猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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子供がスポーツ選手や芸術家になりたいと言ったら
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    子供がスポーツ選手や芸術家になりたいと言ったら、たいていの大人は反対する。
    「たいへんな世界だぞ」
    「もっと現実を見据えなさい」
    「勉強した方が安定した生活がおくれるぞ」
    と真面目に受け止めるのはいい方で、たいていの親は「思春期のハシカなんだ。いつかさめるさ」と鼻先でせせら笑うだろう。

    私が親だったら、スポーツ選手や芸術家など「オンリーワン」の職業をめざす子供には、現実を知ってもらうため、以下のように話す。



    スポーツ選手や芸術家になるには、ぶっ飛んだ個性がなければならない。とびきりの「オンリーワン」にならねば成功しない。
    個性の99%は社会や世間で必要とされていない。社会や世間で必要とされる個性は「ゼニ」になる個性だけだ。

    たとえばイソップ物語の、アリとキリギリスの寓話がある。
    私はこの話を、アリは平凡だから幸福で、キリギリスは中途半端に個性的だから不幸のどん底に落ちる話だと解釈している。

    キリギリスは怠け者では決してない。キリギリスはヴァイオリンの腕がある。ヴァイオリンという楽器は、3歳4歳から英才教育を施さないと弾けない。キリギリスはヴァイオリンのため、幼少時から努力を続けてきたのだろう。ヴァイオリンの腕こそ、キリギリスの個性だ。怠け者にヴァイオリンが弾けるわけがない。

    キリギリスの不幸は遊んでいたことではない。ヴァイオリンの腕で銭儲けできなかったことだ。キリギリスは個性的ではあったけど、その個性がカネを産むほど輝いていなかった。圧倒的ではなかった。それがキリギリスを死に至らしめた。

    キリギリスが、ハイフェッツのような猛烈な腕のヴァイオリニストだったら、喝采を浴びて野垂れ死ぬことはなかったろう。流しの歌手のようにアリの家を訪れて物乞いのように演奏しなくても、ホールで大観衆を前に演奏できたであろう。芸術家は成功すれば人類の至宝としてもてはやされるが、認められなければ遊び人扱いだ。

    芸術家のような個性的な人間は、芸術家同士の過酷な競争が待っている。ヴァイオリンでお金が儲けられる人間は限られている。個性的な人間は、会社社会の人間以上に熾烈な競争が待っているのだ。

    そして皮肉なことに、個性的な人間同士の競争を審査するのは凡人である。芸術家の作品に換金価値があるかどうかを判定するのは、大衆という名の凡人の集団である。
    凡人は残酷にも、「こいつは上手い」「アイツは下手だ」とゴミを分別するかのように、個性的な人間を審査する。
    漫画家が数日かけて描いた漫画を、映画監督が私財をはたいて制作した映画を、「つまらない」と一言で切って捨てるのが平凡人である。

    凡人のアリは、キリギリスのヴァイオリンの腕がたいしたことなかったから、キリギリスを見放し、キリギリスの死体を食べた。
    もしアリがキリギリスの腕に、金儲けができる価値があると判断したら、キリギリスを使って一攫千金を狙っただろう。キリギリスのヴァイオリンは、平凡人アリの審査で、落第点を与えられたのだ。

    また芸術家が認められるには、時代とか運とか、不確定要素が存分に作用している。才能はいったん時流に乗れば爆発的に認められるが、そうでなければ悲惨な末路をたどる。岡本太郎は時代に求められたから名声を勝ち得たが、認められなかったらただの変なオッサンである。

    こうして、小説家や芸術家やスポーツ選手は、ひと握りの億万の財産を稼ぐ成功者と、日々の生活に困るその他大勢に分かれる。勝者と敗者のコントラストが激しい。成功するのは0.1%である。

    逆に勉強の世界のいいところは、別に一番なんかにならなくても、将来ふつうに生活できることである。子供が勉強嫌いになるのはわかるが、勉強というのはやり方さえ間違えなければ、誰でも将来メシが食えるようになれる、一番安全で簡単な手段である。勉強の道が舗装された道路なら、芸術家は獣道である。

    オンリーワンをめざして、芸術の世界に飛び込む人間は、芸術家同士の競争の中でナンバーワンにならなければ生活できないが、凡人が努力すれば何とかなる勉強の世界は、別に「ナンバーワンになんかならなくても」生きていけるのである。
    オンリーワンをめざせば、皮肉にもナンバーワンになるための熾烈な競争があることを覚悟しておかなければならない。しかも競争の基準は、勉強の偏差値のようにわかりやすい数値ではなく、時代とか運とか、あるいは人間性とか、どうにもならない代物なのである。
    | 硬派な教育論 | 22:55 | - | - | ↑PAGE TOP
    中1の乱れた性生活
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      親は子供を信じすぎてはならない。裏で子供はどんな悪さをしているかわからない。
      特に、①親が留守がち ②親が厳しい ③子供が優柔不断でおとなしい、の三条件が揃うと危ない。

      たとえば・・・
      うちの塾生の友人の啓介君は中学一年生。一人っ子。気は優しいが優柔不断な性格。お父さんが単身赴任、お母さんが看護師である。お母さんは夜勤で家を留守にすることが多い。
      夜勤の日は、夜、家には大人が誰もいないので、啓介君の家はクラスメイトのたまり場になっている。厳しいお母さんの目を盗んで、深夜までクラスメイトとゲームをしている。啓介君の部屋は遊び場になっている。

      啓介君も最初のうちは、お母さんに叱られるからクラスメイトが家に来るのを嫌がったが、気が弱いのでNOとは言えず、そのうち友人と夜テレビを見たりゲームをするのが楽しくなって、自分から友人を誘うようになった。看護師のお母さんのシフト表をのぞいて、夜勤の日がわかると友人たちにGOサインを出した。

      小学生の頃は孤独であまり友達がいなかった啓介君だが、中学校になってから友人と部屋で夜遊びできて、毎日が修学旅行のようで楽しくて仕方ないのだ。
      中学生はなかなか外で夜遊びできない。コンビニでたむろしてたら補導されるし、ゲームセンターは立ち入り禁止。啓介君の家は大人の目がないので好き勝手に遊べる、夜のレジャーランドにはピッタリの場所だ。

      看護師のお母さんは、この事実を全く知らない。病院で老人相手に格闘している時も、啓介君が家で真面目に過ごしていると信じ切っている。
      謹厳実直な厳しい親や教師の前では、子供は猫をかぶり悪い面を見せない。だから子供が裏で悪いことをしていても、親や教師は気づかない。厳しい親や教師は子供の裏の面に対して「情報弱者」になりやすい。

      さて、啓介君たちはゲームだけでは飽き足らず、おもしろい遊びを思いついた。
      アダルトビデオ鑑賞である。
      夜遊びを始めた頃は「となりのトトロ」とか「アバター」とか「マトリックス」といった、ふつうのDVDを見ていたのだが、そのうち部活の中3の先輩が家にやって来るようになった。そして、
      「俺の家庭教師の大学生の先生が、これ面白いぞと貸してくれた」とAVを流し始めたのだ。
      ちょっと前まではランドセル背負っていた啓介君は興奮した。啓介君と友人たちは、最初はキャッキャッ騒ぎながら笑って見ていたが、40インチの液晶大画面に映るDVDの画像が佳境に入ってからは、部屋はピンと張り詰めた静寂な空気になり、中1の男の子たちは誰もが、真剣な目で映像を眺めていた。

      男子だけでなく、女子たちを一緒にAV鑑賞会に加えることになった。
      女子たちが啓介君の部屋にやって来た。女の子たちもビデオ鑑賞会に参加し、AVで勃起した男子の「もっこり」した部分を、ズボンの上からキャーキャー言って触った。
      啓介君は最初、股間を撫でる女の子の手の感触を「くすぐったい」としか表現できなかったが、そのうち「気持ちいい」という言い方のほうが、正しい気がするようになった。
      男の子は仕返しに、女の子の乳を揉んでやった。最初は指でツンツン胸をつつく程度だったのだが、調子に乗りはじめた男の子たちは、女の子の背後に回って、両手でシッカリ揉むようになった。
      リアル厨房(しかも1年生!)の「乱交パーティー」が、密室で行われているのだ。

      お母さんが看護師で「夜の天使」として働いている間、子供は「夜のハーレム」に耽っている。


      | 硬派な教育論 | 10:00 | - | - | ↑PAGE TOP
      子供の朝食と糖尿病
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        「早寝早起き朝ごはん」という有名な標語がある。規則正しい生活をして、毎日きちんと朝ごはんを食べる子は、成績が良くなるという。
        「早寝早起き朝ごはん」は、頭の成長はもちろん、何よりも生命を守るために大事な標語である。朝食の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。

        朝ごはんを食べず一日二食にすると、どうしても夜にまとめて食べてしまう。特に夕食に米など炭水化物をドカ食いしたり、夜食にラーメンやパスタを食べると、炭水化物が糖に変わりやすく、大人になって糖尿病の原因になる。

        糖尿病は想像以上に怖い。子供が将来成人病にかかる遠因は、子供時代の食習慣が大きい。まだ先の話だからといって、甘く見てはならないのである。
        糖尿病にかかり血糖値が上がると、血液が濃厚なコンデンスミルクみたいになる。血が濃くなると合併症にかかりやすく、身体中に恐ろしい病気を引き起こし、心臓は狭心症に、脳は脳梗塞に、歯は歯周病に、腎臓は機能を果たさなくなり一日4時間も人工透析を受けなければならない。血液は全身を駆け巡るものだから、あらゆる臓器に障害を与える。糖尿病患者の平均寿命は低い。

        糖尿病は生まれつき発症する種類のものもあり、また遺伝が左右するものであるが、食生活がきちんとしていれば防げる病気である。夜にまとめ食いし、食事時間が不規則で、間食に甘い物を欲しがると、糖尿病にかかりやすい。水戸黄門なら助さん格さん弥七よりも、八兵衛がかかりそうな病気である。

        糖尿病での合併症で特に怖いのは「足が腐る」糖尿病壊疽である。
        壊疽で足が腐り重傷になれば、身体にバイ菌が広がる敗血症になるのを防ぐため、最悪の場合、足を切断しなければならない。
        歌手の村田英雄が晩年、足を切断して車椅子姿で姿を現した原因は、糖尿病壊疽のせいである。村田英雄は歌手は大きな声を出さなければならないから、たくさん食事をしなければならないという信念を持っていたようだが、そういう豪快な食生活が糖尿病を悪化させた。

        糖尿病壊疽は、足にタコや水虫などで穴が開き、そこからバイ菌が入った時、糖尿病ではない普通の人なら、血液中の白血球がバイ菌を殺してしまうのだが、糖尿病だと血液がドロリとしているため、足先にまで血液が充分に通わないことから起こる。
        日本列島にたとえると、血液を送り出すポンプである心臓が東京の位置なら、足は沖縄の位置にある。東京から沖縄までは遠い。だから糖尿病で血が濃厚になると、一番被害を受けやすいのは、心臓から最も遠い位置にある足なのである。
        足が腐った時、タバコの害が加わると最悪である。糖尿病は血液を濃くするが、タバコは血管を細くする。糖尿病とタバコのダブルパンチで、血液が濃く血管が窮屈になり、血液がますます足先に行き渡らない。壊疽で足を切断する人の9割は喫煙者である。

        それから、もう一つ糖尿病の合併症で怖いのは糖尿病網膜症で、ある日突然、目が見えなくなる病気である。
        何の前触れもないのに視力が落ちたり、飛蚊症といって黒い蚊のような物体が見えたり、急に目の前が真っ赤になり、最終的に失明に至る。年間約3000人が糖尿病網膜症で失明している。

        糖尿病網膜症の原因は、目のスクリーンの役割をしている網膜の毛細血管に、血液が濃すぎて血が通わなくなり、網膜の血液不足を補うため新しい血管が生まれる。しかし新しい血管はもろくて破れやすく、おまけに眼圧が強くなり、網膜が出血して失明する。スクリーンが真っ黒になった映画館で、映像が映らないのと同じことだ。
        かつて自民党幹事長で、晩年は献金で逮捕された金丸信は、死の直前は糖尿病でほとんど視力を失っていたという。

        とにかく糖尿病は「病気のデパート」で、合併症にかかれば、狭心症は心臓外科、脳梗塞は脳外科、腎臓は内科、網膜症は眼科、歯周病は歯科、壊疽は皮膚科、壊疽で足切断に至れば整形外科と、患者は総合病院の建物を上から下まで回らなければならないはめになる。

        糖尿病に限らず、朝食抜きは子供の寿命に影響する。子供に朝食を与え、規則正しい食生活を送らせるのは、親の役割である。
        「勉強なんかできなくても健康に育ってほしい」という親がいるが、そう言っておきながら子供に朝ごはんを食べる習慣をつけさせないのはおかしい。
        朝食を作るのは大変だし、しかも夜更かしな子供は朝食を取るのを嫌がる。「早寝早起き朝ごはん」は、親の管理能力を問われているのだ。

        朝食に限らず、子供の健康管理は、子育ての最優先事項である。子供の健康に関する知識に精通しておかなければならない。
        最近では、インターネットには健康に関する情報があふれている。子供の健康の知識も、検索すればいくらでも手に入れることができる。ネットの普及は平均寿命を伸ばす一因となっているのではないか。健康に関して情報弱者になるのは許されない。

        たとえば、こんな学説もある。
        妊娠中に母親が過度のダイエットをすると、おなかの赤ちゃんが飢餓状態になり、栄養を過剰に貯蔵する体質になるのだという。こうなると生まれた子供は、普通に食事をとっていてもエネルギーの吸収がいいので肥満体になりやすい。母親が妊娠中に自分の見た目を気にしすぎると、太りやすい体質の子供が生まれやすいのだ。

        このように、ネットには子供の健康に関する情報が多い。正しいものと間違ったものを見極め、専門医にも相談しながら、神経質と言われることを恐れず、子供の健康に気を配りたい。


         
        | 硬派な教育論 | 21:26 | - | - | ↑PAGE TOP
        老人と障がい者をバカにする子を叱らない親
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          子供を叱る基準は、各家庭によって違う。違って構わないと思う。
          ただどんな親でも、絶対に100%叱らなければならない時がある。
          老人や障がい者や身障者を中傷する言葉を、子供が吐いた時だ。

          老人や障がい者に対して、子供が本人が目前なのはもちろん、陰で悪口を言ったり笑いものにしているのを見た時、たとえば障がい者を「ガイジ」なんて呼んでいようものなら、大人はその場で有無を言わせず叱らなければならない。

          悪口の中でも、老人や障がい者の悪口は最悪のものであり、言われた者と家族を深く傷つけると同時に、言った側の品格を貶める。

          ところで、現在の老人は、子供とは隔離して生活している人が多い。
          核家族化で老人と同居している子供は昔に比べて少ない。だから老人の現状を知らない子供は多い。子供は父母と兄弟だけの小さな核家族で生活し、老人は一人暮らしや老人ホームや介護施設と分居している。
          高齢化社会なのにもかかわらず、子供と老人は別々のコミュニティで暮らしていて、子供と老人が日常でふれあう機会は少ないのが日本の現状である。高齢化社会が進んでなかった、かつての大家族社会では老人と子供が同居し、老年人口が増えた今になって、子供と老人の生活圏に壁があるのは皮肉である。
          祖父や祖母と同居していない子供には、老人が周囲にいないから、高齢化社会と言ってもピンとこないのではないか。

          だから、ふだん老人と接していない子供が、老人という「異物」と接した時、好奇心から残酷なリアクションを起こしやすい。
          しかし高齢化社会で、看護や介護など老人と密接に接する職業に就く人が必要とされている。おじいちゃんおばあちゃんと自然体でつきあえる若い人でないと、なかなか老人相手の仕事はできない。老人とうまく付き合えない子は、大人になって軽視され苦労する。
          65歳以上の老年人口は25%にも上がる。つまり老人を言葉で傷つけることは、日本の総人口の4分の1を敵に回すことになるのだ。老人の悪口を言ったり笑い者にすることは、処世術としてもいただけない。

          さて障がい者に目を向けて見ると、アメリカでは、いわゆる健常者と呼ばれる人と、同じ職場で働き、同じ学校で学ぶ場合が多い。日本のようにひどく隔離されてはいない。また現在のアメリカは差別に対して厳しい目を持っているため、あからさまな差別をした者は社会から葬り去られる。
          グローバル化という言葉を、アメリカの価値観を世界に広がる風潮と解釈すれば、日本でも障がい者は職場や学校にますます進出してくる。そうなると、障がい者に対する振る舞い方で、その人の人格のコアな部分が見えてくる。障がい者を蔑視する人は「人間失格」のレッテルを貼られる可能性もある。
          だから、老人や障がい者を傷つける言葉を吐くことは、高齢化とグローバル化の両方に牙を向ける行為だと言えるのだ。

          そして何と言っても、老人や障がい者や身障者に対する配慮が足りない子供を育てて、いちばん損をするのは親自身である。
          親が老いて身体が不自由になった時、子供が親に優しくするとは限らない。親が老人や障がい者に尽くしている姿を見て育った子なら親を介護するだろうが、子供が老人や障がい者をバカにしても咎めなかった親は、いざ自分がそういう立場に立った時に、子供からやさしくされると考えない方がいい。
          子供は親の姿を見て育つ。子供は体が弱った親に対して、露骨に邪魔者扱いはしないだろうが、自分の家族があると言い訳しながら、疎遠な距離を置くようになるだろう。

          老人や障がい者や身障者に対する子供の心ない態度を放置すれば、子供が社会で軽く見られると同時に、親自身も冷たい仕打ちを食らう。
          だから、ふだん子供を叱らない親でも、子供が老人や障がい者や身障者をバカにしている言動を取れば、勇気を出して叱ってほしい。たとえそれが、叱られるのに慣れていない、どんなに真面目な子であってもだ。

          いつも叱っている父親が怒鳴ってもあまり怖くないが、ふだん優しいパパが叱ると迫力がある。また、叱られ慣れてる子が叱られるより、叱られ慣れてない子供が叱られる方が、当人たちにも周囲の者にも怖い場面だ。
          たとえば、波平さんが「カツオ!」と怒鳴っても日常のひとコマにすぎないが、マスオさんが「タラオ!」とタラちゃんを鋭い声で叱ったら、日常を引き裂くような緊張が走る。
          ふだん子供を叱らない親でも、老人や障がい者を傷つけることを言った時厳しく叱らなければならない。さもないと、子供が高齢化にもグローバル化にも対処できない、時代に逆らう人間になってしまう。
          | 硬派な教育論 | 16:46 | - | - | ↑PAGE TOP
          DQNネームをつける親
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            仕事の合間に軽い気持ちで、イタズラ心もあって、教え子たちの名前をネットで姓名判断してみた。
            塾生OB含め50人ぐらいの名前を調べてみた。
            そうしたら、ほとんどの子の名前が素晴らしい結果になった。それを見ると
            「協調性と積極性のある人柄が大物として人望を集める」
            「富栄名声を得て、家庭的・社会的にも恵まれる」
            「実業家などいずれの社会でも頭角を現し、おごることなく安泰」
            「困難にも挫けない辛抱強さが天与」
            「打てば響く頭脳を持ち不屈の忍耐力を持つ」
            「内心強固だが外面温和な人柄で、運気盛んなり」
            「晩年発展し長寿をまっとうする」
            誰もが最強の名前だ。

            逆に私の名前は、悲惨なくらい運気がない。
            姓名判断のコメントを見ると
            「薄幸挫折で、意志薄弱で無気力に拘わらず、妄想的に向上心ばかり強い」
            「人との対立を起こす神経質で疑い深いタイプ」
            「自己防衛的な性格で言動に爽快さがなく、執着心が強く片意地」
            「怒気を含むこともある空虚な暗い気性」
            「家庭的にも孤立、親族の縁も薄く、離別したり苦労の多い凶運」
            「言葉に皮肉が出やすく、自己過信になると偏屈な面が出て、人と対立」
            「急禍急変の災厄あり。没落変転する暗示あり」
            ひどく悪い結果に驚いた。直ちに改名しろと脅迫されているようだ。悪運漂う不吉な名前で、40年間も無謀に生きてきたのだ。たかだか占いではあるが、少なからず落ち込んでしまった。
             
            ただ、教え子たちの姓名判断の結果が良いのは、お父さんお母さんが姓名判断を基にして名前をつけているのが原因なのだろう。
            最近は子供の名前をつける時、ほとんどの親は姓名判断を参考にする。また姓名判断の専門家に名付け親になってもらった子もいるのだろう。
            私の名前は、明らかに姓名判断の手が加えられていない。

            子供の名前は一生ものだから大事だ。姓名判断にこだわるのも、親の愛と魂が込もっている証拠だろう。
            親は子供の名前をつける時、一世一代のコピーライターになる。

            ただ最近、DQNネームとかキラキラネームと呼ばれる、外来語を無理やり漢字にしたり、暴走族やアニメやゲームのキャラを使ったり、大胆不敵な当て字にする子供の名前が流行っている。
            例をあげれば、火星を「まあず」、騎士を「ないと」、光宙を「ぴかちゅう」と読ませたりする名前である。一世一代のコピーライターの大暴走である。

            親にとって子供は唯一無二だから、他の子とは違った名前をつけたい気持ちはわかるが、DQNネームはつけられた子供本人には不便である。ワープロで簡単に変換できないし、学校でもネタにされる。
            親からもらった大事な名前だからと、子供が誇りに思えるようになればいいが、珍名のせいであれこれネタにされて、うっとうしい気持ちになるのは確かだろう。
            DQNネームでいちばん困るのは、たとえば光宙君が大人になって犯罪をおかした時である。窃盗くらいの軽犯罪で「ピカチュウが泥棒!」と朝のワイドショーで報道され、殺人事件並みの大報道で揶揄されてしまう。

            もっと面倒なのは、男か女かわからない名前である。「優」とか「薫」とか「瞳」は男女の区別がつかない。黒木瞳と山口瞳では180度キャラが違う。
            私の名前も未央(みおう)というが、44歳の中年男なのに、誰が見ても女性の名前である。
            面倒なのは電話の本人確認で、必ずオペレーターから「ご本人様ですか?」と尋ねられる。 ムッとして本人だと言うと「失礼いたしました」とオペレーターの方がすまなそうに言う。
            ある時なんかは、私が女性だと完全に思い込んだブライダル業から「あなたの花嫁姿を演出します」と婚礼衣装のDMが送られてきた。44歳のオッさんの花嫁姿をどう演出してくれるのか楽しみだ。


             
            | 軟派な教育論 | 12:16 | - | - | ↑PAGE TOP
            子供に手伝いをさせないと、仕事中毒の大人になる
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              バンコクに行った時、空気が水でなく油脂の霧でできてるような、暑く湿っぽい熱帯の屋台で食事をすると、鶏肉とバジルの炒め物を作るため中華鍋を振るお母さんを、小学生高学年ぐらいの子供が手伝っていた。子供は料理や飲み物を運び、勘定をする役目を担っていて、てきぱきと無表情に仕事をこなしていた。

              発展途上国では、子供が親の仕事を手伝うのは当たり前のことなのだろうが、いちおう先進国である日本人の私としては、よく働く子で偉いなと感心すると同時に、勉強は幼い頃にしかできないのだから、労働に時間を使うより、記憶力がいい子供のうちに勉強して、知識を吸収した方がいいのではないかと、国情の違いは知りつつ、複雑な気持ちになった。

              とにかく、発展途上国の子は働き過ぎで、日本の子は働かなさ過ぎる。子供に賃金労働をさせるのは論外だが、家の手伝いはやった方がいいと思う。

              家の手伝いは、子育てのキーポイントである。
              私が教師をはじめたての頃、ベテランの先生が懇談でお母さんに「どうしたら学力が上がりますか」と尋ねられ、「家の手伝いをさせてください」と答えるのを聞き、「そんな当たり前のことしか言えないのか」と生意気にも軽蔑したものだったが、いまになって全部わかった。

              日本の母親、特に専業主婦は、子供は勉強が大切だから、家事は一切自分が引き受け、子供は勉強に専念させ、家のことはさせたくないという考え方の人が多い。特に教育熱心な人とか、家事を短時間に効率的にこなす力がある人は、子供に家の仕事を与えない傾向がある。意図的に与えないというか、子供に役割分担させるのが面倒くさいので、ついつい自分一人でやってしまうという言い方が正しいだろう。

              ただ、どんな教育書にも書いてあるように、家事は子供に分担させた方がいい。子供が家事をすることによって、自分のささやかな無償の労働が家族に役立つことがわかり、責任の一端を担う誇りを知る。勉強では、自分の努力が他人の役に立つことが、短期間で実感できない。
              だから、家の手伝いをする子は積極性が生まれる。手伝いもせず母親を家政婦のように扱う子は、依存心が強くなり自発的行動エネルギーが低下する。手伝いをし家事で一定の役割を担ってる子は、行動に柔軟性が生まれる。家の手伝いをしている子は、よく気がきくのだ。

              ところで、子供に家の手伝いをさせないと、将来、意外な弊害を引き起こす。
              子供に手伝いをさせない母親は、家事一切、何から何までひとりでやる。母親が家事を独り占めすればするほど、子供は何もやらなくなってしまう。
              そんな母親の元で育った子は、将来必ずしも大人になって怠け者になるわけではない。意外にもその反対に、仕事中毒になってしまうのである。

              子供は幼い時に、母親から何から何まで仕事を一人でこなす姿を見る。子供は母親の姿から学ぶ。
              そんな子は将来、仕事を自分ひとりで抱え込み、他人に仕事の役割分担がうまくできない大人になる可能性がある。お母さんが働き者で家事を丁寧に一切を取り仕切り、そんな母の姿を自然だと思う子供ほど危ない。

              自営業なら一人で仕事をこなせばいいかもしれない。しかし企業という組織では、他人に仕事を任せることが大事である。
              子供の頃から家事の分担に慣れ、家事の一端を担ってきた子は、大人になってスムースに仕事分担ができる。
              しかし家事を母親に任せっきりにした子は、仕事というものは集団技でなく個人技という刷り込みができて、一人で仕事を抱え込み、チームで仕事ができない人間になってしまう。

              要するに、親が家事全般をこなし手伝い経験が少ないまま育った子供は、大人になって親と同じように、家事も仕事も人任せにできず何でも自分でやってしまう人間になる。子供時代は親に家事を丸投げし、逆に大人になれば仕事の責任を過剰に抱えすぎる。手伝いをしないと、仕事を適度に分担する概念が育たないのだ。
              子供が将来、一人で仕事を抱え、仕事に押しつぶされない大人にするためにも、家事を分担して任せよう。
              | 硬派な教育論 | 10:00 | - | - | ↑PAGE TOP
              悪口は成績向上の敵
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                塾で学校の先生の悪口を言う生徒がいる。理科の先生が若くて教え方が素人だとか、社会の先生は老人で授業が眠いとか、家庭科の先生は内申書で贔屓するとか、いろんな悪口を聞く。
                ただ彼らは同じ口で、塾の悪口を言ってるに違いない。悪口を言う人間は、誰の悪口でも平気で言うものだ。学校の先生の悪口を生徒が語るのを聞いて優越感に浸っている塾講師は、子供の残酷さを理解していない。そんな子は塾講師の悪口を学校の先生の前で言ってる可能性が大きい。

                親の場合にも、それは当てはまる。塾の面接の時に、前の塾で子供が伸びなかったと、延々と前にいた塾の問題点を語る人がいるが、そんな時はたいてい子供の行状が悪い。私はそんな親を冷ややかな目で眺めている。

                一般論で言っても、悪口を言う人は信用してはならない。他人の悪口が好きな人は、たいていあなたの悪口もどこかで言っている。自分だけが言われていないと思ったら大間違い。今は悪口の対象にならなくても、仲がこじれたりすると態度急変、あちこちで悪口を言い回る。

                他人の悪口を言う人は、実はサービス精神が旺盛な人が多い。悪口に人は食いつきやすい。会話で場を盛り上げるのに悪口は効果的だ。悪口を言えば注目を引く。悪口がエンターテインメントだと思っている。
                他人の悪口を言う人はまた、まわりに連帯感を求めている、悪口を言いふらし「共通の敵」を作ることによって、共感を得ることで寂しさを紛らわす。

                ところがあまり悪口が過ぎると、話し仲間からも距離を置かれる。あの人は悪口ばかり言ってる人だと敬遠される。そして攻守逆転、悪口好きな人は悪口の対象になる。悪口の語り手から悪口のネタになる。悪口で人をこき下ろそうとしたのに、意に反して自分が疎外される皮肉な結果に終わる。
                特に、学校内で女子のいじめが陰湿なのは、そんなサイクルが渦巻いているからだ。携帯メールが悪循環をさらに加速する。

                さて、塾をやっていてしみじみ実感できることは、勉強が一番伸びにくい子は、裏で学校や塾の先生の悪口を、もちろん敬語を使うことなく盛んに言い、携帯電話で友人の悪口を頻繁にメールするタイプの子である。

                悪口を言う子はなぜ成績が伸びないか、それは自分が勝てない相手がいた時、努力して伸びて追いつこうと考えるのではなく、嫉妬を全開にして引きずり降ろそうと考えるからである。相手のレベルに自分を上げるのではなく、自分のレベルに相手を落とす。そんな思考回路がしみついてしまえば、いつまでたっても成長しない。

                子供が悪口を言うクセがついたのは、もちろん親の影響が大きい。親が芸能人や近所の人の悪口を言いまくり、家庭内でネガティブな会話を垂れ流し放題にすると、子供も悪口に染まってしまう。

                特に、子供の前で学校や塾の先生の悪口はあまり言わない方がいい。もちろんあまりにもひどい先生なら別だが、先生の悪口は子供の知的成長を止める。
                なぜなら、子供は憧れる人からしか学ばないからだ。親が学校や塾の先生の悪口を率先して言うのは、子供から学びの機会を奪う愚行である。

                いつまでたっても、他人の悪口を言う人間のままでは淋しい。他人からほめられる人間になる第一歩は、悪口と決別することだ。他人を落とすのではなく、自分が伸びる。ネガティブではなくポジティブに。

                一流は見知らぬ人が賞賛する。二流は身内がほめる。三流は自画自賛する。四流は他人の悪口を言う。
                四流から一流への道は、まず人の悪口を言わないことから始まる。
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                男の子は体育会がいい
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                  体育会系の若い人が、就活に有利なのは紛れもない事実だが、一般的にはどこか前近代的な悪いイメージを持たれている。

                  まず体育会系の悪いところから。
                  体育会の最大の欠点は、組織内で後輩に威張っている人間が、組織外でも威張ろうとすることである。上下関係は組織内だけで通用するのであり、外に持ち出しても相手にされない。
                  特に実力がなく、ただ年長であるという理由だけで後輩にあれこれ文句をつける人に、この手の勘違いは多い。硬派な組織を利用して、女々しさを露骨に出して後輩をイジメる人間は醜い。

                  また、年功序列の温床は体育会にある。体育会で人間関係を学んだ人が、中途採用で年下が部下になったり上司になったら対応に困る。また日本の場合「敬語」の問題があるので口の利き方が難しい。年下にこき使われる覚悟、年上をタメ口で呼ぶ習慣を身につけないと、年功序列の打破は難しい。

                  しかし、勉強面ではメリットがある。
                  高校で厳しい部活を耐え抜いた子は、大学受験で力を発揮する。勉強は体力という側面がある。体育会系の子は体力があり、長時間勉強に耐性がある。
                  大学受験まであと半年という時期、体育会系の男の子が強さを発揮する。今まで勉強してこなかったあせりをエネルギーに変える。
                  大学入試の過去問を1日何時間もやり続けるのは過酷で、知力より先に体力が必要。こんな時、厳しい部活で体力を鍛えてきた子は強い。サッカーやテニスで何時間も走り続けたことが、過去問を集中して100分も200分も解く体力を生み出す。体育会系が大学受験前に成績を加速度的に伸ばす理由はここにある。

                  また体育会系高校生は、性格が素直だから講師の言うことをよく聞くし、努力したら成果が現れることを、スポーツを通して身体で知っていることである。
                  体育会系の部活は、子供に自分より強い者がいることを「からだ」でわからせる。球や足の速さ、身体の強さ、持久力、自分より上の存在を「からだ」が悟る。主観的に自分が優れていると思い込むことは許されない。客観的な勝敗や数値が絶対的な上下を残酷に示す。部活は子供にとって「いい経験」なのだ。
                  考えるだけではダメ、行動しなければならない。理屈だけの頭でっかちは、体育会系では許されない。実践を伴っていなければならない。

                  だからこそ、特に男の子は中高生の時期に、厳しい体育会系の部活に入った方がいい。口のきき方を知らなかったり、引っ込み思案だった子は、顧問や先輩から厳しく咎められ鍛えられる。先輩後輩の人間関係で、理不尽なことにも耐える精神が育まれる。社会は上下関係の厳しい場所だから、上下関係をナチュラルに受け取る耐性をつけるためには、中高生時代から慣れておいた方がいい。

                  高校で厳しい部活に入部した子は、体育会系という煮えたぎった鍋の中でアクが抜け、礼儀正しくサッパリとした気性になる。他人に気を遣わせない。体育会の規律が人格を変える。

                  ただ、これを個性の消失と取るか、それとも社会性を身につけたと解釈するかは意見の分かれるところだろう。
                  ただ、体育会系の組織では、後輩は先輩に100%従順なわけではない。肝の据わった後輩は、怖い先輩に意を決して直言する。逆に先輩の方も後輩の度胸に感服し、後輩の言を受け入れる。
                  厳しい体育会系の組織に所属すれば、後輩は理路整然と直言する度胸がつき、先輩は寛大さを身につける。

                  だから体育会系の人に、理不尽な上意下達に耐える男芸者みたいな人というイメージがもしあったら、それは違う。体育会系の幹部になる人は言動に説得力があり押しが強い。しかも組織の中で揉まれているから、ただ闇雲に押すのではなく、どこをどう押せばいいか理解している。

                  就職でも体育会系が強いといわれている。
                  就職するには、軍隊に入るのと同じ覚悟がいる。企業が軍隊ならば、体育会とは相性がいいことは言うまでもない。
                  入社後のストレスの90%は対人関係や上下関係である。だから体育会系で鍛えられた経験がなく、上司を敬わない人間、対人関係に神経質な人は、就活面接で選り分けられる。
                  あれこれ上司や同僚に気をつかわせる「ややこしい」人間を排除したいのが、日本の企業の人事担当者の本音だろう。

                  体育会系を嫌う人は、自分は唯々諾々と上に従う体育会系より自由な発想の持ち主で、独立心が強い反骨精神の持ち主だと自己評価しているのだろうが、実のところただ人の言うことを聞きたくない、周囲に気をつかわせる人間である可能性が高い。

                  それに体育会系嫌いな人でも、体育会系の部下を持てば、彼らの爽やかさ、レスポンスの良さ、屈託なく指示に従う姿に、宗旨替えして体育会系を評価するケースが多い。体育会系を忌み嫌っていた人が、人事課に配属され面接官になり、体育会系を「いい青年だ!」と好んで採用するのはよくあることだ。
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