授業そっちのけで、母親どうしの私語がひどいらしい。講師は黒板相手に一人でしゃべり、生徒は好き勝手に遊んでいて、母親は教室の後ろで立ち話に余念がない。授業を聞かずに廊下で立ち話をする人もいて、教室に大きな笑い声が漏れることもあるという。
父母参観で親がおしゃべりをするのは、半分は教師の責任である。話術があり、緊張感を醸し出すことができる教師なら、親もおしゃべりなんかしない。
明石家さんまみたいな話術が巧みな先生や、橋下徹のような立ち話をする母親を論理的偏執的に説教しそうな先生や、石原慎太郎のように「そこのババア」と毅然として怒鳴りそうな先生なら、授業中の立ち話なんて考えられない。
私語を防ぐ手段として、教師が授業前に「授業中の私語はやめて下さい」と前置きしておくのも一つの方法だ。
ただ、問題は遅刻である。参観日に遅刻する親は後を絶たない。遅刻しても黙って教室に入るのならいいが、他のお母さんに「ちょっと保育所が長びいちゃって」などと挨拶がてらに遅刻の理由を説明し始めると話に花が咲く。
遅刻はする私語はするで、二重のマナー違反を犯してしまう。
私が学校の先生なら、参観日はいつもにもまして、子供をどんどん指名する。万一立ち話して騒いでいる親がいたら、その子供は真っ先に当てる。親も子供がいつ当てられるかわからないから、少しは静かになるだろう。
それでもダメな場合は、授業中に親を直接指名して答えてもらう。「このxの値はいくらでしょうか」「御成敗式目を制定した執権は誰ですか?」と親の知識教養を問うのは失礼に当たるから、国語で「この場合の主人公の心情はどう思われます?」といった、いろんな解釈が成り立つ質問をして黙らせる。
ただ、親が参観日の授業で私語をしたくなる気持ちもわかる。もしおしゃべりな親がいれば、授業中の私語は悪いと知りつつ、その人に気をつかって話を合わせてしまう。「いま授業中ですから静かにして下さいませんか」と、なかなか言えるものではない。参観日に私語をする空気が蔓延してしまえば、それに逆らうのは勇気がいる。
また、学校の授業内容は難しい。特に中学生の授業は難解である。たとえば中2理科のオームの法則の授業を、1時間も静かに拝聴するのは苦痛である。となりのお母さんとしゃべりたくなる気持ちは理解できる。
余談だが、雅子妃が愛子様の学校にたびたび授業見学に行かれるのは、愛子様が心配なのが大きな理由だが、雅子妃は飛び切りの学校秀才だから、学校の授業を聞くのが苦にならないからなのだろうと思う。
つまらない授業だからといって、学校の先生に向かって子供や他の親が見ている満座の前で「先生の授業は面白くありません」と言うわけにはいかない。そんなことをしたら途方もない緊迫感が走る。
ある父親がわが子の参観日に行き、授業の退屈さで教室に緩い空気が蔓延しているのを見兼ねて「先生の授業はつまらないです」と喧嘩を売り、逆ギレした学校の先生が「だったら、アンタが授業をやってみろ」と授業をまかせるのだが、その父親は実は「授業の鉄人」と呼ばれる教師で、「だったら私がやりましょう」と教壇に立ち、素晴らしい授業をする。子供から真剣な顔、親からは感心した顔を引き出す。そんな「美味しんぼ」の山岡士郎ばりの展開にでもなれば参観日も盛り上がるが、現実は弛緩した空気が流れるだけである。
とにかく、参観日で私語をするのは、絶対に賢いとは言えない。何らかの形で復讐されるのだ。
学校の先生がその場で親に注意しなくても、先生には親に対して授業妨害をされた恨みが募る。恨みは子供へと跳ね返り、内申点で復讐されるのである。子供の授業態度ではなく親の授業態度が内申に響いてしまう。人間は感情の生き物であるから仕方がない。
最後に建前論を申せば、勉強とはすなわち「聞く」能力である。授業を聞かなければ知識は吸収できない。親が授業中に私語をすることが、子供にいい影響を与えるわけがない。親が率先して子供に悪い見本を示してはならない。