猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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大学受験・情報戦で勝つために
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    センター試験前、家や学校や塾で過去問や実戦問題集を解く。だが、本番の試験はそれより難しく感じる人は多いはずだ。もちろん本番独特の空気が原因ではあるが、「ゆとり教育」と言われながら、難関大やセンター試験の問題は、年々少しずつ難しくなっている。難しく感じるのは、決して錯覚ではない。
    たとえば、京大は毎年2問の英作文が出題されるが、1981年と2006年の英作文問題を比較してみた。
     
    1981年
    〔1〕私は、どんな本でも、読む以上は、はじめからしまいまで、途中をとばさずに、その全部を読むことを理想としている。なかなか実際にはできないけれども、そうありたいと思っている。
    〔2〕一つのことを必ずやりとげようと思うなら、ほかのことがだめになるのを嘆いてはならないし、他人の嘲笑をも恥ずかしいと思ってはならない。多くの事を犠牲にしなければ、一つの大きな仕事が完成するはずがない。
     
    2006年
    〔1〕ものの見方や好みは人さまざまである。たとえば、駅前のハンバーガー店は、人々にとってどのような意味を持つだろうか。多くの人にとっては、ハンバーガーを味わう場であろう。しかし、肉が苦手な私にとっては、ハンバーガーを楽しむというよりは、仕事帰りにちょっと立ち寄り、コーヒー一杯で一日の疲れをいやす、くつろぎの場である。本を持ち込み、書斎代わりに使うことも少なくない。
    〔2〕子供の頃にわたしが毎週欠かさず観たあるテレビ番組があった。その主役はどこにでもいそうな犬で、そいつがある町にふらりとやってきては、そこで起こった事件の解決に協力し、人間からほめられる前に姿を消して、また次の町に向かって旅をつづけるのだ。私をとりこにしたのは、1つの場所に安住せずに、たえず動きつづける、その姿だったに違いない。
     
    1981年と比べて、2006年の問題は長くて難しいのが一目瞭然だ。毎年毎年少しずつ難しくなった結果がこうなった。
    1981年の問題は、和英辞典を引けばいくらでも語例が出ている文章だし、パソコンの翻訳ソフトを使えば7割ぐらいは得点できそうな、簡単とは言わないまでも、訳しやすい問題である。
    しかし2006年の問題は、長くて「くだけた」文章で、英語に変えるのは難儀である。柔軟な語学的センスが必要だ。1981年の問題が文法語法を駆使してプラモデルを組み立てる感じなら、2006年は人体手術みたいな問題といえようか。2006年の受験生が1981年の問題を解いたら高得点を取れるし、1981年の受験生は2006年の問題に対して、たぶん、手も足も出ないだろう。
     
    京大の英作文を見れば、「ゆとり教育」に逆行して、難関大やセンター試験の問題は、難化していることがお分りいただけたと思う。塾・予備校の講師の教え方のノウハウの向上や、講師が執筆する参考書問題集の質的向上が、受験生の学力と解答テクニックを向上させ、大学入試問題の難化に拍車をかけている。
    問題作成者はテクニックを嫌い、より学問の本質を突く問題を出そうとする。それに対応して、予備校もセンター試験対策を練る。この「出題者VS予備校」の対決が、入試問題を難しくしてきた。
     
    ここで問題が生じる。予備校のセンター研究がハイパー化するにつれ、高校が入試問題の難化に対応できていないのだ。高校の先生は勉強を教える以外に、部活や生活指導、書類作りに忙しく、教材研究をする暇がない方が多い。学校の先生は秘書が必要なくらい激職なのである。
    結果、多忙から10年前に使ったプリントを使い回している先生もいるし、過去問研究に時間が取れない。また進学実績が悪い学校の先生は、受験指導のモチベーションが落ちる。高校の先生は最新の入試事情に、知らぬ間に「時代遅れ」になる。
    大学受験で過去問研究は死ぬほど大事だ。予備校の問題研究がどんどん進化しているのに、高校の現場は対処できず、情報格差が生まれやすい。「大学受験は情報力」というが、こういう事情が裏にある。
     
    高校でも、難関高校の「過去問研究」は別の意味ですごい。たとえば開成高校の東大合格実績が、全校生400人中200人弱を維持しているのは、生徒の能力もさることながら、東大を受験する生徒が圧倒的に多いため、教える先生が東大の入試問題を熟知し、日々の授業に無意識に落とし込んでいるからだ。指導が一元的で効率的になる。知らぬ間に「東大合格のための授業」を行っていて、無駄がない。
     
    こういう情報格差に勝つには、予備校のHPや、『蛍雪時代』などの受験雑誌をチェックしておきたい。予備校は競争が激しい。だからHPには貴重な情報が載っている。また大学受験に役立つネットのサイトも多い。
    また信頼できる先生に、情報収集を頼んでもいい。力のある先生はセンター情報に精通しているし、先生という職業の人は生徒に頼られたら、宙を舞いたくなるくらい嬉しいものだ。
    だがセンター試験は情報戦の反面、最終的には力がある受験生が得点できるようにできている。情報に過度に振り回されたらダメで、学力を磨くのが第一義であることは、忘れないでほしい。
    | 大学受験 | 14:48 | - | - | ↑PAGE TOP
    夏期講習会の継続率
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      夏期講習会もようやく終わり。夏講は塾業界で禄を食む人間が1年で2番目につらい時期である(1番は当然冬講から受験にかけての時期)
      夏講の最後の日にはテストをする塾が多いのだが、夏講最後のテスト結果は講師にとって結構気になるもので、夏に子供がどれだけ学力が伸びたか格好の指標になる。夏講の努力の汗がどれだけ実になったか、講師としての能力を試されている気になる。

      私が大手塾の時間講師だった時、私がいた分教室の時間講師たちは、他教室とのテストの平均点競争に異常に燃えていた。特に私は。
      夏講の最終日、まとめテストが終わる。生徒の答案を集めて、講師室では夜遅くまで採点が続く。
      採点しながら講師たちは口々に、
      「おっ、吉田の数学上がったなあ」
      「丸山の社会アカンわ、点が落ちとる」
      「あれほど言ったのに、百済と新羅の位置が逆になってる。なんじゃい」
      「隆弘のバカ、 y=5x+6 を y=5+6 なんて下らんミスしとる」
      と自分自身に向けてなのか、それとも他の講師に向けてなのかわからない叫びをあげながら、活気ある採点風景が続く。
      採点が終わり、点数を集計し平均点を出す。事務のお姉さんがパソコンに点数を入力する。

      翌日には県内各教室の各教科・全教科の平均点がファックスで送られてくる。
      他の教室の平均点を見ながら、時間講師たちは一喜一憂する。
      「うちは数学は新潟県内トップ。よっしゃあ! 新潟中央校よりうちの方が高いぞ」
      「柏崎校の社会は異様に点数が高いな、生徒に答え教えとるんとちゃうか?」
      「長岡校の国語の平均点は高い。長岡校には藤森先生がいるからなあ。さすが。今度は勝つぞ!」
      時間講師たちは、まるで高校野球の監督やコーチみたいに、自分の教室の生徒の平均点を上げることに全力を傾けたものだ。
      またそんな教室間のライバル意識が、進学実績のが上がることにつながったのである。

      ところが、正社員である教室長は、他教室との平均点比較なんか全く気にしない。彼らが気にする唯一の数値は、夏講から通常ゼミへの「継続率」なのである。
      継続率というのは、塾に夏期講習会だけ申し込んだ子供のうち、何人が9月からも続けて塾に来るのか、その割合を示す数値である。
      たとえば夏講に中3生が30人申し込んだとする。そのうち9月から引き続き21人塾に来るとすれば、継続率は70%ということになる。
      つまり、夏講で塾の指導方針を見てから引き続き入塾するか決めようとする人や、夏講だけしか塾に通うつもりがなかった人を、いかに9月以降塾に引き止めることができたかが、継続率という数値の高低に表れる。

      継続率とは大手塾の社員に課せられた「ノルマ」である。夏講が成功か不成功かは、会社にとっては生徒の成績の伸びではなく、継続率によって判断される。教室長は継続率が悪いと会議で上から叱られるので気が抜けない。継続率には出世がかかっているのだ。

      夏講も中盤に差し掛かると、講師室に夏講参加者の名前が張られる。そして9月から継続することが決まると、名前の横に文房具屋で買ってきた赤いシールが張られ、まるで選挙の時の政党本部みたいな状況になる。
      そして夏講後半の講師ミーティングは、継続率のことばかりが話題になる。

      教室長は、
      「講師のみなさん、朝の授業の20分ぐらい前に教室に入って、夏講だけ来るつもりの子に、それとなく継続するか聞いてくれませんか」
      「中3進学クラスの石丸彰洋じゃけど、9月から来るか直接聞いて欲しいんよ」
      「中2基礎クラスの村尾康子と田上泉と安浦綾香と篠田奈津子の4人は友達じゃけえ、4人全員来るか全員来ないかどちらかなんよ。4人来たら大きいで。山野さん(講師の名前)、この子らの親に電話入れてプッシュしてみて下さい」
      と、講師に対して継続率アップのための指示にあれこれ忙しい。

      正直言って継続率が上がっても、時間講師に直接メリットがあるわけではない。
      継続して生徒数が増えても講師の給料が上がるわけでもない。得するのは会社だけである。継続率は会社のメリットにはなるが講師のメリットにはならない。継続率という数値に関して、会社と講師の利害関係はかなりずれる。

      というわけだから、継続率に一生懸命にならざるをえない教室長に時間講師が従うかどうかは、教室長の人柄に左右されるところが大きい。
      時間講師を評価してくれる教室長だったら、彼を男にするために時間講師は一丸となって協力する。継続率を下げて教室長が左遷されて去ってしまったら仕事がやりにくいし、また良い教室長が指揮する教室は、何事にも積極志向でどんなことでも誠心誠意全力になって取り組む環境ができているので、継続率の上昇に何の疑問も挟まずに素直に会社の方針に従う。
      壁の名簿に赤いシールが張られるたびに、社員も講師も喜んで自発的に拍手をする。

      しかし教室長に人望がなかったら、まさに面従腹背の世界である。時間講師は嫌いな教室長の出世のためにわざわざ継続率を上げてやる必要などない。時間講師たちは「何で俺があの教室長のために営業をせなあかんの?」と投げやりになるし、むしろ継続率を下げて教室長が上司から叱られるのはいい気味で、責任を取らされてどこか他の教室に飛ばされてしまえばいいと心の底では思っている。

      そんな人望のない教室長のために継続率を上げようとする時間講師がいるとすれば、それは根が本当に素直で誠実な人か、あるいは親に積極的に電話をかけて自分のファンにして、いつか教室長の寝首をかいて独立して塾を作ってやろうという魂胆のある人のどちらかである。

      たいていの講師は、「この子には来て欲しい」と思う子は熱心に誘うが(つうか、塾に馴染んだ子は講師側が誘わなくても勝手に阿吽の呼吸で継続するのであるが)、そうじゃないと熱心に誘ったりはしない。
      塾に来て欲しくない向学心の薄い子に対して、継続率アップのため心ならずも「ねえ、9月からも続けて塾に来ない?」と誘って、「え〜、あたしもう来ないよ〜」なんて生意気に振られてしまったら腹立たしいことこの上ない。だからそんな奴に対して賢明な時間講師は声をかけない。

      そんな真面目にやっている子に悪影響を与える態度も学力もメチャクチャな子供に対しても、商売気と出世欲が露骨な人望のない教室長は熱心に継続するよう誘う。

      教室長「ねえ。9月からも来なさいやあ。成績伸びるでえ」
      子供 「遊びたいから来ないもん」
      教室長「そんなこと言わんで、来いやあ。来てくれよお」
      子供 「行ってあげたいけど、だめ」

      やる気も可愛げもない生意気なガキに対して、猫なで声で継続を迫る教室長のアホな会話を聞いているとやりきれない。

      しかし時間講師から個人塾の塾長に転進した今では、継続率も塾を維持していく上で大事な数値だということが身にしみてわかる。かといって時間講師時代のような、¥こだわりも決して疎かにしてはならない。
      個人塾の経営者は、金にうるさい経営者と、学力向上にシビアな講師が合体していなくてはならないのだ。


       
      | 塾の様子ガラス張り | 17:54 | - | - | ↑PAGE TOP
      大学受験学参ソムリエ17 「ハッとめざめる確率」
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        確率は数学とは別科目のようなポジションで、独立王国のような存在だ。だから確率だけ苦手な人もいれば、確率だけできる人もいる。
        ということは、確率が苦手でも解き方にめざめれば、一気に征服できる可能性が強い。参考書に恵まれれば、確率が一気に理解できる。
        確率が苦手な人は、機械的に公式にあてはめようとする。だがセンターの問題は、公式だけでは解答にたどり着かせてはくれない。センター試験は、確率の根本を理解していないのに、公式だけで解こうとする受験生に冷たい。

        数学と算数の違いとして、数学は抽象的で、算数は日常的だとよくいわれる。確率はカジノやパチンコなど生活のにおいがして、きわめて算数的な分野である。
        だから、確率は中学受験経験者が強い。彼らは確率を樹形図を使って解いた。紙の上に松の葉を大量に散らしたように、ビッシリ樹形図を書いた。面倒くさい作業だろう。

        だがそのうち、同じパターンなら樹形図を何度も書かなくていいことに気づく。1パターン書いてみて、「かけ算」をして樹形図をはしょることを学ぶのだ。樹形図を書く機械的な作業を通して、確率には公式があることを知る。便利なものがあったものだと感動する。
        樹形図から這い上がって公式を得たボトムアップ型の「苦労人」は、どんなパターンの問題が出ても対処できる。だけど公式をあてはめることしかできない、トップダウン型のスマートな解き方では、たちまち行き詰ってしまう。

        確率は公式だけでは解けない。樹形図→公式の過程を経験して、はじめて理解したことになる。この「ボトムアップ」の過程を詳しく書いた、良い参考書がある。『ハッとめざめる確率』。文字通り確率にハッとめざめる。
        『ハッとめざめる確率』が異色なのは、パラパラとめくるだけで、数学の参考書にあるまじきほど文字が多いところで、文字の中に数式が埋まっている感じだ。数式だけが無愛想に羅列され、意味がさっぱり分からないという事態は、この本に限っては考えられない。樹形図や表もふんだんに使っている。第1部と第2部の例題56個やれば、確率が超苦手から超得意に変わる。




        「ハッとめざめる確率」より。
        公式3を、上段では数式で証明、下段では言葉で説明している。
        この本は最初から最後まで、このように言葉を大事にするポリシーが貫かれている。





         
        | 大学受験学参ソムリエ | 18:51 | - | - | ↑PAGE TOP
        代ゼミの「下剋上精神」を潰すな
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          代ゼミが20数校舎を閉鎖し、本部を含む7校しか残さず、講師・職員を大幅リストラすることになった。駿台・河合塾・代ゼミの「三大予備校」の一角が崩れることになった。

          代ゼミの凋落の兆しはあった。予備校はセンター試験の「実戦問題集」を出しているが、問題が駿台や河合塾に比べて粗かった。思考を問うのではなく知識を問う、私大型の問題が多く、センターの実戦問題集というには、本番の問題と剥離していた。
          また模試も受験者数が減少一途で、偏差値が高く出て、力不足の受験生でもA判定・B判定が続出し、信憑性が失われていた。

          今後代ゼミは、模試を廃止するという。模試の問題作成と答案の採点は、講師の力を上げる。受験者が間違えるポイントを知ることで、講師は授業の精度を上げる。駿台の伊藤和夫は、模試受験生の典型的な間違いをネタにした『英文和訳演習』という本まで書いた。模試の廃止は、かゆい所に手が届く授業を、放棄することになる。
           
          代ゼミは大学受験の大衆化をもたらした。80年代の代ゼミのパンフの講師紹介を見ると、佐藤忠志という英語講師の服装に目がいく。香港のイカサマ魔術師のようなゴージャスな服装に、福笑いのような大きな顔。「金ピカ先生」は代ゼミの看板になり、現在に至るまで予備校講師の典型イメージとして引き継がれている。対して駿台のエースは白髪の学者然とした伊藤和夫。代ゼミの「金ピカ先生」とのイメージの違いは大きく、駿台・エリートVS代ゼミ・大衆の図式が成り立っていた。

          代ゼミには暴走族上がりの吉野敬介もいた。リーゼントの髪型に強面。しかも担当教科は「不良」とはミスマッチな古文。猛烈な野心を体現し、時代遅れと言われつつ過激な精神論を説いた。「だからお前は落ちるんだ、やれ!」と吉野は受験生に吼え続けた。

          英語の西谷昇二はスマートな講義で、若者のカリスマになった。特に女性人気が高かった。スピード感がある喋り、雑談の多さ。伊藤和夫が生徒の頭をたがやす耕運機なら、西谷昇二はフェラーリのように颯爽としていた。

          こういう「先生」とはかけ離れたキャラの講師が魅力を放ち、バブル時代に代ゼミは大人気だった。講師のキャラで勉強とは無縁だった高校生まで勉強の道に乗せた。浪人して代ゼミに通い早稲田に行くのが、日本人の人生コースの一典型になった。
           
          一般的なイメージを言えば、駿台や河合塾は、真面目に勉強してきた受験生が、オーソドックスで堅実な講義を受けてきた感じだ。だが代ゼミ、特に下のクラスにはヤンキーやチンピラの匂いがした。駿台生にメガネが似合うなら、代ゼミ生には煙草の匂いがした。

          だがそんな猥雑なエネルギーが代ゼミにはあった。高校まで遊んできたけど、根拠のない野心がある若者の根城になった。どうみても堅気ではない「金ピカ先生」や、暴走族上がりの吉野先生、渋谷のチーマーの匂いがする軽い西谷先生が、「勉強したら逆転可能なんだ」と彼らの憧れを誘った。
           
          代ゼミの講師は吉本興業のようにキャラが立っていた。「予備校講師=芸人」のイメージを定着させたのは代ゼミだった。同時に、代ゼミの講師には教え方にケレン味があった。富田一彦の精緻に精緻を極める構文解釈、かと思えば今井宏の大枠をつかむパラグラフリーディング、日本史・菅野祐孝の立体パネルなど、強いキャラとキャッチーな教え方が同一化していた。

          毒舌も魅力だった。いかにも毒舌を吐きそうで期待通りに毒舌を吐く富田一彦。怪物ランドのプリンスみたいな華奢な風貌をしていながら、可愛い顔してネット授業で大毒舌を吐く西きょうじ。真摯な毒舌は受験生を刺激した。代ゼミは「知的エンターテイメント」で一時代を築いた。
           
          だがここ数年、勉強は「できる子」のものになってしまった。「ゆとり教育」で基礎力を奪われ、中学受験の難化で、高校生から勉強に目覚めてもエリートははるか遠くを走って追いつく気が失われ、推薦入試・AO入試で私立大学に一般入試で入ることが馬鹿らしくなり、地方は不景気で難関私立に通わせる経済力が失われ、浪人してまで「いい大学」に合格しようとする意気が失われ、また、受験生の人気は国公立理系にさらわれた。

          そして、勉強が苦手な子が、勉強して「野心」をかなえる下剋上の風潮は失われた。小さい頃からコツコツ勉強してきた子が、順当に難関大学に合格する。受験を日本の時代区分にたとえるなら、代ゼミ全盛期のバブル期は戦国時代、現代は江戸時代である。「安定志向」の中で、かつて勉強が苦手な子に魅力を与えた、勉強で一発逆転、一獲千金を狙う風潮は薄くなった。代ゼミはその役割を終えたのかもしれない。
           
          私は
          『難関私大・文系をめざせ!』という、英国社の3教科でも、野心があれば合格できる難関私大の魅力と、具体的精緻な勉強法を解いた本を出版した。
          私の本は「代ゼミ」的な、戦国時代の風潮よもう一度という願いを込めて書いたものである。勉強が嫌いで、どこかくすぶっている高校生。行き場のない閉塞した状況に、若さを押し殺している高校生に向けて射た、自信を喚起する一本の矢である。

          私の本で、西きょうじの
          『英文読解入門〜基本はここだ!』という参考書を紹介している。薄いが中身は濃い。高1段階から自学自習できる。高校で英語の点数が伸びない、でも受験には英語が必要だと諦めた受験生に向け、御釈迦様が垂らした一本の矢である。
          その他にも、自分では意識しない野心と、下剋上を可能にする参考書問題集を紹介し、精緻にやり方を書いた。
          私の目線は常に「勉強が苦手な高校生。でも今のままでは終わりたくない高校生」のもとにある。
           
          代ゼミの先生は、西きょうじにしても富田一彦にしても、どこか生徒に冷たい所がある。だが彼らは数多くの若者を見てきて、怠惰で自分に甘い受験生が負けることを知り抜いている。
          しかし、いったん突き放しても、へこたれず這い上がった受験生が良い結果を出すことを知っている。冷たさは生徒を試す強烈な愛情なのだ。代ゼミの超一流の先生には、媚びない熱がある。「ダメ人間」を話術一本で蘇生させてきた凄味がある。
           
          代々木といえば社会主義政党の本部がある。「革命」をめざす者たちの聖地であった。そして代ゼミも「下剋上」をめざす若者たちのエネルギーが満ちていた。
          そのエネルギーはいま、山手線を180度回った正反対の位置にある秋葉原に吸い寄せされている。勉強に無縁だった若者をひきつけた「代ゼミ」の引力は凄かった。だが彼らはいま、勉強の世界にはやってこない。
          「代ゼミ」が消え「代ゼミ」の文化が消滅するのが、私には悔しい。


           
          | 大学受験 | 09:45 | - | - | ↑PAGE TOP
          音楽を聴きながら勉強できるか
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            音楽は感情をかきたてる。映画やゲームに音楽がなかったら、盛り上がりに欠ける。
            北海道を旅行した時、ある漁師町の温泉街で、朝5時から拡声器で北島三郎の歌が流れていた。早朝の薄暮の空にカモメが飛び交い、北島三郎の曲が広がる光景は、漁師にとって北島三郎の曲は、仕事をはかどらせるBGMになっているのだと感動した記憶がある。

            音楽を聴きながら勉強することに私は賛成だ。ヘッドフォンは音に集中しすぎるから避けたほうがいいが、スピーカーで聴き慣れた音楽を流しながら勉強すると、勉強がはかどる。
            ふだん聞かない音楽を聴いたら集中力が途切れやすいが、たとえば私ならビートルズや大瀧詠一の「A LONG VACATION」や佐野元春「NO DAMAGE」のような、中学生の頃から繰り返し聞き、歌詞を一言一句間違えずに歌えるおなじみのCDをかけて仕事している。小説家のステーィブン・キングはハードロックを聴きながら執筆するそうだ。

            カフェや美容院など洒落た空間には、クラシックやジャズが静かに流れ、無音状態より静寂を保っているが、だからといってクラシックやジャズのすべてが勉強のBGMとして適しているわけではない。マーラーの交響曲は音が大小が激しく、無音状態になったかと思えば、オーケストラがいきなり咆哮する。勉強に集中していたらいきなり大音響に妨害され、勉強向きの音楽ではない。
            理想論を言えば、音楽を流しながらも、音を意識しない集中力を維持するのが好ましい。だが、勉強から意識がずれた瞬間、知っている音楽が流れているのを聴くと安心する。

            安心するといえば、映画を流しながら勉強するのもいい。新作映画ではなく、何回も見たもの、たとえばジブリの映画とかどうだろう。『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を、音量を極力下げて映像だけ流す。数学の問題を解いていて行き詰まり、ふと画面を見ると、サツキとメイ姉妹が会話し、黒猫ジジが身体をくねらせ何か語っていれば、心が安らぐ。
            当然ながらテレビはだめだ。特に野球やサッカーなど贔屓チームのテレビ観戦するのは絶対に避けたほうがいい。

            あと、音楽や映像ではないが、集中力を妨げるのはペットである。犬や猫は眠っている時は、かわいらしい寝姿を見て癒されるが、動き回っている時は極力別室に隔離して勉強部屋に入れない方がいい。
            小説家・谷崎潤一郎は大の猫好きだったが、執筆中は書斎に猫を絶対に入れなかったという。ただ猫の死後は剥製にして、書斎の目立つ場所に飾っていたらしい。
            「ながら勉強」は、リラックスするために効果的になり得る。「きょうはどんな音楽を流しながら勉強しようか」と、BGM選びもまたいい。
             



             
            | 硬派な教育論 | 18:24 | - | - | ↑PAGE TOP
            反復は大事、だが反復に甘えるな!
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              学習参考書専門の出版社は、マンガの出版社に比べ売り上げがはるかに少ない。もちろん、マンガの方が学習参考書より正直言って面白いのが最大の理由だが、学習参考書は手垢で黒くなるほど大事に読まれるが、マンガは一気に大量に読めるという性質も売り上げに関与している。学習参考書は購入者にとってコスパが良すぎるのだ。一冊の本を繰り返し読まれることは、良心的な出版社にとって嬉しくもあり悲しいことだ。

              ところで、センター試験直前の勉強は、新しい本を買わないで学参の出版社を困らせるくらい、同じ参考書問題集を何度も繰り返すのがベストの勉強法だと言われる。本当だろうか?
              参考書問題集に限らず、新書や小説や雑誌や新聞やマンガだって、3日もすれば細部を忘れている。ましてや膨大な暗記知識で成り立つ参考書や問題集は、1回通読しただけで叩き込まれるわけがない。反復、ひたすら反復の勉強法が好ましいのは言うまでもないことだ。普通の本やマンガはサラッと読むだけでいいが、参考書問題集は「記憶」「暗記」しなければ役に立たない。

              問題集を一通りやっても、完全に暗記し切れていない部分は膨大な数に上る。それらを丹念に拾い直す作業を、直前期には黙々とやればいい。一度やった部分なので、一回目よりずっと頭に入りやすいだろう。同じ参考書・問題集を2回繰り返せば4倍、3回繰り返せば9倍の力がつく気がする。
              草は固いから消化が悪い。牛が草を食べる時、いったん食べた草を胃の中に収めてから、また口に戻してゆっくりとすりつぶし反芻する。だから牛は1日中口をモグモグさせている。牛になったつもりで反芻し、知識を消化したい。

              たが、ここに落とし穴がある。センター試験は、馴染みの参考書・問題集の反復だけで点数が上がるわけではない。ものには限度があり、バランスが難しいところだ。
              恐ろしいのは、簡単すぎる参考書・問題集を、5回6回と執拗に繰り返すことだ。受験前不安になると、無意識に馴染みの参考書・問題集に固執しすぎてしまう。70%理解した問題集なら、あと30%埋めるために反復は効果的だが、ほぼ完全に理解した、簡単な参考書・問題集ばかりやっていても力はつかない。極論すれば大学受験生が小学生の漢字ドリルをやって、センターの点数が伸びるだろうか?

              実は、同じ問題集を過剰に繰り返してしまいがちな子は、定期試験の点数がよく、内申点が高い子が多い。彼らは定期試験で満点をめざすため、教科書やノートをなめ尽くすような勉強法を取ってきた。教科書やノートをそのまま写し暗記する「完璧主義」の勉強が身についている。
              だが、大学受験はそうではない。「完璧主義」も大事だが、そこからテイクオフして難問に挑戦する「チャンレンジ主義」が不可欠なのだ。定期試験とセンター試験はまるで違う。定期試験の成功体験が、センター試験の失敗の原因になることだってあるのだ。

              とにかく、同じ参考書を3回繰り返せば9倍力がつくかもしれないが、4回繰り返して16倍力がつくわけではない。過度の反復はかえって効果が薄い。いくら馴染みの参考書・問題集を繰り返せとアドバイスされたからといって、反芻し過ぎたら口の中でウンコになってしまう。「卒業」した参考書・問題集とはスッパリ手を切るべきである。

              簡単で同じ問題集ばかり繰り返すのは、新しい問題にチャレンジするのが怖い心理が裏にある。反復に逃げる受験生に限って、過去問や予備校の実戦問題集をやりたがらない。センターの本試験はパリパリの「新作問題」である。バッティングセンターで棒球ばかり打っていたら、センター本試験の「生きた球」に対応できない。過去問や予備校の実戦問題集という「生きた球」に積極的に手を出そう。
              反復は大事だ。だがもう消化しきった簡単な参考書の反復は無駄だ。腐れ縁から一刻も早く抜け出したい。


               
              | 大学受験 | 19:40 | - | - | ↑PAGE TOP
              「難関私大・文系を目指せ!」裏事情
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                私は『難関私大・文系をめざせ!』という本を上梓した。おかげさまで売れ行きは好調で、増刷も決定した。読んで下さった皆様、そして、本の宣伝に力を貸して下さった皆様には、お礼の言葉を申し上げます。

                最初は勉強法の本を出す予定ではなかった。『子どもを金持ちにする親、貧乏人にする親』という、親向けの啓蒙書を出す予定だった。塾講師として、どんな親が子どもをスポイルするか、率直な本音を書いたもので、原稿はほぼ完成していたが内容が過激で、しかも重苦しい文体で書かれているので、出版を見送る出版社が相次いだ。というわけで、最初の企画を捨て、英国社の文系科目の勉強法を書いた本に企画を変えた。こちらの方は好評で、出版社にも温かく迎え入れていただいた。

                だが問題が1つあって、原稿がほぼ未完成だったのだ。出版が決まったのは5月13日、原稿の締め切りは5月31日だった。
                なぜ書くのを急ぐ状況だったかというと、学習参考書や勉強法の本は、夏休みに入る前にしか売れないという、出版業界の事情であった。夏休み前に大学受験生はやる気が出る。7月21日発売と、9月1日発売では売れ行きに差が出るという判断だった。3分の1はブログの文章を改変して出した。だが3分の2は全く書けていない。原稿用紙200枚を3週間で書いた。
                原稿は一応仕上がった。だが編集者の方から「国語のページ数が少ない」という指摘があった。英語と社会のページ数が多くて、国語が短いアンバランスなものになった。国語は原稿用紙50枚を1週間と急ピッチで書いた。結果として、最初は200ページくらいの薄い、行間がスカスカの本になる予定だったが、270ページもある分厚い、文字が小さな本になってしまった。

                原稿書きに詰まったら、向島を散歩した。岩子島や干汐や立花や歌へ向かって歩き、アイディアが浮かぶのを待った。勉強法の大筋は立っている。だが読者に理解してもらうには修辞を工夫し、比喩を思いつかねばならない。退屈な箇所に命を吹き込むため、アイディアが浮かぶのを気長に待ちながら島を歩き続けた。歩くと考えが浮かんでくるものなのである。

                私は今回の本を、高陵社出版という小さな出版社から出した。もちろん自費出版ではなく商業出版だが、失礼ながら大手出版社と比べて販売力は弱い。東京大阪の大書店では強いが、地方では置かれていないのが現状だ。だから編集者の方は東京圏を、私は京阪神を、ポップを持って本を書店に置いてもらえるよう奔走した。上江洲先生にも夏講の貴重な中休みにもかかわらず、手伝っていただいた。

                不利な条件の中、私がこの出版社を選んだのは、第一は編集者の方との相性である。編集者の方は、私の原稿にある「無駄」な部分を評価して下さった。
                この本にはサザンの話が出ているが、こういった従来の勉強方ではあるまじき部分を削らないで、そのまま残して下さった。こういう「無駄」がないと、私の持ち味が消えてしまう。

                第二は少し打算的な考えだが、老舗の教育系出版社ということで、私が教育方針と人格と文章を尊敬している先生方にも、出版の関門を開きたかったからだ。「硬派」な教育書を出し続ける基盤があれば、日本の教育にも一石を投じられるのではないか、私がトップバッターになって、良心的な塾の先生が、書物を通して親や子供を啓蒙できるのではないか、そういう深謀策略があったからだ。

                第三、これが一番大きな理由だが、小さな出版社から出すことで、地べたから這い上がる経験がしたかった。大手出版社なら書店回りをしなくても、本は自動的に置いてもらえ、著者が訪問すれば歓迎される。だが小さな出版社の無名の著者は、冷たくあしらわれるのが関の山である。
                個人塾塾長は、子ども相手にお山の大将になりがちな職種だ。だが、出版業界に入れば一兵卒にもなれない存在だ。「46歳のハローワーク」で、偉そうにしていた中年男が、地べたをはいずり営業活動をすることは、正直プライドが傷つくこともある。

                大学受験も同じように、無名の若者が試験勉強を頑張って、大学や企業に力量や性格を認められるためのシステムだ。成績が伸びず苦しんだり、周囲の過小評価で誇りが傷ついたりすることもある。そこから這い上がるには、強い精神力が必要だ。
                私が地べたをはいずりまわり、試練を課されることで、大学受験生の気持ちがわかると考えたから、だから、私は良心的で将来性がある、小さな出版社を選んだ。

                教師というものは、基本的に他力本願の存在だ。生徒に夢を託す傍観者になりがちな職業だ。私が出版という、自らの夢に向けて邁進し、都会に出て傷つくことが、塾生やOBたちの刺激になると考えた。私がチャレンジし続ければ、吐く言葉も重みを増すだろう。力があるのに自分の殻に閉じこもっている生徒に対して「そんなことでどうするんだ!」と、強い口調で語ることもできるだろう。子供に夢を託すだけの傍観者から、脱却したかった。
                 
                新しいチャレンジをする時、誰が積極的に味方してくれるか、誰が傍観者を決め込むか、私が塾を開く時に思い知った。
                出版もそうである。意外な人が応援してくれ、腹心だと信頼していた人が無視する。こういう経験を積むと、人間は強くなる。
                大学受験も同じである。挑戦し不安に陥った時「君ならできる」と言ってくれる人がどれだけ有難いか。 ピンチの時に相手の本性がわかる。

                本の内容は奇をてらわないものにした。タイトルも地味にした。『ど根性勉強法』とか、『野心をつかむ勉強法』とか『リピート&リベンジ勉強法。復習で復讐だ!』とか、派手なタイトルも思いついた。
                だが、英国社の勉強法であるから、タイトルと内容の剥離は避けたかった。どう考えてもこの本は難関私大文系を受験する人のための内容である。だから『難関私大・文系をめざせ!』と、読者層を絞るピンポイントで、堅実なタイトルにした。


                本の内容だが、良いのか悪いのか自分ではわからない。ただこの本の強みは、私と生徒の経験が生み出した、真実しか書いていないところだ。現場が生み出した勉強法、まさに「事件は現場で起きている」のだ。
                勉強法の本は、著者自身の勉強方しか書いていない場合が多い。面白いのだが、天才的な頭脳を持つ人が多いので、地べたから頑張ろうとする受験生には参考になりにくい。

                だが、この本は勉強が苦手だが、人一倍根性と精神力がある受験生を対象に書いた。また、スパルタ浪人生活を送り英語偏差値40から同志社→メガバンというコースをたどったソウタ君、高校でビリで退学寸前の状態から立命館に合格した「平成の火野正平」スバル君、非進学校で自分絵お保ち続け数学が大の苦手でも同志社に合格したマサト君の体験談が生々しく載っている。
                彼らの成功体験の裏には、失敗体験も多い。だから私は、どんな勉強法が良くて、何が悪いか、塾生たちと戦いながら学んだストックがある。そんな体験の「最大公約数」を本にまとめた。最大公約数という比喩はつまらない無難なものという意味に使われがちだが、この本は最大公約数を超えた「エッセンス」である。

                無名の著者が小さな出版社で出した、地味で不器用な本だが、私なりに最善を尽くした。難関私立受験者だけでなく、国公立で英国社の成績が良くない人も読んでほしい。奇をてらった本ではないが、私の「本気」が伝わるはずである。
                | 私が出した本 | 20:15 | - | - | ↑PAGE TOP
                男性トイレに入ってくるババア
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                  私は旅行が大好きだが、観光バスに乗っていると、トイレはやたら混雑する。
                  特に女性トイレは異常に込み合う。ひどい時には30人ぐらいの行列ができている。
                  高速道路のPAのトイレは広いからめったなことでは混雑はしないが、小さな観光地のトイレだったら、突然の大量の観光客の来襲に悲鳴を上げてしまう。
                  たった3〜4個の便器しかないところへ、団体バスが3〜4台止まって、200人以上の人間がトイレに殺到したら混雑しても仕方ない。

                  ただ、女性トイレが長蛇の列でも男性トイレは空いている場合が多い。男性はトイレの所在時間が短いし、また団体バスはオジサン連れよりもオバサンのグループの方が圧倒的に多いわけで、団体バスの7割は中年女性が占めている。
                  だから男性はトイレに困ることはあまりない。いざという時は、そこらの草むらでササッとすますこともできるし。

                  そんな時に、堂々と空いている男性トイレに入ってくるご婦人がいる。さすがに1人で堂々と男性トイレに入ってくる人はいない、大抵数人固まって来る。
                  団体バスに乗り慣れたご婦人は、どんなに女性トイレが込んでいても、男性トイレは空いているという愚かな「生活の知恵」で、男性の目なんかお構いなしに堂々と男性トイレにやって来る。
                  ご婦人は女性トイレの行列を横目に、男性トイレに駆け込んできて、「奥さあん〜、こっち、あいてるわよ〜」と、大声で女性トイレの行列に加わっている別のご婦人方を呼ぶ。

                  旅慣れたご婦人方は、観光地の男性トイレに女性がズカズカ入り込んで来ても、男性トイレで小便している気弱な男性達が突然のババア軍団の闖入になす術なく、戸惑うばかりで何も言えない事もよくご存知なのだ。

                  北海道の美瑛に行ったときに、男性トイレにやって来た4人の婦人たちがいた。
                  彼女たちは大きな声でおしゃべりしながら、図々しくも男性用の便器の前に堂々と並んだ。そこへ大便をしていた大学生ぐらいのお兄ちゃんが何も知らずに、ウンコを終えて出てきた。彼が扉を空けた瞬間、外に4人のオバサンが立ちはだかっていたわけだ。

                  そしたら三浦春馬みたいな端正な顔のお兄ちゃんは驚いて、「アッ」と声なのか息なのかわからないような音を口から発し、後ずさりして片足のスニーカーを和式便器の中に突っ込んだ。便器の水がビシャっと散った。真面目そうなお兄ちゃんは顔を硬直させて、逃げるようにトイレから立ち去った。お兄ちゃんは間違って自分が女子トイレに入り込んだとカン違いしたのだろう。そりゃあいきなりトイレのドアを開けたら、細木数子と林真須美と十勝花子とあき竹城が待ち構えていたらビビる。

                  そんなご婦人方でも、1人か2人は恥ずかしそ〜に男性トイレに入ってくる、ちょっと清楚な感じの奥さんがいる。
                  「奥さぁ〜ん、こっち、あいてるわよ〜」なんて大声で叫んでいるような、先頭切って男性トイレに来るボスババアは、それなり下劣な容貌をしている。しかし下品なババアの陰に隠れるようにして、おどおど男性トイレに入って来た奥さんは、賀来千賀子みたいな清楚な風貌で、とても男性トイレに来る様な感じの人じゃない。

                  賀来千賀子みたいな顔の奥さんは、仲間の下品なオバハンから男性トイレに誘われ、行くべきか行かぬべきか大いに迷っただろう。きっぱりと「私は男性トイレなんか行きません」と断ったらハブにされる、しかしやっぱり男性トイレに入るのは恥ずかしい。さんざん悩んだ末に、群集心理と生理的欲求には勝てずに男子トイレに飛び込んできたのだ。

                  賀来千賀子は、まるで悪い友人に誘われて仕方なくつきあいでタバコを吸っていて、運悪く教師に見つかった中学生みたいな顔して男子トイレに入ってくる。生涯で男子トイレ初体験の奥さんは、突然のオバサン軍団の乱入に目を白黒させている男性の視線を浴びて、恥ずかしそうに薄笑いを浮かべているか、妙に開き直って顔がこわばっているかどちらかだ。

                  女性トイレの延々と続く行列に並ぶのは苦痛だろう。でも女性が男性トイレに入るということは、やはりルビコン河越えちゃってるわけだ。
                  女性が堂々と男子トイレに入っても許されるシチュエーションは、大阪新歌舞伎座の杉良太郎特別公演ぐらいしか、私には思いつかない。



                   
                  | 未分類エッセイ | 09:05 | - | - | ↑PAGE TOP
                  NHK大河ドラマの傑作・戦国編
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                    日本史に興味がもてない人は、NHK大河ドラマを見れば、好奇心が芽生えるきっかけになる。日本史が得意な人は、たいてい大河ドラマが好きだ。
                    ただし、大河ドラマは1話45分、全話50話ぐらいあるので、すべて見たら35時間くらいかかり、最初から最後まで見たら勉強に差しさわりがあるので、数時間にまとめた総集編のDVDをレンタルすればいい。
                     
                    大河ドラマの題材になる時代は、古代や近現代が手薄なのが弱点だが、戦国や幕末のラインナップは豊富にそろっている。
                    戦国時代でおすすめは『独眼竜政宗』だ。東北の若き戦国大名伊達政宗は、幼少のころ疱瘡で片目を失ったコンプレックスの固まりで、母に醜いと疎まれ、弟を殺し、父を見殺しにするという修羅場をくぐった。政宗が智略を尽くして東北を平定した時には、もはや秀吉が全国を統一し、秀吉の死後は家康が天下の座を継いだ、「遅れてきた英雄」だった。
                    秀吉を貫録十分の大俳優・勝新太郎が、そして若さのパワーにあふれた政宗を、まだ無名俳優だった若い渡辺謙が演じる。老獪な秀吉と、若い政宗の静かな対立は緊迫感にあふれ、まだ無名俳優だった渡辺謙の、眼帯姿で片目をギョロリ剥いた演技が印象的だ。
                     
                    ただ『独眼竜政宗』は信長が出ていないので、信長を知りたければ『利家とまつ』がいい。反町隆史の信長は「いかにも」という感じだし、なにより秀吉を演じる香川照之が素晴らしい。高度経済成長期の脂ぎったビジネスマンのような秀吉を好演し、香川照之が人気俳優になった出世作でもある。
                    『信長〜KING OF ZIPANG』という作品もあるが、信長役の緒形直人の演技が暗く、また徳川家康を郷ひろみ、明智光秀をマイケル富岡が演じ、致命的な軽いキャスティングミスが多く、またご覧になっていただければわかるが「珍作」なので薦められない。

                    なお大河ドラマ最高の信長は、1983年『徳川家康』の役所広司である。役所広司と言えばいまや「マルちゃん正麺」だが、まだ無名だった役所広司のギラギラした信長は抜群で、家康役の滝田栄を食っている。NHKもよくこんな無名の俳優を見つけ出し、大役に抜擢したと思う。『独眼竜政宗』の渡辺謙と、『徳川家康』の役所広司は、大俳優がブレイクする瞬間を見ることができる。
                     
                    武田信玄が主人公の『武田信玄』『風林火山』はどちらも面白いが、武田信玄の生涯は入試には出ないので受験生は見ない方がいい。『毛利元就』も信玄と同じ地方で活躍した大名なので入試には関係ない。
                    もう20年以上前になるが、『武田信玄』に中井貴一がキャスティングされた時は意外だった。震源の肖像画は太った入道頭の男というイメージで固定されていたが、細面で神経質な中井貴一の信玄像は新鮮だった。『風林火山』で市川亀治郎が演じた信玄は、肖像画のイメージ通りである。

                    『武田信玄』のオープニングテーマはNHK大河ドラマで最も勇壮なもので、私が大好きな曲である。テレビでもよく流れているので知っている人も多いだろう。作曲は稀代のメロディメーカー山本直純で、平将門を主人公にした『風と雲と虹と』のテーマも素晴らしい。大河ドラマではないが、ファンクな『新・オバケのQ太郎』のテーマも山本直純である。



                     


                    あと総集編ではないが、現在放映されている『軍師官兵衛』は、歴史好きを久々に興奮させる大河ドラマである。
                    ジャニーズタレントが主人公の大河ドラマに対して、厳しい目を向ける人は多い。私も『新選組!』の香取慎吾はいまだにミスキャストだと考えているし、『義経』の滝沢秀明も力量不足だったと判断している。

                    岡田准一はジャニーズ臭が少なく、放映開始当初から安定した演技をしていた。だけどストーリーがやや予定調和に流れているなと感じていたところ、荒木村重に1年も幽閉され、足を引きずるようになってからの岡田准一の智謀に満ちた悪役演技は素晴らしい。前半の好青年ぶりと白黒のコントラストがある。特に信長が死んでから俄然面白くなった。秀吉が官兵衛の智略を恐れ、天下を取ってから官兵衛を遠ざけた理由がわかる演技である。

                    秀吉役の竹中直人は、私の頭の中では秀吉の生き写しである。授業で秀吉の太閤検地や刀狩や朝鮮出兵を教えていても、竹中直人の顔しか浮かんでこない。
                     
                    (つづく)




                     
                    | 映画テレビ | 11:25 | - | - | ↑PAGE TOP
                    地理を得意にする方法。Googleは「どこでもドア」
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                      わが子が中学受験勉強を始める時、「親が勉強を教えなければならないのか」と不安になる親は多い。中学受験だからといって構えることなく、今まで通り子どもの生活と健康に気を配っていればいいのだが、勉強面でも子どもの中学受験に貢献したい方もいらっしゃるだろう。
                      親が勉強を教えるなんて、「のび太のママ」みたいにヒステリックな教育ママを想像されるかもしれないが、あんな古めかしいスタイルとは違って、親子が勉強を楽しむ、ちょっと今風の環境を作ればいい。どうせ教えるなら楽しく教えたい。「おうちで寺子屋」をエンジョイするのだ。

                      教えるのは社会の地理がいい。「ゆとり教育」で地理の学力が落ちている事実は、教育現場の誰もが感じている。聞くところによると、最近の子どもの中には、南極が暑い場所だと思っている子がいるそうだ。沖縄・ハワイと南へ行くほど気温が上がる。だから地球の最南端である南極は、灼熱地獄のような場所だという。こんな勘違いをするのは、地球が赤道を境に北半球・南半球に分かれていることを知らないのと、南極の氷の上でペンギンが歩いているイメージが、子どもの頭にストックされていないからである。

                      子どもに日本各地のイメージを焼き付ける最大の方法は、日本一周することだ。夏休みを利用して40泊41日で日本一周すれば、地理の点数は飛躍的に上がるに違いない。
                      さすがに日本一周はアイディア倒れに終わりそうなので、代わりとしてネットを活用しよう。まず、親子でパソコンやタブレットの前に座る。都道府県庁所在地名や山脈・川の名前を暗記する時、「愛知県・名古屋市」と無味乾燥に暗記しても面白くないから、地図を見ながら「盛岡」「飛騨山脈」「最上川」と、子どもといっしょに画像検索するのだ。
                      都道府県庁所在地を検索すると、街の画像を見て、子どもの口から「名古屋って大きい街だね」「大津って琵琶湖が近いね」「山口って小さい街だね」「金沢って時代劇に出そうな古い街だなあ」と素直な感想が出てきたら嬉しい。ネット画像検索で風景が視覚に焼き付き、ちょっとしたプチ家族旅行になる。地理が嫌いな子は多いが、旅行嫌いの子は少ないはず。そのうち子どもは親の助けがなくても、わからないことがあったら自分で調べる習慣がつくはずだ。

                      ここで、地理が得意な子の頭をのぞいてみよう。私の塾は小学生から高校生まで教えているが、地理好きの高校生に「兵庫県と聞かれてイメージするものは?」とたずねてみる。兵庫県は、北は日本海、南は瀬戸内海、山間部は緑深い山地と、さまざまな顔を持つ県だが、彼は「神戸は港町、姫路は城下町、忠臣蔵の赤穂も城下町です。天空の城竹田城も兵庫県ですね。甲子園もありますし、淡路島との間には明石海峡大橋が架かっています」とスラスラ答えるだろう。
                      それに加えて「神戸は神戸牛、日本海側は松葉ガニがおいしいですね」と、高級食材の名前を挙げる。彼はふだんから社会に対する知的好奇心を発揮して、地名が出たら調べ、面白い旅行番組があったら見る。そんな積み重ねが、兵庫県に対して視覚だけでなく味覚まで感じる、高い学力を作りあげてきたのである。学力を高めるのは机の上の勉強だけではない。日常生活すべてがメッセージなのだ。

                      ぜひ、親子一緒に、ネットで地理を楽しんでほしい。Googleの検索窓は、地理学力向上の扉である。地名を画像検索するだけの些細な作業が、パソコンやタブレットを「どこでもドア」にし、中学受験だけでなく、大学受験にも通じる楽しい教養を生み出す。
                      ネット画像検索で「プチ家族旅行」に出かけよう。
                       
                      たとえば「長崎 軍艦島」なら
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                      強烈な画像が大量にヒットする。
                      長崎の「端島」は、かつて石炭が採れてにぎわい、人口密度が東京23区の9倍に達した時期もあったが、1974年に閉山。現在は無人島。形が似ていることから「軍艦島」の通称で呼ばれる。検索すると島内の廃墟の写真がふんだんに出てくる。子どもの頭に「石炭→石油」のエネルギー革命を、一発でイメージづける格好の画像。
                       
                      画像検索なら、簡単に海外旅行もできる。
                      さて、ここはどこだろうか?
                       
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                      2枚の写真は、ドイツ・ベルリンの壁の跡。冷戦時代は壁があり、警戒は厳重で、壁を超えようとして死んだ人も多数。現在は壁が保存された場所もあるが、公園として市民の憩い場にもなっている。シルバー色の長いシーソーが、ドイツ人のデザイン感覚と機能美、デザイン感覚を示している。

                      こんな風に、写真だけ見せて、子どもにクイズ形式で地名を当てさせると、テレビの旅行クイズ番組みたいに盛り上がる。写真を選ぶ手間はかかるのだが・・・


                       
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