落語の世界でいま、一番格が高い噺家と言われているのが、柳家小三治だろう。年齢は78歳、存命中唯一の落語家の人間国宝である。小三治が寄席に出演する日は超満員で立ち見が出る。
小三治の実演に接すると、難しい顔で面白いことを語り、客を爆笑させる。また話の途中、不自然なほど間をあけ、茶をすすりながら沈黙する。沈黙の間、客は小三治が次に何を話すか、固唾を飲んで待つ。観客を吸い付ける引力は比類ない。まくらで話す内容は他愛ないものでも、老成した含蓄があり、笑うと三歳児のような愛嬌がある。老成と邪気を備えた素敵なおじいさんだ。志ん朝・談志という巨星亡き後、落語界を支えてきた貫禄は比類ない。
だが、一つ引っかかることがあって、小三治が先日、朝日新聞のインタビューにこたえていたのだが、そこで「私は勉強嫌いで、学生時代にカンニングをした」と過去を語っていた。私はそれに少々違和感をもった。カンニングは他人の努力を、ただ首を動かすだけで盗み見る行為だ。私は小三治を尊敬しているが、昔のワル自慢をして読者に媚びているようで、軽く残念な気分になった。
私は塾の先生で、子供の不正が学力を高めないガン細胞だと知り抜いているから、狭量になっているのかもしれないが。
勉強ができる子はズルをしない。真正面から勉強と戦い手を抜かない。不正することなど考えも及ばない。だから社会から評価され、大人から気に入られ信頼される。まっすぐ生きていると学力は自然に上がり、性格の良さにも磨きがかかる。成績向上は人間性の向上に比例すると、私は信じている。
だが逆に、ズルをする子もいる。カンニングもひどいが、試験前の勉強で、提出物の解答を丸写しにする子を、悲しいけど時々発見するのだ。
別冊の解答を丸写しして赤マルをする。提出物の教材は不自然に全部正解。狡猾な子は難しそうな問題だけは空欄を作ったりわざと誤答をしたりで、いかにも真面目にやりましたとばかりに偽装工作する。学校の先生は気づいているのかは知らないが、「よくできました」と花マルのハンコを押している。
提出物の不正をする子は、解答写しが常態化している。試験勉強は解答写すだけだから試験勉強は速攻で終わり、試験期間中もテレビやゲームで過ごす。試験期間は余暇になる。
保護者の方も、子供が試験期間中に余裕かまして遊んでいたら、ズルをしていると疑った方がいい。学校の定期試験の提出物は真面目にやっていたら結構時間がかかるものであり、また提出物をこなしてきちんと暗記していたら一定以上の点数は取れるものであり、試験期間中暇そうで、しかもテストの点数が低い子は、高い確率で提出物を写している。
だが、家庭では親は注意できない。親子関係にひびが入る。一世一代の勇気を出して子供に「試験勉強真面目にしてるの? 宿題の答え写してるんじゃないよ?」と問ったとしても、「そんなことしねえよ」で会話は終わる。また写そうが写すまいが俺の勝手だろうと逆ギレされる可能性もある。
塾では私が監視の目を光らせているから、提出物丸写しの子はいないと言いたいところだが、まれに塾の新入生で提出物を写す子を見かける。
私の対処法は何か?
現行犯で発見するか、証拠を積み上げ自白させることである。
人情家の塾講師ではなく、冷徹な東京地検特捜部の気構えで、悪事を暴きたてる。
たとえば。
試験前の勉強会、塾生は提出物を丁寧にこなしている。だが、提出物を丸写ししている子がいると察したら、しばらく放置して泳がす。私が見ている時は写さないが、目を離したら安心して写し始める。私はわざと長時間教室を離れる。その間は写し放題だ。
しばらくして私が教室に入ったら、教材を隠す不自然な行為をする。やってた教材をカバンにしまうか、右腕で抱え込む。裏と表を使い分けているのは行動で明白。だが、それでは証拠が弱い。状況証拠は揃っているが、決定的な証拠が欲しい。
ああ、私はこれから、証拠を積み上げ、この子を激しく怒らねばならない。胸が昂ぶり心拍数が上がる。私の葛藤を全く察知しないで、提出物写しの容疑がある子は、真面目な子の仮面をかぶり、無邪気に勉強している。
これから悲劇を迎える子供の顔が、映画『太陽がいっぱい』のラストシーンのアラン・ドロンのように見える。
行動開始。
私は数学の提出物を「ちょっと貸して」と取り上げる。私はこの子の学力を把握している。どの問題でつまずくかは察知できる。だが、見るとすべてが正解の赤マル。すべて正解のはずは絶対にない。
おまけに途中の計算式は書いていない。「クロ」と判断した私は提出物をコピーし、修正液で解答の部分を丁寧に消す。部屋に修正液のシンナーのにおいが漂う。提出物を取り上げられた子供は、私の一連の行動を緊張して見守る。もうこの時点で「ばれたか」と観念しているだろう。
修正液を乾かしたB5判のコピーを、もう一度コピーする。提出物は問題だけ残して、解答はきれいに白紙になっている。
「もう一回、これ解いてみて」
私は堺雅人のような笑顔で言う。子供の顔は引きつる。だが解き始める。私は横に椅子を置き、じっと眺めている。提出物のコピーに計算式を書く。前半の簡単な問題は正解する。難問に差し掛かる。手が止まる。全身がフリーズする。
私は搦手からたずねる。「最初にやった提出物、どうして計算式書かなかったの? どうして解答しか書かないの?」
生徒はつばを飲み込み「計算は別の紙に書いています」と、どもりつつこたえる。ポリグラフなしでも、動揺しているのが肉眼でわかる。
私はさらに、真面目な子の仮面を、生皮を剥ぐようにビリビリ引きちぎる。
「じゃあ計算やった紙見せて」
「いま、ありません・・・」
「でもこの提出物、30分前にやってたでしょ? 提出物やったあと、君は教室の外に出てないよね? カバンの中にあるの?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、ゴミ箱にあるはずだ」
私は部屋のゴミ箱の中身を床にぶちまける。中身はティッシュと紙くずとジュースのペットボトル。
「計算用紙、ないなあ」
ティッシュと紙くずを1枚1枚丹念に調べ上げる。教室で勉強している他の子は黙っているが、私が濡れてカピカピになったティッシュを広げる「狂気」の行為に、固唾を飲んでいるのがわかる。
「計算用紙、いくら探してもないぞ。もう一つ質問していいかな? どうして自分一人でやるときには別の紙に計算して、俺の前では直接プリントに計算するわけ?」
「・・・」
「なあ、答え見て写しただろ?」
「・・・」
「正直に言いなさい。証拠はそろっているよ」
「う、うつしました」
外堀を完全に埋められ、生徒は自白する。その目は遠山金四郎の桜吹雪が目に飛び込んだ罪人のように見開き、身体は感電したように凍り付いている。
私は追い打ちをかけ、雷を落とす・・・
不正を暴くためのショック療法だが、効果は強い。
子供というものは、間違った道に走りやすい。放任して自然に治る間違いもあるが、大人が厳しく断ち切らねば矯正できない間違いもある。カンニングとか提出物写しは後者だと私は判断した。不正を見かけた大人が責任を放棄し、自然に治るだろう、誰か他の大人が注意してくれるだろうとスルーするのは許されないことで、誰かが嫌われ役に徹して、不正の芽を根こそぎ引き抜く必要がある。警察まがいのやり方は良策でないかもしれないが、私は無策より愚策を選ぶ。
カンニングや提出物を写す子は、周囲の大人の期待が高く、いい子の仮面をかぶらねば評価されない不安を抱えている子が多い。
大人が子供のあるべき姿、理想の姿を規定し、子供に私の理想まで駆け上がってきなさいと、心理的プレッシャーをかける。子供は大人の理想ラインに達するには、実力不足だと感じている。現実の実力と理想の実力を埋めるには、不正しか方法がないのである。結果を重視するあまり経過を評価しない大人の態度が、子供を不正に駆り立てるのだ。
柳家小三治もお父さんが厳格な小学校の校長で、小三治は5人の子供の中で唯一の男の子、100点満点で95点取っても叱られたらしい。その反発で勉強嫌いになりドロップアウトし落語家になったといわれる。カンニングは厳格な父親に認知されたい気持ち、それに恐怖と反発が混ざったからやったのだろう。
不正を見破る電撃的ショック療法のあとは、フォローがいる。塾は北町奉行所や東京地検ではない。教育機関だ。フォローがなければ、不正はさらに巧妙になり、マフィアのように地下化する。
悪事が見つかった子に対しては、結果で評価しない、経過をほめる。不自然にマルが揃ったイミテーションの提出物より、間違いだらけで赤の書き込みが多いノートを評価する。間違いは宝だと美意識を変える。提出物は全部間違ってもいいからガチンコでやれと、思考の転換を促す。無骨でも不正をせずにまっすぐ取り組んでいたら、芝居かかったくらい称賛する。結果より経過が大事だと「洗脳」するのだ。
子供の側にしても、以前のような身の丈に合わない理想に届かないと評価されない飢餓感とは決別でき、少しの努力で評価されるのだから気を良くする。表情が明るくなる。地道な経過の積み重ねで、大きな結果を手に入れる道筋が立てられるのだ。
さらに言うと、不正をする子は潜在的にプライドが高い。現在に自分に満足しないから、理想の自分を追い求める。プライドがなければ不正はしない。提出物なんて空白のまま出す。歪んだプライドを正しい向上心へと、ベクトルを変えてあげなければならない。
私も実は、小学生の時に不正を行った経験がある。
小4の時、そろばん教室での出来事だ。
初老の女性のそろばんの先生が、「1ばっかりの競争」という競技を教室の生徒にやらせた。1分間の制限時間に。そろばんで1をどんどん足していき、数を競うのだ。数は自己申告。子供の競争心を煽る競技だった。負けられなかった。
スタートの声とともに、親指で1を積み上げていく。集中力はマックスに達する。1分後「やめ」の合図があった。私が積み上げた数は375。これでは1番になれないかもしれない。そこで魔が差した。私の親指は百の位に1を加えた。475。
375を475に増やした。明らかな不正だ。
しかしその瞬間を、そろばんの先生に見られていた。
先生は一言「そんなことしちゃあだめ」。
神に誓って言うが私は過去に不正はしていない。たった一度の不正を先生に見咎められた。皆既日食のような奇跡だ。私が不正を叱った生徒の場合は証拠を積み上げ追い詰めたが、私の場合は完全に現行犯だった。犯罪なら令状なしで逮捕のケースだ。
先生はそれから私に、不正については何も言わなかった。不正する前と同じように接してくれた。この事件で、私には不正は誰かが見ているという畏怖が植え付けられた。
先生はまだご存命で、うちの近所に住んでいらっしゃるが、お会いしても顔をそむけてしまう。私が不正をした過去を知っている唯一の人、何だか私の本質を見透かされているようで怖いのだ。
私も小三治師匠と同じように、過去の不正を告白してしまった。小三治師匠を非難できない。
繰り返すが、不正は成績向上の足枷であり、また今後の人生や生活、あらゆることに波及する。
成功体験はのちの人生に影響する。中学高校で不正を大人が見過ごしていたら、不正が成功体験になり、いずれは人生に影を落とす出来事に遭遇するだろう。
逆にコツコツと努力を積み上げ結果で得た成功体験は快感だし自信がつく。
不正を見つけたら電撃的に断ち切るべきだ。