猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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日本一素直な男・コウタロウ(11)
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    今日の記事は、一橋大学合格発表の日の心理を、塾講師である私の側から書いたものだ。

     

    ---------------------------------------

    3月9日、一橋大学の合格発表の日が来た。

    センター試験以来、私は極度の不眠症だった。起きているのか眠っているのかわからない精神状態が続いた。たまに熟睡すると布団がびしょ濡れになるほど寝汗をかいた。テレビを見ても全く頭に入ってこない。HDには録画した番組が溜まるばかりだった。

    千秋楽結びの一番で優勝をかけ土俵下で待機する力士のように、絶えず心臓の鼓動を意識する日々が続いた。時には不整脈がおこった。何も食べなくても血糖値が跳ね上がった。

    幸いなことに、コウタロウの前では乱れなかった。マンツーマンで授業している時だけ笑顔でリラックスできた。だが家に帰ると神経が昂ぶった。1日中コウタロウを教えていられれば楽なのにと思った。

    どういうわけか試験発表前日はよく眠れた。あとはコウタロウから電話を待つばかりだった。コウタロウの受験番号はたずねなかった。知るのが怖かったからだ。合格したか不合格になったかはコウタロウの電話でわかる。

    発表時間の午前10時になった。私は仏壇の前で正座した。仏壇の前には父がいる。生前は仲が悪かった。でもこの時ばかりは父にすがった。スマホを位牌のように両手で持ち、仏壇に手を合わせた。

     

    10時3分。電話がかかってこない。

    合格したにせよ不合格にせよ、いまお母さん達に報告しているんだ。その次は私だろうか。じっと電話を待った。スマホをマナーモードから着信音が鳴るよう設定を変えた。マナーモードの振動が怖かった。スマホが黒い時限爆弾のように見えた。心臓が乾燥機のドラムのように回転した。

     

    10時6分。おそい。

    もうそろそろ電話があってもいい。もしかしたら合格発表のサイトが混雑していてつながらないのかもしれない。私はiPadを出して一橋大学のサイトを調べた。真っ白な画面に黒い受験番号が浮かび上がった。飛び飛びの数字が並んでいる。しかし、どれがコウタロウの番号なのかわからない。コウタロウに電話しようと思った。でも怖かった。44歳の強面で鳴る塾の先生が、18歳の高校生に電話するのが怖いとはどういう心理か。

    確実にわかったことは、コウタロウはもう自分の合否を知っている、ということだ。いつ私に知らせてくれるか、じっくり待ってみよう。

     

    10時10分。まだかかってこない。

    そうだ、コウタロウは高校にいるのだ。高校の先生といっしょに合否発表を見ているのだ。合格していたら今ごろ学校の先生と抱き合って涙を流している。ダメでも一緒に泣いている。一段落つくのを待とう。コウタロウは進路指導の先生にも報告し、校長先生にも結果を知らせるかもしれない。塾の先生は裏方だ。合否を知る権利なんてそもそもない。待とう。とにかく待とう。

     

    10時17分。おかしい。

    報告がないのはどういうわけか。コウタロウは発表時間を間違えているのか。でも頭のいい彼が絶対にそんなことをするはずはない。電話しようと思った。しかしコウタロウの高校は携帯電話持ち込み禁止だ。かけたら迷惑がかかる。それにかけるのが怖い。待とう。

     

    10時24分。違う、そうじゃない。

    いや、コウタロウは学校にいるわけがない。卒業式はもう終わった。家で発表を待っているんだ。コウタロウは不合格だったんだ。彼は私に知らせるのを恐れている。というか、私ががっかりするのがわかっているから連絡してこない。

    コウタロウの18年の人生で、いちばん強烈な存在感を示した先生は絶対に私だ。6年間も一緒にいる。私はコウタロウをかわいがってきた、コウタロウも私を慕ってきた。誰にも負けない師弟関係で結ばれている。コウタロウが合格を真っ先に知らせたいのは私のはずだ。そして不合格をいちばん知られたくないのも、たぶん私だ。

    コウタロウは私に合格を報告したら、私が狂ったように喜ぶことを知っている。私はコウタロウが高校に推薦入試で合格したとき、興奮してコウタロウの顔を思いっきりビンタした。コウタロウにはあの時の記憶が残っているはずだ。

    逆に不合格だったら一世一代の演技力で笑顔をつくり、明るいふりして「よくがんばったな」と励ましの言葉をかけるだろうことも知っている。どちらにせよ反応が暑苦しい。私はコウタロウにとって軽い存在ではない。重過ぎるから報告しないんだ。

    コウタロウの心はいまズタズタになっている。彼は努力した。ものすごく努力した。努力する男だから私はコウタロウをかわいがった。私がかわいがるからコウタロウにプレッシャーがかかった。私は極力プレッシャーをコウタロウに与えないようにした。でもコウタロウの感度が鋭すぎるアンテナはズッシリ私の期待を背負って折れそうになっている。

    コウタロウが心配だった。彼は繊細なのだ。普通の若者の何倍も深く細かくものを考える男だ。彼には大学教授を感心させる文章を書く知性がある。その知性のナイフがいま彼の心を刺している。癒す言葉など見つからなかった。

    ただ一つ言えることは、私が彼を不合格にしたということだ。責任は全部私にある。コウタロウのセンターの結果が思わしくなかったとき、高校の先生は北大か九大を薦めた。コウタロウも一時は北大に気持ちが移っていた。しかし一橋で強行突破したのは私だ。私は受験指導を25年間続けている。志望校の決定において最終段階で冷静にならなければならないし、また他の子にはそうしてきた。数値を見て客観的に判断するのが塾の役目だ。どうしてコウタロウの時だけ熱くなってしまったのか暴走したのか。
    コウタロウはアレルギーで苦労してきた。人と自分が違うことに慣れてきた。彼は飛び切りの笑顔で宿痾を乗り越えてきた。だから私はこの男に「天下を取らせたい」と思った。

    いっそ、コウタロウから裁判でも起こされたら気持ちが楽になると思った。一橋はお前のせいで落ちたんだと。私は被告席に座る。死刑にでもしてくれと思った。罪の重みに耐えかねている人間にとって、被告席は安楽椅子だ。私を責めることでコウタロウの傷が消えればいい。

    私は特攻隊の司令官みたいな気持ちになった。日本がアメリカに追い詰められ、無謀な計画で一番純粋な青年たちが志願した特攻隊員が命を散らしたのに、何もできず見送った司令官。特攻隊の司令官が戦後、相次いで自決した気持ちがよくわかった。

     

    10時38分。まだ電話はかかってこない。

    私の気持ちは大型台風通過中の東シナ海のように荒れ狂っていた。コウタロウは小津安二郎の映画の登場人物のように、笑顔と無言でコミュニケーションする。そういえば一橋大学の試験が終わったあとで電話したら、「数学がダメでした。でも一橋受験してよかったです」と不合格を悟ったような言葉が返ってきた。たぶんその言葉で、私に不合格を告げたのだと思う。「合格か不合格かなんて、もう野暮なことは聞かないで下さい先生」そんなメッセージだったのか、あれは。

    一流の映画は言葉が少ない。コウタロウも言葉が少ない。ニュアンスでわかってくれという彼の意思が読めた。しかし合格発表という時期だけは、「合格」「不合格」というハッキリした答えが聞きたい。一流映画の微妙なニュアンスではなく、三流映画みたいに白黒がハッキリしたイエスかノーの返事が知りたい。

     

    11時2分。がまんできなくなってコウタロウに電話をした。

    出ない。

    着信音を20回ぐらい鳴らしても出ない。

    合格発表という事態に、どうして携帯電話から離れられるのだろうか。

    携帯電話から離れるケースをあれこれ想像した。

    とにかく試験前、コウタロウは死ぬ気で勉強していた。

    死ぬ気?

    私は極度の心配性である。まさかとは思うが、最悪の事態を想像した。どうしよう。

     

    11時28分 着信があった。コウタロウの名前が出た。やった。生きていた。

    電話を取った。「どうだった?」と聞いた。コウタロウはいつものガラガラ声で「ダメでした」と言った。大学の合格不合格など、もはやどうでも良かった。コウタロウが生きていて良かったと思った。

    どうして電話しなかったのか聞いてみた。アトピーがひどくて、近所の温泉に療養に出かけていたのだという。そうか、そこまで重症だったのか。一橋受験はコウタロウに心理的負担を想像以上に与えていたのだ。受け止めてやれなくて申し訳ないと思った。

    とにかく、コウタロウの声を聞いたら安心した。コウタロウが生きていて良かった。

     

    私は受験の総括をした。

    一橋大学に向けて、コウタロウは本当に頑張った。ふつうの身体ではない。試験前3ヶ月から、重度のアトピーが再発した。症状は最悪だった。患部は顔と全身におよび、腕は赤く血に染まっていた。大学受験のストレスが身体に出た。1月あたりから、痛いかゆいしんどいは絶対に言わないコウタロウが、かゆそうに身体をかきむしっていた。集中力も若干だが落ちていた。

    でも私はコウタロウに何も言わなかった。コウタロウも病気のことは隠していた。私がもしコウタロウに大丈夫かと声をかけた瞬間、コウタロウの気力は一気に萎えてしまうと考えた。

    むかし北極周辺に住むイヌイットが凍傷にかからないことを不思議に思った記者が「どうして凍傷にかからないのですか」とイヌイットにたずねた途端、彼らはいっせいに凍傷にかかってしまったそうだ。同じように私がコウタロウにやさしさを見せたら、コウタロウの気力が一気にしぼむと思った。私はコウタロウを大人扱いした。胸の中は「しんどいならやめてもいいよ」と思った瞬間もあった。コウタロウのお父さんお母さんならそうするだろう。

    しかし私はコウタロウの親ではない。塾の先生である。コウタロウの器量の大きさを知っていながら、もう少し力を抜いて勉強しろとは絶対に言えなかった。それはコウタロウの才能に対する侮辱になる。だから私はコウタロウに慰めの言葉はいっさいかけなかった。

     

    コウタロウがアトピーを発症したのは精神力が弱いからじゃない。コウタロウは小さい時に、どんな痛い注射にも耐えた男だ。少々のことではへこたれない。

    コウタロウがアトピーを発症したのは、もっと大きな人間になってやりたいという熱い気持ちが強すぎるからだ。おとなしい顔をして負けん気が強い男だ。活火山のようなコウタロウの野心が、マグマになってアトピーとして身体に出ているとしか思えなかった。純度の高い健全な野心を持つ若者の覇気がコウタロウの肌を突き抜けた。私はそう解釈した。

    コウタロウはずっと勉強とサッカーを続け真っ直ぐに走ってきた。まさに「走れコウタロー」そのままに生きてきた。6年間コウタロウとつき合ってきて、走らないコウタロウなんて、私は一度も見ていない。

     

    一橋はダメだった。あとは後期の岡山大学である。コウタロウは中央も同志社も立命館も、それぞれ法学部に合格している。岡大の後期は小論文だ。合格圏内だが油断はできない。

    コウタロウから夜、後期試験対策をしてほしいと電話があった。次の日から2日間、小論文対策をした。コウタロウを教えることはもうないと思っていたので、なぜだか嬉しかった。

     

    岡大の後期試験が終わった。しかし、どうしてコウタロウは合否を報告してくれなかったのか、心の中にしこりを残していた。私は合格だろうが不合格だろうが、コウタロウと一緒に泣きたいと思っていた。コウタロウの栄光は私の栄光、コウタロウの屈辱は私の屈辱。不合格の時に私にも屈辱の半分を背負わせてほしかった。どうして一人で悩むのか。コウタロウは一生不合格を秘したまま、私の前に現れないつもりだったのか。また、岡大の合格発表の時に、電話連絡してもらえないことがあったら、また私は地獄の時間を過ごさなければならない。

     

    私は深夜、メールを送った。

     

    岡山大学の発表は20日ですね。
    今度は一橋大学の時みたいに、私に連絡させるようなことは、絶対にしないで下さい。
    正直言いますが、強い憤りを感じました。
    俺は君の為に頑張ってきたつもりです。結果を教えてもらえなかったことは、いかに私が君に軽く見られていたか、残念でなりませんでした。

    2013/3/14 23:58

     

    今度は、必ず連絡してください。
    前回みたいに、1時間も結果を待ち続ける、地獄の時間を私に過ごさせることは、しないで下さい。
    正直、見損ないました

    2013/3/15 0:59

     

    くどいですが、結果を知らせてもらえなかったことは、強いショックです。
    しかも理由が「温泉へ行ってた」
    君にこれほど軽蔑されているとは思わなかった。
    やはり、合否は連絡しなくていいです。
    君とは絶交です。

    2013/3/15 1:25

     

    メールを送ったあと後悔した。あれだけ憧れていた一橋大学に不合格になって傷ついているコウタロウに、なんてメールを送ったんだろう。しかし放たれた矢は帰ってこない。

     

    朝、コウタロウから返信があった。

     

    笠見先生から絶交通告を受けた○○航太郎です。合否連絡をしなかったことが軽蔑に繋がることに、恥ずかしながら考えが至りませんでした。私は今、先生への合否連絡を怠った自分に対する失望と、先生との関係が絶たれてしまうことに恐怖感を覚えています。しかしこの絶望と恐怖と比べて、3月9日に私が先生に与えてしまった、あるいは失わせてしまったものは遥かに巨大で致命的だったのだと感じています。私は中1から高3までの6年間で先生が私に注いで下さった情熱と知恵、さらには生活をも一瞬にして踏みにじってしまいました。
    こんな卑劣な行為を平気で出来てしまう男に、最後にもう一度チャンスを下さい。せめて直接謝罪させて下さい。

    2013/3/15 9:40

     

    私はコウタロウに大学教授を感心させる文章を書くよう指導した。が、私を感動させる文章を書けなんて言ったことは一度もなかった。

    私はコウタロウから合否報告がないことで感情を乱してしまった。しかしコウタロウは強い挫折感の中で、感情を表に出すことなく、こんな精神性が高いメールを送ってきた。私とコウタロウ、どちらが大人なのかわからなかった。

     

    コウタロウは私の秘蔵っ子だ。言葉が少ない、ただ表情に深いニュアンスがある子だ。でもこのままだったら一生良さを世間一般に知られないかもしれない。才能が小さな島の塾で秘蔵されたままではいけない。それをいつも心配した。

    しかし、こんなに人を慮れる文章、いったい誰が書けるだろうか。ひどいメールを送った私に対する不満もあるだろう。怒りもあるだろう。しかし不満を隠して、ただ誠実に自分の至らぬところを誠心誠意書き抜いた文章。

    文章は訓練すれば技巧的にはうまくなれる。しかし文章が上達するほど、書く人間の性格がガラス張りになる。コウタロウは文章が上達すればするほど、性格の良さが露になってくる。

    コウタロウは文章で、人の心を「殺す」ことができる。

     

    私はコウタロウの将来を確信した。彼は私が想像していた以上の大器だ。

     

    (最終回に続く)



    IMG_0863.JPG

    高3 2次試験直前のコウタロウ


     

    | uniqueな塾生の話 | 21:17 | - | - | ↑PAGE TOP
    日本一素直な男・コウタロウ(10)
    0
      以下の文章は、大学一回生のコウタロウが、高3の5月から一橋大学合格発表まで、文字通り血のにじむ受験勉強の軌跡を、自ら書き上げたものである。コウタロウはネットで長文を書くのは初体験である。私は部分的にアドバイスを加えただけで、ほぼ99%コウタロウが書いた。未熟な表現も多いが、どうかお許しください。

       

      ----------------------------------------------------------

      5月のある日、先生は
      「世界史のセンター実戦問題集で85点以上取れ。何回解いても良い。期限は6月20日。だめだったら坊主にしろ」
      と真剣な顔で僕におっしゃった。
      僕は即座に「はい」と答えた。

      それまでにセンターに必要なおおよその世界史用語は暗記していたし、実戦形式の問題を反復すれば85点は期限以内に超えられるだろうと安易に考えた。
      いや、とっさの判断にそこまでの思考は必要ない。僕の意識の底には先生の言うことは絶対で、その言葉を信じて忠実にやれば後で必ずうまくいくという潜在意識があった。その意識が即座の返事をもたらした。
      しかし、実際に問題を解き始めてみるとなかなか点数が取れなかった。河合塾、駿台、Z会、代ゼミとこなしていくがなかなか85点に達しない。84点まではいくのだがあと1点が足りない。入試本番でもこの1点が結果を大きく左右するのだろうと思った。次第に焦りも出てきた。「はい」と言ったからには、合格できなければ僕も坊主にしないわけにはいかない。期限まであと数日と迫った日、先生がセンター本番の問題を解こうと提案され、その回で僕は初めて85点を超えた。先生は自分のことのように喜んで下さった。僕も坊主にしなくていいとホッとした。
      それでも胸の奥に何か引っかかるものを感じた。先生からもらった課題は実戦問題集で85点以上をとるというもので、決してセンター本番の問題ではない。しかもセンターの問題のほうが簡単だ。これは甘えではないかという気持ちが湧いてきて、素直に喜べなかったのも事実だ。


      世界史以外のセンター対策を本格的に始めたのは11月だった。特に生物の点数が低いところで停滞してしまっていたので、伸びしろがあると感じた。どうしても一橋に行きたくて最後の最後で社会学部に変更した場合、センターの配点の半分以上を生物が占める。選択肢を狭めないためにも生物は避けては通れなかった。世界史と同様に実戦問題集を解きまくった。
      得点の推移を記録した折れ線グラフを先生が作ってくださったが、浮き沈みのサイクルがはっきりと見て取れて、モチベーションを高めることに大いに役立ったし何より楽しかった。そして解説のビデオを見てはノートに整理した。参考書数冊と資料集、教科書は必須アイテムで違う本の同じ項目を繰り返し見ることでとにかく記憶に焼き付けた。
      最後には一冊のファイルがルーズリーフでいっぱいになった。勉強量と比例するように点数も伸び高得点が安定して出るようになった。生物は苦手だったのではなく、ただの食わず嫌いだったのだと気がついた。

      倫理政経は実戦問題集と過去問を繰り返した。倫理の問題を解いていて楽しかったのは、自己採点した後に分からないところを先生に質問する時間だ。「俺は、倫理は分からない。」と笑いながらも質問すると日本史と世界史の知識を駆使して、面白可笑しく教えてくださった。政経は、先生は佐藤優氏が推薦する参考書をはじめとして評判が良いと聞きつけるとすぐに提供してくださった。

      正月が来た。
      受験生の年末年始に休日が無いことは全国共通の常識であろう。しかし、ただの一日も休まず受験生のために朝から晩まで自習室を開け、全力でサポートしてくれる個人塾はほかにあるだろうか。年末から正月にかけては論述の感覚を鈍らせない程度に二次の問題を解きながら、とにかくセンターの過去問やパック・実戦問題集の解き残りの問題を数多くこなした。とにかく多い世間の誘惑を断つには塾の環境が最適だった。
      塾にはスグルとマサキもいる。戦っているのは僕一人ではない。それに三人そろうと休憩時間の会話が盛り上がった。勉強のことは一切忘れて、他愛もない話でよく笑った。大晦日こそ先生の配慮で1800に帰宅したがそれ以外の時間はほとんどを塾で過ごした。実感はあまりなかったが、刻々とセンター試験が迫っていた。

      ところが、僕は精神的にだけでなく、肉体的にも追い詰められていた。僕は幼いころから喘息とアトピー、それにアレルギーの症状を抱えている。どこに行くにも薬は必需品であった。それでも両親や祖父母、病院の先生をはじめとし多くの人の努力のおかげもあり、症状は小学3年生でサッカーを始めた頃からほとんどでなくなっていた。
      皮膚に関しては夏場汗を多くかいたときに汗もが悪化する程度で、呼吸器に関してはほこりが舞う中で作業をすると肩で呼吸しないと苦しい程度だった。その他には目立って症状が出ることは稀だった。食事制限は誰もが信じ難いものであったが、それでも、母の作る食事を食べていれば、他人からはアトピーとわからない程度にコントロール出来ていた。

       

      だが、センター試験1ヵ月前の12月頃から上半身、特に肩甲骨の周辺と鎖骨の周辺がとにかく痒かった。勉強中や寝ている間、無意識のうちに汁が出るほど掻きむしっていた。

      一番驚いたのは、アトピーの症状が顔に出たことだ。頬から汁が出てきて、とびひのように範囲が広がった。朝起きると枕に血がついていた時には驚きのあまり思わず携帯で写真を撮ってしまった。顔からは黄色いリンパ液が噴き出し、床が白くなるほど頭皮が剥がれ落ち、背中は炎症で真っ赤になり、夜も痒くて熟睡出来ず、自分の身体に襲いかかる身体的苦痛に心の余裕はなくなっていった。

      症状が出始めてから一か月程度はステロイドの薬を塗っていた。これまでは塗り薬を1カップもらうと数年かかっても使い切らないことがほとんどであったのに、今回に限っては一か月で使い切ってしまった。それでも症状は治まらなかった。悪化した体がステロイドに打ち勝つようになっていたのだ。もちろんステロイドについての知識が無いわけではない。ステロイドを使うとそれに依存してしまったり、副作用が出ることもある。
      しかもステロイドは症状を抑えつけるだけで悪の根源は体から排出されず、根本的な体質改善は望めない。そんなことは知りすぎくらい知っている。それでもステロイドを使わない訳にはいかないほど、僕の体は悲鳴を上げていた。

      受験が終わってからの話ではあるが、クラスメイト数人に最悪の状態の皮膚の写真を見せた時、全員が仰天していた。

      センター直前。
      毎週金曜日は数学の塾に通っていたため、センター試験前日に笠見先生と直接会うことができなかった。センター試験前にやり残したことといえば、それくらいだった。センター当日、僕は落ち着いていた。いや、むしろ落ち着きすぎていたと言ったほうが正確かもしれない。試験時間は刻々と過ぎていくが、順調に点数を積み重ねているという手ごたえが無かった。

      二日間の試験日程が終わった。自信が無く学校で自己採点をしていてはみんなの前で泣いてしまうと感じた僕は、センター試験が終わった夜、自宅で自己採点をした。自信がある科目から採点していったが、案の定合計点は目標よりかなり低いものだった。これまでの努力は何だったのか分からなくなった。よく受験は結果ではなくプロセスが大事だというが、そんなのは全くの嘘で結果が全てであると感じた。久しぶりに泣いた。とにかく悔しかった。本番で不甲斐ない結果を出してしまう自分に腹が立った。
      僕は学校の先生には、模試の点数ばかり面談で言われ続け、自分の可能性について過小評価されている気がしていた。そんな学校の先生をぎゃふんと言わすことができないことが悔しかった。悔しくて泣き続けた。

      センターの次の日、自己採点の結果を笠見先生に見せた。先生が6年間で一番神妙な顔をされたように見えた。最初はスグルとマサキのいる部屋で話していたが、部屋を変えて二人で話し合うことにした。学校では何ともなかったのに、先生を目の前にすると今までの苦しみが込み上げてきて涙が溢れそうになり、「遊んでいるやつには負けたくない」と言った瞬間抑えきれなくなった。僕より確実に勉強時間の少ない人が目標点を取っているのに対して、僕はアトピーの症状がこんなに酷くなるまで自分を追い込んで勉強したのに目標点に遠く及ばなかった。なぜ世界はこんなにも不平等なのだろう。絶望の淵まで突き落とされている僕に対して先生も同様に泣きながら「神様が来てお前を受からせてくれるなら俺は死んでもいい。切腹する覚悟はできている」と言葉をかけてくださった。先生がこんな覚悟を決めて僕にぶつかってきてくださるのに、自分がそれを受け止めるしかないじゃないかと感じた。先生の言葉に淀みはなかった。

      この話し合いの基準は僕がどこで満足するか、だった。普段なら野心を抱いて高望みしがちな僕ではあるが、この時ばかりは消極的になっていた。そんな時、先生はすかさず「お前がどんな選択をしようと、俺はお前の味方だ」と言って下さった。この言葉の真意は、志望校を下げても見放したりしないというものではなく、一橋を受けて不合格だった時はお前の面倒を見続けるからチャレンジしろ、であったに違いない。学校で正式に受験校が決定するまでは、一橋の対策をすることを決めて話し合いはひとまず終わった。

      自己採点のあとすぐ学校では、二次試験の受験校決定のための面談が始まった。自己採点の結果は目標点よりもかなり低かったので、面談を行ったどの先生からも一橋は無謀だとあっさり切り捨てられた。特に担任の先生に至っては、僕が一橋を受験したいと言った時、否定も肯定もせずただ唖然として「お前、正気か」とでも言いたそうな顔をしていらっしゃったのが印象的だった。自分としてはどんなに点が悪くても、足切りに引っかからない点数であれば一橋大受験を貫くと決意していた。センターで点が取れないことを想定して二次で挽回できる力を先生と一心同体で養ってきたと考えたからだ。さらに塾で先生から吸収してきた反骨心を持って世界に羽ばたこうとするスピリットは、そんなに簡単にくじけるものではないとも考えていた。

      センター試験後の二者、三者面談で学校の担任の先生と学年主任の先生は僕に北大を勧め続けた。口調からは、本当に僕の将来を見据え上で最善の進路指導をしようとしているのか、それとも旧帝大の合格実績を一人でも多くしようとしているのかはっきりと判断は出来なかったが、はっきりと言えることは、学校の進路指導は僕自身を見ているのではなく、センターの点数しか見ていなかったということだ。僕がどれだけ一橋の過去問を解いてきたか、僕は古文を苦手とするが一橋には古文が無いということ、世界史論述を攻略するための綿密な作戦が存在することなど、僕自身の特徴はほとんど無視されていた。

      結局一回目の三者面談では結論が出ず、四日後にもう一度面談をするからその時までに冷静に考えて来いと言われた。三者面談後頭の整理がつかなかったので、塾に行く前の一時間程度、母と車で向島を一周する間に受験校について話し合った。北大に気持ちが傾きかけていることを打ち明けると、口には出さないものの明らかに僕の体のことを心配しているようだった。北海道だといざという時にすぐ対処できないし、根本的な体質改善をしていかなければならないのにその方法が無いからだった。


      塾に着き、笠見先生に三者面談の結果を伝えた。学校では北大の法学部、九州大学の経済学部(選択科目の都合上九大の法学部は受験できなかった)が妥当な線ではないかと強く勧められたこと、僕の気持ちの六割ほどは北大に傾いていること、など包み隠さず全て話した。先生との話し合いの末、六年後つまり法科大学院卒業後、一発で司法試験に合格することを条件に、北大にしようという結論に至った。飛行機の空き状況を調べ、ホテルの空き部屋があるかもチェックした。北大の過去問を見てどんな問題が出題されているのかも確かめた。

      それでもなお、先生に「もう一橋に未練は無いな?」と聞かれたら「はい」と答えられる訳がなかった。高校三年間の勉強生活の意味が失われる気もしたし、何より先生の顔に「お前は一橋を貫いてくれると信じている」と書いてあった。僕が「未練が無いはずがありません」と言うと、先生が「じゃあ、もう今日は堂々巡りをしよう」と言われて、徹底的に話し合うことにした。問題を見た感じでは北大には通る自信があったため、正直迷った。それに法律家を目指しているなら、北大に行ったとしても司法試験に合格することで世の中の大学受験に成功した奴らを見返すことができるとも思った。


      センター試験後、二次に向けた猛勉強が始まった。出願校を決めかねている間もとにかく一橋の問題を解いた。

      最終的に、一橋大学を受験することに決めた。

      世界史。これ以上はあり得ないほど濃厚で緊迫した、先生と対1の真剣勝負をしている時間だった。勝負は世界史だ。世界史に関しては21世紀に入ってからの問題はすぐにやりつくした。一橋の世界史は日本で一番難しく、並大抵の勉強では到底対応できないことは理解していたので、先生からどんなに厳しい要求が課されてもくらいついていく覚悟はできていた。

      二次試験までにやることは河合塾の世界史論述、Z会の世界史論述トレーニング、それに駿台世界史講師の中谷臣さんが書いた世界史論述練習帳だ。

      とにかく三冊終わらせることが優先だった。時間を区切り事前に先生が決めた範囲を覚える。スピードを意識した。覚えた後、問題だけが書かれた紙を見ながら自分が解答に書くであろう内容を読み上げる。机を一つはさんで先生と対面していてどこにも逃げ場は無いのでちょっとでも詰まれば気まずい空気が流れる。自分が準備していた解答を全部読み上げた後で先生に「それから・・・?」と言われた時は緊張がマックスに達した。何か言わないといけないので必死で頭を回転させて、整理したことを言葉にした。

      2月25日、一橋大学を受験した。前日のホテルで体がかゆくてあまり眠れなかったことは多少気がかりだったが、今までこなしてきた勉強量を思い出し自分を落ち着けた。一橋大学は閑静な高級住宅街に立地し、さらに背の高い木々に囲まれることで他を寄せ付けぬ神聖なオーラを放っている。受験当日は狭いが神聖な敷地の中に3000人近くの志高い受験生が集結した。
      勝手な先入観かもしれないが、一橋受験生はほかの大学の受験生と比べて雰囲気が違う。地方の高校生だった僕にとっては、はっきりと感じ取れた。見た目は真面目なのだが、ただ勉強だけをしてきたのとは明らかに違う。周囲のあらゆるものに好奇心を持ち、幅広い分野のことに取り組んできた。常に何かを吸収しようとする鋭い目をしている。何かに対して強く燃えている。自分に自信を持っているのだろうか、姿勢がきれいだ。顔が明るい。受験を恐れておらず、逆に楽しんでいる。そんな受験生から僕は自分と同じ匂いを嗅ぎとった。
      こんなにレベルの高い人たちと遊び、競争し、議論し、部活に励み、旅行したりできる4年間はどんなに楽しく充実しているだろうかと想像した。そんな4年間を手に入れる
      ための最後の大勝負に勝とう、僕は自分にそう言い聞かせた。
      一橋大学で、一橋大学生になる資質を持つ全国の凄い奴らと戦ってみて、先生が僕に一橋を貫けと進めてきた理由がはっきりと分かった。これまでの人生において将来に役立つ一番貴重な経験だったと思った。一橋大学に合格した奴は4年間そこで鍛錬し、高いポテンシャルに磨きをかける。たとえ自分が不合格になったとしても、将来自分は、そんなレベルの奴らと戦わないといけない日が来る。先生は僕に将来戦うことになる相手との距離を測らせることを狙っていたのかもしれない。

      3月9日、ついに結果発表の日が来た。家から車で30分くらいの全国でも有数の皮膚病に効果があるという温泉に行った。前期試験が終わってから二週間ほど通ってみて、傷の治りが早いことにささやかな喜びを感じていた。午前55分。試験発表5分前。合否を受け止める覚悟がまだ出来なかったこともあり、結果は変わらないし、一刻も早く身体を治すべきだと都合のいい言い訳をして風呂に駆け込んだ。

      風呂は一時間で出る予定だった。11時まで待っても試験の結果は変わらない。それより先に傷を癒したい。そんな気持ちが僕を風呂へ導いた。
      11時に風呂を出た。パンツをはいて携帯を開いた。先生からの着信がある。そこでやっと僕は目が覚めた。先生が僕の結果を心配している。僕は先生に受験番号を伝えていなかったので先生は一橋の合格発表の画面を見てもただ途方に暮れるだけだ。僕ななんて愚かな選択をしたのだろうと思った。脱衣所にいるまま一橋の合格発表の画面を開いた。番号だけが並んでいる。高校入試の結果発表は中学校の先生を介したものだったし、私立大学の結果は番号の羅列を見るタイプのものではなかったので、ただ無味乾燥に冷徹な番号だけが並んでいるのを見る初めての経験だった。法学部のページを下にスクロールしていく。番号が飛び飛びだった。携帯を持つ手が震えていた。下にスクロールしていく。僕の4つ前の人の受験番号があった。もうすぐ人生で最高の瞬間が訪れる、僕はそう信じて番号を一つ下げた。しかし、そこには僕の受験番号は無かった。

      その瞬間、前期試験後から続いていた根拠のない淡い期待は無惨に砕け散った。感情は何も湧いてこなかった。何も考えられない。涙も出てこない。しばらくの間僕は脱衣所でボーっとしていた。11時28分。僕は近くの小川のほとりに座って先生に電話を掛けた。呼び出し音が鳴る段階になっても、先生に何と言ったらいいのか分からなかった。しゃべる言葉が思いつかない。先生は自分の体が病気にむしばまれても必死に僕のために尽くしてくれた。先生が文字通り命を懸けて戦ってくださったことを心の底から理解しているからこそ、その努力に値する言葉が考え出せなかった。僕が一時間以上連絡をしなかったことから、先生は僕の不合格を悟っているという確信があった。電話の向こうで先生は僕になんとおっしゃるだろう。おそらく、「よくやった」とおっしゃってくれるだろうと思ったが、僕はなぜかその時先生に怒ってほしかった。何もかもから切り離されたかった。

      電話がつながった。電話の向こう側の先生の声が震えている。浪人生時代、僕よりも激しい受験を経験された先生は、僕の合否の結果は当然のことながら僕の安否を確かめたかったとおっしゃった。自殺しようとしていないか心配だったと。そんな先生に対して一瞬でも切り離されたいというような感情を抱いてしまった自分に腹が立った。連絡するのを自分の都合で遅らした自分が情けなかった。先生に申し訳なかった。先生の気持ちを推し量ることが出来なかった。


      こんな苦しい大学受験勉強は二度と経験したくないと思ったが、一橋との戦いに終止符が打たれたことが何となく淋しかった。周りの環境が淋しさを引き立てた。冷たく透き通った水が目の前を流れている。春の温かい日差しが僕を照らしている。周りの雑音が何も聞こえない状況の中で僕は当分の間、その場にたたずんでいた。

       

      (つづく)

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