猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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読書好きになるためには、テレビを捨てろ!
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    僕のブログにはテレビの話が多く、しかも嬉々としてテレビについて語っているため、学生時代にテレビばかり見ていた、重症のテレビジャンキーだと誤解されているが、それは絶対に違う。

    たしかに僕は小5まではテレビ大好きっ子で、勉強もせず1日中テレビを見ていたが、突然小6で勉強に目覚め、受験勉強以外は眼中になくなってしまい、小6の時にはテレビを全くといっていいほど見なかった。

    中学受験が終わり、1年ぶりにテレビを見ると、知らない歌手やタレントが多くてびっくりした。テレビ界は激変していて、まるで浦島太郎になった心境だった。

    大スター山口百恵は引退していて、代わりに松田聖子というメチャクチャ可愛い女の子が、妖精のように甘いキャンディみたいな声で歌っていた。

    驚いたのが、田原俊彦という歌手の歌い方だった。音程のつかみ方が独特で、メロディーが聞き取れない、僕には理解しがたい歌唱法だった。1年間勉強している間に、テレビ界は摩訶不思議な世界になっていた。

    それから「3年B組金八先生」というドラマにはまった。
    受験前は「太陽にほえろ」が大好きだった僕なのに、浮気して「3年B組金八先生」を見てしまった。ちょうど中島みゆきの「世情」が流れる、あの沖田浩之と加藤勝が逮捕される名場面が、リアルタイムで放映されていた時期だった。

    その後中学に入り、中1から親元を離れて、東京の賄い付きの4畳半に下宿した。
    受験が終わって「さあ、テレビをバンバン見るぞ!」と意気込んだ。

    しかし、下宿ではテレビを見ることが禁止されていた。勉学の妨げになるからという、下宿のおばさんの方針だった。
    これには、さすがに失望した。

    テレビがないと夜が暇だ。下宿の先輩は高校生ばかりで、怖くて近づけない。
    私立だから友達は遠方から通ってくるので、思い立って気軽に友だちの家に遊びに行くわけにはいかない。中学生は夜遊びできないし。
    おまけに当時はパソコンもない。携帯電話もない。

    夜の暇な時間を埋めるのは、ラジオの野球中継や深夜放送、あと音楽だったが、どうもそれだけでは、充実した時間が過ごせない。

    結局、退屈な夜の時間を、ギュウギュウに密度高く埋めてくれたのは本だった。文庫本や単行本を買ったり、図書館で借りたりして、1日中本を読み続けた。

    僕は小学校時代、本なんてほとんど読んだことがなかった。塾のテストでも算数と社会はできたが、国語はお世辞にも得意科目とは言えなかった。

    だから、最初は無味乾燥な活字の世界に戸惑ったが、無理して読んでいくうちに、本の世界が意外にも面白いことに気づいた。

    中学校に入って、僕は「テレビっ子」から「本の虫」に変わった。

    漫画もたくさん読んだが、漫画の悪い点は、1冊30分で読み終えてしまうことだ。
    小遣いが限られていて、もちろんアルバイトなんかできない中学生には、漫画はコストパフォーマンスが非常に悪い。今みたいに漫画喫茶がないから、漫画は贅沢品だった。

    「タッチ」や「うる星やつら」など大好きな漫画だけ自費で買って、あとは友人から借りた。

    本はその点、1冊で長時間楽しめる。ドフトエフスキーやトルストイは、分厚い割に値段が安く、読書好きになった僕にとって「お徳用」な本だった。

    僕の読み方は、1人の作家に惚れて、その人の作品を読み尽くした後、また別の作家に移るという読み方だった。

    僕が中学生高校生時代に惚れた日本の作家を、小説家・エッセイスト・ジャーナリスト含めて列挙すると、松本清張・北杜夫・遠藤周作・安岡章太郎・吉村昭・宮脇俊三・司馬遼太郎・西村京太郎・夏目漱石・大江健三郎・筒井康隆・太宰治・井上靖・山崎豊子・横溝正史・谷崎潤一郎・本多勝一などだろうか。

    さすがに松本清張や筒井康隆のような超多作の作家は全部読みきることはできなかったが、とにかく代表作は片っ端から読んだ。

    ただ、僕が本好きになったからといって、完全にテレビ離れできたかといえば、そうでもない。
    帰省した時に、ついつい面白いドラマに目が行ってしまう。高校生の時には「不良少女とよばれて」や「スクールウォーズ」を放映していた。僕の大好きな大映ドラマだ。

    たとえば帰省中、家のテレビで「スクールウォーズ」を見る。主要登場人物のイソップが脳腫瘍で倒れる。いったいこの先どうなるのか? でも僕は来週には東京に戻らなければならない。イソップの病気がどうなってしまうのか、残念ながら知ることはできない。
    「どうして俺だけ続きが見れないのか!」そんな時、東京の高校やめて、田舎に帰りたいと思った。

    今では「不良少女とよばれて」や「スクールウォーズ」のDVDをBOXで大人買いして、当時の鬱憤を晴らしている。

    しかし、中学高校時代テレビが見れなくて、読書する環境に身を置けたのは、良かったことなのかもしれない。
    斎藤孝ではないが、僕は1人暮らしによって「退屈力」が鍛えられた。

    受験失敗と失恋と病気と刑務所を経験すれば立派な男になれると、どこかで聞いたことがあるが、刑務所の独房に2〜3年入れば、差し入れの本を片っ端から読むことで、圧倒的な読書力がつく。刑務所の独房は静かに集中して読書ができる最適な場所だ。

    シャバでは読む気が起こらない難解な本でも、他に読む物がないために読まざるを得ず、読書力は鍛えられる。

    あの佐藤優氏も「国策捜査」で逮捕され、独房で膨大な本を読むことによって、出所後あの神秘的な文章力で、読書家の書斎を豊かにする著述家になった。

    僕も中学高校と6年間「少年院の独房」で暮らしたことになる。独房生活のおかげで、本を読むことが苦でなくなるどころか、読書が人生最高の趣味になった。
    テレビを禁じられることで、脳が受動的な映像しか吸い取れないタイプから、能動的に活字を貪れるタイプに自己改造できた。

    もし自分の読書力を鍛え上げたければ、テレビは直ちに捨てて、1年か2年読書一筋の生活をすればよい。テレビのない生活は、読書によって古今東西の超一流の人間の思想を吸い取り、強靭な人間性を鍛える千載一遇のチャンスである。

    テレビは取っ付き易くフレンドリーだが、浅い。活字の本は無愛想だが、深い。
    そのうち読書にのめり込むと、テレビより本のほうが遙かに情報量が多いことに気づき、本はハンディでどこでも楽しめ、テレビ以上の快楽をもたらすことに気づく。

    テレビを見ない状況を無理やりにでも作れば、どんなに本嫌いな人間でも活字中毒になる。僕自身が身をもって体験しているから、間違いない。

    ただ、あまりに長い期間の「独房生活」は、僕みたいな孤独に対して不感症な、偏屈な人間を作るので、2年ぐらいに留めておくのがよいかも。何ごとも、ほどほどが肝心です。

    | 国語力!作文力!読書力! | 19:08 | - | - | ↑PAGE TOP
    「読書嫌い」は「人嫌い」
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      読書好きの人間は、内向的で人嫌いなイメージがある。
      人づきあいを遮断して書斎に引きこもり、本に熱中する陰気なヤツだと思われがちだ。

      まあ私なんかその典型だが、ただ「読書好きは人嫌い」と短絡的にイメージされるのは違う気がする。
      読書好きの人間は、動的で外面的な話し言葉ではなく、静的で内面的な書き言葉への嗜好性が強いだけであって、決して「人嫌い」ではない。

      本は広い意味で「人」である。というか「人」そのものである。もっと言えば「人」の中核=コアである。

      本には筆者の渾身の力が込められている。本1冊書くのには膨大な時間がかかる。また出版に際しては、神経が磨り減るような煩雑さと、巨大なパワーが必要だ。
      本は筆者が、自分の一番良い部分、一番深い部分を全知全能を賭けてアピールした媒体に他ならない。

      筆者は、話し言葉で表現するには躊躇するような深い内面を文字にぶつける。筆者は本を書くことによって、自らの裸身をさらす。
      攻守ところを変え、読者の側から見れば、読書とは筆者が内面をさらけ出す真剣勝負に立ち会うことでもある。

      そんな、1人の人間が思い切って世に問うた、暑苦しいまでの自己主張の塊を、好んで積極的に読み耽る読書家が、どうして「人嫌い」であろうか。

      そういえば小林秀雄は「読書について」で、作家の全集を読むことを薦めたあとで、こう語っている。

      僕は理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。

      読者は本を通じて、筆者のコアな部分と接する。それを小林秀雄は、読者と筆者が「手を握る」行為であると表現している。
      とするなら、読書家とはラブラブのカップルみたいに、本の筆者とルンルン手を握るのを好む人間ということになり、そんな密接な人間関係を求める人を「人嫌い」呼ばわりするのは語弊がある。

      読書好きな人は「人嫌い」どころか、むしろ人恋しいから、日常の人間関係では収まらないディープな人間関係を求めているから、本を読むのである。

      逆説的に言えば、読書嫌いの人こそ「人嫌い」と言えないだろうか。
      本屋には何冊もの本が並んでいる。本とは「人」に他ならない。しかし本嫌いの人は、本にあまり興味を示さない。

      読書嫌いの人は、「人」に対して不感症か、暑苦しいディープな人間関係を忌避するか、あるいは読書に慣れていないで、読書を通じた人間同士のまぐわいの快楽を知らない人なのかもしれない。

      いずれにせよ、読書を避け、古今東西の名著をシカトするのは、もったいない。
      女性の生肌に接すると、女性の何たるかがある程度理解できたような気になるが、それと同じように読書の深みにはまると、人間の見方が大きく変革したような気分になる。

      | 国語力!作文力!読書力! | 23:38 | - | - | ↑PAGE TOP
      つまらない本は捨てよ
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        読書に慣れていない人は、本を最初から最後まで律儀に読もうとするクセがある。
        自分に合わない本でも、最後まで読み通さなければならないという、妙な義務感を持っている。

        でもそんな義務感は捨てた方がいい。百害あって一利なし。つまらない本、相性の悪い本、身の丈に合わない難解な本は、直ちに読むのをやめ、別の本に乗り換えるのが望ましい。

        「つまらない本は、直ちに読むのをやめ、別の本に乗り換えよ」

        これが読書家になる秘訣である。
        本なんて、地球上に何億冊もあるのだ。たかが1冊にこだわることはない。

        読書はテレビと同じである。自分とは趣味嗜好が違ったテレビ番組を、最後まで見るだろうか?

        たとえば20代前半の男性がたまたまNHKをつけたら、「セーターの編み方」に関する番組をやっていた。60歳の柔和な顔の老婦人の先生と、20代の女性アナウンサーが2人で編み物に熱中している。20代の男性が、そんなターゲットが違う番組を義務感で最後まで見通すだろうか?
        興味が持てない本を我慢して最後まで読むのは時間の無駄以外の何者でもない。テレビと同じく気軽にザッピングすればよい。

        また、学習参考書を読む感覚で読書をしてはならない。参考書のように「今日は30ページ読もう」なんて読み方は間違っている。真面目に勉強してきた人ほど、こんなギャグみたいな読書法にはまる。

        たとえばマンガを読んでいて、「今日は30ページまで読もう、明日は残りの30%を読もう」と、まるで小学校の割合の問題に出てくるような読み方をするだろうか。ストーリーに熱中し興奮し最後まで読みきり、次の巻に自然と手が伸びることだろう。
        面白いマンガと同じく、面白い本も寝食を忘れさせるのだ。

        本は権威ではない。面白くない本は面白く書けない著者が悪い。そんな偉そうな態度で本に接してもいいと思う。
        「このマンガつまんねえ」「このゲーム面白くねえ」という感覚で、「この本は俺に合わない」と思い切り放言してやればよい。
        自分が面接官になったつもりで、本を面接してやる心意気があればいい。意に沿わない本はブックオフに売るか、街角の白ポストにでも放り込んでしまえ。

        まずは本屋や図書館で粘ってあれこれ物色したり、ネットの書評を見たりして「おいしい匂い」のする本を探り当てればよい。
        寝食を忘れ、活字に熱狂的に釘付けになれる本は探せば絶対に見つかる。

        読書好きになるには、本に畏敬の念を抱くのではなく、本を「軽く」見下すことから始めよう。
        | 国語力!作文力!読書力! | 18:11 | - | - | ↑PAGE TOP
        国語塾ってどうなの?
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          国語専門塾って、どこまで効果があるのか怪しい。
          たとえば英語の成績をピンポイントで伸ばそうと思えば英語塾へ、数学なら数学塾へ通えば成績が着実に上がりそうだ。

          ところが、国語塾で成績が上がるかどうか疑わしい。物凄く教え方の上手い先生の塾に通ったら成績が飛躍的に上がりそうな気がするが、まあ別に国語は放っておいても何とかなるや、国語の塾なんか行っても無駄だと大方の人は考えるだろう。

          国語の重要性を熟知している、インテリの親が多い首都圏や京阪神などの都会では国語専門の塾をよく見かけるが、地方に国語塾はあまり存在しない。

          まず、国語塾の授業内容がよくわからない。
          どんな塾なのか電話をかけて、国語塾の先生に「どうやったら国語力が上がりますか?」と質問して、「読書をしましょう」とありきたりの答えが返ってきたら、一気に萎えてしまう。
          そんな先生は入塾時に、いきなり数十冊の難しそうな本を渡して、「読書百遍、意自ずから通ず」と一言告げて、あとは自分で読めと放置するに決まっている。
          国語塾は、玉石混交の度合が激しそうである。

          またこれは私の偏見だが、国語塾の致命傷は、先生が偏屈というイメージが強いことだ。
          「塾の先生」というだけで世に捨てられた変人を想像するのに、「国語塾の先生」ともなると、どんな天然記念物みたいな変人が登場するのか恐怖が先立つ。

          国語塾の先生は、和服を着てチョンマゲ結った時代錯誤の偏固者か、小説家気質の腺病質なオヤジか、文学少女崩れの色気のないオバサンか、ブログで論客を気取り他人の悪口を売り物にした鼻つまみ者か、とにかくマイナスのイメージがある。

          それに国語塾の先生は、強い政治的なバイアスがかかっていそうだ。
          右翼の先生なら、教室の壁に天皇一家の写真が飾ってあったりするのだろうか。梨本宮とか久邇宮とか、戦前のマイナーな宮様の写真まで掲げられていたら怖い。

          三島由紀夫のような先生なら、文才は抜群で話が面白く、国語力はバンバンつきそうだが、突然「バーチャルな文章より、リアルな行動が大事だ。一緒に自衛隊に乗り込んで決起しよう」とクーデターにでも誘われたらやばい。
          国語力はつくが、その副作用で特定の思想にかぶれてしまったら、なんにもならない。



          ところで、赤虎先生がもうすぐ独立して塾を開かれるそうだ。先生なら120%成功されるだろう。国語専門塾とはいかなくても、国語を看板にした塾を開かれたら、私の国語塾に対するアホな偏見をサッパリ除去した、子供を安心して預けることができる唯一無二の塾ができると思う。

          下に挙げた文章を拝読しただけでも、赤虎先生の国語教師としての卓越した力量は、容易に推測できる。

          中学生の小論文+現代文の相乗効果
          現代文解釈
          私立高校対策(1)
          私立高校対策(2)
          たしかに〜しかし・・・

          赤虎先生のバランス感覚は凄いと思う。先生は国語の得点力を上げるとともに、子供の教養を高め、しかも性格まで良くする力をお持ちだとおもう。先生の塾は「国語力の高い、勉強をenjoyする、性格の素晴らしい子が集まる塾」になるだろう。

          最近大人向けの週刊誌には、心臓や肝臓など各臓器の専門医が紹介されている。少しでも腕の立つ名医に診てもらいたい、患者の執念の表れだろう。

          赤虎先生こそ、腕が確かな国語の「名医」である。

          ただ塾を開かれるとき、間違っても
          「國語塾・赤虎総長」というネーミングだけは、避けた方がいいと思う。










          ★開成塾
          尾道市向島・精鋭が集まる塾





          | 国語力!作文力!読書力! | 17:35 | - | - | ↑PAGE TOP
          国語力で教育費が安上がり!
          0
            国語力は、すべての科目の力を引き上げる原動力になる、というお話。



            英語・数学・国語・理科・社会の5教科がある。
            まず手始めに、国語力を伸ばしてみよう。



            国語だけが伸びた。
            しかし実際は、国語の点数だけが他の科目を妨害しながら1つだけ突出して伸びる、ということはない。

            国語力はすべての科目の基礎である。社会や理科や数学のテキストは日本語で書かれているし、英語も日本語と同じ言語である。

            実際は下の図のように、国語は夢を食うバクみたいに、他の科目を包み込む。



            そして国語が伸びるとともに、他の科目の得点も一緒にアップする。



            どんどん伸びるぞ!



            国語の伸びが、他の科目に波及効果をもたらしている。




            さてこんな風にホワイトボードに図を書いて、デジカメで撮影していると、高3のA君から「何ですかその図は?」と質問された。
            私が説明すると、「そうかぁ?」とクレームがついた。A君はバリバリの理系である。

            たしかに数学や理科に関しては、国語とは別の才能が必要だ。
            国語の偏差値が71.2なのに数学が45.2とか、数学が68.7で国語が48.6の受験生はざらにいる。
            私の理論は思いつきの極論で、机上の空論にしかすぎないかもしれない。

            ただ私が言いたいのは、国語力が上がって文章を理解する力がアップすれば、当然「参考書を読む力」もアップする、ということだ。

            参考書を読解する力があれば自学自習が楽になる。抵抗なく参考書を使える。
            読解力は、塾や予備校で授業を受ける時以外の勉強量を必然的に増やす。
            これだけ本屋には素晴らしい参考書問題集があふれているのだから、もしかしたら市販の参考書問題集だけで受験勉強が可能なのかもしれない。

            塾や予備校の費用が最小限に食い止められ、安上がりじゃないか!

            逆に読解力に自信がない受験生にとって、文字が無愛想に羅列された参考書は、干し草のような存在だ。
            干し草を「サラダにして食べなさい」と与えられても、どうすることもできやしない。

            しかし卓越した読解力を持つ受験生なら、牛や馬のように干し草をたらふく食べて、肥え太ることができる。

            小中学校の時代から訓練して読解力をつけ、その結果、高校になって参考書を読解できるくらいの国語力が備われば、充実した密度の濃い自学自習が可能で、人の力を借りずとも自力で勉強することができる。

            国語が伸びたら、他の科目の成績も同時並行して上がるというのは、こういう意味なのである。
            | 国語力!作文力!読書力! | 21:50 | - | - | ↑PAGE TOP
            国語とオタクの話
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              国語の試験は言うまでもなく、受験生が自己主張する場ではなく、相手の主張を正しく受けとめる場である。
              国語の試験では、活字でギッシリ書かれた小難しく長い文章が、怒涛の如く受験生に襲いかかる。試験時間も短い。必然的に受験生は文章の奔流に飲み込まれ、受け身にならざるを得ない。

              国語はピッチャー的教科ではなく、キャッチャー的教科である。松坂大輔ではなくドカベンのようなスタンスで問題を解かなければならない。
              天性の才能で剛速球や変化球を投げる必要は全くない。剛速球や変化球を受ける能力さえあればいいのである。

              しかし「受ける」ことが、必ずしも「投げる」より簡単だというわけではない。

              たとえば身の回りに、相手を無視して自分の興味あることばかりを熱中して話す人がいないだろうか。

              私が大手塾にいた頃の同僚に、星の話ばかりする人がいた。彼につかまったら延々と星の話を聞かされるのが苦痛なので、講師の誰もが彼を敬遠していた。
              ちょっとでもわかったふりして相槌を打つと、彼は自分の「話術」に酔い、さらに勢い込んで話し続けた。

              彼の星の話は、初心者にも興味を抱かせるような楽しい話ではなかった。知らない星の固有名詞が頻出し、大学で天文を研究している人か、宇宙オタクの人にしか興味が持てない類の話だった。
              いや、もしかしたら星が好きな人でも、彼の早口で聞き取りづらいしゃべり方には辟易しただろう。
              同僚の前だけならいいが、授業中にも同じ調子で星に関する雑談をして、子供に顰蹙を買っていた。

              そんな友人知人の話なら、理解できなくても生返事で相手をして、タイミングを見計らって逃げればいいが、国語の試験で興味のない話題の文章に接した時に
              「あんたの言うことは俺には興味がない。しかも文章が難しくてわかりにくい。もっと誰にでも理解できるように書け!」
              と途中放棄するわけにはいかない。

              どんなオタクの友人の話にも興味を持てる良い聴き手になるには、ゲーム・ガンダム・エヴァ・盆栽・ポケモン・クラシック・歌舞伎・自作パソコン・宗教・写真・占い・野鳥観察・推理小説・サッカー・ゴルフ・ワイン・昆虫など、サブカルチャー一般に精通した「オタクの総合商社」にならなければならない。でも、そんなことは無理だ。

              これは国語の問題を解く上でも同じで、環境・教育・軍事・政治・経済・芸術・音楽などの様々なジャンルに関して、読み手が全てに同じ興味を示せるわけではない。政治には強く、芸術には弱いといったように、関心の濃淡がある。

              ただし、森羅万象の事柄に一家言持つこと、つまり「教養」があれば、読み取りは大幅に楽になる。
              「投げる」には自分の興味をぶつければいいが、「受ける」にはどんな球が来ても確実に捕球できる教養が必要だ。
              教養の幅が広ければ、キャッチャーミットは大きくなり、捕球がしやすくなる。

              とにかく国語とは興味が持てない難しい話を、わかった振りして聞かなければならぬ、苦痛を伴う受身の作業なのだ。


              真の国語力ってあるの?
              理想の国語教師(大学受験編)
              | 国語力!作文力!読書力! | 15:44 | - | - | ↑PAGE TOP
              日本統治下朝鮮の「国語」
              0
                ところで「国語」という言葉が成り立つのは、1つの国家に1つの言語しか使われていない場合に限る。

                たとえばベルギーのようにフラマン語(オランダ語)とワロン語(フランス語)を話す地域に2分されている国では、単一の「国語」という概念はあり得ない。オランダ語を国語にすればフランス語圏の住民は抵抗し、逆もまた然りだ。

                また、カナダの大部分の州は英語圏だが、ケベック州の公用語はフランス語である。ケベック州はフランス文化圏に属し、カナダから独立の動きまで見せている州であり、カナダのように言語が複雑な国で、英語を「国語」と既定してしまえば、国内に大混乱が巻き起こるだろう。

                多民族国家で、しかも言語に複雑な事情を抱えている国では、教科に「国語」という名前を使うことはあり得ない。

                ところで、日本が単一言語の国かという問題に関しては、左派と右派で見解が正反対であろう。
                左派は北海道のアイヌ人や沖縄の住民の存在を反例に挙げ、本多勝一あたりが「アイヌ人も琉球人もいるのに、日本語だけを「国語」と呼ぶのはけしからん!」と主張してもおかしくはない。確かにアイヌ語は日本語とは全く別種の言語だ。「おしゃまんべ」「わっかない」「くっちゃん」なんて語感の地名は内地にはない。
                逆に右派はアイヌ語の存在をスルーし、琉球言葉は日本語の方言だと片付けてしまうだろう。

                しかし私個人は、「国語」という言葉の響きに対して、日本中心の天動説的な、世界が日本を中心に回っているような印象を持つ。

                さて歴史上、「国語」教育が最も熱心に行われた時代と地域をご存知だろうか?
                それは日本の植民地時代の朝鮮である。

                1910年の韓国併合まで、韓国で日本語は「日語」の名で教えられてきたが、1910年に「国語」と名を変える。植民地時代の朝鮮半島で、Japaneseは「日本語」でなく「国語」の名で、朝鮮の子供に教えられてきた。日本統治下の朝鮮で「国語」は外国語だったのである。
                「日本語」「朝鮮語」という並立の関係ではなく、日本語は「国語」という絶対的な名称で、朝鮮語の上に位置した。

                朝鮮の小中学校の「国語」の時間数は全時間数の4割に達した。朝鮮総督府の教育行政を担当する部署は、朝鮮人に日本語を浸透させ、皇民化政策の推進に全力を注いだ。朝鮮人にとって国語であるはずの朝鮮語は、のちに必修科目から選択科目に変更させられた。

                私が「国語」を神棚に飾るようなイメージを持つ言葉だと直感したのは正しかった。朝鮮での「国語」教育は、邪神を祭る異教徒の言葉を、強制的に履修させることに他ならなかったのである。
                | 国語力!作文力!読書力! | 11:55 | - | - | ↑PAGE TOP
                「真の国語力」ってあるの?
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                  私が中1の時、「国語」の英訳が"Japanese" だと聞き、「え、これでいいの?」と驚いた記憶がある。
                  英語習いたての中学生のくせに、生意気にも「国語」に対応するにふさわしい、もっと重厚な訳語が用意されていると考えたのである。「英語」ならEnglishでいいが、「国語」の英訳がJapaneseじゃあ拍子抜けしてしまう。Japaneseは「国語」ではなく「日本語」じゃないかと、漠然とした違和感を持った。

                  「国語」という言葉には、桐箱に入れて神棚に置いてあるような、深い意味を奥底に秘めた語感がある。
                  でもJapaneseを「日本語」と訳してしまえば、世界に数千ある言語の1つにすぎなくなり、神秘性が消失する。

                  柔道を"judo"、武士を"samurai"、寿司を"sushi"としか表現できないように、「国語」は英訳しても"kokugo"としか表記できない、日本固有の単語のようなイメージが強かった。

                  そんな「国語」という言葉の持つ根拠のない神秘性と、「真の国語力」という言葉が発生する事情には、共通点があるのだろうか。

                  たとえば国語のテストで50点しか得点できなかった生徒が、90点の生徒に向かって「オレは点数取れないけど、真の国語力があるからね」と、うそぶく事を許容する土壌はあるのかもしれない。

                  国語50点の生徒は読書好きで、家には子どもの頃から集めた蔵書がたくさんある。そんな蔵書をバックボーンに「オレには真の国語力がある」と開き直られたら、「国語」という言葉が持つ意味のない神秘性に呪縛された人の中には、思わず納得してしまう人もいるだろう。

                  しかし数学で50点の生徒が90点の生徒に「オレには真の数学力がある」と言ったら、確実に笑い者になる。誰の耳にも言い訳にしか聞こえない。

                  「真の数学力」という言葉は滑稽極まりないが、逆に「真の国語力」には何かしら意味を感じてしまうのは、数学力が容易に数値化でき、得点が絶対的な判断基準を示すのに反して、国語力を判断するには数値以外の基準が存在するという幻想があるからに他ならない。

                  では「真の国語力」は、本当に幻想なのか?
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                  国語の授業なんかいらない
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                    昔「巨泉のこんなものいらない」という番組があった。
                    日本の大橋巨泉と、アメリカのジャックという名の記者が衛星回線を通して対談するのだが、日本人の大橋巨泉は英語で喋って画面下には日本語のテロップ。逆にアメリカ人のジャックは日本語の吹き替えという方式だった。

                    つまり日本人の大橋巨泉が「Hello, Jack」と英語を話し、アメリカ人のジャックが日本語で返答するという珍妙な対話がTVで繰り広げられていたのだ。
                    要するに大橋巨泉が自分の英語力を披露したかったのだろう。

                    さて今日は「国語の授業なんかいらない」という話である。

                    中学校でもし1つ科目を削るならば、「国語」が最適ではないかと私はいつか書いた。最近は国語力向上が巷で大いに叫ばれているため、少々勇気のいる発言だったかもしれない


                    繰り返すが最近の教育論では
                    「小学校で英語だって? それより国語を何とかしようよ」
                    「我々は日本人である。英語よりも日本語教育に力を注ぐべし」
                    「国語教育はすべての学問の基本。国語教育を充実させよう」
                    「国語力低下が著しい。国語の時間数を増やそう」
                    「日本語の文をしっかり書けずに、何が英語か」
                    という主張をよく耳にする。国語教育の充実が声高に叫ばれている。

                    しかし、数学や理科は学校や塾で学ばないと力はつかないが、国語力は必ずしも学校の国語の授業で身に付くものではない。
                    国語力は親や友人との会話、テレビの音声、読書や漫画、パソコンの画面、町にあふれる文字広告など、身の回りの森羅万象から吸収するものだ。

                    日常生活の周辺にあふれる文字や音声から子供は自然に「国語」を学ぶ。
                    言い換えると、数学が極度に非日常的な教科であるのと比べて、国語は日常的な教科であり、だからこそ国語力は日常生活で自然に身につく性格を持っている。

                    たとえば、最近の中学生・高校生の文章能力は、10年前以前に比べて上昇している気がしないだろうか?
                    インターネットとメールの普及が、若者が文章でコミュニケーションする能力を向上させている。事実、私が10代の頃と比べて、若者が文章を書く機会は格段に増えた。

                    若者の文章力向上は「非日常的」な教室の作文教育がもたらしたものではない。メールとネットでのコミュニケーションが「日常的」になったことで、若者の文章力は向上したのだ。若者の文章力向上は、メールとインターネット普及の偶然の副産物である。
                    学校の国語授業は、若者の文章力向上に何ら寄与していない。

                    若者の文章力向上は、「日常」が「非日常」に勝利した一例である。
                    ではなぜ国語の授業が必要なのか?
                    どうして「日常的」な国語が、「非日常的」な学校の教室で教えられなければならないのか?
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                    書評と読書感想文
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                      私はブログを開始する時、書評をたくさん書こうと思った。書評だけでブログを埋め尽くしてもいいとも考えた。


                      ところが書評は難しい。


                      書評を名乗るからには、書評を読んだ人が「この本読んでみようかな」と思うものが書きたい。書評は釣り餌のようなもので、いかに読者という魚を釣るか、書く人の文章力が試される。
                      面白い書評を書いて、自分が出会った素晴らしい本の読者を増やしたい、本から得た快楽を1人でも多くの人に分かち合いたい、という願望がある。


                      しかし時には逆転現象で、評論の方が実際の本よりも面白いケースがよくある。
                      ジャズ評論家に寺島靖国さんという方がいるが、この人がCDを紹介する文章は自由闊達で面白い。CD評を読めばたちまち紹介されたジャズのCDを買いたくなる。
                      ところが評論に釣られて購入して聴くと、寺島さんの文章ほど演奏が良くないことが多い。
                      「辛口でもなく甘口でもない、ほどよい旨口ジャズに仕上がった演奏」と絶妙な文章で評されていたCDを買ってみると、イマイチ胸がときめかない。
                      そんな場合は、ゴージャスな評論という釣り餌に騙されたような気になる。


                      また他人を作品を通して自分を語る行為、すなわち評論なのに自己の思いの吐露になってしまうのも考え物だ。
                      小林秀雄なんか、本居宣長もランボーもゴッホにせよ、誰を題材にしても結局小林秀雄自身を語ってしまう。彼の場合一流の小説家や芸術家に負けない才気があるので面白いからいいのだが、素人が一流の作品と格闘して中途半端に自己を語った文章はやりきれない。


                      かといって自己を語らず視点が客観的すぎて、ただ粗筋のような文章を羅列するのもつまらない。
                      文庫本の裏表紙には必ず本の内容の要約が編集者の手によって250字くらいで書かれているが、そんな文庫本の裏表紙的な書評も、わざわざブログに書くに値しない。


                      もうすでに私が書評する本を読んだ人相手なら楽しく書ける。共通の知人の話で盛り上がるようなものだ。ただ、まだ本を読んでない人に対して、本を紹介する文章は難しい。相手がその本に対して無関心な状態から語らなければならないから、興味を持ってもらうのに骨が折れる。


                      結局書評は書く側のスタンスが決まらず、キーを叩く手が止まったままで、書評はなかなか書けずにいる。



                      さて、この書評を書く際の難渋さは、小学生時代の読書感想文を書く時の苦しみによく似ている。書評も読書感想文も言い方は違うが同じことだ。
                      私は読書感想文が嫌いだった。書評を書く時には、小学生の時読書感想文が書けなかった軽いトラウマを思い出してしまう。
                      読書感想文の課題を出されて、原稿用紙2枚ならまだ何とかなるが、原稿用紙5枚書けと言われたら、砂漠で地平線に浮かぶ蜃気楼を見る時の様に途方に暮れた。


                      原稿用紙5枚ともなると、もはや粗筋をなぞるしか紙を埋める術がない。本当に感動した本を読むと、言葉は短く単純になるものだ。
                      かつて小泉首相が貴乃花が怪我を押して優勝した時「感動した」と一言述べて、首相は文弱だのワンフレーズでしか感想が言えない男だの非難されたが、「感動した」と一言しか語れなかった首相の心理はよくわかる。ましてや小学生が、感動した本について原稿用紙5枚書くのは難しい。


                      そういえば中学1年生の時、国語の先生から夏休みに3冊本を読めと言われた。井上靖「夏草冬濤」、山口瞳「けっぱり先生」、そして「サローヤン短編集」だった。
                      夏休みが終わって最初の国語の時間、先生から読書感想文を書けというお達しがあるものと想像していたら、国語の先生は「3冊の中でどれが面白かったか多数決を取るね」と、多数決を取っただけで読書感想文を書くことを要求しなかった。何て粋な先生だろうと私は思った。


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