猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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有名人の「のびのび育てる」を真に受ける親
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     有名人がトーク番組で、わが子の子育てについて教育論を楽しそうに述べているが、たいてい「うちは子供を自由にさせています」「将来のことは子供に任せています」と、フレンドリーな親子関係を自慢し、自由でのびのびした子育て論を展開する人が多い。男の有名人は「頑固親父」か「マイホームパパ」のどちらか極端なのだが、女性でスパルタとか教育ママと自己分析する人はあまり見かけない。

    とにかく有名人は子供を「のびのび」育てたい人が多い。だが一般人が真似して「のびのび」育てたら痛い目にあう。


    第一に、有名人にはカネとコネがあることを忘れてはならない。テレビに出て一定のステイタスがある芸能人の子女は、一般人に比べて就活には困らない。また相続税が高くても、よほど破滅型の有名人ではない限り家や金を残せる。子供が「のびのび」自由奔放に渋谷でチーマーやっていても、人と付き合うのが苦手で家に引きこもっていても、最終的には人脈と金脈が有名人の子女を救う。将来のことを子供に任せても、いざとなれば親の威光が作ったレールに乗せることができる。

    もちろん有名人の子供が世襲で安泰というわけではない。スポーツの世界では親子が何かと比べられるシビアな世界であるし、三田佳子のように子育てで致命的なチョンボを犯す人だっている。特に芸術家の子供は悲惨で、親は「のびのび」した環境だから芸術家として名を成したが、子供に同じ成功体験は通用せず、「のびのび」育てたことで社会不適格者になってしまうことだってある。芸術家の管理教育的なものへの敵意が、過度の放任を子供に押し付けてしまう。才能がない芸術家はただの性格破綻者である。才能がある人間だからこそ「のびのび」は威力を発揮するのに、当の芸術家はそれをわかっていない。


    第二に「のびのび」という言葉の解釈が、有名人と一般人では違う。セレブ有名人は子供を有名私立小学校に通わせる力がある。有名人の「のびのび」はお受験で有名小学校に入学し、質の高い教育を施すことだが、一般人の「のびのび」は、ちょっと油断していると学校や家で子供を好き勝手にし、野放しにすることにつながる。

    慶応幼稚舎などの有名私立小では、見識ある教師が子供の自由を尊重しながら、知的好奇心を高めるアトラクションを用意し、同時に締めるところはキチンと締めながら教育している。子供がいかに学習に集中するかに重きを置いて育てている。

    たとえば慶応幼稚舎の入学試験は、いきなりお祭りの屋台がいくつか出て、お囃子のBGMが流れ、そこで子供に自由に行動させるという問題らしい。子供に縁日で遊ばせながら、先生は子供の遊びに対する集中力をチェックしている。自由という環境においてこそ、いちばん子供の能力はブレークスルーしやすいという信念に満ちた試験問題である。

    逆に一般庶民が通う学校では「のびのび」という放任が行われている。一般人の「のびのび」は、公教育に任せて子供を放置しておけば、ゆとり教育で才能を潰されることになってしまいがちなのに。

    秩序ある自由と、秩序なき放任では180度違う。有名人の「のびのび」は文明人を育てることで、庶民の「のびのび」は原始人を間違って作り出す可能性を秘めている。


    有名人という貴族階級の教育論を、庶民階級が鵜呑みにしてはならない。庶民階級は「成り上がる」ための教育が必要なのだ。

    | 硬派な教育論 | 16:36 | - | - | ↑PAGE TOP
    ストレスが規則正しい食生活を妨げる
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       規則正しい食生活をするためには、ストレスが少ないか、飼い慣らす方法を覚えるかして、精神を安定させることが条件になる。心が乱れたら規則正しい食生活どころではない。

      ストレスが多い仕事を抱えていると、規則正しい時間に、同じような量で、栄養の偏りのない食事をすることは難しい。仕事でストレスが降りかかってくると、食事をすることを忘れたり、もしくは逆にストレスのはけ口を食事に求めたりしまう。

       たとえば私は個人塾の塾長だが、生徒の成績が下がったり、親から苦情を受けたり、授業がうまくいかなかったり、生徒が思うように集まらなかったりすると食欲は一気に減退する。胃袋が鉄のようになるのだ。


      まず、個人塾をやっていて神経にくるのは、手塩にかけて育ててきた子が塾をやめることである。小5からいっしょに頑張ってきた子が、中2ぐらいで転塾する。「お世話になりました」とお母さんと一緒に菓子折り持って挨拶に来るのがつらい。そんな時、丸一日は茫然自失状態になり、食事も睡眠もままならない。悔しいやら歯がゆいやらで、珍しくアルコールの力を借り、空腹状態にウィスキーや焼酎を流し込む。かわいがっている子が突然塾をやめると、個人塾の塾長は失恋した気分になるのだ。

      2日ぐらい経って気分が収まると、今度は暴食に走る。生徒がやめた日と次の日は食事が全くできなかったのに、3日目ぐらいで傷が少し癒え、今度は逆に1日5食ぐらいしてしまう。やめた子のお母さんが残していった菓子折りをむさぼり食う。自暴自棄になっているので、自分の健康のことなど頭によぎらないのだ。潜在的な「自殺願望」が食生活を乱す。自殺志願者にとっては、規則正しい食生活どころではない。食べ散らかしてこのまま死んでしまいたいとさえ思う。そのうち、やめていった子への失望が怨恨に、怨恨が忘却に変わる頃には、食生活の乱れもなくなる。

      とにかく深刻なストレスに見舞われると、食べる日はメチャクチャ食べる、食べない日はいっさい食事をしない。これは経営者や自営業者の宿命なのだろう。経営者や自営業者は一歩間違ったら自分の会社や店が潰れるので、販売不振が続いたり、金策に追われている時には、山谷や釜ヶ崎で日雇い労働したりする姿を想像する。


      悪夢もみる。寝汗もかく。1年ぐらい前、中国の四川省で乞食になった夢を見た。日本で仕事がない。だから中国へ流れ着く。ボイラーのように暑い真夏の日中、私は埃っぽい異臭が漂う街の雑踏で、小銭を入れてもらうため、マクドナルドのカップを路上に置き乞食をしている。ただの乞食では稼げないので上半身裸になり、背中に「私は日帝の馬鹿です。かつてあなたたちの先祖をひどい目に合わせた日本軍の子孫です。ごめんなさい」と中国語で刺青をして土下座している。そして私の頭を踏みつける代わりに、中国人から小銭を恵んでもらう。私は中国人から頭をグリグリ踏まれる屈辱を受けながら、一杯の坦々麺で飢えをしのぐために乞食をしている・・・

      この手の悪夢を見るとき、精神状態は最悪である。


      もっとひどいのは入試の時期である。特に大学受験期は、強いプレッシャーが塾講師の僕にかかる。合否は僕に全責任がある。逃げ場がない。しかも塾講師という職業柄、堂々と強気の姿勢を崩すわけにはいかない。どんなピンチになってもポーカーフェイス、想定内であるかのように振る舞わなければならない。

      特に、長い間私を信じてついてきてくれた子が大学受験でピンチになると、食欲どころではない。


      K君の大学受験

      http://usjuku.jugem.jp/?eid=351

      K君の合格体験記

      http://www.geocities.jp/usjuku/annpann


      ストレスが溜まるのは塾講師や自営業者や経営者だけではないだろう。公務員や会社員も、嫌な上司や部下や顧客に悩まされ、職場で居場所を失ったり、営業成績がふるわなくて悩んだりする。どんな職業でも心が休まる暇もなく、当然それは身体に影響し、血圧や血糖値を押し上げるのである。

      規則正しい食生活は、精神の安定と心に余裕がないと、現実的には難しいものだ。

      | 塾の様子ガラス張り | 17:46 | - | - | ↑PAGE TOP
      子供の前で他の子をほめる時は細心の注意を
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         子供の心を傷つけるのは、兄弟や友達と比較されることである。

         親に「お姉ちゃんは苦労かけないのに、あんたときたら」「お前はダメねえ。○○ちゃんを見習いなさい」と比べられた時、子供は発奮するどころか、心の中に膿んだ毒が溜まった気分になる。時にはそれが破裂しそうになる。親は子供に負けん気を起こしてほしいと意図して比較しているのだろうが、そんな作戦は逆効果である。

        大人でも同年代の成功者と比較されるのは嫌だろう。たとえば

        さんは立派な経営者なのに、あなたはリストラでハローワーク。月とスッポン」

        「勝間和代さんは女性なのに凛々しいなあ、それにひきかえ君はねえ・・・」

        「斉藤佑樹君は契約金1億で引く手あまた、でもお前は就活で50社受けて内定ゼロ」

        などと、収入や社会的地位の違いを露骨に指摘されたら腹が立つ。子供も同じことである。

        ただ、いまではどんな教育書にも「子供を他の子と言葉で比べるな」と書いてあるから、あからさまに比較する親は少なくなった。子供は内心、ルックスや偏差値や社交性や運動神経など多様な基準で、友達と自分の優劣の比較をしているものだ。気にしていることを言葉でズバリ指摘されると傷つく。「見習いなさい」は教育界のタブー禁句集の筆頭にあげられる言葉である。

         

        子供にとって嫌なのは、他の子と比較され貶められることだけではない。他の子がほめられるのも嫌う。他の子がほめられることは、相対的に自分の地位が下がることになりかねない。

        「○○ちゃんすごいわねえ」と親が言ったら、子供はそれをまっすぐ受け入れずに「○○ちゃんすごいわねえ、それに引きかえあなたときたら」と、勝手に言葉を継ぎ足して解釈することもあるのだ。

         もう少し例を挙げると

        「芦田愛菜ちゃん愛嬌があってかわいい」

        「石川遼選手は清潔感がある」

        AKB48の子たち総選挙が大変そう。若いのに競争社会で生きているのね」

        と大人が子供の前で芸能人や野球選手を軽い気持ちでほめただけなのに、

        「芦田愛菜ちゃん愛嬌があってかわいい。でもあなたは無愛想」

        「石川遼選手は清潔感がある。だけどお前は牛みたいにモッサリ」

        AKB48の子たち総選挙が大変そう。若いのに競争社会で生きているのね。それに比べてあんたの呑気なことといったら。同じ年頃なのに・・・」

        と、被害妄想が強い子供は受け取ってしまいがちなのだ。

        子供は同世代の人間と比較されることに、大人が想像する以上にデリケートである。たとえ比較の対象が芸能人やスポーツ選手であったとしてもだ。同世代の芸能人やスポーツ選手は、子供にとって憧れであると同時に嫉妬の対象である。

         ふつうの子供が社会に出て評価されるのは、高校・大学を出たあとである。20前後までは力を貯める涵養の時期である。未成年でフライング気味に社会に登場し活躍する子役やアイドルやスポーツ選手と比べることは反則だ。

        ついでに言うと、お母さんが若い芸能人に夢中になっていると、思春期真っ盛りの中高生の男の子はむかつかないだろうか。それがチャン・グンソクあたりの韓流スターなら敵意の対象外だが、才色兼備の日本の芸能人なら腹が立つと思う。特に水嶋ヒロや桜井智みたいな、イケメンで慶応卒、顔面偏差値も学力偏差値も高いタレントの存在は、ちょっと僻み根性がある同世代の男の子のライバル心を刺激しないだろうか。

        男の子にとって、学力が高いだけの奴なら「あいつは顔はブサイク」、顔がいいだけなら「こいつは頭がパー」と逃げ場があるが、水嶋ヒロや桜井智に関しては逃げ場がないのだ。

         

        話を元に戻すと、親だけでなく学校教師や塾講師も、他の子の前で生徒を称賛する時は、気をつかわなければならない。

        たとえば「最近X君は成績伸びているね」「オレはYさんを尊敬している、スゴイな君は」などと教壇に立って言えば、大多数のクラスメイトは面白い感情を抱かない。

        ほめられる側のX君やYさんにしても、教師に公然とほめられることは迷惑行為である。同級生からジェラシーの視線を浴び、いじめの対象になることだってあるのだ。先生からほめられることで、クラスで居づらい思いをする。先生は良かれと思ってかけたほめ言葉が、クラスの平和を乱す無神経な言葉に受け取られてしまう。

        いちばん生徒たちが裏でブツブツ不平を言うのは、学校教師や塾講師が「去年の中3は、いまごろから受験に燃えていたぞ」「2年前の高3は東大に3人合格した、特に森下と言う男の子は朝3時まで自習室にいて、先生も圧倒されたなあ」と、昔の生徒を引き合いに出してほめることである。私もこれはよくやるのだが、効果があるのかどうかはわからない。

        とにかく大人は、叱ったり怒ったりする時だけではなく、ほめる時も細心の注意を払わなければならない。

        | 硬派な教育論 | 20:10 | - | - | ↑PAGE TOP
        推薦入試と裏口入学
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           昔はよく新聞をにぎわせた、裏口入学や替え玉受験の事件がめっきり減った。誰にも気づかれない洗練された形で行われているのか、あるいは学歴に価値がないから裏街道突き進んでまで「いい大学」に入る必要がないのか。

          うがった見方だと思われるかもしれないが、推薦入試制度の広がりと、裏口入学の減少は、相関性があるように私は考えている。

          推薦入試というのは、学校の先生が「この子は人格的にも学力的にも素晴らしい。試験なんか省略していい。とにかく折り紙つきの生徒です」と、自慢の教え子を上の学校に差し出すのが本来の姿だろうが、実際のところ、逆に筆記試験で合格しそうもない子を救済する措置に成り下がっているケースが多発している。

          なにより、高校受験の推薦入試は問題だらけだ。

          特に「底辺高」と呼ばれる私立高校の、誰でも合格できて、また早々に合否が決まる推薦入試はやめてほしい。成績が良い中学生は3月の一般入試ギリギリまで頑張るのに、低い子が早々に高校が決まり「これで遊べる」とはしゃぎまくる。経営目的で一刻も早く生徒を確保したい高校側の事情はわかるが、そんな高校は中学時代に真面目に勉強しなかった生徒の逃げ場になっている。今までさんざん遊んでおいて「これで遊べる」はおかしいと思う。

          大学入試にも推薦入試やAO入試がある。いわゆる「一芸に秀でる」というやつだ。

          正直言って、大学の推薦入試はアンフェアだと思う。

          ある大学に推薦入試で「楽して」入る高校生もいれば、同じ大学に一般入試で血尿垂らしながら、それでも合格できない、あるいは浪人を余儀なくされる人がいる。世間に出たらあれこれ不条理な状況が待ち構えているのはわかるのだが、大学受験の世界ぐらいは基準を統一して、アンフェアな部分をなくしたいというのが、受験指導をする側の本音だ。

          たしかに大学入試で推薦されるのは、高校の内申点が良い生徒である。素行が良く、学校の定期試験の点数がいい生徒の評価が高い。彼らがどれだけ真面目な高校生活を送っていたか、そこは何らかの形で評価すべき点ではある。

          しかし、高校の定期試験では「真の実力」は計れない。高校の定期試験は決められた範囲から出題される「生徒に点を取らせる問題」だが、逆に大学入試問題は難問ぞろいで「受験生に点を取らせない」問題である。学校の定期試験と、難関大の入試問題では、バッティングピッチャーの球と、ダルビッシュの球の差ぐらい速さとキレが違う。棒球しか打てず、生きた球を経験していないバッターが、推薦入試で優遇されるのは疑問である。

          大学側からも、推薦やAOで入学した学生の学力低下が指摘されている。おまけに就活において、指定校推薦やAO組は一般入試で「壁」を越えた経験がないからタフさに欠け、採用に不利だという記事を、最近の書籍や雑誌でよく見かける。

           

          大学の推薦入試は大学側にとっても、学生を確保しやすいため経営を潤すことができる反面、ステータスを低下させる「禁断の麻薬」になっている。一般入試という「正門」だけでなく、推薦やAOという言ってみれば「大学公認の裏門」から入学する学生が多いと、大学自体が軽く見られる傾向があるのは否めないところだ。

          推薦入試枠は、国立大学より私立大学のほうが多い。早稲田大学政治経済学部ですら一般入試を受けて入学した学生は40%しかいないらしい。このまま国立大学が一般入試を重視し、私立大学が経営上の都合から推薦入試の割合を増やしていけば、国立大学の評価がさらに高まるだけだと思う。

          東京大学がステータスを保っているのは、推薦入試やAO入試を一切行っていないことにも理由の一因があると思う。東大や京大や東京芸大にはガチンコ入試でしか入れない。

           

          私は以上述べたように推薦入試反対派であるが、ただ現実問題として、いざ教え子に推薦入試の話が持ち込まれると、「いい話じゃないか、推薦で入りなさい」と笑顔でアドバイスしてしまう。推薦の話が舞い込むと嬉しくなり、宗旨替えし立場を豹変させてしまう。

          現場の塾講師としては、正直言ってガチンコ勝負の一般入試は地獄の苦しみであり、教え子にはそれを経験させたくないのが人情だ。これだけ推薦入試を総論で批判しておきながら、そんなイデオロギーは捨て、推薦合格を各論で素直に喜んでしまうのが実情である。

          塾講師ですらそうなのだから、親の立場からすれば推薦を受け入れる気持ちは痛いほどわかる。 一般入試の厳しさを将来の糧にするために味わって欲しいが、わが子の推薦合格でほっと一息ついてしまう、矛盾した心理の綱引きに迷うのは無理のないところだ。

           

          しかし、やはり一般入試は、人間を強くする。

          一般入試で最後まで頑張っている子、また推薦入試で行く大学が決まっているのに、それより難しい大学を狙っている子を見ていると、入試結果にハラハラすると同時に、彼らの将来に強い安心感を持つのだ。

          一般入試直前の12月や1月に、予備校や大学受験塾を訪れてみればいい。世間は忘年会やクリスマスや正月で浮かれている時期、高3生や浪人生が超真剣に頑張っている。教室は静粛極まりないのにもかかわらず熱量が異常に高く、突き刺すような雰囲気が漂う。外から客が来たのに一瞥もくれない集中力。知性と狂気が混ざった視線で問題をにらむ。そんな一般入試組の迫力を見ていると、彼らが社会人になって困難な場面に出会った時に、このド真剣さで乗り切っていくのだと確信する。親ならこのただならぬ環境に、息子や娘を入れたいか避けたいか、迷いどころだと思う。

          受験生は人生が宙ぶらりんで、不安を胸に抱いている。そんな不安が人を鍛える。うどんは冷水にさらすことで締まる。空気が生暖かい秋に進路が決まるより、冬の風にさらされながらもがき苦しむ。厳しい一般入試がどれだけ人を強くするか。

          大相撲の八百長も、大学や高校の誰でも合格できる推薦入試も、ガチンコの勝負を避けたい心理が根底にある。土俵で白黒つく瞬間、合格発表の緊迫した瞬間を味わいたくないから、力士は八百長に走り、中高生は推薦に流れる。相撲でも受験でも、強くなるにはハラハラした緊張感は最高の肥やしになるのに。

          推薦入試は、さっさと勉強を終らせたい怠け者の生徒、経営上の理由で誰でもいいから生徒数を確保したい高校、危ない橋を渡らせたくない学校の先生、一般入試が子供を強くする千載一遇のチャンスであることを知らない親、この四者がもたれあった温床になる危険性がある。

          入試制度は、一般入試オンリーにしてほしい。

          現行の入試制度は、小選挙区と比例代表を混ぜた衆議院の総選挙みたいな、複雑で逃げ場の多い「大人の論理」丸出しの制度になっている。そんな制度はやめて、スポーツのような勝ち負けがハッキリした、わかりやすい「子供の論理」がまかり通る、フェアなものであってほしいと願う。

          税率と入試制度は国民性を変えると思う。税率が高く推薦入試の比率が高ければ、西欧型の「のんびり」した方向にシフトし、税率が低く一般入試が活発になれば、アメリカや香港のような露骨な競争社会になる。入試制度は若い人の性格を変える、想像以上に大きな要因だ。 

           

          | 硬派な教育論 | 15:50 | - | - | ↑PAGE TOP
          家庭教師や個別指導の先生を交替させる親
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             最近の家庭教師や個別指導のチェーンは、先生に不満があれば交替可能なシステムを取っているところが多い。

             たしかに学校や集団指導塾で「ハズレ」の先生に当たっても、先生を交替させることは現実的に不可能である。だから家庭教師や個別指導だけでも、先生を自分で選びたいのかもしれない。先生交替システムは親のニーズにかなっている。

             ただ、勉強の教え方が悪いとか、時間にルーズだとか、性格上著しく問題があるから先生を変えるのならいいが、遊び好きで勉強嫌いの子供は、厳しいから宿題が多いからといった理由で先生を交替するケースが多い。

            先生を交替可能にして「1人ひとりの力にピッタリ」「相性のいい先生とのびのび学ぶ」のは理にかなったシステムかもしれないが、勉強嫌いな子は真剣で真面目に向き合ってくれる先生を排除し、友達感覚の先生を受け入れる傾向がある。やる気のない子が、友達みたいなピッタリ相性のいい先生とのびのびやっていたら学力向上は望めない。

            教師は、無気力でやる気がない子に「いい先生」と呼ばれたら負けだと思う。「厳しい教師」「いやな奴」「冷たい人間」「融通がきかない」と悪口を言われてはじめて存在価値を持つ。未熟な点をたくさん抱えた子供から「いい先生」扱いされるのはおかしい。

            勉強に真剣でない子供が、家庭教師や個別指導の先生をチョイスする選択権を持てば、良貨が悪貨に駆逐されてしまう可能性が大いにある。

             

            また、私が先生交替可能システムに強い違和感をおぼえるのは、「子供が大人をクビにする」という考え方である。子供は先生を選択することで、消費者としての権利を行使する。子供は親の庇護と財力によって「選ぶ側」の立場に身を置く。

            ところが子供は将来社会に出て、「選ばれる側」になる。チョイスする側ではなくチョイスされる側に立つ。子供が消費者のうちは、子供から支持を得て収益を上げようと優しく媚びる企業は、就職活動では掌を返したように厳しく門を閉ざす。「選ぶ側」を無意識に謳歌していた子供は、「選ばれる側」に突き落とされる。子供のうちから消費者の王様気分でいると、大人になって攻守逆転、惨めな目にあう。

            それに、子供がめでたく社会人になったとしても、上司が気に入らないから変えろというわけにはいかない。上司が気に入らなければ、会社を去るのは上司ではなく部下のほうである。

             先生や上司に合わせる能力は、社会を渡るのに大事な能力だと思う。嫌いな目上の人と折り合いをつけながらなんとかやっていく、嫌いな人の中に長所を見つけ、うまく懐に飛び込むのが、安定した社会人生活を送る心構えである。子供のうちから先生が気に入らないからといって、簡単に交替させるクセをつけていると、大人になって何らかの反動がくるように思えてならない。

             

            ところで話は少し脱線するが、あるアンケートで「上司にしたい戦国武将」で1位を獲得したのは織田信長だった。これには驚いた。

            理由には「リーダーシップがある」「時代を先取りしている」「論功行賞がハッキリしている」「シビアな実力主義で、成果をあげたら認めてくれる」などの理由が挙げられていたが、信長が上司だったら大変だと思う。

            信長が上司なら、いつクビになるか覚悟をしておかねばならない。クビとはもちろん解雇されるという意味でなく、文字通り斬首されることである。死の恐怖に震えるピリピリした職場を、日夜耐え忍ばなければならない。

            織田家臣団がどれだけ信長を怖がっていたか、どれだけ信長の顔色を窺いながら勤めを果たしていたか。ヒンヤリとした合理主義的な冷たさに、ヤワな現代人が耐えられるわけがない。人使いはとんでもなく荒いし、機嫌はいつも悪そうだし、機嫌がいい時は部下を「はげねずみ」「キンカン頭」などと屈辱的なニックネームで侮辱するし、部下のストレスは半端じゃないだろう。

            信長の部下なら、残虐行為の実行部隊にもならなければならない。比叡山の焼き討ちに行かされ女子供を殺戮しなければならないし、敵の武将のガイコツに漆を塗ったものに酒を注いで飲まなければならない。

            信長に対しては私生活を犠牲にし、自分のプライドを捨てて、100%信長に献身しなければならない。もし信長のような人が上司で、あの癇癪の強い性格が何かのはずみで爆発したら、部下はたまったものではない。信長に対する恐怖心や敵愾心が高じて、荒木村重や明智光秀は謀反を起こしているではないか。

            織田信長の部下が「信長さんは上司として相性が悪い、性格が激しくてのびのび仕事ができない。もっと人格者で安定感のある武田信玄さんと交替して下さい」と訴えることなどできないのである。

            | 硬派な教育論 | 15:24 | - | - | ↑PAGE TOP