猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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子供にズルをさせない方法
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    落語の世界でいま、一番格が高い噺家と言われているのが、柳家小三治だろう。年齢は78歳、存命中唯一の落語家の人間国宝である。小三治が寄席に出演する日は超満員で立ち見が出る。

    小三治の実演に接すると、難しい顔で面白いことを語り、客を爆笑させる。また話の途中、不自然なほど間をあけ、茶をすすりながら沈黙する。沈黙の間、客は小三治が次に何を話すか、固唾を飲んで待つ。観客を吸い付ける引力は比類ない。まくらで話す内容は他愛ないものでも、老成した含蓄があり、笑うと三歳児のような愛嬌がある。老成と邪気を備えた素敵なおじいさんだ。志ん朝・談志という巨星亡き後、落語界を支えてきた貫禄は比類ない。

     

    だが、一つ引っかかることがあって、小三治が先日、朝日新聞のインタビューにこたえていたのだが、そこで「私は勉強嫌いで、学生時代にカンニングをした」と過去を語っていた。私はそれに少々違和感をもった。カンニングは他人の努力を、ただ首を動かすだけで盗み見る行為だ。私は小三治を尊敬しているが、昔のワル自慢をして読者に媚びているようで、軽く残念な気分になった。

    私は塾の先生で、子供の不正が学力を高めないガン細胞だと知り抜いているから、狭量になっているのかもしれないが。

     

    勉強ができる子はズルをしない。真正面から勉強と戦い手を抜かない。不正することなど考えも及ばない。だから社会から評価され、大人から気に入られ信頼される。まっすぐ生きていると学力は自然に上がり、性格の良さにも磨きがかかる。成績向上は人間性の向上に比例すると、私は信じている。

    だが逆に、ズルをする子もいる。カンニングもひどいが、試験前の勉強で、提出物の解答を丸写しにする子を、悲しいけど時々発見するのだ。

    別冊の解答を丸写しして赤マルをする。提出物の教材は不自然に全部正解。狡猾な子は難しそうな問題だけは空欄を作ったりわざと誤答をしたりで、いかにも真面目にやりましたとばかりに偽装工作する。学校の先生は気づいているのかは知らないが、「よくできました」と花マルのハンコを押している。

     

    提出物の不正をする子は、解答写しが常態化している。試験勉強は解答写すだけだから試験勉強は速攻で終わり、試験期間中もテレビやゲームで過ごす。試験期間は余暇になる。

    保護者の方も、子供が試験期間中に余裕かまして遊んでいたら、ズルをしていると疑った方がいい。学校の定期試験の提出物は真面目にやっていたら結構時間がかかるものであり、また提出物をこなしてきちんと暗記していたら一定以上の点数は取れるものであり、試験期間中暇そうで、しかもテストの点数が低い子は、高い確率で提出物を写している。

     

    だが、家庭では親は注意できない。親子関係にひびが入る。一世一代の勇気を出して子供に「試験勉強真面目にしてるの? 宿題の答え写してるんじゃないよ?」と問ったとしても、「そんなことしねえよ」で会話は終わる。また写そうが写すまいが俺の勝手だろうと逆ギレされる可能性もある。

    塾では私が監視の目を光らせているから、提出物丸写しの子はいないと言いたいところだが、まれに塾の新入生で提出物を写す子を見かける。

     

    私の対処法は何か?

    現行犯で発見するか、証拠を積み上げ自白させることである。

    人情家の塾講師ではなく、冷徹な東京地検特捜部の気構えで、悪事を暴きたてる。

     

    たとえば。

    試験前の勉強会、塾生は提出物を丁寧にこなしている。だが、提出物を丸写ししている子がいると察したら、しばらく放置して泳がす。私が見ている時は写さないが、目を離したら安心して写し始める。私はわざと長時間教室を離れる。その間は写し放題だ。

    しばらくして私が教室に入ったら、教材を隠す不自然な行為をする。やってた教材をカバンにしまうか、右腕で抱え込む。裏と表を使い分けているのは行動で明白。だが、それでは証拠が弱い。状況証拠は揃っているが、決定的な証拠が欲しい。

     

    ああ、私はこれから、証拠を積み上げ、この子を激しく怒らねばならない。胸が昂ぶり心拍数が上がる。私の葛藤を全く察知しないで、提出物写しの容疑がある子は、真面目な子の仮面をかぶり、無邪気に勉強している。

    これから悲劇を迎える子供の顔が、映画『太陽がいっぱい』のラストシーンのアラン・ドロンのように見える。

     

    行動開始。

    私は数学の提出物を「ちょっと貸して」と取り上げる。私はこの子の学力を把握している。どの問題でつまずくかは察知できる。だが、見るとすべてが正解の赤マル。すべて正解のはずは絶対にない。

    おまけに途中の計算式は書いていない。「クロ」と判断した私は提出物をコピーし、修正液で解答の部分を丁寧に消す。部屋に修正液のシンナーのにおいが漂う。提出物を取り上げられた子供は、私の一連の行動を緊張して見守る。もうこの時点で「ばれたか」と観念しているだろう。

    修正液を乾かしたB5判のコピーを、もう一度コピーする。提出物は問題だけ残して、解答はきれいに白紙になっている。

    「もう一回、これ解いてみて」

    私は堺雅人のような笑顔で言う。子供の顔は引きつる。だが解き始める。私は横に椅子を置き、じっと眺めている。提出物のコピーに計算式を書く。前半の簡単な問題は正解する。難問に差し掛かる。手が止まる。全身がフリーズする。

     

    私は搦手からたずねる。「最初にやった提出物、どうして計算式書かなかったの? どうして解答しか書かないの?」

    生徒はつばを飲み込み「計算は別の紙に書いています」と、どもりつつこたえる。ポリグラフなしでも、動揺しているのが肉眼でわかる。

    私はさらに、真面目な子の仮面を、生皮を剥ぐようにビリビリ引きちぎる。

    「じゃあ計算やった紙見せて」

    「いま、ありません・・・」

    「でもこの提出物、30分前にやってたでしょ? 提出物やったあと、君は教室の外に出てないよね? カバンの中にあるの?」

    「いえ、ないです」

    「じゃあ、ゴミ箱にあるはずだ」

    私は部屋のゴミ箱の中身を床にぶちまける。中身はティッシュと紙くずとジュースのペットボトル。

    「計算用紙、ないなあ」

    ティッシュと紙くずを11枚丹念に調べ上げる。教室で勉強している他の子は黙っているが、私が濡れてカピカピになったティッシュを広げる「狂気」の行為に、固唾を飲んでいるのがわかる。

    「計算用紙、いくら探してもないぞ。もう一つ質問していいかな? どうして自分一人でやるときには別の紙に計算して、俺の前では直接プリントに計算するわけ?」

    「・・・」

    「なあ、答え見て写しただろ?」

    「・・・」

    「正直に言いなさい。証拠はそろっているよ」

    「う、うつしました」

    外堀を完全に埋められ、生徒は自白する。その目は遠山金四郎の桜吹雪が目に飛び込んだ罪人のように見開き、身体は感電したように凍り付いている。

    私は追い打ちをかけ、雷を落とす・・・

     

    不正を暴くためのショック療法だが、効果は強い。

    子供というものは、間違った道に走りやすい。放任して自然に治る間違いもあるが、大人が厳しく断ち切らねば矯正できない間違いもある。カンニングとか提出物写しは後者だと私は判断した。不正を見かけた大人が責任を放棄し、自然に治るだろう、誰か他の大人が注意してくれるだろうとスルーするのは許されないことで、誰かが嫌われ役に徹して、不正の芽を根こそぎ引き抜く必要がある。警察まがいのやり方は良策でないかもしれないが、私は無策より愚策を選ぶ。

     

    カンニングや提出物を写す子は、周囲の大人の期待が高く、いい子の仮面をかぶらねば評価されない不安を抱えている子が多い。

    大人が子供のあるべき姿、理想の姿を規定し、子供に私の理想まで駆け上がってきなさいと、心理的プレッシャーをかける。子供は大人の理想ラインに達するには、実力不足だと感じている。現実の実力と理想の実力を埋めるには、不正しか方法がないのである。結果を重視するあまり経過を評価しない大人の態度が、子供を不正に駆り立てるのだ。

    柳家小三治もお父さんが厳格な小学校の校長で、小三治は5人の子供の中で唯一の男の子、100点満点で95点取っても叱られたらしい。その反発で勉強嫌いになりドロップアウトし落語家になったといわれる。カンニングは厳格な父親に認知されたい気持ち、それに恐怖と反発が混ざったからやったのだろう。

     

    不正を見破る電撃的ショック療法のあとは、フォローがいる。塾は北町奉行所や東京地検ではない。教育機関だ。フォローがなければ、不正はさらに巧妙になり、マフィアのように地下化する。

    悪事が見つかった子に対しては、結果で評価しない、経過をほめる。不自然にマルが揃ったイミテーションの提出物より、間違いだらけで赤の書き込みが多いノートを評価する。間違いは宝だと美意識を変える。提出物は全部間違ってもいいからガチンコでやれと、思考の転換を促す。無骨でも不正をせずにまっすぐ取り組んでいたら、芝居かかったくらい称賛する。結果より経過が大事だと「洗脳」するのだ。

    子供の側にしても、以前のような身の丈に合わない理想に届かないと評価されない飢餓感とは決別でき、少しの努力で評価されるのだから気を良くする。表情が明るくなる。地道な経過の積み重ねで、大きな結果を手に入れる道筋が立てられるのだ。

     

    さらに言うと、不正をする子は潜在的にプライドが高い。現在に自分に満足しないから、理想の自分を追い求める。プライドがなければ不正はしない。提出物なんて空白のまま出す。歪んだプライドを正しい向上心へと、ベクトルを変えてあげなければならない。

     

    私も実は、小学生の時に不正を行った経験がある。

    4の時、そろばん教室での出来事だ。

    初老の女性のそろばんの先生が、「1ばっかりの競争」という競技を教室の生徒にやらせた。1分間の制限時間に。そろばんで1をどんどん足していき、数を競うのだ。数は自己申告。子供の競争心を煽る競技だった。負けられなかった。

    スタートの声とともに、親指で1を積み上げていく。集中力はマックスに達する。1分後「やめ」の合図があった。私が積み上げた数は375。これでは1番になれないかもしれない。そこで魔が差した。私の親指は百の位に1を加えた。475

    375475に増やした。明らかな不正だ。

    しかしその瞬間を、そろばんの先生に見られていた。

    先生は一言「そんなことしちゃあだめ」。

    神に誓って言うが私は過去に不正はしていない。たった一度の不正を先生に見咎められた。皆既日食のような奇跡だ。私が不正を叱った生徒の場合は証拠を積み上げ追い詰めたが、私の場合は完全に現行犯だった。犯罪なら令状なしで逮捕のケースだ。

     

    先生はそれから私に、不正については何も言わなかった。不正する前と同じように接してくれた。この事件で、私には不正は誰かが見ているという畏怖が植え付けられた。

    先生はまだご存命で、うちの近所に住んでいらっしゃるが、お会いしても顔をそむけてしまう。私が不正をした過去を知っている唯一の人、何だか私の本質を見透かされているようで怖いのだ。

    私も小三治師匠と同じように、過去の不正を告白してしまった。小三治師匠を非難できない。

     

    繰り返すが、不正は成績向上の足枷であり、また今後の人生や生活、あらゆることに波及する。

    成功体験はのちの人生に影響する。中学高校で不正を大人が見過ごしていたら、不正が成功体験になり、いずれは人生に影を落とす出来事に遭遇するだろう。

    逆にコツコツと努力を積み上げ結果で得た成功体験は快感だし自信がつく。

    不正を見つけたら電撃的に断ち切るべきだ。

     


     

     

    | 硬派な教育論 | 15:24 | - | - | ↑PAGE TOP
    中1のおかしな勉強法
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      ■中学生、定期試験前は塾でカンヅメ

       

      うちの塾では、中学校の定期試験前、勉強会をやる。

      勉強会といえばソフトな語感で聞こえはいいが、要するに塾にカンヅメでハードな試験勉強。試験前、週5回は塾に来てもらい、土日は1日8時間ほど「監禁」する。

      というのも、中学校の提出物は膨大で、締め切りに間に合わなかったり、字が雑だったりしたら内申点に響き、また正しいやり方で勉強しないとテストの点数が取れないからだ。また家はテレビやゲームなど誘惑が多く、幼い兄弟の相手で集中力が続かない子もいる。私の目の前で提出物をこなしてもらわないと、安心できないのだ。

      試験前の勉強会は、生徒同士の切磋琢磨の場である。

       

      保護者の方はよく「子供が勉強のやり方がわからないと言っています」という。だけど中学校では勉強は教えるが、勉強のやり方を教えないから、勉強法がわからなくて当然なのだ。中学校では試験前にはテストの範囲を書いたプリントを配るだけで、試験勉強は子供の自主性に任せている学校が多い。プリントには「しっかり復習しよう」「1日4時間は勉強しよう」と抽象的スローガンは書かれているが、具体的指示は少ない。「勉強のやり方」が我流に放任されている。

      たとえば部活では、子供たちは顧問の先生の前で練習し、顧問の先生が具体的指示を出す。練習を生徒に任せっぱなしの部活では強くならない。

      だから塾で、定期試験前に塾でカンヅメにして、私の目の前で勉強させ、やり方を懇切丁寧に教えなければならないのだ。

       

      しかし、4~5年前、ある中学1年生の子のお母さんから、1学期の中間試験前に、「試験前に塾に来なければならないのでしょうか? 家で勉強させたいのですが」という軽いクレームがあった。

      塾でのカンヅメ=強制というイメージがあったのかどうか、もっと自由でのびのびさせたい、ということなのだろうか?

      私は反論した。定期試験勉強は塾でやって下さいと。中1、しかも勉強方法が定まらない最初の中間テスト前に家で勝手に勉強させるのは極めて危険である。

       

      まず中1は「試験前には勉強する」という習慣がない。小学生で学校のテスト前に勉強した経験がある子は少ない。 

      中1には、テスト前にはテスト勉強するという、当然のことから教えなければならない。塾に通ってない子の中には、悪気なく無勉強で試験を受けてしまう子も多いのだ。

      「試験前には試験勉強する」という初歩の初歩から塾では教えなければならない。

       

      さて勉強会で、中1・1学期中間試験前、塾で子供に試験勉強をさせてみる。つい数か月前まで小学生だった子は、理にかなわないおかしな勉強法をする。今からいくつか紹介しよう。

       

      ■教科書丸写し

       

      間違った勉強で最も多いのが、教科書丸写しである。

      試験勉強しなさいと曖昧に指示すると、半分くらいの子は、坊さんの写経みたいに教科書を丸写ししている。女の子はきれいに色ペンを使い分けて丁寧に写す。こんなのは勉強ではなくデザイナーの仕事である。

      教科書丸写しは小学生時代の悪癖だ。典型的な例が漢字練習で、書いて書いて書きまくることが勉強法だと信じて疑わないし、また先生もそれを推奨してきた。教科書をただ写す手作業を勉強と勘違いする土壌は、小学校の漢字練習にある。

      「きれいな丁寧な字を何度も書く=先生にほめられる」という小学校時代の成功体験が中学生を束縛するから、ただ書くだけ写すだけの悪癖を踏襲してしまう。だから私が「教科書丸写しはやめなさい」と指示すると、いままでほめられてきた勉強が否定され、子供は意外そうな顔をするのだ。

      特に勉強が苦手な子は頭を使う勉強を嫌う。頭を使うより手を使う単純作業に逃げる。

       

      驚いたのは、ただの教科書写しではなく、数学の問題文を丸写しした子がいたことだ。

      数学の教科書に書いてある、「A,B,C,Dの4人でゲームをしたら、4人の得点の合計は5点であった。Aが11点で、B,C,Dの得点が同じであった。Bの得点を求めよ。」という問題文をノートに写している。しかも何度も。これには驚愕した。

      問題文を丸写しとは、なんという非生産的な時間だろうか。奴隷のように退屈な時間だと思うのだが、それを本人の意志でやっている。丸写ししている時、生徒の頭は完全に思考停止している。

      で、この勉強法をしていたのは、皮肉にも「家で勉強させたいのですが」と言ってきた保護者の子供だったのである。

       

      ■詰め込み暗記ができない

       

      詰め込み教育は批判されるが、実は、小学校では用語を詰め込む経験は少ない。暗記に力を入れている小学校は意外に少数派だ。小学校では読んだり書いたりして、自然に記憶させる方法をとっている。小学校の授業で暗記特訓する光景はあまり想像できない。

      根を詰めて暗記する経験が少ないのは、勉強が苦手な子だけではない。難関中学を受験する学力の高い子もそうだ。彼らは小学校の知識くらい、気合を入れなくても自然に記憶できる。

      だが、中学生以上になると、暗記には一種の気合根性がいる。中学高校と進むにつれ、暗記する単語用語が増えるが、記憶力は落ちる。どんな記憶力のいい子でも、自然に記憶できるわけではなくなる。

       

      暗記には気合といえば大げさだが、「さあ覚えるぞ」という念力のようなものがいるのだ。暗記は自然にできるものではない。暗記する意識が必要だ。中学校になりたての子にはそれがわからない。

      中1生の大部分は、詰め込み暗記未経験者なのだ。

      だからこそ、試験勉強中にわれわれ塾講師が、英単語や歴史用語や世界の国名などの暗記テストを頻繁行うことによって、書くだけじゃ意味ないよ、暗記するには一種の気合がいるものだよと尻を押し、さらに暗記するコツを教えることで、「詰め込み初体験」をつつがなく通過させねばならないのである。

       

      ■雑すぎる計算

       

      中学になりたての子は勉強法が雑である。勉強法を習得させるのは、子供の粗忽さとの戦いだ。

      英語はピリオドを抜かす、文頭を大文字で書かない、複数形と三単現のsを抜かす、homeworkをhome workと分けて書く、次から次へと現れるミスを指摘し、根気良く直す作業が必要である。

       

      中学生の粗忽さは、とくに数学の計算で顕著だ。まず計算が汚い。板書は濃い楷書体で写すのに、計算だけ薄い草書体。筆算の桁が揃ってなくて、サイケデリックなアートのように歪んでいる。

      また、計算が苦手な子は、まわりくどい非効率的な計算をする。たとえば、山手線で2分しかかからない東京から有楽町へ行くのに、秋葉原・上野・池袋・新宿・渋谷・品川と遠回りする非効率な計算をする。

      山手線だったら内回り外回り乗り間違えても目的地に着くが、他の鉄道だったらそうはいかない。東京駅で東海道新幹線と東北新幹線乗り間違えたら、博多に行くつもりが新函館北斗に飛ばされてしまう。

       

      下の計算は、中学生が間違う典型的な例だ。

      左のように、無理して暗算でやるからミスしてしまう。だが、右のように分母を添えるとミスの確率は格段に下がる。計算が苦手な子ほど途中の式を省き頭の中でやる。無理な暗算は暗愚への道だ。

      また分母を添えろと指示した瞬間は書く。だが目を離すと暗算に戻り再びミスをする。

      小姑のように口うるさく、粘り強く執念深く指摘し続けなければ治らない。塾講師はミスを減らすため、嫌われ者に徹すべき場面である。

       

      ■小学校内容が根本的にわかっていない

       

      だが、これくらいのミスなら傷は浅い。根気よく矯正すれば治る。

      だが、こういうミスはどうだろうか?

      まるっきり分数のたし算をわかっていない。ケアレスミスの範疇を超えている。傷が深い。分数を根本からわかっていない。口の悪い指導者だったら「小学生の時、何をしていたんだ」と悪態の一つもつきたくなる。

      こういう致命的な間違いを見つけた場合、一刻も早く小学校の内容を復習する必要がある。これは絶対に自学自習では不可能だ。プロの診断とサポートが必要な局面だ。

       

      余談だが、公文が強いのは、学力別プリントを与えることで復習が可能なことである。子供の学力にあった勉強ができる。学力と一致しない勉強は、サイズの違う靴を履いているみたいで違和感がある。公文の長所は、復習をシステム化しているところだ。

      ただ一つ問題なのは、理解力が足りない子は、もう一度機械的に反復しても理解するとは限らない、ということだ。

      たとえば、中1が小5の分数の約分ができない時、復習しても理解できない子がいるのも事実である。小5から中1に身体的に成長したからといって、頭脳的に成長したとは限らない。こんな時こそ、理解させるのに講師のワザがいる。正攻法でダメなら別のやり方を試す。試行錯誤は一対一の師弟関係だからできる。教育がAI化、システム化できず、人肌のぬくもりが最終手段にならざるをえないのは、この辺に理由があるのだ。

       

      ■答え合わせが甘い

       

      学校の提出物は、答え合わせし、間違えた箇所を暗記して本番に備えるのが勉強方法の鉄則である。

      だが勉強に慣れない中1は、答え合わせをしても正解を機械的に赤で書き込むだけで、そもそも答え合わせをしない子もいる。これでは勉強しない方が良い。

      間違えた問題は「宝物」であり、間違いをブラックリスト化し、リストを粛々と記憶に残す作業が試験勉強だ。間違った場所を深刻に受け止め、2度と同じ間違いを犯さないよう緊張感を自分に課し続けることで、高得点への道は開ける。完璧主義でかつ悲観主義、間違いに神経質になる子ほど成績は高い。

       

      勉強は常に、試験本番を想定したものでなければならない。本番でミスしないための試験勉強だ。だが、中1になりたての子は、中間期末試験の経験がないため、本番の試験の感触がわからない。だから試験勉強にも甘さが出る。本番で痛い目に合ってはじめて、浅い勉強では点が取れないことに気づくのだ。

      だが塾側としては1学期中間試験でよいスタートダッシュを切らせたい。失敗してから学べと悠長なことは言えない。だから最初から口うるさくなる。

      対策方法として、過保護かもしれないが、勉強方法の下手な子は、最初は講師が手取り足取りで答え合わせをする必要がある。いちいち間違った問題を暗記させてテストをする。自力でできるまで他力で勉強パターンを、まずは二人三脚で覚えてもらうのだ。この過程が自分一人でできるまで執拗に手ほどきをする。

       

      答え合わせに関して困ったことが一つあって、それは、生徒に解答を渡さない学校の先生がいることだ。おそらく子供が安易に解答を見て、中には解答を丸写しする子がいるから防止策というのはわかるのだが、解答がないのに勉強しても仕方ないと思う。

      真剣に勉強する子、知的好奇心が高い子は、解答を直ちに見て正解かどうか確かめたい欲求が強い。テレビのクイズ番組で、司会者が解答を教えてくれないまま番組終了したら視聴者はフラストレーションをためるだろう。解答を渡さない先生は、子供の健全な好奇心に蓋をし、答え合わせをせず勉強をやりっ放しにする悪癖を助長している。

       

      ■過剰すぎる徹底反復

       

      勉強が苦手な子は、簡単な問題を過度に反復する悪癖がある。わかりきった計算問題を十数回も繰り返す。極端な話、1+1ばかり繰り返しても力はつかない。

      ピーマンやニンジンが嫌いな子供が手を付けないように、難しい問題を避ける。頭を使う局面を極力逃げる。

      陰山英男氏が提唱する徹底反復は大事である。子供が勉強を理解できないのは反復が足りないから、繰り返せば無意識に問題が解けるレベルまで達するという考え方は正しい。

      だが、ものには限度がある。

      中学校の定期試験の数学の比率を、訓練で解ける基礎的な問題が60%、文章題など応用問題が40%としよう。ということは、基礎的な問題ばかり反復していてもMAX6割しか取れない。100点満点のテストなのに、60点しか狙わないことになる。

       

      ここでまた余談だが、公文の怖さは徹底反復にある。計算を反復し計算が得意になり、学年レベルを超え、中1なのに高校レベルに達する子もいる。本人も周囲も、

      だが、それで数学ができると勘違いしてしまいがちなのだ。で、中3の入試前に過去問を解いて、応用問題ができない事態に遭遇する。

      高校の微分積分の計算だけなら、中1でもコツを教えれば解ける。だが生徒を不合格にしようと悪意を秘めた入試問題は、計算技術だけ発達した子には解けない。図形や関数や方程式や場合の数は別の種類の「頭の良さ」がなければ解けない。計算力とは別次元の力なのだ。高校レベルの計算ができるから数学ができると勘違いし、対策が遅れるがちになるのが公文の欠点である。

       

      ■勉強のやり方をすぐに忘れる

       

      さあ、勉強会で過保護のように勉強のやり方を直す。うまくいった。だが、しばらく放っておくと、目を離したすきに勉強のやり方が元に戻っているのである。教科書写し、雑な計算、とっくに理解している問題の機械的反復、せっかく教えた勉強法が身につかず、元に戻っている

      そういう時には、さらに繰り返し教えなければならない。何度も繰り返すうちに語気は強くなる。声を荒げることもある。忘れやすい子には忍耐力も必要だが、強い言葉で刺激を与えることも必要なのである。

       

      ----------------------------------------------------

       

      以上、中1のおかしな勉強法を紹介した。中1になりたての試験勉強会がどれだけ大切で大変かおわかりいただけたかと思う。

      ただ、読んだ方は一つの疑問があるだろう。なぜ、最初に正しい勉強法を指示しないのか、指示しておけば、おかしな勉強法をすることもないのではないかと。

      だが、正しい勉強法のルールは数百以上あるし、最初にズラズラ紹介しても六法全書を記憶させられるみたいで、かえって子供は大混乱する。

      また子供は、塾講師歴30年の私でも想定外な間違いを犯す。

      だから、俳優の演技にダメ出しする映画監督のように、子供の勉強方法をいちいち「違うだろ」と否定する方法をとるのが最善の方法である。教える側、教えられる側、双方に根気がいる作業である。

       

      勉強法は、野球でいえばピッチャーやバッターのフォームに似ている。良いフォームだとキレのある球が投げられ、鋭い打球が飛ぶ。コーチの仕事は選手のフォームの矯正にかかっていると言っていい。

      だが最後までフォームの矯正ができず、プロ野球を去る選手はあとをたたない。同じように正しい勉強法を知らずに勉強の道からドロップアウトする子は多い。勉強法の習得は、子供が最初に手をつけねばならないことである、

      勉強法とは型を作ること、一種の芸事である。芸事は執拗でないと上達しない。

       

      試験前の勉強会こそ、「勉強のやり方がわからない」子供を救う絶好の場なのである。

       

       

       

       

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