2014.08.29 Friday
大学受験・情報戦で勝つために
センター試験前、家や学校や塾で過去問や実戦問題集を解く。だが、本番の試験はそれより難しく感じる人は多いはずだ。もちろん本番独特の空気が原因ではあるが、「ゆとり教育」と言われながら、難関大やセンター試験の問題は、年々少しずつ難しくなっている。難しく感じるのは、決して錯覚ではない。
たとえば、京大は毎年2問の英作文が出題されるが、1981年と2006年の英作文問題を比較してみた。
1981年
〔1〕私は、どんな本でも、読む以上は、はじめからしまいまで、途中をとばさずに、その全部を読むことを理想としている。なかなか実際にはできないけれども、そうありたいと思っている。
〔2〕一つのことを必ずやりとげようと思うなら、ほかのことがだめになるのを嘆いてはならないし、他人の嘲笑をも恥ずかしいと思ってはならない。多くの事を犠牲にしなければ、一つの大きな仕事が完成するはずがない。
2006年
〔1〕ものの見方や好みは人さまざまである。たとえば、駅前のハンバーガー店は、人々にとってどのような意味を持つだろうか。多くの人にとっては、ハンバーガーを味わう場であろう。しかし、肉が苦手な私にとっては、ハンバーガーを楽しむというよりは、仕事帰りにちょっと立ち寄り、コーヒー一杯で一日の疲れをいやす、くつろぎの場である。本を持ち込み、書斎代わりに使うことも少なくない。
〔2〕子供の頃にわたしが毎週欠かさず観たあるテレビ番組があった。その主役はどこにでもいそうな犬で、そいつがある町にふらりとやってきては、そこで起こった事件の解決に協力し、人間からほめられる前に姿を消して、また次の町に向かって旅をつづけるのだ。私をとりこにしたのは、1つの場所に安住せずに、たえず動きつづける、その姿だったに違いない。
1981年と比べて、2006年の問題は長くて難しいのが一目瞭然だ。毎年毎年少しずつ難しくなった結果がこうなった。
1981年の問題は、和英辞典を引けばいくらでも語例が出ている文章だし、パソコンの翻訳ソフトを使えば7割ぐらいは得点できそうな、簡単とは言わないまでも、訳しやすい問題である。
しかし2006年の問題は、長くて「くだけた」文章で、英語に変えるのは難儀である。柔軟な語学的センスが必要だ。1981年の問題が文法語法を駆使してプラモデルを組み立てる感じなら、2006年は人体手術みたいな問題といえようか。2006年の受験生が1981年の問題を解いたら高得点を取れるし、1981年の受験生は2006年の問題に対して、たぶん、手も足も出ないだろう。
京大の英作文を見れば、「ゆとり教育」に逆行して、難関大やセンター試験の問題は、難化していることがお分りいただけたと思う。塾・予備校の講師の教え方のノウハウの向上や、講師が執筆する参考書問題集の質的向上が、受験生の学力と解答テクニックを向上させ、大学入試問題の難化に拍車をかけている。
問題作成者はテクニックを嫌い、より学問の本質を突く問題を出そうとする。それに対応して、予備校もセンター試験対策を練る。この「出題者VS予備校」の対決が、入試問題を難しくしてきた。
ここで問題が生じる。予備校のセンター研究がハイパー化するにつれ、高校が入試問題の難化に対応できていないのだ。高校の先生は勉強を教える以外に、部活や生活指導、書類作りに忙しく、教材研究をする暇がない方が多い。学校の先生は秘書が必要なくらい激職なのである。
結果、多忙から10年前に使ったプリントを使い回している先生もいるし、過去問研究に時間が取れない。また進学実績が悪い学校の先生は、受験指導のモチベーションが落ちる。高校の先生は最新の入試事情に、知らぬ間に「時代遅れ」になる。
大学受験で過去問研究は死ぬほど大事だ。予備校の問題研究がどんどん進化しているのに、高校の現場は対処できず、情報格差が生まれやすい。「大学受験は情報力」というが、こういう事情が裏にある。
高校でも、難関高校の「過去問研究」は別の意味ですごい。たとえば開成高校の東大合格実績が、全校生400人中200人弱を維持しているのは、生徒の能力もさることながら、東大を受験する生徒が圧倒的に多いため、教える先生が東大の入試問題を熟知し、日々の授業に無意識に落とし込んでいるからだ。指導が一元的で効率的になる。知らぬ間に「東大合格のための授業」を行っていて、無駄がない。
こういう情報格差に勝つには、予備校のHPや、『蛍雪時代』などの受験雑誌をチェックしておきたい。予備校は競争が激しい。だからHPには貴重な情報が載っている。また大学受験に役立つネットのサイトも多い。
また信頼できる先生に、情報収集を頼んでもいい。力のある先生はセンター情報に精通しているし、先生という職業の人は生徒に頼られたら、宙を舞いたくなるくらい嬉しいものだ。
だがセンター試験は情報戦の反面、最終的には力がある受験生が得点できるようにできている。情報に過度に振り回されたらダメで、学力を磨くのが第一義であることは、忘れないでほしい。
たとえば、京大は毎年2問の英作文が出題されるが、1981年と2006年の英作文問題を比較してみた。
1981年
〔1〕私は、どんな本でも、読む以上は、はじめからしまいまで、途中をとばさずに、その全部を読むことを理想としている。なかなか実際にはできないけれども、そうありたいと思っている。
〔2〕一つのことを必ずやりとげようと思うなら、ほかのことがだめになるのを嘆いてはならないし、他人の嘲笑をも恥ずかしいと思ってはならない。多くの事を犠牲にしなければ、一つの大きな仕事が完成するはずがない。
2006年
〔1〕ものの見方や好みは人さまざまである。たとえば、駅前のハンバーガー店は、人々にとってどのような意味を持つだろうか。多くの人にとっては、ハンバーガーを味わう場であろう。しかし、肉が苦手な私にとっては、ハンバーガーを楽しむというよりは、仕事帰りにちょっと立ち寄り、コーヒー一杯で一日の疲れをいやす、くつろぎの場である。本を持ち込み、書斎代わりに使うことも少なくない。
〔2〕子供の頃にわたしが毎週欠かさず観たあるテレビ番組があった。その主役はどこにでもいそうな犬で、そいつがある町にふらりとやってきては、そこで起こった事件の解決に協力し、人間からほめられる前に姿を消して、また次の町に向かって旅をつづけるのだ。私をとりこにしたのは、1つの場所に安住せずに、たえず動きつづける、その姿だったに違いない。
1981年と比べて、2006年の問題は長くて難しいのが一目瞭然だ。毎年毎年少しずつ難しくなった結果がこうなった。
1981年の問題は、和英辞典を引けばいくらでも語例が出ている文章だし、パソコンの翻訳ソフトを使えば7割ぐらいは得点できそうな、簡単とは言わないまでも、訳しやすい問題である。
しかし2006年の問題は、長くて「くだけた」文章で、英語に変えるのは難儀である。柔軟な語学的センスが必要だ。1981年の問題が文法語法を駆使してプラモデルを組み立てる感じなら、2006年は人体手術みたいな問題といえようか。2006年の受験生が1981年の問題を解いたら高得点を取れるし、1981年の受験生は2006年の問題に対して、たぶん、手も足も出ないだろう。
京大の英作文を見れば、「ゆとり教育」に逆行して、難関大やセンター試験の問題は、難化していることがお分りいただけたと思う。塾・予備校の講師の教え方のノウハウの向上や、講師が執筆する参考書問題集の質的向上が、受験生の学力と解答テクニックを向上させ、大学入試問題の難化に拍車をかけている。
問題作成者はテクニックを嫌い、より学問の本質を突く問題を出そうとする。それに対応して、予備校もセンター試験対策を練る。この「出題者VS予備校」の対決が、入試問題を難しくしてきた。
ここで問題が生じる。予備校のセンター研究がハイパー化するにつれ、高校が入試問題の難化に対応できていないのだ。高校の先生は勉強を教える以外に、部活や生活指導、書類作りに忙しく、教材研究をする暇がない方が多い。学校の先生は秘書が必要なくらい激職なのである。
結果、多忙から10年前に使ったプリントを使い回している先生もいるし、過去問研究に時間が取れない。また進学実績が悪い学校の先生は、受験指導のモチベーションが落ちる。高校の先生は最新の入試事情に、知らぬ間に「時代遅れ」になる。
大学受験で過去問研究は死ぬほど大事だ。予備校の問題研究がどんどん進化しているのに、高校の現場は対処できず、情報格差が生まれやすい。「大学受験は情報力」というが、こういう事情が裏にある。
高校でも、難関高校の「過去問研究」は別の意味ですごい。たとえば開成高校の東大合格実績が、全校生400人中200人弱を維持しているのは、生徒の能力もさることながら、東大を受験する生徒が圧倒的に多いため、教える先生が東大の入試問題を熟知し、日々の授業に無意識に落とし込んでいるからだ。指導が一元的で効率的になる。知らぬ間に「東大合格のための授業」を行っていて、無駄がない。
こういう情報格差に勝つには、予備校のHPや、『蛍雪時代』などの受験雑誌をチェックしておきたい。予備校は競争が激しい。だからHPには貴重な情報が載っている。また大学受験に役立つネットのサイトも多い。
また信頼できる先生に、情報収集を頼んでもいい。力のある先生はセンター情報に精通しているし、先生という職業の人は生徒に頼られたら、宙を舞いたくなるくらい嬉しいものだ。
だがセンター試験は情報戦の反面、最終的には力がある受験生が得点できるようにできている。情報に過度に振り回されたらダメで、学力を磨くのが第一義であることは、忘れないでほしい。