2012.04.26 Thursday
子供がスポーツ選手や芸術家になりたいと言ったら
子供がスポーツ選手や芸術家になりたいと言ったら、たいていの大人は反対する。
「たいへんな世界だぞ」
「もっと現実を見据えなさい」
「勉強した方が安定した生活がおくれるぞ」
と真面目に受け止めるのはいい方で、たいていの親は「思春期のハシカなんだ。いつかさめるさ」と鼻先でせせら笑うだろう。
私が親だったら、スポーツ選手や芸術家など「オンリーワン」の職業をめざす子供には、現実を知ってもらうため、以下のように話す。
スポーツ選手や芸術家になるには、ぶっ飛んだ個性がなければならない。とびきりの「オンリーワン」にならねば成功しない。
個性の99%は社会や世間で必要とされていない。社会や世間で必要とされる個性は「ゼニ」になる個性だけだ。
たとえばイソップ物語の、アリとキリギリスの寓話がある。
私はこの話を、アリは平凡だから幸福で、キリギリスは中途半端に個性的だから不幸のどん底に落ちる話だと解釈している。
キリギリスは怠け者では決してない。キリギリスはヴァイオリンの腕がある。ヴァイオリンという楽器は、3歳4歳から英才教育を施さないと弾けない。キリギリスはヴァイオリンのため、幼少時から努力を続けてきたのだろう。ヴァイオリンの腕こそ、キリギリスの個性だ。怠け者にヴァイオリンが弾けるわけがない。
キリギリスの不幸は遊んでいたことではない。ヴァイオリンの腕で銭儲けできなかったことだ。キリギリスは個性的ではあったけど、その個性がカネを産むほど輝いていなかった。圧倒的ではなかった。それがキリギリスを死に至らしめた。
キリギリスが、ハイフェッツのような猛烈な腕のヴァイオリニストだったら、喝采を浴びて野垂れ死ぬことはなかったろう。流しの歌手のようにアリの家を訪れて物乞いのように演奏しなくても、ホールで大観衆を前に演奏できたであろう。芸術家は成功すれば人類の至宝としてもてはやされるが、認められなければ遊び人扱いだ。
芸術家のような個性的な人間は、芸術家同士の過酷な競争が待っている。ヴァイオリンでお金が儲けられる人間は限られている。個性的な人間は、会社社会の人間以上に熾烈な競争が待っているのだ。
そして皮肉なことに、個性的な人間同士の競争を審査するのは凡人である。芸術家の作品に換金価値があるかどうかを判定するのは、大衆という名の凡人の集団である。
凡人は残酷にも、「こいつは上手い」「アイツは下手だ」とゴミを分別するかのように、個性的な人間を審査する。
漫画家が数日かけて描いた漫画を、映画監督が私財をはたいて制作した映画を、「つまらない」と一言で切って捨てるのが平凡人である。
凡人のアリは、キリギリスのヴァイオリンの腕がたいしたことなかったから、キリギリスを見放し、キリギリスの死体を食べた。
もしアリがキリギリスの腕に、金儲けができる価値があると判断したら、キリギリスを使って一攫千金を狙っただろう。キリギリスのヴァイオリンは、平凡人アリの審査で、落第点を与えられたのだ。
また芸術家が認められるには、時代とか運とか、不確定要素が存分に作用している。才能はいったん時流に乗れば爆発的に認められるが、そうでなければ悲惨な末路をたどる。岡本太郎は時代に求められたから名声を勝ち得たが、認められなかったらただの変なオッサンである。
こうして、小説家や芸術家やスポーツ選手は、ひと握りの億万の財産を稼ぐ成功者と、日々の生活に困るその他大勢に分かれる。勝者と敗者のコントラストが激しい。成功するのは0.1%である。
逆に勉強の世界のいいところは、別に一番なんかにならなくても、将来ふつうに生活できることである。子供が勉強嫌いになるのはわかるが、勉強というのはやり方さえ間違えなければ、誰でも将来メシが食えるようになれる、一番安全で簡単な手段である。勉強の道が舗装された道路なら、芸術家は獣道である。
オンリーワンをめざして、芸術の世界に飛び込む人間は、芸術家同士の競争の中でナンバーワンにならなければ生活できないが、凡人が努力すれば何とかなる勉強の世界は、別に「ナンバーワンになんかならなくても」生きていけるのである。
オンリーワンをめざせば、皮肉にもナンバーワンになるための熾烈な競争があることを覚悟しておかなければならない。しかも競争の基準は、勉強の偏差値のようにわかりやすい数値ではなく、時代とか運とか、あるいは人間性とか、どうにもならない代物なのである。
「たいへんな世界だぞ」
「もっと現実を見据えなさい」
「勉強した方が安定した生活がおくれるぞ」
と真面目に受け止めるのはいい方で、たいていの親は「思春期のハシカなんだ。いつかさめるさ」と鼻先でせせら笑うだろう。
私が親だったら、スポーツ選手や芸術家など「オンリーワン」の職業をめざす子供には、現実を知ってもらうため、以下のように話す。
スポーツ選手や芸術家になるには、ぶっ飛んだ個性がなければならない。とびきりの「オンリーワン」にならねば成功しない。
個性の99%は社会や世間で必要とされていない。社会や世間で必要とされる個性は「ゼニ」になる個性だけだ。
たとえばイソップ物語の、アリとキリギリスの寓話がある。
私はこの話を、アリは平凡だから幸福で、キリギリスは中途半端に個性的だから不幸のどん底に落ちる話だと解釈している。
キリギリスは怠け者では決してない。キリギリスはヴァイオリンの腕がある。ヴァイオリンという楽器は、3歳4歳から英才教育を施さないと弾けない。キリギリスはヴァイオリンのため、幼少時から努力を続けてきたのだろう。ヴァイオリンの腕こそ、キリギリスの個性だ。怠け者にヴァイオリンが弾けるわけがない。
キリギリスの不幸は遊んでいたことではない。ヴァイオリンの腕で銭儲けできなかったことだ。キリギリスは個性的ではあったけど、その個性がカネを産むほど輝いていなかった。圧倒的ではなかった。それがキリギリスを死に至らしめた。
キリギリスが、ハイフェッツのような猛烈な腕のヴァイオリニストだったら、喝采を浴びて野垂れ死ぬことはなかったろう。流しの歌手のようにアリの家を訪れて物乞いのように演奏しなくても、ホールで大観衆を前に演奏できたであろう。芸術家は成功すれば人類の至宝としてもてはやされるが、認められなければ遊び人扱いだ。
芸術家のような個性的な人間は、芸術家同士の過酷な競争が待っている。ヴァイオリンでお金が儲けられる人間は限られている。個性的な人間は、会社社会の人間以上に熾烈な競争が待っているのだ。
そして皮肉なことに、個性的な人間同士の競争を審査するのは凡人である。芸術家の作品に換金価値があるかどうかを判定するのは、大衆という名の凡人の集団である。
凡人は残酷にも、「こいつは上手い」「アイツは下手だ」とゴミを分別するかのように、個性的な人間を審査する。
漫画家が数日かけて描いた漫画を、映画監督が私財をはたいて制作した映画を、「つまらない」と一言で切って捨てるのが平凡人である。
凡人のアリは、キリギリスのヴァイオリンの腕がたいしたことなかったから、キリギリスを見放し、キリギリスの死体を食べた。
もしアリがキリギリスの腕に、金儲けができる価値があると判断したら、キリギリスを使って一攫千金を狙っただろう。キリギリスのヴァイオリンは、平凡人アリの審査で、落第点を与えられたのだ。
また芸術家が認められるには、時代とか運とか、不確定要素が存分に作用している。才能はいったん時流に乗れば爆発的に認められるが、そうでなければ悲惨な末路をたどる。岡本太郎は時代に求められたから名声を勝ち得たが、認められなかったらただの変なオッサンである。
こうして、小説家や芸術家やスポーツ選手は、ひと握りの億万の財産を稼ぐ成功者と、日々の生活に困るその他大勢に分かれる。勝者と敗者のコントラストが激しい。成功するのは0.1%である。
逆に勉強の世界のいいところは、別に一番なんかにならなくても、将来ふつうに生活できることである。子供が勉強嫌いになるのはわかるが、勉強というのはやり方さえ間違えなければ、誰でも将来メシが食えるようになれる、一番安全で簡単な手段である。勉強の道が舗装された道路なら、芸術家は獣道である。
オンリーワンをめざして、芸術の世界に飛び込む人間は、芸術家同士の競争の中でナンバーワンにならなければ生活できないが、凡人が努力すれば何とかなる勉強の世界は、別に「ナンバーワンになんかならなくても」生きていけるのである。
オンリーワンをめざせば、皮肉にもナンバーワンになるための熾烈な競争があることを覚悟しておかなければならない。しかも競争の基準は、勉強の偏差値のようにわかりやすい数値ではなく、時代とか運とか、あるいは人間性とか、どうにもならない代物なのである。