴場はよく考えれば汚い。浴槽の中でオッサンが自分の尻に手を突っ込んで洗うと、大腸菌が湯の中に流れ出す。草津温泉では酸性で殺菌力が強いから大腸菌は40秒で死に絶えるというが、日本の温泉や銭湯がみな草津みたいな殺菌力があるわけではない。われわれは大腸菌入りの湯に入っているのだ。
浴槽はともかく、温泉や銭湯では特に洗い場の椅子が汚い。自分が座るちょっと前までその椅子には見知らぬオッサンのケツが乗っかっていたのだ。ケツの穴から滲み出るウンコ汁が付着しているのだよ。
風呂はまだいい。プールはもっと悲惨だ。子供の中にはプールを巨大なトイレと勘違いしている奴がいる。泳ぎながら尿を放出している子供は多いはず。
夏真っ盛りの日にテレビのニュースで、混雑したプールで子供が水を掛け合って遊ぶ光景が出てくるが、あれなんか潔癖症の人が見たら、小便のぶっかけ合いにしか見えないかもしれない。
手紙も汚い。封書に貼る切手は、ほとんどの人が舌でなめて貼るだろう。誰かから封書を受け取って、切手のあたりを指で触るのは汚らしくないか? 切手の裏には唾液がびっちょり付着している。
使いまわされているのに不潔感を感じないのはお札やコインだ。あれだけ多くの人に回されながら不思議だ。どんな潔癖症の人でも「お札やコインは不潔だからいりません」とは決して言わない。
潔癖症の敵の極めつけは公衆電話の受話器。公衆電話の受話器は何百何千もの見知らぬ人間が口をつけ、息を吹きかけたものである。不潔の権化である。公衆電話の受話器に口をつけることは、集団間接キッスの輪に自分も加わっていることになる。
潔癖症、気になりだしたら止まらない。
潔癖症とは、電車の吊り革を握るのが駄目だとか、他人と一緒に鍋や焼肉をつつくのに抵抗があるとかいう人のことである。ヤンキースの松井も潔癖症だと週刊文春に書いてあった。
私が大手塾に勤めていた時の教室長も潔癖症だった。その教室長がうちの教室に赴任してきた初日、歓迎パーティーを開くことになった。場所は小料理屋で、寄せ鍋をつついた。
私の同僚が、自分の口にくわえた割り箸を鍋の中に入れた。そしたら新任教室長は醜悪な顔を歪めながら、
「きちゃなあけえ、箸入れんさんなや」
と広島弁で言った。標準語に直すと「汚いから箸を入れるな」ということになる。
本人は哺乳類と爬虫類の中間みたいなご面相なのに、潔癖症とは恐れ入った。逆にあんたに触ったらこっちが穢れるじゃないかと、その後講師の間で教室長は笑いものになった。
そんな管理職にはあるまじき一言で、新任教育長は赴任1日目にして思いっきり人望を失い、その後講師の誰も彼に従わなくなり、私の教室から独立して塾を開く講師が相次いだ。
潔癖症がらみの話をひとつ。むかしTBSの「関ヶ原」という時代劇で、こんなシーンがあった。
秀吉の死後、戦国武将たちが大阪城の大広間に集まって今後のことを協議をする場面で、戦国武将たちは酒を杯で回し飲んでいた。
そこで、ハンセン病で身体が腐った大谷刑部吉継が、杯を回されて酒を飲んだ。しかし周囲の武将は気持ち悪がって、包帯でぐるぐる巻きになった大谷刑部が口をつけた杯を誰も手にしなかった。
そこへ加藤剛扮する石田三成が他の武将たちが見守る中、大谷刑部が飲んだ杯を飲み干したのである。
確かに芝居がかったスタンドプレイのようにも見えるが、石田三成と大谷刑部の友情を示す素晴らしいシーンであり、石田三成の行動に感じ入った大谷刑部は、その怜悧な頭脳では石田三成率いる西軍の不利を悟りながら、石田三成とともに負け戦に殉じたのである。
逆に教室長は石田三成とは正反対の行動をし、しかも「きちゃなあ」と間違っても言ってはならぬ言葉を口にしたわけだから、人望を失っても当然である。
しかし、潔癖症であることは別に悪いことではない。潔癖症であることは、病気の感染を防いでくれる。
たとえば、お隣の韓国は衛生面で大雑把な国なので、1つの器で平気で酒を回し飲む。
また韓国のおでんの屋台に行くと、おでん鍋の脇に通常の2倍ぐらいの大きさのプラスティックのレンゲが置いてあり、おでんのスープを飲めるようになっている。そのレンゲは使いまわしで、ある人がそれでスープをすくって飲んでも、店の人はレンゲを洗わず、また次の客が同じレンゲでスープを飲む。洗わないレンゲの使い回しである。
韓国で肝炎やコレラが流行しやすい理由には、そんな潔癖症から程遠い国民性もあるのだろう。おそらく韓国の男性は徴兵制があり軍隊での生活が強制されるので、潔癖症であったとしても軍隊で矯正されるのだろう。軍隊で「オレは潔癖症だ」と言っても相手にされないし、軍隊ほど潔癖症が似合わない職場はあまりない。
ところで、実は私も軽い潔癖症である。私の場合変な想像力が働くので、人があまり汚らしさを感じないところでも抵抗を感じることがある。
吊り革に汚らしさを感じるのなら、もっと他に汚い物はあると思う。まずエスカレーターの手すり。あれは吊り革と同じぐらい汚い。
それから古着。見ず知らずの人間の汗の染み付いた衣服を金を出して買うなんて抵抗はないのだろうか? 吊り革なら汚いのは手だけだが、古着を着ることは全身が他人の汗で包まれることになる。それって不思議じゃないだろか?
あと図書館の本や古本。他人の手垢がまったり付着した本の汚なさは吊り革の比じゃない。本を読みながら鼻くそほじっている人は数知れないだろう。私は一度図書館の本を借りて、開いてみたら鼻毛のついたネズミ色の干からびた鼻くそがあり、気分が悪くなったことがある。
それからオフィスやネットカフェの他人が触ったパソコンのキーボード。色が白いキーボードは手垢で黒ずんでしまっている。吊り革が汚いと言っている人が、そんな手垢まみれのキーボードで軽やかに文字を打っている姿はどうも解せない。
ピアノ教室に置いてあるピアノも同じように汚い。ピアノの鍵盤は複数の人間が力をこめて弾いているから、手垢の付着度も高いだろうに。
まだまだあるぞ。エレベーターのボタン、銀行のタッチパネル、美容院や理髪店のハサミ、病院のスリッパ、みんな他人の身体が接触したものである。
よく金持ちのオッサンが、自分が付けていたロレックスの金時計なんかを「これやるわ」と若い衆に気前良く上げているシーンがヤクザ映画なんかであるが、オッサンの汗のにじんだ時計も、ロレックスとはいえ汚そうだ。
寿司も怪しい。あれは人間が手づかみで握ったものである。一歩間違えると不潔極まりない食い物だ。指の手入れに怠りない職人が握る寿司に不潔感は全く感じないが、くるくる寿司で高校生の兄ちゃんが握っている寿司なんかとても怪しい。高校生の男の子が日常生活において、手をどんな用途に使っているかチョット想像してみればいい。
あと公衆トイレで手を洗うのも考えモノだ。他人が手を洗った水で濡れた水道栓は、バイ菌の塊じゃないのか? そんなバイ菌まみれの水栓で手を洗って何になるだろう。洗わない方がマシじゃないか?
それから温泉や銭湯。大浴場はよく考えれば汚い。浴槽の中でオッサンが自分の尻に手を突っ込んで洗うと、大腸菌が湯の中に流れ出す。草津温泉では酸性で殺菌力が強いから大腸菌は40秒で死に絶えるというが、日本の温泉や銭湯がみな草津みたいな殺菌力があるわけではない。われわれは大腸菌入りの湯に入っているのだ。
浴槽はともかく、温泉や銭湯では特に洗い場の椅子が汚い。自分が座るちょっと前までその椅子には見知らぬオッサンのケツが乗っかっていたのだ。ケツの穴から滲み出るウンコ汁が付着しているのだよ。
風呂はまだいい。プールはもっと悲惨だ。子供の中にはプールを巨大なトイレと勘違いしている奴がいる。泳ぎながら尿を放出している子供は多いはず。
夏真っ盛りの日にテレビのニュースで、混雑したプールで子供が水を掛け合って遊ぶ光景が出てくるが、あれなんか潔癖症の人が見たら、小便のぶっかけ合いにしか見えないかもしれない。
手紙も汚い。封書に貼る切手は、ほとんどの人が舌でなめて貼るだろう。誰かから封書を受け取って、切手のあたりを指で触るのは汚らしくないか? 切手の裏には唾液がびっちょり付着している。
使いまわされているのに不潔感を感じないのはお札やコインだ。あれだけ多くの人に回されながら不思議だ。どんな潔癖症の人でも「お札やコインは不潔だからいりません」とは決して言わない。
潔癖症の敵の極めつけは公衆電話の受話器。公衆電話の受話器は何百何千もの見知らぬ人間が口をつけ、息を吹きかけたものである。不潔の権化である。公衆電話の受話器に口をつけることは、集団間接キッスの輪に自分も加わっていることになる。
潔癖症、気になりだしたら止まらない。