猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
kasami88★gmail.com
CALENDAR
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2012 >>
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
猫ギター
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
参観日に私語をする親
0
    参観日の授業で、親の私語が目に余る状態だという。

    授業そっちのけで、母親どうしの私語がひどいらしい。講師は黒板相手に一人でしゃべり、生徒は好き勝手に遊んでいて、母親は教室の後ろで立ち話に余念がない。授業を聞かずに廊下で立ち話をする人もいて、教室に大きな笑い声が漏れることもあるという。

     

    父母参観で親がおしゃべりをするのは、半分は教師の責任である。話術があり、緊張感を醸し出すことができる教師なら、親もおしゃべりなんかしない。

    明石家さんまみたいな話術が巧みな先生や、橋下徹のような立ち話をする母親を論理的偏執的に説教しそうな先生や、石原慎太郎のように「そこのババア」と毅然として怒鳴りそうな先生なら、授業中の立ち話なんて考えられない。

     

    私語を防ぐ手段として、教師が授業前に「授業中の私語はやめて下さい」と前置きしておくのも一つの方法だ。

    ただ、問題は遅刻である。参観日に遅刻する親は後を絶たない。遅刻しても黙って教室に入るのならいいが、他のお母さんに「ちょっと保育所が長びいちゃって」などと挨拶がてらに遅刻の理由を説明し始めると話に花が咲く。

    遅刻はする私語はするで、二重のマナー違反を犯してしまう。

     

    私が学校の先生なら、参観日はいつもにもまして、子供をどんどん指名する。万一立ち話して騒いでいる親がいたら、その子供は真っ先に当てる。親も子供がいつ当てられるかわからないから、少しは静かになるだろう。

    それでもダメな場合は、授業中に親を直接指名して答えてもらう。「このxの値はいくらでしょうか」「御成敗式目を制定した執権は誰ですか?」と親の知識教養を問うのは失礼に当たるから、国語で「この場合の主人公の心情はどう思われます?」といった、いろんな解釈が成り立つ質問をして黙らせる。

     

    ただ、親が参観日の授業で私語をしたくなる気持ちもわかる。もしおしゃべりな親がいれば、授業中の私語は悪いと知りつつ、その人に気をつかって話を合わせてしまう。「いま授業中ですから静かにして下さいませんか」と、なかなか言えるものではない。参観日に私語をする空気が蔓延してしまえば、それに逆らうのは勇気がいる。

     

    また、学校の授業内容は難しい。特に中学生の授業は難解である。たとえば中2理科のオームの法則の授業を、1時間も静かに拝聴するのは苦痛である。となりのお母さんとしゃべりたくなる気持ちは理解できる。

    余談だが、雅子妃が愛子様の学校にたびたび授業見学に行かれるのは、愛子様が心配なのが大きな理由だが、雅子妃は飛び切りの学校秀才だから、学校の授業を聞くのが苦にならないからなのだろうと思う。

     

    つまらない授業だからといって、学校の先生に向かって子供や他の親が見ている満座の前で「先生の授業は面白くありません」と言うわけにはいかない。そんなことをしたら途方もない緊迫感が走る。

    ある父親がわが子の参観日に行き、授業の退屈さで教室に緩い空気が蔓延しているのを見兼ねて「先生の授業はつまらないです」と喧嘩を売り、逆ギレした学校の先生が「だったら、アンタが授業をやってみろ」と授業をまかせるのだが、その父親は実は「授業の鉄人」と呼ばれる教師で、「だったら私がやりましょう」と教壇に立ち、素晴らしい授業をする。子供から真剣な顔、親からは感心した顔を引き出す。そんな「美味しんぼ」の山岡士郎ばりの展開にでもなれば参観日も盛り上がるが、現実は弛緩した空気が流れるだけである。

     

    とにかく、参観日で私語をするのは、絶対に賢いとは言えない。何らかの形で復讐されるのだ。

    学校の先生がその場で親に注意しなくても、先生には親に対して授業妨害をされた恨みが募る。恨みは子供へと跳ね返り、内申点で復讐されるのである。子供の授業態度ではなく親の授業態度が内申に響いてしまう。人間は感情の生き物であるから仕方がない。

     

    最後に建前論を申せば、勉強とはすなわち「聞く」能力である。授業を聞かなければ知識は吸収できない。親が授業中に私語をすることが、子供にいい影響を与えるわけがない。親が率先して子供に悪い見本を示してはならない。

    | 硬派な教育論 | 17:16 | - | - | ↑PAGE TOP
    ガラス張りの授業
    1
    私は塾講師だが、休みの日に国内旅行して、夜ぶらぶら散歩をするのが楽しみである。

    そんな時、知らない土地の見知らぬ塾に生徒の自転車が並び、教室に明かりがついていると、思わずのぞき込む。同業者がどんな授業をしているのか気になるし、教室の空気にも触れてみたい。
    旅先ではリラックスして、しばし仕事のことは忘れようと意識しているのだが、他の塾を見ると仕事のことを思い出さずにはいられない。

     

    ある時、人口百万規模の北国の町を散歩していたら、大通りに面して大手塾のビルがあり、階の教室がガラス張りで、授業の様子が丸見えになっていた。

    塾側としては「こんな素晴らしい授業をしています」というショーウィンドウとして、教室を誰にでも見えるように、ガラス張りにしているのだろう。

    ガラスの向こう側の教室は、蛍光灯が煌々と照っていて、30代後半ぐらいの男性講師が、中2の生徒15人くらいを相手に、英語・助動詞の授業をやっていた。

     

    その授業はひどかった。

    ガラス張り教室の音は全く聞こえないのだが、黒板の方向だけを見て淡々と授業を進める講師を無視して、教室は無法地帯と化していた。消しゴムを投げ合う子はいるし、一人黙々とマンガを読む子もいるし、立ち上がって友人と談笑する子もいる。しかもそんな子供たちを講師は一向に注意しない。それどころか生徒の側を振り向きもしない。

     

    しかもその日は助動詞mustの授業だった。講師は淡々とmust=have toという公式と例文を黒板に書いていたが、生徒の誰一人として講師の授業に注意を払うものはいなかった。

    中学校の英語を教える方はおわかりだと思うが、mustは助動詞の中でも難解で理解しづらい。生徒の泣き所であり、同時に講師の腕の見せ所でもある。そんな大事なところの授業が無法地帯と化していた。

    私は別に大した講師ではないが、一応、生徒の顔を黒板に向けさせるくらいのことはできる。教室に入り込んで、代わりに授業をやりたい心境になった。

     

    塾側としては「こんな素晴らしい授業をしています」というアピールをして生徒の集客をめざしていたのだろうが、無秩序な授業風景を見て、生徒をこの教室に通わせたいという親はいないだろう。こんなものを見せつけられたら、集団授業の信用はガタ落ちで、個別指導や家庭教師の方がいいと親は考えるに決まっている。

     

    授業というものは基本的に、講師が話し、生徒が聞くというシステムが基本である。饒舌で論理的に授業を組み立てる講師、講師の話を一言も漏らさぬ心意気で集中する生徒という姿が理想である。この授業は、講師も生徒もお互いを意識せず、別の世界で棲み分けている。

    授業を静かに聞くという文化は、日本から消え失せたのだろうか。むかしアメリカの学校は授業形式でなく、座を囲んで先生と生徒が思い思いに話し合う「民主的」なものだという話を聞いたことがあるが、それが単に馬鹿製造工場にすぎないことがわからないのだろうか。

     

     

     

     

     

    | 塾の様子ガラス張り | 17:08 | - | - | ↑PAGE TOP