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3月9日、一橋大学の合格発表の日が来た。
センター試験以来、私は極度の不眠症だった。起きているのか眠っているのかわからない精神状態が続いた。たまに熟睡すると布団がびしょ濡れになるほど寝汗をかいた。テレビを見ても全く頭に入ってこない。HDには録画した番組が溜まるばかりだった。
千秋楽結びの一番で優勝をかけ土俵下で待機する力士のように、絶えず心臓の鼓動を意識する日々が続いた。時には不整脈がおこった。何も食べなくても血糖値が跳ね上がった。
幸いなことに、コウタロウの前では乱れなかった。マンツーマンで授業している時だけ笑顔でリラックスできた。だが家に帰ると神経が昂ぶった。1日中コウタロウを教えていられれば楽なのにと思った。
どういうわけか試験発表前日はよく眠れた。あとはコウタロウから電話を待つばかりだった。コウタロウの受験番号はたずねなかった。知るのが怖かったからだ。合格したか不合格になったかはコウタロウの電話でわかる。
発表時間の午前10時になった。私は仏壇の前で正座した。仏壇の前には父がいる。生前は仲が悪かった。でもこの時ばかりは父にすがった。スマホを位牌のように両手で持ち、仏壇に手を合わせた。
10時3分。電話がかかってこない。
合格したにせよ不合格にせよ、いまお母さん達に報告しているんだ。その次は私だろうか。じっと電話を待った。スマホをマナーモードから着信音が鳴るよう設定を変えた。マナーモードの振動が怖かった。スマホが黒い時限爆弾のように見えた。心臓が乾燥機のドラムのように回転した。
10時6分。おそい。
もうそろそろ電話があってもいい。もしかしたら合格発表のサイトが混雑していてつながらないのかもしれない。私はiPadを出して一橋大学のサイトを調べた。真っ白な画面に黒い受験番号が浮かび上がった。飛び飛びの数字が並んでいる。しかし、どれがコウタロウの番号なのかわからない。コウタロウに電話しようと思った。でも怖かった。44歳の強面で鳴る塾の先生が、18歳の高校生に電話するのが怖いとはどういう心理か。
確実にわかったことは、コウタロウはもう自分の合否を知っている、ということだ。いつ私に知らせてくれるか、じっくり待ってみよう。
10時10分。まだかかってこない。
そうだ、コウタロウは高校にいるのだ。高校の先生といっしょに合否発表を見ているのだ。合格していたら今ごろ学校の先生と抱き合って涙を流している。ダメでも一緒に泣いている。一段落つくのを待とう。コウタロウは進路指導の先生にも報告し、校長先生にも結果を知らせるかもしれない。塾の先生は裏方だ。合否を知る権利なんてそもそもない。待とう。とにかく待とう。
10時17分。おかしい。
報告がないのはどういうわけか。コウタロウは発表時間を間違えているのか。でも頭のいい彼が絶対にそんなことをするはずはない。電話しようと思った。しかしコウタロウの高校は携帯電話持ち込み禁止だ。かけたら迷惑がかかる。それにかけるのが怖い。待とう。
10時24分。違う、そうじゃない。
いや、コウタロウは学校にいるわけがない。卒業式はもう終わった。家で発表を待っているんだ。コウタロウは不合格だったんだ。彼は私に知らせるのを恐れている。というか、私ががっかりするのがわかっているから連絡してこない。
コウタロウの18年の人生で、いちばん強烈な存在感を示した先生は絶対に私だ。6年間も一緒にいる。私はコウタロウをかわいがってきた、コウタロウも私を慕ってきた。誰にも負けない師弟関係で結ばれている。コウタロウが合格を真っ先に知らせたいのは私のはずだ。そして不合格をいちばん知られたくないのも、たぶん私だ。
コウタロウは私に合格を報告したら、私が狂ったように喜ぶことを知っている。私はコウタロウが高校に推薦入試で合格したとき、興奮してコウタロウの顔を思いっきりビンタした。コウタロウにはあの時の記憶が残っているはずだ。
逆に不合格だったら一世一代の演技力で笑顔をつくり、明るいふりして「よくがんばったな」と励ましの言葉をかけるだろうことも知っている。どちらにせよ反応が暑苦しい。私はコウタロウにとって軽い存在ではない。重過ぎるから報告しないんだ。
コウタロウの心はいまズタズタになっている。彼は努力した。ものすごく努力した。努力する男だから私はコウタロウをかわいがった。私がかわいがるからコウタロウにプレッシャーがかかった。私は極力プレッシャーをコウタロウに与えないようにした。でもコウタロウの感度が鋭すぎるアンテナはズッシリ私の期待を背負って折れそうになっている。
コウタロウが心配だった。彼は繊細なのだ。普通の若者の何倍も深く細かくものを考える男だ。彼には大学教授を感心させる文章を書く知性がある。その知性のナイフがいま彼の心を刺している。癒す言葉など見つからなかった。
ただ一つ言えることは、私が彼を不合格にしたということだ。責任は全部私にある。コウタロウのセンターの結果が思わしくなかったとき、高校の先生は北大か九大を薦めた。コウタロウも一時は北大に気持ちが移っていた。しかし一橋で強行突破したのは私だ。私は受験指導を25年間続けている。志望校の決定において最終段階で冷静にならなければならないし、また他の子にはそうしてきた。数値を見て客観的に判断するのが塾の役目だ。どうしてコウタロウの時だけ熱くなってしまったのか暴走したのか。
コウタロウはアレルギーで苦労してきた。人と自分が違うことに慣れてきた。彼は飛び切りの笑顔で宿痾を乗り越えてきた。だから私はこの男に「天下を取らせたい」と思った。
いっそ、コウタロウから裁判でも起こされたら気持ちが楽になると思った。一橋はお前のせいで落ちたんだと。私は被告席に座る。死刑にでもしてくれと思った。罪の重みに耐えかねている人間にとって、被告席は安楽椅子だ。私を責めることでコウタロウの傷が消えればいい。
私は特攻隊の司令官みたいな気持ちになった。日本がアメリカに追い詰められ、無謀な計画で一番純粋な青年たちが志願した特攻隊員が命を散らしたのに、何もできず見送った司令官。特攻隊の司令官が戦後、相次いで自決した気持ちがよくわかった。
10時38分。まだ電話はかかってこない。
私の気持ちは大型台風通過中の東シナ海のように荒れ狂っていた。コウタロウは小津安二郎の映画の登場人物のように、笑顔と無言でコミュニケーションする。そういえば一橋大学の試験が終わったあとで電話したら、「数学がダメでした。でも一橋受験してよかったです」と不合格を悟ったような言葉が返ってきた。たぶんその言葉で、私に不合格を告げたのだと思う。「合格か不合格かなんて、もう野暮なことは聞かないで下さい先生」そんなメッセージだったのか、あれは。
一流の映画は言葉が少ない。コウタロウも言葉が少ない。ニュアンスでわかってくれという彼の意思が読めた。しかし合格発表という時期だけは、「合格」「不合格」というハッキリした答えが聞きたい。一流映画の微妙なニュアンスではなく、三流映画みたいに白黒がハッキリしたイエスかノーの返事が知りたい。
11時2分。がまんできなくなってコウタロウに電話をした。
出ない。
着信音を20回ぐらい鳴らしても出ない。
合格発表という事態に、どうして携帯電話から離れられるのだろうか。
携帯電話から離れるケースをあれこれ想像した。
とにかく試験前、コウタロウは死ぬ気で勉強していた。
死ぬ気?
私は極度の心配性である。まさかとは思うが、最悪の事態を想像した。どうしよう。
11時28分 着信があった。コウタロウの名前が出た。やった。生きていた。
電話を取った。「どうだった?」と聞いた。コウタロウはいつものガラガラ声で「ダメでした」と言った。大学の合格不合格など、もはやどうでも良かった。コウタロウが生きていて良かったと思った。
どうして電話しなかったのか聞いてみた。アトピーがひどくて、近所の温泉に療養に出かけていたのだという。そうか、そこまで重症だったのか。一橋受験はコウタロウに心理的負担を想像以上に与えていたのだ。受け止めてやれなくて申し訳ないと思った。
とにかく、コウタロウの声を聞いたら安心した。コウタロウが生きていて良かった。
私は受験の総括をした。
一橋大学に向けて、コウタロウは本当に頑張った。ふつうの身体ではない。試験前3ヶ月から、重度のアトピーが再発した。症状は最悪だった。患部は顔と全身におよび、腕は赤く血に染まっていた。大学受験のストレスが身体に出た。1月あたりから、痛いかゆいしんどいは絶対に言わないコウタロウが、かゆそうに身体をかきむしっていた。集中力も若干だが落ちていた。
でも私はコウタロウに何も言わなかった。コウタロウも病気のことは隠していた。私がもしコウタロウに大丈夫かと声をかけた瞬間、コウタロウの気力は一気に萎えてしまうと考えた。
むかし北極周辺に住むイヌイットが凍傷にかからないことを不思議に思った記者が「どうして凍傷にかからないのですか」とイヌイットにたずねた途端、彼らはいっせいに凍傷にかかってしまったそうだ。同じように私がコウタロウにやさしさを見せたら、コウタロウの気力が一気にしぼむと思った。私はコウタロウを大人扱いした。胸の中は「しんどいならやめてもいいよ」と思った瞬間もあった。コウタロウのお父さんお母さんならそうするだろう。
しかし私はコウタロウの親ではない。塾の先生である。コウタロウの器量の大きさを知っていながら、もう少し力を抜いて勉強しろとは絶対に言えなかった。それはコウタロウの才能に対する侮辱になる。だから私はコウタロウに慰めの言葉はいっさいかけなかった。
コウタロウがアトピーを発症したのは精神力が弱いからじゃない。コウタロウは小さい時に、どんな痛い注射にも耐えた男だ。少々のことではへこたれない。
コウタロウがアトピーを発症したのは、もっと大きな人間になってやりたいという熱い気持ちが強すぎるからだ。おとなしい顔をして負けん気が強い男だ。活火山のようなコウタロウの野心が、マグマになってアトピーとして身体に出ているとしか思えなかった。純度の高い健全な野心を持つ若者の覇気がコウタロウの肌を突き抜けた。私はそう解釈した。
コウタロウはずっと勉強とサッカーを続け真っ直ぐに走ってきた。まさに「走れコウタロー」そのままに生きてきた。6年間コウタロウとつき合ってきて、走らないコウタロウなんて、私は一度も見ていない。
一橋はダメだった。あとは後期の岡山大学である。コウタロウは中央も同志社も立命館も、それぞれ法学部に合格している。岡大の後期は小論文だ。合格圏内だが油断はできない。
コウタロウから夜、後期試験対策をしてほしいと電話があった。次の日から2日間、小論文対策をした。コウタロウを教えることはもうないと思っていたので、なぜだか嬉しかった。
岡大の後期試験が終わった。しかし、どうしてコウタロウは合否を報告してくれなかったのか、心の中にしこりを残していた。私は合格だろうが不合格だろうが、コウタロウと一緒に泣きたいと思っていた。コウタロウの栄光は私の栄光、コウタロウの屈辱は私の屈辱。不合格の時に私にも屈辱の半分を背負わせてほしかった。どうして一人で悩むのか。コウタロウは一生不合格を秘したまま、私の前に現れないつもりだったのか。また、岡大の合格発表の時に、電話連絡してもらえないことがあったら、また私は地獄の時間を過ごさなければならない。
私は深夜、メールを送った。
岡山大学の発表は20日ですね。
今度は一橋大学の時みたいに、私に連絡させるようなことは、絶対にしないで下さい。
正直言いますが、強い憤りを感じました。
俺は君の為に頑張ってきたつもりです。結果を教えてもらえなかったことは、いかに私が君に軽く見られていたか、残念でなりませんでした。
2013/3/14 23:58
今度は、必ず連絡してください。
前回みたいに、1時間も結果を待ち続ける、地獄の時間を私に過ごさせることは、しないで下さい。
正直、見損ないました
2013/3/15 0:59
くどいですが、結果を知らせてもらえなかったことは、強いショックです。
しかも理由が「温泉へ行ってた」
君にこれほど軽蔑されているとは思わなかった。
やはり、合否は連絡しなくていいです。
君とは絶交です。
2013/3/15 1:25
メールを送ったあと後悔した。あれだけ憧れていた一橋大学に不合格になって傷ついているコウタロウに、なんてメールを送ったんだろう。しかし放たれた矢は帰ってこない。
朝、コウタロウから返信があった。
笠見先生から絶交通告を受けた○○航太郎です。合否連絡をしなかったことが軽蔑に繋がることに、恥ずかしながら考えが至りませんでした。私は今、先生への合否連絡を怠った自分に対する失望と、先生との関係が絶たれてしまうことに恐怖感を覚えています。しかしこの絶望と恐怖と比べて、3月9日に私が先生に与えてしまった、あるいは失わせてしまったものは遥かに巨大で致命的だったのだと感じています。私は中1から高3までの6年間で先生が私に注いで下さった情熱と知恵、さらには生活をも一瞬にして踏みにじってしまいました。
こんな卑劣な行為を平気で出来てしまう男に、最後にもう一度チャンスを下さい。せめて直接謝罪させて下さい。
2013/3/15 9:40
私はコウタロウに大学教授を感心させる文章を書くよう指導した。が、私を感動させる文章を書けなんて言ったことは一度もなかった。
私はコウタロウから合否報告がないことで感情を乱してしまった。しかしコウタロウは強い挫折感の中で、感情を表に出すことなく、こんな精神性が高いメールを送ってきた。私とコウタロウ、どちらが大人なのかわからなかった。
コウタロウは私の秘蔵っ子だ。言葉が少ない、ただ表情に深いニュアンスがある子だ。でもこのままだったら一生良さを世間一般に知られないかもしれない。才能が小さな島の塾で秘蔵されたままではいけない。それをいつも心配した。
しかし、こんなに人を慮れる文章、いったい誰が書けるだろうか。ひどいメールを送った私に対する不満もあるだろう。怒りもあるだろう。しかし不満を隠して、ただ誠実に自分の至らぬところを誠心誠意書き抜いた文章。
文章は訓練すれば技巧的にはうまくなれる。しかし文章が上達するほど、書く人間の性格がガラス張りになる。コウタロウは文章が上達すればするほど、性格の良さが露になってくる。
コウタロウは文章で、人の心を「殺す」ことができる。
私はコウタロウの将来を確信した。彼は私が想像していた以上の大器だ。
(最終回に続く)
高3 2次試験直前のコウタロウ