猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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わざと入試前は生徒に不安を煽る話をせよ
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    文学は、なぜ存在するのか?
    人間の不幸を深く描くことで、読者が現実世界で不幸に巻き込まれても「想定内」と感じさせ、不幸に対する心の準備をさせておくためだ。たとえばドストエフスキーは死刑一歩手前で恩赦された地獄体験をし、彼の小説には深刻な人間心理が色濃く出ているし、ヴィクトール・E・フランクルは『夜と霧』では、ユダヤ人収容所の極限を描いた。
    文学は「不幸な人間のカタログ」だ。文学を読んで、不幸のパターンを頭に入れておけば、いざ困難に遭遇した時に強くなれる。センター試験で精神的に強さを発揮できるのは、文学に慣れた「悲観主義者」だ。悲観主義は困難に対する免疫を作る。あらかじめ心の準備をしておけば、ある程度の苦難には、メンタルを破壊されることもなく対応できる。
                         
    だから私は、入試前は、「にわか文学者」になって、受験生に入試でどんな地獄が待ち構えているか正直に話す。試験後に待ちかまえる苦難に、強くなってもらうためだ。

    たとえば、センター試験前には、こんな話をする。

     
    「センター試験本番の問題は、得体の知れぬ恐怖の物体だ。今まで受けたどんな試験とも感触が違う。試験会場で見るセンター試験本番の問題は、過去問とは別物に感じる。ラーメン食べに行ったのに、カレーライスが出てきた、そんな強い違和感があるんだよ。迷う。戸惑う。怯える。手が震える。
    試験会場で君たちが受けるセンターの問題は、明らかに生まれたばかりの「生き物」なんだな。受験生は、ペーパーから飛びかかる妖怪と戦うのだ。センター試験は人生最初の修羅場。メンタルをナイフで引き裂かれる。残酷な一発勝負なのが怖い。センターで「コケる」という言葉があるね。模試でもセンター演習でも良い点を取れているのに、肝心かなめの本番でつまずく。自己採点で、マイナス2、マイナス6、マイナス8、またマイナス5と、引き算が永遠に続く。地すべりのように得点が減っていく。計算間違いではないか、何度も何度も虚しく同じ引き算を繰り返す。もう1回試験を受けたい。でも受けられない。逆にセンターで、ふだん取れないような高得点を取る受験生もいる。そんな受験生は「本番に強い」「勝負度胸がある」「不断の努力が認められ、神が光臨した」「地頭がいい」と周囲から高く評価される。頑張った奴から見れば悔しいよね・・・」

     
    こんな残酷話をすれば、センターで失敗した時、少しばかりの気休めにはなる。彼らを襲う不幸は「想定内」だからだ。受験生には2次試験もあるし私大もある。センター試験だけが大学受験ではない。センターで失敗したショックを1週間も2週間も引きずったらまずい。私の悲観的な話は、ショックを2〜3日でとどめ、2次試験や私大入試へ前向きな姿勢に持って行くための作戦だ。
    入試前の、受験生を不安に陥れるネガティブな話は、試験後ポジティブになるため、不幸への免疫をつけるワクチンである。
     
    | 硬派な教育論 | 14:21 | - | - | ↑PAGE TOP
    携帯・メールの返信が速い子は成績が悪い
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      テレビを見ていて、ドラマやバラエティーに集中している時、いちばん集中力を殺ぐのが「ニュース速報」だ。電子音と白色のテロップで、番組の世界から一気に現実に戻る。ドラマの最中に選挙の当選確実のテロップが出ると、ドラマの世界から現実に引き戻される。
      テレビのニュース速報と同じように、集中を途切れさしてしまうのが、携帯電話の音である。
      われわれは勉強している最中、夢の中にいる。勉強の世界に「沈没」している。
      数学の問題を解いている時は論理体系にハマっているし、日本史で戦国時代を学習している時は戦国武将に感情移入している。集中力が高いほど、学力はしっかりと涵養される。
      せっかく集中して、勉強にノッてきたのに、携帯の着信音に妨害されたらたまらない。電話を切ったあと、1からリセットして勉強の世界に潜り込まなければならない。
      携帯電話は、集中力破壊装置である。連続的な音は集中を乱さないが、断続的に突然鳴る音は勉強の敵になる。
      私は塾生に電話やメールをするが、成績が高い生徒ほど電話がつながりにくい。音信不通になることすらある。家でも携帯電話を手離して勉強している証拠である。
      逆に成績が伸び悩んでいる子ほど、アッサリ電話がつながり、メールの返信も速い
                    
      凄いのは禅宗の坊さんである。彼らは座禅を組み、数時間も身体を動かさず、じっとしている。彼らは座禅中、いったい何を考えているのだろうか?座禅を組んでいる時、向き合うのはただ自分のみ。自分の脳味噌が貧困なものだったら、数時間も静かに座禅を組むことなんかできないだろう。座禅の集中力は、己の精神の優劣だけでなく、己の頭の中身も試す。
      禅宗の坊さんが長時間が集中していられるのは、禅寺が静寂な環境に置かれているからである。東洋・西洋通して、学問の場は決まって都会の喧騒から離れた場にある。
      イギリスのオックスフォード・ケンブリッジはロンドンから電車で1時間半、田園の静寂がたっぷり残っていて、しかも大都市ロンドンから近い、静寂でしかも都会の刺激からも遠くない、絶妙な位置に立地している。禅寺も都市から離れた山里にある。
      昔から知識人は、若者に静寂を与えるために尽力してきた。大学や禅寺を喧騒から離れた場所に作って、若者が学問に沈没できる環境を築き上げてきた。
      学問の静寂の場に、携帯電話は似合わない。禅僧が座禅中、横に携帯電話が置いてあったら、悟りは永遠に開けない。
       
      | 硬派な教育論 | 20:40 | - | - | ↑PAGE TOP
      他人と比べられた怒りが、勉強の動機になる
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        私は塾生を、わざと挑発することがある。
        大学受験前に、野村克也みたいな口調で、わざと憎まれ口をたたく。

        「君らは田舎の高校生。都会の難関高校の奴らはものが違う。しょせん努力家は天才に勝てない。勉強の才能には壁がある。一定量の勉強をこなせば、もうこれ以上は伸びない壁に突き当たる。たとえば脚力がない人が100m走で10秒切るのが無理な話だ。最後には「偏差値」ではなく「知能指数」勝負になるね」

        「京大の数学を見ろ。京大の数学は「才能」という言葉が最もふさわしい。わかっているか、わかっていないか、白か黒かを問うような問題だ。鍛えられた努力型でなく、天然の才能を求めているような問題。京大教授の「才能がほしい」という心の叫びが聞こえる。才能がない君らには解けない」

        「頑張っているのに模試の成績が下がる奴がいるけど、才能がないから。いまは高校受験せずに遊んできた開成とか灘とか難関高校の生徒が、アメリカの原野のバッファローのように音を立てて猛追している。君らの模試の判定がBからC、CからDへと落ちるのは、努力不足ではなく実力不足」

        などと私が挑発すると、たいていの生徒は弱虫のヒツジみたいに、しょんぼり黙って聞いている。

        だが、私が見込んだ塾生は反応が違う。
        血気盛んなアンパンマンK君なら「開成や灘の奴らには負けません」と鼻を膨らし、おとなしいが芯の強い福ちゃんなら「見返してやります」と目を血走らせる。知能指数が低いのなら上げてやろうじゃないか、難関校の生徒がバッファローなら俺はチーターになってやろうじゃないかという顔をしている。
        また、聡明なコウタロウなら、私が他人と比較して、わざと怒らせる意図で言っていることなんか、賢い頭でお見通しで、静かな闘志で勉強を続ける。

        勉強ってね、やっぱり負けん気が強い人間が勝つ。他人と比べられたら「ザクリ」とした不快なものが腹に宿る。でも、それがマグマになって燃えてくれればいい。
        師匠は弟子を、怒らせることも大事だ。



         
        | 硬派な教育論 | 20:06 | - | - | ↑PAGE TOP
        「ノンポリ」だと公民や政治・経済は得意にならない
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          政治好きな人は、新聞を見て興奮する。新聞は無味乾燥な活字の羅列ではなく、エキサイティングな読み物なのだ。
          昔は新聞の論調は似たり寄ったりだが、最近は政府の政策に対して、A新聞は賛成、B新聞は反対と正反対に分かれる傾向がある。だからいまの政府を支持していない人がA新聞を読むと反発心をおこす。
          社会の「政治・経済」が得意な人は、たいてい政治が大好きである。政治に不満に持っている人、政治を変えたいと考えている人にとって、政治・経済ほど興奮させてくれる科目はない。

          政治好きの人は、どこか「怒り」の感情を心に据えながら、政治と向き合っている。
          たとえば衆議院の定数も、511人から480人に削減された(2013年以降は475人とさらに削減)。政治に興味がない人は、「定数よく変わるな。暗記しづらい」と他人事のように考えるが、政治好きな人は「475人でも多い。もっと議員を減らせ」と、オピニオンを熱く語る。
          また憲法問題でも、政治・経済が好きな人は「俺が憲法作ったら、ここを変えてやる」という視点で憲法を眺めている。憲法第9条は憲法制定以来、日本人の最大の論点になっていて、政治好きが3人集まると喧々諤々の議論、喧嘩になりかねない。

          そんな新聞好きにとって、興奮が最高潮に達するイベントが選挙である。特に政権交代がおこりそうな選挙の時は、詳細な記事まで眺め尽くし、閣僚や党役員の人事にまで強い興味を示す。選挙で政局がダイナミックに動く時、新聞は「政治家の格闘場」になり、観客の血が騒ぐ。
          政治に対して意見を持ち、新聞を熱い感情で読めれば、政治・経済は自然と得意科目になる。「安倍晋三」という人物に対して、強い好感を抱くか、激しい嫌悪を抱くか、どちらか極端な感情を持つ生徒は、政治経済には強い。もちろんデモやテロに関心を持てと言っているわけではないが、「ノンポリ」のだと政治・経済の点数は上がりづらい。
                                   
          それから、経済分野は、われわれの生活と密着に関わる。
          ニュースでは「円高」「円安」がよく報道されているが、若い人には興味がなくても、円の動向が死活問題になっている人もいるわけである。
          ガソリンスタンドは円安になると原油価格が上がり、ガソリンの値段を上げざるをえなくなり廃業の危機に瀕することもある。また野菜農家も原油価格の上昇は、ビニールハウスの光熱費や、トラックの輸送費の上昇につながり、コストが高くなり野菜が売れなくなる。円高・円安は生活に強く影響をもたらす。
          また、「セーフガード」という言葉がある。国内産業を守るための、緊急輸入制限のことだ。

          私は2001年に熊本の阿蘇山を観光バスで旅したことがある。バスガイドさんは、八代平野で畳表の原料になるイグサ農家の窮状の話をした。熊本県はイグサの生産が盛んで、農家は潤い「イグサ御殿」まで建ったそうだが、中国から安いイグサが輸入され、イグサ農家は借金苦になり、自殺者や夜逃げが相次いだという。政府がイグサ輸入制限の緊急措置「セーフガード」を取ったが、手遅れだったという。
          経済学はわれわれの’life’に関わる。’life’とは「生活」だけではなく、「人生」、そして「生命」にも大きく影響する、まさにライフラインの科目だ。まさにお父さんお母さん、そしてみなさんの’life’を決定づける、密接なものだという認識があれば、勉強に対する意識も変わってくる。
                                 
          ところで、私は中学生の公民の時間でよく、「日本で一番偉い人は誰かな?」と質問する。たとえば、積極的に発言する森田昇平君が「天皇!」「総理大臣!」と答えたとする。
          私はそれに対して「違う。日本で一番偉いのは、森田昇平だ」と答える。意外な答えに、森田君も他の生徒も、ポカンとした目で私を見る。 そこで私はもったいぶって、「森田昇平君も山田美鈴さんも、1人1人が偉いんだ。だって日本国憲法の三大原則の一つは国民主権だ。権力を握っているのは、君たち一人一人なんだぞ。国会議員は君たちの代表者にすぎない」と真意を語る。

          私が中学生に伝えたいメッセージは、われわれ一人ひとりが主体性を持ち、海の中のコップ1杯の水のように無力でありながらも、主体者意識を忘れないでいて欲しいということだ。
          政治・経済は、「自分が変える」という主体性があれば楽しい科目だけど、「他人に任せる」という受動的な姿勢では、ただの暗記物になってしまう。「わたしが主人公」という態度一つで、政治はエキサイティングな科目になる。政治・経済について熱くなれば、磁石のように知識の方から勝手に吸い付いてくるものだ。
           
          | 硬派な教育論 | 12:18 | - | - | ↑PAGE TOP
          音楽を聴きながら勉強できるか
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            音楽は感情をかきたてる。映画やゲームに音楽がなかったら、盛り上がりに欠ける。
            北海道を旅行した時、ある漁師町の温泉街で、朝5時から拡声器で北島三郎の歌が流れていた。早朝の薄暮の空にカモメが飛び交い、北島三郎の曲が広がる光景は、漁師にとって北島三郎の曲は、仕事をはかどらせるBGMになっているのだと感動した記憶がある。

            音楽を聴きながら勉強することに私は賛成だ。ヘッドフォンは音に集中しすぎるから避けたほうがいいが、スピーカーで聴き慣れた音楽を流しながら勉強すると、勉強がはかどる。
            ふだん聞かない音楽を聴いたら集中力が途切れやすいが、たとえば私ならビートルズや大瀧詠一の「A LONG VACATION」や佐野元春「NO DAMAGE」のような、中学生の頃から繰り返し聞き、歌詞を一言一句間違えずに歌えるおなじみのCDをかけて仕事している。小説家のステーィブン・キングはハードロックを聴きながら執筆するそうだ。

            カフェや美容院など洒落た空間には、クラシックやジャズが静かに流れ、無音状態より静寂を保っているが、だからといってクラシックやジャズのすべてが勉強のBGMとして適しているわけではない。マーラーの交響曲は音が大小が激しく、無音状態になったかと思えば、オーケストラがいきなり咆哮する。勉強に集中していたらいきなり大音響に妨害され、勉強向きの音楽ではない。
            理想論を言えば、音楽を流しながらも、音を意識しない集中力を維持するのが好ましい。だが、勉強から意識がずれた瞬間、知っている音楽が流れているのを聴くと安心する。

            安心するといえば、映画を流しながら勉強するのもいい。新作映画ではなく、何回も見たもの、たとえばジブリの映画とかどうだろう。『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を、音量を極力下げて映像だけ流す。数学の問題を解いていて行き詰まり、ふと画面を見ると、サツキとメイ姉妹が会話し、黒猫ジジが身体をくねらせ何か語っていれば、心が安らぐ。
            当然ながらテレビはだめだ。特に野球やサッカーなど贔屓チームのテレビ観戦するのは絶対に避けたほうがいい。

            あと、音楽や映像ではないが、集中力を妨げるのはペットである。犬や猫は眠っている時は、かわいらしい寝姿を見て癒されるが、動き回っている時は極力別室に隔離して勉強部屋に入れない方がいい。
            小説家・谷崎潤一郎は大の猫好きだったが、執筆中は書斎に猫を絶対に入れなかったという。ただ猫の死後は剥製にして、書斎の目立つ場所に飾っていたらしい。
            「ながら勉強」は、リラックスするために効果的になり得る。「きょうはどんな音楽を流しながら勉強しようか」と、BGM選びもまたいい。
             



             
            | 硬派な教育論 | 18:24 | - | - | ↑PAGE TOP
            開成高校の先生のレベル
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              私は御三家の一角、開成中学・高校で青春期を過ごした。同級生たちは勉強の面で凄い奴が多かった。
              開成高校の教師の力量は、ものすごい授業をされる方もいるが、反面、期待はずれな人が結構多い。
              開成の先生の中には、凄みも熱意もなく、魅力的な授業ができない。50分間ただ「黙々と」授業して帰る繰り返しの人が少なからずいる。
              東大合格者を毎年150人以上出している開成高校ではどんな魅力的な授業が行われているのかと期待したら、大いに裏切られる。優秀なのは教師ではく、生徒の方だと言っても過言ではない。

              ある数学の先生、Pの例を紹介しよう。
              Pは超難関校から難関大学に進んだ俊才だが、こういう経歴の人にありがちな傾向で教え方が非常にわかりづらい。それ以前に、授業を成立させるだけの、教師としての最低限の力量すら持っていなかった。
              Pの授業は。彼の威厳のなさに生徒が騒ぎ出し、授業が収拾つかなくなった。Pの授業は生徒がいつも騒ぎあっていた。Pが授業している時には、生徒たちは思い思いのことをしていた。
              あるグループはトランプをやっていて、トランプで負けた時の罰ゲームは、授業中のPの尻にカンチョウをするというものであった。Pが黒板に向かって板書している隙に、後ろからカンチョウをするのだ。
              カンチョウされてもPは「やめなさい」と関西弁でわめくだけで、怖くもなんともない。

              Pがカンチョウされる瞬間だけ、それまで思い思いのゲームや読書に興じていた生徒たちもPの尻に注目して、授業は静謐に満ちた緊張感のある雰囲気になり、Pが「やめなさい」と叫んだ時だけ、授業は大爆笑に包まれる。あとはワイワイ、ガヤガヤのメリハリのない無駄な時間が過ぎる。
              真面目な子が多いはずの開成高校で授業を仕切れず、学級崩壊させるなんて、荒れた高校で教鞭をとったら一体この人はどういう目に合うのだろうか?

              笑い話を一つ。
              Pの授業があまりひどいので、私の友人が、これでは数学が伸びないといって、予備校に通い出した。予備校講師は、佐藤先生という人だとパンフに書いてあった。
              Pの授業に辟易していた私の友人は、まだ見ぬ佐藤先生の授業に期待し、佐藤先生のもとで数学の再起をかけていた。

              ところが、予備校の教壇に現れた佐藤先生は、Pだったのだ。Pは「佐藤先生」と名前を変え、副業として予備校の時間講師をやっていたのだ。私立学校は公立と違って兼業は禁止されていなので、予備校との掛け持ちは別に違法ではないのだが、Pも気まずいのか「佐藤先生」と名乗っているのだろう。
              私の友人が佐藤先生の正体に驚き落胆したこと言うまでもない。

              自由な校風の難関高校の教師に熱意が足りない人が多い理由は、生徒の学力の高さ、真面目さに大いに関係する。難関高校の生徒は元来素直でまじめな子が多い。その生徒の素直さと学力の上にあぐらをかいているのが、難関高校の教師である。
              また、難関高校の生徒はプライドが高く、先生からの干渉を嫌うから、極度な上から目線の「熱血教師」は敬遠される。だからといってルーティンワークな授業は困る。

              ところで、私から開成高校教師のメッキが本格的にはげたのは、予備校に通い出してからだ。高1の時英語が苦手になり、代々木ゼミナールに通い始めることになった。
              私は健気にも英語が苦手になったのは100%自分の才能と努力不足だと信じて疑わなかった。自分を教えてくれたのは紛れもない開成高校の先生だ。教え方も日本一に違いないだろうと。

              代々木ゼミで、英語の渡辺寿郎先生の授業を見て、目を疑った。
              凄い! 熱い! わかりやすい!
              文字が大きい! 声も大きい! 存在感はもっと大きい!
              私は授業中時計を何度も見た。早く終わらないで欲しい。ずっと授業を続けていて欲しい。

              そして授業の最後に先生がおっしゃった一言は凄かった。
              「いいかい皆さん、勉強がわからなくなるということは、当然皆さんの責任も半分あるけれども、半分は私たち教える側にも責任があります。私は全力を尽くしてその半分の責任を果たそうと努力します。ですから皆さんも予習復習をきちんとこなして、責任を半分、果たして下さい。授業でわからないところがあれば、直接私に聞いてください」
              と、自分が予備校の講師室にいる時間と、講師室の地図を書いて立ち去っていった。
              何という謙虚さ、何という懐の深さ。
              常に厳しい競争にさらされている予備校講師の凄みを体験した瞬間であった。

              開成高校に、俊英の予備校講師が集結したら、東大合格者300人を超えるだろう。
              難関高校の先生には、日本有数の才能を預かっているという、気構えがほしい。



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              7月29日に発売された、私が書いた本
              「難関私大・文系をめざせ!」は重版出来。
               
              目次 まえがき 

               
              | 硬派な教育論 | 19:03 | - | - | ↑PAGE TOP
              「詰め込み教育」批判を批判する
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                暗記の強制は、かつて「詰め込み教育」といって批判された。
                確かに「詰め込み」という言葉には、強制的にトウモロコシを口に詰め込まれるガチョウや鴨のフォアグラみたいな、恐ろしい響きがある。

                30年ぐらい前、松本清張原作・野村芳太郎監督の「鬼畜」という映画があった。
                主人公の緒形拳は、気が弱くて貧しい印刷工。緒形拳は貧しいくせに本妻に隠れて愛人を作る。愛人は3人の子供を産むが、緒形拳が金に困って生活費を愛人に渡さないので、愛人は緒形拳に子供3人を押し付けて逃げてしまう。
                残された子供3人は、やむ終えず父親の緒形拳が引き取ることになるが、本妻は血のつながらない愛人の子供をいたぶる。ストーリーだ。

                愛人は小川真由美、本妻は岩下志麻が演じるが、イジメ役の岩下志麻の演技は壮絶だった。物語は酷暑の夏に設定され、家は貧しくてクーラーがなく、岩下志麻はダイエーで1000円で売っていそうな安物の服を着て、いつも神経質にうちわをバタバタあおいでいる。

                岩下志麻は眉毛が薄く、般若のような面相で愛人の子をいじめる。
                ある日、女の子が不貞腐れて食事をしない。それに激怒した岩下志麻は、おひつの米を手でつかみ、女の子の口に「食え! 食え!」と、阿修羅のような顔で米を詰め込んだ。女の子は泣きわめく。
                私は「詰め込み」という言葉を聞くと、この「鬼畜」という映画の岩下志麻の行動を思い出すのである。


                「鬼畜」の岩下志麻

                「詰め込み」というコピーは良くない。もっとオシャレな抵抗のない呼び方はないだろうか?
                「種蒔き」教育というのはどうか?
                「詰め込み」だと限度を超えたら子供は吐き出してしまうが、「種蒔き」だと吐き出す心配はない。
                教師は子供、特に小中学生にに対しては、意味を教えず事柄をただひたすら丸暗記させる潔さがいる。「意味など教えるな、ひたすら丸暗記させてしまえ」といった「読書百遍、意自ずから通ず」的な割り切りも、教師には必要だ。

                英語の単語は言うに及ばず、社会の歴史人名でも丸暗記が大事だ。英語の単語と同じように、歴史人名も機械的な丸暗記でかまわない。歴史人名を、電話帳に掲載されている人名と同じような、意味がない「記号」と割り切って暗記させることを躊躇してはならない。

                教科書に出てくる歴史上の人物が何故凄いのか、なんで教科書に載る価値がある人物なのか、いちいち説明していたらきりがない。太閤秀吉や源義経やコロンブスの偉大さなら子供にもわかるかもしれないが、本居宣長や世阿弥やダンテの価値を子供に理解してもらうには、子供の側にある程度、教養の積み重ねがなければならない。本居宣長や世阿弥の斬新さが理解できる教養は、とても10代で身につく種類のものではない。小学生・中学生は「本居宣長・古事記伝・国学」と暗記すればそれでいいのだ。

                松井秀喜やキムタクや宮崎駿の凄さなら、子供は体感的にわかる。しかし本居宣長や世阿弥の魅力は「大人の世界」でしか理解できない。
                子供の頭に植え込む種は、黒かったり茶色かったり形もさまざまで、将来どんな草が生え、花が咲くかわからない。種が種の姿をしている時は、そこに意味などない。
                しかし、本居宣長という種でも、世阿弥という種でも、どんな種でもいい、将来そこからどんな芽が出て、どんな木が育ち、どんな花が咲くかわからなけど、ただひたすら教師は子供の頭に種を蒔き続ける根気と「強制力」を施すことが大事だ。教科書の事柄すべてを、子供に理解させることは無理だ。

                私の好きな佐野元春の「SOMEDAY」という曲に、こんな歌詞がある

                ♪窓辺にもたれ 夢の 1つ1つを
                消してゆくのはつらいけど
                若すぎて なんだかわからなかったことが
                リアルに感じてしまう この頃さ

                小中学生が「リアル」に本居宣長の凄みを感じるまで、たくさんたくさん、種を蒔き続けよう。


                 
                | 硬派な教育論 | 15:07 | - | - | ↑PAGE TOP
                開成高校の国語授業
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                  東大進学者が多い開成中学・高校では、どんな国語の授業をしていたのか。
                  国語の授業を受け持って下さった先生は教科書を使わず、現代文も古文も『山椒魚』や『杜子春』や『方丈記』や『枕草子』など、1つの作品をみっちり集中して読んだ。
                  「熟読」「精読」「味読」を合体させたような授業で、テキストはなかなか進まず、1日でたった1行しか読まない日もあった。作品を材料にした講談みたいで、横道にそれる授業どころか、横道しか進まない授業だった。
                  先生は文法にこだわるかと思えば、登場人物の心理描写を細かくたどり、平安鎌倉の日本人の服装や生活習慣を臨場感いっぱいに語る。作者が文章を書く時に、どういう技巧を凝らしているかという、書き手の側の心理も説明してくれた。
                  客観的な一歩引いた視点で作品を語る時もあれば、主観的に物語世界に土足で踏み込んで毒舌をかます時もある。話は時事問題や文明批評にまで及んだ。先生は板書をほとんどせず、ずっと座って語り続けた。
                  先生の授業を見て、たった十数文字の文章でも、この人なら数時間語れるなと思った。文章はすみからすみまでしゃぶり尽くされていた。予備校の国語の授業とは、何もかも対照的だった。
                   
                  私が受けた国語の授業は、「スローリーディング」で有名になった、1年前101歳で亡くなった灘高の国語教師、橋本武先生と同じタイプだと思われる。
                  橋本武氏は、薄い文庫本の小説『銀の匙』一冊を3年かけて読む授業で話題になった。『銀の匙』に、たこ揚げのシーンが出たら実際にたこを上げたり、寿司屋が出てくれぱ寿司の歴史を調べたり、魚へんの漢字をすべて調べるなど、授業は脇道に逸れっ放しだったらしい。
                  灘や開成のような難関校は、受験対策ばかりしているような偏見があるが、難関校の授業は “HOW TO”ではなく、“WHY”をとことん追究する授業が多い。
                  私の国語の先生や橋本先生の授業に受験対策は一切ない。テクニックはいっさい教えない。だけど、脇道だらけで役に立たなそうに見えるけれど、この脇道こそが、表面的な知識ではなく、教養と知的好奇心を身につける。深い教養をつける授業は、授業なのか雑談なのか境界線がはっきりしない性格を持つ。
                  ありきたりな言い方で恐縮だが、難関校の授業は「考える力」が身につくように工夫されている。子どもの頭の表面に種をまくのではなく、硬くなった頭を鍬で深く丹念に耕す授業だったのだ。
                   
                  「考える力」といえば、開成の国語の先生は、生徒にinputだけでなくoutputも課した。
                  現代文では必ず「短文づくり」のコーナーがあった。たとえば先生は「あたかも」という言葉を使って短文を作らせ、生徒が読み上げる。
                  先生の要求水準は高く、言葉の用法が合っているだけではダメで、「面白い」文章を作らなければならない。
                  ある生徒が、「赤ちゃんは、あたかもりんごのような顔色だった」と答えようものなら、先生からはすかさず「用法はあってるけど、つまんないね」という厳しい批評が返ってくる。
                  別の生徒がレトリックを工夫して、「昨日東京には雪が積もった。あたかも削りたてのかき氷のようだった」と感性をみせつければ、「なかなかいい比喩だね」とほめられる。短文づくりなのか大喜利なのかわからない授業だった。
                   
                  そういえば、中1のクラスにはY君という巨人ファンの同級生がいて、短文づくりには必ず巨人軍の話題を入れていた。
                  「昭和33年、新人長嶋茂雄は本塁打29本、打点92の二冠王に輝いた、それと対照的に川上哲治はわずか本塁打9本で、その年を持って引退、四番打者の座を長嶋にあけわたした。あたかも覇王交代の儀式を見るようであった」
                  と、プロ野球記録を駆使したY君の“作品”に、先生もわれわれ同級生も感心していた。私はカープファンなので、Y君に対抗してカープに関する短文を作ろうとしたが、さすがに二番煎じなので発表できなかった。
                  開成の授業は先生が講義するだけでなく、英作文や数学の答案を生徒が黒板に書き、それを添削する方法も取っている。だから教室は窓以外の三方が大きな黒板で、みっちり書かれた英文や数式を、先生が添削していく。
                  授業でinputするだけでなく、つねにoutputが求められ、同級生のすごい答案から絶えず刺激を受け、outputの精度を高められたのが、いま考えると良い教育法だった。
                   
                  もちろん国語の「短文づくり」も、人に伝わるoutputを訓練する一環だった。
                  面白いことを的確に言わないと、先生の「つまらないね」「わけがわからないよ」「書いていて面白い? 僕は面白くないね」といった毒舌に痛めつけられるので、表面的なものではなく、先生や友達を感心させるものを作らなければならない、いわば脅迫のような思考回路が身についた。
                  Twitterでつぶやく時、手を抜いた投稿をしたら先生に「つまらないね」と言われそうなプレッシャーが、今でも私にはある。


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                  | 硬派な教育論 | 20:31 | - | - | ↑PAGE TOP
                  2020年東京オリンピック。東京にいるか、地方にいるか?
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                    高校生のみなさんは、将来の職業をリアルに考え、大人に真正面から相談したことがあるだろうか。
                    たとえば地方に住む高校生が、高校の先生に、銀行や商社や損保やマスコミに就職したいから、どの大学に行けば有利ですかとたずねてみよう。「地方の国公立大学がいい」と答える先生がいたら、これは少しおかしい。

                    銀行や商社や損保やマスコミなどの職種に就職するには、都会の大学が圧倒的に有利だ。学校の先生には、大学時代は教職の勉強にかかりっきりで、就職活動の経験がない人が多いから、就職活動の現状について、あまりご存じではないのが実情だ。視点の先が大学受験にしかなく、就職活動まで見据えて教えている先生は少ないのではないか。
                     
                    東京の繁栄に比べ、地方は疲弊している。にぎわうのはイオンモールとパチンコ屋。第二次産業は中国やアジアに職を取られ、高度経済成長期の活況ぶりがうそのようだ。アメリカも事情が同じのようで、かつて自動車産業が盛んだったデトロイトが斜陽化し、ダウンタウンは廃墟化している。
                    日本の地方財政はかろうじて公共事業が支えているが、小泉元首相のように公共事業費の削減を進める首相が現れたら、地方はたちまち貧窮する。地方は政府に依存しなければ生きていけない、他力本願の状況が続いている。
                    私は瀬戸内海の島に住んでいるが、たまに東京に行くと繁栄ぶりに驚く。東京には快楽的緊張感と、胸躍る祝祭的空気があるのだ。空気がどこか澄んでいて、胸を張って歩ける。向上心があり刺激を求めている人なら、私の感覚に強く同意してくれるはずだ。
                     
                    そんな東京が、2020年オリンピックでさらに発展する。
                    地方の命綱である公共事業ですら、今後はオリンピック開催で首都に集中し、首都圏一極集中はさらに高まる。東京は今でも十分豊かなのに、公共事業でさらに繁栄し、地方には国の施しが行き届かなくなる。

                    アジアでも1988年にソウル、2008年に北京でオリンピックが開催されたが、韓国ではソウルオリンピック以来、ソウルに人口が集中し、韓国の人口の半分以上がソウル都市圏に集中している。
                    ソウルの繁栄に反比例して、韓国の地方都市は抜け殻と化している。韓国の地方都市は、エイの腐臭か小便の匂いか区別がつかないアンモニア臭が充満するのに対して、ソウルには30階建て以上の高層マンションが立ち並ぶ。
                    また、中国では北京や上海など都市の繁栄の裏に、農民の貧困がある。中国では北京や上海から遠いウイグルやチベットでは民族問題と絡んだ暴動が頻発している。
                     
                    東京オリンピックが、首都東京の一人勝ちを促進させるのは明らかで、2020年に東京にいるか、地方にいるかでは、経済面で大きな格差が生まれるのは確実だ。
                    貧乏はつらい。漫画家の西原理恵子は「おカネがないと男の子は泥棒に、女の子は売春婦になる可能性が高くなる。自分の娘と息子がそんなことになったら、人生最大の修羅場と考えている」と語っている。
                    地方でのんびり暮らす生き方もいい。だが現状維持をよしとして「のんびり」生きていると、東京の刺激的な連中や、海外で学んだ経験がある凄腕の奴に、何もかも吸い取られてしまう。
                     
                    ところで地方の高校生のみなさんは、「電通」という企業をご存じだろうか。就職活動では日本テレビやフジテレビと並んで人気があり、汐留のシオサイトに真新しい巨大な本社ビルがある。テレビでCMを流さないから地方では非常に知名度が低いが、電通はそのCM自体を制作する広告代理店である。

                    電通はサッカーのワールドカップやJリーグ、AKBの運営にもかかわる「巨大な裏方企業」であり、東京オリンピックのマーケティング専任代理店にも指名され、オリンピックの運営を仕切ることになる。もしみなさんが将来オリンピックに関わりたくて、企画運営のアイディアを実現したかったら、真っ先に選ぶべき企業である。

                    もちろんCMを制作するには、クライアント(企業)とクリエーター(制作者)のぶつかり合いがある。企業は良いCMを作って利益を上げたい。制作者はCM映像の中で芸術性を実現したい。広告代理店の社員は商業と芸術という、本来は水と油の両者を調整するわけだから、ストレスがたまる仕事である。だが、自分の脳味噌の中にあるアイディアが、広く流れ知れ渡る快感は何物にも代えがたい。
                     
                    東京の良さは東京にいる人にはわからない。同時に、地方に住む人も東京の良さはピンとこない。だが東京と地方を往復している私には、若い人にとって東京がどれだけ素晴らしい場所かビンビンわかる。
                    海外で長期間生活するのが、若い人にとって一番望ましい経験だという確信が私にはある。だが留学するのは現実問題として難しい。日本にも東京という、人格力を磨く砥石があるのだ。

                    2020年、東京は華やかな舞台に包まれ、いままで以上に東京は国際都市としての存在感を増す。その時、みなさんはどこにいるだろうか? 東京か? 地方か? 日本を飛び越えて海外か?




                     
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                    塾の「腐ったみかん」の扱い方
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                      橋下徹大阪市長は、問題児を隔離する政策を取る決意を固めた。暴力を振るい学校の治安を乱す、学校と少年院の間のグレーゾーンにいる子を「個別指導教室」に移す方針を示した。

                      大阪の下町の学校のガラの悪さは筋金入りである。クラスに亀田兄弟みたいな生徒がいたら、先生も同級生も困る。ましてや亀田兄弟の場合は親も最凶のモンスターペアレントである。隔離は現実的な選択だと私は考える。

                       

                      学校は問題児をただ隔離するだけだが、大手塾は、授業を妨害する問題児の親から、さらに高い授業料を取るために、したたかな戦術を取る。

                      大手塾は生徒がやめたら利益が減る。生徒数のノルマは厳しく、たとえ問題児だろうと退塾させたら責任者は叱責される。だから、なんとか残すのが経営的には正しい選択である。

                       

                      ある大手塾に、アヤカさんという中学生がいた。この子は厳しい先生の前ではおとなしいが、新人の甘い先生の前では傍若無人にふるまった。集団授業で先生に向かって「あんたの授業わかんなーい。お金返して」「もっとハンサムな先生がいいなぁ」と言い放つかと思うと、まわりの友人と授業中嬌声をあげていた。

                      若い先生はアヤカさんを叱る度胸がなく、でも授業後は立腹して「あいつは腐ったみかんだ」と声を震わせていた。

                       

                      大手塾はたいてい集団授業とともに個別指導も併設している。個別指導部は、集団授業でまわりに迷惑をかける問題児を隔離する性格も持っている。集団授業の教室から引き離し、個室を用意して「個別指導」をする。集団授業を妨害する子を個別授業クラスに変えたら、高い費用が取れる。アヤカさんも個別授業に移すことになった。

                      アヤカさんのような問題児の保護者には「個別指導の方が、自分のペースで成績を伸ばせます。まわりの生徒からも邪魔されずにすみますし」と営業トークで言いくるめる。授業妨害の根源はアヤカさんなのに、アヤカさんが被害者だと論理をすり替える。

                      親をうまく説得できたら、2倍近い授業料を取れる。問題児を隔離できて、しかも親から高い費用をもらえるから、一石二鳥の方法だ。

                       

                      アヤカさんの担当には、ルックスのいい先生が選ばれた。アヤカさんは勉強そっちのけで若い先生と世間話ができて喜んでいた。またカリキュラムも「難しい」と文句を言われないように、簡単な内容しか課されなかった。

                      こういう「腐ったみかん」を隔離するやり方は評判がいい。
                      アヤカさんも親に「個別の先生、超カッコいい。授業もよくわかるしぃ」と喜んで話したそうだ。アヤカさんがいなくなって先生も授業がしやすいし、同級生も落ち着いて授業が聞ける。親も子供が楽しそうに通塾しているから安心だ。塾経営者も問題児を隔離でき、しかも集団授業の時より高い授業料をもらっているから、経営的にも顧客満足度もプラスだ。

                       

                      学校はアヤカのような「腐ったみかん」を排除するが、塾は「腐ったみかん」で売り上げを増やす。

                       

                       

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