猫ギターの教育論

尾道市向島の塾「US塾」塾長のブログ 早稲田大学・開成高校出身 本音が飛び交う、少し「上から目線」の教育論
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村上春樹は青少年には危険思想
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    うちの塾には、約1万冊の本が置いてある。1万冊もあると、私の家から間違って持ってきた、子供には読ませられない怪しい本も何冊かまぎれ込んでいる。

    しかし、塾の本棚の中で一番子供に読ませたくない本は、村上春樹の本である。
    村上春樹の小説は、読者の人生を変える魔力を持っている。
    少なくとも村上春樹の小説は、私のライフスタイルを決定的に変えた。

    よく私は「どうして東京に住んでいないのか?」「なぜ組織に属し、ビジネスマンにならなかったのか?」と聞かれるが、私が田舎で隠遁生活をし、猫と一緒に暮らし、旅が好きな個人主義者で、1人で小さな塾を開き、ピュアな子供と接しながら生活しているのは、村上春樹の影響が大きい。
    私が大学時代に、村上春樹に出会ってなかったら、十中八九、東京でビジネスマンをやっていたと思う。

    村上春樹が日本だけにとどまらず、世界各地で多くの読者を獲得しているのは、おそらく彼の、もしくは彼の小説の主人公の、世間から隔離したような、内にこもったライフスタイルが魅力的な点も大きいだろう。

    村上春樹は猫とパスタをこよなく愛し、完結した狭い空間で小さくて確実な幸せだけを追い、小宇宙で小確幸を求め、異物を自分の生活に入り込ませない。
    世間に対する一種のアレルギー体質といってよい、内向的な人にとって居心地の良さそうなライフスタイルが、多くの読者の共感をよんだ。

    ただ、村上春樹の大部分の読者にとって、彼や彼の小説の主人公のライフスタイルは憧れにすぎない。やってみたいけど、実際には実現不可能なライフスタイルだ。

    しかし私は村上春樹的生活の70%ぐらいを、意図的に実現してしまった。
    誰にも頭を下げず、誰ともつるまず、自分の意思やアイディアを誰にも遠慮せずピュアな形で世に問える立場を、獲得することができたのだ。

    ある種の人にとっては、零細な個人塾やっている男なんて、無視や軽蔑の対象にしかならないだろう。しかし誰が何と言おうと、私が自分の仕事とライフスタイルに確固たる自信を持っている。そんないびつな自信の裏には、村上春樹の「お墨付き」の存在も大きい。

    村上春樹の文章は、偏屈な個人塾塾長製造機械なのかもしれない。

    ただ、私自身は自分のライフスタイルを変えるつもりは絶対ないが、私の教え子には「村上春樹的ライフスタイル」にかぶれて欲しくない。矛盾しているかもしれないが、教え子には私とは正反対の道を選んでもらいたい。「カタギの生き方」をしてほしい。

    だから私は教え子に対して、声高に自分の「生き方」を説いたりしない。私が自分の生き方を正直に子供に伝えれば、変に感化されて兼好法師みたいな世捨て人になってしまう子が出たら困る。

    私の影響を与えていい部分と、悪い部分を厳しく選別して子供に接しなければ、せっかくの才能を潰してしまう。

    あくまで講師はネガで、生徒はポジである。私は教え子を「井の中の蛙」ではなく、「大海で悠々と泳ぐ真鯛」に育てたい強い欲がある。

    とにかく、村上春樹は危険思想だ。

    「子供の不良」はハシカみたいなもので、20歳超えればたいていまともになる。しかし村上春樹の文章は一生更生できない「大人の不良」を作り上げる魔力を持ち、文学特有の毒を放っている。

    私は日本の小説家で村上春樹が一番好きだが、その強い影響力を熟知しているからこそ、中学生・高校生・大学生には村上春樹をあまり勧めたくはない。
    大海を泳ぐべき真鯛には、金魚鉢や井戸の居心地の良さを秘しておきたい。

    村上春樹の著作こそ、青少年の敵、白ポスト入りすべき本なのかもね。
    | 読み応えのある本 | 18:13 | - | - | ↑PAGE TOP
    「広辞苑」第六版発売
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      「広辞苑」の10年ぶりの改訂版が発売された。本屋の一番目立つところに「ドカン」とたくさん置いてある。
      欲しくて買おうと思ったのだが、重いのと価格が高いので躊躇して、今日のところは買わなかった。現在特別価格で500円安い。
      安いうちにアマゾンで買うことにしよう。アマゾンだったら塾に直接運んでもらえる。

      そういえば最近紙の辞書を、めっきり使わなくなった。昔は文章を書くときは「広辞苑」「新明解国語辞典」「現代用語の基礎知識」「imidas」が必需品だったのに、今は"google"と"Wikipedia"で事足りてしまう。

      それでも塾の本棚に「広辞苑」が鎮座していれば、塾の学習空間に「軸」ができたようで頼もしいし、また「広辞苑」を持っていないと、なんだか世間の趨勢から取り残され、差がつけられそうな気がする。

      「広辞苑」には「メタボ」とか「親父ギャグ」とか「ラブラブ」とか「いけ面」とか、新語がたくさん掲載されているらしい。「広辞苑」という一種の国語の権威に、日本語として認められた新語を探すのは楽しそうだ。


      JUGEMテーマ:読書
      | 読み応えのある本 | 21:03 | - | - | ↑PAGE TOP
      福沢諭吉「学問のすすめ」2
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        「学問のすすめ」は爆発的に売れた。ではどんな層の人たちが「学問のすすめ」を買ったのか?
        子供は教育書なんか今も昔も買ったりしない。「学問のすすめ」を買ったのはもちろん親である。

        「学問のすすめ」最大の購買層で、福沢諭吉のプロパガンダを最も熱狂的に受け入れたのは、没落士族であった。

        武士は維新後一部の高官を除き、度重なる秩禄処分で職を失った。最も安定した職業から、時代の変転で一気に失業者へと零落した。
        現代にたとえたら、日本政府に何か革命的な変化があって、公務員が一気にクビになる状況に等しい。

        武士達は路頭に迷い、恵まれた者は新政府の役所や軍隊に就職したが、そうでない者は慣れない商売をしたり、蝦夷地へ屯田兵として入植したり、退職金で細々と食いつないだ。

        身分制度も改められ、武士も農民も商人も平等になった。
        いままで武士達の言いなりになっていた農民や商人が、これ幸いにと自己主張を始めた。士族は日常生活で屈辱を味わう場面も多かっただろう。明治維新で身分も金も失った士族が不満を持つのは当然の成り行きだ。

        薩摩ではそんな不平士族が西郷隆盛を担ぎ、西南の役で蜂起したが敗北した。また過激な一部の士族は、せめて選挙権だけは与えよと自由民権運動で暴徒化し各地で騒動を起こした。

        ただ、大多数の士族は、黙って困窮に耐えた。
        身分を失い、安定した収入も失い、かといって北海道へ移住するリスクは負いたくないし、ましてや自由民権運動で暴れる度胸もない。そんな士族が頼りの綱にした本が「学問のすすめ」である。子供に教育を与え、子供に一家復興の夢を託すことが最も現実的な道ではないか。福沢諭吉の主張は、タイミング良く士族の胸に響いた。

        福沢諭吉は迷える武士達に、新鮮な目的意識を与えたのである。生活に切羽詰った士族は「学問のすすめ」を単なる教育書ではなく、自分達がこれから何を目的に生きていくべきかを教えてくれる、生活書として読んだ。
        「学問のすすめ」は単なる啓蒙書を越えて、学問を修めれば利益に結びつくという「学問教」を普及させる宗教書でもあった。

        福沢諭吉は「学問のすすめ」で「自立」というキーワードを頻繁に使っているが、それは依存から脱却しろという意味では全くない。
        旧士族にとって、安楽に依存しきってきた幕府や藩が消滅し、もはや依存する物など何もなかった。幕藩体制という住居をなくし、身ぐるみ剥がされ野に放たれた士族は、干からびて路頭に迷うか、自立の道を選ぶしかなかった。
        そんな士族達に、福沢諭吉は自立を熱く説き、自立のためのノウハウを教えた。

        士族は福沢諭吉の言葉に強く反応した。もともと武士階級は勤勉で、学問の芽が育つ土壌は、江戸時代から培われていた。福沢の主張を受け入れる素養はすでにできていた。アフリカの農業国で、どれだけ福沢諭吉が学問の大切さを説いても無視されるだけだ。

        「学問」という新しい価値観に洗脳された士族は、子供に確信を持って勉強を課した。「教育パパ」の誕生である。
        「学問のすすめ」という本には福沢諭吉が放つ熱がある。熱は子を持つ親たちに引火した。親に引火した熱は子供の向学心と上昇志向を高めた。
        教育熱心な親と、勉強熱心な子供の一途な頑張りが、没落士族を復興させ、努力の総和が日本国を豊かさの面で一流国家にした。

        そして、福沢の言葉を真正面から受け取った親は、子弟を喜んで福沢の学校に預けた。福沢諭吉は学生を迎え入れるに当たり高額の金を取った。当時は教育機関に金を払う習慣はなく授業料という形式は珍しかった。
        しかし親達は福沢の慶応義塾に惜しげもなく金を渡した。福沢に子供を預ければ、時代から取り残されてしまった自分とは違って、子供は近代化の時流に乗れるという確信があったからだ。

        さらに、士族たちは福沢の放つ「私」という言葉に魅力を感じた。
        士族たちは幕府や藩の滅亡を目の当たりにして、「官」の脆さを肌で感じた。滅ぶことなど考えられなかった国家体制が一瞬にして崩壊した。そして「官」を信頼しすぎた自分は不遇の身をかこっている。「官」への不信感が士族に蔓延するのは当然である。
        となると、信じ得る物は自分の力しかない。自分の力を向上させることが生きる唯一の道だ。自分の力とはまさしく「私」という言葉に収斂される。

        福沢諭吉は「官」の反意語に「私」という言葉を選んだ。「民」という複数ではなく「私」という単数の言葉を、福沢は意識的に使ったと私は確信する。
        「私」とは誰にも依存しない一個の人格である。「私」という言葉の偏愛こそが、福沢諭吉の矜持であり、没落士族を強く共感させた磁力の発生源である。


        JUGEMテーマ:学問・学校


        | 読み応えのある本 | 15:17 | - | - | ↑PAGE TOP
        福沢諭吉「学問のすすめ」
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          福沢諭吉の文章の背後には、怒りがある。
          晩年の「福翁自伝」は文章にユーモアがあり、もはや好々爺の余裕があるが、「学問のすすめ」「文明論之概略」といった福沢の名を成した初期の著作には、行間から強い憤慨の匂いがする。福沢は明らかに苛立っている。

          福沢諭吉の父親は下級武士で、旧態依然たる身分格差が残る中津藩で、無名のままこの世を去った。福沢は父親の姿を見て「身分制度は親の敵」と時代の陋習を唾棄した。

          封建主義・門閥主義がはびこり、家柄の良い人間が高い位についていた時代、何らかの才能を持つ子供や若者は、せっかくの才能を生かすことはできなかった。自分が才能を持っていることすら知らなかった。

          維新以前の身分が固定された時代は、若者の競争意識は希薄だった。赤ん坊は産まれた瞬間に、とっくに将来の職業が決まっていたからだ。
          もちろん微調整はあったろうが、農民の子は農民、殿様の子は殿様になるしか道はなかった。そんな環境で競争が激しくなるわけがない。

          当然「将来どんな職業に就きたいか?」という質問は江戸時代にはあり得なかった。そんな質問は幕政の秩序を揺るがす危険思想だった。

          江戸時代の18歳の若者は、とっくに元服を済ませ一人前として扱われ、漆職人の子は親と一緒に漆を塗り、農民の子は朝から晩まで雑草を抜いたり縄を編んだり、雑用に追われた。漆塗りも畑仕事も肉体的につらい作業で、また慢性的に江戸時代の庶民は食糧不足の悩みを抱えていた。厳しい生活だったろう。

          しかし現代の18歳の若者みたいに、「自分にはどんな仕事が向いているか」「自分には可能性があるのか」と受験や就職で悩み、将来の職業が決まらず宙ぶらりんの状況で、精神的に苦悶することはなかったろう。

          江戸時代の子供は、決められた真直ぐな道を進めばよかった。逆に現代の子供は、目の前の道が錯綜して、どの道を進めばいいか常に迷わなければならない。

          子供の将来について、あれこれ考えさせ迷わせる場が、大学や学校や塾である。
          江戸時代にももちろん学校はあった。武士の子は藩校に通い学問を修めた。しかしその学問とは上下関係の秩序を叩き込む場であって、立身出世を成し遂げる場ではなかった。藩校とは身分が下の者が家格の高い人間に対し敬意を払い、謙譲の精神を学び、自分の「分を知る」場所だった。

          庶民の学校である「読み書きそろばん」を教える寺子屋も本質は同じである。寺子屋はただ単に将来就くべき職業に役立つスキルを学ぶ場であって、学ぶことで将来の職業の選択肢を豊かにし、身分制度に風穴を開ける場ではなかった。

          暴論かもしれないが、もしかしたら江戸時代みたいに身分が固定し、子が親の職業を継ぐ制度は、多くの若者にとって楽だったかもしれない。将来のことなんか考えなくていい。未来は現代の延長線上にあった。江戸時代の若者は、親の見よう見まねで単純に1つのことを黙々とやり続ければ、誰にも文句は言われなかった。

          逆に、現代の若者は「勉強」をしなければならない。学校や塾では、次から次へと頭に負荷をかける課題が現われ子供を悩ませる。おまけに受験という競争まである。受験の結果によって将来が決まる。競争に勝っても負けても、現在の生活と断絶した将来が待ち受けている。
          とにかく江戸時代と違って、現代は同学年の若者同士が激しい生存競争を強いられる時代なのである。

          実は福沢諭吉こそが、イヤな勉強を広め、若者同士の競争を奨励した元凶である。「学問」なんか「すすめ」るから、テストがあり受験があり宿題があり塾があり、暗黒の青春時代を送る羽目になった余計なことしやがってと、福沢は嫌われても仕方ない。福沢諭吉は勉強嫌いの人間にとって「悪魔」である。

          ただ、「学問のすすめ」から立ち昇る、福沢諭吉の批判精神を読み取って欲しい。福沢諭吉が封建社会を批判して新たに作った、勉強で立身出世できる今の時代は、決してbestとは言えないけども、明らかに江戸時代の制度よりはbetterである。

          福沢諭吉は、「俺は身分が低くて貧乏だし、自分より低能な奴に頭を下げるのは嫌だけど、まあ将来の職業が決まっているから楽でいいや」と妥協する男ではなかった。
          江戸時代の門閥制度を、安定した平和な時代なんかではなく、本来なら花開くべき貴重な才能が摘み取られる暗黒時代と受け取った。だから漢学を学び蘭学を究め、身分が高いだけの下らない人間に勝ってやろうと狂った。狂って学問に打ち込んだ。

          福沢諭吉は成功した。その成功体験を次世代の若者に分け与える場が慶応義塾であり、成功体験を世間にアピールした書物が「学問のすすめ」であった。
          戦国時代は暴力による「下剋上」だったが、明治時代は学問による「下剋上」の時代だと福沢諭吉は説いた。
          ならば近代以降の学校とは、藩校や寺子屋とは違って、合法的でフェアな競争が保障された、流血のない「下剋上」の場といえようか。

          とにかく「学問のすすめ」という書物が孕む福沢諭吉の得体の知れない怒りは、確実に教育に携わる者を熱くさせる。


          JUGEMテーマ:学問・学校


          | 読み応えのある本 | 22:30 | - | - | ↑PAGE TOP
          ラスプーチン・佐藤優
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            読書界で話題の人といえば、「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏であろう。
            外務省の現役官僚の時、インテリジェンス、つまり諜報を担当していた。

            同志社大学神学部卒業後、ノンキャリアとして外務省に入省。欧亜局ソビエト連邦課に配属され、1988年から95年まで在モスクワ日本大使館勤務。ソ連・ロシアとの外交に力を注ぐ。

            その後は本省国際情報局分析第一課へ。主任分析官として鈴木宗男と組んで北方領土返還に力を尽くしたが、2002年、田中真紀子外相時代に背任容疑で逮捕。無罪を主張するが1審執行猶予付き有罪判決。2審控訴棄却。現在最高裁に上告中である。

            ところが、官僚としては死んだ佐藤氏だが、一連の逮捕・裁判を国策捜査だと批判した「国家の罠」がベストセラーになり、論壇のスターとして甦った。
            その後も国家間の交渉のシビアな裏側や、ロシア政界要人の赤裸々な描写、政治家や外務省官僚の生態、また国家の最深部にいた人間しか持てない独自な世界観を、説得力あるユーモアの潜んだ文章で綴った著作が好評である。私も佐藤優氏の大ファンであり、書店で著者名を見た瞬間、速攻でレジに持っていくライターの1人である。

            ラスプーチン佐藤優氏は、田中真紀子と鈴木宗男の騒動がなければ逮捕されず、絶対に表に出なかったはずの人物だろう。国家に闇があるとすれば、その闇の一番深い部分で、汚れ仕事を引き受けてきた人物である。
            そんな修羅の世界を経てきた佐藤氏の本が面白くないはずはない。絵空事のようなスパイ小説ではなく、現実の諜報戦が生々しく描かれた「スパイ・ノンフィクション」である。

            佐藤氏は政府要人や官僚の秘密の部分を、数多く溜め込んでいるに違いない。それを小出しにするスリリングさが読者にはたまらない。
            また人物描写が的確で、佐藤氏の冷静な筆で描写された人物は、小林よしのりの似顔絵以上に人物像のイメージを強く固定する。

            それにしても、いったん堕ちる所まで堕ちた、佐藤氏の復活ぶりは凄い。
            鈴木宗男パッシングの時、佐藤氏はマスコミから非難され、国民からは怪しい目で見られ、政治家からは疎まれ、外務省の同僚からは裏切られ、500日以上も拘置所で拘留され、裁判所からは有罪判決を得た。
            第1の権力・政治家、第2の権力・官僚、第3の権力・マスコミ、日本を支配する3つの権力を全て敵に回し、獄中生活を強いられた。

            しかし佐藤氏は拘留中、猛烈な勢いで読書して理論武装し、文筆の力で甦った。その経緯は「獄中記」に詳しい。
            佐藤氏は逮捕当時マスコミ、特に週刊誌の餌食になったが、そのかつて敵だったマスコミ出版社の力を利用して、名誉回復どころか官僚時代以上の名声を勝ち得たのである。
            第3の権力に負けた「負けず嫌いの負け犬」が、「論壇の勝ち犬」としてブレイクした。ブレイクの過程で、「怪僧ラスプーチン」という悪意のこもったあだ名を、親しみやすい愛称へと引き上げた。

            外務省の同僚から見れば、絶対に死んだと思った人物が、ゾンビのように生き返ったのだから脅威であろう。

            ところで、これだけ有能な官僚を、野に下らせるのは惜しい気がしないでもない。外務省の第一線に復帰して、ロシアとの北方領土返還交渉の第1線に立つ日はもうないのだろうか?
            「プーチン」VS「ラスプーチン」のインテリジェンス対決は面白そうなのに・・・・


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            | 読み応えのある本 | 18:25 | - | - | ↑PAGE TOP
            田村裕「ホームレス中学生」
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              募集の時期である。うちの塾は1週間後に冬講と新学期の広告を出す。

              生徒募集では塾が試される。下手をすれば職を失い、山谷や釜ヶ崎で日雇いになるか、新宿西口広場や大阪天王寺公園でダンボールで夜の寒さをしのぐような、転落の人生を歩まなければならないのである。

              個人塾経営者にとって、来年3月・4月に生徒の前で授業できるかどうかは、募集の成果にかかっている。
              不祥事を犯さない限り、どんなダメ教師でも4月には新しい生徒を自動的に迎え、定年まで生徒に教える権利が保障されている学校の先生とは、そこが大きく違う。

              個人塾はリスキーな稼業である。借金抱えて新教室開いたら大失敗して、入塾電話の代わりに借金取立ての電話で頭を抱える場合もある。
              また広告に「子供の生きる力を育てます!」とデカデカと書いていた塾長が、塾が潰れてルンペンになり、自分自身生きる力が無いことを見事に証明するような皮肉な結果になることもある。
              さらには、自分の能力を過信して「弟子は師を越えよ!」と生徒に訓示垂れてた塾長が、職にあぶれて1年後には寒空の下日雇いで交通量調査やってる姿を「弟子」に見つかり気まずい思いをすることだってある。

              この稼業は、一寸先に何が待ちうけているのかわからない。

              ただ、ときどき絶望の淵のような悲観主義に陥るのは、個人塾の塾長だけでなく、大学受験生も同じだ。両者とも3ヵ月後には天国か地獄か、どちらかが待っている宙ぶらりんの状態である。
              だから同じ宙ぶらりんの立場にある大学受験生と個人塾塾長は、かけがえのない戦友である。

              また福沢諭吉の話で申し訳ないが、彼だって「福翁自伝」で
              「塾の盛衰に気を揉むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を定めて、塾を開いたその時から、何時でもこの塾を潰してしまうと始終考えているから、少しも怖いものはない」

              「生徒散じ教員去って塾が空家になれば、残る物は乃公(おれ)一人だ、ソコデ一人の根気で教えられるだけの生徒を自分が教授してやる、ソレモ生徒がなければ強いて教授しようとは言わぬ、福沢諭吉は大塾を開いて天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない」

              と塾が潰れる恐怖を、開き直りながら潔く語っている。

              収入が減る恐怖を感じるのは、私のような小人だけかと思いきや、明治の大教育者ですら同じ思いをしていたことを知り安堵する。
              福沢諭吉が去る恐怖を、福沢諭吉が癒してくれるわけだ。

              私も塾がなくなったら、「ホームレス塾講師」という本でも出版して印税生活してやろう。でも「ホームレス塾講師」なんて100部も売れたら上々だろうね。塾講師がホームレスになるのは意外性ないし。
              逆に意外性大ありの「ホームレス中学生」は、2ヶ月で100万部売れたという。中1の読書好きで賢い少年Y君も、自分で買って読んでいました。中学生には是非おすすめの本です。


              JUGEMテーマ:読書
              | 読み応えのある本 | 17:34 | - | - | ↑PAGE TOP
              村上春樹から受験生へ励ましの言葉
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                村上春樹の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」は、マラソンに関するエッセイである。
                孤独な自分との戦いという面で、マラソンは受験とよく似ている。
                ページをめくり、マラソンの話を受験におきかえて読めば、受験生へのメッセージがあふれている。

                今の時期、疲れている受験生は多い。水分の補給が足りない植物のように、打ちひしがれ倦怠的な気分が漂う時期でもある。そんな弱気になりかけた受験生に、強い励ましの言葉は逆効果だ。
                村上春樹の本は、萎れかけた植物にそっとジョウロで水をかけ、葉脈の一本一本にじんわり水を浸透させ、緑の生気を蘇らせるような、気遣いのある言葉に満ちている。

                たとえばこの一節・・・

                 
                たとえ絶対的な練習量を落としても、休みは二日続けないというのが、走り込み期間における基本的ルールだ。筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこき使えば故障してしまう。しかし時間さえかけてやれば、そして段階的にものごとを進めていけば、文句も言わず(ときどき難しい顔はするが)、我慢強く、それなりに従順に強度を強めていく。「これだけの作業をこなさなくちゃいけないんだ」という記憶が、反復によって筋肉にインプットされていくわけだ。我々の筋肉はずいぶん律儀なパーソナリティーの持ち主なのだ。こちらが正しい手順さえ踏めば、文句は言わない。
                 しかし負荷が何日か続けてかからないでいると、「あれ、もうあそこまでがんばる必要はなくなったんだな。あーよかった」と自動的に筋肉は判断して、限界値を落としていく。筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいと思っているから、負荷が与えられなくなれば、安心して記憶を解除していく。そしていったん解除された記憶をインプットしなおすには、もう一度同じ行程を頭から繰り返さなくてはならない。もちろん息抜きは必要だ。しかしレースを目前に控えたこの重要な時期には、筋肉に対してしっかりと引導を渡しておく必要がある。「これは生半可なことじゃないんだからな」という曇りのないメッセージを相手に伝えておかなくてはならない。パンクしない程度に、しかし容赦のない緊張関係を維持しておかなくてはならない。このへんの駆け引きは、経験を積んだランナーならみんな自然に心得ている。


                筋肉を脳、レースを入試に置きかえて読めば、受験生へのメッセージにそのまま使える文章である。
                要するに「勉強は休まずに毎日やりましょう」ということなのだけど。

                あとこの本の前書きに、これまた素晴らしい英語のフレーズを見つけた。
                村上春樹がたまたま読んだ雑誌に、マラソンランナーの特集記事が載っていて、そこで何人ものマラソンランナーにインタビューして、レースの途中で自らを叱咤激励するためどんな言葉を頭の中で唱えているかという企画があったらしい。

                その中であるランナーが走る時に頭の中で反芻している、村上春樹お気に入りの文句は
                Pain is inevitable. Suffering is optional.
                だったそうだ。

                この英文がどういう意味なのか、また村上春樹がどういう解釈をしているのか、本の前書き3〜4ページに載っているので、興味がある方は読んでいただきたい。







                ★開成塾
                尾道市向島・「志」のある若者が集う、「凛」とした学び場








                | 読み応えのある本 | 21:48 | - | - | ↑PAGE TOP
                村上春樹と老人の饒舌
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                  村上春樹がノーベル文学賞候補と呼ばれるようになってから、ノーベル賞が発表される10月に、集中して村上春樹関係の本が出版されるようになった。
                  便乗商法といえばそれまでだが、村上春樹ファンの私としては嬉しいことだ。

                  上の本は内田樹氏が、村上春樹関係のエッセイをまとめた「村上春樹にご用心」、私が一番好きな評論家が、一番好きな小説家を評論した本だから、面白くないわけがない。

                  さて、今から1週間前に福山ロッツの本屋を徘徊していると、またまた村上春樹関連の本を見つけた。どんな評論家が書いた本なのだろうか。題は「走ることについて語るときに僕の語ること」というものだが、よく見るとこれ、村上春樹ご本人の本ではないか!

                  村上春樹は寡作なので、新刊が出るとファンは飛び上がるように嬉しい。村上春樹は翻訳もいいが、やはり小説やエッセイだと喜びもひとしおだ。
                  速攻で2冊買い(1冊は保存用)、一気に読んだらもったいないので、1瓶5000円のウニの瓶詰めを、箸でちびりちびりなめるように大切に読む。

                  村上春樹はマラソンランナーでもあるが、「走ることについて語るときに僕の語ること」は走ることを通じて、自分を赤裸々に語ったエッセイである。



                  これまで村上春樹は、自分の人生遍歴について深く語ってこなかった。村上春樹の実生活を知るには、小説やエッセイというフィルターを通して、擦りガラスの向こうのぼんやりとした裸身を拝むしか術がなかった。

                  ところが「走ることについて語るときに僕の語ること」では、村上春樹は具体的に感情的に、自分の人生を語っている。抽象的かつ理性的でスタイリッシュだった今までの村上春樹とは一線を画す。

                  村上春樹も58歳。若さゆえの沈黙から、老人の饒舌へと芸風をシフトしたのか。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の頃の余韻のある文章とは対極にあるが、しかし饒舌な村上春樹も、たまらなくいい。

                  関連項目
                  サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」
                  大好きな司馬遼太郎
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                  村田蔵六のこと 下
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                    村田蔵六は医者なのに、なぜ突如として軍の総司令官に変貌したのか?
                    幕末という異常時とはいえ、医者から軍人とは突飛な転進ぶりだ。
                    医者と軍人は180度違う職業のように、素人目には見える。

                    桂小五郎は、どうして蔵六を司令官に大抜擢したのだろうか?

                    幕末の騒乱期は個人の力量が求められていた。家柄で人事を決める余裕なんかなかった。実力主義を取らなければ藩命人命に関わる。誰もが血眼になって人材を求めていた。

                    桂小五郎が蔵六を大抜擢した理由は、蔵六に「西洋の匂い」がしたからだろう。
                    幕末当時は攘夷熱で狂い、開国主義者は命を狙われた。長州藩は日本一過激な攘夷藩で、一部の過激な志士達は「天誅」と叫び暗殺に走った。

                    しかし聡明な一部の者は、攘夷だけでは行き詰ることを察していた。
                    幕府を転覆するには偏狭的な攘夷熱が絶対に必要だが、現実に倒幕を成し遂げるためには、西洋の兵器や兵学が不可欠なことがわかっていた。倒幕は「和魂洋才」で行わなければならない。

                    西洋の技術の必要性を察知した桂小五郎は「洋才」を求めて、蘭学に造詣の深い蔵六を抜擢したのだろう。

                    また長州藩は学問が盛んな藩であった。だから「学校秀才」に敬意が払われた。
                    村田蔵六は大阪の蘭学塾「適塾」に通い、幕府の学問所の教授にまで登り詰めた秀才中の秀才である。桂小五郎は同郷の「大秀才」を見逃すはずがなかった。
                    のちに太平洋戦争では、長州藩の秀才崇拝信仰を受け継いだ陸軍が、ペーパーテストの点数で人事を決定して国を滅ぼすが、蔵六のケースは上手くいった。

                    それに、医学と兵学には意外なほど共通点がある。

                    第1に、医学も兵学も人の命と直接向き合う、空理空論が絶対に許されない、緊迫性の強い学問である。
                    医学も兵学も実践的でなければならず、研究の結果が常に実践実戦で試される。誤った学説は患者や兵士の命を落す。
                    文学のように想像力の飛翔に酔ったり、経済学のように将来の景気予測ミスを犯した学者が、失敗をウヤムヤにしたまま重鎮として生き残ることはあり得ない。

                    第2に医学も兵学も、即時決断が求められる。
                    外科医が手術中にボヤボヤ迷っている間に患者の体力は刻々と弱り、司令官が優柔不断で決断が遅いと兵隊の命が失われる。
                    外科医も軍司令官も、情況を的確に把握し迅速に判断できる、瞬発力のある鋭い頭脳が必要である。

                    第3には両者とも、沈着冷静な態度が肝心だ。
                    手術も戦争も流血の修羅場であり、当事者達の感情が熱くなりがちである。そんな時に執刀医や司令官が冷静さを欠いたら困る。
                    外科医も司令官も、感情を持たぬ機械やコンピューターのように振舞わなければならない。そういえばコンピューターが開発されたのは軍事目的だった。

                    幕末の殺戮の嵐の中で、感情に激した志士達が死屍累々の山を築くのを見た桂小五郎には、村田蔵六のような感情を表さない、機械のような男が新鮮に頼もしく映ったのだろう。

                    また桂小五郎は医者の養子であった。医者も軍事司令官も論理的で合理的な思考力が必要な、共通点が意外に多い職業だと、幼少時から悟っていたのかもしれない。

                    ところで英語には"operate"という便利な単語がある。
                    "operate"には「機械を操作する」「会社を操業する」「手術をする」「軍隊警察が行動する」「仕事をする」といった、複数の異なる意味があり、受験生を苦しめている。

                    つまり「機械を操作する」「手術をする」「軍隊警察が行動する」という、日本語では全く違う意味の単語が、英語では"operate"という1つの言葉で表現されるのだ。

                    私は"operate"という英単語に、人間が機械や人体や企業や軍隊といった、複雑な組織体を俯瞰の視点から動かすといったイメージを持っている。兜甲児がマジンガーZを操縦している感じだと思えばいいだろうか。

                    村田蔵六は医者として手術をし、宇和島藩では機械を操作し黒船を作り、さらに官軍の総司令官として軍隊を動かした、まさに"operate"な人だった。
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                    村田蔵六のこと 中
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                      村田蔵六は幕府の教授から、長州藩の倒幕総司令官に転進した。

                      蔵六の職業の変転ぶりは激しい。村医者、洋式船製造担当者、私塾の塾長、幕府の教授、長州の軍司令官と、医師・技師・教師・軍師の四つの職を渡り歩くことになる。

                      蔵六が司令官に就任後、ただちに小さな長州藩は、四方を膨大な数の幕府軍に囲まれる(第2次長州討伐)。
                      長州藩は大ピンチに陥るが、村田蔵六は長州藩の軍全体を指揮し勝利を収め、自らは石見(島根県)方面を担当し浜田城を陥落させた。

                      蔵六はさっそく、桂小五郎の大抜擢に応える形となった。

                      その後は薩長中心の16歳の若き天皇を神輿に据えた官軍と、幕府軍が日本各地で戦った天下分け目の戊辰戦争で、蔵六は官軍の事実上の司令官として江戸城に乗り込み、東京上野でアームストロング砲を使い彰義隊を破り、会津戦争や北越戦争に勝ち、箱館の五稜郭を制圧し、戊辰戦争を終結させた。
                      白虎隊や新撰組の側から見れば蔵六は憎い敵であった。

                      戊辰戦争は、結局官軍の勝利に終わりはしたが、開戦当初は幕府と薩長軍の兵力比は「幕府軍10:薩長軍1」というもので、幕府軍が圧倒していた。
                      幕府軍は兵器でも劣っていなかった、幕府はフランスの助けを借り洋式兵器を揃えており、その上精強な海軍を持っていた。逆に薩長軍に海軍は存在しなかった。
                      物量面で薩長を凌ぐ幕府軍が「普通に」戦えば、薩長軍は大敗北するか、あるいは勝ったにせよ戦闘は長期化したであろう。

                      ところが薩長軍は幕府軍に、わずか1年で勝利した。

                      幕府軍の最大の敗因は、薩長軍が掲げた錦の御旗に幕府が動揺し、特に水戸藩出身で、藩祖以来の勤皇のイデオロギーに染まった15代将軍徳川慶喜が朝敵の汚名を着せられることをおそれ、戦争の途中で司令部があった大阪城から逃げ出してしまったことが挙げられるだろう。

                      大将を失った幕府軍の指揮系統は乱れ、兵卒の士気は衰えた。

                      また幕府軍は長年の泰平の世に慣れ、自分の職業が戦争であることを忘れた武士が多かった。藩の存亡を賭け命がけで戦う官軍に対して、会津藩や彰義隊など一部の例外を除けば、幕府軍の戦闘意欲は低かった。ドミノ倒しのように幕府軍は崩壊していった。

                      もちろん薩長軍には村田蔵六という稀代の軍師がいたのが、官軍勝利の最大の原因であろう。
                      村田蔵六の作戦の的確さ、兵站の確実さが官軍を勝利を導いた。蔵六は兵隊・武器・食糧の流れを、人間がアリの群れを見下ろすように高所から把握し、的確な作戦を立てて成功に導いた。
                      幕府には村田蔵六のような優れた指揮官はいなかった。

                      もちろん蔵六には、兵隊に死を厭わせないカリスマ性とか、魅力的な人間性というものはなかった。そんなカリスマ性とか人間的魅力の部分は、西郷隆盛が担当した。

                      明治維新の成功は、坂本竜馬の明朗な交渉力、木戸孝允の政治的調整力、西郷隆盛の人格の凄み、大久保利通や岩倉具視の壮絶な裏工作などに拠るところが大きいが、最後の仕上げをしたのは卓越な村田蔵六の作戦力だった。

                      とにかく蔵六は市井の一医学者から2年余りで、革命軍の総司令官として一気に世に出たことになる。

                      戊辰戦争後、蔵六は兵部大輔として陸軍の創設に尽くしたが、惜しくも暗殺されてしまった。
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